ミリタリー

ブッシュの前 美大統領, 2次大戦の時日本軍に人肉で食われるところだった
1945年 2月小笠原制度の惨劇

●1944年 9月2日, 米軍操縦士 9人日本チチジマ島爆撃して墜落

●ブッシュ中尉は九死一生, 残り 8人は日本軍に処刑された後人肉で ‘料理’

●人肉食べたダチバや中将, “おいしい, 一皿追加!”

ジョージブッシュの前アメリカ大統領(ジョージ Wブッシュ現大統領のお父さん)は 1943年 6月海軍将校に任官して第2次世界大戦に参戦した. 海軍操縦士過程を修了した彼は当時ぶり19歳でアメリカ海軍の最年少操縦士だった. 彼は爆撃機操縦士で太平洋方面に配置されて, 1944年 9月2日小笠原(小笠原) 制度爆撃に出た.

小笠原制度は日本本土で 1000km 南側に位した中部太平洋の戦略的要衝地だ. その中で最大の島であるチチジマ(父島)はイオだ長芋(硫黄島) 北 200kmにある島で, 日本本土とイオジマを連結する普及の中継地だった. チチジマに対する攻撃がその日ブッシュ中尉の林大根だった.

第51 雷撃台(VT-51)の一員に出撃したブッシュ中尉の赤ちゃん(愛機) 愛称は ‘バーバーだと’, 故郷に残して来た婚約女の名前だ. ところが ‘バーバーだと’は 8000フィート上空で爆弾を投下する中日本軍の対空砲火にそう火炎に包まれた. 幸いに飛行機が墜落する前にブッシュ中尉は落下傘で 脱出することができた.

脱出しながら少しの間違いがあったが無事に海に落ちたブッシュ中尉にはずっと幸運が付いた. 救命艇はよほど遠い所に落ちたが友軍機が降下と上昇を繰り返しながら位置を教えてくれたおかげさまで彼は永いで救命艇に到逹した. 日本軍落とし穴二つの尺が彼を生け捕りに追って来たが右軍旗たちが飽きた. ブッシュ中尉はそのように二三時間ほどチチジマ沖合で漂流した. その後風向きが変わりながら救命艇がチチジマの方でフルロがドン途中に米軍潜水艦が彼を救助した.

当時小笠原制度を狙った何回の爆撃渦中に米軍機が撃墜されて, アメリカ 9人が海に落ちたが, 操縦士の中ブッシュ中尉だけユイルハなの生還した. 運が少しだけナパッドでも彼は 8人の仲間と共に悽惨な最後に迎えたはずだ.


 

彼らは日本軍の猟奇的食人(食人) 蛮行の対象になった. SF映画でナオムジックしたことだが, ブッシュ中尉さえ犠牲されたら彼は勿論で息子 ブッシュ大統領もなかったはずだ. そうだったら今日の国際政治状況, そして現代史はたくさん変わったはずだ.

 

当時チチジマには日本陸・日だね混成第1旅団が駐屯して島の守備を引き受けていた. 陸軍はダチバやYoshio(立花芳夫) 所長が導く 5個補兵隊台など約 9000人の兵力で成り立ったし, 海軍は森拘泥組(森 国造) 所長旗下にチチジマ方面特別根拠地帯, 通信台など約 6000人の兵力で構成されていた.

1945年 3月イオ誌麻衣日本軍が全滅すると日本本営はチチジマのダチバや所長を中将に進級させて第109師団長に任命した. 海軍も森所長を中将に進級させた.

最高指揮官になった二人の将校は米軍虜虐待と処刑, そして食人という猟奇的な事件を直接指揮した. 彼ら外にも的場スエイサム六だね少領と吉井シズオ海軍大領が事件に深く関与した. 一二人の精神異常者が虜を虐待するとか即決処刑する場合は当時日本軍代で有り勝ちな事だった. しかし部隊の最高指揮官たちが関与して直接虜を殴り, 虐待, 顧問と人肉を食べた事件はチチジマを除いて 他に例がなかった


 

軍医, 処刑立ち会いした後長期摘出

事件はダチバナと的場の狂気が一団となってはみでた. ダチバや中将と的場少領は狂暴な性格で普段呼兄呼弟する死だだ. 1947年 1月13日東京裁判でロビンソン検事が日本軍の展示蛮行を明らかにするために提出した的場の陳術書には食人蛮行が始まった当時 状況がよく現われている.


 

“人肉事件は 1945年 2月23日から 25日間に起きました. あの時私は司令部に呼ばれてダチバや将軍に ‘米軍飛行士は須恵要市部代で処刑しなければならない’と言う内容の報告書をあげました. そして司令部で用意した酒席に参加しました. 話題はブゴンビルやニューギニアに株鈍かった日本軍で移されたし, 一部部隊で備蓄された食糧が品切れになって追加供給がなだらかではなくて人肉を食べるしかなかったという話が出ました.

後で加藤ダケムの大領が私たちのために宴会を施すからといって行ったが, お酒とおつまみが十分にものと決まっているされることができないことを分かるようになりました. そうしよう 将軍は不満を表示しながら何か肉類とお酒を準備する方途がないかと問いました.

将軍は私に米軍の処刑に対して問いながら人肉を得ることができないかと言いました. それで人肉とお酒一升を準備させました. 人肉は加藤大領の部屋で料理したが, その席にあったすべての人が少しずつ味わわなければならなかったです. もちろん人肉がおいしいと言った人は誰もいなかったです.”


 

ダチバナの命令に従って的場が処刑した米軍砲への処理に対して靴命令が下ろされた. グアム軍事裁判に証拠に提出された当時の命令は次のようだ.


 

1. 代代(大隊)は処刑された米軍操縦士の人肉を食べ物.

2. の間(冠) 中尉はその人肉の配給を担当すること.

3. サカベ(坂部) 軍医は処刑に立ち会いして長期を摘出すること.

1945年 3月9日午前9時

大隊長陸軍少領的場スエイサム

 

発令方法: の間中尉とサカベを直接呼んで命令下逹. ダチバや旅団長に報告して狐狸に参謀にも通告する.

的場は補助衛生兵たちを集合させて砲への解剖光景を見守るように言い付けた. デラキは的場の指示どおり死体を処理した. そして 308代代の将校全員が防空壕の内にある部隊丈室と呼ばれて来て砲への人肉を食べなければならなかった. ダチバナは御箸で人肉をつまんでそば席に座ったところラキ軍医に食べさせたりした. 大まかにかむ真似をしたデラキはまっすぐにトイレに行って皆吐き出したと言う. 海軍の吉井大領もうそ社背大尉, 故野馬いわゆるなど部下将校たちとともに拘禁の中だった米軍虜を殺害して長期と人肉を摘出した後これを兵士らに食べるようにした.


 

好奇心, 軍事文化, 小英雄株の

 

2次大戦を合して人肉事件が登場したことは太平洋戦争で日本軍の場合だけだ. 劣悪な軍費と不足な食糧で太平洋の多様な図書で苦戦した日本軍がキアに喘いで人肉を食べたということは当時大っぴらな秘密だった. 前後東京裁判の記録(1946年 12月11日)によれば, 1944年 12月ニューギニア戦線で第18軍司令部が “連合軍の人肉を食べることは承諾するが我軍の人肉を食べれば厳重に妻罰する”と言う指針を下ったし, 実際に命令を違反した兵士 4人を処罰したとなっている.

しかしチチジマの場合はキアや食糧不足が原因ではなかったから人々はもっと驚愕して怒った. 当時チチジマの食糧状況を見ていたよも, 米配給量が 5合から 3合で減ったが本土よりはずっと事情が出た. したがって人肉事件の同期は士気高揚のための小ヒロイズムや猟奇的な好奇心, そして虜を虐待する日本の軍事文化などが複合的に作用したことにあるようだ

中将と森中将が代表で米軍落とし穴で正式に降伏した. 降参交渉で米軍は, 落下傘で脱出した米軍操縦士が何人いたのかそしてとどうなったのか分かりたいと言った. 交渉に出た狐狸にYoshitaka参謀は防空壕で虜全員が爆死したと繰り合わせたが, それに対して 米軍代表であるスミス大領は露骨的に不満を表示した. もう日本軍は戦犯で処罰されることをピイウックゴ日本が敗戦して 1945年 9月2日, チチジマにも米軍が上陸した. 9月3日ダチバやするために綿密に口を合わせておいた. 虜たちのにせ物畝も作って私は部隊員に黙る のを指示して置いた.

 

米軍指揮官である海兵隊レックシ大領は意外に日本軍を寛大に対した. 日本軍の本土帰還も順調に成り立って狐狸にも安心した. そうするけれどトー.バー部隊の帰還はしきりに延期された. 実はその間米軍は日本本土で調査官を派遣して引揚者たちの証言を土台で真相を把握していた.


 

“国家を憎悪しながら死んで行きます”

1946年 2月初, 遂にシェポ米軍少領は狐狸に呼んで “残虐行為の首魁は陸軍のダチバナと的場そして海軍の森と吉井ではないか?”と急き立てて問った. まもなく日本軍に対する逮捕がつながった.

5月から 9月までグアムで軍事裁判が開かれた. チチジマ関連被告はダチバや中将以下 25人だったが, トラク島で恣行された虜生体解剖など中部太平洋各地の蛮行に連関された戦犯容疑者は皆 63人に達した. その中でもチチジマの人肉事件が一番注目をひいた. 心理の中に悽惨な証言がつながったが, 特にダチバナの当番病が人肉を食べた日本軍の主演(酒宴) 状況を描きながら, ダチバナが “おいしい, 一皿追加!”と言ったと証言すると法廷は水を振りかけたように静かになった.

1945年 9月マッカーサー将軍(もっぱら左側) 前で降伏文書を署名する日本代表シゲミス摩耗で外務大臣.

米軍新聞である ‘グアムニュース’は連日 ‘ケノボルリズム(cannibalism・食人風習)’という大きい題目で裁判頃とを報道したし, 一部はアメリカ本土新聞にも転載された. ところである日裁判に対する記事が急に新聞で消えた. 変に思ったホリエがその事情を米軍側に問い合わせると “上部命令で記事掲載が禁止された”と言う返事が帰って来た. 犠牲された米軍のお母さんたちが, “誉れあるように戦死したと信じた息子がそんな悽惨な最後に迎えたなんてあまりにも苦しい”と記事が載せられないようにしてくれと言って大統領に嘆願したからだ.

 

裁判結果ダチバや中将, 的場少領, Ito中佐, 吉井大領, Nakajima大尉には死刑が宣告されたし, 森中将と加藤大領, Yamashita大尉, ドキ大尉, 佐藤大尉は終身刑に処された. 海軍の加味優だと少領は拘留の中で自決したし, 日本本土に帰還した後逃げだした故野馬いわゆるは家近く野山でやっぱり自決した. 同じく逃げだしてから後で裁判を受けたデラキ軍医は 4年型を宣告受けた.

海軍で唯一に死刑宣告を受けた吉井大領は終わりまで確信犯の態度を捨てなかった. 彼は法廷で, “無差別爆撃を一米軍が悪い. 操縦士は当然処罰されなければならない. 人肉は戦意高揚と士気高揚のために食べるようにした. すべての命令は私が降りたので部下たちには責任がない”と言った.

それに比べて陸軍のNakajima大尉は死刑宣告直後涙を流しながら自分の蛮行を弁解した.


 

“虜になれば逆賊で扱う日本の国家的の風土が結局外国人虜に対する残虐行為で発展したことではないですか. 虜虐待は日本民族全体の責任だと言えます. だから個人に罪を被せることは過ちではないですか. 私は国家を憎悪しながら死んで行きます.”

数値が分かる者は強い?

ダチバナや的場の場合は遺書や最後陳述がなくて彼らの心境を数え切れない. 特に二人は死刑が執行されるまで約 1年の間毎日米軍兵士らの鶴どおりほとんどチォズゴムになって死刑台に上がったと言う. 太平洋戦争で日本軍虜を残忍に虐待した米軍はほとんどいなかったがこの時だけは例外だったようだ.

それではどうして日本軍は虜をそのように虐待と殺戮しただろうか. 彼らが見せてくれた野蛮と水性(獣性) 本質は何か. なによりも虜になることを恥辱と思ったからだ. Nakajimaの言葉通り, 日本軍部は兵士らに虜になることを数値だと教えて来た. 1941年 1月8日日本軍が戦場で守らなければならない戦闘規範及び行動規範で公布されたゾンジンフン(戦陣訓)にはそういう歪曲された価値観が現われている. 特に第2章 8弔意 ‘住んで砲への恥辱にあわずに死んで罪禍(罪禍)の汚名を残さない’は部分のため多い兵士が空しく死んだ.

 

日本軍部が砲では恥辱という価値観を強調したことは強兵を養成するためだ. 無謀な対米(対美) 開戦を敢行した日本としては国力の著しい差を精神力で補うしかなかった. 軍人の義務を果たした敗北者は東西洋を問わず当然虜に認められた. しかし日本は引導主義的価値観を否定した. 代わりに死ぬまで努力を止めないという任務完遂の価値観を, 砲への数値というゾンジンフンの教えることで切り替えて強調した. したがって砲への恥辱は武士道の数値と深く連関されている.

ゾンジンフンの教えることは武士道の数値を兵士自分だけではなく家族や故郷まで含んで最大限の数値で拡大解釈する. ‘数値が分かる者は強い. いつも郷党(郷党) 家門の面目を思って, その期待に応じなければならない’と言うことで, 個人の数値を所属団体の数値で拡大して連帯的制裁を加えているのだ. そんな制裁は日本文化の否定的特徴とする村八分(村八分)の延長線で理解することができる. これは国家によって操作されて強調された到着的価値観で人権と個人の価値観が重視される西洋の観点では到底受け入れることができないのだった. そのように操作されて強要された軍事文化は自ずから米軍虜に対する虐待と殺戮につながった.

部下たちを狂犬(狂犬)で飼育

ルーズベネディクトは著書 ‘菊と刀’でこのような日本軍の到着的価値観を西洋の場合と比べておもしろく指摘した.

“日本人の兵士消耗理論が極端的な形態で現われたのが彼らの大根(無)降参注意だ. 西欧の軍隊は最善をつくした後衆寡不敵だと判断すれば敵軍に降伏する. 彼らは降伏した後にも相変らず自分を誉れある軍人だと思う. 自分の生存事実は本国の家族に通報される. 彼らは軍人としても国民として, また自分の家庭に対しても恥ずかしがらない.

しかし日本人は事態を他の式で規定した. 名誉は死に至るまで争うのだった. 到底希望がない状況に追われた時, 日本軍は最後の一発の手榴弾で自殺するとか武器を持たないまま敵陣で突撃して集団的に自殺しなければならなかった. 決して降伏してはいけなかった. もし日本軍が負傷で気を失って虜になった場合でも, 彼は日本に帰れば顔を持って通うことができなくなる. 彼らは名誉を失ったのだ.”

日本軍の残酷な訓練ないし集団的私刑と人権弾圧も外国人虜に対する虐待と蛮行の理由になった. 当時日本軍隊で兵士は非人間的な待遇を受けながら消耗品に取り扱いされたから当然外国人虜に対してもそういう考えを持った. 物資の不足な日本軍は兵器や軍馬(軍馬)は極めて重視したが, いくらでも補うことができる兵士はそれほど対しなかった. 軍馬よりもっと大事に扱われた兵士は一人もいなかったと言うほどだった. それほど兵士らの人権は日常的に露に無視された.

このような硬直された軍事文化の後には全力の強化という名分があった. もちろん非人間的な取り扱いを通じて上官がはっきりと掌握した兵士は一時的に強化された全力を発揮することもできる. 極度の緊張状態に置かれた兵士らはすべての価値判断を排除してただ敵に対する攻撃だけ思うからだ. 普段累積した鬱憤と不満は戦闘の時少ない向かって一挙に爆発するようになる. こんな点を悪用した上官は部下たちを残酷に扱うことで彼らを凶暴な狂犬で飼育した.

日本抱えこむ ‘息子ブッシュ’

 

しかし軍部が意図した全力強化は成り立たなかった. むしろ残酷に訓練受けた日本軍兵士らは非戦闘状況で深刻な問題を起こした. 例えば, 日本兵士らは民間人たちに対する途方もない大虐殺も遠慮なくやらかしたが, 30万名を犠牲させた南京(南京) 大虐殺が代表的な例だ. そしてチチジマ事件外にも米軍, フィリピン君及び難民 3万名の死傷者を出したバタンバンも死の行進, 米軍 140人を買ったまま火刑させたパラワン大虐殺など日本軍のやらかした蛮行は全世界をおののくようにした.

要するに盲目的な服従, 苛酷な訓練そして集団私刑のような否定的軍事文化がそんな残忍な暴力を生んだのだ. したがって日本軍の狂気は, 一長期の癌が他の長期に移って行くことと同じく内部の暴力が外部に転移された結果だ. ‘抑圧の転移’と言える.

1989年 1月7日ヒロヒト天皇が死亡した時葬式に参加したジョージブッシュの前大統領は記者たちに “今やっと初めて日本人を許す心が生じた”と言った. 変えて言えば以前までは日本人たちを到底許すことができなかったというのだ. 侵略戦争の総責任者だった天皇の死に臨んだ彼の錯雑な心境が現われた返事とする.

今年 81世人ブッシュの前大統領は 2004年 6月13日テキサスのカレッジスチーションにある大桶領導西関上空で落下傘ジャンプをまた敢行した. 満 80歳の誕生日を迎え彼が老成を誇示した理由は年寄りたちに希望のメッセージを伝達するためだったと言う. それにでは小笠原制度を 爆撃した 1944年, 73歳だった 1997年, そして 75歳だった 1999年に引き継いで生涯四番目落下傘ジャンプだった.

日本が敗亡した後 60年になる日, 息子ブッシュ大統領は小泉日本総理と仲がいい友愛を誇りながら日本の軍事大国化を支持している. どうせ国際社会には永遠なことも友邦もないといえども, お父さんと違い露骨的に日本を抱えこむブッシュ大統領の態度になんだか分からなくやや苦い.

李昌偉

● 1959年釜山生まれ

● 高麗大法学科卒業, 東大学修士(法学), 日本慶応大博士(国際法)

● 外交通商部国際法諮問委員, 海洋水産省専門委員, 海洋法フォーラム引っ越し

● 現 大田台法学部教授

 

● 著書 : ‘私たちの目で本日本帝国興亡史’ ‘領土紛争と国際法’ ‘国際司法裁判所判例研究’ ‘仲裁判例研究’ ‘グックゼオアップブンゼングヘギョルゼドでは’ ‘日本

の海洋法政策’(訳書) など

もう日本は暗い過去をそっぽを向いたまままた保守化, 右傾化している. 私たちはミリタリズムの後裔たちが声を高める日本の未来を憂慮するの

ざるを得ない. 独島問題や歴史歪曲問題に断片的に興奮するのではなく日本を冷情に眺めて対応する態度が必要な時点だ.

(著者註 : 本文の特定部分は ‘私たちの目で本日本帝国興亡史’の内容を抜純, 整理したのです.)

 

(出処ネイバーエンジョイジャパン)


일본군의 식인사건

부시 전 美대통령, 2차대전 때 일본군에 인육으로 먹힐 뻔 했다
1945년 2월 오가사와라 제도의 참극

●1944년 9월2일, 미군 조종사 9명 일본 치치지마 섬 폭격하다 추락

●부시 중위는 구사일생, 나머지 8명은 일본군에 처형된 뒤 인육으로 ‘요리’

●인육 먹은 다치바나 중장, “맛있다, 한 접시 추가!”

조지 부시 전 미국 대통령(조지 W부시 현 대통령의 아버지)은 1943년 6월 해군장교로 임관해 제2차 세계대전에 참전했다. 해군 조종사 과정을 수료한 그는 당시 만19세로 미국 해군의 최연소 조종사였다. 그는 폭격기 조종사로 태평양 방면에 배치돼, 1944년 9월2일 오가사와라(小笠原) 제도 폭격에 나섰다.

오가사와라 제도는 일본 본토에서 1000km 남쪽에 위치한 중부 태평양의 전략적 요충지다. 그중에서 가장 큰 섬인 치치지마(父島)는 이오지마(硫黃島) 북쪽 200km에 있는 섬으로, 일본 본토와 이오지마를 연결하는 보급의 중계지였다. 치치지마에 대한 공격이 그날 부시 중위의 임무였다.

제51 뇌격대(VT-51)의 일원으로 출격한 부시 중위의 애기(愛機) 애칭은 ‘바버라’, 고향에 두고 온 약혼녀의 이름이다. 그런데 ‘바버라’는 8000피트 상공에서 폭탄을 투하하던 중 일본군의 대공포에 맞아 화염에 휩싸였다. 다행히 비행기가 추락하기 전에 부시 중위는 낙하산으로 탈출할 수 있었다.

탈출하면서 약간의 실수가 있었지만 무사히 바다에 떨어진 부시 중위에겐 계속 행운이 따랐다. 구명정은 상당히 먼 곳에 떨어졌지만 우군기가 강하와 상승을 반복하면서 위치를 가르쳐준 덕분에 그는 헤엄쳐서 구명정에 도달했다. 일본군 함정 두 척이 그를 생포하러 쫓아왔지만 우군기들이 물리쳤다. 부시 중위는 그렇게 두세 시간가량 치치지마 앞바다에서 표류했다. 그후 풍향이 바뀌면서 구명정이 치치지마 쪽으로 흘러가던 도중에 미군 잠수함이 그를 구조했다.

당시 오가사와라 제도를 겨냥한 수차례의 폭격 와중에 미군기가 격추돼, 미국 9명이 바다에 떨어졌는데, 조종사 가운데 부시 중위만 유일하게 생환했다. 운이 조금만 나빴더라도 그는 8명의 동료와 함께 처참한 최후를 맞았을 것이다.


 

그들은 일본군의 엽기적 식인(食人) 만행의 대상이 됐다. SF영화에서 나옴직한 이야기지만, 부시 중위마저 희생됐다면 그는 물론이고 아들 부시 대통령 역시 없었을 것이다. 그랬다면 오늘날의 국제정치 상황, 그리고 현대사는 많이 달라졌을 것이다.

당시 치치지마에는 일본 육·해군 혼성 제1여단이 주둔해 섬의 수비를 맡고 있었다. 육군은 다치바나 요시오(立花芳夫) 소장이 이끄는 5개 보병대대 등 약 9000명의 병력으로 이뤄졌으며, 해군은 모리 구니조(森 國造) 소장 휘하에 치치지마 방면 특별근거지대, 통신대 등 약 6000명의 병력으로 구성돼 있었다.

1945년 3월 이오지마의 일본군이 전멸하자 일본 본영은 치치지마의 다치바나 소장을 중장으로 진급시키고 제109사단장에 임명했다. 해군도 모리 소장을 중장으로 진급시켰다.

최고 지휘관이 된 두 장교는 미군 포로 학대와 처형, 그리고 식인이라는 엽기적인 사건을 직접 지휘했다. 그들 외에도 마토바 스에이사무 육군 소령과 요시이 시즈오 해군 대령이 사건에 깊이 관여했다. 한두 명의 정신이상자가 포로를 학대하거나 즉결 처형하는 경우는 당시 일본군대에서 흔한 일이었다. 그러나 부대의 최고지휘관들이 관여해 직접 포로를 구타, 학대, 고문하고 인육을 먹은 사건은 치치지마를 제외하고 달리 예가 없었다


 

군의관, 처형 입회한 뒤 장기 적출

사건은 다치바나와 마토바의 광기가 어우러져서 불거졌다. 다치바나 중장과 마토바 소령은 광포한 성격으로 평소에 호형호제하는 사이였다. 1947년 1월13일 도쿄재판에서 로빈슨 검사가 일본군의 전시 만행을 밝히기 위해 제출한 마토바의 진술서에는 식인 만행이 시작된 당시 상황이 잘 나타나 있다.


 

“인육사건은 1945년 2월23일부터 25일 사이에 일어났습니다. 그때 나는 사령부로 불려가서 다치바나 장군에게 ‘미군 비행사는 스에요시부대에서 처형해야 한다’는 내용의 보고서를 올렸습니다. 그리고 사령부에서 마련한 술자리에 참석했습니다. 화제는 부건빌이나 뉴기니에 주둔하고 있던 일본군으로 옮겨졌으며, 일부 부대에서 비축된 식량이 동나고 추가 공급이 원활하지 않아 인육을 먹을 수밖에 없었다는 이야기가 나왔습니다.

나중에 가토 다케무네 대령이 우리를 위해 연회를 베푼다고 해서 갔는데, 술과 안주가 충분하게 마련되지 못한 것을 알게 됐습니다. 그러자 장군은 불만을 표시하면서 뭔가 육류와 술을 준비할 방도가 없냐고 물었습니다.

장군은 내게 미군의 처형에 대해 물으면서 인육을 얻을 수 없겠냐고 했습니다. 그래서 인육과 술 한 되를 준비시켰습니다. 인육은 가토 대령의 방에서 요리했는데, 그 자리에 있던 모든 사람이 조금씩 맛보아야 했습니다. 물론 인육이 맛있다고 한 사람은 아무도 없었습니다.”


 

다치바나의 명령에 따라 마토바가 처형한 미군 포로의 처리에 대해 구두명령이 내려졌다. 괌 군사재판에 증거로 제출된 당시의 명령은 다음과 같다.


 

1. 대대(大隊)는 처형된 미군 조종사의 인육을 먹을 것.

2. 간(冠) 중위는 그 인육의 배급을 담당할 것.

3. 사카베(坂部) 군의관은 처형에 입회하여 장기를 적출할 것.

1945년 3월9일 오전9시

대대장 육군 소령 마토바 스에이사무

발령방법: 간 중위와 사카베를 직접 불러 명령 하달. 다치바나 여단장에게 보고하고 호리에 참모에게도 통고함.

마토바는 보조위생병들을 집합시켜서 포로의 해부 광경을 지켜보도록 명령했다. 데라키는 마토바의 지시대로 사체를 처리했다. 그리고 308대대의 장교 전원이 방공호 안에 있는 부대장실로 불려와 포로의 인육을 먹어야 했다. 다치바나는 젓가락으로 인육을 집어 옆자리에 앉은 데라키 군의관에게 먹이기도 했다. 대충 씹는 흉내를 내던 데라키는 곧장 화장실로 가서 모두 토해냈다고 한다. 해군의 요시이 대령도 구라사키 대위, 고야마 소위 등 부하 장교들과 함께 구금 중이던 미군 포로를 살해하여 장기와 인육을 적출한 뒤 이를 병사들에게 먹도록 했다.


 

호기심, 군사문화, 소영웅주의

2차대전을 통털어 인육사건이 등장한 것은 태평양전쟁에서 일본군의 경우뿐이다. 열악한 군비와 부족한 식량으로 태평양의 크고작은 도서에서 고전을 면치 못하던 일본군이 기아에 허덕이다 인육을 먹었다는 것은 당시 공공연한 비밀이었다. 전후 도쿄재판의 기록(1946년 12월11일)에 의하면, 1944년 12월 뉴기니 전선에서 제18군사령부가 “연합군의 인육을 먹는 것은 허락하지만 아군의 인육을 먹으면 엄중하게 처벌한다”는 지침을 내렸으며, 실제로 명령을 위반한 병사 4명을 처벌했다고 되어 있다.

그러나 치치지마의 경우는 기아나 식량부족이 원인이 아니었기에 사람들은 더욱 경악하고 분노했다. 당시 치치지마의 식량상황을 보더라도, 쌀 배급량이 5홉에서 3홉으로 줄었지만 본토보다는 훨씬 사정이 나았다. 따라서 인육사건의 동기는 사기진작을 위한 소영웅주의나 엽기적인 호기심, 그리고 포로를 학대하는 일본의 군사문화 등이 복합적으로 작용한 데에 있는 것 같다

중장과 모리 중장이 대표로 미군 함정에서 정식으로 항복했다. 항복교섭에서 미군은, 낙하산으로 탈출한 미군 조종사가 몇 명 있었는지 그리고 어떻게 됐는지 알고 싶다고 했다. 교섭에 나섰던 호리에 요시타카 참모는 방공호에서 포로 전원이 폭사했다고 둘러댔는데, 그에 대하여 미군 대표인 스미스 대령은 노골적으로 불만을 표시했다. 이미 일본군은 전범으로 처벌받는 것을 피이윽고 일본이 패전하고 1945년 9월2일, 치치지마에도 미군이 상륙했다. 9월3일 다치바나 하기 위해 면밀하게 입을 맞추어두었다. 포로들의 가짜 묘도 만들고 전 부대원에게 침묵할 것을 지시해놓았다.

미군 지휘관인 해병대 렉시 대령은 의외로 일본군을 너그럽게 대했다. 일본군의 본토 귀환도 순조롭게 이뤄져 호리에도 안도했다. 그러나 마토바 부대의 귀환은 자꾸 연기됐다. 사실 그동안 미군은 일본 본토로 조사관을 파견하여 귀환자들의 증언을 토대로 진상을 파악하고 있었다.


 

“국가를 증오하며 죽어갑니다”

1946년 2월 초, 마침내 셰퍼 미군 소령은 호리에를 불러 “잔학행위의 수괴는 육군의 다치바나와 마토바 그리고 해군의 모리와 요시이가 아닌가?”하고 다그쳐 물었다. 곧이어 일본군에 대한 체포가 이어졌다.

5월부터 9월까지 괌에서 군사재판이 열렸다. 치치지마 관련 피고는 다치바나 중장 이하 25명이었는데, 토라크 섬에서 자행된 포로 생체해부 등 중부태평양 각지의 만행에 연관된 전범용의자는 모두 63명에 달했다. 그중에서도 치치지마의 인육사건이 가장 주목을 끌었다. 심리 중에 처참한 증언이 이어졌는데, 특히 다치바나의 당번병이 인육을 먹던 일본군의 주연(酒宴) 상황을 묘사하면서, 다치바나가 “맛있다, 한 접시 추가!”라고 했다고 증언하자 법정은 물을 끼얹은듯 조용해졌다.

1945년 9월 맥아더 장군(맨 왼쪽) 앞에서 항복문서를 서명하는 일본 대표 시게미쓰 마모루 외무대신.

미군신문인 ‘괌 뉴스’는 연일 ‘캐너벌리즘(cannibalism·식인풍습)’이라는 큰 제목으로 재판 경과를 보도했으며, 일부는 미국 본토 신문에도 전재됐다. 그런데 어느 날 재판에 대한 기사가 갑자기 신문에서 사라졌다. 이상하게 생각한 호리에가 그 사정을 미군측에 문의하자 “상부 명령으로 기사 게재가 금지됐다”는 답변이 돌아왔다. 희생된 미군의 어머니들이, “명예롭게 전사했다고 믿은 아들이 그런 처참한 최후를 맞았다니 너무도 고통스럽다”며 기사가 실리지 않게 해달라고 대통령에게 탄원했기 때문이다.

재판 결과 다치바나 중장, 마토바 소령, 이토 중령, 요시이 대령, 나카지마 대위에겐 사형이 선고됐고, 모리 중장과 가토 대령, 야마시타 대위, 도키 대위, 사토 대위는 종신형에 처해졌다. 해군의 가미우라 소령은 구류 중 자결했으며, 일본 본토로 귀환한 뒤 도망갔던 고야마 소위는 집 근처 야산에서 역시 자결했다. 마찬가지로 도망갔다가 나중에 재판을 받은 데라키 군의관은 4년형을 선고받았다.

해군에서 유일하게 사형선고를 받은 요시이 대령은 마지막까지 확신범의 태도를 버리지 않았다. 그는 법정에서, “무차별 폭격을 한 미군이 나쁘다. 조종사는 당연히 처벌돼야 한다. 인육은 전의고양과 사기진작을 위해 먹도록 했다. 모든 명령은 내가 내렸으므로 부하들에겐 책임이 없다”고 말했다.

그에 비해 육군의 나카지마 대위는 사형선고 직후 눈물을 흘리면서 자신의 만행을 변명했다.


 

“포로가 되면 역적으로 취급하는 일본의 국가적 풍토가 결국 외국인 포로에 대한 잔학행위로 발전한 것 아닙니까. 포로학대는 일본 민족 전체의 책임이라고 할 수 있습니다. 그러니 개인에게 죄를 뒤집어씌우는 것은 잘못 아닙니까. 나는 국가를 증오하면서 죽어갑니다.”

수치를 아는 자는 강하다?

다치바나나 마토바의 경우는 유서나 최후진술이 없어서 그들의 심경을 헤아릴 수 없다. 특히 두 사람은 사형이 집행될 때까지 약 1년 동안 매일 미군 병사들의 학대로 거의 초주검이 되어 사형대에 올랐다고 한다. 태평양전쟁에서 일본군 포로를 잔인하게 학대한 미군은 거의 없었지만 이때만은 예외였던 것 같다.

그러면 왜 일본군은 포로를 그렇게 학대하고 살육했을까. 그들이 보여준 야만과 수성(獸性) 본질은 무엇인가. 무엇보다도 포로가 되는 것을 치욕으로 생각했기 때문이다. 나카지마의 말대로, 일본 군부는 병사들에게 포로가 되는 것을 수치라고 가르쳐왔다. 1941년 1월8일 일본군이 전장에서 준수해야 할 전투규범 및 행동규범으로 공포된 전진훈(戰陣訓)에는 그러한 왜곡된 가치관이 나타나 있다. 특히 제2장 8조의 ‘살아서 포로의 치욕을 당하지 말고 죽어서 죄화(罪禍)의 오명을 남기지 말라’는 부분 때문에 많은 병사가 헛되이 죽어갔다.

일본 군부가 포로는 치욕이라는 가치관을 강조한 것은 강병을 양성하기 위해서였다. 무모한 대미(對美) 개전을 감행한 일본으로서는 국력의 현저한 차이를 정신력으로 메울 수밖에 없었다. 군인의 의무를 다한 패배자는 동서양을 막론하고 당연히 포로로 인정됐다. 그러나 일본은 인도주의적 가치관을 부정했다. 대신 죽을 때까지 노력을 멈추지 않는다는 임무완수의 가치관을, 포로의 수치라는 전진훈의 가르침으로 전환해 강조했다. 따라서 포로의 치욕은 무사도의 수치와 깊이 연관되어 있다.

전진훈의 가르침은 무사도의 수치를 병사 자신뿐 아니라 가족이나 고향까지 포함해 최대한의 수치로 확대 해석한다. ‘수치를 아는 자는 강하다. 항상 향당(鄕黨) 가문의 면목을 생각하고, 그 기대에 부응해야 한다’고 함으로써, 개인의 수치를 소속단체의 수치로 확대해 연대적 제재를 가하고 있는 것이다. 그런 제재는 일본문화의 부정적 특징이라 할 따돌림(村八分)의 연장선에서 이해할 수 있다. 이는 국가에 의해 조작되고 강조된 도착적 가치관으로 인권과 개인의 가치관이 중시되는 서양의 관점에서는 도저히 용납할 수 없는 것이었다. 그렇게 조작되고 강요된 군사문화는 자연히 미군 포로에 대한 학대와 살육으로 이어졌다.

부하들을 광견(狂犬)으로 사육

루스 베네딕트는 저서 ‘국화와 칼’에서 이러한 일본군의 도착적 가치관을 서양의 경우와 비교하며 흥미롭게 지적했다.

“일본인의 병사 소모 이론이 극단적인 형태로 나타난 것이 그들의 무(無)항복주의다. 서구의 군대는 최선을 다한 뒤 중과부적이라고 판단하면 적군에게 항복한다. 그들은 항복한 후에도 여전히 자신을 명예로운 군인이라고 생각한다. 자신의 생존 사실은 본국의 가족에게 통보된다. 그들은 군인으로서나 국민으로서, 또 자신의 가정에 대해서도 부끄러워하지 않는다.

그러나 일본인은 사태를 다른 식으로 규정했다. 명예는 죽음에 이를 때까지 싸우는 것이었다. 도저히 희망이 없는 상황에 몰렸을 때, 일본군은 마지막 한발의 수류탄으로 자살하거나 무기를 갖지 않은 채 적진으로 돌격하여 집단적으로 자살해야 했다. 결코 항복해서는 안 되었다. 만약 일본군이 부상으로 기절해 포로가 된 경우라도, 그는 일본으로 돌아가면 얼굴을 들고 다닐 수 없게 된다. 그들은 명예를 잃은 것이다.”

일본군의 혹독한 훈련 내지 집단적 린치와 인권탄압도 외국인 포로에 대한 학대와 만행의 이유가 되었다. 당시 일본 군대에서 병사는 비인간적인 대우를 받으면서 소모품으로 취급됐기에 당연히 외국인 포로에 대해서도 그러한 생각을 가졌다. 물자가 부족한 일본군은 병기나 군마(軍馬)는 지극히 중시했지만, 얼마든지 보충할 수 있는 병사는 그렇게 대하지 않았다. 군마보다 더 소중하게 취급받은 병사는 한 명도 없었다고 할 정도였다. 그만큼 병사들의 인권은 일상적으로 공공연히 무시당했다.

이러한 경직된 군사문화의 뒤에는 전력의 강화라는 명분이 있었다. 물론 비인간적인 취급을 통해 상관이 확실하게 장악한 병사는 일시적으로 강화된 전력을 발휘할 수도 있다. 극도의 긴장상태에 놓인 병사들은 모든 가치판단을 배제하고 오직 적에 대한 공격만 생각하기 때문이다. 평소 누적된 울분과 불만은 전투시 적을 향하여 일거에 폭발하게 된다. 이런 점을 악용한 상관은 부하들을 잔혹하게 다룸으로써 그들을 흉포한 광견으로 사육했다.

일본 껴안는 ‘아들 부시’

그러나 군부가 의도한 전력 강화는 이루어지지 않았다. 오히려 혹독하게 훈련받은 일본군 병사들은 비전투 상황에서 심각한 문제를 일으켰다. 예컨대, 일본 병사들은 민간인들에 대한 터무니없는 대학살도 거리낌없이 저질렀는데, 30만명을 희생시킨 난징(南京) 대학살이 대표적인 예다. 그리고 치치지마 사건 외에도 미군, 필리핀군 및 난민 3만명의 사상자를 낸 바탄반도 죽음의 행진, 미군 140명을 산 채로 화형시킨 팔라완 대학살 등 일본군이 저지른 만행은 전세계를 전율하게 했다.

요컨대 맹목적인 복종, 가혹한 훈련 그리고 집단린치와 같은 부정적 군사문화가 그런 잔인한 폭력을 낳은 것이다. 따라서 일본군의 광기는, 한 장기의 암이 다른 장기로 옮아가는 것과 마찬가지로 내부의 폭력이 외부로 전이된 결과다. ‘억압의 전이’라고 할 수 있다.

1989년 1월7일 히로히토 일왕이 사망했을 때 장례식에 참석한 조지 부시 전 대통령은 기자들에게 “이제야 비로소 일본인을 용서할 마음이 생겼다”고 말했다. 바꿔 말하면 그전까지는 일본인들을 도저히 용서할 수가 없었다는 것이다. 침략전쟁의 총책임자였던 일왕의 죽음에 즈음한 그의 착잡한 심경이 드러난 답변이라 하겠다.

올해 81세인 부시 전 대통령은 2004년 6월13일 텍사스의 칼리지 스테이션에 있는 대통령도서관 상공에서 낙하산 점프를 다시 감행했다. 만 80세의 생일을 맞아 그가 노익장을 과시한 이유는 노인들에게 희망의 메시지를 전달하기 위해서였다고 한다. 그로서는 오가사와라 제도를 폭격했던 1944년, 73세이던 1997년, 그리고 75세이던 1999년에 이어서 생애 네 번째 낙하산 점프였다.

일본이 패망한 후 60년이 되는 날, 아들 부시 대통령은 고이즈미 일본 총리와 돈독한 우애를 자랑하면서 일본의 군사대국화를 지지하고 있다. 어차피 국제사회에는 영원한 적도 우방도 없다지만, 아버지와 달리 노골적으로 일본을 껴안는 부시 대통령의 태도에 왠지 모르게 씁쓸하다.

李昌偉

● 1959년 부산 출생

● 고려대 법학과 졸업, 동 대학 석사(법학), 일본 게이오대 박사(국제법)

● 외교통상부 국제법 자문위원, 해양수산부 전문위원, 해양법포럼 이사

● 現 대전대 법학부 교수

● 저서 : ‘우리의 눈으로 본 일본제국흥망사’ ‘영토분쟁과 국제법’ ‘국제사법재판소판례연구’ ‘중재판례연구’ ‘국제어업분쟁해결제도론’ ‘일본

의 해양법정책’(역서) 등

이제 일본은 어두운 과거를 외면한 채 다시 보수화, 우경화하고 있다. 우리는 군국주의의 후예들이 목소리를 높이는 일본의 앞날을 우려하지

않을 수 없다. 독도문제나 역사왜곡 문제에 단편적으로 흥분할 것이 아니라 일본을 냉정하게 바라보고 대응하는 태도가 필요한 시점이다.

(저자 주 : 본문의 특정부분은 ‘우리의 눈으로 본 일본제국흥망사’의 내용을 발췌, 정리한 것입니다.)

 

(출처 네이버 인조이 재팬)



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