伝統文化

45年 7月 26日ポツダム宣言は ,第8項にカイロ宣言の条項は移行されなければならないし
も日本の主権は本州北海道九州及び四国そして連合国が決める
小さな島々に限ると規定した

1945年 8月 15日
日本はポツダム宣言を受諾して降参をしたしその年 9月 2日
正式で文書に署名こんにちはだった日本は降参文書に署名した以後 1952年 4月 28日
サンフランシスコ条約が 発效になる時まで連合国の統治を受けるようになった
...........
1.SCAPIN 指令


連合国は 1945年 9月 2日連合国最高司令部 SCAPINを設置した
1946年 1月 29日連合国最高司令官は日本臨時政府に領土に関する規定を盛った連合国
最高司令官覚書き第 677号を下逹した
677号覚書き第 3項には
→ For the purpose of this directive Japan is defined to include
the four main islands of Japan (Hokkaido Honshu kyushu and shikoku)
and the approximately 1.000 smaller a djacent islands. including the Tsushima iSlands
and the Ryukyu (Nansei)islands north of 30〓 North
shima island) and excluding (a)Utsuryo (Ullung)island
Liancourt Rocks and Quelpart (saishu or cheju) island

..................

翻訳要約すれば

日本の領土は本州九州北海道四国など 4個重要 島嶼と 1.000ヶ所の周辺小さな島々で
制限するまた鬱陵島独島済州島は日本領土から除くと明示した
......
677号  地図は 


日本領土から日程周辺地域の統治及び行政上の分離だ
SCAPIN 5項 →見た指令にある日本の正義は別に明示しない以上本司令部で
発動する今後のすべての指令覚書き及び命令に適用される修正をしようとする時は必ず他の
番号の特定指令を渤海は修正することができる

6項 →この指令の中にどれもポツダム宣言 8項に言及された色々小さな島々の最終的決定に
関する連合国の政策を表示したのではない
と明らかにしている
1946年 6月 22日連合国司令部は
SCAPIN 第 1033号を発表して独島とその 12海里水域に日本漁夫たちの接近を禁止したし独島が
韓国領土と明示した
....................
2.サンフランシスコ条約過程
..
サンフランシスコ条約初期 1947年 3月 19日から 1949年 11月 2日まで独島は韓国領土で
明示されていたサンフランシスコ条約はカイロ宣言ポツダム宣言の延長線にある
サンフランシスコ条約初期まで独島を韓国領土で認めたことは連合軍合意書をそのまま
適用した結果だった

..
1947年 3月 20日韓国に関する下書きには
Article4
→Japan hereby renounces all rights and titles to korea and all minor
offshore korean islands including Quelpart island port Ham ilton
Dagelet (Utsuriyo) island and Liancourt Rock(Takeshima)

...............


日本は韓国済州島巨文島鬱陵島 Liancourt Rock(独島)を含んで韓国沿岸のあらゆる
小さな島に対する権利及び権原をあきらめるとなっている
.......
独島に関したことは  1949年 11月 2日下書きにも韓国領に明示された
が 5次下書き (1949年 11月 2日 )が完成された後
日本側は独島をペアッギために  住日 米政治拷問  時ボールドを利用してロビー活動を始めた
1949年 11月 14日時ボールド 住日 政治拷問はアチソン(Acheson) アメリカ国務長官に
全文を送るのに
全門には
リアングクル 巌の 再考を勧告するこの島に対する日本の領有権主張は昔のからあったし有效な
ことと見える戦略的にその所の気候観測這うのを設置することができる ..と書かれていた
全文に引き続き  1949年 11月 19日時ボールドは
独島の仕事をした領土になればアメリカの国益にも符合すると手紙を送る
このような日本の提案は当時 米蘇 冷戦状況を反映したことなのでアメリカはアメリカの政治的理解
関係によって日本の提案を受け入れた
1949年 12月 29日下書きには独島が日本の領土で分類された

..


→The Territory of Japan shall comprise the four principal Japanese islands of Honshu
Kyushu Shikoku and Hokkaido and all adjacent minor islands including the
islands of the Inland sea (seto Naikai) Tsushima Takeshima (Liancourt Rocks)
日本の領土は主要 4島本州九州四国北海道及び接するすべての小さな
島だ小さな島は内海 (瀬戸内海)の島対馬竹島 ..

......................


グランにこの下書き(1949年 12月 29日独島日本領)は連合国の同意を得ることができなかった

1950年 8月 9日下書きには日本の領土規定が明確に明示されなかった
日本があきらめなければならない島名称も明確に明示されなかったし独島が抜け落ちされた

が頃条約の下書きが完成された後
米国務部東北アジア国所属ロバートピアリー (Robert Fearey)は対馬島独島など紛争衆人
島に対して疑問を申し立てた彼はエリソン国務省極東アジア国に送った手紙で
イェドルドルオ沿岸の島対馬独島のような権利の紛争が起きることができる新しい日本の
領土の大きさは確かですかここで 5兆に命名された地域に対する所有権は
列強によって協定を
保留しますか弱小国は 5組で 意思決定に参加する権利を得ることができませんか ?
と書いた
アメリカでも独島領有権に対する論争があったことだ
このような状況の中で
1950年 9月 14日作成された下書きでは独島が抜け落ちされた
イギリスニュージーランドオーストラリアが反対したからだ
.......................
3.イギリス下書き
..
イギリスは独自的にサンフランシスコ条約下書きを作成し始めた
イギリスは第1次下書き (1951年 2月 28日)から出発して 1951年 4月 7日 3次下書きを完成した
イギリスは最終的に外務省 18ヶ国 13個政府  付処の公式承認を得て 3次下書きを
完成したそしてこの 3次下書きをアメリカに知らせた
またカナダオーストラリアニュージーランド南ア 印度 パキスタンセイロンなどイギリスしきりに政府に知らせた
......
イギリス 3次下書きの内容


..
日本の主権は北魏 30〓愛書北で方向で (a)おおよそ北緯 33〓 東京 128〓 までであって
済州島福島の間を北進して北東方へ韓国と対馬島の間を経ってこの方向で
続いてOki 列島を南東の方に独島を (Takeshima) 北西の方に置いて進行して本州海岸を
よって旋回しながら引き続き北に 礼文島の端を通っておおよそ東京 142〓
(b)で 宗谷海峡を東にパスする線に区画された地域内に位したすべての 島嶼
隣接小さな島及び林初に対して尊属される ......
......
イギリスの 3次下書きに対する 地図がある


イギリスの 3次下書きでは日本の領土が明確に規定されていて独島は韓国領で
表記している
がイギリス下書きに添付された 地図はサンフランシスコ会談準備過程で製作されたイギリス政府の
公式 地図だまた日本の領土規定と係わって連合国側で製作された唯一の 地図だった
米国務省は条約を準備する過程でこの 地図を活用したことがあるが
日本領土を規定するアメリカの公式 地図は製作しなかった
だからこの 地図は連合国の見解を反映した 地図と言えて
も決定的に独島が日本領土から除かれて韓国領土に表示されている
SCAPIN 677号以後韓国の独島領有権を確認した証拠資料だ
.......................
4.英米合同下書き .
..

イギリスの公式下書きが (1951年 4月 7日)アメリカに通報された時点で
アメリカ代表ダラス (dulles) 仲間は  1951年 4月 7日から 23日まで日本東京を訪問して
あったダラス仲間はイギリス下書きを検討したし
4月 20日ダラス仲間は独島が韓国領土に表示されたイギリスの 3次下書きを日本側に
提示して日本の意見を提示してくれるのを要請したが日本は 
イギリス下書きの領土条項に対してはシコタンが日本領土になったことは歓迎すると
しただけ独島に対する言及はしないままアメリカに知らせた

4月 23日最後の訪問日アメリカ代表デルレス(john Foster Dulles) 仲間は
当時日本の  吉田茂 受賞 , 井口貞夫 外務省次官 ,西村  熊雄 外務省条約局長とともに
会議したと言うこの会議で日本側は独島が韓国領土に表示されたことに対して
アメリカに不満を表示したことと見える
アメリカは 対日平和条約 (サンフランシスコ条約)を準備する過程で多くの下書きを日本側に
提示しながら日本政府と政治家たちの見解を傾聴したし
また 住日 米政治拷問 時ボールドのロビーを通じて日本の見解を反映しようと思った
そこにイギリス下書きを日本側に提示して一緒に検討したことだ

独島の領有権問題は 1951年 4月と 5月初にアメリカワシントンで  英米合同実務団
会議で論議された
合同実務団はアメリカ代表でダラス使節団のエリソン (John M Allison )が議長を引き受けたし
イギリス代表は外務省日本局長ジョンーズトン首席だった
英米合同会議はイギリスの下書きとアメリカの下書きを一緒に検討した
1951年 5月 1日領土問題と係わった会議で 英米 両国は日本が株券をあきらめる
地域を特定した方が良いと合議した

1951年 5月 3日 英米合同下書きには
日本は済州島巨文島鬱陵島を含んだ韓国に対するすべての権利権原そして請求権を
あきらめて韓国の主権と独立に関してUNの主導または主導の下に酔われるすべての措置を
認めて尊重するのに同意すると明らかにした
英米両国は合同会議を通じて最終的に 1951年 5月 3日付け文書を統合した
ところで 5月 3日付け下書きには帰属される島に対して独島が
どの国に帰属されるのか明確ではなかった
以後 英米合同下書きに対する連合国討論が 1951年 6月 1日ワシントンで開かれた
これ会議でニュージーランドは 英米合同下書きに対して反対した
ニュージーランドは 英米合同下書きに対して
イギリス 3次下書きのように日本の領土を経度緯度で明確に規定して日本に属する

色々小さな島々の名称を明確に銘記すると条約以後紛争がないとの意見を
提示したがアメリカは日本の領土をかこむことは日本に心理的圧迫を与えるという理由で
拒否した
それで 英米合同下書きが 1951年 6月 14日に改定された

..


1951年 6月 14日 英米合同下書き
→Article2 第 2条
(a)Japan recognizing the independence of korea renounces all right title and
claim to korwa including the islands of Quelpart port Hamilton amd Dagelet

..........................


→日本は韓国の独立を認識して済州島巨文島鬱陵島を含んだ韓国を向けたあらゆる
権利権原そして請求権をあきらめる
......
5.サンフランシスコ条約締結
ラスク書簡, バンフリット帰国 報告書, ボグスの答弁書などはサンフランシスコ条約関係
文書と関係ないが当時独島に対するアメリカの見解が分かる資料だ
SCAPIN , サンフランシスコ条約文の下書き作成から独島は韓国の領土に銘記されたが
条約締結当時独島が条約文で削除された理由はアメリカが独島を日本領で
認めたからではなく韓日両国の独島の領有権紛争でアメリカは介入するの
ないという意志を見せてくれた結果だ
すなわちアメリカは独島の韓国領を認めながらも独島紛争の要素を残しておいたことだ

..........
6. ボグスの答弁書
サンフランシスコ条約締結直前


独島を韓国領土に含ませなければならないか問題に対してアメリカ国内で論争が起きた
が過程で米国務部東北アジア国でサンフランシスコ会談を準備した
ロバートピアリー (Robert Peary)が条約以後領土紛争が起きることができる地域に
大韓情報を要求したことに対する返事した 報告書があるのに 
ボグスの答弁書がそれだ
国務省情報調査局に勤めた地理専門家ボグス (S.W .Boggs)は 
答弁書で


........
Japan recognizing the independences of korea renounces all right
and title and claim to korea including the islands Quelpart Hamilton Dagelet
and Liancourt Rock

.................


したがって条約下書きの中で次 2条に決まった形式でこれを特定して言及して
与えることが望ましいだろう
(a) 日本は韓国の独立を承認して済州島巨文島鬱陵島及び独島(追加部分)
を含んで韓国に対するすべての権利権原と請求をあきらめなければならないと
記述することを主張した  (1951年 7月 13日 )


1952年 5月 25日日本毎日新聞が発刊した 対日本平和条約 地図がある


連合国が日本と強化条約を結んだ後日本側で作った 地図だ
が 地図には独島が韓国領になっている
サンフランシスコ条約(対日本平和条約) 当時アメリカ代表だったゾーンフォスターデルレス
(John Foster Dulles) 国務長官は
ラスク書簡が独島を日本領と認めたと言ってもそれはアメリカの立場であるだけ
連合国の同意を得たのではないアメリカは韓日独島紛争に介入しないと
すると主張した


독도 누락의 이유

 45년 7월 26일 포츠담  선언은 ,제8항에 카이로 선언의 조항은 이행되어야 하며
또한 일본의 주권은 혼슈 홋가이도 규슈 및 시코쿠 그리고 연합국이 결정하는
작은 섬들에 국한된다 라고 규정하였다

1945년 8월 15일
일본은 포츠담 선언을 수락하여 항복을 했고  그 해 9월 2일
정식으로 문서에 서명하였다 일본은 항복 문서에 서명한 이후 1952년 4월 28일
샌프란시스코 조약이 發效될 때 까지 연합국의 통치를 받게 되었다
...........
1.SCAPIN 지령


연합국은 1945년 9월 2일 연합국 최고 사령부 SCAPIN을 설치하였다
1946년 1월 29일 연합국 최고 사령관은 일본 임시 정부에 영토에 관한 규정을 담은 연합국
최고 사령관 각서 제 677호를 하달하였다
677호 각서 제 3항에는
→ For the purpose of this directive Japan is defined to include
the four main islands of Japan (Hokkaido Honshu kyushu and shikoku)
and the approximately 1.000 smaller a djacent islands. including the Tsushima iSlands
and the Ryukyu (Nansei)islands north of 30º North
shima island) and excluding (a)Utsuryo (Ullung)island
Liancourt Rocks and Quelpart (saishu or  cheju) island

..................

 

번역 요약하면

일본의 영토는 혼슈 규슈 홋가이도 시코쿠 등 4개 주요 島嶼와 1.000곳의 주변 작은 섬들로
제한한다 또 울릉도 독도 제주도는 일본 영토에서 제외한다 라고 명시하였다
......
677호   地圖는 


일본 영토로 부터 일정 주변 지역의 통치 및 행정상의 분리다
SCAPIN  5항 →본 지령에 있는 일본의 정의는 별도로 명시하지  않는 이상 본 사령부에서
발동하는 향후 모든 지령 각서 및 명령에 적용된다 수정을 하고자 할 때는 반드시 다른
번호의 특정 지령을 발해야 수정할 수 있다

6항 →이 지령 중에 어떤 것도 포츠담 선언 8항에 언급된 여러 작은 섬들의 최종적 결정에
관한 연합국의 정책을 표시한 것이 아니다
라고 밝히고 있다
1946년 6월 22일 연합국 사령부는
SCAPIN 제 1033호를 발표하여  독도와 그 12해리 수역에 일본 어부들의 접근을 금지했고 독도가
한국 영토라고 명시하였다
....................
2.샌프란시스코 조약 과정
..
샌프란시스코 조약 초기 1947년 3월 19일 부터 1949년 11월 2일 까지 독도는 한국 영토로
명시되고 있었다  샌프란시스코 조약은 카이로 선언 포츠담 선언의 연장선에 있다
샌프란시스코 조약 초기까지 독도를 한국 영토로 인정한 것은 연합군 합의서를 그대로
적용한 결과였다

..
1947년 3월 20일   한국에 관한  초안에는
Article4
→Japan hereby renounces all rights and titles to korea and all minor
offshore korean islands including Quelpart island port Ham ilton 
Dagelet (Utsuriyo) island and Liancourt Rock(Takeshima)

...............

 


일본은 한국 제주도 거문도 울릉도 Liancourt Rock(독도)를 포함하여 한국 연안의 모든
작은 섬에 대한 권리 및 권원을 포기한다 라고 되어있다
.......
독도에 관한 것은  1949년 11월 2일 초안에도  한국령으로  명시되었다
이 5차 초안 (1949년 11월 2일 )이 완성된 후
일본측은 독도를 빼앗기 위해   住日 米政治拷問  시볼드를 이용하여 로비 활동을 시작하였다
1949년 11월 14일 시볼드 住日 政治拷問은 애치슨(Acheson) 미국 국무 장관에게
全文을 보내는데
全門에는
리앙쿠르 巖의 再考를 권고한다 이 섬에 대한 일본의 영유권 주장은 옛 부터 있었고 유효한
것으로 보인다 전략적으로 그 곳의 기후 관측 기지를 설치할 수 있다 ..라고 적혀 있었다
全文에 이어  1949년 11월 19일 시볼드는
독도가 일본 영토가 되면 미국의 국익에도 부합한다 라고 편지를 보낸다
이러한 일본의 제안은 당시 米蘇 냉전 상황을 반영한 것이어서 미국은  미국의 정치적 이해
관계에 따라 일본의 제안을 받아들였다
1949년 12월 29일 초안에는  독도가  일본의 영토로 분류되었다

..


→The Territory of Japan shall comprise the four principal Japanese islands of Honshu
 Kyushu Shikoku and Hokkaido and all adjacent minor islands including the
islands of the Inland sea (seto Naikai) Tsushima Takeshima (Liancourt Rocks)
일본의 영토는 주요 4섬 혼슈 규슈 시코쿠 홋카이도  및 인접하는 모든 작은
섬이다 작은 섬은 내해 (세토 나이카이)의 섬 쓰시마 다케시마 ..

......................

 


그런에 이 초안(1949년 12월 29일 독도 일본령)은 연합국의 동의를 얻지 못했다

1950년 8월 9일 초안에는 일본의 영토 규정이 명확하게 명시되지 않았다
일본이 포기해야 하는 섬 명칭도 명확하게 명시되지 않았고 독도가 누락되었다

이 무렵  조약의  초안이 완성된 후
미국무부 동북 아시아국 소속 로버트 피어리 (Robert Fearey)는 대마도 독도 등 분쟁 중인
섬에 대해 의문을 제기하였다 그는 앨리슨 국무부 극동 아시아국에게 보낸 편지에서
예들들어 연안의 섬  쓰시마 독도와 같은 권리의 분쟁이 일어날 수 있는 새로운 일본의
영토의 크기는  확실합니까 여기서 5조에 명명된 지역에 대한 소유권은
열강에 의해 협정을
보류합니까  약소국은 5조에서 意思결정에 참여할 권리를 얻지 못합니까 ?
라고 썼다
미국에서도 독도 영유권에 대한 논쟁이 있었던 것이다
이러한 상황 속에서
1950년 9월 14일 작성된 초안에서는 독도가 누락되었다
영국 뉴질랜드 호주가 반대했기 때문이다
.......................
3.영국 초안
..
영국은 독자적으로 샌프란시스코 조약 초안을 작성하기 시작하였다
영국은 제1차 초안 (1951년 2월 28일)부터 출발하여 1951년 4월 7일 3차 초안을 완성하였다
영국은  최종적으로   외무성 18개국 13개 정부  付處의 공식 승인을  얻어 3차 초안을
완성하였다 그리고 이 3차 초안을 미국에 통보했다
또 캐나다 호주 뉴질랜드 남아프리카 印度 파키스탄 실론 등 영국 연방 정부에 통보하였다
......
영국 3차 초안의 내용

 


..
일본의 주권은 북위 30º애서 북서 방향으로 (a)대략 북위 33º 동경 128º 까지 이어
제주도 후쿠시마 사이를 북진하여 북동쪽으로 한국과 대마도 사이를 지나서  이 방향으로
계속해서 오키 列島를 남동쪽에 독도를 (Takeshima) 북서쪽에 두고 진행하여 혼슈 해안을
따라 선회하며 이어 북쪽으로 禮文島의 가장자리를 지나서 대략 동경 142º
(b)에서 宗谷海崍를 동쪽으로 통과하는 선으로 구획된 지역 내에 위치한 모든 島嶼
인접 작은 섬 및 임초에 대해 존속된다 ......
......
영국의 3차 초안에 대한 地圖가 있다

 


영국의 3차 초안에서는 일본의 영토가 명확하게 규정되어 있고 독도는 한국령으로
표기되어 있다
이 영국 초안에 첨부된 地圖는 샌프란시스코 회담 준비 과정에서 제작된 영국 정부의
공식 地圖이다 또한 일본의 영토 규정과 관련해 연합국 측에서 제작된 유일한 地圖였다
米국무부는 조약을 준비하는 과정에서 이 地圖를 활용한 적이 있으나
일본 영토를 규정하는 미국의 공식 地圖는 제작하지 않았다
그러므로 이 地圖는 연합국의 견해를 반영한 地圖라고 할 수 있고
또한 결정적으로 독도가 일본 영토에서 제외되어 한국 영토로 표시되어 있다
SCAPIN 677호 이후 한국의 독도 영유권을 확인한 증거 자료이다
.......................
4.英米합동 초안 .
..

영국의 공식 초안이 (1951년 4월 7일)미국에 통보된 시점에서
미국 대표 덜레스 (dulles) 일행은   1951년 4월 7일에서 23일까지  일본 동경을 방문하고
있었다 덜레스 일행은 영국 초안을 검토하였고
4월 20일 덜레스 일행은 독도가 한국 영토로 표시된 영국의 3차 초안을 일본측에
제시하며 일본의 의견을 제시해 줄 것을 요청하였는데 일본은 
영국 초안의 영토 조항에 대해서는 시코탄이 일본 영토로 된 것은 환영한다 라고
했을 뿐  독도에 대한 언급은 하지 않은 채 미국에 통보했다

4월 23일 마지막 방문 날 미국 대표 델레스(john Foster Dulles) 일행은
당시 일본의  吉田茂 수상 , 井口貞夫 외무성 차관 ,西村  熊雄 외무성 조약 국장과 함께
회의했다고 한다  이 회의에서 일본측은  독도가 한국 영토로 표시된 것에 대해
미국에 불만을 표시했을 것으로 보인다
미국은 對日평화조약 (샌프란시스코 조약)을 준비하는 과정에서  여러 초안을 일본측에
제시하며 일본 정부와 정치인들의 견해를 경청했으며
또 住日 米政治拷問 시볼드의 로비를 통해 일본의 견해를 반영하려고 하였다
거기에 영국 초안을 일본측에 제시하며 함께 검토한 것이다

독도의 영유권 문제는 1951년 4월과 5월초에 미국 워싱턴에서  英米합동 실무단
회의에서 논의되었다
합동 실무단은 미국 대표로  덜레스 사절단의 앨리슨 (John M Allison )이 의장을 맡았고
영국 대표는 외무성 일본 국장 존스톤 수석이었다
英米합동 회의는 영국의 초안과 미국의 초안을 함께 검토하였다
1951년 5월 1일 영토 문제와 관련한 회의에서 英米 양국은 일본이 주권을 포기하는
지역을 특정하는 것이 좋다고 합의하였다

1951년 5월 3일 英米합동 초안에는
일본은 제주도 거문도 울릉도를  포함한 한국에 대한 모든 권리 권원 그리고 청구권을
포기하며 한국의 주권과 독립에 관해 유엔의 주도 또는 주도하에 취해지는 모든 조치를
인정하고 존중하는데 동의한다 라고 밝혔다
英米양국은 합동 회의를 통해 최종적으로 1951년 5월 3일자 문서를 통합하였다
그런데 5월 3일자 초안에는 귀속되는 섬에 대해   독도가
어느 나라에 귀속되는지 명확하지 않았다
이후 英米합동 초안에 대한 연합국 토론이 1951년 6월 1일 워싱턴에서  열렸다
 이 회의에서   뉴질랜드는 英米합동 초안에 대해 반대하였다
뉴질랜드는 英米합동 초안에 대해
영국 3차 초안 처럼 일본의 영토를 경도 위도로 명확하게 규정하고   일본에 속하는
 
여러 작은 섬들의 명칭을 명확하게 명기해야  조약 이후 분쟁이 없을 것이라는 의견을
제시했지만 미국은 일본의 영토를 포위하는 것은 일본에 심리적 압박을 준다는 이유로
거부했다
그래서 英米합동 초안이 1951년 6월 14일에 개정되었다

..


1951년 6월 14일 英米합동 초안
→Article2 제 2조
(a)Japan recognizing the independence of korea renounces all right title and
claim to korwa including the islands of Quelpart port  Hamilton amd Dagelet

..........................

 


→일본은 한국의 독립을 인식하고  제주도 거문도 울릉도를 포함한 한국을 향한 모든
권리 권원 그리고 청구권을 포기한다
......
5.샌프란시스코 조약 체결
러스크 서한, 밴 플리트 귀국 報告書, 보그스의 답변서 등은 샌프란시스코 조약 관계
문서와 관계없지만  당시 독도에 대한 미국의 견해를 알 수 있는 자료다
SCAPIN  , 샌프란시스코 조약문의 초안 작성 부터 독도는 한국의 영토로 명기되었으나
조약 체결 당시 독도가 조약문에서 삭제된 이유는 미국이 독도를 일본령으로
인정했기  때문이  아니라   한일 양국의 독도의 영유권 분쟁에서 미국은 개입하지
않겠다는 의지를 보여준 결과다
즉 미국은  독도의 한국령을 인정하면서도 독도 분쟁의 요소를 남겨 놓은 것이다

..........
6. 보그스의 답변서
샌프란시스코 조약 체결 직전


독도를 한국 영토에 포함시켜야 하는지 문제에 대해 미국 내에서 논쟁이 일어났다
이 과정에서 미국무부 동북 아시아국에서 샌프란시스코 회담을 준비하던
로버트 피어리 (Robert Peary)가  조약 이후 영토 분쟁이 일어날 수 있는 지역에
대한 정보를 요구한 것에 대한 답변한 報告書가 있는데 
보그스의 답변서가 그것이다
국무부 정보 조사국에 근무하던 지리 전문가 보그스 (S.W .Boggs)는 
답변서에서

 


........
Japan recognizing the independences of korea renounces all right
and title and  claim to korea including the islands  Quelpart Hamilton Dagelet
and Liancourt Rock

.................


따라서 조약 초안 중 다음 2조에 일정한 형식으로 이를 특정해서 언급해
주는 것이 바람직할 것이다
(a) 일본은 한국의 독립을 승인하며 제주도 거문도 울릉도 및 독도(추가 부분)
을 포함해 한국에 대한 모든 권리 권원과 청구를 포기해야 한다 라고
記述할 것을 주장하였다  (1951년 7월 13일 )


1952년 5월 25일 일본  마이니치 신문이 발간한 對일본 평화 조약 地圖가 있다


연합국이 일본과 강화 조약을 맺은 후 일본측에서 만든 地圖다
이 地圖에는 독도가 한국령으로 되어있다
샌프란시스코 조약(對일본  평화 조약) 당시 미국 대표였던 존 포스터 델레스
(John Foster Dulles) 국무 장관은
러스크 서한이 독도를 일본령으로 인정했다고 해도 그것은 미국의 입장일 뿐
연합국의 동의를 얻은 것은 아니다 미국은 한일 독도 분쟁에 개입하지 않아야
한다고 주장했다



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