生活/文化




地方や田舎出身で東京に出て来ている方は、お正月に故郷に帰るのかな? 私は、実家(元々、私の母方の祖父母の家。現在は、両親が引き継いで暮らしている)が、東京都心部の西部の、静かで落ち着いた住宅地にある我が家の近所にある為、お正月に実家に行く場合も、故郷に帰ると言うよりも、実家に、我が家から歩いて、ちょっと遊びに行くと言った感じです。



この投稿では、そんな、私の実家に暮らしていた、私の母方の祖父について話します。



ちなみに、我が家の近所の、私の実家は、敷地面積100坪程(約330平方m)の、庭がある、一戸建て住宅です。私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、現在は、両親が、その家を引き継いでいます(ちなみに、私の母は、一人娘です)。元々は、私の母方の祖母の父(山梨(yamanashi)県(東京圏の西部に隣接する県)の、裕福な地主であった)が、東京に保有していた不動産の一つであった物で(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた物。当時の中流階級の一戸建て住宅として、小さな方であったと思います)、元々の家の建物は、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物だった様ですが、現在の家の建物は、1960年代初め頃に、建替えられた物です(現在は、耐震補強もなされています)。東京中心部(東京23区内)の場合、1920年代から1930年代頃に、中流階級向けの新興住宅地として開発され初め、1960年代半ば以前には、既に結構たくさんの人々が暮らしていた様な、静かで落ち着いた住宅地は、親の家を引き継いで暮らしている人々も、結構多く(大部分は、土地だけ引き継いで、時代に合わせて、家の建物は建替えている)、こうした場合は、土地を購入する負担が無い事から、庶民や普通の中産層(私の父は、普通の会社員。私の母は、私の父と結婚してから、ずっと主婦です)でも、東京中心部(東京23区内)で、ある程度の広さの一戸建て住宅に暮らす事が可能です(ただ、敷地が、東京中心部(東京23区内)の住宅の敷地としては、かなり広い場合には、相続税の関係で無理でしょう)。



ちなみに、私の母方の祖父も、私の母方の祖母も、既に、亡くなっています。



私の母方の祖母は、地元の、山梨(yamanashi)県の、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子(女性)向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学校と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘(中流階級・中上流階級(upper-middle class)・上流階級の、家庭の娘)が通った)を、卒業した後、東京の私立の大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)に入学し、大学から東京に出て来ていました。



ちなみに、私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、先に説明した、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(前述の通り、家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、山梨(yamanashi)県で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。



私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。



私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡った為、私の母方の祖父母が、我が家の近所の私の実家(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた、一戸建て住宅)に、本格的に暮らし始めたのは、第二次世界大戦後の事です。ちなみに、私の母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです(私の母方の祖父は、当時、日本軍の将校や、日本政府の外交官等の上級官僚等、日本軍や、日本政府の、比較的、上層部の人々が乗る、飛行機等の、無線、技師(技術者)として働いていた為、収入や生活面等、比較的、優遇されていた様です。また、第二次世界大戦末期になると、日本本土では、人々は、食糧難(食料不足)に苦しみましたが、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)では、その様な事もなかったそうです)。ちなみに、私の母は、一人娘(私の母方の祖父母の、一人だけの子供)なのですが、私の母方の祖父母が、上海(Shanghai )から東京に戻って来た後に(第二次世界大戦後に)、生まれました(私の母方の祖母は、当時としては、高齢出産の方であったと思います)。



私の街には、第二次世界大戦前からの歴史を有する、日本最大級のイスラム教のモスクがあるのですが、私の母方の祖母は、生前、そのモスクの事を、ずっと、フィフィ教の教会と呼んでいました。フィフィ教は、中国語で、イスラム教を意味する言葉である様です。それは、おそらく、母方の祖母の、上海(Shanghai )での生活が影響していたのだと推測します。



ちなみに、私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母は、活発な性格で、若い頃、私の父に、一目惚れし(外貌を、一目見ただけで(見た瞬間に)、好きになり)、私の母から、私の父を誘惑し、交際をし、結婚する事になった様ですw (私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(既に亡くなっている。近所に(私の母方の祖母と同様、結婚した際に、私の母方の祖母の父に与えられていた家)に暮らしていた。私の母は、子供の頃から、よく、私の母方の祖母の姉の家に、遊びに行っていた)に似た様です)。



私の母方の祖父は、静岡(shizuoka)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)に生まれ、東京の、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。



私の母方の祖父は、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活をする事は、好みませんでしたが、無趣味と言った訳ではなく、墨絵(ink wash painting)、俳句(haiku)(日本の、伝統的な詩)、短歌(tanka)(日本の、伝統的な詩)、漢詩(中国の、伝統的な詩)、魚釣り等を趣味として、風流人的な、一面も持っていました。現在は、昔と違って、我が家の近所の、私の実家(元々、私の母方の祖父母の家。現在は、両親が、引き継いで暮らしている)の、庭の池には、錦鯉(nishikigoi)(下の補足説明参照)しか泳いでいませんが、かつて、私の実家の庭の池には、鯉、金魚の他に、私に母方の祖父が釣って来た、鮒や草魚(grass carp)等がいました。私の母は、子供の頃は、休日に、私の母方の祖父に連れられて、電車に乗って、よく、東京の西部郊外の、多摩(tama)川に釣りに行ったそうです(私の母は、全く、退屈で、つまらなかったそうですw)。

錦鯉(nishikigoi):観賞用に、養殖・品種改良された、日本の鯉の、総称。日本では、色鮮やかな、錦鯉(nishikigoi)は、庭園の池等で、多く見られる。錦鯉(nishikigoi)は、日本、及び、日本の美意識を象徴する魚として、日本の、国魚(国の魚)となっている。



私の母方の祖父は、前述の通り、元々、技師(技術者)で、完全に理系(理数系)の人でしたが、勉強熱心で(勉強に熱心で)、知識が豊富であり、特に、漢字に、とても詳しく、実家では(私の母方の祖母、私の両親、私、私の弟の間では(特に、私の母、私、私の弟の間では))、読み方や意味等が分からない漢字や四字熟語等があったら、「おじいちゃん(私の母方の祖父)に聞け」と言う事が家訓となっていましたw



私の母方の祖父は、東洋的な(日本的な)、風流人である一方で、西洋文化が好きな一面もあり、私の母方の祖父の好みに合わせて、私の実家の朝食は、西洋式でしたし、私の、母方の祖父は、食事は、どちらかと言えば、和食(日本料理)よりも、洋食(yoshoku)(日本で、近代以降、日本人の口に合う様に、(日本人の視点からすれば)改良された、西洋料理)・西洋料理の方が、好きな位でした。また、私の母方の祖父は、ウイスキー(whisky)が、好きで、毎晩、寝る前に、必ず、ウイスキー(whisky)を飲んでいました(前述の通り、私の母方の祖父は、つましかったので、いつも飲んでいたのは、Suntory(nikkaと共に、日本の、2大、ウイスキー(whisky)会社)の、「SUNTORY OLD」と言う、安い、大衆的な、ウイスキー(whisky)でしたが。。。)。



あと、私の母方の祖父は、新宿(東京都心部の西部に位置する。東京最大級の繁華街の一つ。ちなみに、新宿は、東京の大規模繁華街の中で、我が家、及び、我が家の近所の実家から、最も近い繁華街の一つで、我が家、及び、我が家の近所の実家の最寄り駅から新宿までは、通勤電車で5分程です)にある、鰻料理店の、登亭(noboritei)の鰻がお気に入りで、よく家族(私の母方の祖母、私の両親、私、弟)に買って来ました。鰻は、大衆料理の中では、高い物ですが、おそらく、私の母方の祖父が、登亭(noboritei)の鰻が、お気に入りであったのは、登亭(noboritei)の鰻が、鰻料理店の、鰻としては、安かった為であり、そこにも、私の母方の祖父の、つましい性格が表れていると思います。



前述の通り、母方の祖父は、第二次世界大戦以前は、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員として働いていたのですが、書道(Japanese calligraphy )を趣味の一つとしており、会社員として働いていた時に、書道(Japanese calligraphy )の師範(先生)の資格を取り、会社員を定年退職した後、亡くなる近くまで、ずっと、趣味と実益を兼ねて、家(我が家の近所の私の実家)で、近所の、子供や女子(女性の)中学生・高校生達に、書道(Japanese calligraphy )を教える等して(ちゃんと報酬を貰っていた)、書道(Japanese calligraphy )関連の仕事で、報酬を得ていました。



ちなみに、私は子供の頃、基本的には、母方の祖父母に目に入れても痛くない程可愛がられていたのですが、私は兄弟姉妹は2歳年下の弟が一人いるのですが、子供の頃、弟と一緒に、初めて母方の祖父に、書道(Japanese calligraphy )を習った際に、弟と共に、はしゃぎ過ぎてしまってw、孫に対して滅多に怒らない祖父をイライラさせて怒らせてしまって、それきり、母方の祖父に、書道(Japanese calligraphy )は習いませんでした。



私は書道(Japanese calligraphy )どころか、普通に書く時も下手で汚く、自分の書いた字が読めないと人に言われる事もしばしばありますw(そういう時は、達筆過ぎて読めないんじゃないか?等と冗談を言ったりしていますw)。私は、過去に、半分本気で通信教育でペン習字を習おうかなと思っていた時もあるくらいですw



ちなみに私の母も字が下手で、実家暮らしの、子供の頃・若い頃、母の書いた(用件を伝えたり・外出するの際の)メモ書きの字が読めなくてしばしば苦労しましたw(母は一人っ子で、母方の祖母も字は下手と言う訳ではなかったと思うのに、母の字の下手さは誰の隔世遺伝なのかは分かりませんw)。






前にkjで、アップ(upload)した写真の、再利用。朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王。かつて、後述する、自然教育園の隣接地に暮らしていた宮家(天皇の親族)の男性です。私の、母方の、祖父は、身長は、165cm位と小柄で、体形は、痩せていて(痩せ型の体質で)、肌の色は、どちらかと言えば色黒で(黒く)、外貌の雰囲気は、調度、この写真の、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王のような感じでした(顔も、この写真の、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王の顔と似ていると言う訳ではありませんが、似た雰囲気の顔ではありました)。ちなみに、私の家族の肌の色は、父(白)、母(白)、私の弟(白)で、私だけ、どちらかと言えば黒なのですが、それは(私の肌の色は)、おそらく、母方の祖父からの隔世遺伝です(私の肌の色は、例えがイケメン俳優さんで申し訳ありませんがw、調度、竹野内 豊さんと同じ位の感じです(ちなみに、どうでも良い事ですがw、私よりも竹野内豊さんの方がまあまあ年上です))。


ちなにに、私の母方の祖母は、若い頃の写真を見ると、中々、綺麗で、(自分の親族に対して言うのもなんなのですが)美人なのですが、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw


私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)で、私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが、私の母の、痩せの大食いの体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)は、私の母方の祖父、又は、私の母方の祖母の姉(やはり、生涯、痩せている体質であった)に似たのだと思います。ちなみに、私の母は、身長は、163cm位と、私の母の世代の女性にしては、比較的、高い方ですが、それは、母方の祖母(私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方であった)からの遺伝であると思います。ちなみに、私の父の家系は、長身の家系です。





自然教育園は、白金(shirokane)エリア(area)(東京都心部の南西部(東京都心部でも中心的な地域の南西端部)に位置する)にある、とても広い、公園と言うか、森です。


自然教育園は、私の、母方の祖父の、お気に入りの場所で、私の母方の祖父は、生前、自然教育園を、よく散歩していました(母方の祖父は、整備された公園を散歩するよりも、この様な場所(自然教育園の様な場所)を散歩する方が、好きだったのかもしれません)。また、私が、幼い頃から、子供の頃、私の母方の祖父は、自然教育園を散歩する際に、私を、よく連れて行きました。私の母方の祖父としては、私を連れて行ってあげたと言う感覚であったと思いますが、(幼い頃から、子供の頃であったので、記憶が曖昧ですが)、当時の(自然の景色を楽しむと言う感覚に乏しかった、幼い頃から子供の頃の)私としては、おそらく、私の方が、祖父の散歩に付き合ってあげたと言う感覚であったと思いますw(まあ、幼い頃から、子供の頃、優しい祖父と、出掛けるのは、楽しかったですが。。。)。


ちなみに、私の母方の祖父、私の父、私を比較すると、私が、一番、趣味がない(無趣味)なような気がします。子供の頃から、受身の状態で、多様な、大量の情報に囲まれている、現代の、中年層・若者の方が、それよりも前の世代の人々と比べて、むしろ、趣味は、少ないのかもしれません。



写真以下10枚。前に、kjに、アップ(upload)した写真の、再利用。自然教育園の風景例。






























































































写真以下3枚。前に、kjに、アップ(upload)した写真の、再利用。かなり前になりますが、我が家の近所の実家で見付けた、(個人的に)興味深い本。富士屋(fujiya)ホテルが、かつて(1930年代から)、発行していた、外国人宿泊客向けの、英語で、日本文化等を紹介する本。富士屋(fujiya)ホテルは、箱根(hakone)を代表する、高級resortホテルの一つです。富士屋(fujiya)ホテルは、前身の温泉旅館時代も含めると(16世紀後半には、韓国では悪名が高い(悪い意味で有名な)、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)も宿泊しました)、14世紀末からの(600年以上もの)歴史を有する(近代的なリゾート(resort)ホテルに変わってからの歴史は、1878年から)、箱根(hakone)を代表する高級リゾート(resort)ホテルです。




























私は、その時の事に関して、kjで、アップ(upload)していますが、私は、去年の、2月の終わりに、(我が家の近所の私の実家の)両親を連れて、箱根(hakone)の、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊して来ました。



私の2歳年下の弟(東京の西部郊外に暮らしています)は、既に、結婚して、子供がいて、今は、子育てに忙しいので、今の所、こう言う役割は、私と言う事で。。。



一昨年の12月の初めに、両親を連れて、箱根(hakone)の、萬翠楼 福住(bansuiro fukuzumi)と言う、温泉旅館に宿泊して来た時に(その時、両親と旅行したのは、とても久しぶりでした。その時の事も、kjで、アップ(upload)しています)、勢いで、両親に、今度、富士屋(fujiya)ホテルに連れて行くと言ってしまった事が、その時の、両親を連れた、富士屋(fujiya)ホテルの宿泊に、繋がりましたw(ちなみに、それから、私は、両親を旅行に連れて行っていませんし、これから、やや、しばらくの間は、両親を連れて旅行に行くかどうかは、ちょっと分かりませんw)。



富士屋(fujiya)ホテルがある、箱根(hakone)(東京圏(東京圏の南部を占める県である、神奈川(kanagawa)県)の、南西端部に位置します)は、日光(nikko)(栃木(tochigi)県(東京圏の北端に位置する県)に位置する)と並ぶ、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地です。ちなみに、箱根(hakone)は、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地であり、私の両親は、よく、箱根(hakone)に訪れていますし、私も、今まで、たくさん、箱根(hakone)に訪れています。



金谷(kanaya)ホテル(日光(nikko)を代表する、歴史のある高級リゾート(resort)ホテル。1873年開業)は、私は、子供の頃、私の母方の祖父に連れられて、(私の母方の祖父母、両親、弟と共に)、3回、大人になってから1回の、合計4回、宿泊した事があります。私の両親は、金谷(kanaya)ホテルは、私が、子供の頃に、私の母方の祖父(私の母方の祖父母)に連れられて、子供と共に(私と、私の弟と共に)、3回、宿泊した事があります。



前述の通り、私の母方の祖父は、普段の生活は、つましかったですが、何故か、家族を(妻、娘夫婦、孫)を、金谷(kanaya)ホテルに連れて行く事に関しては、気前が良かったです。ちなみに、日光(nikko)は、私の母方の祖父の、お気に入りの場所でした。





私は、富士屋(fujiya)ホテルは、今まで、6回、宿泊しています。



(亡くなった)私の母方の祖父母は、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊した事がありましたが、私の母は、その時まで、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊した事がありませんでした。また、私の父は、その時まで、富士屋(fujiya)ホテルは、会社の研修で、一度、宿泊した事がありましたが、個人的な旅行で宿泊した訳ではないので、富士屋(fujiya)ホテルの雰囲気を、ゆっくりと味わう事は、全く、出来なかったそうです。その様な事から、一昨年の12月の初めに、両親を連れて、箱根(hakone)の、萬翠楼 福住(bansuiro fukuzumi)と言う、温泉旅館に宿泊して来た時に(その時、両親と旅行したのは、とても久しぶりでした)、弾みで(勢いで)、両親に、今度、富士屋(fujiya)ホテルに連れて行くと言ってしまった事が、その時の、両親を連れた、富士屋(fujiya)ホテルの宿泊に繋がりましたw



写真以下8枚。前に、kjで、アップ(upload)した写真の再利用。富士屋(fujiya)ホテルの風景例。





























尾長鶏の彫刻。尾長鶏は、日本の、鶏の品種の一つで、日本の天然記念物に指定されています。17世紀半ば頃、突然変異で生まれたと伝えられています。雄の、尾の羽が、極端に長くなるのが特徴です。鶏は、通常一年に一度羽が生え換わりますが、雄の尾長鶏は、尾の羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなります。現存する、世界の鳥(鳥類)の中で、最も長い尾を持ち、12mと言う記録もあります。完全に観賞用の鶏です。説明は、wiki及び、国立科学博物館の説明文を参考にしました。









本館(1891年完成)の、中央の階段(写真)の、手すりには、一本の木を、少しずつ湾曲させて作る、曲げ木の技法が、取り入れられています。湿度や、木質によって、微妙に変化する、天然の木を、長い時間、ずれないように、組み合わせるのは、高度な、技術を必要とされます(富士屋(fujiya)ホテルのパンフレット(booklet)の説明文より。。。)































以下3つ。その時の、両親を連れた、富士屋(fujiya)ホテルの宿泊した際の投稿です。ちなみに、その時の、両親の、富士屋(fujiya)ホテルの印象が良かったらしく、両親は、その時から今まで、2回、夫婦で、富士屋(fujiya)ホテルに宿泊している様です。


 古典的ホテルに宿泊&食べ物1→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62268/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


 古典的ホテルに宿泊&食べ物2→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62269/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


 古典的ホテルに宿泊&食べ物3→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62270/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon










외가의 조부의 이야기




지방이나 시골 출신으로 도쿄에 나와 있는 분은, 설날에 고향에 돌아가는 것일까? 나는, 친가(원래, 나의 외가의 조부모의 집.현재는, 부모님이 계승하며 살고 있다)가, 도쿄도심부의 서부의, 조용하고 침착한 주택지에 있는 우리 집의 부근에 있기 때문에(위해), 설날에 친가에 가는 경우도, 고향에 돌아간다고 하는 것보다도, 친가에, 우리 집으로부터 걷고, 조금 놀러 간다고 한 느낌입니다.



이 투고에서는, 그런, 나의 친가에 살고 있던, 나의 외가의 조부에 대해 이야기합니다.



덧붙여서, 우리 집의 부근의, 나의 친가는, 부지면적 100평 정도( 약 330평방 m)의, 뜰이 있다, 독립주택입니다.나의 친가는, 원래, 나의 외가의 조부모의 집에서, 현재는, 부모님이, 그 집을 계승하고 있습니다(덧붙여서, 나의 어머니는, 외동딸입니다).원래는, 나의 외가의 조모의 부(야마나시(yamanashi) 현(동경권의 서부에 인접하는 현)의, 유복한 지주였다)이, 도쿄에 보유하고 있던 부동산의 하나인 것으로( 나의 외가의 조모의 아버지가, 나의 외가의 조모가 결혼했을 때에, 나의 외가의 조부모에게 준 것.당시의 중류 계급의 단독주택 주택으로서 작은 분이었다고 생각합니다), 원래의 집의 건물은, 1920년대무렵?에 지어진, 일본 전통식의 주택의 건물이었다 님입니다만, 현재의 집의 건물은, 1960년대 초 무렵에, 개축물입니다(현재는, 내진 보강도 이루어지고 있습니다).도쿄 중심부(도쿄 23 구내)의 경우, 1920년대부터 1930년대무렵에, 중류 계급 전용의 신흥 주택지로서 개발되어 처음, 1960년대 중반 이전에는, 이미 상당히 많은 사람들이 살고 있던 님, 조용하고 침착한 주택지는, 부모의 집을 계승하며 살고 있는 사람들도, 상당히 많아(대부분은, 토지만 계승하고, 시대에 맞추고, 집의 건물은 개축이라고 있다), 이러한 경우는, 토지를 구입하는 부담이 없는 일로부터, 서민이나 보통 중산층( 나의 아버지는, 보통 회사원.나의 어머니는, 나의 아버지와 결혼하고 나서, 쭉 주부입니다)에서도, 도쿄 중심부(도쿄 23 구내)에서, 있다 정도의 넓이의 독립주택에 사는 것이 가능합니다(단지, 부지가, 도쿄 중심부(도쿄 23 구내)의 주택의 부지로서는, 꽤 넓은 경우에는, 상속세의 관계로 무리이겠지요).



덧붙여서, 나의 외가의 조부도, 나의 외가의 조모도, 이미, 죽습니다.



나의 외가의 조모는, 현지의, 야마나시(yamanashi) 현의, 여학교(제이차 세계대전 이전의 일본에 있어서의, 여자(여성) 보내의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학교와 고등학교에 해당된다.제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)(중류 계급·나카가미류계급(upper-middleclass)·상류계급의, 가정의 딸(아가씨))가 다녔다)를, 졸업한 후, 도쿄의 사립의 대학(뭐, 당시는, 그 전신의 고등교육 기관이었지만)에 입학해, 대학에서 도쿄로 나와 있었습니다.



덧붙여서, 나의 외가의 조모는, 도쿄에서의 학생시절·독신 시대, 나의 외가의 조모의 아버지가, 도쿄의 아자부(azabu)(도쿄도심부의 고급 주택지의 하나)에 보유하고 있던 도쿄의 별택에 살고 있었다고 합니다.나의 외가의 조모의 아버지는, 당시 , 도쿄 및 그 교외(현재의 도쿄 23 구내)에, 몇개의, 토지와 집을 보유해, 사람에게 빌려 주거나 또, 용무가 있고, 도쿄에 나올 때의, 체재지등으로서 사용하거나 하고 있었습니다만, 그 안의 하나가, ( 나의 외가의 조모가, 맞선에 의해서, 나의 외가의 조부와 결혼했을 때에) 나의 외가의 조부모에게, 주어졌습니다.이것이, 먼저 설명한, 내가, 태어나 자란 우리 집의 부근의 친가입니다(상술한 대로, 집의 건물은, 내가 태어나기 전에 다시 세워지고 있습니다).삼베(azabu)의 집은, 이것보다, 훨씬 크고, 훌륭했다고 합니다만, 제2차 세계대전 후, 타인의 손에 건너 버렸다고 합니다( 나의 외가의 조모의 친가는, 전후, 서서히, 몰락해서 간 님입니다.현재 도, 일단, 야마나시(yamanashi) 현에서, 조금은, 훌륭한 집에 살고 있는 것 같습니다만...).



나의 외가의 조모는, 맞선( 나의 외가의 조모의 아버지( 나의 외가의 증조부)의 아는 사람의 소개)에 의해, 나의 외가의 조부와 알게 되어, 결혼했습니다.나의 외가의 조모는, 나의 외가의 조부와 결혼하고 나서, 쭉 주부를 하고 있었습니다.무엇보다, 나의 외가의 조모는, 제이차 세계대전이 끝날 때까지는, 도쿄에서의, 학생시절·독신 시대를 포함하고, 쭉, 메이드(maid)가 있는(메이드(maid)에게 신변을 돌봐 받는다) 생활이었으므로, 주부라고는 해도, 나의 외가의 조모가, 태어나고 처음으로, 본격적으로 가사를 하는 것처럼 된 것은, 제이차 세계대전 후부터에서 만난 님입니다.



나의 외가의 조부모는, 결혼해 머지 않아, 나의 외가의 조부의 일의 관계로, 중국의, 샹하이(Shanghai )에 건넌 때문, 나의 외가의 조부모가, 우리 집의 부근의 나의 친가( 나의 외가의 조모의 아버지가, 나의 외가의 조모가 결혼했을 때에, 나의 외가의 조부모에게 준, 독립주택)에, 본격적으로 살기 시작한 것은, 제이차 세계대전 후의 일입니다.덧붙여서, 나의 외가의 조부모의, 샹하이(Shanghai)의, 일본 조계(일본인용의 외국인 거류지)에서의, 생활은, 훌륭한 집에 살아, 부부 두 명만의 생활에, 두 명의, 중국인의, 메이드(maid)가 있는 생활이었다고 합니다( 나의 외가의 조부는, 당시 , 일본군의 장교나, 일본 정부의 외교관등의 상급 관료등 , 일본군이나, 일본 정부의, 비교적, 상층부의 사람들이 타는, 비행기등의, 무선, 기사(기술자)로서 일하고 있던 때문, 수입이나 생활면등 , 비교적, 우대 되고 있던 님입니다.또, 제이차 세계대전 말기가 되면, 일본 본토에서는, 사람들은, 식량난(식료 부족)에 괴로워했습니다만, 샹하이(Shanghai )의, 일본 조계(일본인용의 외국인 거류지)에서는, 그 님일도 없었다고 합니다).덧붙여서, 나의 어머니는, 외동딸( 나의 외가의 조부모의, 한 명만의 아이)입니다만, 나의 외가의 조부모가, 샹하이(Shanghai)(으)로부터 도쿄에 돌아온 후에(제이차 세계대전 후에), 태어났습니다( 나의 외가의 조모는, 당시로서는, 고령 출산의 분이었다고 생각합니다).



나의 거리에는, 제이차 세계대전 전부터의 역사를 가지는, 일본 최대급의 이슬람교의 회교 사원이 있다의입니다만, 나의 외가의 조모는, 생전, 그 회교 사원의 일을, 쭉, 피피교의 교회라고 부르고 있었습니다.피피교는, 중국어로, 이슬람교를 의미하는 말인 님입니다.그것은, 아마, 외가의 조모의, 샹하이(Shanghai )에서의 생활이 영향을 주고 있었던 것이라고 추측합니다.



덧붙여서, 나의, 외가의 조모는, 얌전하고, 품위있는 성격이었습니다만, 나의 어머니는, 활발한 성격으로, 젊은 무렵, 나의 아버지에게, 한 눈 반해(외모를, 한번 본 것만으로(본 순간에), 좋아하게 되어), 나의 어머니로부터, 나의 아버지를 유혹해, 교제를 해, 결혼하는 일이 된 님입니다 w( 나의 어머니의 활발한 성격은, 나의 외가의 조모의 언니(누나)(이미 죽는다.근처에( 나의 외가의 조모와 같이, 결혼했을 때에, 나의 외가의 조모의 아버지에게 줄 수 있고 있던 집)에 살고 있었다.나의 어머니는, 어릴 적부터, 자주(잘), 나의 외가의 조모의 언니(누나)의 집에, 놀러 가고 있던)를 닮은 님입니다).



나의 외가의 조부는, 시즈오카(shizuoka) 현(일본의 중부 지방에 위치하는 현의 하나)에서 태어나 도쿄의, 대학(뭐, 당시는, 그 전신의 고등교육 기관이었지만)을 졸업한 후, 제이차 세계대전까지는, 기사(기술자), 제이차 세계대전 후는, 회사원을 하고 있었습니다.나의 외가의 조부의 친가는, 유복했다고 하는 이야기는 듣지 않고, 또, 일까하고 말하고, 궁핍했다고, 고학했다든가(금전면에서, 고생하고, 도쿄의, 대학을 졸업했다)라고 하는 이야기도 듣지 않았기 때문에, 뭐, 중류의 농가(중류의 농민의 집), 혹은, 회사원·공무원등의, 가정에서 만난 것은 아닐까요...



나의 외가의 조부는, 보수적이고, 견실, 성실하고, 생활은, 검소하고, 화려한 생활을 하는 일은, 좋아하지 않았습니다만, 무취미라고 말한 것은 아니고, 묵화(ink washpainting), 하이쿠(haiku)(일본의, 전통적인 시), 단가(tanka)(일본의, 전통적인 시), 한시(중국의, 전통적인 시), 낚시질등을 취미로서 풍류인적인, 일면도 가지고 있었습니다.현재는, 옛날과 달리, 우리 집의 부근의, 나의 친가(원래, 나의 외가의 조부모의 집.현재는, 부모님이, 계승하며 살고 있다)의, 뜰의 연못에는, 비단잉어(nishikigoi)(아래의 보충 설명 참조) 밖에 헤엄치고 있지 않습니다만, 일찌기, 나의 친가의 뜰의 연못에는, 잉어, 금붕어 외에, 나에게 외가의 조부가 낚시해 온, 부나 초어(grasscarp) 등이 있었습니다.나의 어머니는, 어릴 적은, 휴일에, 나의 외가의 조부 에 이끌리고, 전철을 타고, 자주(잘), 도쿄의 서부 교외의, 타마(tama) 강에 낚시하러 갔다고 합니다( 나의 어머니는, 완전히, 지루하고, 시시했다고 합니다 w).

비단잉어(nishikigoi):관상용으로, 양식·품종 개량 된, 일본의 잉어의, 총칭.일본에서는, 선명한, 비단잉어(nishikigoi)는, 정원의 연못등에서, 많이 볼 수 있다.비단잉어(nishikigoi)는, 일본, 및, 일본의 미의식을 상징하는 물고기로서 일본의, 국어(나라의 물고기)가 되고 있다.



나의 외가의 조부는, 상술한 대로, 원래, 기사(기술자)로, 완전하게 이과(이수계)의 사람이었지만, 공부 열심이고(공부에 열심이고), 지식이 풍부하고, 특히, 한자에, 매우 자세하고, 친가에서는( 나의 외가의 조모, 나의 부모님, 나, 나의 남동생의 사이에서는(특히, 나의 모, 나, 나의 남동생의 사이에서는)), 읽는 법이나 의미등을 모르는 한자나 4자 숙어등이 있으면, 「할아버지( 나의 외가의 조부)에게 (들)물을 수 있다」라고 하는 것이 가훈이 되고 있었던 w



나의 외가의 조부는, 동양적인(일본적인), 풍류인인 한편으로, 서양 문화를 좋아하는 일면도 있어, 나의 외가의 조부 홍`D 봐에 맞추고, 나의 친가의 아침 식사는, 서양식였고, 나의, 외가의 조부는, 식사는, 어느 쪽일까하고 말하면, 일식(일본 요리)보다, 양식(yoshoku)(일본에서, 근대 이후, 일본인이 입맛에 맞는 것처럼, (일본인의 시점으로부터 하면) 개량된, 서양 요리)·서양 요리가, 좋아하는 정도였습니다.또, 나의 외가의 조부는, 위스키(whisky)가, 좋아하고, 매일 저녁, 자기 전에, 반드시, 위스키(whisky)를 마시고 있었던(상술한 대로, 나의 외가의 조부는, 검소했기 때문에, 언제나 마시고 있던 것은, Suntory(nikka와 함께, 일본의, 2대, 위스키(whisky) 회사)의, 「SUNTORYOLD」라고 하는, 싼, 대중적인, 위스키(whisky)였지만...).



그리고, 나의 외가의 조부는, 신쥬쿠(도쿄도심부의 서부에 위치한다.도쿄 최대급의 번화가의 하나.덧붙여서, 신쥬쿠는, 도쿄의 대규모 번화가안에서, 우리 집, 및, 우리 집의 부근의 친가로부터, 가장 가까운 번화가의 하나로, 우리 집, 및, 우리 집의 부근의 친가의 근처역에서 신쥬쿠까지는, 통근 전철로 5분 정도입니다)에 있는, 뱀장어 요리점의, 등정(noboritei)의 뱀장어가 마음에 드는 것으로, 자주(잘) 가족( 나의 외가의 조모, 나의 부모님, 나, 남동생)에게 사 왔습니다.뱀장어는, 대중 요리 중(안)에서는, 비싼 것입니다만, 아마, 나의 외가의 조부가, 등정(noboritei)의 뱀장어가, 마음에 드는 것인 것은, 등정(noboritei)의 뱀장어가, 뱀장어 요리점의, 뱀장어로서는, 쌌던 때문이며, 거기에도, 나의 외가의 조부의, 검소한 성격이 나타나고 있다고 생각합니다.



상술한 대로, 외가의 조부는, 제이차 세계대전 이전에는, 기사(기술자), 제이차 세계대전 후는, 회사원으로서 일하고 있었습니다만, 서도(Japanese calligraphy )를 취미의 하나로서 내려 회사원으로서 일하고 있었을 때에, 서도(Japanese calligraphy)의 사범(선생님)의 자격을 취득해, 회사원을 정년퇴직한 후, 죽는 근처까지, 쭉, 취미와 실익을 겸하고, 집(우리 집의 부근의 나의 친가)에서, 근처의, 아이나 여자(여성의) 중학생·고교생들에게, 서도(Japanese calligraphy )를 가르치는 등 하고(제대로 보수를 받고 있던), 서도(Japanese calligraphy ) 관련의 일로, 보수를 얻고 있었습니다.



덧붙여서, 나는 어릴 적, 기본적으로는, 외가의 조부모가 눈에 들어올 수 있어도 아프지 않을 수록 귀여워해지고 있었습니다만, 나는 형제 자매는 2세 연하의 남동생이 한 명 있습니다만, 어릴 적, 남동생과 함께, 처음으로 외가의 조부에게, 서도(Japanese calligraphy )를 배웠을 때에, 남동생과 함께, 너무 까불며 떠들어서 버려 w, 손자에 대해서 분별없게 화내지 않는 조부를 초조 시켜 화나게 해 버리고, 그 뒤로, 외가의 조부에게, 서도(Japanese calligraphy )는 배우지 않았습니다.



나는 서도(Japanese calligraphy)(은)는 커녕, 보통으로 쓸 때도 서투르고 더럽고, 자신이 쓴 글자를 읽을 수 없다고 사람에게 듣는 일도 자주 있어요 w(그러한 때는, 달필 지나 읽을 수 없지 않을까?등으로 농담을 하거나 하고 있는 w).나는, 과거에, 반진심으로 통신교육으로 펜습자를 배울까라고 생각했을 때도 있을 정도입니다 w



덧붙여서 나의 어머니도 글자가 서투르고, 친가 생활의, 어릴 적·젊은 무렵, 어머니가 쓴(용건을 전하거나·외출하는 것 때의) 메모 쓰기의 글자를 읽을 수 없어 자주 고생했던 w(어머니는 독자로, 외가의 조모도 글자는 서투름이라고 말하는 것은 아니었다고 생각하는데, 어머니의 글자의 서투름은 누구의 격세 유전인가는 모릅니다 w).






전에 kj로, 업(upload) 한 사진의, 재이용.아사카궁(asakanomiya) 비둘기언(yasuhiko) 왕.일찌기, 후술 하는, 자연 교육원의 인접지에 살고 있던 황족의 집안(천황의 친족)의 남성입니다.나의, 외가의, 조부는, 신장은, 165 cm위로 몸집이 작고, 체형은, 야위고 있고(마름형의 체질로), 피부의 색은, 어느 쪽일까하고 말하면 색흑으로(검고), 외모의 분위기는, 세간, 이 사진의, 아사카궁(asakanomiya) 비둘기언(yasuhiko) 왕과 같은 느낌이었습니다(얼굴도, 이 사진의, 아사카궁(asakanomiya) 비둘기언(yasuhiko) 왕의 얼굴과 닮아 있다고 하는 것이 아닙니다만, 닮은 분위기의 얼굴이었습니다).덧붙여서, 나의 가족의 피부의 색은, 부(백), 모(흰색), 나의 남동생(흰색)으로, 나만, 어느 쪽일까하고 말하면 검은 것입니다만, 그것은( 나의 피부의 색은), 아마, 외가의 조부로부터의 격세 유전입니다( 나의 피부의 색은, 비유가 이케멘 배우씨로 죄송합니다만 w, 세간, 타케노우치 유타카씨와 같은 정도의 느낌입니다(덧붙여서, 꼭 좋은 일입니다만 w, 나보다 타케노우치 유타카 씨가 그저 연상입니다)).


뭐에, 나의 외가의 조모는, 젊은 무렵의 사진을 보면, 꽤, 깨끗하고, (자신의 친족에 대해서 말하는 것도입니다만) 미인입니다만, 나는, 살쪄 버리고, 젊은 무렵과 상당히, 바뀌어 버리고 나서의, 외가의 조모의 모습 밖에 모릅니다 w


나의 어머니는, 마름의 대식(대식이라고 말해도, 표준보다 조금 많이 먹는 정도입니다만)의 체질(비교적, 많이 먹어도 야위고 있는 체질)로, 나도, 나의 어머니로부터의 유전으로, 마름의 대식(역시, 대식이라고 말해도, 표준보다 조금 많이 먹는 정도입니다만)의 체질(비교적, 많이 먹어도 야위고 있는 체질)입니다만, 나의 어머니의, 마름의 대식의 체질(비교적, 많이 먹어도 야위고 있는 체질)은, 나의 외가의 조부, 또는, 나의 외가의 조모의 언니(누나)(역시, 생애, 야위고 있는 체질인)를 닮았던 것이라고 생각합니다.덧붙여서, 나의 어머니는, 신장은, 163 cm위와 나의 어머니의 세대의 여성으로서는, 비교적, 비싼 분입니다만, 그것은, 외가의 조모( 나의, 외가의 조모는, 신장은, 160 cm위와 조모의 세대의 여성으로서 (은)는, 비교적, 비싼 분이었다)로부터의 유전이다고 생각합니다.덧붙여서, 나의 아버지의 가계는, 장신의 가계입니다.





자연 교육원은, 백금(shirokane) 에리어(area)(도쿄도심부의 남서부(도쿄도심부에서도 중심적인 지역의 남서 단부)에 위치한다)에 있다, 매우 넓은, 공원이라고 말하는지, 숲입니다.


자연 교육원은, 나의, 외가의 조부의, 마음에 드는 장소에서, 나의 외가의 조부는, 생전, 자연 교육원을, 자주(잘) 산책하고 있었던(외가의 조부는, 정비된 공원을 산책하는 것보다도, 이와 같은 장소(자연 교육원과 같은 장소)를 산책하는 것이, 좋아했던가도 알려지지 않습니다).또, 내가, 어릴 적부터, 어릴 적, 나의 외가의 조부는, 자연 교육원을 산책할 때에, 나를, 잘 데리고 갔습니다.나의 외가의 조부로서는, 나를 데려서 가 주었다고 하는 감각이었다고 생각합니다만, (어릴 적부터, 어릴 적이었으므로, 기억이 애매합니다만), 당시의(자연의 경치를 즐긴다고 하는 감각이 부족했다, 어릴 적부터 어릴 적의) 나로서는, 아마, 제 쪽이, 조부의 산책에 교제해 주었다고 하는 감각이었다고 생각하는 w(뭐, 어릴 적부터, 어릴 적, 여`D주위 조부와 나가는 것은, 즐거웠습니다만...).


덧붙여서, 나의 외가의 조부, 나의 아버지, 나를 비교하면, 내가, 제일, 취미가 없는(무취미)같은 생각이 듭니다.어릴 적부터, 수동 상태로, 다양한, 대량의 정보로 둘러싸여 있는, 현대의, 중년층·젊은이가, 그것보다 전의 세대의 사람들과 비교해서, 오히려, 취미는, 적은 것인지도 알려지지 않습니다.



사진 이하 10매.전에, kj에, 업(upload) 한 사진의, 재이용.자연 교육원의 풍경예.






























































































사진 이하 3매.전에, kj에, 업(upload) 한 사진의, 재이용.꽤 전이 됩니다만, 우리 집의 부근의 친가에서 찾아낸, (개인적으로) 흥미로운 책.후지야(fujiya) 호텔이, 일찌기(1930년대부터), 발행하고 있던, 외국인 숙박객 전용의, 영어로, 일본 문화등을 소개하는 책.후지야(fujiya) 호텔은, 하코네(hakone)를 대표하는, 고급 resort 호텔의 하나입니다.후지야(fujiya) 호텔은, 전신의 온천 여관 시대도 포함하면(16 세기 후반에는, 한국에서는 악명이 높은(나쁜 의미로 유명한), 토요토미 히데요시(toyotomi hideyoshi)도 숙박했습니다), 14 세기말로부터의(600년 이상의) 역사를 가지는(근대적인 리조트(resort) 호텔로 바뀌고 나서의 역사는, 1878년부터), 하코네(hakone)를 대표하는 고급 리조트(resort) 호텔입니다.




























나는, 그 때의 일에 관해서, kj로, 업(upload) 하고 있습니다만, 나는, 작년의, 2월의 마지막에, (우리 집의 부근의 나의 친가의) 부모님을 동반하고, 하코네(hakone)의, 후지야(fujiya) 호텔에 숙박해 왔습니다.



나의 2세 연하의 남동생(도쿄의 서부 교외에 살고 있습니다)은, 이미, 결혼하고, 아이가 있고, 지금은, 육아에 바쁘기 때문에, 지금 단계, 이렇게 말하는 역할은, 나라고 하는 것으로...



재작년의 12 월초에, 부모님을 동반하고, 하코네(hakone)의, 만취루후쿠스미(bansuirofukuzumi)라고 말하는, 온천 여관에 숙박해 왔을 때에(그 때, 부모님과 여행한 것은, 매우 오래간만이었습니다.그 때의 일도, kj로, 업(upload) 하고 있습니다), 기세로, 부모님에게, 이번, 후지야(fujiya) 호텔에 데리고 간다고 해 버린 일이, 그 때의, 부모님을 동반한, 후지야(fujiya) 호텔의 숙박에, 연결되었던 w(덧붙여서, 그리고, 나는, 부모님을 여행에 데려서 가고 있지 않고, 지금부터, 약간, 당분간의 사이는, 부모님을 동반하고 여행하러 갈지 어떨지는, 잘 모릅니다 w).



후지야(fujiya) 호텔이 있다, 하코네(hakone)(동경권(동경권의 남부를 차지하는 현인, 카나가와(kanagawa) 현)의, 남서 단부에 위치합니다)는, 닛코(nikko)(토치기(tochigi) 현(동경권의 북단에 위치하는 현)에 위치한다)과 대등한, 도쿄 근교를 대표하는 리조트(resort) 지·보양지·관광지·피서지입니다.덧붙여서, 하코네(hakone)는, 도쿄 근교를 대표하는 리조트(resort) 지·보양지·관광지·피서지이며, 나의 부모님은, 자주(잘), 하코네(hakone)에 방문하고 있고, 나도, 지금까지, 많이, 하코네(hakone)에 방문하고 있습니다.



카나야(kanaya) 호텔(닛코(nikko)를 대표하는, 역사가 있는 고급 리조트(resort) 호텔.1873년 개업)은, 나는, 어릴 적, 나의 외가의 조부 에 이끌리고, ( 나의 외가의 조부모, 부모님, 남동생과 함께), 3회, 어른이 되고 나서 1회의, 합계 4회, 숙박한 일이 있어요.나의 부모님은, 카나야(kanaya) 호텔은, 내가, 어릴 적에, 나의 외가의 조부( 나의 외가의 조부모) 에 이끌리고, 아이와 함께( 나와 나의 남동생과 함께), 3회, 숙박한 일이 있어요.



상술한 대로, 나의 외가의 조부는, 평상시의 생활은, 검소했습니다만, 왜일까, 가족을(아내, 딸(아가씨) 부부, 손자)을, 카나야(kanaya) 호텔에 데리고 가는 일에 관해서는, 기질이 좋았습니다.덧붙여서, 닛코(nikko)는, 나의 외가의 조부의, 마음에 드는 장소였습니다.





나는, 후지야(fujiya) 호텔은, 지금까지, 6회, 숙박하고 있습니다.



(죽은) 나의 외가의 조부모는, 후지야(fujiya) 호텔에 숙박한 일이 있었습니다만, 나의 어머니는, 그 때까지, 후지야(fujiya) 호텔에 숙박한 일이 없었습니다.또, 나의 아버지는, 그 때까지/`A후지야(fujiya) 호텔은, 회사의 연수로, 한 번, 숙박한 일이 있었습니다만, 개인적인 여행으로 숙박한 것은 아니기 때문에, 후지야(fujiya) 호텔의 분위기를, 천천히 맛보는 일은, 완전히, 할 수 없었다고 합니다.그 님일로부터, 재작년의 12 월초에, 부모님을 동반하고, 하코네(hakone)의, 만취루후쿠스미(bansuiro fukuzumi)라고 말하는, 온천 여관에 숙박해 왔을 때에(그 때, 부모님과 여행한 것은, 매우 오래간만이었습니다), 탄력으로(기세로), 부모님에게, 이번, 후지야(fujiya) 호텔에 데리고 간다고 해 버린 일이, 그 때의, 부모님을 동반한, 후지야(fujiya) 호텔의 숙박에 연결되었던 w



사진 이하 8매.전에, kj로, 업(upload) 한 사진의 재이용.후지야(fujiya) 호텔의 풍경예.





























물까치계의 조각.물까치계는, 일본의, 닭의 품종의 하나로, 일본의 천연기념물로 지정되어 있습니다.17 세기 중반무렵, 돌연변이로 태어났다고 전하고 있습니다.수컷의, 꼬리의 날개가, 극단적으로 길어지는 것이 특징입니다.닭은, 통상 일년에 한 번 날개가 나 교체됩니다만, 수컷의 물까치계는, 꼬리의 날개가 나 교체되지 않기 때문에, 꼬리가 매우 길어집니다.현존 하는, 세계의 새(조류) 중(안)에서, 가장 긴 꼬리를 가져, 12 m라고 하는 기록도 있습니다.완전하게 관상용의 닭입니다.설명은, wiki 및, 국립 과학박물관의 설명문을 참고로 했습니다.









본관(1891년 완성)의, 중앙의 계단(사진)의, 난간에는, 한 개의 나무를, 조금씩 만곡시켜 만드는, 구부린 나무의 기법이, 받아들여지고 있습니다.습도나, 나무의 성질에 의해서, 미묘하게 변화하는, 천연의 나무를, 긴 시간, 어긋나지 않게, 조합하는 것은, 고도의, 기술이 필요하게 됩니다(후지야(fujiya) 호텔의 팜플렛(booklet)의 설명문보다...)































이하 3.그 때의, 부모님을 동반한, 후지야(fujiya) 호텔의 숙박했을 때의 투고입니다.덧붙여서, 그 때의, 부모님의, 후지야(fujiya) 호텔의 인상이 좋았던 것 같아서, 부모님은, 그 때부터 지금까지, 2회, 부부로, 후지야(fujiya) 호텔에 숙박하고 있는 님입니다.


고전적 호텔에 숙박&음식 1→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62268/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


고전적 호텔에 숙박&음식 2→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62269/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon


고전적 호텔에 숙박&음식 3→

/kr/board/exc_board_24/view/id/62270/page/5?&sfl=membername&stx=jlemon











TOTAL: 601

番号 タイトル ライター 参照 推薦
121 母方の祖父の話 (6) jlemon 2017-12-30 4623 0
120 江戸時代の櫛・簪 (11) jlemon 2017-12-29 2161 0
119 うちのクリスマス飯速報 (5) jlemon 2017-12-24 2003 0
118 最近の生活板お勧め投稿 (7) jlemon 2017-12-24 2008 0
117 大きな綿菓子(cotton candy) (8) jlemon 2017-12-24 2272 0
116 「お兄ちゃん、この前も来たでしょ....... (4) jlemon 2017-12-23 2922 0
115 私は馬鹿なので。。。 jlemon 2017-12-21 2185 0
114 最近、彼女に買ったスニーカー(sneak....... (14) jlemon 2017-12-21 4800 0
113 ドリフ始まるよ~ (3) jlemon 2017-12-20 2361 0
112 芸者(geisha)と遊女(yuujyo) (5) jlemon 2017-12-19 6959 1
111 マリコさん(昔の日本の小悪魔) (12) jlemon 2017-12-18 3174 0
110 Maryのチョコレート (2) jlemon 2017-12-15 2816 0
109 台湾のpineapple cake (5) jlemon 2017-12-15 2462 0
108 J-pop:自宅録音ミュージシャン1 jlemon 2017-12-13 3362 0
107 J-pop:自宅録音ミュージシャン2 (2) jlemon 2017-12-13 3788 0
106 生まれて初めて好きになった女性芸....... (7) jlemon 2017-12-09 5390 0
105 アイドル比較(日本・韓国・アメリ....... (6) jlemon 2017-12-08 3030 0
104 これが日本女性だ! (7) jlemon 2017-12-05 2068 0
103 晩秋の銀杏並木と昨日の昼食 jlemon 2017-12-05 2438 0
102 珍宝館のチン子さん(動画再生注意....... jlemon 2017-12-05 2458 0