食べ物

 

 

1年強程前の事になりますが、去年の10月の前半、横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。

 

この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。

 

以下、横浜散歩&食べ物3からの続き。。。

 

以下、この展覧会(exhibition)に関する説明の続きです。

 

以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。

 

第二次世界大戦が終わって、1950年代に入ると、(日本を含み)世界的に、外国への渡航手段の主役は、客船ではなく、飛行機に、とって代わられました。いわゆる豪華客船の時代は、終わりを告げ、日本の客船インテリア(内装)の歴史は、しばらく途絶えてしまう事になります。しかしながら、日本が築いた、独特な、客船のインテリア(内装)様式である、「現代日本様式」(前々回の投稿参照)も、豪華客船時代の消滅と共に、完全に消滅してしまったのかと言うと、決して、そうではありませんでした。第二次世界大戦後から1950年代に建造された、日本の外国航路向けの貨物船には、わずか10数名ですが、乗客を乗せる事が出来ました。その為、細々とではありますが、その様な、貨物船の公室(乗客の共有場所)には、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)が、脈々と引き継がれていたのです。船の規模は、随分と小さい物ですが、随所に、日本の伝統的な要素が現れる室内は、豪華客船時代の、日本の客船を彷彿とさせるのに、十分な雰囲気を備えています。

 

 

相模丸(1955年完成。日本の貨物船。三菱(mitsubishi)重工業、横浜造船所製)の1等(first class)サロン(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)。インテリア(内装)を設計したのは、中村 順平(nakamura jyunpei)の弟子である、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro。日本の、内装・産業・工業(industrial)デザイナー(designer)。1903年生まれ。1996年に亡くなる)。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、第二次世界大戦以前に、中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた。前々回の投稿参照)の客船のインテリア(内装)設計を手伝っていた経緯があります。

 

中村 順平(nakamura jyunpei)に学んだ、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、東京家政大学の教授等を務めながら、日本における、現代、室内インテリア(内装)の確立に、大きく貢献しました。1968年には、皇居新宮殿(日本の天皇の、東京の、新しい宮殿の建物(現在の宮殿の建物)。1969年完成)の表御座所(天皇が、日常の執務を行う部屋)の家具の設計も行っています。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)の功績で、特筆すべき点は、第二次世界大戦後における、日本の海外航路向けの貨物船のインテリア(内装)の設計です。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、1948年に、海の神である、「トリトン(Triton)」と言う名前を冠した、デザイン(design)事務所を、東京都心の銀座(ginza)に開設すると、日本の海外航路向けの貨物船の、室内インテリア(内装)の設計の仕事を数多く受けました。当時の、日本の海外航路向けの貨物船には、約12名程度の、乗客を乗せる事が出来ました。そして、その様な貨物船には、わずかながらも、食堂と喫煙室と言う、乗客の為の、公室(乗客の共有場所)が存在しました。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、この、当時の、日本の海外航路向けの貨物船の公室(乗客の共有場所)に、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)で学んだ、「現代日本様式」を引き継ごうとしたのです。そして、漆工芸の工芸家と協力し、小さいながらも、素晴らしい、インテリア(内装)を造り上げたのでした。当時、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が、インテリア(内装)の設計を手がけた、日本の貨物船の数は、分かっているだけでも、14隻以上にのぼります。戦後、装飾を控えた、平坦なモダニズム(modernism)が主流となる中で、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が設計した、日本の貨物船の室内空間は、まるで、豪華客船時代が蘇ったかのような錯覚を起こさせる、日本の伝統工芸を採用した、手の込んだ物でした。

 

写真以下5枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真上。赤城丸2(1951年完成・日本の貨物船)の食堂。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)設計。

 

 

 

 

写真右上。トリトン(Triton)室内装飾事務所のロゴ(logo)(中村 順平(nakamura jyunpei)作。1948年)。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、師匠である、中村 順平(nakamura jyunpei)に、自身の開設したデザイン(design)事務所のロゴ(logo)のデザイン(design)を描いて貰った。

 

 

 

写真左。YAMA(日本の貨物船)の喫煙室カラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。

 

 

 

 

写真右。YAMA(日本の貨物船)の食堂のカラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。

 

 

 

 

駿河丸(1957年完成の、日本の貨物船)の食堂。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)設計。木下 順寛(日本の漆工芸の工芸家)の協力を得て船内装飾設計を行う等、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、師匠である、中村 順平(nakamura jyunpei)の意志を、しっかりと引き継いでいた。

 

 

第二次世界大戦後、飛行機の発展と共に、一時期衰退していた、長距離航路向けの客船でしたが、その後、洋上(海の上)での、優雅なクルーズ(客船での旅)を楽しむ為の豪華客船が、先進国を中心として、脚光を浴びる様になりました。現代の日本の豪華客船のインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」の様な、日本の伝統を前面に押し出した表現方法ではありません。しかし、主要な乗客である日本人が、外国でも落ち着ける様な形で、乗客の共有場所には、漆のパネルを始めとする、日本人作家による作品が飾られているのが特徴です。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真上。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。28,856トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)。インテリア(内装)の設計は、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所と、スウェーデンの客船デザイナー(designer)が、担当。日本を起点とした世界一周クルーズ(cruise)等を行い、豪華な設備と細やかなサービス(service)で、評判が高かったが、2006年に引退。

 

 

 

写真下。飛鳥2(Asuka2)(2006年就航。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。50,142トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)の船内壁画。飛鳥2(Asuka2)の船内には、田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)による、「花筏」の壁画が飾られて、船内を、一層、華やかにしている。

 

 

日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、1961年に客船事業から、全面撤退しました。しかし、益々、高まるクルーズ(豪華客船の旅)需要を背景に、飛鳥(Asuka)の建造計画を立ち上げました。そして、飛鳥(Asuka。1991年完成)の完成と共に、客船事業の復活を果たしました。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所は、日本の伝統と合理性を重んじた、ジャパニーズモダン(Japanese modern)の提唱者として知られる、剣持 勇(kenmochi isamu。日本の有名な、工業(industrial)デザイナー(designer)。1912年生まれ。1971年に亡くなる。1950年代から1960年代にかけて活躍)が、1955年に設立した、デザイン(design)会社です。この剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所が、スウェーデンの客船デザイナー(designer)と共に、飛鳥(Asuka。1991年完成)のインテリア(内装)の設計を手がけています。これは、日本航空(JAL。日本の2大航空会社の一つ。かつての、日本のflag carrier)のBoeing 747 旅客機や、JR東日本(1987年に、日本国有鉄道が、分割民営化された際に、生まれた会社の一つ。日本最大の鉄道会社)の特急(express)スーパーひたち(super hitachi)の車両等の室内設計を手がけていた、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所の実績を、三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所と日本郵船(Nippon Yusen)が、高く評価した結果でした。加えて、豪華客船時代の、橿原丸(kashiharamaru)(前回の投稿参照)の様に、日本の伝統文化を引き継いだ豪華客船を造りたいと言う、船主(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の思いも、少なからず、影響していました。約10年の、飛鳥(Asuka)の構想期間中、日本郵船(Nippon Yusen)では、内装については、様々な議論がなされました。当初は、第二次世界大戦中に、幻と消えた、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史上のみならず、日本の客船の歴史上、最高の豪華客船、橿原丸(kashiharamaru)へのオマージュ(敬意)として、「現代日本様式」の採用が検討されました。しかし、消防法、コスト(cost)等の様々な制約、そして、現代性に欠けると言った理由から見送られる事となりました。そして、最終的に、飛鳥(Asuka)のインテリア(内装)は、華やかさを重視した現代的な内装に、随所に、漆や壁画、そして、日本人作家による美術作品を組み込む手法が選択されました。客船のインテリア(内装)の、世界的な流行を踏襲しながらも、飛鳥(Asuka)が、どこか、日本の豪華客船らしい、ぬくもりを放つは、その為です。この様な、インテリア(内装)は、飛鳥2(Asuka2)(2006就航)にも、引き継がれています。

 

 


写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

飛鳥(Asuka。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。1991年完成)のメインダイニングルーム(main dining room。客船の中心的なレストラン)。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計。

 

 

 

写真上。飛鳥(Asuka)の壁画。「季の奏」。1991年。田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)作。他にも、富永 直樹の彫刻、榎木 啓の漆絵、高岡 雨星の書(calligraphy)等、多くの、日本人artistの美術作品が、飛鳥(Asuka)の船内を華やかに彩っていた。
写真下。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本の豪華客船)のリド・カフェ(Lido Cafe)(剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計)。

 

 

以上、この日、横浜の日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で見て来た、展覧会(exhibition)の説明でした。

 

第2次世界大戦前、日本は、イギリス、アメリカに次ぐ、世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国でした。日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、その世界第3位の海運(shipping・marine transportation)国、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つでした(今でも、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つであると共に、世界有数の海運(shipping・marine transportation)会社となっています)。

 

写真以下4枚の建物は、横浜の都心部の関内(kannai)area(横浜の都心部に有る、横浜の古くからの中心ビジネス(business)地区)にある、1936年に建てられた、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の横浜支店の建物です。堂々とした近代建築です。文化財に指定されている、この建物は、現在でも、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の横浜支店の建物となっていますが、現在では、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の東京areaの事務所機能は、東京本店(東京本社)に集中している為、建物は、主として、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館として、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史を紹介する資料館として使われています。

 

 

 

 

 

写真以下3枚は、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横から見た、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の横浜支店(現在では、主として、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館として、日本郵船(Nippon Yusen)の歴史を紹介する資料館として使われている)の建物。1936年に完成した物です。支店の建物でありながら、堂々とした近代建築です。当時の日本郵船(Nippon Yusen)の勢いを感じます。

 


写真以下2枚。日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館の売店の袋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館のパンフレット(booklet)から。。。第二次世界大戦前(おそらく、1920年代から1930年代頃)の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、世界一周の、客船航路の、海外向け(日本国外向け)のパンフレット(leaflet)。

 

 

 

絵葉書より。。。浅間丸(asamamaru)(下の補足説明参照)の食事メニュー(menu)。絵は、竹久 夢二(takehisa yumeji)(1884年生まれ。1934年に亡くなる。1900年代末頃から1930年代初めまで活躍した、日本の有名な画家、グラフィックデザイナー(graphic designer))が、描いています。
浅間丸(asamamaru):1929年に完成し、運航を開始した、横浜とHonolulu、San Franciscoを結ぶ、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。

 

 

写真以下2枚。日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館の展示より。。。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用。

 

 

1937年の、ある日の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船の夕食を、(蝋で)、再現したものです。

 

 

 

 

これも、1930年代の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社保有の豪華客船の食事を、(蝋で)、再現したものです 。盛り付けは、やや、古臭い(古典的な)感じですが、食事は、現在と、それ程は、変わらないかも知れません。

 

 

この日は、日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、この時、行われていた、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。この展覧会(exhibition)の詳細については、「横浜散歩&食べ物1」から、この投稿(「横浜散歩&食べ物4」)の初めにかけて、説明しています。

 

 

 

向こうに停泊している船は、氷川丸(hikawamaru)。1930年代に、日本と、北米を結ぶ太平洋航路で活躍した、約11,600トン(GT)の、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船(1930年完成and使用開始)です。現在は使用されておらず、横浜の港(横浜の都心部の海沿い)に永久保存され、文化財に指定されると供に、一般公開されています。1930年代当時、アメリカとカナダの会社も、北米と日本の間に、豪華客船を走らせていましたが、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社も、当時、太平洋航路向けの主要な豪華客船としては、氷川丸(hikawamaru)を含め6隻の豪華客船を保有し、日本の横浜と北米を結んでいました。

 

 

 

写真右、氷川丸(hikawamaru)の船尾。向こうに見える、長い大きな桟橋は、大型豪華客船もよく発着する、国際客船 terminalのある、大桟橋(oosanbashi)です。大桟橋(oosanbashi)の奥に停泊している、大きな客船は、飛鳥2(Asuka2)。飛鳥2(Asuka2)(50,142トン(GT))は、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船です。大桟橋(oosanbashi)の手前に停泊している、比較的小さな船は、royal wing。royal wingは、横浜港を遊覧する、レストラン船です。

 

 

写真以下15枚。この日は、ついでに、氷川丸(hikawamaru)も、観て来ました。

 

氷川丸(hikawamaru)のパンフレット(leaflet)。

 

 

 

 

氷川丸(hikawamaru)の内装。パンフレット(leaflet)より。。。前述の通り、氷川丸(hikawamaru)は、1930年代に、日本と、北米を結ぶ太平洋航路で活躍した、約11,600トン(GT)の、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船(1930年完成and使用開始)です。

 

 

写真以下11枚。氷川丸(hikawamaru)の船内にて。。。氷川丸(hikawamaru)は、1930年代当時の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の他の日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ、主な豪華客船2隻と同じで、1930年代当時の、同社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ、主な豪華客船3隻よりも小さく、また、豪華さにおいても、劣っていましたが、喜劇俳優Chaplinが、1932年に来日した際、アメリカに帰る際に、使用しました(Chaplinは、1932年に1回、1936年に2回と、第二次世界大戦前に3回来日しています)。

 

氷川丸(hikawamaru)の内装例。

 

 

 

写真以下2枚。一等(first class)食堂(dining room・レストラン)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

氷川丸(hikawamaru)の内装例。

 

 

写真以下3枚。一等(first class)社交室(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一等(first class)喫煙室(smoking room)。これは、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用。

 

 

写真以下3枚。一等(first class)特別客室(deluxe room)。

 

写真以下2枚。一等(first class)特別客室(deluxe room)の寝室(bedroom)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一等(first class)特別客室(deluxe room)の居間(living room)。

 

 

写真以下2枚。氷川丸(hikawamaru)の船内の、資料展示の中から。。。

 

 

1930年代の、氷川丸(hikawamaru)の、一等(first class)の乗客の、一日の船内での過ごし方の例です。6時に起床。6時から6時半、朝のコーヒー(coffee)を飲む。6時半から8時、船内、デッキ(deck)等を散歩。8時から8時半、朝食。8時半から11時、デッキ(deck)でゴルフ(golf)を楽しむ。11時から11時半、ビーフスープ(beef soup)とクラッカー(cracker)で一息。11時半から12時、デッキ(deck)で輪投げ(quoits)を楽しむ。12時から13時、昼食。13時から15時、昼寝。15時から15時半、アフタヌーンティー(afternoon tea)。15時半から19時、喫煙室(smoking room)(酒(アルコール(alcoholic)飲料)も、煙草も、上級品ばかり揃っていた)で、カードゲーム(card game)を楽しむ。19時から20時半、夕食。20時半から22時、ダンスパーティー(dance party)、映画鑑賞等。22時から22時半、夜食。22時半から23時、手紙を書いたり、入浴等。23時、就寝。

 

 

 

記憶が曖昧ですが、確か、氷川丸(hikawamaru)で、実際に使用された、乗客に、ダンスパーティー(dance party)の開催等を、知らせる、張り紙。

 

 

前述の通り、1930年代当時、アメリカとカナダの会社も、北米と日本の間に、豪華客船を走らせていましたが、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社も、当時、太平洋航路向けの主要な豪華客船としては、氷川丸(hikawamaru)を含め6隻の豪華客船を保有し、日本の横浜と北米を結んでいました。当時の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、太平洋航路向けの主要な豪華客船は、氷川丸(hikawamaru)を含む日本とシアトル(seattle)、バンクーバー(Vancouver)を結ぶ、比較的小さな豪華客船3隻と、日本と、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ比較的大きな豪華客船3隻です。この6隻の中で、代表的な、1929年に完成し、運航を開始した、横浜とホノルル(Honolulu)、サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ浅間丸(asamamaru)は、現存していませんが、他の同社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ豪華客船同様に、氷川丸(hikawamaru)よりも一回り大きく、約17,000トン(GT)あり、また、同社の日本と北米を結ぶ豪華客船の中でも取り分け豪華で、「太平洋の女王」と呼ばれたそうです。 

 

 

日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館のパンフレット(booklet)から。。。浅間丸(asamamaru)の模型。

 

 

 

 

1929年に完成し、運航を開始した、横浜とホノルル(Honolulu),サンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ浅間丸(asamamaru)。他の日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ豪華客船同様に、氷川丸(hikawamaru)よりも一回り大きく(約17,000トン(GT))、船内の豪華さにおいては、氷川丸(hikawamaru)をはるかに上回るものであり(食堂(dining room・レストラン)の内装には、贅沢にイタリア産大理石が使われ、客室内には当時最先端の設備が使われていた。wikiより)、「太平洋の女王」と呼ばれました。

 

 

写真、すぐ下。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、約17,000トン(GT)の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用の食堂(dining room)。

 

写真、すぐ上。浅間丸(asamamaru)、又は、浅間丸(asamamaru)と同じく日本とSan Franciscoを結んだ、浅間丸(asamamaru)と同級の、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の豪華客船、龍田丸(tatsutamaru)(どちらか分からない)の、2等(second class)客用のラウンジ(lounge)。

 

 

 

 

龍田丸(tatsutamaru)の絵葉書より、龍田丸(tatsutamaru)。龍田丸(tatsutamaru)(約17,000トン(GT)。1930年完成。1930年運航開始)は、浅間丸(asamamaru)の姉妹船で、1930年代に、日本とSan Franciscoを結ぶ航路で活躍した、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、浅間丸(asamamaru)と同級の豪華客船です。

 

 

日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、日本と北米を結ぶ航路、日本とヨーロッパを結ぶ航路において、競合他社に対して、優位に立つべく(特に、日本と北米を結ぶ航路においては、完全に優位に立つべく。。。日本とヨーロッパを結ぶ航路には、ドイツの会社等、とても強力な競争相手があった為、仮に、第二次世界大戦が勃発していなくて、新型の豪華客船を投入したとしても、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、優位に立つ事は、出来たとしても、絶対的な優位に立つ事は、出来なかったと思います)、日本と北米を結ぶ航路、日本とヨーロッパを結ぶ航路に、次々と、新しい豪華客船を加える事を計画し、1930年代半ば以降、次々と起工させましたが、第2次世界大戦により、これ等、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の新たな豪華客船は、いずれも、建造途中に軍事用の船に変更されたか、又は、純粋な客船として活躍したのは、極僅かな期間であり、すぐに、軍事用の船へと改造される等しました。これ等の日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の、日本と北米を結ぶ太平洋航路用の、新たな豪華客船の中に、幻の豪華客船、橿原丸(kashiharamaru)(27,700トン(GT))が有ります。橿原丸(kashiharamaru)は、豪華さにおいて、浅間丸(asamamaru)を、さらに、遥かに上回る予定で有り、日本の客船史上、最も豪華な客船となる予定で有りましたが、第2次世界大戦により、建造途中で、空母に変更されました(空母、隼鷹(jyunyou)。ちなみに、日本郵船(Nippon Yusen)の、日本と北米を結ぶ太平洋航路用の、新たな豪華客船の内の一つで有り、橿原丸(kashiharamaru)と同級の豪華客船として就航する予定で有った出雲丸(izumomaru)(27,700トン(GT))も、やはり、建造途中で、空母に変更されました(空母、飛鷹(hiyou))。

 

 

写真以下2枚。向こうに見える、長い大きな桟橋は、大型豪華客船もよく発着する、国際客船 terminalのある、大桟橋(oosanbashi)です。大桟橋(oosanbashi)の奥に停泊している、大きな客船は、飛鳥2(Asuka2)。飛鳥2(Asuka2)(50,142トン(GT))は、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船です。大桟橋(oosanbashi)の手前に停泊している、比較的小さな船は、royal wing。royal wingは、横浜港を遊覧する、レストラン船です。

 

 

手前に停泊している、比較的小さな船は、royal wingです。royal wing(2,876トン(GT))は、元々、大阪と九州(kyusyu)(日本の南部)の別府(beppu)温泉(日本最大級の温泉保養地)を結ぶ航路で活躍していた、日本の、国内航路用の小型の豪華客船、「紅(くれない)丸(kurenaimaru)」(下の補足説明参照)でした。
紅(くれない)丸(kurenaimaru):説明は、wikiを参考にしました。1912年、大阪と別府(beppu)温泉を結ぶ航路に、ドイツ製の日本の客船、初代、「紅(くれない)丸(kurenaimaru)」が就航。1928年に、二代目、「紅(くれない)丸(kurenaimaru)」が就航。1959年には、三代目、「くれない丸(kurenaimaru)」が建造され、三代目、「くれない丸(kurenaimaru)」は、1960年に、大阪と別府(beppu)温泉を結ぶ航路に就航しました。三代目、「くれない丸(kurenaimaru)」は、1980年に引退。後に改装され、横浜港を遊覧する、レストラン船、royal wingとなりました。


 

royal wingは、横浜に、世界的に見ても、規模の大きな中華街(chinatown)(500以上の店舗を有する、世界最大級の中華街(chinatown))が有る事を反映してか(中華街(chinatown)は、横浜の重要な観光資源の一つとなっています)、香港で活躍していた、中国人?料理人(cook)が、シェフ(chef)を務める、広東(Cantonese )料理系の中国料理のレストラン船となっています。なお、royal wingとは、別の会社の船(別の会社の経営)ですが、マリーンルージュ(marine rouge)と言う、横浜港を遊覧する、フランス料理のレストラン船も有ります(royal wingよりも小さな船)。

 

 

 

 

 

 

 

写真以下9枚。この日の夕食は、横浜都心部の海沿いに建つ、横浜マリンタワー(marine tower)のレストランで食べました。

 

横浜の都心部の海沿いに建つ、横浜マリンタワー(marine tower)。1961年に完成した、高さ106mの塔です。横浜を象徴する建物の一つとなっています。神戸(kobe)のポートタワー(port tower)と供に、1950年代から1960年代初めにかけての、日本の大都市における、高層タワー(tower)建設ブーム(boom)の末期に建てられたタワー(tower)です。かつては、灯台としての機能を持っていて、ギネスブック(Guiness book)に、世界一の高さの灯台として記載されていました。

 

 

横浜マリンタワー(marine tower)には、展望台の他、レストラン、cafe、bar等が入っています。

 

 

写真右側は、横浜マリンタワー(marine tower)のcafe。横浜マリンタワー(marine tower)のcafeは、1階にあります。

 

 

 

写真以下7枚。この日の夕食は、横浜マリンタワー(marine tower)のレストランで食べました。横浜マリンタワー(marine tower)の4階がレストランになっています。このレストランは、この時、初めて利用しました。

 

 

このレストランの内装。

 

 

写真以下6枚。このレストランで食べた、この日の夕食。これに、パンが付きます。写真以下4枚は、全て、一人一皿ずつです。

 

 

一皿目の前菜。兎肉。

 

 

 

 

二皿目の前菜。秋刀魚を使った前菜。金美(kinbi)人参(日本の沖縄(okinawa)原産の人参の一つ)と葡萄のサラダ(salad)と共に。。。

 

 

 

 

茸とブイヨン(bouillon)のスープ(soup)。

 

 

 

 

 

メイン(main)料理。ローストビーフ(roast beef)。

 

 

 

写真以下2枚。デザート(dessert)。

 

 

 

私が食べた、サツマイモ(sweet potato)のアイスクリーム(ice cream)等。

 

 

 

 

 

彼女が食べた、ガレット(galette)を使ったデザート(dessert)。

 

 

 

写真以下、夕食後は、大桟橋(oosanbashi)に行きました。大桟橋(oosanbashi)は、横浜都心部の海際にある、大型豪華客船もよく発着する、国際ferry terminalのある、大きな桟橋です。大桟橋(oosanbashi)は、神戸(kobe)にある、神戸(kobe)ポートターミナル(port terminal)(1922年完成。50,000トン(GT)級程度の豪華客船ならば、同時に4隻着岸できる)には及びませんが、クイーンエリザベス2(RMS Queen Elizabeth 2。70,327トン(GT))級の、豪華客船ならば、同時に2隻着岸でき、30,000トン(GT)以下の豪華客船ならば、同時に4隻着岸する事が可能となっています。

 

写真以下3枚。写真中央。大桟橋(oosanbashi)から眺めた、夜の氷川丸(hikawamaru)。写真右側、大桟橋(oosanbashi)から眺めた、横浜マリンタワー(marine tower)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真以下3枚。散歩しながら、大桟橋(oosanbashi)に歩いて行く途中にて。。。

 

写真以下2枚。夜の氷川丸(hikawamaru)。写真左端に見える橋は、横浜bay bridge。1989年に完成した、大きな斜張橋(cable-stayed bridge)です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大桟橋(oosanbashi)と、大桟橋(oosanbashi)に停泊中の、飛鳥2(Asuka2)。

 

 

写真以下11枚。飛鳥2(Asuka2)。飛鳥2(Asuka2)(50,142トン(GT))は、日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船です。日本を起点とした世界一周クルーズ(cruise)等を行っています。他の日本の(日本の会社が保有する)豪華客船同様、乗客の、ほとんどは、日本人の様です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。写真右端に見える大きな観覧車は、Cosmo Clock。かつて、世界最大の観覧車であった、横浜の都心部の海沿いにある大きな観覧車です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「横浜散歩&食べ物」、終り。。。

 

 

 

 


요코하마 산책&음식 4.

 

 

1 년 남짓정전의 일이 됩니다만, 작년의 10월의 전반, 요코하마를 산책해 왔을 때의 물건입니다.요코하마는, 도쿄 area의 바다의 현관문(gateway)이 되고 있는, 큰 항구도시입니다.이 날은, 요코하마의 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관에서, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)의 역사에 관한, 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.

 

이 전람회(exhibition)는, 주로, 제이차 세계대전전의, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 건축가의 활약에 초점을 맞힌 전람회(exhibition)였습니다.

 

이하, 요코하마 산책&음식 3으로부터의 계속...

 

이하, 이 전람회(exhibition)에 관한 설명의 계속입니다.

 

이하, 이 전람회(exhibition)의 설명은, 주로, 이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)의 문장을, 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.

 

제이차 세계대전이 끝나고, 1950년대에 들어오면, (일본을 포함해) 세계적으로, 외국에의 도항 수단의 주역은, 여객선이 아니고, 비행기에, 대신해졌습니다.이른바 호화 여객선의 시대는, 마지막을 고해 일본의 여객선 인테리어(내장)의 역사는, 당분간 끊어져 버리는 일이 됩니다.그렇지만, 일본이 쌓아 올린, 독특한, 여객선의 인테리어(내장) 양식인, 「현대 일본 양식」(전전번의 투고 참조)도, 호화 여객선 시대의 소멸과 함께, 완전하게 소멸하게 되었는지라고 말하면, 결코, 그렇지는 않았습니다.제이차 세계대전 후부터 1950년대에 건조된, 일본의 외국항로 전용의 화물선에는, 불과 10수명입니다만, 승객을 태울 수가 있었습니다.그 때문에, 세들과는 있습니다만, 그 같은, 화물선의 공실(승객의 공유 장소)에는, 전쟁 전의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)가, 맥들과 인계되고 있었습니다.배의 규모는, 상당히 작은 것입니다만, 여기저기에, 일본의 전통적인 요소가 나타나는 실내는, 호화 여객선 시대의, 일본의 여객선을 방불과 시키는데, 충분한 분위기를 갖추고 있습니다.

 

 

사가미환(1955년 완성.일본의 화물선.미츠비시(mitsubishi) 중공업, 요코하마 조선소제)의 1등 (first class) 살롱(승객이, 느긋하게 쉬거나 교류하거나 하는 방).인테리어(내장)를 설계한 것은, 나카무라순평(nakamura jyunpei)의 제자인, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro.일본의, 내장·산업·공업(industrial) 디자이너(designer).1903 년생.1996년에 죽는다).오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 제이차 세계대전 이전에, 나카무라순평(nakamura jyunpei.일본의 건축가.일본의 건축가중에서, 제이차 세계대전 이전에 있고, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)의 설계를, 가장 많이 다루었다.전전번의 투고 참조)의 여객선의 인테리어(내장) 설계를 돕고 있던 경위가 있습니다.

 

나카무라순평(nakamura jyunpei)에 배운, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 도쿄 가정대학의 교수등을 맡으면서, 일본에 있어서의, 현대, 실내 인테리어(내장)의 확립에, 크게 공헌했습니다.1968년에는, 황궁 싱구전(일본의 천황의, 도쿄의, 새로운 궁전의 건물(현재의 궁전의 건물).1969년 완성)의 겉(표) 거실(천황이, 일상의 집무를 실시하는 방)의 가구의 설계도 가고 있습니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)의 공적으로, 특필해야 할 점은, 제이차 세계대전 후에 있어서의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의 인테리어(내장)의 설계입니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 1948년에, 바다의 신인, 「새 톤(Triton)」이라고 하는 이름을 씌운, 디자인(design) 사무소를, 도쿄도심의 긴자(ginza)에 개설하면, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의, 실내 인테리어(내장)의 설계의 일을 많이 받았습니다.당시의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선에는, 약 12명 정도의, 승객을 태울 수가 있었습니다.그리고, 그 같은 화물선에는, 조금이나마, 식당과 흡연실이라고 말하는, 승객을 위한, 공실(승객의 공유 장소)이 존재했습니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumihakuichiro)는, 이, 당시의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의 공실(승객의 공유 장소)에, 전쟁 전의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)로 배운, 「현대 일본 양식」을 계승하려고 했습니다.그리고, 옻나무 공예의 공예가와 협력해, 작으면서, 훌륭한, 인테리어(내장)를 완성시켰던 것입니다.당시 , 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)가, 인테리어(내장)의 설계를 다룬, 일본의 화물선의 수는, 알고 있는 것만으로도, 14척 이상에 달합니다.전후, 장식을 가까이 둔, 평탄한 모더니즘(modernism)이 주류가 되는 가운데, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)가 설계한, 일본의 화물선의 실내 공간은, 마치, 호화 여객선 시대가 소생한 것 같은 착각을 일으키게 하는, 일본의 전통 공예를 채용한, 공이 많이 든 것이었습니다.

 

사진 이하 5매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진상.아카기환 2(1951년 완성·일본의 화물선)의 식당.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro) 설계.

 

 

 

 

사진 우상.새 톤(Triton) 실내장식 사무소의 로고(logo)(나카무라순평(nakamura jyunpei) 작.1948년).오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 스승인, 나카무라순평(nakamura jyunpei)에, 자신의 개설한 디자인(design) 사무소의 로고(logo)의 디자인(design)을 그려 받았다.

 

 

 

사진왼쪽.YAMA(일본의 화물선)의 흡연실 칼라 스킴(오이즈미 하쿠이치로우(nakamura jyunpei) 설계.제작년 미상).

 

 

 

 

사진 오른쪽.YAMA(일본의 화물선)의 식당의 칼라 스킴(오이즈미 하쿠이치로우(nakamura jyunpei) 설계.제작년 미상).

 

 

 

 

스루가환(1957년 완성의, 일본의 화물선)의 식당.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro) 설계.키노시타순관(일본의 옻나무 공예의 공예가)의 협력을 얻어 선내 장식 설계를 실시하는 등 , 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 스승인, 나카무라순평(nakamura jyunpei)의 의지를, 제대로 계승하고 있었다.

 

 

제이차 세계대전 후, 비행기의 발전과 함께, 한시기 쇠퇴하고 있던, 장거리 항로 전용의 여객선이었지만, 그 후, 해상(바다 위)으로의, 우아한 크루즈(여객선으로의 여행)를 즐기기 때문에(위해)의 호화 여객선이, 선진국을 중심으로서 각광을 받는 것처럼 되었습니다.현대의 일본의 호화 여객선의 인테리어(내장)는, 호화 여객선 시대의, 「현대 일본 양식」의 같은, 일본의 전통을 전면에 밀어 낸 표현 방법이 아닙니다.그러나, 주요한 승객인 일본인이, 외국에서도 안정시키는 것 같은 형태로, 승객의 공유 장소에는, 옻나무의 패널을 시작으로 하는, 일본인 작가에 의한 작품이 장식되어 있는 것이 특징입니다.

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진상.아스카(Asuka.1991년 완성.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.28,856톤(GT).미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소제).인테리어(내장)의 설계는, 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소와 스웨덴의 여객선 디자이너(designer)가, 담당.일본을 기점으로 한 세계일주 크루즈(cruise) 등을 실시해, 호화로운 설비와 자그마한 서비스(service)로, 평판이 높았지만, 2006년에 은퇴.

 

 

 

사진하.아스카 2(Asuka2)(2006년 취항.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.50,142톤(GT).미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소제)의 선내 벽화.아스카 2(Asuka2)의 선내에는, 타무라능수양 자식(tamura noriko.일본의 여성, 화가·벽화가.1944 년생)에 의한, 「층층나무과의 낙엽저목」의 벽화가 장식되고, 선내를, 한층, 화려하게 하고 있다.

 

 

일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 1961년에 여객선 사업으로부터, 전면 철퇴했습니다.그러나, 더욱 더, 높아지는 크루즈(호화 여객선의 여행) 수요를 배경으로, 아스카(Asuka)의 건조 계획을 시작했습니다.그리고, 아스카(Asuka.1991년 완성)의 완성과 함께, 여객선 사업의 부활을 완수했습니다.켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소는, 일본의 전통과 합리성을 존중한, 재패니스 모던(Japanese modern)의 제창자로서 알려진, 겐모치 이사무(kenmochi isamu.일본의 유명한, 공업(industrial) 디자이너(designer).1912 년생.1971년에 죽는다.1950년대부터 1960년대에 걸쳐 활약)이, 1955년에 설립한, 디자인(design) 회사입니다.이 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소가, 스웨덴의 여객선 디자이너(designer)와 함께, 아스카(Asuka.1991년 완성)의 인테리어(내장)의 설계를 다루고 있습니다.이것은, 일본 항공(JAL.일본의 2대항공 회사의 하나.한 때의, 일본의 flag carrier)의 Boeing 747여객기나, JR동일본(1987년에, 일본 국유철도가, 분할 민영화되었을 때에, 태어난 회사의 하나.일본 최대의 철도 회사)의 특급(express) 슈퍼히들(super hitachi)의 차량등의 실내 설계를 다루고 있던, 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소의 실적을, 미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소와 일본우선(Nippon Yusen)이, 높게 평가한 결과였습니다.더하고, 호화 여객선 시대의, 카시하라환(kashiharamaru)(전회의 투고 참조)와 같이, 일본의 전통 문화를 계승한 호화 여객선을 만들고 싶다고 하는, 선주(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 생각도, 많이, 영향을 주고 있었습니다.약 10년의, 아스카(Asuka)의 구상 기간중, 일본우선(Nippon Yusen)에서는, 내장에 대해서는, 여러가지 논의가 이루어졌습니다.당초는, 제이차 세계대전중에, 환상과 사라진, 일본우선(NipponYusen) 주식회사의 역사상 뿐만 아니라, 일본의 여객선의 역사상, 최고의 호화 여객선, 카시하라환(kashiharamaru)에의 존경(경의)으로서 「현대 일본 양식」의 채용이 검토되었습니다.그러나, 소방법, 코스트(cost) 등의 여러가지 제약, 그리고, 현대성이 부족하다고 한 이유로부터 보류되는 일이 되었습니다.그리고, 최종적으로, 아스카(Asuka)의 인테리어(내장)는, 화려함을 중시한 현대적인 내장에, 여기저기에, 옻나무나 벽화, 그리고, 일본인 작가에 의한 미술 작품을 짜넣는 수법이 선택되었습니다.여객선의 인테리어(내장)의, 세계적인 유행을 답습하면서도, 아스카(Asuka)가, 어딘가, 일본의 호화 여객선인것 같은, 온기를 발하고는, 그 때문입니다.이와 같은, 인테리어(내장)는, 아스카 2(Asuka2)(2006 취항)에도, 인계되고 있습니다.

 

 


사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

아스카(Asuka.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.1991년 완성)의 메인 식당(main dining room.여객선의 중심적인 레스토랑).켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소 설계.

 

 

 

사진상.아스카(Asuka)의 벽화.「계의 주」.1991년.타무라능수양 자식(tamura noriko.일본의 여성, 화가·벽화가.1944 년생) 작.그 밖에도, 토미나가나오키의 조각, 에노키계의 풍속도 판화, 타카오카우성의 책(calligraphy) 등 , 많은, 일본인 artist의 미술 작품이, 아스카(Asuka)의 선내를 화려하게 물들이고 있었다.
사진하.아스카(Asuka.1991년 완성.일본의 호화 여객선)의 리드·카페(Lido Cafe)(켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소 설계).

 

 

이상, 이 날, 요코하마의 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관에서 보고 온, 전람회(exhibition)의 설명이었습니다.

 

제2차 세계대전전, 일본은, 영국, 미국에 뒤잇는, 세계 제 3위의 해운(shipping·marine transportation) 국이었습니다.일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 그 세계 제 3위의 해운(shipping·marine transportation) 국, 일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 하나였습니다(지금도, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 하나임과 동시에, 세계 유수한 해운(shipping·marine transportation) 회사가 되고 있습니다).

 

사진 이하 4매의 건물은, 요코하마의 도심부의 칸나이(kannai) area(요코하마의 도심부에 있는, 요코하마의 옛부터의 중심 비지니스(business) 지구)에 있는, 1936년에 지어진, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 요코하마 지점의 건물입니다.당당한 근대 건축입니다.문화재로 지정되어 있는, 이 건물은, 현재에도, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 요코하마 지점의 건물이 되고 있습니다만, 현재는, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 도쿄 area의 사무소 기능은, 도쿄 본점(도쿄 본사)에 집중하고 있기 때문에(위해), 건물은, 주로, 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관으로서 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 역사를 소개하는 자료관으로서 사용되고 있습니다.

 

 

 

 

 

사진 이하 3매는, 전에, enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

옆으로부터 본, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 요코하마 지점(현재는, 주로, 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관으로서 일본우선(Nippon Yusen)의 역사를 소개하는 자료관으로서 사용되고 있다)의 건물.1936년에 완성한 것입니다.지점의 건물이면서, 당당한 근대 건축입니다.당시의 일본우선(Nippon Yusen)의 기세를 느낍니다.

 


사진 이하 2매.일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관의 매점의 봉투.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관의 팜플렛(booklet)으로부터...제이차 세계대전전(아마, 1920년대부터 1930년대무렵)의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의, 세계일주의, 여객선 항로의, 해외 겨냥(일본 외국용)의 팜플렛(leaflet).

 

 

 

그림 엽서보다...아사마환(asamamaru)(아래의 보충 설명 참조)의 식사 메뉴(menu).그림은, 타케히사 무지(takehisa yumeji)(1884 년생.1934년에 죽는다.1900년대말 무렵부터 1930년대 초까지 활약한, 일본의 유명한 화가, 그래픽 디자이너(graphic designer))가, 그리고 있습니다.
아사마환(asamamaru):1929년에 완성해, 운항을 개시한, 요코하마와 Honolulu, San Francisco를 묶는, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.

 

 

사진 이하 2매.일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관의 전시보다...전에 enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용.

 

 

1937년의, 어느 날의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 호화 여객선의 저녁 식사를, (납으로), 재현한 것입니다.

 

 

 

 

이것도, 1930년대의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사 보유의 호화 여객선의 식사를, (납으로), 재현한 것입니다 .담음은, 약간, 낡은(고전적인) 느낌입니다만, 식사는, 현재와 그렇게는, 변함없을지도 모릅니다.

 

 

이 날은, 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관에서, 이 때, 행해지고 있던, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)의 역사에 관한, 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.이 전람회(exhibition)의 상세한 것에 대하여는, 「요코하마 산책&음식 1」으로부터, 이 투고( 「요코하마 산책&음식 4」)의 처음에 걸치고, 설명하고 있습니다.

 

 

 

저 편으로 정박하고 있는 배는, 히카와환(hikawamaru).1930년대에, 일본과 북미를 연결하는 태평양 항로에서 활약한, 약 11,600톤(GT)의, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선(1930년 완성 and 사용 개시)입니다.현재는 사용되지 않고, 요코하마의 항구(요코하마의 도심부의 해안)에 영구 보존 되어 문화재로 지정되면 보조자에, 일반 공개되고 있습니다.1930년대 당시 , 미국과 캐나다의 회사도, 북미와 일본의 사이에, 호화 여객선을 달리게 하고 있었습니다만, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사도, 당시 , 태평양 항로 전용의 주요한 호화 여객선으로서는, 히카와환(hikawamaru)을 포함 6척의 호화 여객선을 보유해, 일본의 요코하마와 북미를 연결하고 있었습니다.

 

 

 

사진 오른쪽, 히카와환(hikawamaru)의 선미.저 편으로 보이는, 긴 큰 부두는, 대형 호화 여객선도 자주(잘) 발착하는, 국제 여객선 terminal가 있는, 대부두(oosanbashi)입니다.대부두(oosanbashi)의 안쪽에 정박하고 있는, 큰 여객선은, 아스카 2(Asuka2).아스카 2(Asuka2)(50,142톤(GT))은, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선입니다.대부두(oosanbashi)의 앞에 정박하고 있는, 비교적 작은 배는, royal wing.royal wing는, 요코하마항을 유람 하는, 레스토랑선입니다.

 

 

사진 이하 15매.이 날은, 하는 김에, 히카와환(hikawamaru)도, 봐 왔습니다.

 

히카와환(hikawamaru)의 팜플렛(leaflet).

 

 

 

 

히카와환(hikawamaru)의 내장.팜플렛(leaflet)보다...상술한 대로, 히카와환(hikawamaru)은, 1930년대에, 일본과 북미를 연결하는 태평양 항로에서 활약한, 약 11,600톤(GT)의, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선(1930년 완성 and 사용 개시)입니다.

 

 

사진 이하 11매.히카와환(hikawamaru)의 선내에서...히카와환(hikawamaru)은, 1930년대 당시의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 다른 일본과 시애틀(seattle), 밴쿠버(Vancouver)를 묶는다, 주된 호화 여객선 2척과 같고, 1930년대 당시의, 동사의 일본과 샌프란시스코(San Francisco)를 연결한다, 주된 호화 여객선 3척보다 작고, 또, 호화로움냄새나도, 뒤떨어지고 있었습니다만, 희극 배우 Chaplin가, 1932년에 일본 방문했을 때, 미국에 돌아갈 때에, 사용했습니다(Chaplin는, 1932년에 1회, 1936년에 2회로 제이차 세계대전전에 3회 일본 방문하고 있습니다).

 

히카와환(hikawamaru)의 내장예.

 

 

 

사진 이하 2매.일등(first class) 식당(dining room·레스토랑).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

히카와환(hikawamaru)의 내장예.

 

 

사진 이하 3매.일등(first class) 사교실(승객이, 느긋하게 쉬거나 교류하거나 하는 방).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

일등(first class) 흡연실(smoking room).이것은, 전에, enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용.

 

 

사진 이하 3매.일등(first class) 특별 객실(deluxe room).

 

사진 이하 2매.일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 침실(bedroom).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 거실(living room).

 

 

사진 이하 2매.히카와환(hikawamaru)의 선내의, 자료 전시중에서...

 

 

1930년대의, 히카와환(hikawamaru)의, 일등(first class)의 승객의, 하루의 선내에서의 생활 방법의 예입니다.6시에 기상.6시부터 6시 반, 아침의 커피(coffee)를 마신다.6시 반부터 8시, 선내, 데크(deck) 등을 산책.8시부터 8시 반, 아침 식사.8시 반부터 11시, 데크(deck)로 골프(golf)를 즐긴다.11시부터 11시 반, 비프 스프(beef soup)와 크래커(cracker)로 한숨.11시 반부터 12시, 데크(deck)로 고리던지기(quoits)를 즐긴다.12시부터 13시, 점심 식사.13시부터 15시, 낮잠.15시부터 15시 반, 아후타는티(afternoon tea).15시 반부터 19시, 흡연실(smoking room)(술(알코올(alcoholic) 음료)도, 담배도, 상급품만 갖추어져 있었다)로, 카드게임(card game)을 즐긴다.19시부터 20시 반, 저녁 식사.20시 반부터 22시, 댄스 파티(dance party), 영화 감상등.22시부터 22시 반, 야식.22시 반부터 23시, 편지를 쓰거나 입욕등.23시, 취침.

 

 

 

기억이 애매합니다만, 확실히, 히카와환(hikawamaru)으로, 실제로 사용된, 승객에게, 댄스 파티(dance party)의 개최등을, 알리는, 벽보.

 

 

상술한 대로, 1930년대 당시 , 미국과 캐나다의 회사도, 북미와 일본의 사이에, 호화 여객선을 달리게 하고 있었습니다만, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사도, 당시 , 태평양 항로 전용의 주요한 호화 여객선으로서는, 히카와환(hikawamaru)을 포함 6척의 호화 여객선을 보유해, 일본의 요코하마와 북미를 연결하고 있었습니다.당시의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의, 태평양 항로 전용의 주요한 호화 여객선은, 히카와환(hikawamaru)을 포함한 일본과 시애틀(seattle), 밴쿠버(Vancouver)를 묶는, 비교적 작은 호화 여객선 3척으로 일본과 샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 비교적 큰 호화 여객선 3척입니다.이 6척 중(안)에서, 대표적인, 1929년에 완성해, 운항을 개시한, 요코하마와 호놀루루(Honolulu), 샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 아사마환(asamamaru)은, 현존 하고 있지 않습니다만, 다른 동사의 일본과 샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 호화 여객선 같이 히카와환(hikawamaru)보다 한층 크고, 약 17,000톤(GT) 있어, 또, 동사의 일본과 북미를 연결하는 호화 여객선 중(안)에서도 몫호화롭고, 「태평양의 여왕」이라고 불렸다고 합니다. 

 

 

일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관의 팜플렛(booklet)으로부터...아사마환(asamamaru)의 모형.

 

 

 

 

1929년에 완성해, 운항을 개시한, 요코하마와 호놀루루(Honolulu),샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 아사마환(asamamaru).다른 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 일본과 샌프란시스코(San Francisco)를 연결하는 호화 여객선 같이 히카와환(hikawamaru)보다 한층 크고( 약 17,000톤(GT)), 선내의 호화로움냄새나서는, 히카와환(hikawamaru)을 훨씬 웃도는 것이어(식당(dining room·레스토랑)의 내장에는, 사치스럽게 이탈리아산 대리석이 사용되어 객실내에는 당시 최첨단의 설비가 사용되고 있었다.wiki보다), 「태평양의 여왕」이라고 불렸습니다.

 

 

사진, 바로 아래.아사마환(asamamaru), 또는, 아사마환(asamamaru)과 같이 일본과 San Francisco를 묶은, 아사마환(asamamaru)과 동급의, 약 17,000톤(GT)의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 호화 여객선, 타츠타환(tatsutamaru)(어느 쪽인지 모른다)의, 2등 (second class) 손님용의 식당(dining room).

 

사진, 바로 위.아사마환(asamamaru), 또는, 아사마환(asamamaru)과 같이 일본과 San Francisco를 묶은, 아사마환(asamamaru)과 동급의, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 호화 여객선, 타츠타환(tatsutamaru)(어느 쪽인지 모른다)의, 2등 (second class) 손님용의 라운지(lounge).

 

 

 

 

타츠타환(tatsutamaru)의 그림 엽서보다, 타츠타환(tatsutamaru).타츠타환(tatsutamaru)( 약 17,000톤(GT).1930년 완성.1930년 운항 개시)는, 아사마환(asamamaru)의 자매선으로, 1930년대에, 일본과 San Francisco를 묶는 항로에서 활약한, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의, 아사마환(asamamaru)과 동급의 호화 여객선입니다.

 

 

일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, (1936년에 독일의 Berlin로 개최된 하계 올림픽에 계속해) 1940년에 개최될 것이었다, 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics)( 제2차 세계대전에 의해 중지)의 전후에 맞추는 것처럼, 일본과 북미를 연결하는 항로, 일본과 유럽을 연결하는 항로에 있고, 경합 타사에 대해서, 우위에 설 수 있도록(특히, 일본과 북미를 연결하는 항로에 있어서는, 완전하게 우위에 설 수 있도록...일본과 유럽을 연결하는 항로에는, 독일의 회사등 , 매우 강력한 경쟁 상대가 있던 때문, 만일, 제이차 세계대전이 발발하고 있지 않아서, 신형의 호화 여객선을 투입했다고 해도, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 우위에 서는 일은, 할 수 있었다고 해도, 절대적인 우위에 서는 일은, 할 수 없었다고 생각합니다), 일본과 북미를 연결하는 항로, 일본과 유럽을 연결하는 항로로, 차례차례로, 새로운 호화 여객선을 더하는 일을 계획해, 1930년대 중반 이후, 차례차례로 기공시켰습니다만, 제2차 세계대전에 의해, 이것등 , 일본우선(NipponYusen) 주식회사의 새로운 호화 여객선은, 모두, 건조 도중에 군사용의 배로 변경되었는지, 또는, 순수한 여객선으로서 활약한 것은, 극히 얼마 안되는 기간이며, 곧바로, 군사용의 배로 개조되는 등 했습니다.이것등의 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의, 일본과 북미를 연결하는 태평양 항로용의, 새로운 호화 여객선안에, 환상의 호화 여객선, 카시하라환(kashiharamaru)(27,700톤(GT))이 있습니다.카시하라환(kashiharamaru)은, 호화로움에 두고, 아사마환(asamamaru)을, 게다가 훨씬 더 웃돌 예정으로 있어, 일본의 여객선 사상, 가장 호화로운 여객선이 될 예정으로 있었습니다만, 제2차 세계대전에 의해, 건조 도중에, 항공 모함으로 변경되었습니다(항공 모함, 하야부사매(jyunyou).덧붙여서, 일본우선(Nippon Yusen)의, 일본과 북미를 연결하는 태평양 항로용의, 새로운 호화 여객선 중의 하나로 있어, 카시하라환(kashiharamaru)과 동급의 호화 여객선으로서 취항할 예정으로 있던 이즈모환(izumomaru)(27,700톤(GT))이나, 역시, 건조 도중에, 항공 모함으로 변경되었습니다(항공 모함, 비응(hiyou)).

 

 

사진 이하 2매.저 편으로 보이는, 긴 큰 부두는, 대형 호화 여객선도 자주(잘) 발착하는, 국제 여객선 terminal가 있는, 대부두(oosanbashi)입니다.대부두(oosanbashi)의 안쪽에 정박하고 있는, 큰 여객선은, 아스카 2(Asuka2).아스카 2(Asuka2)(50,142톤(GT))은, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선입니다.대부두(oosanbashi)의 앞에 정박하고 있는, 비교적 작은 배는, royal wing.royal wing는, 요코하마항을 유람 하는, 레스토랑선입니다.

 

 

앞에 정박하고 있는, 비교적 작은 배는, royal wing입니다.royal wing(2,876톤(GT))은, 원래, 오사카와 큐슈(kyusyu)(일본의 남부)의 벳푸(beppu) 온천(일본 최대급의 온천 보양지)을 묶는 항로에서 활약하고 있던, 일본의, 국내 항로용의 소형의 호화 여객선, 「홍(주지 않는다) 환(kurenaimaru)」(아래의 보충 설명 참조)이었습니다.
홍(주지 않는다) 환(kurenaimaru):설명은, wiki를 참고로 했습니다.1912년, 오사카와 벳푸(beppu) 온천을 묶는 항로로, 독일제의 일본의 여객선, 초대, 「홍(주지 않는다) 환(kurenaimaru)」가 취항.1928년에, 2대째, 「홍(주지 않는다) 환(kurenaimaru)」가 취항.1959년에는, 삼대눈, 「주지 않는 환(kurenaimaru)」가 건조되어 삼대눈, 「주지 않는 환(kurenaimaru)」는, 1960년에, 오사카와 벳푸(beppu) 온천을 묶는 항로로 취항했습니다.삼대눈, 「주지 않는 환(kurenaimaru)」는, 1980년에 은퇴.후에 개장되어 요코하마항을 유람 하는, 레스토랑선, royal wing가 되었습니다.


 

royal wing는, 요코하마에, 세계적으로 봐도, 규모의 큰 중화가(chinatown)(500이상의 점포를 가지는, 세계 최대급의 중화가(chinatown))가 있는 일을 반영해인가(중화가(chinatown)는, 요코하마의 중요한 관광 자원의 하나가 되고 있습니다), 홍콩에서 활약하고 있던, 중국인?요리인(cook)이, 세프(chef)를 맡는, 광동(Cantonese ) 요리계의 중국 요리의 레스토랑선이 되고 있습니다.덧붙여 royal wing란, 다른 회사의 배(다른 회사의 경영)입니다만, 해양 루즈(marine rouge)라고 말하는, 요코하마항을 유람 하는, 프랑스 요리의 레스토랑선도 있습니다(royal wing보다 작은 배).

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 9매.이 날의 저녁 식사는, 요코하마 도심부의 해안에 세워지는, 요코하마 마린 타워(marine tower)의 레스토랑에서 먹었습니다.

 

요코하마의 도심부의 해안에 세워지는, 요코하마 마린 타워(marine tower).1961년에 완성한, 높이 106 m의 탑입니다.요코하마를 상징하는 건물의 하나가 되고 있습니다.코베(kobe)의 포토 타워(port tower)와 보조자에, 1950년대부터 1960년대 초에 걸친, 일본의 대도시에 있어서의, 고층 타워(tower) 건설 붐(boom)의 말기에 지어진 타워(tower)입니다. 이전에는, 등대로서의 기능을 가지고 있고, 기네스 북(Guiness book)에, 세계 제일의 높이의 등대로서 기재되어 있었습니다.

 

 

요코하마 마린 타워(marine tower)에는, 전망대의 외, 레스토랑, cafe, bar등이 들어가 있습니다.

 

 

사진 우측은, 요코하마 마린 타워(marine tower)의 cafe.요코하마 마린 타워(marine tower)의 cafe는, 1층에 있습니다.

 

 

 

사진 이하 7매.이 날의 저녁 식사는, 요코하마 마린 타워(marine tower)의 레스토랑에서 먹었습니다.요코하마 마린 타워(marine tower)의 4층이 레스토랑이 되어 있습니다.이 레스토랑은, 이 때, 처음으로 이용했습니다.

 

 

이 레스토랑의 내장.

 

 

사진 이하 6매.이 레스토랑에서 먹은, 이 날의 저녁 식사.이것에, 팬이 뒤따릅니다.사진 이하 4매는, 모두, 일인일명씩입니다.

 

 

일명눈앞나물.토육.

 

 

 

 

2접시 눈앞나물.꽁치를 사용한 전채.금미(kinbi) 인삼(일본의 오키나와(okinawa) 원산의 인삼의 하나)와 포도의 사라다(salad)와 함께...

 

 

 

 

버섯과 부이 욘(bouillon)의 스프(soup).

 

 

 

 

 

메인(main) 요리.로스트 비프(roast beef).

 

 

 

사진 이하 2매.디저트(dessert).

 

 

 

내가 먹은, 고구마(sweet potato)의 아이스크림(ice cream) 등.

 

 

 

 

 

그녀가 먹은, 가렛트(galette)를 사용한 디저트(dessert).

 

 

 

사진 이하, 저녁 식사 후는, 대부두(oosanbashi)에 갔습니다.대부두(oosanbashi)는, 요코하마 도심부의 해 제에 있는, 대형 호화 여객선도 자주(잘) 발착하는, 국제 ferry terminal가 있는, 큰 부두입니다.대부두(oosanbashi)는, 코베(kobe)에게 있는, 코베(kobe) 포토 터미널(port terminal)(1922년 완성.50,000톤(GT) 급 정도의 호화 여객선이라면, 동시에 4척 착안할 수 있다)에는 미치지 않습니다만, 퀸 엘리자베스 2(RMS Queen Elizabeth 2.70,327톤(GT)) 급의, 호화 여객선이라면, 동시에 2척 착안할 수 있어 30,000톤(GT) 이하의 호화 여객선이라면, 동시에 4척 착안하는 것이 가능해지고 있습니다.

 

사진 이하 3매.사진 중앙.대부두(oosanbashi)로부터 바라본, 밤의 히카와환(hikawamaru).사진 우측, 대부두(oosanbashi)로부터 바라본, 요코하마 마린 타워(marine tower).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


사진 이하 3매.산책하면서, 대부두(oosanbashi)에 걸어 가는 도중에서...

 

사진 이하 2매.밤의 히카와환(hikawamaru).사진 좌단으로 보이는 다리는, 요코하마 bay bridge.1989년에 완성한, 큰 사장교(cable-stayed bridge)입니다.


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

대부두(oosanbashi)와 대부두(oosanbashi)에 정박중의, 아스카 2(Asuka2).

 

 

사진 이하 11매.아스카 2(Asuka2).아스카 2(Asuka2)(50,142톤(GT))은, 일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선입니다.일본을 기점으로 한 세계일주 크루즈(cruise) 등을 실시하고 있습니다.다른 일본의(일본의 회사가 보유한다) 호화 여객선 같이, 승객의, 대부분은, 일본인의 같습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.사진 우단으로 보이는 큰 관람차는, Cosmo Clock.일찌기, 세계 최대의 관람차인, 요코하마의 도심부의 해안에 있는 큰 관람차입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「요코하마 산책&음식」, 끝...

 

 

 

 

 



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