食べ物

 

 

9月終わりに、お台場(odaiba)を散歩して来た時の物です。

 

お台場(odaiba)は、東京中心部の海沿いに有る、住商複合地区で、1980年代から開発が始まりましたが、本格的な、開発は、1990年代に入ってからで、特に、ほぼ現在の形に整ったのは、1990年代半ばの事です。

 

以下、お台場(odaiba)散歩&食べ物前編からの続き。。。。

 

写真以下15枚。船の科学館の続き。。。船の科学館の詳細については、前回の投稿、「お台場(odaiba)散歩&食べ物前編」を、参照して下さい。

 

 

写真以下15枚。船の科学館(及び、その周辺)。


 

 

船の科学館の建物。船の科学館の建物は、1974年に完成した物で、外観は、60,000トン級の、豪華客船を模した物となっています。

 

 

写真中央に見える大砲の様な物は、船の科学館の屋外展示物の一つで、戦艦、陸奥(mutsu)(基準32,720トン(1936年の大改装後は、基準39,130トン)。1921年。日本)の41cm主砲身の一つです。陸奥(mutsu)は、完成当時、世界最大級の主砲を有する戦艦でした。ちなみに、陸奥(mutsu)は、日本海軍の戦艦、長門(nagato)型戦艦の2番艦として建造されました。長門(nagato)型戦艦の1番艦として建造された、長門(nagato)(基準32,759トン(1936年の大改装後は、基準39,050トン)。1920年。日本)は、完成当時(1920年)、世界最大の主砲(41cm砲)を有する戦艦であると共に、世界最大・最強・最高速の戦艦でした(wikiより)。長門(nagato)型戦艦(長門(nagato)・陸奥(mutsu))は、当時、アメリカ海軍、イギリス海軍と共に、世界三大海軍と言われた、日本海軍の象徴でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚の船は、それぞれ、船の科学館の屋外展示物の一つで、宗谷(soya)(手前の船)と羊蹄丸(yoteimaru)(奥の船)です。

 

 

 

 

 

写真以下2枚。宗谷(soya)(下の補足説明参照)。

 

 

 

 

宗谷(soya)(南極観測船):以下、宗谷(soya)に関する説明は、wikiを参考にしました。宗谷(soya)は、1938年に完成した、日本の砕氷船であり、日本の、初代の南極観測船(南極観測船としてのデビュー(debut)は、1956年)です。宗谷(soya)は、南極観測船として、デビュー(debut)するまで、複雑な歴史を辿っています。宗谷(soya)(1938年に完成)は、元々、当時のソビエト(Soviet)連邦の通商代表部の発注を受けて、日本の造船所(造船会社)が製造した、三隻の砕氷型貨物船の内の一つで、同時に発注を受けた、他の二隻の、砕氷型貨物船同様、当初は、ロシア(Russia)語の船名を持つ船でした。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソビエト(Soviet)連邦への引渡しはなされずに、他の二隻の船と同様、日本語の船名を持つ、日本の商業用の船として完成しました。宗谷(soya)は、ソビエト(Soviet)連邦向けに建造された、耐氷能力(氷に耐える能力)と、当時としては珍しい、当時、世界最新のイギリス製水深探知機(sonar)を備えた、民間貨物船であった為、日本海軍の興味を引いていました。日本海軍は、時勢を鑑み、測量業務が出来、なお且つ、輸送能力を持つ船を探していたのです。しかしながら、宗谷(soya)は、ソビエト(Soviet)連邦との契約問題が、こじれた為、直接、日本海軍には、就役せず、民間の貨物船として、運行していました。1938年12月、日本海軍は、227万5000円を、宗谷(soya)の購入費として計上しました。同年、12月20日、ソビエト(Soviet)連邦通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めました。宗谷(soya)の購入問題は、ソビエト(Soviet)連邦政府が、在ソビエト(Soviet)連邦日本大使に、解決を迫る程の大問題に発展しました。結局、裁判は、1941年1月に、ソビエト(Soviet)連邦政府と在ソビエト(Soviet)連邦日本大使との交渉で政治決着しました。
1940年2月、宗谷(soya)は、正規に、日本海軍所属の船となり、軍事用の船に改装されました。日本海軍は、宗谷(soya)を、千島(chishima)列島・樺太(Sakhalin)等の北方海域の後方補給・物資輸送及び、同海域の、強行測量艦として、運用するつもりでいました。宗谷(soya)は、第二次世界大戦中、戦局の推移により、北洋のみならず、南洋にも進出し、測量・輸送等の任務につきました。
宗谷(soya)は、第二次世界大戦直後は、樺太(Sakhalin)と北海道(hokkaido)の小樽(otaru)の間を往復し、引き上げ者を、次々と、日本本土へと運びました。その後は、海上保安庁所属の、オホーツク(Okhotsk)海配属の、砕氷能力を持つ灯台補給船として、活躍していました。
日本は、1950年代に南極観測を行う事を計画しましたが、IGY(国際地球観測年)南極分科会では、第二次世界大戦で日本に遺恨を持つ複数の国から強硬な反対を受けました。アメリカ、ソビエト(Soviet)連邦等の大国が、支持にまわり、最終的に、日本の南極観測への参加が認められました。ノルウェーが国力不足を理由に南極観測を行わない事を表明した為、当時ノルウェーが領有権を主張していた地域が日本に割り当てらました。これにより、日本は、1956年に南極観測を開始する事を決定しました。南極観測船の候補として、当時の日本国有鉄道所属の、宗谷丸(soyamaru)(1932年に完成した、日本の、本格的な砕氷船。第二次世界大戦以前は、北海道と、当時南半分が日本領だった樺太(Sakhalin)を結ぶ連絡船として活躍。第二次世界大戦後は、青函連絡船(本州(honsyu)と北海道(hokkaido)を結ぶ連絡船に転属)、宗谷(soya)等が選ばれました。砕氷能力や、船の大きさは、宗谷(soya)よりも、宗谷丸(soyamaru)が勝っていましたが、改造予算の問題や耐氷構造(氷に耐える構造)、船運の良さ等から、最終的に、宗谷(soya)が、南極観測船に決定しました。これにより、宗谷(soya)は、南極観測船となる為の、大規模な改装を受けました。

1956年11月、宗谷(soya)は、南極観測船として、東京港より、南極へ出発しました。1957年、1月29日、宗谷(soya)に乗船して来た、日本の第1次南極地域観測隊が、南極に、日本初の南極観測基地である(アジアの国の南極観測基地としても、最初。もっとも、現在でも、日本以外のアジアの国で、南極観測基地を有するのは、インド、中国、韓国、パキスタンのみなのですが。。。)、昭和(syowa)基地(日本の4つある南極観測基地の一つで、日本の主力南極基地となっている。現在は、大小60以上の建物から成る)を開設しました。その後、宗谷(soya)は、1965年に、南極観測船としての任務を、後継の、日本の南極観測船、「ふじ(fuji)」に譲るまで、南極観測船として活躍しました。ちなみに、日本の、現在に至るまでの、歴代の南極観測船は、以下となっています。宗谷(soya)(1956年から1965年)、ふじ(fuji)(1965年から1983年)、しらせ(shirase)(初代)(1983年から2008年)、しらせ(shirase)(二代目)(2009年から)。日本の歴代の、4隻の南極観測船は、宗谷(soya)以外は、全て、最初から南極観測船として、設計され、建造された物です(宗谷(soya)については、上の説明、参照)。

 

 

写真以下2枚。青函連絡船、羊蹄丸(yoteimaru)。

 

奥の船(写真右側の船)が、羊蹄丸(yoteimaru)。

 

 

 

1908年から、1988年までの歴史において、全部で、57隻の青函連絡船(下の補足説明参照)が就航しましたが、羊蹄丸(yoteimaru)(8,311トン)は、50番目に就航した、青函連絡船です(wikiを参考にしました)。1965年に就航し、1988年に、青函連絡船が廃止されるまで、青函連絡船として活躍しました。
青函連絡船:1908年から、1988年まで、青森(aomori。本州(honsyu。日本最大の島。東京圏や、大阪圏、名古屋(nagoua)圏等を有する)の最北端の県である、青森(aomori)県にある中都市で、青森(aomori)県最大の都市。本州(honsyu)にある、大都市・中都市の中で、最北端に位置する)と、函館(hakodate。北海道(hokkaido)の南部にある中都市。北海道(hokkaido)の大都市・中都市(もっとも、北海道(hokkaido)の大都市は、札幌(sapporo)だけですが)の中で、最南端に位置する)を結んでいた、日本国有鉄道が、運営していた(末期の頃は、JR北海道(hokkaido)が運営していた)、連絡船です。まだ飛行機の旅が一般的で無く、北海道(hokkaido)と本州(honsyu)を結ぶ海底トンネル(tunnel)も、まだ完成していなかった時代には、東京から北海道(hokkaido)へ行くには、まず、長距離列車で、本州(honsyu)の東北地方の最北端の青森(aomori)へ行き、そこからフェリー(ferry)(青函連絡船)で北海道(hokkaido)へ渡りました。青函連絡船は、1970年代に、飛行機の利用者の、急速な増加と共に、利用者が、減少し、1988年に、青函(seikan)トンネル(北海道(hokkaido)と本州(honsyu)を結ぶ海底トンネル(tunnel)。全長約54kmの鉄道用のトンネル(tunnel)で、世界一長い、交通機関用のトンネル(tunnel))が開業すると共に、廃止されました。ちなみに、飛行機(での移動)の大衆化によって、東京(や大阪)と北海道(hokkaido)を結ぶ交通手段として、速くて所要時間が短い飛行機が圧倒的に優位な立場にある現在においては(例えば、東京の羽田(haneda)空港と札幌(sapporo。北海道(hokkaido)最大の人口を有する都市)の新千歳(shinchitose)空港を結ぶ航空路線は、2006年には単一航空路線としては世界で初めて年間乗降客が1,000万人を突破し、(近年利用者が減少に転じましたが)直近でも年間900万人以上の利用がある、世界一の巨大航空幹線(1978年、千歳(chitose)空港時代に旅客数世界最多となった)となっています。wikiより)、東京・大阪と北海道(hokkaido)を結ぶ寝台列車は、何れも、速さで勝負する訳ではなく、かと言って、値段(安さ)で勝負する訳でもなく、高級戦略を採り、列車での、ゆとりの有る旅を楽しむ人々の為の、高級な特急列車(express)となっています。

 

宗谷(soya)と羊蹄丸(yoteimaru)は、乗船して見学出来ます(羊蹄丸(yoteimaru)については、厳密には、見学出来ました)が、今回、船の科学館は見納め(船の科学館は、9月末をもって休館(事実上、閉館の可能性もあり)。前回の投稿参照)&船の科学館は、とても、久しぶりに訪れたと言う事で、船の科学館の屋内展示物を、割りと、ゆっくり見ていたら、思った以上に、時間が経ってしまって、時間が足りなくて、(今回)、宗谷(soya)と羊蹄丸(yoteimaru)に乗船出来なかったのが、少し残念でした。

 


 

 

 

 

向こうに見える(写真右側の)、帆船は、日本丸(nipponnmaru)二世。

 

 

 

 

 

写真以下3枚。日本丸(nipponnmaru)二世。

 

日本丸(nipponnmaru)二世(約2,600トン)は、日本の、商業用の船の船員を教育する為の帆船で、1984年に使用が開始されました。姉妹船に、海王丸(kaioumaru)二世があります。世界でも、有数の高速帆船となっています(wikiより。。。)。ちなみに、日本丸(nipponnmaru)二世の前に活躍していた、日本の、商業用の船の船員を養成する帆船、日本丸(nipponnmaru)(約2,300トン。1930年就航。姉妹船に海王丸(kaioumaru)がある)は、現在、横浜の都心部の海沿いに、永久保存・展示されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下5枚。お台場(odaiba)から眺めた、東京都心部の夜景。

 

 

 

 

写真右端に見えるのは、東京tower。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日食べた夕食については、前回の投稿、「お台場(odaiba)散歩&食べ物後編」を参照して下さい。

 

夕食後、venus fortへ移動しました。

 

写真以下15枚。お台場(odaiba)にある、shopping mallの一つ、venus fortにて。。venus fortは、イタリアをイメージした、shopping mallです(ちなみに、アメリカ人や日本人が、イタリアをイメージして作った施設等は、アメリカ人や日本人が、イタリアに対して抱いている、幻想を形にした物なので、(歴史的な重みと言った物は、全くないですが)、実際のイタリアよりも、綺麗で、幻想的だったりしますw)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下11枚。「History Garage」にて。。「History Garage」は、venus fortの、一角(一隅)にある、古い自動車が、展示してあるareaです。「History Garage」では、(少しずつ、展示する自動車を入れ替えながら)、日本国内外の、歴史的に重要な自動車(Citroen 2CV、Jaguar E-Type等)、名自動車(名品と呼ばれる自動車)、個性的な自動車等を展示しています。入場料は、無料ですが、トヨタ(TOYOTA。日本最大の自動車会社。名古屋(nagoya)圏が本拠地)が、(文化活動・広報活動の一環として?)、運営している施設なので、トヨタ(TOYOTA)博物館(トヨタ(TOYOTA)が、運営する、名古屋(nagoya)郊外にある、規模の大きな自動車博物館。日本国内外の、歴史的な自動車の、豊富なコレクション(collection)を有する。私は、訪れた事がありません)から、展示する自動車を借りて来る事が出来るので、ここ(History Garage)で、展示する事が可能な、自動車の種類は、豊富となっています(おそらく。。。)。


 

 

 

 

写真以下10枚。この時、「History Garage」で、展示されていた、自動車の例。

 

メッサーシュミット(Messerschmitt)KR175。ドイツ。1954年式。以下、メッサーシュミット(Messerschmitt)KR175についての説明は、展示の説明を、ほぼ抜粋しました。第二次世界大戦中、数多くの軍用機を製造した、ドイツの飛行機会社、メッサーシュミット(Messerschmitt)社が、1953年から、約10年間生産した、個性的なキャビンスクーター(cabin scooter)です。200ccに満たないエンジン(engine)ながら、最高速は、95kmも出たと言われています。

 

 

Vanden Plas Princess。イギリス。1971年式。以下、Vanden Plas Princessについての説明は、展示の説明を参考にしました。普段は、ロールスロイス(Rolls-Royce)等に乗る、イギリスの上流階級の人々が、混雑する、ロンドンの市街地で乗る為の、小型の高級乗用車として、開発された自動車です。

 

 

BMW Isetta300。ドイツ。1960年式。以下、BMW Isetta300についての説明は、展示の説明を、少し参考にしました。第二次世界大戦で、工場等、多くを失い、倒産の危機にあった、BMWが、イタリアのイソ(Iso)社と、ライセンス生産(他の企業が開発した製品の設計・製造技術を、別の企業が許可料を支払ってそのまま使用し、その製品を生産する事。説明は、wikiから借りました)契約を結び、独自の改良を加えて、1955年から1962年にかけて、生産・販売した超小型自動車(microcar)です。第二次世界大戦からの経済復興途上で、まだ経済的に貧しく(その頃の日本は、(日本と同じく、第二次世界中に壊滅的な被害を受けた)ドイツと比べても、遥かに、貧しかったですが。。。)、その一方で、第二次世界大戦後の急速な経済成長により、チープな(安い)、大衆向けの、超小型自動車(microcar)の需要が高かった、当時のヨーロッパで成功を納めました。

 

 

De Lorean DMC12。アメリカ。1981年式。アメリカにかつて存在した、自動車会社、De Loreanが、生産・販売した、唯一の自動車で、1981年から1982年にかけて、生産・販売された、スポーツカー(sports car)です。De Lorean DMC12は、1985年のアメリカ映画、「Back to the Future」で有名ですね。

 

 

 

日本を代表する、高級自動車である、トヨタ(TOYOTA)クラウン(Crown)の二代目です(1962年から1967年にかけて生産・販売された)。かつて、韓国のDaewooも、韓国内で、生産・販売していた様です。トヨタ(TOYOTA)クラウン(Crown)は、日本を代表する、高級自動車ですが、ここで言う、日本を代表する高級自動車とは、技術(性能)や高級度で、日本を代表する高級自動車と言う意味ではなく、伝統的に、日本で、最も、たくさん売れている、高級自動車と言う意味です(ちなみに、現行の、トヨタ(TOYOTA)クラウン(Crown)は、13代目です)。超高級自動車と言う訳ではなく、昔から、日本人ならば、誰でもが身近な、近所等の、お金持ちが乗っている自動車と言う感じです。例えて言うならば、日本における、トヨタ(TOYOTA)クラウン(Crown)の存在は、アメリカ社会における、CadillacとBuick・Mercuryの中間位の存在(Mercuryは、ドイツと日本の上級自動車に押された事等により、最近、消滅してしまいましたが。。。)、韓国における、現代(Hyundai)Grandeurと言った存在かな。。。

 

 

 1967年に販売が開始された、トヨタ(TOYOTA)2000GT。トヨタ(TOYOTA)が、開発・生産・販売した、最初の高級スポーツカー(sports car)で(おそらく。。。)、少量生産の高級自動車で、一部の金持ちのみが、購入可能でした。あまり詳しくありませんが、総生産台数が少なかった為、現在の中古車相場でも、1,000万円以上、程度の良いものだと2,000万円くらいするみたいです(wikiによれば、トヨタ(TOYOTA)2000GT は、1,500万円から2,500万円の高額で取引されているそうです)。トヨタ(TOYOTA)2000GT は、1966年に、台風による、雨と風による悪条件の中、距離にして、16,000km、時間にして、78時間、連続で、平均時速206km以上で、高速走行を行い、ポルシェ(Porsche)、トライアンフ(Triumph)等が保持していた記録を塗り替え、13の国際記録を樹立しました(wiki等を参考にしました)。

 

写真以下4枚。初代、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)(1981年から1986年まで、生産・販売された)。以下、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)に関しては、展示の説明、wiki等を参考にしました。トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)は、トヨタ(TOYOTA)の、高級自動車の一つで、日本の高級自動車市場において、ベンツ(Mercedes-Benz)のスポーツカー(sports car)的な要素を持つ自動車やBMWに対抗出来る事を目標に開発された、スポーツカー(sports car)的な要素を持つ乗用車(grand tourer)です。高速安定性や操縦性に関しては、ベンツ(Mercedes-Benz)やBMWを目標として開発されましたが、高速安定性と操縦性の総合力において、ベンツ(Mercedes-Benz)・BMWに、近づきはしたとしても、追いつきはしなかったと思います。それを補う為かどうかは、分かりませんが、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)には、最新の、電気・電子技術が、積極的に採用されました。初代、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)には、その後の流行を先取りした液晶(LED)デジタル(digital)メーター(speedometer・tachometer)や、タッチパネル(touchscreen)操作による、コンピューター(computer)制御のエアコン(air conditioner)の採用等、多くの最新技術が盛り込まれました(1980年代に、日本の自動車が、飛躍的な進歩を遂げる、原動力となったのは、電気・電子技術の、自動車への、積極的な採用でした)。1980年代は、日本経済が、勢いがあった時期であり、初代、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)及び、2代目の、トヨタ(TOYOTA)ソアラ(Soarer)(1986年から1991年まで、生産・販売された)は、日本国内市場で、爆発的な人気を得ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

venus fortの、イタリア料理レストランの一つで食べた、デザート。本日の(today’s)ケーキ(cake)。西洋梨とピスタチオ(pistachio)のタルト(tart)。一人一皿ずつ(二人共、同じ物を食べました)。このレストランは、この時を含めて、何回か利用していますが、味は、まあ、総合的に、普通と言った感じですが、雰囲気は、中々良いレストランです。

 

 

お台場(odaiba)散歩&食べ物、終わり。

 

 

 

以下、適当に、おまけ。


 

オニオングラタンスープ(onion gratin soup)味の、Pringles。

 

 

ハロウィーン(Halloween)パッケージ(package)のロッテ(lotte。日本の大手(大規模)菓子会社の一つ。1948年創業。韓国の方は、ご存知の通り、韓国のロッテ(lotte)財閥と関係の深い会社)の、チョコパイ。

 

 

明治(meiji)製菓(日本の大手(大規模)菓子会社の一つ。1916年創業)のチョコレート。

 

 

 

写真以下3枚。パンダのパッケージ(package)のデザイン(design)が個性的な、白カスタード(custard)プリンと、白ココア(cocoa)プリン。マートで、売られている、とても安いプリンですが、上手く作ってあって、個人的には、綺麗に盛り付けられて出てきたら、ちょっとしたレストランのデザートとして出てきても、分からない位の味だと思います。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Ice(d) Espresso」

 

 

 

ブラットオレンジ(blood orange)味の、豆乳。

 

 

 


오다이바(odaiba) 산책&음식 후편

 

 

9월 끝나에, 오다이바(odaiba)를 산책해 왔을 때의 물건입니다.

 

오다이바(odaiba)는, 도쿄 중심부의 해안에 있는, 주상복합 지구에서, 1980년대부터 개발이 시작되었습니다만, 본격적인, 개발은, 1990년대에 들어오고 나서로, 특히, 거의 현재의 형태에 갖추어진 것은, 1990년대 중반의 일입니다.

 

이하, 오다이바(odaiba) 산책&음식 전편으로부터의 계속....

 

사진 이하 15매.배의 과학관의 계속...배의 과학관의 상세한 것에 대하여는, 전회의 투고, 「오다이바(odaiba) 산책&음식 전편」을, 참조해 주세요.

 

 

사진 이하 15매.배의 과학관(및, 그 주변).


 

 

배의 과학관의 건물.배의 과학관의 건물은, 1974년에 완성한 것으로, 외관은, 60,000톤급의, 호화 여객선을 본뜬 것이 되고 있습니다.

 

 

사진 중앙으로 보이는 대포의 같은 것은, 배의 과학관의 옥외 전시물의 하나로, 전함, 무츠(mutsu)(기준 32,720톤(1936년의 대개장 후는, 기준 39,130톤).1921년.일본)의 41 cm주포몸의 하나입니다.무츠(mutsu)는, 완성 당시 , 세계 최대급의 주포를 가지는 전함이었습니다.덧붙여서, 무츠(mutsu)는, 일본해군의 전함, 나가토(nagato) 형 전함의 2번함으로서 건조되었습니다.나가토(nagato) 형 전함의 1번함으로서 건조된, 나가토(nagato)(기준 32,759톤(1936년의 대개장 후는, 기준 39,050톤).1920년.일본)은, 완성 당시 (1920년), 세계 최대의 주포(41 cm포)를 가지는 전함임과 동시에, 세계 최대·최강·최고속의 전함이었습니다(wiki보다).나가토(nagato) 형 전함(나가토(nagato)·무츠(mutsu))는, 당시 , 미국 해군, 영국 해군과 함께, 세계3 대해군이라고 말해진, 일본해군의 상징이었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매의 배는, 각각, 배의 과학관의 옥외 전시물의 하나로, 소우야(soya)(앞의 배)와 참소루쟁이환(yoteimaru)(안쪽의 배)입니다.

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.소우야(soya)(아래의 보충 설명 참조).

 

 

 

 

소우야(soya)(남극 관측선):이하, 소우야(soya)에 관한 설명은, wiki를 참고로 했습니다.소우야(soya)는, 1938년에 완성한, 일본의 쇄빙선이며, 일본의, 초대의 남극 관측선(남극 관측선으로서의 데뷔(debut)는, 1956년)입니다.소우야(soya)는, 남극 관측선으로서 데뷔(debut)할 때까지, 복잡한 역사를 더듬고 있습니다.소우야(soya)(1938년에 완성)는, 원래, 당시의 소련(Soviet) 연방의 통상대표부의 발주를 받고, 일본의 조선소(조선 회사)가 제조한, 3척의 쇄빙형 화물선 중의 하나로, 동시에 발주를 받은, 다른 2척의, 쇄빙형 화물선 같이, 당초는, 러시아(Russia) 어의 선명을 가지는 배였습니다.그러나, 제이차 세계대전 직전의 정세에 귀감 봐, 소련(Soviet) 연방에의 인도는 이루어지지 않고 , 다른 2척의 배와 같이, 일본어의 선명을 가지는, 일본의 상업용의 배로서 완성했습니다.소우야(soya)는, 소련(Soviet) 연방 전용으로 건조된, 내빙능력(얼음에 참는 능력)과 당시로서는 드문, 당시 , 세계 최신의 영국제 수심 탐지기(sonar)를 갖춘, 민간 화물선인 때문, 일본해군의 흥미를 당기고 있었습니다.일본해군은, 시세를 귀감 봐, 측량 업무를 할 수 있어 더 차?`트, 수송 능력을 가지는 배를 찾고 있었습니다.그렇지만, 소우야(soya)는, 소련(Soviet) 연방과의 계약 문제가, 악화된 때문, 직접, 일본해군에는, 취역하지 않고, 민간의 화물선으로서 운행하고 있었습니다.1938년 12월, 일본해군은, 227만 5000엔을, 소우야(soya)의 구입비로 해서 계상했습니다.동년, 12월 20일, 소련(Soviet) 연방 통상부는 도쿄 민사 재판소에 제소해, 선불 건조비의 반환과 위약금의 지불을 요구했습니다.소우야(soya)의 구입 문제는, 소련(Soviet) 연방 정부가, 재소련(Soviet) 연방 일본 대사에, 해결을 강요할 정도의 대문제로 발전했습니다.결국, 재판은, 1941년 1월에, 소련(Soviet) 연방 정부와 재소련(Soviet) 연방 일본 대사라는 교섭으로 정치 결착했습니다.
1940년 2월, 소우야(soya)는, 정규에, 일본해군소속의 배가 되어, 군사용의 배에 개장되었습니다.일본해군은, 소우야(soya)를, 치시마(chishima) 열도·가라후토(Sakhalin) 등의 북방 해역의 후방 보급·물자 수송 및, 동해역의, 강행 측량함으로서 운용할 생각으로 있었습니다.소우야(soya)는, 제이차 세계대전중, 전국의 추이에 의해, 북양 뿐만 아니라, 남양에도 진출해, 측량·수송등의 임무에 다했습니다.
소우야(soya)는, 제이차 세계대전 직후는, 가라후토(Sakhalin)와 홋카이도(hokkaido)의 오타루(otaru)의 사이를 왕복해, 인상자를, 차례차례로, 일본 본토로 옮겼습니다.그 후는, 해상보안청 소속의, Okhotsk(Okhotsk) 해 배속의, 쇄빙 능력을 가지는 등대 보급선으로서 활약하고 있었습니다.
일본은, 1950년대에 남극 관측을 실시하는 일을 계획했습니다만, IGY(국제 지구 관측년) 남극 분과회에서는, 제이차 세계대전에서 일본에 유한을 가지는 복수의 나라로부터 강경한 반대를 받았습니다.미국, 소련(Soviet) 연방등의 대국이, 지지에 주위, 최종적으로, 일본의 남극 관측에의 참가가 인정되었습니다.노르웨이가 국력 부족을 이유로 남극 관측을 실시하지 않는 것을 표명한 때문, 당시 노르웨이가 영유권을 주장하고 있던 지역이 일본에 할당했다.이것에 의해, 일본은, 1956년에 남극 관측을 개시하는 것을 결정했습니다.남극 관측선의 후보로서 당시의 일본 국유철도 소속의, 소우야환(soyamaru)(1932년에 완성한, 일본의, 본격적인 쇄빙선.제이차 세계대전 이전에는, 홋카이도와 당시 남반이 일본령이었던 가라후토(Sakhalin)를 연결하는 연락선으로서 활약.제이차 세계대전 후는, 세이칸 연락선(혼슈(honsyu)와 홋카이도(hokkaido)를 묶는 연락선에 전속), 소우야(soya) 등이 선택되었습니다.쇄빙 능력이나, 배의 크기는, 소우야(soya)보다, 소우야환(soyamaru)이 이기고 있었습니다만, 개조 예산의 문제나 내빙구조(얼음에 참는 구조), 선 운의 좋은 점등으로부터, 최종적으로, 소우야(soya)가, 남극 관측선으로 결정했습니다.이것에 의해, 소우야(soya)는, 남극 관측선이 되기 때문에(위해)의, 대규모 개장을 받았습니다.

1956년 11월, 소우야(soya)는, 남극 관측선으로서 도쿄항에서(보다), 남극에 출발했습니다.1957년, 1월 29일, 소우야(soya)에 승선해 온, 일본의 제1차 남극 지역 관측대가, 남극으로, 일본 최초의 남극 관측 기지이다(아시아의 나라의 남극 관측 기지라고 해도, 최초.무엇보다, 현재에도, 일본 이외의 아시아의 나라에서, 남극 관측 기지를 가지는 것은, 인도, 중국, 한국, 파키스탄만입니다만...), 쇼와(syowa) 기지(일본의 4개 있는 남극 관측 기지의 하나로, 일본의 주력 남극 기지가 되고 있다.현재는, 대소 60이상의 건물로부터 완성된다)를 개설했습니다.그 후, 소우야(soya)는, 1965년에, 남극 관측선으로서의 임무를, 후계의, 일본의 남극 관측선, 「글자(fuji)」에 양보할 때까지, 남극 관측선으로서 활약했습니다.덧붙여서, 일본의, 현재에 이를 때까지의, 역대의 남극 관측선은, 이하가 되고 있습니다.소우야(soya)(1956년부터 1965년), 글자(fuji)(1965년부터 1983년), 해들 키(shirase)(초대)(1983년부터 2008년), 해들 키(shirase)(2대째)(2009년부터).일본의 역대의, 4척의 남극 관측선은, 소우야(soya) 이외는, 모두, 최초부터 남극 관측선으로 해 (이)라고, 설계되어 건조된 것입니다(소우야(soya)에 대해서는, 위의 설명, 참조).

 

 

사진 이하 2매.세이칸 연락선, 참소루쟁이환(yoteimaru).

 

안쪽의 배(사진 우측의 배)가, 참소루쟁이환(yoteimaru).

 

 

 

1908년부터, 1988년까지의 역사에 있고, 전부, 57척의 세이칸 연락선(아래의 보충 설명 참조)이 취항했습니다만, 참소루쟁이환(yoteimaru)(8311톤)은, 50번째에 취항한, 세이칸 연락선입니다(wiki를 참고로 했습니다).1965년에 취항해, 1988년에, 세이칸 연락선이 폐지될 때까지, 세이칸 연락선으로서 활약했습니다.
세이칸 연락선:1908년부터, 1988년까지, 아오모리(aomori.혼슈(honsyu.일본 최대의 섬.동경권이나, 오사카권, 나고야(nagoua) 권등을 가진다)의 최북단의 현인, 아오모리(aomori) 현에 있는 중 도시에서, 아오모리(aomori) 현 최대의 도시.혼슈(honsyu)에 있는, 대도시·안도시안에서, 최북단에 위치한다)와 하코다테(hakodate.홋카이도(hokkaido)의 남부에 있는 중 도시.홋카이도(hokkaido)의 대도시·안도시(가장, 홋카이도(hokkaido)의 대도시는, 삿포로(sapporo) 뿐입니다만)안에서, 최남단에 위치한다)를 연결하고 있던, 일본 국유철도가, 운영하고 있었다(말기의 무렵은, JR홋카이도(hokkaido)가 운영하고 있던), 연락선입니다.아직 비행기의 여행이 일반적이지 않고, 홋카이도(hokkaido)와 혼슈(honsyu)를 연결하는 해저 터널(tunnel)도, 아직 완성하지 않았던 시대에는, 도쿄에서 홋카이도(hokkaido)에 가려면 , 우선, 장거리 열차로, 혼슈(honsyu)의 동북지방의 최북단의 아오모리(aomori)에 가, 거기로부터 페리(ferry)(세이칸 연락선)로 홋카이도(hokkaido)에 건넜습니다.세이칸 연락선은, 1970년대에, 비행기의 이용자의, 급속한 증가와 함께, 이용자가, 감소해, 1988년에, 세이칸(seikan) 터널(홋카이도(hokkaido)와 혼슈(honsyu)를 연결하는 해저 터널(tunnel).전체 길이 약 54 km의 철도용의 터널(tunnel)에서, 세계 제일 긴, 교통기관용의 터널(tunnel))이 개업 함과 동시에, 폐지되었습니다.덧붙여서, 비행기(로의 이동)의 대중화에 의해서, 도쿄(나 오사카)와 홋카이도(hokkaido)를 연결하는 교통 수단으로서 빨라서 소요 시간이 짧은 비행기가 압도적으로 우위인 입장에 있는 현재에 있어(예를 들면, 도쿄의 하네다(haneda) 공항과 삿포로(sapporo.홋카이도(hokkaido) 최대의 인구를 가지는 도시)의 신치토세(shinchitose) 공항을 묶는 항공 노선은, 2006년에는 단일 항공 노선으로서는 세계에서 처음으로 연간 승강객이 1000만명을 돌파해, (근년 이용자가 감소로 변했습니다만) 최근이라도 연간 900만명 이상의 이용이 있는, 세계 제일의 거대 항공 간선(1978년, 치토세(chitose) 공항 시대에 여객수세계 최다가 되었다)가 되고 있습니다.wiki보다), 도쿄·오사카와 홋카이도(hokkaido)를 연결하는 침대 열차는, 어느 쪽도, 속도로 승부하는 것이 아니고, 일까하고 말하고, 가격(쌈)으로 승부하는 것도 아니고, 고급 전략을 뽑아, 열차로의, 여유가 있는 여행을 즐기는 사람들을 위한, 고급 특급 열차(express)가 되고 있습니다.

 

소우야(soya)와 참소루쟁이환(yoteimaru)은, 승선해 견학 할 수 있습니다(참소루쟁이환(yoteimaru)에 대해서는, 엄밀하게는, 견학 할 수 있었습니다)이, 이번, 배의 과학관은 마지막으로 봄(배의 과학관은, 9월말로서 휴관(사실상, 폐관의 가능성도 있어).전회의 투고 참조)&배의 과학관은, 매우, 오랫만에 방문했다고 하는 일로, 배의 과학관의 옥내 전시물을, 나누기와 느긋하게 보고 있으면, 생각한 이상으로, 시간이 지나 버리고, 시간이 부족해, (이번), 소우야(soya)와 참소루쟁이환(yoteimaru)에 승선 할 수 없었던 것이, 조금 유감이었습니다.

 


 

 

 

 

저 편으로 보이는(사진 우측의), 범선은, 닛폰마루(nipponnmaru) 2세.

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.닛폰마루(nipponnmaru) 2세.

 

닛폰마루(nipponnmaru) 2세( 약 2,600톤)은, 일본의, 상업용의 배의 선원을 교육하기 때문에(위해)의 범선으로, 1984년에 사용이 개시되었습니다.자매선에, 바다 오마루(kaioumaru) 2세가 있습니다.세계에서도, 유수한 고속 범선이 되고 있습니다(wiki보다...).덧붙여서, 닛폰마루(nipponnmaru) 2세의 전에 활약하고 있던, 일본의, 상업용의 배의 선원을 양성하는 범선, 닛폰마루(nipponnmaru)( 약 2,300톤.1930년 취항.자매선에 바다 오마루(kaioumaru)가 있다)는, 현재, 요코하마의 도심부의 해안에, 영구 보존·전시되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 5매.오다이바(odaiba)로부터 바라본, 도쿄도심부의 야경.

 

 

 

 

사진 우단으로 보이는 것은, 도쿄 tower.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이 일식저녁 식사에 대해서는, 전회의 투고, 「오다이바(odaiba) 산책&음식 후편」을 참조해 주세요.

 

저녁 식사 후, venus fort에 이동했습니다.

 

사진 이하 15매.오다이바(odaiba)에 있는, shopping mall의 하나, venus fort에서..venus fort는, 이탈리아를 이미지 한, shopping mall입니다(덧붙여서, 미국인이나 일본인이, 이탈리아를 이미지 해 만든 시설등은, 미국인이나 일본인이, 이탈리아에 대해서 안고 있는, 환상을 형태로 한 것이므로, (역사적인 중량감이라고 한 것은, 전혀 없습니다만), 실제의 이탈리아보다, 깨끗하고, 환상적이기도 하고 하는 w).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 11매.「History Garage」에서..「History Garage」는, venus fort의, 일각(한 구석)에 있는, 낡은 자동차가, 전시되어 있는 area입니다.「History Garage」에서는, (조금씩, 전시하는 자동차를 바꿔 넣으면서), 일본 내외의, 역사적으로 중요한 자동차(Citroen 2 CV, Jaguar E-Type등 ), 명자동차(명품으로 불리는 자동차), 개성적인 자동차등을 전시하고 있습니다.입장료는, 무료입니다만, 토요타(TOYOTA.일본 최대의 자동차 회사.나고야(nagoya) 권이 본거지)가, (문화 활동·홍보 활동의 일환으로서?), 운영하고 있는 시설이므로, 토요타(TOYOTA) 박물관(토요타(TOYOTA)가, 운영하는, 나고야(nagoya) 교외에 있는, 규모의 큰 자동차 박물관.일본 내외의, 역사적인 자동차의, 풍부한 콜렉션(collection)을 가진다.나는, 방문한 일이 없습니다)로부터, 전시하는 자동차를 빌려 올 수가 있으므로, 여기(History Garage)에서, 전시하는 것이 가능한, 자동차의 종류는, 풍부가 되고 있습니다(아마...).


 

 

 

 

사진 이하 10매.이 때, 「History Garage」로, 전시되고 있던, 자동차의 예.

 

멧서슈밋트(Messerschmitt) KR175.독일.1954 연형.이하, 멧서슈밋트(Messerschmitt) KR175에 대한 설명은, 전시의 설명을, 거의 발췌했습니다.제이차 세계대전중, 수많은 군용기를 제조한, 독일의 비행기 회사, 멧서슈밋트(Messerschmitt) 사가, 1953년부터, 약 10년간 생산한, 개성적인 캐빈 스쿠터(cabin scooter)입니다.200 cc에 못 미친 엔진(engine)이면서, 최고속은, 95 km도 나왔다고 말해지고 있습니다.

 

 

Vanden Plas Princess.영국.1971 연형.이하, Vanden Plas Princess에 대한 설명은, 전시의 설명을 참고로 했습니다.평상시는, 롤스로이스(Rolls-Royce) 등을 타는, 영국의 상류계급의 사람들이, 혼잡하는, 런던의 시가지에서 타기 때문에(위해)의, 소형의 고급 승용차로서 개발된 자동차입니다.

 

 

BMW Isetta300.독일.1960 연형.이하, BMW Isetta300에 대한 설명은, 전시의 설명을, 조금 참고로 했습니다.제이차 세계대전에서, 공장등 , 대부분을 잃어, 도산의 위기에 있던, BMW가, 이탈리아의 ISO(Iso) 사와 라이센스 생산(다른 기업이 개발한 제품의 설계·제조 기술을, 다른 기업이 허가료를 지불해 그대로 사용해, 그 제품을 생산하는 일.설명은, wiki로부터 빌렸습니다) 계약을 맺어, 독자적인 개량을 더하고, 1955년부터 1962년에 걸치고, 생산·판매한 초소형 자동차(microcar)입니다.제이차 세계대전으로부터의 경제 부흥 도상에서, 아직 경제적으로 궁핍하게(그 무렵의 일본은, (일본과 같이, 제2차 온 세상에 괴멸적인 피해를 받은) 독일과 비교해도, 훨씬 더, 궁핍했습니다만...), 그 한편, 제이차 세계대전 후의 급속한 경제성장에 의해, 저렴한(싸다), 대중용의, 초소형 자동차(microcar)의 수요가 높았다, 당시의 유럽에서 성공을 거두었습니다.

 

 

De Lorean DMC12.미국.1981 연형.미국에 일찌기 존재한, 자동차 회사, De Lorean가, 생산·판매한, 유일한 자동차로, 1981년부터 1982년에 걸치고, 생산·판매된, 스포츠카(sports car)입니다.De Lorean DMC12는, 1985년의 미국 영화, 「Back to the Future」로 유명하네요.

 

 

 

일본을 대표하는, 고급 자동차인, 토요타(TOYOTA) 크라운(Crown)의 2대째입니다(1962년부터 1967년에 걸쳐 생산·판매되었다).일찌기, 한국의 Daewoo도, 한국내에서, 생산·판매하고 있던 같습니다.토요타(TOYOTA) 크라운(Crown)은, 일본을 대표하는, 고급 자동차입니다만, 여기서 말하는, 일본을 대표하는 고급 자동차란, 기술(성능)이나 고급도로, 일본을 대표하는 고급 자동차라고 하는 의미가 아니고, 전통적으로, 일본에서, 가장, 많이 팔리고 있는, 고급 자동차라고 하는 의미입니다(덧붙여서, 현행의, 토요타(TOYOTA) 크라운(Crown)은, 13대째입니다).초고급 자동차라고 말하는 것이 아니고, 옛부터, 일본인이라면, 누구라도 친밀한, 근처등의, 부자가 타고 있는 자동차라고 하는 느낌입니다.비유해 말한다면, 일본에 있어서의, 토요타(TOYOTA) 크라운(Crown)의 존재는, 미국 사회에 있어서의, Cadillac와 Buick·Mercury의 중간위의 존재(Mercury는, 독일과 일본의 상급 자동차에 밀린 일등에 의해, 최근, 소멸하게 되었습니다만...), 한국에 있어서의, 현대(Hyundai) Grandeur라고 한 존재일까...

 

 

 1967년에 판매가 개시된, 토요타(TOYOTA) 2000GT.토요타(TOYOTA)가, 개발·생산·판매한, 최초의 고급 스포츠카(sports car)로(아마...), 소량 생산의 고급 자동차로, 일부의 부자만이, 구입 가능했습니다.별로 자세하지는 않습니다가, 총생산 대수가 적었던 때문, 현재의 중고차 시세에서도, 1,000만엔 이상, 정도가 좋은 것이라면 2,000만엔 정도 하는 것 같습니다(wiki에 의하면, 토요타(TOYOTA) 2000GT 는, 1,500만엔으로부터 2,500만엔의 고액으로 거래되고 있다고 합니다).토요타(TOYOTA) 2000GT 는, 1966년에, 태풍에 의한, 비와 바람에 의한 악조건안, 거리로 하고, 16,000 km, 시간으로 하고, 78시간, 연속으로, 평균 시속 206 km이상으로, 고속 주행을 실시해, 포르셰(Porsche), 트라이안후(Triumph) 등이 보관 유지하고 있던 기록을 바꿔발라 13의 국제 기록을 수립했습니다(wiki등을 참고로 했습니다).

 

사진 이하 4매.초대, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)(1981년부터 1986년까지, 생산·판매되었다).이하, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)에 관해서는, 전시의 설명, wiki등을 참고로 했습니다.토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)는, 토요타(TOYOTA)의, 고급 자동차의 하나로, 일본의 고급 자동차 시장에 있고, 벤츠(Mercedes-Benz)의 스포츠카(sports car)적인 요소를 가지는 자동차나 BMW에 대항 할 수 있는 일을 목표로 개발된, 스포츠카(sports car)적인 요소를 가지는 승용차(grandtourer)입니다.고속 안정성이나 조종성에 관해서는, 벤츠(Mercedes-Benz)나 BMW를 목표로 해 개발되었습니다만, 고속 안정성과 조종성의 종합력에 대하고, 벤츠(Mercedes-Benz)·BMW에, 가까워 짐은 했다고 해도, 쫓아 다하지는 않았다고 생각합니다.그것을 보충하기 때문에(위해) 화도인가는, 모릅니다만, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)에는, 최신의, 전기·전자 기술이, 적극적으로 채용되었습니다.초대, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)에는, 그 후의 유행을 선취한 액정(LED) 디지털(digital) 미터(speedometer·tachometer)나, 터치 패널(touchscreen) 조작에 의한, 컴퓨터(computer) 제어의 에어콘(air conditioner)의 채용등 , 많은 최신 기술이 포함되었습니다(1980년대에, 일본의 자동차가, 비약적인 진보를 이루는, 원동력이 된 것은, 전기·전자 기술의, 자동차에의, 적극적인 채용이었습니다).1980년대는, 일본 경제가, 기세가 있었던 시기여, 초대, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer) 및, 2대째의, 토요타(TOYOTA) 소어러(Soarer)(1986년부터 1991년까지, 생산·판매되었다)는, 일본내 시장에서, 폭발적인 인기를 얻었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

venus fort의, 이탈리아 요리 레스토랑의 하나로 먹은, 디저트.오늘의(today’ s) 케이크(cake).서양 배나무와 피스타치오(pistachio)의 과일 파이(tart).일인일명씩(두 명모두, 같은 물건을 먹었습니다).이 레스토랑은, 이 때를 포함하고, 몇회나 이용하고 있습니다만, 맛은, 뭐, 종합적으로, 보통이라고 한 느낌입니다만, 분위기는, 꽤 좋은 레스토랑입니다.

 

 

오다이바(odaiba) 산책&음식, 마지막.

 

 

 

이하, 적당하게, 덤.


 

양파 그라탕 스프(onion gratin soup) 미의, Pringles.

 

 

할로윈(Halloween) 패키지(package)의 롯데(lotte.일본의 대기업(대규모) 과자 회사의 하나.1948년 창업.한국 분은, 아시는 대로, 한국의 롯데(lotte) 재벌과 관계의 깊은 회사)의, 쵸코파이.

 

 

메이지(meiji) 제과(일본의 대기업(대규모) 과자 회사의 하나.1916년 창업)의 초콜릿.

 

 

 

사진 이하 3매.팬더의 패키지(package)의 디자인(design)이 개성적인, 흰색 카스타드(custard) 푸딩과 흰색 코코아(cocoa) 푸딩.마트에서, 팔리고 있다, 매우 싼 푸딩입니다만, 능숙하게 만들어 있고, 개인적으로는, 깨끗이 담을 수 있어 나오면, 약간의 레스토랑의 디저트로서 나와도, 모르는 정도의 맛이라고 생각합니다.


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Ice(d) Espresso」

 

 

 

브랏트오렌지(blood orange) 미의, 두유.

 

 

 

 



TOTAL: 17672

番号 タイトル ライター 参照 推薦
17672
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そうだ、肉を焼こう。 (11) S-GAIRYOU 04-01 341 0
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日常の食べ物 (11) TeilieD 03-30 320 0
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[食板名物」今日の歌 銀座界隈 03-28 244 1
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博多らーめん 「Shin-Shin 」 (3) adversity 03-23 407 0
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高級立ち飲み居酒屋「かねます」 noreason 03-23 310 0
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 鮮度抜群「鮨國」 wolfandspices 03-23 306 0
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行列が絶えない「博多ごまさば屋」 disappearance 03-23 362 0
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北新地やのにコスパ良すぎの焼肉屋....... severe 03-23 298 0
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学芸大学「bistro11」 cityconnect 03-23 331 0
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広尾商店街の脇にある老舗「キッチ....... nevermoor 03-23 297 0
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博多の鮨名店「鮨 香坂(こうさか)」 jamtoon 03-23 349 0
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恵比寿にある老舗の長崎ちゃんぽん misomania 03-23 328 0
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住宅街にひっそりと佇む「YASAKA(ヤ....... frigid 03-23 325 0