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老斤里(ノグンリ)の虐殺

    事件の経過

     1950年7月,朝鮮戦争が始まって約1ヶ月後のことです.当時,十分な進攻の準備を整えた北朝鮮軍は,38度戦を超えて破竹の勢いで南下していました.逆に不意をつかれた米軍と韓国軍は,混乱の中を一路南へ向け敗走中でした.

     忠清北道でも道都の大田市が北側の手に落ちました.ヨンドン郡ファンガン面老斤里(ノグンリ)の一帯は,敵味方入り乱れ,混乱のさなかにありました.

     7月26日,ヨンドン郡イムゲ里とジュゴク里の住民約500名に,米軍から避難勧告が出されました.「安全なところに避難させるから南下しろ」との米軍兵士の言葉に従い,住民は荷造りをして避難の途につきました.

     午後1時頃,米軍に案内された避難民たちは,ノグン里にある京釜線の鉄橋に集合しました.米軍はこの時,避難民の荷物を検査し,芝刈り用のカマやノコギリなど武器になりそうなものはすべて押収したといわれます.

     住民を指揮していた米軍兵士たちは,本部と無線連絡を取った後,その場を離れました.すると間もなく米軍のP51ムスタング戦闘機が現れました.戦闘機は,鉄橋の上にいた避難民をめがけて機銃掃射を始めました.逃げまどう避難民を銃弾が容赦なく襲いました.人々は先を争って鉄橋下の水路用トンネルへと駆け込んでいきました.しかし,そこは避難所ではなく,彼らの墓地になってしまったのです.

     米軍はトンネルの両側の出口に機関銃を設置しました.そして一斉射撃を加えました.逃げ場を失った避難民たちは,理由もわからないまま死体の山を築いていくしかありませんでした.銃撃はその後も米軍が撤退するまで,3日間にわたって断続的に続けられました.夜半の闇をついて逃げ出した一部の青・壮年を除いて,老人と子ども,婦人たちのほとんどは殺されてしまいました.

     身元が確認された死者の数だけでも121名.実際の犠牲者は300名を下らないと推定されています.死体の間で息をひそめていた人々が自らの生存を確信したのは,7月29日,「米軍たちは後退しました.安心して出てきなさい」という,北朝鮮軍兵士の声によってでした. 

    なぜ事件が明らかになったか?


     ノグン里の事件が韓国内で知られるようになったのは,1994年のことです.虐殺事件で幼い息子と娘を失った鄭ウニョン氏が,『我らの苦痛を誰が知ろう』という本を出版しました.これがきっかけになって,ノグン里の虐殺は『ハンギョレ新聞』や『マル』誌など,一部のマスコミでも取り扱うようになりました.しかし社会的に大きな関心を引くまでには到らず,政府の反応もありませんでした.

     昨年,朝鮮戦争関係のアメリカ側秘密文書が,マル秘扱いを解かれました.この中に虐殺事件関係のファイルが発見されました.AP通信は,当時の事情と背景を語る資料を整理しました.そして9月29日,「ノグンリの鉄橋」という記事で事件を報道し,上部の命令で米軍が行った虐殺だという事実を暴露したのです.

     レポートは,当時の第1機甲師団と陸軍第25歩兵師団司令部の命令書,及び米第8軍本部の命令書と参戦兵士たちの証言をもとに,生々しく事件を再現されています.7月26日,米軍25師団長であったウィリアム・B・キーン少将は,各方面の野戦軍指揮官たちに,次のような命令書を伝達していました. 「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし,発砲せよ」

     そしてノグン里の鉄橋にいた避難民に対しても,「彼らを敵と見なせ」と命令していました.

     また第1機甲師団司令部は,7月27日に「避難民が防御線を越えないようにせよ。越えようとする者はだれであれ発砲せよ」との命令を下していました.

      第1機甲師団に所属していた6人の将兵が,住民に向かって発砲したことを認める証言を行ないました.またほかの6人は,大量虐殺を目撃したと語りました。機関銃射手のノーマン・ティンクラーは「われわれは彼らを全滅させた」と証言しました.

     虐殺現場にいたジェームズ・カンス軍曹は証言しています.

     「女性や子供に向けて銃を撃つことがどうしてもできなかった.空に向けて銃を撃った」

     またエドワード・テイラー上等兵は,「今でも雨の降る夏になると,子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる」と証言しています.

     つまり1950年の7月26日から29日にかけてノグン里で起きたことは,決して偶発的な事件ではなく,意図的で計画的な大量虐殺だったのです.

    あいつぐ新証言


     AP通信の記事が報道された直後,米軍側はこれを黙殺する姿勢をとりました.米国防省はAP電へのコメントを発表しましたが,それは「陸軍の軍事記録センターで公式記録を調査したが,本件に関する証拠書類は発見されなかった」という型通りのものでした.

     しかしAP通信の記事は綿密な調査を経た説得力のあるものでした.記事に追随して『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』,そしてABC,NBCなど主要な放送局が報道に乗り出しました.こうして取材競争が始まりました.

     取材を受けた元米兵テルロ・フリントは,自分たち兵士も米軍機の機銃掃射を受け,避難民といっしょに小川に身を隠したと述べました.

     第一機甲師団所属の中尉としてこの作戦に参加したロバート・キャロル予備役大佐は,司令部からの命令を実際に受けたと証言しました.そして命令に基づき,第7連隊の小銃手らが避難民に向かって発砲したと語りました.

     キャロルの証言によれば,彼は小銃中隊に銃撃をやめろと命令しました.「彼らが敵なのか、確信が持てなかった」からです.彼は「少なくとも初日には,避難民の中に北朝鮮軍はいなかった.大部分は女性と子ども、老人だった」と述べています.

     別の証言によれば,小銃中隊長だったメルボン・チャンドラー大尉は,この後上官と連絡を取りました.そして鉄橋の下の入口に機関銃を設置して発砲するよう指示しました.元米兵ユージン・ヘスルマンは、「チャンドラー大尉が『彼らを皆殺しにしよう』と語った」と述べています.

     10月8日付で放映された米CBSのニュース放送は,米軍の事件隠蔽工作に焦点を当てています.これも当時の秘密文書の公開により明らかになりました.米陸軍は,1951年当時の虐殺に関わったトッド一等兵の証言を,「アメリカの立場を困難なものにする恐れがあり,極秘に分類せよ」と指示していたのです.この証言の中でトッド兵士は以下のように述べています.

     「…こうして皆殺し作戦が始まった.我々は敵を攻撃するために移動し,女,子どもを問わず,我々の目にふれたものをすべて殺戮した」 

     この事件を取材したCBSニュースは,次のような言葉で報道を終えています.

     「すべての戦争は醜悪である.しかし朝鮮戦争は,我々が思っていたよりもはるかに醜悪なものであったことが明らかになるだろう」

    協同調査報告の発表


     当初,米政府は虐殺の事実を否定していました.しかし被害者・加害者の生々しい証言や物証、真相調査を求める声に押され,調査団を現地に派遣し,調査することを明らかにしました。

     陸軍監察官マイケル・エッカーマン中将を団長とするノグンリ事件真相調査団は,99年10月29日に現地を訪問.虐殺現場などを見て回った後,「老斤里住民虐殺真相対策委員会」代表6人と面談しました.

     今年1月12日,両国政府による「ノグンリ調査報告書」が発表されました.結論は次のものです.

     「1950年7月,切迫した韓国戦争初期の守勢的な戦闘状況下で,強要によって撤収中だった米軍は,老斤里周辺で数未詳の避難民を殺傷するか,負傷させた.…しかし,これは戦争中にしばしばありうる偶発的な事件であり,当局の命令によって引き起こされた意図的な虐殺ではない」

     この報告は,米軍の民間人虐殺行為を公式に認めた点では一歩前進です.しかし,それが意図的・組織的なものであった可能性は否定されました.結果として,元米兵らによる証言は無視されたことになります.直接的な証拠となる第24師団第7騎兵連隊の文書は発表されていません.米軍当局は,第7連隊の文書のうち「核心的な記録は紛失した」ことを明らかにしました.

     死傷者数について,韓国側は死亡177人,負傷者51人,行方不明者20人など,計248人と主張しましたた.しかし米国側はこれを認めていません.

     共同調査が不十分に終わったのは,米陸軍が米兵証人に免責特権を与えず,十分な証言を得られなかったためといわれています.

     クリントン大統領は「老斤里で韓国の民間人が命を落としたことに深い遺憾を表明する」との声明を発表しました.米政府は,老斤里に百万ドル規模の追悼碑を建設し,遺族の大学生ら30人に奨学金を支給すると発表しました.

    ほかにも大量虐殺が

     ノグン里の悲劇は,たんにノグン里だけにとどまるものではありません.AP通信の報道を契機に,同じような虐殺事件が相次いで明らかになっています.被害者の遺族や市民団体などからは,真相調査と賠償を求める声が高まっています.

     はっきりしているだけでも,慶尚南道の馬山や咸安郡,慶尚北道の醴泉郡,亀尾市など全国24地域にのぼっています.また,米国立記録保管所から入手した記録フィルムには,米軍戦闘機が民間人の村に向けてロケット弾を発射する場面,避難民の乗った渡し舟を攻撃し,川岸に向かって泳ぐ生存者にさらに銃撃を加える場面が収録されていました.

     さらに米軍機が全羅北道の裡里駅(現イクサン駅)を爆撃.少なくとも350人の民間人が死傷した事件も明らかになりました.この事件については韓国政府も公式に認めており,「戦略的な観点から強行された」と弁明しています.また1951年1月20日には,忠清北道の永春面上里で,米軍によって300余名の住民と避難民が虐殺される事件が発生しています.

     10月26日,金鍾泌首相は国会での質問に答え次のように述べています.

     朝鮮戦争時の米軍による住民虐殺は14ヶ所にのぼる.そのほとんどが1950年7月~8月の戦争初期に集中しており,米軍の最終防御線であった洛東江の周辺地域で発生している.

     14カ所という数字はしかし,政府が把握している件数に過ぎません.民間の調査では70~100ヶ所,死者も数千名から一万名に達するものと推測されています.

     また,米軍にとって”友軍地域”とも言える韓国側でこれほどの住民虐殺が行われたのであれば,北朝鮮地域では,さらに大量の虐殺が行われた可能性があります.たとえば北朝鮮の『朝鮮社会科学院歴史研究所』の資料によると,米軍は34の地域で17万2千余人の非戦闘員を虐殺したとされています.米軍の虐殺行為は特定地域に限定された問題ではなく,朝鮮半島全体におよんでいると見るべきでしょう.

    米軍命令による政治犯の大量処刑


     ノグンリ事件の決着がつかないうちに,もうひとつの衝撃的な事実が浮かび上がってきました.これは2000年1月6日に韓国日報が報じたものです.

     報道は「朝鮮戦争時に,忠清南道の大田刑務所に収監されていた政治犯1800人が,韓国軍・警察によって銃殺された.浦項,清州,済州島,慶州,大邱,ソウルなどでも1万人から数千人が集団処刑された」というもので,これも米国の機密文書公開で明らかになりました.

     この報道にいたる経過は次のようになっています.済州島4・3事件を追跡していた在米韓国人のイ・ドヨン博士は,関連資料の秘密解除を米政府に要求しました.これに応じて公開された資料の中から,恐るべき歴史的事実が明らかになったのです.

     資料によれば、テジョンとテグ刑務所に収監されていた政治犯の虐殺が行われている間、米軍将校がその残忍な虐殺過程を最初から最後まで見守っていました.そして,その過程を詳細に記録してワシントンに送りました.合同参謀本部はその報告書に第2級「秘密文書」の判を押してこれまでその事実を隠ぺいしてきました.

     その将校の名は,当時の駐韓米大使館の陸軍武官ボブ・エドワード中佐,文書の名前は「韓国の政治犯処刑」,そして第3級秘密文書「韓国陸軍憲兵による処刑」です.文書には,処刑現場を写した16枚と7枚の写真がそれぞれ添付されていました.

     戦争ぼっ発直後の50年7月の第1週,テジョン刑務所では,3日間にわたって政治犯1800人が集団処刑されました.エドワード中佐は「処刑命令は疑いもなく最上層部から下された」と述べています.またテジョン以外にも,テグ刑務所などで政治犯らの処刑が行われていた可能性を示唆しています.

     事件を報道した韓国日報は,被害者がどれだけいたのか,テジョン刑務所で犠牲になった政治犯とはどんな人たちなのか,命令を下した「最終責任者」はだれなのか,政治・軍事的に強大な影響力を行使していた米軍が,この惨劇にどのようにかかわっていたのか,現場写真を米軍が撮影していたのはなぜか―などの疑問を呈しました.

     全国連合は,報告資料がいままで隠ぺいされてきたこと,虐殺過程を米軍が記録していたことからみて,米軍が虐殺を指示し,その過程を監視していたとしか考えられないと主張しています.そして米国に2・3級資料だけでなく1級報告文書を公表せよと要求しています.

    沈黙を強要された被害者たち

     遺族や負傷者たちは,アメリカはもちろん,韓国政府からも一切の謝罪や賠償を受けていません.アメリカ政府がこれまで表明してきた立場は,

     ①虐殺に関わったとされている第1機甲師団が,ノグン里周辺に駐屯していたとの証拠は存在しない.

     ②虐殺が行われたとしても,「韓米軍隊地位協定」の民事請求権条項によって,戦闘中に発生した事件に対しては賠償する義務はない,

    というものでした.

     ノグン里の被害者たちはその間,沈黙を守ってきたわけではありません.「ノグン里米軍虐殺事件の真相究明対策委員会」を結成し,アメリカ大統領・議会・国防省などに対し,繰り返し賠償請求や嘆願書を提出してきました.しかし「虐殺の証拠はない」という返信が2回あっただけだそうです.

     被害者たちの訴えに全く耳を貸そうとしなかったのは,韓国政府も同様です.97年に,被害者たちは政府の損害賠償を求める申請を出しました.しかしこの訴えは,何らの調査も行われることなく却下されています.法務部の関係者は,「加害者が確認されてから5年の時効が過ぎているので,調査する必要性はない」との見解でした.

     被害者の運動には特殊な困難がつきまとっていました.ある遺族は次のように心情を吐露しています.

     「むごたらしく家族を奪われた無念さをはらせぬまま,まるで罪人みたいに,一言も抗議できずに生きるしかなかった.”米軍に殺された”と叫ぼうものなら,”アカだから殺されたんだろう”と言われるのがオチだった」

     「米軍の手でこんな酷いことが起きたといえば,思想的に問題のある人のように思われる.だから虐殺事件の話を切り出すことはできなかった」

    韓国軍による住民虐殺

     朝鮮戦争の最中には,米軍だけではなく韓国軍自身による集団虐殺も行われていたことが明らかになっています.全羅北道居昌郡コンウム面の西山村落は,最大規模の住民虐殺が行われた地域です.

     1951年1月5日,西山村民に「パルチザン部隊と内通している」との嫌疑をかけられました.村民全員が,縛られたまま50~60名の韓国軍と警察隊によって機関銃の一斉射撃にさらされました.生存者の有無を確認するために射撃を中断した軍隊は,「生き残ったやつらは運がいい.助けてやるから起きろ!」と命令しました.恐る恐る立ち上がった住民はその場で撲殺されました.さらに,死体の間で息をひそめていた人々を見つけ出し,5人ずつ1列に縛ったうえで射殺しました.蛮行は午前11時から午後6時頃まで続き,500人を越える村民が虐殺されたといわれます.

     村人たちの犠牲はそれだけにはとどまりませんでした.生存者と遺族たちは政府当局に真相の究明を要求し始めました.しかし逆に”栄誉ある国軍”の蛮行を暴露した”容共分子”として迫害され,運動の中心人物たちは投獄されていきました.合同墓地は軍靴に荒らされ,慰霊碑の文字すら削り取られるありさまでした.居昌の虐殺に関しては,公式文書も,非公式記録も,何一つ残されていないのが実情です.

     虐殺を指揮した軍と警察の幹部たちは,その後警察署長や治安局長,国会議員として表舞台を歩きつづけました.その一方で,”アカの家族”と罵倒された被害者たちは,災いを恐れて子どもたちにも事件の真相を語ることなく,はらせぬ恨みを抱いて生きるしかありませんでした.

     韓国軍の住民虐殺は朝鮮戦争を機に始まったものではありません.米軍の占領に抗議し,分断に反対する民族解放運動の高揚に対抗し,戦後すぐから始まっています.1948年済州島で起こった4・3民衆蜂起に対する血の弾圧では島民約5万名が虐殺されました.麗水・順天の反乱事件では2500名が犠牲となりました.その他にも慶北ムンギョン市の虐殺(1949年12月24日,86名が犠牲)など一連の住民虐殺があげられます.

     なかでも,済州島の4・3蜂起に対する虐殺は,「虐殺の原型」とも言えるものです.済州島ではノグン里のような集団虐殺が繰り返され,犠牲者の大部分は女性・子ども・老人でした.犠牲者たちは”アカ”のレッテルを貼られ,ノグン里のように沈黙を強要されてきました.

    住民はたたかい続ける

     老斤里米軍住民虐殺事件対策委員会は,調査報告へのコメントを発表しました,このなかで「共同発表文は老斤里事件の真相究明に不十分だ」と厳しく批判しました.そして「民事訴訟など多角的な法的対応とともに,可能なかぎりの方法を動員して継続して真実を明らかにする」との決意を述べています.





 


한미 동맹

로근리(노군리)의 학살

사건의 경과

 1950년 7월, 한국 전쟁이 시작되어 약 1개월 후입니다.당시 , 충분한 진공의 준비를 갖춘 북한군은, 38도전을 넘어 파죽지세로 남하하고 있었습니다.반대로 불의를 지친 미군과 한국군은, 혼란안을 일로남에 보내 패주중이었습니다.

 충청북도에서도 도도의 오오다시가 북측의 손에 떨어졌습니다.영동군 팬 암면로근리(노군리)의 일대는, 적아군 혼잡해 혼란의 한창에 있었습니다.

 7월 26일, 영동군 임게마을과 쥬고크마을의 주민 약 500명에, 미군으로부터 피난 권고가 나왔습니다.「안전한 곳에 피난시키기 때문에 남하해라」라고의 미군 병사의 말에 따라, 주민은 짐꾸리기를 해 피난의 길에 올랐습니다.

 오후 1 시경, 미군에 안내된 피난민들은, 노군마을에 있는 경부선의 철교에 집합했습니다.미군은 이 때, 피난민의 짐을 검사해, 잔디깎기용의 솥이나 톱 등 무기가 될 것 같은 것은 모두 압수했다고 합니다.

 주민을 지휘하고 있던 미군 병사들은, 본부와 무선 연락을 한 후, 그 자리를 떨어졌습니다.그러자(면) 머지 않아 미군의 P51 무스탕 전투기가 나타났습니다.전투기는, 철교 위에 있던 피난민을 겨냥해 기관총 소사를 시작했습니다.도망어떻게 피난민을 총탄이 가차 없이 덮쳤습니다.사람들은 선두를 다투어 철교하의 수로용 터널로 뛰어들어서 갔습니다.그러나, 거기는 피난소가 아니고, 그들의 묘지가 되어 버렸습니다.

 미군은 터널의 양측의 출구에 기관총을 설치했습니다.그리고 일제 사격을 더했습니다.도망갈 장소를 잃은 피난민들은, 이유도 모르는 채 시체의 산을 쌓아 올려 갈 수 밖에 없었습니다.총격은 그 후도 미군이 철퇴할 때까지, 3일간에 걸쳐서 단속적으로 계속되었습니다.야밤중의 어둠을 붙어 도망간 일부의 파랑·장년을 제외하고, 노인과 아이, 부인들의 대부분은 살해당해 버렸습니다.

 신원이 확인된 사망자의 수만으로도 121명.실제의 희생자는 300명을 시시하다고 추정되고 있습니다.시체의 사이에 숨을 찌푸리고 있던 사람들이 스스로의 생존을 확신한 것은, 7월 29일, 「미군들은 후퇴했습니다.안심하고 나오세요」라고 하는, 북한 군병사의 소리에 의해서였습니다. 

왜 사건이 밝혀졌어?


 노군마을의 사건이 한국내로 알려지게 된 것은, 1994년의 일입니다.학살 사건으로 어린 아들과 딸(아가씨)를 잃은 정우놀씨가, 「우리들의 고통을 누가 알자」라고 하는 책을 출판했습니다.이것이 계기가 되고, 노군마을의 학살은 「한겨레」나 「말」잡지 등, 일부의 매스컴에서도 취급하게 되었습니다.그러나 사회적으로 큰 관심을 당기기까지는 도달하지 않고, 정부의 반응도 없었습니다.

 작년, 한국 전쟁 관계의 미국측 비밀 문서가, 극비 취급을 풀렸습니다.이 안에 학살 사건 관계의 파일이 발견되었습니다.AP통신은, 당시의 사정과 배경을 말하는 자료를 정리했습니다.그리고 9월 29일, 「노군리의 철교」라고 하는 기사로 사건을 보도해, 상부의 명령으로 미군이 간 학살이라고 하는 사실을 폭로했습니다.

 리포트는, 당시의 제1 기갑 사단과 육군 제 25 보병 사단 사령부의 명령서, 및 미 제8군본부의 명령서와 참전 병사들의 증언을 기초로, 생생하게 사건이 재현되고 있습니다.7월 26일, 미군 25 사단장인 윌리엄·B·킨 소장은, 각방면의 야전군지휘관들에게, 다음과 같은 명령서를 전달하고 있었습니다. 「전투 지역을 이동하는 모든 민간인을 적으로 간주해, 발포하라」

 그리고 노군마을의 철교에 있던 피난민에 대해서도, 「그들을 적이라고 볼 수 있다」라고 명령하고 있었습니다.

 또 제1 기갑 사단 사령부는, 7월 27일에 「피난민이 방어선을 넘지 않게하라.넘으려고 하는 사람은 누구든 발포하라」라는 명령을 내리고 있었습니다.

  제1 기갑 사단에 소속해 있던 6명의 장병이, 주민을 향해 발포한 것을 인정하는 증언을 행했습니다.또 다른 6명은, 대량 학살을 목격했다고 말했습니다.기관총 사수의 노우 맨·틴크라는 「우리는 그들을 전멸 시켰다」라고 증언했습니다.

 학살 현장에 있던 제임스·칸스 군조는 증언하고 있습니다.

 「여성이나 아이에게 향해서 총을 쏘는 것이 아무래도 할 수 없었다.하늘로 향해서 총을 쏘았다」

 또 에드워드·테일러 상등병은, 「지금도 비가 내리는 여름이 되면, 아이들이 울부짖는 목소리가 들린다」라고 증언하고 있습니다.

 즉 1950년의 7월 26일부터 29일에 걸쳐 노군마을로 일어난 것은, 결코 우발적인 사건이 아니고, 의도적으로 계획적인 대량 학살이었습니다.

연잇는 신증언


 AP통신의 기사가 보도된 직후, 미군측은 이것을 곡살하는 자세를 취했습니다.미국방성은 AP전에의 코멘트를 발표했습니다만, 그것은 「육군의 군사 기록 센터에서 공식 기록을 조사했지만, 본건에 관한 증거 서류는 발견되지 않았다」라고 하는 판에 박은 듯함의 것이었습니다.

 그러나 AP통신의 기사는 면밀한 조사를 거친 설득력이 있는 것이었습니다.기사에 추종해 「뉴욕·타임즈」나 「워싱턴·포스트」, 그리고 ABC, NBC 등 주요한 방송국이 보도에 나섰습니다.이렇게 해 취재 경쟁이 시작되었습니다.

 취재를 받은 원미국 병사 테르로·플린트는, 스스로 병사도 미군기의 기관총 소사를 받아 피난민과 함께 오가와에 몸을 숨겼다고 말했습니다.

 제일 기갑 사단 소속의 중위로서 이 작전에 참가한 로버트·캐롤 예비역 대령은, 사령부로부터의 명령을 실제로 받았다고 증언했습니다.그리고 명령에 근거해, 제7 연대의 소총손등이 피난민을 향해 발포했다고 말했습니다.

 캐롤의 증언에 의하면, 그는 소총 중대에 총격을 그만두라고 명령했습니다.「그들이 적인가, 확신을 가질 수 없었다」로부터입니다.그는 「적어도 첫날에는, 피난민중에 북한군은 없었다.대부분은 여성과 아이, 노인이었다」라고 말하고 있습니다.

 다른 증언에 의하면, 소총 중대장이었던 메르본·체드라 대위는, 이 후 상관과 연락을 했습니다.그리고 철교아래의 입구에 기관총을 설치해 발포하도록 지시했습니다.원미국 병사 유진·헤스르만은, 「체드라 대위가 「그들을 몰살로 하자」 말했다」라고 말하고 있습니다.

 10월 8 일자로 방영된 미 CBS의 뉴스 방송은, 미군의 사건 은폐 공작에 초점을 맞히고 있습니다.이것도 당시의 비밀 문서의 공개에 의해 밝혀졌습니다.미 육군은, 1951년 당시의 학살에 관련된 토드 일등병의 증언을, 「미국의 입장을 곤란한 것으로 할 우려가 있어, 극비로 분류해서」라고 지시하고 있었습니다.이 증언속에서 토드 병사는 이하와 같이 말하고 있습니다.

 「…이렇게 해 몰살 작전이 시작되었다.우리는 적을 공격하기 위해서 이동해, 여자, 아이를 불문하고, 우리의 눈에 접한 것을 모두 살륙 했다」 

 이 사건을 취재한 CBS 뉴스는, 다음과 같은 말로 보도를 끝내고 있습니다.

 「모든 전쟁은 추악하다.그러나 한국 전쟁은, 우리가 생각했던 것보다도 훨씬 추악한 것이었던 것이 밝혀질 것이다」

협동 조사보고의 발표


 당초, 미 정부는 학살의 사실을 부정하고 있었습니다.그러나 피해자·가해자의 생생한 증언이나 물증, 진상 조사를 요구하는 소리에 밀려 조사단을 현지에 파견해, 조사할 것을 밝혔습니다.

 육군 감찰관 마이클·엑카만 중장을 단장으로 하는 노군리 사건 진상 조사단은, 99년 10월 29일에 현지를 방문.학살 현장등을 보고 돈 후, 「로근리주민 학살 진상 대책 위원회」대표 6명으로 면담했습니다.

 금년 1월 12일, 양국 정부에 의한 「노군리 조사보고서」가 발표되었습니다.결론은 다음의 것입니다.

 「1950년 7월, 임박한 한국전쟁초기의 수세적인 전투 상황하로, 강요에 의해서 철수중이었던 미군은, 로근리주변에서 수미상의 피난민을 살상하는지, 부상시켰다.…그러나, 이것은 전쟁중에 자주 있을 수 있는 우발적인 사건이며, 당국의 명령에 의해서 일으켜진 의도적인 학살은 아니다」

 이 보고는, 미군의 민간인 학살 행위를 공식으로 인정한 점에서는 한 걸음 전진입니다.그러나, 그것이 의도적·조직적인 것인 가능성은 부정되었습니다.결과적으로, 전 미국 병사등에 의한 증언은 무시된 것이 됩니다.직접적인 증거가 되는 제24 사단 제 7 기병 연대의 문서는 발표되고 있지 않습니다.미군 당국은, 제7 연대의 문서 중 「핵심적인 기록은 분실했다」일을 분명히 했습니다.

 사상자수에 대해서, 한국측은 사망 177명, 부상자 51명, 행방불명자 20명 등, 합계 248명과 주장 섬혀.그러나 미국측은 이것을 인정하고 있지 않습니다.

 공동 조사가 불충분하게 끝난 것은, 미 육군이 미국 병사 증인에게 면책 특권을 주지 않고, 충분한 증언을 얻을 수 없었기 때문에라고 하고 있습니다.

 클린턴 대통령은 「로근리로 한국의 민간인이 목숨을 잃었던 것에 깊은 유감을 표명한다」라고의 성명을 발표했습니다.미 정부는, 로근리에 백만 달러 규모의 추도비를 건설해, 유족의 대학생등 30명에게 장학금을 지급한다고 발표했습니다.

그 밖에도 대량 학살이

 노군마을의 비극은, 단순히 노군마을에만 머무는 것이 아닙니다.AP통신의 보도를 계기로, 같은 학살 사건이 연달아 밝혀지고 있습니다.피해자의 유족이나 시민 단체등에서는, 진상 조사와 배상을 요구하는 소리가 높아지고 있습니다.

 뚜렷한 것만으로도, 경상남도의 마산이나 함안군, 경상북도의 례천군, 구미시 등 전국 24 지역에 오르고 있습니다.또, 미국립 기록 보관소로부터 입수한 기록 필름에는, 미군 전투기가 민간인의 마을로 향해서 로켓탄을 발사하는 장면, 피난민이 탄 인도배를 공격해, 강가로 향해 헤엄치는 생존자에게 한층 더 총격을 더하는 장면이 수록되고 있었습니다.

 한층 더 미군기가 전라북도의 리리역(현이크산역)을 폭격.적어도 350명의 민간인이 사상한 사건도 밝혀졌습니다.이 사건에 대해서는 한국 정부도 공식으로 인정하고 있어 「전략적인 관점으로부터 강행되었다」라고 변명하고 있습니다.또 1951년 1월 20일에는, 충청북도의 영춘얼굴마을로, 미군에 의해서 300여명의 주민과 피난민이 학살되는 사건이 발생하고 있습니다.

 10월 26일, 김종필 수상은 국회로의 질문에 답해 다음과 같이 말하고 있습니다.

 한국 전쟁시의 미군에 의한 주민 학살은 14개소에 오른다.그 대부분이 1950년 7월 8월의 전쟁 초기에 집중하고 있어, 미군의 최종 방어선인 낙동강의 주변지역에서 발생하고 있다.

 14개소라고 하는 숫자는 그러나, 정부가 파악하고 있는 건수에 지나지 않습니다.민간의 조사에서는 70100개소, 사망자도 수천명으로부터 1만명에 이르는 것이라고 추측되고 있습니다.

 또, 미군에 있어서"우군 지역"이라고도 말할 수 있는 한국측에서 이 정도의 주민 학살을 한 것이면, 북한 지역에서는, 한층 더 대량의 학살을 한 가능성이 있어요.예를 들어 북한의 「조선 사회과학원역사 연구소」의 자료에 의하면, 미군은 34의 지역에서 17만 2천 다른 사람의 비전투원을 학살했다고 여겨지고 있습니다.미군의 학살 행위는 특정 지역으로 한정된 문제가 아니고, 한반도 전체에 미치고 있다고 봐야 겠지요.

미군 명령에 의한 정치범의 대량 처형


 노군리 사건의 결착이 붙기 전에, 또 하나의 충격적인 사실이 떠올라 왔습니다.이것은 2000년 1월 6일에 한국 일보가 알린 것입니다.

 보도는 「한국 전쟁시에, 충청남도의 대전 형무소에 수감되고 있던 정치범 1800명이, 한국군·경찰에 의해서 총살되었다.포항, 청주, 제주도, 경주, 대구, 서울등에서도 1만명으로부터 수천인이 집단 처형되었다」라고 하는 것으로, 이것도 미국의 기밀 문서 공개로 밝혀졌습니다.

 이 보도에 이르는 경과는 다음과 같이 되어 있습니다.제주도 4·3 사건을 추적하고 있던 재미 한국인의 이·드욘 박사는, 관련 자료의 비밀 해제를 미 정부에 요구했습니다.이것에 따라 공개된 자료중에서, 무서운 역사적 사실이 밝혀졌습니다.

 자료에 의하면, 대전과 대구 형무소에 수감되고 있던 정치범의 학살을 하고 있는 동안, 미군 장교가 그 잔인한 학살 과정을 최초부터 끝까지 지켜보고 있었습니다.그리고, 그 과정을 상세하게 기록하고 워싱턴에 보냈습니다.합동 참모본부는 그 보고서에 제2급 「비밀 문서」의 판단을 눌러 지금까지 그 사실을 은폐 해 왔습니다.

 그 장교의 이름은, 당시의 주한미 대사관의 육군 무관 보브·에드워드 중령, 문서의 이름은 「한국의 정치범 처형」, 그리고 제3급 비밀 문서 「한국 육군 헌병에 의한 처형」입니다.문서에는, 처형 현장을 찍은 16매와 7매의 사진이 각각 첨부되고 있었습니다.

 전쟁 발발 직후의 50년 7월의 제1주, 대전 형무소에서는, 3일간에 걸쳐서 정치범 1800명이 집단 처형되었습니다.에드워드 중령은 「처형 명령은 혐의도 없고 최상층부로부터 꺾어졌다」라고 말하고 있습니다.또 대전 이외에도, 대구 형무소등에서 정치범등의 처형을 하고 있던 가능성을 시사하고 있습니다.

 사건을 보도한 한국 일보는, 피해자가 얼마나 있었는지, 대전 형무소에서 희생이 된 정치범이란 어떤 사람들인가, 명령을 내린 「최종 책임자」는 누구인가, 정치·군사적으로 강대한 영향력을 행사하고 있던 미군이, 이 참극에 어떻게 관계되어 있었는지, 현장 사진을 미군이 촬영하고 있던 것은 왠지-등의 의문을 나타냈습니다.

 전국 연합은, 보고 자료가 지금까지 은폐 되어 온 것, 학살 과정을 미군이 기록하고 있던 것 매운 맛이라고, 미군이 학살을 지시해, 그 과정을 감시하고 있었다고 밖에 생각할 수 없다고 주장하고 있습니다.그리고 미국에 2·3급 자료 뿐만이 아니라 1급 보고문서를 공표하라라고 요구하고 있습니다.

침묵을 강요 당한 피해자들

 유족이나 부상자들은, 미국은 물론, 한국 정부로부터도 일절의 사죄나 배상을 받고 있지 않습니다.미국 정부가 지금까지 표명해 온 입장은,

 ①학살에 관련되었다고 여겨지고 있는 제1 기갑 사단이, 노군마을 주변에 주둔 하고 있었다는 증거는 존재하지 않는다.

 ②학살을 했다고 해도, 「한미 군대 지위 협정」의 민사 청구권 조항에 의해서, 전투중에 발생한 사건에 대해서는 배상할 의무는 없는,

(이)라는 것이었습니다.

 노군마을의 피해자들은 그 사이, 침묵을 지켜 온 것이 아닙니다.「노군마을 미군 학살 사건의 진상 구명 대책 위원회」를 결성해, 미국 대통령·의회·국방성 등에 대해, 반복 배상 청구나 탄원서를 제출해 왔습니다.그러나「학살의 증거는 없다」라고 하는 답신이 2회 만났을 뿐이라고 합니다.

 피해자들의 호소에 전혀 귀를 기울이려고 하지 않았던 것은, 한국 정부도 같습니다.97년에, 피해자들은 정부의 손해배상을 요구하는 신청을 보냈습니다.그러나 이 호소는, 아무런 조사도 행해지는 일 없이 각하 되고 있습니다.법무부의 관계자는, 「가해자가 확인되고 나서 5년의 시효가 지나고 있으므로, 조사하는 필요성은 없다」라는 견해였습니다.

 피해자의 운동에는 특수한 곤란이 항상 따라다니고 있었습니다.있다 유족은 다음과 같이 심정을 토로하고 있습니다.

 「처참하게 가족을 빼앗긴 무념를 붙이게 한 늪뭐, 마치 죄인같이, 한마디도 항의하지 못하고 살 수 밖에 없었다."미군에 살해당했다"라고 외친다면,"아카이니까 살해당했을 것이다"라고 해지는 것이 끝이었다」

 「미군의 손으로 이런 심한 것이 일어났다고 하면, 사상적으로 문제가 있는 사람과 같이 생각된다.그러니까 학살 사건의 이야기를 자를 수 없었다」

한국군에 의한 주민 학살

 한국 전쟁의 한중간에는, 미군 만이 아니고 한국군 자신에 의한 집단 학살도 행해지고 있었던 것이 밝혀지고 있습니다.전라북도거창군 콘움면의 니시야마 촌락은, 최대 규모의 주민 학살을 한 지역입니다.

 1951년 1월 5일, 니시야마 주민에게 「유격대 부대와 내통 하고 있다」라고의 혐의를 걸칠 수 있었습니다.주민 전원이, 속박된 채로 5060명의 한국군과 경찰대에 의해서 기관총의 일제 사격에 노출되었습니다.생존자의 유무를 확인하기 위해서 사격을 중단한 군대는, 「살아 남은 녀석들은 운이 좋다.도와 주기 때문에 일어나라!」라고 명령했습니다.조심조심 일어선 주민은 그 자리에서 박살되었습니다.게다가 시체의 사이에 숨을 찌푸리고 있던 사람들을 찾아내, 5명씩 1열에 묶은 위에 사살했습니다.만행은 오전 11시부터 오후 6 시경까지 계속 되어, 500명을 넘는 주민이 학살되었다고 합니다.

 마을사람들의 희생은 그런 만큼은 머물지 않았습니다.생존자와 유족들은 정부당국에 진상의 구명을 요구하기 시작했습니다.그러나 반대로"영예 있다 국군"의 만행을 폭로한"용공 분자"로서 박해되어 운동의 중심 인물들은 투옥되어서 갔습니다.합동 묘지는 군화에 망쳐져 위령비의 문자조차 지워내지는 상태였습니다.거창의 학살에 관해서는, 공식 문서도, 비공식 기록도, 무엇하나 남아 있지 않은 것이 실정입니다.

 학살을 지휘한 군과 경찰의 간부들은, 그 후 경찰서장이나 치안국장, 국회 의원으로서 정식 무대를 계속 걸었습니다.그 한편,"아카의 가족"과 매도된 피해자들은, 재앙을 무서워해 아이들에게도 사건의 진상을 말하는 일 없이, 부을 수 없는 원한을 안아 살 수 밖에 없었습니다.

 한국군의 주민 학살은 한국 전쟁을 기에 시작한 것이 아닙니다.미군의 점령에 항의해, 분단에 반대하는 민족 해방 운동의 고양에 대항해, 전후 곧으로부터 시작되어 있습니다.1948년 제주도에서 일어난 4·3 민중 봉기에 대한 피의 탄압에서는 도민 약 5만명이 학살되었습니다.여수·순천의 반란 사건에서는 2500명이 희생이 되었습니다.그 외에도 경북 문골시의 학살(1949년 12월 24일, 86명이 희생) 등 일련의 주민 학살을 들 수 있습니다.

 그 중에서도, 제주도의 4·3 봉기에 대한 학살은, 「학살의 원형」이라고도 말할 수 있는 것입니다.제주도에서는 노군마을과 같은 집단 학살이 반복해져 희생자의 대부분은 여성·아이·노인이었습니다.희생자들은"아카"의 렛텔첩, 노군마을과 같이 침묵을 강요 당해 왔습니다.

주민은 투쟁 계속한다

 로근리미군 주민 학살 사건 대책 위원회는, 조사보고에의 코멘트를 발표했습니다, 이 (안)중으로 「공동 발표문은 로근리사건의 진상 구명에 불충분하다」라고 엄격하게 비판했습니다.그리고 「민사 소송 등 다각적인 법적 대응과 함께, 가능한 한의 방법을 동원해 계속하고 진실을 분명히 한다」라고의 결의를 말하고 있습니다.





 



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