伝統文化紹介 Relationship
韓国で、もっとも嫌われている日本の人物の代表といえば、豊臣秀吉があげられます。理由は、文禄、慶長の役(ぶんろく、けいちょうのえき)で朝鮮半島に攻め込んだからなのだそうです。一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。

李舜臣の戦いによって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれた日本は、半島からの敗退を余儀なくされたからなのだそうです。しかし事実関係はまるで異なります。

李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。

また、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の圧倒的な戦力の前に、戦死しています。

李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。そもそも、秀吉の朝鮮出兵についても、誤解と偏見がまかりとおっています。

戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ない。

おおかたは、秀吉の朝鮮出兵は、

◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払い殺して数を減らすための戦いだった

などと、ほとんど意味不明の解説がなされているようです。

そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。

金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない、世の大名たちも、これに追従したのかが問題となります。

実は、このことを考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。

実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。

二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、16世紀における東アジアでの最大の戦いです。日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし、朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。

この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が、世界を制した時代です。世界の8割は、スペインの植民地となっていました。そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。

そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけとなっていたのです。そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。

当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。実際のキリスト教の伝導とは異なり、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、ひいては植民地占領をしていたのです。

日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは、最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさしかありません。ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。

ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。

宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。

~~~~~~~~

スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。

~~~~~~~~

住民数を言うなら、南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、城塞の堅固さも、日本の平城は、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということです。

だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。

こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。それだけのことです。

さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。

ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きた。

だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかにされてきています。

このことは秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。

要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。

日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。

どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきます。スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。

ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると、様子が違ってきます。いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。元寇の再来です。これは驚異です。

となれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。

このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行なった政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。さらにいえば、秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。

一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593)、慶長の役(1597~1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。

何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。

最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。

対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。悔しいけれど、放置するしかない。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

驚いたのはルソンのスペイン総督府です。日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。このとき、膨大な贈物も持参している。いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。

重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。その内容がすさまじいです。スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、というのです。そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。

この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。

さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。そしてこのとき、たまたま在マニラの支那人約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。

これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。

そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。

名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。

けれど、秀吉は聞く耳を持たない。ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。

この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作(まさにいま支那や韓国によって行なわれている日本解体工作と同じ)を行なう。

現に、世界のあらゆる国家が、キリスト教を内部に広めて信者にしてから、その方法でスペインの植民地にされていたのです。ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。並みいる敵は、圧倒的な武力で制圧する。その上で、武力そのものも奪ってしまう。つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は、「戦のない世の中」を実現しようとしています。

けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは、一方において日本人を弱化させることを意味します。ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り遠ざける必要がある。

名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。

そして後任の提督としてやってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、またひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとる。

つまり、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に宣教をしていこうとしたのです。

文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。秀吉も、これは認めています。

ところが、慶長元(1596)年のことです。スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたりました。

そこで驚くべき事実があきらかになります。なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。そして彼らを長崎に送りました。キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。

イエスズ会の腹はこうです。

26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、侵攻による団結心をたかめる。

このあたりの話は、本題からかなりそれるので、また今度詳しく書くこととして、要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても、まったくわかりません。当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが、理解できない。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで、まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。

もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。

いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。白人種との混血種だけです。アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。

ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。

ではなぜ日本が撤収したか。こたえは簡単です。

スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったのです。わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。


토요토미 히데요시가 한국 출병을 한 진짜 이유

한국에서, 가장 미움받고 있는 일본의 인물의 대표라고 하면, 토요토미 히데요시를 들 수 있습니다.이유는, 문녹, 게이쵸의 역 (분로구, 경조의 역)으로 한반도에 쳐들어갔기 때문에라고 합니다.한편, 이 출병에 즈음해, 일본과 한반도의 해협에서 싸운 이순신은, 확실히 히어로로 되어 있다고 합니다.

이순신의 싸움에 의해서, 일본은 해상이 봉쇄되어 한반도에의 보급로를 끊어진 일본은, 반도로부터의 패퇴를 피할 수 없게 되었기 때문에라고 합니다.그러나 사실 관계는 마치 다릅니다.

이순신에 대해 집, 그렇구나 조선의 해장으로서 문녹원(1592) 연 8월 29일에 부산항을 점령하고 있던 일본군에 싸움을 걸고 있습니다만, 어이 없게 패퇴하고 있습니다.

또, 게이쵸 3(1598) 년) 년 11월 18일의 로량해전(료야 선)에서는, 명국과 조선의 연합군의 지휘를 맡으면서, 일본군의 압도적인 전력의 전에, 전사하고 있습니다.

이순신에 의해서, 일본이 해상 보급로를 끊어졌다고 하는 사실은, 어디에도 없습니다.원래, 히데요시의 한국 출병에 대해서도, 오해와 편견 두꺼비 빌려 통과하고 있습니다.

전국시대나 히데요시를 그린 역사 소설에 대해도, 원래 히데요시의 한국 출병이 「왜 행해졌는지」에 대해서, 제대로 발을 디디고 쓰고 있는 것은 매우 적다.

대충은, 히데요시의 한국 출병은,

◆히데요시가 모녹 하고 있었기 때문에 일으킨 싸움이었다,
◆히데요시의 성장 주의가 끌어 일으킨 제멋대로인 조선 정복의 싸움인,
◆싸움을 좋아하는 전국 무사단을 조선, 시나에 쫓아버려 죽이고 수를 줄이기 위한 싸움이었다

등과 거의 의미 불명의 해설이 이루어지고 있는 것 같습니다.

원래, 만일 히데요시가 모녹 할아범이었다고 해도, 당시의 일본은, 에도 일본도 포함하고, 각 번이 각각 독립한 국가를 영위하고 있었습니다.詩碎지지이의 세상 미혹일로, 대금을 털어 조선까지 노코노코 나가는 시시한 오나는, 전국 어디에도 없습니다.

히데요시의 성장 지향이 불렀다고 하는 해설로 해도, 노부나가로부터 히데요시와 계속 되는 체제는, 농업 중시라고 하는 것보다도 유통 지향이 꽤 강했던 체제이며, 영지를 받을 수 없어도, 각각의 오나는, 상업에 의한 화폐 경제에 의해서 상당한 부를 축적할 수 있던 것입니다.

부자 싸움하지 않고라고는 잘 말한 것으로, 먹는이 곤란하지 않는, 생활이 곤란하지 않는 풍족한 생활을 만끽 되어 있는데, 굳이, 전쟁 등, 아무도 좋아해 실시하는 것이 아닙니다.그럼, 왜 히데요시는 한국 출병을 행해, 세상의 오나들도, 이것에 추종 했는지가 문제가 됩니다.

실은, 이것을 생각하려면 , 일본내만의 사정을 아무리 생각해도 대답은으로라고 오지 않습니다.원래 왜, 히데요시의 시대에 일본이 일국에 결정되었는지, 그리고 한국 출병을 하기에 이른 배경에는 무엇이 있었는가.

실은 거기에는, 당시의 아시아 정세라고 하는 국제 정치가 크게 영향을 주고 있었습니다.그리고 그러한 나라의 내외의 사정을 이해했기 때문에, 토호쿠의 오나들까지도가, 히데요시의 한국 출병에 적극적으로 협력해, 군사를 내고 있습니다.

두 번에 걸치는 히데요시의 한국 출병(문녹, 게이쵸의 역 )이라고 하는 것은, 16 세기에 있어서의 동아시아에서의 최대의 싸움입니다.일본에서는 약 16만의 대군이 한반도에 이송되었고, 조선과 명국의 연합군은, 전력 25만의 대군입니다.천하 판가름의 싸움이라고 하는 세키가하라의 싸움으로 해도, 동군 7만, 서군 8만의 격돌이기 때문에, 얼마나 한국 출병의 규모가 컸는지를 알 수 있습니다.

이 시대, 세계 전체를 바라보면, 확실히 스페인 국왕이, 세계를 억제했던 시대입니다.세계의 8할은, 스페인의 식민지가 되고 있었습니다.그 스페인은, 동아 지역에서는, 르손(지금의 필리핀)에, 동아시아 지역 전체의 전략 통합 홍구인 총독부를 두고 있었습니다.

그리고 노부나가, 히데요시의 시대, 스페인에 의해서 아직 정복되어 있지 않았던 것은, 동아에서는, 명국으로 일본만되고 있었습니다.그 스페인이, 일본에 최초로 온 것은, 천문 18(1549) 년의 일입니다.일본에서는, 선교사의 후란시스코자비엘의 일본 방문으로서 역사에 기록되고 있습니다.

당시의 스페인 선교사라고 하는 것은, 공식상의 역할은 크리스트교의 전도입니다만, 뒤에서는 훌륭한 군사 조직을 가지는, 승병 군단입니다.실제의 크리스트교의 전도와는 달라, 각각의 국민에게 받아 들여지기 쉬운 것 같은 상태의 좋은 말을 해 개종시켜, 기회를 가늠하고, 군대를 보내, 인민의 살륙이나 재보의 강탈, 나아가서는 식민지 점령을 하고 있었습니다.

일본이 내란에 항상이라고 있었던 시대의 전국 다이묘들은, 처음은, 선교사들에 대해서도, 단순한 신기함 밖에 없습니다.자비엘은, 여기저기의 오나에 초대되어 오나들도 크리스트교의 신자가 되기도 하고, 전도사들을 기분 좋게 받아 들이고 있었습니다.

그런데 유일, 일본이 다른 나라들과 달리 있던 것은, 그들이 반입한 총이라고 하는 무기를, 일본인은 순식간에 카피해, 그것을 양산해 버린 것입니다.깨달으면, 일본의 총소지수는, 무려, 세계 전체의 반수를 차지하는 막대한 수가 되어 버렸습니다.

선교사들도, 과연 이것에는 놀란 님 아이로, 예수회의 돈·로드리고, 프란시스코회의 프라이·루이스·소테로등이, 스페인 국왕에 보낸 상서에도, 이것에 대해서는 명확한 기술이 있어요.

~~~~~~~~

스페인 국왕 폐하, 폐하를 일본의 군주로 하는 것은 바람직한 일입니다만, 일본은 주민이 대부분, 성곽도 견고하고, 군대의 힘에 의한 침입은 곤란합니다.따라서 복음을 선전하는 방책을 가지고, 일본인이 폐하에게 기쁨 그리고 거사 하도록(듯이) 대할 수 밖에 없습니다.

~~~~~~~~

주민수를 말한다면, 남미나 인도가 아득하게 주민수가 많은 것으로, 성새의 견고함도, 일본의 히라죠오는, 아시아, 유럽의 성새에는 당해 내지 않습니다.그럼에도 불구하고, 그들이 「일본은 주민이 대부분, 성곽도 견고하고, 군대의 힘에 의한 침입은 곤란」이라고 쓰고 있는 것은, 단순하게, 총의 수가 압도적이고, 매우 군사력으로 일본에는 이길 수 없는, 이라고 하는 것입니다.

그러니까, 「복음을 선전하는 방책을 가지고, 일본인이 폐하에게 기쁨 그리고 거사 하도록(듯이) 대한다」라고 합니다.

이렇게 해 스페인은, 일본에서의 포교 활동에, 우선 주력 해 갈 것입니다.

한편, 당연한 일입니다만, 스페인의 목적은 일본만이 아닙니다.근처의 명국도, 스페인은 식민지화를 노리고 있습니다.이쪽은, 총을 카피하는 능력은 없고, 단지 인해전술, 즉 사람의 수가 많은 것뿐입니다.단지, 대륙은 넓고, 그 조략에는 시간이 든다.

덧붙여서 당시의 스페인에 있어서, 한반도는 대상외입니다.한반도는, 명국의 지배하였다 나눕니까들 , 명이 떨어지면 한반도는, 자동적으로 손에 들어 온다.그 만큼입니다.

그런데 그 스페인입니다만, 명국을 공략하는 것에 즈음해, 당시 , 세계 최대의 무력(화력)을 가지고 있던 일본에, 함께 명국을 빼앗지 않는지, 라고 걸고 있습니다.

그런데 일본에는, 전혀 그런 일로 관심이 없다.원래 노부나가, 히데요시와 계속 되는 전국의 싸움은, 일본내의 전국의 세상을 얼마나 끝내 국내에 치안을 회복할까에 있었습니다.

노부나가는, 히에이잔을 공격하거나 혼간지를 공격하거나와 마치 제6하늘의 마왕인 것 같이 그려지는 것이 많습니다만, 실제로는, 차례차례로 행한 노부나가의 싸움의 목적은, 하루라도 빨리 전란의 세상을 끝내는 것에 다했다.

그러니까, 많은 사람들이 노부나가에 따랐다고 하는 것이, 최근이 되어 발견된 각종 문서로부터, 점차 명확하게 되어 오고 있습니다.

이것은 히데요시도 마찬가지로, 왜 히데요시가 인기가 있었는가 하면, 백성의 대표이니까 백성의 기분을 알 수 있다.전란에 의해서 농지가 망쳐지는 것을 많은 민중이 싫어 하고 있는 것을, 제대로 알아 주고 있는 인물이었기 때문에야말로, 히데요시 인기는 있었습니다.

요컨데, 당시의 일본의 시정자에게 있어서는, 일본내 통일과 치안의 회복이 정치 사명이었던 (뜻)이유로, 일부러 명까지 나가는 이유는 하나도 없다.

일본이 히데요시에 의해서 통일되어 어떻게든 그 치안과 태평을 회복하면, 이번은, 대명국에의 대책이 큰 과제가 되어 옵니다.

무슨 일일까하고 말하면, 스페인이 일본에 공격해 왔다고 해도, 그들은 바다를 건너 옵니다.스페인과의 직접 대결이라면, 바다를 건너 오는 스페인인은, 수 후로부터 집소수이며, 화력, 무력 모두 일본 분이 압도적으로 상위입니다.따라서, 일본이 스페인에 공략될 걱정은 전혀 없다.

그런데 , 스페인이 명국을 식민지로서 지배하에 거두면, 님 아이가 달라집니다.얼마나 수많은 총을 일본이 가지고 있다고는 해도, 스페인에 지배된 명국병이, 수의 힘에 물건을 말하게 하고 일본에 쳐들어가 오면, 이것은 대단한 것이 된다.원구의 재래입니다.이것은 경이입니다.

가 되면, 그 경이를 없애려면 , 스페인보다 먼저 명국을 일본의 지배하에 둘 수 밖에 없다.화력, 무력이 뛰어난 일본에는, 그것은 충분히 가능한 일이고, 만일 명국까지 쳐들어갈 수 없었다고 해도, 지정학적으로 한반도를 일본과 명의 중립 지대로 해두는 것으로, 일본에의 침입, 침략을 막을 수 있다.

이것은, 러시아의 남하정책을 막기 위해서, 메이지 일본이 행한 정책과 당시의 상황이 아주 비슷하는 것을 나타냅니다.한층 더 말하면, 히데요시는, 벌써 이 시점에서 스페인이 자랑하는 무적함대가, 영국과의 전쟁에 파괴 스페인 자체가 해군력을 큰폭으로 저하시키고 있는 것을 알고 있습니다.그러니까, 스페인이 해군력으로 일본과 전쟁의 발단을 섞을 가능성은, 우선 없습니다.

한편, 길게 계속 되는 전란의 세상을 끝내려고 하는 히데요시는, 전국에서 무기 몰수를 실시해, 일본의 서민으로부터 무력을 빼앗고 있습니다.이것은 즉, 일본에 태평의 세상을 쌓아 올리기 위해서 필요한 것인 것입니다만, 동시에 이것은, 만약 일본이 타국침핍의 난에 있었을 때는, 일본의 전력을 크게 없애게도 연결되어 버립니다.

(이)라면, 무력이 아직 풍부한 동안에, 잉여 전력을 이용하고, 한국 출병을 행해, 조선으로부터 명국까지를 일본의 지배하에 두어 버리는 것.이것은 우리 나라의 안전보장상, 필요한 일, 에서 만난 것입니다.이렇게 해 히데요시는, 문녹의 역 (1592~1593), 게이쵸의 역 (1597~1598)과 두 번에 걸치는 한국 출병을 행합니다만, 동시에 히데요시는, 스페인과도 과감한 정치적 교섭을 행하고 있습니다.

무엇을 했는가 하면, 스페인에 대해서, 일본에 신하로서의 히로시를 잡아라!(이)라고 신청했습니다.

최초로 이것을 행한 것이, 문녹의 역에 앞서는 1년전, 덴쇼(연호) 18(1591) 년 9월의 일입니다.히데요시는 스페인의 동아 지역의 거점인 르손(필리핀) 총독부에, 하라다마고시치로를 파견해, 「스페인의 르손 총독부는, 일본에 입공해」라는 국서를 전합니다.

세계를 억제하는 대제국의 스페인에 대해, 바로 정면으로부터 당당히 「고개를 숙여 신하 히로시를 잡아 입공해」 등과 한 것은, 아마, 세계가 넓을지라도, 일본 정도물건입니다.

대하는 스페인 총독부로 해 보면, 이것은 극히 화가 난 일이지만, 벌써 무적함대가 소멸해, 해군력을 큰폭으로 저하시키고 있는 현상에 있어서는, 일본에 대해서 보복적 조치를 취할 수 있을 만한 힘은 없습니다.분하지만, 방치 할 수 밖에 없다.

그러자(면) 히데요시는, 그 다음 해에, 한국 출병을 개시합니다.

놀란 것은 르손의 스페인 총독부입니다.일본이, 조선, 명국을 정벌하면, 그 국력은, 동아 최대의 정치적, 군사적 압력이 되는 것은 눈에 보이고 있습니다.게다가, 바다를 건넌 한국 출병이라고 하는 것은, 언제, 르손섬의 스페인 총독부에 일본이 공격해 와도 이상하지 않다.

당황한 스페인 총독부는, 당시 르손에 살고 있던 일본인들을, 마닐라시내의 디오라 지구에, 집단에서 강제 이주시키고 있습니다.이것이 마닐라의 일본인마을의 시작입니다.

한층 더 스페인 총독부는, 동년 7월에는, 도미 니코회사의 선교사, 후안·코포스를 일본에 파견해, 히데요시에 우호 관계를 수립하고 싶다고 하는 서신을 보내고 있습니다.이 때, 방대한 선물도 지참하고 있다.얼마나 스페인이 일본을 무서워하고 있었는지, 라고 하는 것입니다.하지만 히데요시는, 그런 선물 정도로 속지 않습니다.

거듭해 스페인의 일본에 대한 입공의 재촉의 서간을 전합니다.그 내용이 굉장합니다.스페인 국왕은, 일본과 우호 관계를 수립해 마닐라에 있는 스페인 총독부는, 일본에 신하로서의 예를 취할 수 있어라고 합니다.그리고, 그것이 싫으면, 일본은 마닐라에 공격해 넣을거야, 이것을 스페인 국왕에 제대로 전해라, 라고 합니다.

이 히데요시의 서간을 받은 코포스는, 귀로, 조난합니다.정말로 해난사고로 조난했는지, 답장의 내용이 100%스페인 국왕의 격노를 사는 것을 알 수 있고, 고의로 조난한 것으로 했는지는, 지금이 되어 불명합니다.하지만 아마 이것은 후자는 아닐까 나는 보고 있습니다.

그런데, 코포스의 조난 덕분에, 히데요시의 서간은, 스페인 총독부에는 이르지 않았던 것입니다만, 당연한 일이면서, 스페인 총독부로부터의 답장도 없습니다.하지만, 답장이 없기 때문에와 방치할 만큼 단 히데요시가 아닙니다.히데요시는, 10월에는, 하라다 키에몬을 마닐라에 파견해, 확실히 서간을 총독부에 보내게 했습니다.

문녹 2(1592) 년 4월, 하라다 키에몬은, 마닐라에 도착했습니다.그리고 이 때, 우연히 재마닐라의 시나인약 2000명(명국으로부터 파견된 정규병이었다고 합니다)이 일제 봉기 하고, 스페인의 총독부를 덮쳤습니다.스페인병은, 응전합니다만, 다수의 의견이 힘이 있습니다.

이것을 본 하라다 키에몬은, 수세를 인솔해 스페인 측에 가세 해, 또 싶게 사이에 시나병을 섬멸해 버립니다.하라다 키에몬등의 압도적인 힘을 눈앞으로 한 스페인의 고메스 총독은, 일본의 힘에 공포 합니다.

하지만, 고메스는, 스페인 대제국으로부터 파견되고 있는 총독입니다.세계를 억제하는 대제 국왕에, 일본에 신하로서의 예를 받아들이게 하는 등, 도저히가 아니지만 보고할 수 있는 것이 아닙니다.

고메스는, 어떻게든 시간을 벌려고 합니다.

그리고, 다음문녹 3(1594) 년 4월에, 새롭게 프란시스코회사 페드로·바우치스타·베라스케스를 특사로 임명해, 일본파견 합니다.요컨데, 특사의 파견을 반복하는 가운데, 조금이라도 시간 벌기를 사용했습니다.

나고야에서 페드로와 회견한 히데요시의 앞에서, 페드로는, 스페인 왕국이, 지금 세계를 억제하는 대제국인 것, 일본과는 어디까지나 「대등한」관계를 쌓아 올리고 싶으면 말씀 드립니다.보통으로 생각하면, 세계를 억제하는 대제국의 스페인 국왕이, 일본이라고 하는 동양의 오구니와 「대등한 관계」라고 하는 것만으로도, 아주 대단한 양보입니다.

하지만, 히데요시는 (듣)묻는 귀를 가지지 않는다.페드로에 대해, 거듭해 스페인 국왕의 일본에의 복종과 입공을 요청합니다.왜 히데요시는, 여기까지 스페인에 대해서 강경했기 때문에 짊어질까.이유가 있어요.

제일에, 국제 관계에 대하고, 대등한 관계라는 것은 존재하지 않습니다.

이 시대에 있어서의 국제 관계라고 하는 것은, 할까 당하는지, 즉 상하의 관계 밖에 없습니다.비록 일본이 오구니이었다고 해도, 대제국의 스페인에 일본을 공격하게 한 없기 위해(때문에)는, 일본이 압도적인 강국인 것을, 깨닫게 할 수 밖에 없었습니다.

제2에, 만약, 히데요시가 어중간하게 「대등한 관계」의 구축을 도모하려고 한다면, 스페인은 당연한 오덕 평화 특사와 칭해 선교사를 일본에 파견합니다.그리고 선교사들은, 일본의 내부로부터 무너뜨려 공작(확실히 지금 시나나 한국에 의해서 행해지고 있는 일본 해체 공작과 같다)을 행한다.

실제로, 세계의 모든 국가가, 크리스트교를 내부에 넓혀 신자로 하고 나서, 그방법으로 스페인의 식민지로 되고 있었습니다.그러니까, 일본이 스페인의 경이로부터 피하는 길은, 단 하나.어디까지나 스페인에 대해서, 강경한 자세를 바꾸지 않는 것.

제3에, 히데요시가 목표로 한 것은, 어디까지나 「싸움이 없는 세상」에서 만났다고 하는 것입니다.보통 있는 적은, 압도적인 무력으로 제압한다.그 위에, 무력 그 자체도 빼앗아 버린다.즉 「무기 몰수」를 실시해, 그렇게 하는 것으로 히데요시는, 「싸움이 없는 세상」을 실현하려 하고 있습니다.

하지만, 동시에 무기 몰수를 해 일본인으로부터 무력을 빼앗는 것은, 한편에 있어 일본인을 약화시키는 것을 의미합니다.(이)라면, 일본내에 무기를 가지지 않는 평화로운 나라를 실현하기 위해서는, 국제적인 무력 충돌의 위험을 일본에서 가능한 한 멀리할 필요가 있다.

나고야에 있어서의 페드로·바우치스타·베라스케스와의 회견도, 평행선이 된 스페인의 고메스 제독은, 일본과의 연약한 외교 자세를 검문당해 스페인 국왕에 의해서 경질되어 버립니다.

그리고 후임의 제독으로서 온 것이, 루이스·다스마리냐스입니다.루이스·다스마리냐스는, 아우그스테인·로도리게스를 사자로서 일본에 파견해, 회답의 지연을 도모하는 것과 동시에, 일본의 전력을 냉정하게 분석합니다.

그리고, 고메스의 분석 대로, 만약 일본과 스페인이, 동아로 정면에서 충돌하면, 오히려 스페인 측에 승산이 없는 것을 압니다.거기서 루이스는, 히데요시와의 직접교섭은 피해 혼자, 또 혼자와 선교사를 일본에 파견한다고 하는 전략을 취한다.

즉, 시간을 벌어, 그 사이에, 당초의 전략 대로, 일본에 선교를 해 나가려고 했습니다.

문녹 3(1594) 년에는, 루이스 제독의 의향을 받고, 헤로니모·데·헤스스 이하의 프란시스코회 수도사 4명이, 일본에 파견되어 일본에서의 포교를 재개했습니다.히데요시도, 이것은 인정하고 있습니다.

그런데 , 게이쵸원(1596) 년의 일입니다.스페인의 화물선, 산·페리페호가, 짐을 가득한 채로 조난해, 토사의 우라도에 표착했습니다.구조한 선원들을, 히데요시의 오봉행의 한 사람으로 있다 마시타 나가모리가 조사에 해당했습니다.

거기서 놀랄 만한 사실이 명확하게 됩니다.무려 산·페리페호의 도선인이, 마시타 나가모리에게 세계 지도를 보여 「스페인 국왕은, 우선 선교사를 파견해, 크리스찬이 증가하면, 다음은 군대를 보내, 신자에게 내응 시키고, 그 전도지의 국토를 정복하기 때문에, 온 세상에 걸쳐서 영토를 점령할 수 있었던 것이다」라고 증언했습니다.

보고를 받은 히데요시는, 즉석에서 크리스찬 26명을 체포했습니다.그리고 그들을 나가사키에 보냈습니다.크리스찬을 계속하고 싶으면, 외국에 나가라.일본에 남고 싶으면, 개종 해라, 라고 하는 것입니다.

헤매는 26명에 대해, 나가사키의 예수회는, 이 26명의 죽을 죄를 나가사키 부교에 신청합니다.?첨부로 하고, 쬐면 좋으면 신청했습니다.

이에스즈회의 배는 이러합니다.

26명의 신자를, 예스의 십자가를 모방해 흥행으로 해, 틀림없이 천국에 갈 수 있었다고 선전한다.이렇게 하는 것으로, 크리스트교도로서의 영광에 빛나는 모습을 인상을 남겨 침공에 의한 단결심을 높인다.

이 근처의 이야기는, 주제로부터 꽤 빗나가므로, 또 이번에 자세하게 쓰는 것으로 하고, 요컨데 히데요시의 한국 출병은, 스페인에 의한 동양의 지배에 대해서, 통일 국가를 겨우 형성한 일본이, 얼마나 나라를 지킬까를 생각한 다음의 결단이었다는 것입니다.

이것은, 단지 일본이나 조선의 국내 사정만을 봐도, 전혀 모릅니다.당시의 세계 정세, 동아 제국의 정세를 보지 않으면, 히데요시가 왜 한국 출병을 결의했는지, 그리고 많은 오나들이, 왜 그 히데요시에 따라, 군사를 내, 용맹 과감하게 타국에 나와 싸웠는지가, 이해할 수 없다.

더 말한다면, 일본이 메이지라고 하는 통일 국가를 형성하고 나서 한반도를 영유 할 때까지의 움직임과 히데요시의 한국 출병 당시의 세계의 움직임은, 스페인이 러시아와 다른 것만으로, 완전히 같은 것이 역사상, 반복해졌다는 일입니다.

만약, 히데요시가 한국 출병을 행하지 않고, 일본의 국력을 스페인에 과시하지 않으면, 어떻게 되어 있었는지.스페인은, 당연한 일이면서, 명국을 식민지로서의 지배하에 둔 것이지요 해, 당연한 일이면서, 한반도도, 스페인의 지배지가 된 것이지요.

그리고 스페인의 지배지가 되는 것이, 어떠한 의미를 가지는 것인가.그것은, 남미의 님 아이가, 보기 좋게까지 현대에게 전하고 있습니다.

지금, 남미에 남미인의 순수종은 존재하지 않습니다.백인종과의 혼혈종 뿐입니다.아르헨티나나 우루과이에서는, 선주 민족이 거의 완벽에 말살되어 버렸습니다.이 에리어의 여성들은, 감촉 순서 강간된 끝에, 아이를 낳기 전에 살륙 되었습니다.그러니까, 지금 살고 있는 것은, 거의 백인종입니다.

브라질, 에콰도르, 페루, 볼리비아는, 전원이, 선주 민족과의 혼혈입니다.
순혈종은 없습니다.강간되어 방치되고 아이를 낳아, 곧 도달하고 있습니다.

일본이나 시나도 조선도, 각각 순혈종을 유지하면서, 곧 도달하고 있습니다.왜 그렇게 되었는가 하면, 히데요시들이, 스페인과 정면으로부터 싸우는 자세를 명확하게 보이게 했기 때문입니다.

덧붙여서, 게이쵸의 역은, 히데요시의 사망에 따르고, 중지가 되어, 일본은 한반도로부터 철수했습니다.그러니까, 이것은 히데요시의 변덕으로 일어난 전쟁이라고 하는 것은, 큰 실수입니다.반도에 출병한 오나들은, 각각 진지하게 싸웠습니다.

그럼 왜 일본이 철수했는지.대답은 간단합니다.

스페인 자체가, 영국이나 네델란드에 밀리고, 국력을 저하시켜, 이미 동아에 상관하고 있을 수 없게 되었습니다.우리는, 지금, 스페인이라고 하는 세계 최강의 대제국에 대해, 한 걸음도 물러나지 않고, 오히려 신종하라라고 강요한 히데요시의 장대한 기개와 도량과 자랑을, 지금이야말로 본받아야 할 풀러 오고 있는 것은 아닐까요.

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/cELtbhVC_vc?rel=0&showinfo=0" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>


TOTAL: 7860

番号 タイトル ライター 参照 推薦
7860 消費増税について(解説、討論) mxpbh 10-20 26 0
7859 日本人と韓国人って結構 顔の造りが違うよね。 👨 japanwin 10-20 17 0
7858 秋 (姓) (1) ウラジオストク 10-18 29 0
7857 日本のプロ野球選手 1a2a3c 10-18 6 0
7856 ありがたいなあ 幸せだなあ 豊かだなあ 感謝します… japanwin 10-18 25 0
7855 対日外交 (2) relax 10-16 71 0
7854 韓国の滅茶苦茶美味しいお菓子をご紹介((((oノ´3`)ノ… §¶ΣΨ 10-16 44 0
7853 ハロウィンとは? ウラジオストク 10-15 20 0
7852 日本のサッカー選手 漢字 10-15 24 0
7851 ソウル relax 10-15 35 0
7850 韓国の文化予算は何故日本より多いの? JAPAV8 10-14 40 0
7849 感謝のポーズ koreanmanismonkey 10-13 46 0
7848 韓国、パラリンピックに健常者を大量派遣か JAPAV8 10-11 67 0
7847 韓国未来に対する憂慮と期待 relax 10-11 40 0
7846 いわしおつゆ料理韓日祈願論難...w (7) relax 10-10 139 0
7845 朝鮮ではないどの 神人の話 relax 10-10 56 0
7844 ウラジオストク > 白人に対する敵対? relax 10-10 47 0
7843 白旗掲げたインディアンを、皆殺しにした米国人 ウラジオストク 10-10 46 0
7842 石炭に呪われたナバホ・ネイションで繰り広げられる闘… ウラジオストク 10-10 23 0
7841 リンカーンは黒人奴隷を解放するもインディアンは迫害… ウラジオストク 10-10 36 0