食べ物

 

 

9月終わりに、お台場(odaiba)を散歩して来た時の物です。

 

お台場(odaiba)は、東京中心部の海沿いに有る、住商複合地区で、1980年代から開発が始まりましたが、本格的な、開発は、1990年代に入ってからで、特に、ほぼ現在の形に整ったのは、1990年代半ばの事です。

 

この時の、お台場(odaiba)散歩の主目的は、船の科学館を訪れる事でした。船の科学館は、1974年に開館した、主として船に関する展示を行う、海事博物館(maritime museum)です。日本では、海事博物館(maritime museum)は、他に、神戸(kobe)の神戸(kobe)海洋博物館(1987年開館。前身は1962年に開館した神戸国際港湾博物館。海事博物館(maritime museum)としては、世界有数の規模。wikiより。。。)等が、有名ですが、東京の、船の科学館は、建物の老朽化により、9月30日を以って、休館となりました。閉館ではなく、休館としている事から、建物を改装するか、建て替えるかして、再び開館する可能性を残していると言う事ですが、今後の詳細な計画は、発表されておらず、このまま、閉館となって、建物が取り壊される(そして、その土地が売却される、されないに関わらず、その土地に、別の用途の建物が建つ)可能性も、ある程度の確率であると思います。

 

今回は、船の科学館の休館(事実上、閉館の可能性もあり)前の見納めと言う意味で、船の科学館を訪れました。

 

私は、子供の頃、博物館が好きで、国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きましたが(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。ちなみに中学生になってからは、ほとんど行かなくなりました)、船の科学館は、国立科学博物館、交通博物館、科学技術館程は、行きませんでした。理由は、(私が、子供が頃は、まだ、お台場(odaiba)が、商業地区・住宅地区として、本格的に開発される前だったので)、交通が不便だったからです。

 

今回、船の科学館は、とても久しぶりに、訪れました。

 

 

写真以下33枚。船の科学館。

 

写真以下4枚。船の科学館の建物。船の科学館の建物は、1974年に完成した物で、外観は、60,000トン級の、豪華客船を模した物となっています。

 

船の科学館のパンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下8枚。船の科学館の屋外展示物の例。

 

船の科学館は、前は、川西(kawanishi)二式飛行艇(下の補足説明参照)が屋外展示されていました。川西(kawanishi)二式飛行艇(以下、「二式飛行艇」と書きます)は、個人的に、船の科学館の展示物の中で、印象に残っている展示物です(二式飛行艇は、船の科学館の展示物の中で、単独の展示物としては、最も見応えのある展示物の一つでした)。
二式飛行艇:説明は、wikiを参考にしました。二式飛行艇(1941年)は、第二次世界大戦中の、日本海軍の大型飛行艇で、その頃の、飛行艇(flying boat)の中で、特に、優れた性能を持っていました。二式飛行艇の諸元は、全幅(幅)38m、全長(長さ)28.1m、最大重量32,500kg(全備重量24,500kg)、最高速度433kmから470km、航続距離7,153kmから8,223kmとなっています。比較の為に、Blohm & Voss BV 138(第二次世界大戦時に、ドイツ空軍の主力長距離偵察機の役割を担った飛行艇)(1937年)の諸元は、全幅(幅)27m、全長(長さ)19.85m、全備重量15,480kg、最高速度290km、航続距離4,023km、Short Sunderland(第二次世界大戦における、イギリスの代表的な軍用大型飛行艇。第二次世界大戦後も、輸送任務で使用が続けられ、1959年に退役)の諸元は、全幅(幅)34.39m、全長(長さ)26m、全備重量22,700kg、最高速度336km、航続距離4,640kmでした。また、Blohm & Voss BV 238(第二次世界大戦末期のドイツの飛行艇。1944年に初飛行した時点では、歴史上、最大の重量の飛行機であり、第二次世界大戦で、枢軸国側が製造した、最大の飛行機。1機のみ完成した)(1944年)の諸元は、全幅(幅)60.17m、全長(長さ)43.36m、最大離陸重量100,000kg(空虚重量54,700kg)、最高速度425km、航続距離7,200km、Hughes H-4 Hercules(1947年に初飛行した、アメリカの、巨大な飛行艇で、史上最大の飛行艇で、史上最大の翼の幅を持つ飛行機。1機のみ製造された。開発・製造は第2次世界大戦中に始まったが、完全な形での試作機は第二次世界大戦中には完成せず、1947年まで、飛べなかった)(1947年)の諸元は、全幅(幅)97.51m、全長(長さ)66.65m、全備重量180,000kg、巡航速度365kmから377km、航続距離4,790kmでした。日本の、二式飛行艇は、第二次世界大戦中の飛行艇の中では、世界最高の性能を持つ飛行艇であり、また、現在に至るまで、二式飛行艇の性能を上回る、レシプロエンジン(プロペラ(propeller)で飛ぶ飛行機)の飛行艇は、現れていないとも言われています。二式飛行艇は、167機製造され、(大型且つ高速で充分な防御火器を装備した二式飛行艇は)、日本が第二次世界大戦に参戦してから第二次世界大戦が終わるまでの前半の頃には、活躍し、連合国軍に恐れられましたが、戦況が悪化し、日本軍が、制空権を奪われ、アメリカ軍の戦闘機の攻撃が増えると、激しい攻撃には、手厚い防御装備でも耐え切れず、(戦闘機に比べた)速度の遅さから、第二次世界大戦末期には、多数が、撃墜され、第二次世界大戦が終わるまで生き残ったのは、わずか4機のみでした。その内の1機は、アメリカに引き取られ、性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮して、アメリカ側を驚かした様です。その機体は、長らく、ノーフォーク(Norfolk)海軍基地で保管されていましたが、1978年に、アメリカ海軍の経費削減で、保管終了の上、「廃棄処分」にするか、「日本で引き取る」か、日本側で、選択する事になり、結果、東京の、船の科学館が、引き取りを表明し、1979年に、日本に返還され、船の科学館に、長らく、屋外展示されていました(個人的には、最近まで、二式飛行艇が、船の科学館で、既に展示されなくなっていた事を知りませんでした)。

 

これは、「日本の旅・鉄道見聞録」と言うsite→http://www.uraken.net/rail/
から借りてきた写真ですが、船の科学館に、二式飛行艇が展示されていた時の写真。この二式飛行艇は、2004年4月末からは、鹿児島(kagoshima)鹿屋(kanoya)市にある海上自衛隊の鹿屋(kanoya)航空基地資料館に保管(野外展示)されています(wikiより)。

 

 

写真以下7枚は、船の科学館の現在の(船の科学館、休館直前時期の)、屋外展示物の例。尚、船の科学館休館後も、当面の間、屋外展示物(羊蹄丸(yoteimaru)を除く)は、引き続き展示される様です。


 

 

 

 

 

 

 

 

船の科学館のパンフレット(leaflet)から。下の段の一番左は、1873年に建てられた灯台(日本で20番目に建てられた西洋近代式の灯台。wikiより)を移築した物です。現存している、日本の木造灯台としては、最古の物です。イギリス人技師により設計された灯台です。下の段の一番右は、海底ハウス(house)歩(ayumi)号1世。以下、海底ハウス(house)歩(ayumi)号1世については、展示の説明を参考にしました。日本で作られた、海底ハウス(house)歩(ayumi)号1世は、世界で初めて、民間人の手によって作られた、海底居住区(海底の家)です。1968年に完成し、静岡(shizuoka)県、沼津(numazu)市の沖合、水深8mに、設置され、3年3ヶ月に渡り、居住実験が、行われました。

 

 

海底ハウス(house)歩(ayumi)号1世の内部や構造の図。

 

 

 

ヤマト(yamato)1。以下、ヤマト(yamato)1についての説明は、wikiを参考にしました。ヤマト(yamato)1は、1992年、神戸(kobe)港において、世界で初めて、海上航行実験に成功した、日本の超伝導電磁推進船(超伝導を利用した電磁推進によって推進する船)です。スクリュープロペラ(propeller)が存在しない世界初の実験船です。2008年現在、神戸(kobe)海洋博物館にて外殻と推進装置内部の超伝導電磁石が野外展示されており、推進装置は船の科学館に屋外展示されています。超伝導電磁推進船は、内燃機(internal combustion engine)とスクリュー(propeller)による船の推進と言う、産業革命以来の常識を覆す事を模索する船であり、スクリュー(propeller)や内燃機(internal combustion engine)等が不要になり、「ほぼ無音航行が可能である(航行により、波きり音は発生する)」、「不快な振動が無く環境性能も高い」、「構造特性からプロペラ(propeller)部分の空間が不要になる事により、自由度が高い船尾設計が可能になる」、「船体を貫通する構造物が無い為に、海水が船体内部に侵入しない」等の利点があります。

 

 

ヤマト(yamato)1の推進装置。

 

 

 

船の科学館のロビー(lobby)。ロビー(lobby)も、豪華客船を意識した物となっています。

 

 

 

写真以下19枚。船の科学館の展示物の例。船の科学館は、規模が大きく、とても、見応えのある海事博物館(maritime museum)です(厳密には、9月末を以って休館(事実上、閉館の可能性もあり)してしまったので、規模が大きく、とても、見応えのある海事博物館(maritime museum)でした)。船の科学館には、非常に多くの、日本国内外の船の模型が、展示されています(厳密には、展示されていました)。展示例として、紹介した船の模型は、その極々一部です。


 

戦列艦ヴィクトリー(Victory)(1765年。イギリス)の模型。

 

 

 

豪華客船モーリタニア(Mauretania)(31,938トン。1907年。イギリス)の模型。完成当時、世界で最も大きく、最も速い船でした(wikiより)。

 

 

 

これは、1925年に解体された、ロシア(Russia)の船に付いていた、船首像です。

 

 

 

日本の近代造船は、1853年の、石川島(ishikawajima)造船所に始まりますが(展示の説明より。。。)、その後、(島国である日本において、国防上・経済(貿易)上、重要な産業であった事から)国策事業として、国の支援を受けながら、日本の造船業は、急速に成長し、日本は、造船先進国へ追いついて行きました。

 

客船、天洋丸(tenyomaru)(13,402トン。1908年。日本)。東洋汽船(1896年設立。かつて日本に存在した、海運会社。現在、存在している、日本の海運会社の東洋汽船(1974年設立)とは、別の会社)の客船で、日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ航路で活躍しました。内装には、日本の絹織物を、ふんだんに使ったアール・ヌーボー(Art Nouveau)様式の装飾が施されていました。姉妹船に地洋丸と春洋丸とがありました。

 

 

移民船、もんてびでお丸(1926年。日本)。1920年代から1930年代に、日本から南米に、日本人移民を送った船です。

 

 

石油タンカー(oil tanker)、紀洋丸(kiyomaru)(10,820トン。1909年。日本)の模型。東洋汽船(1896年設立。かつて日本に存在した、海運会社。現在、存在している、日本の海運会社の東洋汽船(1974年設立)とは、別の会社)は、将来、石油時代の到来を予想して、1909年、日本最初の外洋石油タンカー(oil tanker)である、紀洋丸(kiyomaru)を進水させました。

 

1914年に第一次世界大戦が起こり1918年まで続きました。この間、日本の造船業は、空前の好況に恵まれ、1917年には、進水量において、アメリカ、イギリスに次いで、世界3位を記録しました(展示の説明より。。。)。

 

 

写真以下2枚。戦艦、大和(yamato)(基準64,000トン、満載72,900トン。1941年。日本)の模型。かなり大きな模型です。


 

 

 

日本は、日露戦争(1904年から1905年にかけて、日本とロシア(Russia)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後から、第二次世界大戦まで、世界有数の海軍力を持つ国でした。大和(yamato)は、日本海軍が建造した、世界の歴史上、最大の戦艦です(ちなみに、歴史上、建造された艦艇(軍事用の船)に搭載された主砲の中で、一番口径の大きい主砲は、大和(yamato)型戦艦(大和(yamato)と武蔵(musashi)の46cm砲です)。日本海軍は、1944年に、それまでの歴史上、最大の空母、且つ、第二次世界大戦中最大の空母(1961年、アメリカ海軍の空母、エンタープライズ(Enterprise)(基準75,700トン。満載93,284トン)が登場するまで、史上最大の(史上最大の排水量の)空母だった。wikiより。。。)、信濃(shinano)(基準62,000トン。満載71,890トン。大和(yamato)、武蔵(musashi)に次ぐ、三番目の大和(yamato)型戦艦を、建造中に、空母に設計変更した物)も、建造しています。日本は、空母において、世界で、先駆的な国の一つでした。以下、「」内は、wikiを参考にしました。「空母の前段階の水上機母艦は、フランスのフードル(Foudre)(常備5,994トン。水上機母艦時6,089トン。水上機母艦としては、1912年に就役)が、世界で最初の物ですが、日本は、第一次世界大戦初期の1914年に(日本は、当時、日英同盟(日本・イギリス同盟)を結んでいた為、第一次世界大戦の勃発後、間もなく、ドイツに対して宣戦布告し、連合国側として参戦した)、日本海軍の水上機母艦、若宮(wakamiya)(基準5,180トン。常備5,895トン)を、ドイツ軍基地のあった中国の青島沖に派遣し、搭載機が攻撃を行いました(水上機母艦であるため、搭載機の発着は海面を用い、機体はクレーン(crane)で揚収した)。また、1922年に完成した、日本海軍の空母、鳳翔(housyou)(基準7,470トン。満載10,500トン)は、最初から空母として起工された船で、世界で最初に完成した物です(なお、鳳翔(housyou)は、あくまで、設計・開発段階の当初から純粋空母としての運行を目的として建造された空母(正規空母)で、世界で最初に完成した物。改造空母(既成の軍艦を改造して出来た空母)は、これ以前にもイギリスとアメリカに存在し、イギリスのフューリアス(Furious)(基準22,450トン。排水28,500トン。1917年)が、世界初の空母であり第一次世界大戦にも参加している。また、世界で最初に、最初から空母として起工された船は、イギリス海軍のハーミーズ(Hermes)(基準10,850トン)であったが、ハーミーズ(Hermes)は、鳳翔(housyou)よりも遅れて完成した(最初から空母として起工された船で、鳳翔(housyou)に次いで、世界で2番目に、1924年に完成))」。
「また、日本が、アメリカ・イギリス等に宣戦を布告し、第二次世界大戦に参戦して間も無い、1941年12月、マレー半島(Malay Peninsula)東方沖にて、日本海軍の爆撃機隊が、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)(1941年。基準36,727トン。満載43,786トン)と、巡洋戦艦レパルス(Repulse)(1916年。満載38,200トン)を撃沈しました。これは、世界史上初の、航空機の攻撃のみによる、行動中の戦艦の撃沈であり、当時の、「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることは出来ない」と言う常識を覆し、戦艦への攻撃に、航空機が効果的である事を証明し、又、大艦巨砲主義(巨大な主砲を持つ巨大な戦艦を開発・建造し、保有する事は、その国の海軍力の証明となると言う、戦艦中心の考え方)の転換についての示唆を与え、その後の世界各国の戦術・戦略に大きな影響を与ました」。
しかしながら、その一方において、日本(日本海軍)は、戦艦大和(yamato)の様な船を建造・戦力として温存し、その最終的な威力を期待していました。大和(yamato)には、当時の最新技術が多数採用さていましたが、史上最大の戦艦と言う発想は、急速に時代遅れとなり、(1944年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて沈没した、同じく、日本海軍の、戦艦武蔵(musashi)(基準65,000トン。満載72,809トン。二番目の大和(yamato)型戦艦。戦艦大和(yamato)同様、史上最大の戦艦。1942年)と同様)、目立った活躍をする事なく、1945年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて、沈没しました。
尚、戦艦大和(yamato)(当時の日本の最高技術を結集し建造された)を、設計・建造する事によって蓄積された技術は、第二次世界大戦後の、日本の産業・技術に、応用され、役立てられました。


 

伊号第15潜水艦(1940年。基準2,198トン。常備2,584トン。水中3,654トン)の模型。伊号第15潜水艦は、日本海軍の伊15型潜水艦の一番艦で、約20隻の同型潜水艦(伊15型潜水艦)が作られました。伊15型潜水艦は、小型水上飛行機が、分解・格納された潜水艦で、小型水上飛行機は、偵察等に使われました。また、伊15型潜水艦は、その長大な航続力により、東はアメリカ西海岸から西はアフリカ東岸まで活躍し、また遣独潜水艦作戦(第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器や、その部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等の日本・ドイツ両国の人材の輸送を行った、日本海軍の潜水艦による数次にわたる作戦)に、3隻が選ばれ、大西洋まで活躍の場を広げました(wikiより)。伊15型潜水艦の、第二次世界大戦中における、活躍は、以下の物等があります。1942年、WASP(アメリカ海軍の空母。基準14,700トン。満載19,166トン。1940年)を撃沈(伊号第19潜水艦)。1942年、アメリカ本土(California州)を砲撃(伊号弟17潜水艦)。1942年、潜水艦に搭載された、小型飛行機による、アメリカ本土(Oregon州)空襲(山林火災による延焼被害や、アメリカ人に恐怖心を与える事等を企図した爆撃であり、死者・負傷者は、出ていない)及び、アメリカ本土を砲撃(伊号第25潜水艦)。ちなみに、伊15型潜水艦(伊号第25潜水艦)から飛び立った小型飛行機による、日本軍の、アメリカ本土空襲(1942年)は、歴史上、唯一の、外国の軍用機による、アメリカ本土空襲となっています。伊15型潜水艦は、アメリカ人に、アメリカ本土が攻撃されると言う恐怖を与えた、日本軍の兵器の一つであると言えるでしょう。ちなみに、日本海軍が、第二次世界大戦末期(1944年から1945年)に製造した、伊400型潜水艦(水上攻撃飛行機を3機搭載し、潜水空母とも呼ばれている)(下の補足説明参照)は、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で、最大の物でした。                                                        伊400型潜水艦:説明は、wikiを参考にしました。基準3,530トン。常備5,223トン。水中6,560トン。理論的には、地球を一周半する事が可能と言う長大な航続距離を持ち、日本から、地球上の、何処にでも出かけて、任意に攻撃を行い、そのまま、日本に帰る事が可能であった潜水艦。大柄な船体を持ちますが、水中性能は良好で、急速潜航に要する時間は、1分でした。伊400型潜水艦は、伊15型潜水艦による、アメリカ本土攻撃が成功していた1942年に、18隻の建造が計画されましたが、戦局の悪化と共に、計画は、5隻に縮小され、最終的に3隻が完成しました(伊号第400潜水艦(1944年)、伊号第401潜水艦(1945年)、伊号第402潜水艦(1945年))。伊400型潜水艦が、完成した頃は、日本海軍は、アメリカ軍により、日本周辺の制海権、制空権共に失い、壊滅的な状態となっており、伊400型潜水艦は、既に、活躍出来る機会を失っていました。伊400型潜水艦は、前述の通り、三隻が完成しましたが、いずれも、具体的な戦果を上げる前に、日本が、アメリカを中心とする連合国に対して無条件降伏し、第二次世界大戦が終結しました。アメリカ軍は、戦後間もなく、伊400型潜水艦を接収し、技術調査をした後、冷戦による、当時のソビエト(Soviet)連邦への技術情報の漏洩を恐れ、海没処分にしました(破壊し、海に沈めて処分しました)。

 

 

第二次世界大戦以前から、日本は、既に、世界有数の造船技術を持っていた為、(それを基に発展した、第二次世界大戦後の日本の)造船業は、第二次世界大戦後の、日本の経済復興と経済成長の、主要な原動力の一つとなりました。日本の造船業は、1956年に、イギリスを抜いて、世界一位となりました(展示の説明より。。。)。

 

船の科学館は、船の機械的な部分(エンジン(engine)や電気系統等)や、船の構造等に関する展示も充実しています(充実していました)。写真以下6枚は、その、ほんの一例です。


 

 

 

 

これは、船用の、ガスタービンエンジン(gas turbine)の仕組みを説明する展示です。

 

 

写真以下4枚。1954年に、当時の三菱(mitsubishi)造船株式会社が、実用化(製品化)した、新型の、船用、大型ディーゼルエンジン(diesel engine)の、開発の原動力となった、船用、大型ディーゼル(diesel)機関の実験機です。以下、この実験機の説明については、展示の説明文を参考にしました。当時としては、全く新しい、排気加給機を装備した為、従来の同様の機関では、1気筒当たり、700馬力の物が、1,350馬力まで、出力を増大させる事が実証されました。この大型実験機関の成功により、実用機の開発が進められ、1954年に、新型の、船用、大型ディーゼルエンジン(diesel engine)が、実用化(製品化)されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石油タンカー(oil tanker)、ユニバース・アイルランド(Universe Ireland)(326,000トン。1968年。アメリカ)の模型。とても巨大な模型です(写真に写っているのは、その極一部)。ユニバース・アイルランド(Universe Ireland)は、日本製の、石油タンカー(oil tanker)で、当時、世界最大の、石油タンカー(oil tanker)であった、同じく日本製の、出光丸(idemitsumaru)(210,000トン。1966年。日本)を追い抜いて、世界最大の、石油タンカー(oil tanker)となりました。ペルシャ湾(Persian Gulf)からヨーロッパへの石油輸送に従事しました。

 

 

石油タンカー(oil tanker)、日石丸(nissekimaru)(372,000トン。1971年。日本)の模型。日石丸(nissekimaru)は、建造された当時、世界最大の石油タンカー(oil tanker)でした。

 

展示に、1950年代半ばから1980年にかけての、世界最大の石油タンカー(oil tanker)の移り変わりを示す図があったのですが、それによると、1950年代半ばから1980年にかけての、世界最大の石油タンカー(oil tanker)の移り変わりは、シンク・レア・ペトロロア(Sinclair Petrolore)(55,000トン。1955年。アメリカ)、ユニバース・リーダー(Universe Leader)(85,500トン。1956年。アメリカ)、ユニバース・アポロ(Universe Apollo)(103,000トン。1959年。アメリカ)、日章丸(nisyomaru)(132,000トン。1962年。日本)、東京丸(tokyomaru)(154,000トン。1966年。日本)、出光丸(idemitsumaru)(210,000トン。1966年。日本)、ユニバース・アイルランド(Universe Ireland)(326,000トン。1968年。アメリカ)、日石丸(nissekimaru)(372,000トン。1971年。日本)、グロブティック・トーキョー(Globtik Tokyo)(477,000トン。1973年。イギリス)、日精丸(nisseimaru)(484,400トン。1975年。日本)、シーワイズジャイアント(Seawise Giant)(564,763トン。1980年。香港)となっています。以上の11隻の石油タンカー(oil tanker)は、全て、日本製(日本の造船所で建造された物)です。ちなみに、シーワイズジャイアント(Seawise Giant)は、史上最大の石油タンカー(oil tanker)且つ、史上最大の船で、シーワイズジャイアント(Seawise Giant)以降、現在に至るまで、シーワイズジャイアント(Seawise Giant)よりも大きな、石油タンカー(oil tanker)、及び、船は、建造されていません。

 

現在は、日本の造船業が勢いを失ってから、しばらく経ち、韓国と、急速に力をつけて来ている中国が、世界の造船国大国の一位と二位を争う関係にあります。日本は、現在は、世界有数の造船国と言えるかどうかも、少し微妙になって来ており、(日本の造船業が、盛り返せば、話は別ですが)、最終的には、日本は、ヨーロッパの規模の大きな造船産業を持つ国々と共に、世界の有力な造船国の一つに落ち着く(悪く言えば、世界の有力な造船国の一つに過ぎなくなる)可能性もあると思います。現在は、技術力と生産量の総合評価において、正に、韓国が世界一の造船国と言えるでしょう。

 

 

しんかい2000(深海(shinkai)2000)の模型。以下、しんかい2000(shinkai2000)、しんかい6500(shinkai6500)、トリエステ号(Trieste)についての説明は、wikiを参考にしました。しんかい2000(shinkai2000)は、1981年に完成した、日本の深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)です。最大2,000mの深さまで潜る事が出来ます。この、しんかい2000(shinkai2000)の運用実績を元に開発され、1990年に完成した、日本の深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)、しんかい6500(深海(shinkai)6500)は、最大6,500mまで(設計上は、15,000m手前まで)潜る事が出来き、現在、世界で、運用中の有人潜水調査艇(潜水艇)の中で、最も深く、海に潜る事が出来る物の内の一つとなっています。ちなみに、歴史上、最も、海に深く潜った記録を持つ有人潜水調査艇(潜水艇)は、スイスで設計された、トリエステ号(Trieste)(1953年)で、1960年に、10,911mの記録を残しています(もっとも、トリエステ号(Trieste)は、安全に深く潜る事に重点をおいた潜水艇だった為、後に開発された、深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)に比べると、持続性と汎用性(実用能力)の面では劣っていました)。

 

まだ、船の科学館は、続きますが、投稿の便宜上、この投稿で、この時の、お台場(odaiba)散歩時に食べた夕食を紹介します。

 

 

写真以下4枚。この日の夕食は、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)で食べました。

 

お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、お台場odaiba)にあるショッピングモール(shopping mall)の一つの、昭和30年代(下の補足説明参照)の、日本の庶民的な商店街や街をイメージしたareaの一角(一隅)にあります。

昭和30年代:1950年代半ばから1960年代半ば。第二次世界大戦直後の混乱は、一段落したけど、まだ、経済復興の途中で、日本は、まだ貧しく、第二次世界大戦以前や第二次世界大戦直後の貧しさの名残があった時代。その一方において、誰もが、日本が急速に経済成長をしている事を実感出来て、いつかは、日本が欧米の富裕な先進国に追いつき追い抜くだろうと言う希望と、いつかは、日本を欧米の富裕な先進国に追いつき、追い抜かせて見せると言う気迫に満ち溢れていた時代と言った感じでしょうか。。。日本は、第一次世界大戦(1914年から1918年)が終る頃には、名実供に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりましたが(日本は、第一次世界大戦後は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと供に、国際連盟(League of nations)の発足時の常任理事国となりました)、その一方で、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と供に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。

 

お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、蛸焼き(takoyaki)に関する説明展示等を伴う、大阪の5つの人気の蛸焼き(takoyaki)店が集まった、フードコート(food court)です。類似の施設は、前から、大阪のショッピングモール(shopping mall)に存在していた様ですが、(おそらく、その姉妹施設である)、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、割りと最近オープン(open)しました(割りと最近と言っても、もう、オープン(open)してから、一年弱位経つのかな。。。ちなみに、このショッピングモール(shopping mall)の、昭和30年代の庶民的な商店街や街をイメージしたareaは、前から有りました)。お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、この時、初めて利用しました。

 

蛸焼(takoyaki)は、今は、日本全国的な食べ物となっていますが、大阪の大衆食の代表的な物の一つで、大阪は、日本の他地域に比べ、蛸焼(takoyaki)店の密度が圧倒的に高くなっています(おそらく。。。)。

 

写真以下3枚。この時、私達が、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)で食べた、蛸焼き(takoyaki)。これと(写真の蛸焼き(takoyaki)以外に)、くくる(kukuru)と言う蛸焼き(takoyaki)店の、明石(akashi)焼き(蛸焼き(takoyaki)に似た食べ物だが、蛸焼き(takoyaki)に比べて玉子の比率が多い事、具が基本的に蛸だけで有る事、お吸い物に似た出汁に浸して食べる点等が、蛸焼き(takoyaki)と異なる。説明は、wikiを参考にしました)を、食べました。全て、二人で分けて食べました。

 

十八番(jyuhachiban)と言う、蛸焼き(takoyaki)店の、蛸焼き(takoyaki)。十八番(jyuhachiban)の蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。女性店主の店で、蛸焼き(takoyaki)の生地に牛乳が加えられる事、蛸焼き(takoyaki)に、天かす(天麩羅を揚げる時に副産物として生じる、揚げかす。説明は、wikiから借りて来ました)と桜海老の粉末が、大量に入れられる事等が、特徴の、蛸焼き(takoyaki)店なのだそうです。

 

 

やまちゃん(yamachan)と言う、蛸焼き(takoyaki)店の、葱が、たくさん載った、蛸焼き(takoyaki)。やまちゃん(yamachan)の蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。

 

 

 

蛸焼き(takoyaki)工房Sea&Sunと言う、蛸焼き(takoyaki)店の、蛸焼き(takoyaki)。蛸焼き(takoyaki)工房Sea&Sunの蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。個性的な、蛸焼き(takoyaki)を揃えている店でしたが、この店では、あえて、普通の(標準的な)蛸焼き(takoyaki)を買って見ました。

 

 

お台場(odaiba)散歩&食べ物後編へ続く。。。

 

 

おまけ。蛸焼き(takoyaki)味のスナック(snack)菓子。前に、kjにアップ(uplaod)した事があったかな。。。日本に、結構古くからあるスナック(snack)菓子です。

 

 

 


오다이바(odaiba) 산책&음식 전편

 

 

9월 끝나에, 오다이바(odaiba)를 산책해 왔을 때의 물건입니다.

 

오다이바(odaiba)는, 도쿄 중심부의 해안에 있는, 주상복합 지구에서, 1980년대부터 개발이 시작되었습니다만, 본격적인, 개발은, 1990년대에 들어오고 나서로, 특히, 거의 현재의 형태에 갖추어진 것은, 1990년대 중반의 일입니다.

 

이 때의, 오다이바(odaiba) 산책의 주목적은, 배의 과학관을 방문하는 일이었습니다.배의 과학관은, 1974년에 개관한, 주로 배에 관한 전시를 실시하는, 해사 박물관(maritime museum)입니다.일본에서는, 해사 박물관(maritime museum)은, 그 밖에, 코베(kobe)의 코베(kobe) 해양 박물관(1987년 개관.전신은 1962년에 개관한 코베 국제 항만 박물관.해사 박물관(maritime museum)으로서는, 세계 유수한 규모.wiki보다...) 등이, 유명합니다만, 도쿄의, 배의 과학관은, 건물의 노후화에 의해, 9월 30일로, 휴관이 되었습니다.폐관이 아니고, 휴관으로 하고 있는 일로부터, 건물을 개장하는지, 개축할까 하고, 다시 개관할 가능성을 남기고 있다고 하는 일입니다만, 향후의 상세한 계획은, 발표되지 않고, 이대로, 폐관이 되고, 건물이 해체될(그리고, 그 토지가 매각되는, 되지 않는 관련되지 않고, 그 토지에, 다른 용도의 건물이 세워질) 가능성도, 어느 정도의 확률이다고 생각합니다.

 

이번은, 배의 과학관의 휴관(사실상, 폐관의 가능성도 있어) 전의 마지막으로 봄이라고 하는 의미로, 배의 과학관을 방문했습니다.

 

나는, 어릴 적, 박물관을 좋아하고, 국립 과학박물관이나, 교통 박물관, 과학기술관에, 자주 갔습니다만(어릴 때는, 부모에게 데려 가 주었습니다만, 초등학교 4 학년무렵부터는, 같은 흥미를 가지는 친구(들)와 초등 학생만으로, 가는 것처럼 되었습니다.덧붙여서 중학생이 되고 나서는, 거의 가지 않게 되었습니다), 배의 과학관은, 국립 과학박물관, 교통 박물관, 과학기술관정은, 가지 않았습니다.이유는, (내가, 아이가 무렵은, 아직, 오다이바(odaiba)가, 상업지구·주택지구로서 본격적으로 개발되기 전이었으므로), 교통이 불편했기 때문에입니다.

 

이번, 배의 과학관은, 매우 오랫만에, 방문했습니다.

 

 

사진 이하 33매.배의 과학관.

 

사진 이하 4매.배의 과학관의 건물.배의 과학관의 건물은, 1974년에 완성한 것으로, 외관은, 60,000톤급의, 호화 여객선을 본뜬 것이 되고 있습니다.

 

배의 과학관의 팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 8매.배의 과학관의 옥외 전시물의 예.

 

배의 과학관은, 전은, 카와니시(kawanishi) 2식 비행정(아래의 보충 설명 참조)이 옥외 전시되고 있었습니다.카와니시(kawanishi) 2식 비행정(이하, 「2식 비행정」이라고 씁니다)은, 개인적으로, 배의 과학관의 전시물 중(안)에서, 인상에 남아 있는 전시물입니다(2식 비행정은, 배의 과학관의 전시물 중(안)에서, 단독의 전시물로서는, 가장 볼 만한 가치가 있는 전시물의 하나였습니다).
2식 비행정:설명은, wiki를 참고로 했습니다.2식 비행정(1941년)은, 제이차 세계대전중의, 일본해군의 대형 비행정으로, 그 무렵의, 비행정(flying boat) 중(안)에서, 특히, 뛰어난 성능을 가지고 있었습니다.2식 비행정의 제원은, 전체 폭(폭) 38 m, 전체 길이(길이) 28.1 m, 최대 중량 32,500kg(완비 중량 24,500kg), 최고속도 433 km에서 470 km, 항속 거리 7,153 km로부터 8,223 km가 되고 있습니다.비교를 위해, Blohm & Voss BV 138(제이차 세계대전시에, 독일 공군의 주력 장거리 정찰기의 역할을 담당한 비행정)(1937년)의 제원은, 전체 폭(폭) 27 m, 전체 길이(길이) 19.85 m, 완비 중량 15,480 kg, 최고속도 290 km, 항속 거리 4,023 km, Short Sunderland(제이차 세계대전에 있어서의, 영국의 대표적인 군용 대형 비행정.제이차 세계대전 후도, 수송 임무로 사용이 계속되어 1959년에 퇴역)의 제원은, 전체 폭(폭) 34.39 m, 전체 길이(길이) 26 m, 완비 중량 22,700 kg, 최고속도 336 km, 항속 거리 4,640 km였습니다.또, Blohm & Voss BV 238(제이차 세계대전 말기의 독일의 비행정.1944년에 첫비행한 시점에서는, 역사상, 최대의 중량의 비행기이며, 제이차 세계대전에서, 추축국측이 제조한, 최대의 비행기.1기만 완성한)(1944년)의 제원은, 전체 폭(폭) 60.17 m, 전체 길이(길이) 43.36 m, 최대 이륙 중량 100,000 kg(공허 중량 54,700 kg), 최고속도 425 km, 항속 거리 7,200 km, Hughes H-4 Hercules(1947년에 첫비행한, 미국의, 거대한 비행정으로, 사상 최대의 비행정으로, 사상 최대의 날개의 폭을 가지는 비행기.1기만 제조되었다.개발·제조는 제2차 세계대전중에 시작했지만, 완전한 형태로의 시험 제작기는 제이차 세계대전중에는 완성하지 않고, 1947년까지, 날 수 없었다)(1947년)의 제원은, 전체 폭(폭) 97.51 m, 전체 길이(길이) 66.65 m, 완비 중량 180,000 kg, 순항속도 365 km에서 377 km, 항속 거리 4790 km였습니다.일본의, 2식 비행정은, 제이차 세계대전중의 비행정 중(안)에서는, 세계 최고의 성능을 가지는 비행정이며, 또, 현재에 이를 때까지, 2식 비행정의 성능을 웃도는, 왕복기관(프로펠라(propeller)로 나는 비행기)의 비행정은, 나타나지 않다고 말해지고 있습니다.2식 비행정은, 167기 제조되고(대형 한편 고속으로 충분한 방어 화기를 장비한 2식 비행정은), 일본이 제이차 세계대전에 참전하고 나서 제이차 세계대전이 끝날 때까지의 전반의 무렵에는, 활약해, 연합국군에 두려워 했습니다만, 전황이 악화되어, 일본군이, 제공권을 빼앗겨 미군의 전투기의 공격이 증가하면, 격렬한 공격에는, 극진한 방어 장비에서도 다 참을 수 있지 않고, (전투기에 비한) 속도의 늦음으로부터, 제이차 세계대전 말기에는, 다수가, 격추되고 제이차 세계대전이 끝날 때까지 살아 남은 것은, 불과 4기만이었습니다.그 안의 1기는, 미국에 거두어 져 성능 확인 시험이 실시되어 압도적인 고성능을 발휘하고, 미국측을 놀라게 한 같습니다.그 기체는, 오랫동안, 노우 포크(Norfolk) 해군 기지에서 보관되고 있었습니다만, 1978년에, 미국 해군의 경비 삭감으로, 보관 종료 후, 「폐기처분」으로 하는지, 「일본에서 물러간다」인가, 일본초`, 그리고, 선택하는 일이 되어, 결과, 도쿄의, 배의 과학관이, 인수를 표명해, 1979년에, 일본에 반환되어 배의 과학관에, 오랫동안, 옥외 전시되고 있었습니다(개인적으로는, 최근까지, 2식 비행정이, 배의 과학관에서, 이미 전시되지 않게 되어 있던 일을 몰랐습니다).

 

이것은, 「일본의 여행·철도 견문록」이라고 하는 site→http://www.uraken.net/rail/
(으)로부터 빌려 온 사진입니다만, 배의 과학관에, 2식 비행정이 전시되고 있었을 때의 사진.이 2식 비행정은, 2004년 4월말부터는, 카고시마(kagoshima) 록 가게(kanoya) 시에 있는 해상 자위대의 록 가게(kanoya) 항공 기지 자료관에 보관(야외 전시)되고 있습니다(wiki보다).

 

 

사진 이하 7매는, 배의 과학관의 현재의(배의 과학관, 휴관 직전 시기의), 옥외 전시물의 예.상, 배의 과학관 휴관 후도, 당분간, 옥외 전시물(참소루쟁이환(yoteimaru)을 제외한다)은, 계속 전시되는 것 같습니다.


 

 

 

 

 

 

 

 

배의 과학관의 팜플렛(leaflet)으로부터.아래의 단의 제일 왼쪽은, 1873년에 지어진 등대(일본에서 20번째에 지어진 서양 근대식의 등대.wiki보다)를 이축한 것입니다.현존 하고 있는, 일본의 목조등대로서는, 최고의 물건입니다.영국인 기사에 의해 설계된 등대입니다.아래의 단의 제일 오른쪽은, 해저 하우스(house) 보(ayumi) 호 1세.이하, 해저 하우스(house) 보(ayumi) 호 1세에 대해서는, 전시의 설명을 참고로 했습니다.일본에서 만들어진, 해저 하우스(house) 보(ayumi) 호 1세는, 세계에서 처음으로, 민간인의 손에 의해서 만들어진, 해저 이스미구(해저의 집)입니다.1968년에 완성해, 시즈오카(shizuoka) 현, 누마즈(numazu) 시의 앞바다, 수심 8 m에, 설치되어 3년 3개월에 걸쳐, 거주 실험이, 행해졌습니다.

 

 

해저 하우스(house) 보(ayumi) 호 1세의 내부나 구조의 그림.

 

 

 

야마토(yamato) 1.이하, 야마토(yamato) 1에 대한 설명은, wiki를 참고로 했습니다.야마토(yamato) 1은, 1992년, 코베(kobe) 항에 있고, 세계에서 처음으로, 해상 항행 실험에 성공한, 일본의 초전도 전자 추진선(초전도를 이용한 전자 추진에 의해서 추진하는 배)입니다.screw propeller(propeller)가 존재하지 않는 세계 최초의 실험선입니다.2008년 현재, 코베(kobe) 해양 박물관에서 겉껍데기와 추진 장치 내부의 초전도 전자석이 야외 전시되고 있어 추진 장치는 배의 과학관에 옥외 전시되고 있습니다.초전도 전자 추진선은, 내연기(internal combustion engine)와 추진기(propeller)에 의한 배의 추진이라고 말하는, 산업혁명 이래의 상식을 뒤집는 일을 모색하는 배이며, 추진기(propeller)나 내연기(internal combustion engine) 등이 불필요하게 되어, 「거의 무음 항행이 가능하다(항행에 의해, 물결 송곳음은 발생한다)」, 「불쾌한 진동이 없고 환경 성능도 높다」, 「구조 특성으로부터 프로펠라(propeller) 부분의 공간이 불필요하게 되는 일에 의해, 자유도가 높은 선미 설계가 가능하게 된다」, 「선체를 관통하는 구조물이 없기 때문에, 해수가 선체 내부에 침입하지 않는다」등의 이점이 있습니다.

 

 

야마토(yamato) 1의 추진 장치.

 

 

 

배의 과학관의 로비(lobby).로비(lobby)도, 호화 여객선을 의식한 것이 되고 있습니다.

 

 

 

사진 이하 19매.배의 과학관의 전시물의 예.배의 과학관은, 규모가 크고, 매우, 볼 만한 가치가 있는 해사 박물관(maritime museum)입니다(엄밀하게는, 9월말로 휴관(사실상, 폐관의 가능성도 있어)해 버렸으므로, 규모가 크고, 매우, 볼 만한 가치가 있는 해사 박물관(maritime museum)이었습니다).배의 과학관에는, 매우 많은, 일본 내외의 배의 모형이, 전시되고 있습니다(엄밀하게는, 전시되고 있었습니다).전시예로서 소개한 배의 모형은, 그 극히들일부입니다.


 

전열함 빅터 리(Victory)(1765년.영국)의 모형.

 

 

 

호화 여객선 모리타니아(Mauretania)(31,938톤.1907년.영국)의 모형.완성 당시 , 세계에서 가장 크고, 가장 빠른 배였습니다(wiki보다).

 

 

 

이것은, 1925년에 해체된, 러시아(Russia)의 배를 뒤따르고 있던, 뱃머리상입니다.

 

 

 

일본의 근대 조선은, 1853년의, 이시카와섬(ishikawajima) 조선소에 시작합니다만(전시의 설명보다...), 그 후, (섬나라인 일본에 있고, 국방상·경제(무역) 상, 중요한 산업인 일로부터) 국책 사업으로서 나라의 지원을 받으면서, 일본의 조선업은, 급속히 성장해, 일본은, 조선 선진국에 따라잡아 갔습니다.

 

여객선, 천양환(tenyomaru)(13,402톤.1908년.일본).동양 기선(1896년 설립.일찌기 일본에 존재한, 해운회사.현재, 존재하고 있는, 일본의 해운회사의 동양 기선(1974년 설립)이란, 다른 회사)의 여객선으로, 일본과 샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 항로에서 활약했습니다.내장에는, 일본의 견직물을, 충분하게 사용한 아르·누보(Art Nouveau) 양식의 장식이 실시해지고 있었습니다.자매선에 지양환과 춘양환이 있었습니다.

 

 

이민선, 도 로 환(1926년.일본).1920년대부터 1930년대에, 일본에서 남미로, 일본인 이민을 보낸 배입니다.

 

 

석유 탱커(oil tanker), 노리히로환(kiyomaru)(10,820톤.1909년.일본)의 모형.동양 기선(1896년 설립.일찌기 일본에 존재한, 해운회사.현재, 존재하고 있는, 일본의 해운회사의 동양 기선(1974년 설립)이란, 다른 회사)은, 장래, 석유 시대의 도래를 예상하고, 1909년, 일본 최초의 외양 석유 탱커(oil tanker)인, 노리히로환(kiyomaru)을 진수 시켰습니다.

 

1914년에 제1차 세계 대전이 일어나 1918년까지 계속 되었습니다.이전, 일본의 조선업은, 공전의 호황을 타고 나 1917년에는, 진수량에 대하고, 미국, 영국에 이어, 세계 3위를 기록했습니다(전시의 설명보다...).

 

 

사진 이하 2매.전함, 다이와(yamato)(기준 64,000톤, 가득 72,900톤.1941년.일본)의 모형.꽤 큰 모형입니다.


 

 

 

일본은, 러일 전쟁(1904년부터 1905년에 걸치고, 일본과 러시아(Russia)의 사이에 행해진 전쟁.일본의 실질적인 승리에 끝난다) 나중에, 제이차 세계대전까지, 세계 유수한 해군력을 가지는 나라였습니다.다이와(yamato)는, 일본해군이 건조한, 세계의 역사상, 최대의 전함입니다(덧붙여서, 역사상, 건조된 함정(군사용의 배)에 탑재된 주포 중(안)에서, 제일 구경의 큰 주포는, 다이와(yamato) 형 전함(다이와(yamato)와 무사시(musashi)의 46 cm포입니다).일본해군은, 1944년에, 지금까지의 역사상, 최대의 항공 모함, 한편, 제이차 세계대전중 최대의 항공 모함(1961년, 미국 해군의 항공 모함, 엔터프라이즈(Enterprise)(기준 75,700톤.가득 93,284톤)이 등장할 때까지, 사상 최대의(사상 최대의 배수량의) 항공 모함이었다.wiki보다...), 시나노(shinano)(기준 62,000톤.가득 71890톤.다이와(yamato), 무사시(musashi)에 뒤잇는, 3번째의 다이와(yamato) 형 전함을, 건조중에, 항공 모함으로 설계 변경한 것)도, 건조하고 있습니다.일본은, 항공 모함에 대하고, 세계에서, 선구적인 나라의 하나였습니다.이하, 「」 안은, wiki를 참고로 했습니다.「항공 모함의 전단층의 수상기 모함은, 프랑스의 후돌(Foudre)(상비 5,994톤.수상기 모함시 6,089톤.수상기 모함으로서는, 1912년에 취역)이, 세계에서 최초의 물건입니다만, 일본은, 제1차 세계 대전 초기의 1914년에(일본은, 당시 , 영일 동맹(일본·영국 동맹)을 맺고 있던 때문, 제1차 세계 대전의 발발 후, 머지 않아, 독일에 대해서 선전포고해, 연합국측으로서 참전한), 일본해군의 수상기 모함, 와카미야(wakamiya)(기준 5,180톤.상비 5,895톤)을, 독일군기지가 있던 중국의 아오시마 바다에 파견해, 탑재기가 공격을 실시했던(수상기 모함이기 위해, 탑재기의 발착은 해면을 이용해 기체는 크레인(crane)으로 양수 했다).또, 1922년에 완성한, 일본해군의 항공 모함, 봉상(housyou)(기준 7,470톤.가득 10500톤)은, 최초부터 항공 모함으로서 기공된 배로, 세계에서 최초로 완성한 것입니다(덧붙여 봉상(housyou)은, 어디까지나, 설계·개발 단계의 당초부터 순수 항공 모함으로서의 운행을 목적으로 해 건조된 항공 모함(정규 항공 모함)으로, 세계에서 최초로 완성한 것.개조 항공 모함(기성의 군함을 개조해 할 수 있던 항공 모함)은, 이것 이전에도 영국과 미국에 존재해, 영국의 퓨리아스(Furious)(기준 22,450톤.배수 28,500톤.1917년)이, 세계 최초의 항공 모함이며 제1차 세계 대전에도 참가하고 있다.또, 세계에서 최초로, 최초부터 항공 모함으로서 기공된 배는, 영국 해군의 하미즈(Hermes)(기준 10,850톤)에서 만났지만, 하미즈(Hermes)는, 봉상(housyou)보다 늦어 완성한(최초부터 항공 모함으로서 기공된 배로, 봉상(housyou)에 이어, 세계에서 2번째에, 1924년에 완성))」.
「또, 일본이, 미국·영국등에 선전을 포고해, 제이차 세계대전에 참전해 동안도 없는, 1941년 12월, 말레이 반도(Malay Peninsula) 동방바다에서, 일본해군의 폭격기대가, 당시 세계 최강의 해군을 자인하고 있던 영국 해군 동양 함대의, 당시 최신예의 전함 프린스·오브·웨일즈(Prince ofWales)(1941년.기준 36,727톤.가득 43,786톤)과 순양전함 레파르스(Repulse)(1916년.가득 38,200톤)을 격침했습니다.이것은, 세계사상 처음의, 항공기의 공격에만 밤, 행동중의 전함의 격침이며, 당시의, 「작전 행동중의 전함을 항공기로 가라앉히는 것은 할 수 없다」라고 하는 상식을 뒤집어, 전함에의 공격에, 항공기가 효과적인 일을 증명해, 또, 대함 거포 주의(거대한 주포를 가지는 거대한 전함을 개발·건조해, 보유하는 일은, 그 나라의 해군력의 증명이 된다고 하는, 전함 중심의 생각)의 전환에 대한 시사를 주어 그 후의 세계 각국의 전술·전략에 큰 영향을 여했다」.
그렇지만, 그 한편에 있고, 일본(일본해군)은, 전함 다이와(yamato)의 같은 배를 건조·전력으로서 온존 해, 그 최종적인 위력을 기대하고 있었습니다.다이와(yamato)에는, 당시의 최신 기술이 다수 채용 그런데 있었습니다만, 사상 최대의 전함이라고 하는 발상은, 급속히 시대착오가 되어, (1944년에, 미군의 항공대의, 격렬한 공격을 받아 침몰한, 같은, 일본해군의, 전함 무사시(musashi)(기준 65,000톤.가득 72809톤.두번째의 다이와(yamato) 형 전함.전함 다이와(yamato) 같이, 사상 최대의 전함.1942년)과 같이), 눈에 띈 활약을 하는 무사히, 1945년에, 미군의 항공대의, 격렬한 공격을 받고, 침몰했습니다.
상, 전함 다이와(yamato)(당시의 일본의 최고 기술을 결집해 건조되었다)를, 설계·건조하는 일에 의해서 축적된 기술은, 제이차 세계대전 후의, 일본의 산업·기술에, 응용되어서 도움이 될 수 있었습니다.


 

이호 제 15 잠수함(1940년.기준 2,198톤.상비 2,584톤.수중 3,654톤)의 모형.이호 제 15 잠수함은, 일본해군의 이탈리아 15형 잠수함의 제일 함으로, 약 20척의 동형 잠수함(이탈리아 15형 잠수함)이 만들어졌습니다.이탈리아 15형 잠수함은, 소형 수상 비행기가, 분해·격납된 잠수함으로, 소형 수상 비행기는, 정찰등에 사용되었습니다.또, 이탈리아 15형 잠수함은, 그 장대한 항속력에 의해, 동쪽은 미국 서해안에서 서쪽은 아프리카 동해안까지 활약해, 또 견독잠수함 작전(제이차 세계대전중에 멀게 멀어진 독일과 일본을 묶어, 전략 물자 및 신병기나, 그 부품·도면등 , 또 대사관 첨부 무관·기술사관·민간 기술자등의 일본·독일 양국의 인재의 수송을 실시한, 일본해군의 잠수함에 의한 수차에 걸치는 작전)에, 3척이 선택되어 대서양까지 활약의 장소를 펼쳤습니다(wiki보다).이탈리아 15형 잠수함의, 제이차 세계대전중에 있어서의, 활약은, 이하의 물건등이 있습니다.1942년, WASP(미국 해군의 항공 모함.기준 14,700톤.가득 19166톤.1940년)을 격침(이호 제 19 잠수함).1942년, 미국 본토(California주)를 포격(이호제 17 잠수함).1942년, 잠수함에 탑재된, 소형 비행기에 의한, 미국 본토(Oregon주) 공습(산림 화재에 의한 연소 피해나, 미국인에 공포심을 주는 일등을 기도 한 폭격이며, 사망자·부상자는, 나와 있지 않다) 및, 미국 본토를 포격(이호 제 25 잠수함).덧붙여서, 이탈리아 15형 잠수함(이호 제 25 잠수함)으로부터 날아오른 소형 비행기에 의한, 일본군의, 미국 본토 공습(1942년)은, 역사상, 유일한, 외국의 군용기에 의한, 미국 본토 공습이 되고 있습니다.이탈리아 15형 잠수함은, 미국인에, 미국 본토가 공격받는다고 하는 공포를 준, 일본군의 병기의 하나이다고 말할 수 있겠지요.덧붙여서, 일본해군이, 제이차 세계대전 말기(1944년부터 1945년)에 제조한, 이탈리아 400형 잠수함(수상 공격 비행기를 3기 탑재해, 잠수 항공 모함이라고도 불리고 있다)(아래의 보충 설명 참조)는, 제이차 세계대전중에 취항한 잠수함 중(안)에서, 최대의 물건이었습니다.                                                        ·`노 400형 잠수함:설명은, wiki를 참고로 했습니다.기준 3,530톤.상비 5,223톤.수중 6560톤.이론적으로는, 지구를 일주반 하는 것이 가능이라고 말하는 장대한 항속 거리를 가져, 일본으로부터, 지구상의, 어디에라도 나가고, 임의에 공격을 실시해, 그대로, 일본에 돌아가는 것이 가능함 잠수함.몸집이 큰 선체를 가집니다만, 수중 성능은 양호하고, 급속 잠항에 필요로 하는 시간은, 1분이었습니다.이탈리아 400형 잠수함은, 이탈리아 15형 잠수함에 의한, 미국 본토 공격이 성공하고 있던 1942년에, 18척의 건조가 계획되었습니다만, 전국의 악화와 함께, 계획은, 5척에 축소되어 최종적으로 3척이 완성했습니다(이호 제 400 잠수함(1944년), 이호 제 401 잠수함(1945년), 이호 제 402 잠수함(1945년)).이탈리아 400형 잠수함이, 완성했을 무렵은, 일본해군은, 미군에 의해, 일본 주변의 해상권, 제공권 모두 잃어, 괴멸적인 상태가 되고 있어 이탈리아 400형 잠수함은, 이미, 활약 할 수 있을 기회를 잃고 있었습니다.이탈리아 400형 잠수함은, 상술한 대로, 3척이 완성했습니다만, 모두, 구체적인 전과를 올리기 전에, 일본이, 미국을 중심으로 하는 연합국에 대해서 무조건 항복 해, 제이차 세계대전이 종결했습니다.미군은, 전후 머지 않아, 이탈리아 400형 잠수함을 접수해, 기술 조사를 한 후, 냉전에 의한, 당시의 소련(Soviet) 연방에의 기술 방법 정보의 누설을 무서워해 해 몰처분으로 했습니다(파괴해, 바다에 가라앉혀 처분했습니다).

 

 

제이차 세계대전 이전부터, 일본은, 이미, 세계 유수한 조선기술을 가지고 있던 때문, (그것을 기본으로 발전한, 제이차 세계대전 후의 일본의) 조선업은, 제이차 세계대전 후의, 일본의 경제 부흥과 경제성장의, 주요한 원동력의 하나가 되었습니다.일본의 조선업은, 1956년에, 영국을 제치고, 세계 제일위가 되었습니다(전시의 설명보다...).

 

배의 과학관은, 배의 기계적인 부분(엔진(engine)이나 전기 계통등 )이나, 배의 구조등에 관한 전시도 충실합니다(충실했습니다).사진 이하 6매는, 그, 그저 일례입니다.


 

 

 

 

이것은, 선용의, 가스타빈엔진(gas turbine)의 구조를 설명하는 전시입니다.

 

 

사진 이하 4매.1954년에, 당시의 미츠비시(mitsubishi) 조선 주식회사가, 실용화(제품화)한, 신형의, 선용, 대형 디젤 엔진(diesel engine)의, 개발의 원동력이 된, 선용, 대형 디젤(diesel) 기관의 실험기입니다.이하, 이 실험기의 설명에 대해서는, 전시의 설명문을 참고로 했습니다.당시로서는, 완전히 새로운, 배기가급기를 장비한 때문, 종래의 같은 기관에서는, 1 기통 맞아, 700 마력의 물건이, 1,350 마력까지, 출력을 증대시키는 것이 실증되었습니다.이 대형 실험 기관의 성공에 의해, 실용기의 개발이 진행되어 1954년에, 신형의, 선용, 대형 디젤 엔진(diesel engine)이, 실용화(제품화)되었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

석유 탱커(oil tanker), 유니버스·아일랜드(Universe Ireland)(326,000톤.1968년.미국)의 모형.매우 거대한 모형입니다(사진에 찍히고 있는 것은, 그 극히 일부).유니버스·아일랜드(Universe Ireland)는, 일본제의, 석유 탱커(oil tanker)로, 당시 , 세계 최대의, 석유 탱커(oil tanker)인, 같은 일본제의, 이데미츠환(idemitsumaru)(210,000톤.1966년.일본)을 앞지르고, 세계 최대의, 석유 탱커(oil tanker)가 되었습니다.페르시아만(Persian Gulf)으로부터 유럽에의 석유 수송에 종사했습니다.

 

 

석유 탱커(oil tanker), 일본석유환(nissekimaru)(372,000톤.1971년.일본)의 모형.일본석유환(nissekimaru)은, 건조된 당시 , 세계 최대의 석유 탱커(oil tanker)였습니다.

 

전시에, 1950년대 중반부터 1980년에 걸친, 세계 최대의 석유 탱커(oil tanker)의 변천을 나타내는 도화 있었습니다만, 그것에 따르면, 1950년대 중반부터 1980년에 걸친, 세계 최대의 석유 탱커(oil tanker)의 변천은, 세면대·레어·페트로로아(Sinclair Petrolore)(55,000톤.1955년.미국), 유니버스·리더(Universe Leader)(85,500톤.1956년.미국), 유니버스·아폴로(Universe Apollo)(103,000톤.1959년.미국), 일장환(nisyomaru)(132,000톤.1962년.일본), 도쿄환(tokyomaru)(154,000톤.1966년.일본), 이데미츠환(idemitsumaru)(210,000톤.1966년.일본), 유니버스·아일랜드(Universe Ireland)(326,000톤.1968년.미국), 일본석유환(nissekimaru)(372,000톤.1971년.일본), 그로브틱·토쿄(Globtik Tokyo)(477,000톤.1973년.영국), 닛세이환(nisseimaru)(484,400톤.1975년.일본), 시와이즈쟈이안트(Seawise Giant)(564763톤.1980년.홍콩)되고 있습니다.이상의 11척의 석유 탱커(oil tanker)는, 모두, 일본제(일본의 조선소에서 건조된 것)입니다.덧붙여서, 시와이즈쟈이안트(Seawise Giant)는, 사상 최대의 석유 탱커(oil tanker) 한편, 사상 최대의 배로, 시와이즈쟈이안트(Seawise Giant) 이후, 현재에 이를 때까지, 시와이즈쟈이안트(Seawise Giant)보다 큰, 석유 탱커(oil tanker), 및, 배는, 건조되고 있지 않습니다.

 

현재는, 일본의 조선업이 기세를 잃고 나서, 당분간 지나, 한국과 급속히 힘을 길러 와있는 중국이, 세계의 조선국 대국의 1위와 2위를 싸우는 관계에 있습니다.일본은, 현재는, 세계 유수한 조선국이라고 말할 수 있을지도, 조금 미묘하게 되어 오고 있어(일본의 조선업이, 만회하면, 이야기는 별도입니다만), 최종적으로는, 일본은, 유럽의 규모의 큰 조선 산업을 가지는 나라들과 함께, 세계의 유력한 조선국의 하나에 침착할(나쁘게 말하면, 세계의 유력한 조선국의 하나에 지나지 않게 될) 가능성도 있다고 생각합니다.현재는, 기술력과 생산량의 종합 평가에 대하고, 정말로, 한국이 세계 제일의 조선국이라고 말할 수 있겠지요.

 

 

심해 2000(심해(shinkai) 2000)의 모형.이하, 심해 2000(shinkai2000), 심해 6500(shinkai6500), Trieste호(Trieste)에 대한 설명은, wiki를 참고로 했습니다.심해 2000(shinkai2000)은, 1981년에 완성한, 일본의 심해 조사용의 유인 잠수 조사정(잠수정)입니다.최대 2,000 m의 깊이까지 기어들 수가 있습니다.이, 심해 2000(shinkai2000)의 운용 실적을 바탕으로 개발되어 1990년에 완성한, 일본의 심해 조사용의 유인 잠수 조사정(잠수정), 심해 6500(심해(shinkai) 6500)는, 최대 6,500 m까지(설계상은, 15,000 m앞까지) 기어들 수가 있어 와, 현재, 세계에서, 운용중의 유인 잠수 조사정(잠수정) 중(안)에서, 가장 깊고, 바다에 기어들 수가 있는 것 중의 하나가 되고 있습니다.덧붙여서, 역사상, 가장, 바다에 깊게 기어든 기록을 가지는 유인 잠수 조사정(잠수정)은, 스위스에서 설계된, Trieste호(Trieste)(1953년)로, 1960년에, 10911m의 기록을 남기고 있습니다(가장, Trieste호(Trieste)는, 안전하게 깊게 기어드는 일에 중점을 둔 잠수정이었던 때문, 후에 개발된, 심해 조사용의 유인 잠수 조사정(잠수정)에 비하면, 지속성과 범용성(실용 능력)의 면에서는 뒤떨어지고 있었습니다).

 

아직, 배의 과학관은, 계속 됩니다만, 투고의 편의상, 이 투고로, 이 때의, 오다이바(odaiba) 산책시에 먹은 저녁 식사를 소개합니다.

 

 

사진 이하 4매.이 날의 저녁 식사는, 오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)에서 먹었습니다.

 

오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)은, 오다이바 odaiba)에 있는 쇼핑 몰(shopping mall)의 하나의, 쇼와 30년대(아래의 보충 설명 참조)의, 일본의 서민적인 상가나 거리를 이미지 한 area의 일각(한 구석)에 있습니다.

쇼와 30년대:1950년대 중반부터 1960년대 중반.제이차 세계대전 직후의 혼란은, 일단락했지만, 아직, 경제 부흥의 도중에, 일본은, 아직 궁핍하고, 제이차 세계대전 이전이나 제이차 세계대전 직후의 궁핍함의 자취가 있었던 시대.그 한편에 있고, 누구나가, 일본이 급속히 경제성장을 하고 있는 일을 실감 되어있어 언젠가는, 일본이 구미의 부유인 선진국을 따라 잡아 앞지를 것이라고 하는 희망과 언젠가는, 일본을 구미의 부유인 선진국을 따라 잡아, 앞지르게 해 보인다고 하는 기백으로 가득 차 흘러넘치고 있었던 시대라고 말한 느끼셨습니까...일본은, 제1차 세계 대전(1914년부터 1918년)이 끝나는 무렵에는, 명실보조자에, 공업국 한편 세계의 대국(열강)의 하나가 되었습니다만(일본은, 제1차 세계 대전 후는, 전승국 한편 자본주의 공업국 한편 대국으로서 영국, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, 국제연맹(League ofnations)의 발족시의 상임이사국이 되었습니다), 그 한편, 일본과(일본보다 훨씬 더 전부터, 강력하게 공업화나 인프라(infrastructure) 정비를 추진하고 있던) 영국, 독일, 미국등과의 차이는, 훨씬 크고, 또, 일본은, 도중 , 제이차 세계대전에 대하고, 각 산업이 괴멸적인 손해를 입은 일등도 있고, (일본은), 1960년대 초 무렵까지(특히 1950년대무렵까지)는, 남 유럽 제국(이탈리아, 스페인, 포르투갈(Portugal), 그리스(Greece)) 등과 보조자에, 자본주의 공업국(혹은, 자본주의적인 공업국.제이차 세계대전 후는, 서쪽 선진 공업국) 중(안)에서는, 가장 궁핍하게 후진적인 그룹(group)에 속하고 있었습니다.

 

오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)은, 낙지구이(takoyaki)에 관한 설명 전시등을 수반하는, 오사카의 5개의 인기의 낙지구이(takoyaki) 점이 모인, 푸드 코트(food court)입니다.유사한 시설은, 전부터, 오사카의 쇼핑 몰(shopping mall)에 존재하고 있던 같습니다만, (아마, 그 자매 시설이다), 오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)은, 나누기와 최근 오픈(open)했던(나누기와 최근이라고 말해도, 이제(벌써), 오픈(open)하고 나서, 일년약위 지나는 것일까...덧붙여서, 이 쇼핑 몰(shopping mall)의, 쇼와 30년대의 서민적인 상가나 거리를 이미지 한 area는, 전부터 있었습니다).오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)은, 이 때, 처음으로 이용했습니다.

 

소소(takoyaki)는, 지금은, 일본 전국적인 음식이 되고 있습니다만, 오사카의 대중식의 대표적인 것의 하나로, 오사카는, 일본의 타지역에 비해, 소소(takoyaki) 점의 밀도가 압도적으로 높아지고 있습니다(아마...).

 

사진 이하 3매.이 때, 저희들이, 오다이바(odaiba) 낙지구이(takoyaki) 박물관(museum)에서 먹은, 낙지구이(takoyaki).이것과(사진의 낙지구이(takoyaki) 이외에), 묶는(kukuru)라고 하는 낙지구이(takoyaki) 점의, 아카시(akashi) 구이(낙지구이(takoyaki)를 닮은 음식이지만, 낙지구이(takoyaki)에 비해 계란의 비율이 많은 일, 도구가 기본적으로 낙지만으로 있는 일, 국을 닮은 국물에 담그어 먹는 점등이, 낙지구이(takoyaki)와 다르다.설명은, wiki를 참고로 했습니다)를, 먹었습니다.모두, 둘이서 나누어 먹었습니다.

 

십팔번(jyuhachiban)이라고 말하는, 낙지구이(takoyaki) 점의, 낙지구이(takoyaki).십팔번(jyuhachiban)의 낙지구이(takoyaki)는, 이 때, 처음으로 먹었습니다.여성 점주의 가게에서, 낙지구이(takoyaki)의 천에 우유가 더해지는 일, 낙지구이(takoyaki)에, 하늘 빌려준다(천부라를 올릴 때에 부산물로서 생기는, 튀김 찌꺼기.설명은, wiki로부터 빌려 왔습니다)와 새우의 일종의 분말이, 대량으로 넣을 수 있는 일등이, 특징의, 낙지구이(takoyaki) 점이라고 합니다.

 

 

산(yamachan)라고 말하는, 낙지구이(takoyaki) 점의, 총이, 많이 실린, 낙지구이(takoyaki).산(yamachan)의 낙지구이(takoyaki)는, 이 때, 처음으로 먹었습니다.

 

 

 

낙지구이(takoyaki) 공방 Sea&Sun라고 말하는, 낙지구이(takoyaki) 점의, 낙지구이(takoyaki).낙지구이(takoyaki) 공방 Sea&Sun의 낙지구이(takoyaki)는, 이 때, 처음으로 먹었습니다.개성적인, 낙지구이(takoyaki)를 가지런히 하고 있는 가게였지만, 이 가게에서는, 굳이, 보통(표준적인) 낙지구이(takoyaki)를 사 보았습니다.

 

 

오다이바(odaiba) 산책&음식 후편에 계속 된다...

 

 

덤.낙지구이(takoyaki) 미의 스넥(snack) 과자.전에, kj에 업(uplaod) 한 일이 따뜻한...일본에, 상당히 옛부터 있는 스넥(snack) 과자입니다.

 

 

 

 



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