伝統文化紹介 Relationship





以下、基本的に、2017年に行った投稿の再掲です。



東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。



亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。


私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。




この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。


蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久 夢二(takehisa yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷 虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮 恵子(takemiya keiko)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。



以下、蕗谷虹児(fukiyakoji)3(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。

蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618378?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。




蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)以外にも、「愛誦」、「蝋人形」等、幾つかの、日本の文芸雑誌や、「婦人画報」や「女性文化」と言った、日本の婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)等、様々な雑誌で活躍しました。




上、雑誌、「愛誦」の表紙原画。1932年。下、雑誌、「愛誦」の表紙。1932年。





蕗谷 虹児(fukiya koji)は、本の装幀(design・ cover art)や、レコードジャケット(record cover・album cover)のデザイン(design)の分野でも活躍しました。




写真以下5枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)が手掛けた、本の装幀(design・ cover art)例。




吉屋 信子(yoshiya nobuko。1896年生まれ。1973年に亡くなる。1910年代半ばから亡くなる近くまで活躍した、日本の女性小説家)作、「失楽の人々」。 1930年。






鶴見 祐輔「世界少女物語」。1940年。「世界少女物語」は、1934年から1935年頃に、「少女倶楽部(少女club)」に連載されていた、「世界少女読本」を纏めた本です。

 






鶴見 祐輔「世界少女物語」。表紙原画(右)と裏表紙原画(左)。1939年から1940年。







アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi。1834年生まれ。1872年に亡くなる。フィンランド(Finland)の戯曲家兼作家)作、「七人兄弟」。1942年。この本には、当時の、駐日フィンランド(Finland)公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)が序文を寄せています。






アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi)作、「七人兄弟」。挿絵原画。1941年から1942年。





写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)がデザイン(design)を手掛けた、レコードジャケット(record cover・album cover)の例。





「L’ARLESIENNE-EXCERPS Bizet」。1937年頃。





上、「Weber Album Tango」。1937年頃。下、「Hawaiian Album」。1937年頃。






蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)に特化せず、挿絵の仕事を始めた早い時期から、子供向けの絵も手掛けており、少女雑誌(少女向けの雑誌)で人気作家になってからも、絵本や外国童話の挿絵には、積極的に取り組んでいました。




写真以下11枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の1930年代半ばから1940年代初めの、子供向けの出版物における作品例。





小島 政二郎「メヅサの首」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵原画。1934年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1930年代半ばから、日本の、子供向けの雑誌、「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵を描ました。





北川 千代「マチノテフテフ(街の喋々)」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵。1941年。






「銀座(ginza)」。「講談社(Kodansha)の絵本。東京見物」の挿絵原画。1937年。1936年に創刊した、講談社(Kodansha)の絵本シリーズ(series)は、「(日本の)一流画家を総動員して」と言われる程の本であり、これに、しばしば登用された事は、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって名誉な事であったでしょう。彩色の丁寧な仕事ぶりに、幼い子供にこそ、良い絵を、と言う、蕗谷 虹児(fukiya koji)の意識が、よく表れています。





写真以下8枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1940年代初めに刊行された、講談社(kodansha)の、「世界名作童話」シリーズ(series)の内、「アラビアンナイト(One Thousand and One Nights)」、「アンデルセン(Andersen)の童話」に絵を描きました。





「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1941年。





写真以下2枚。「船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の挿絵原画。1941年。



 













「アリババと四十人の盗賊(Ali Baba and the Forty Thieves)」。世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の口絵原画。1941年。





「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1942年。





写真以下2枚。「おやゆび姫(Thumbelina)」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の挿絵原画。1942年。

















「海つばめ」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の口絵原画。1942年。





雑誌、「令女界(reijyo kai)」の読者の、中流層以上の家庭の、10代後半から20代前半の女性が、華やかな化粧やファッション(服装)で、近代日本の少女・若い女性文化を満喫出来た時代は、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、少しずつ消滅して行きました。戦争によって、物資が乏しくなる時代において、華美な物や贅沢な物は、悪であるとする風潮が、はびこり、それは、雑誌の世界にも影響を及ぼしました。1938年に国家総動員法が施行され、出版統制が厳しくなると、華美で繊細であると言うだけの理由で、少女雑誌(少女向けの雑誌)は、存在を危うくされ、蕗谷 虹児(fukiya koji)も、1939年以降、「令女界(reijyo kai)」の表紙を描く事が出来なくなりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦時色が濃くなるにつれ、制作の変更を余儀なくされます(軍から睨まれて、絵を描けなくなったら、どうしようもない為)。この様な時代の流れは、近代的で、お洒落な、また可憐な少女を描く事を得意としていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、大きな打撃でした。1940年12月6日に設置された内閣情報局を中心として、言論や報道への規制が徹底され、それに伴い、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活動する雑誌も検閲対象下に入りました。



1930年代後期から1940年代初めにおける、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、少女雑誌における作品には、軍国主義と少女らしさの折衷を模索する、苦心の跡が感じられる作品が見られます。特に、「令女界(reijyo kai)」における作品には、軍国色の強くなる時流の中で、いかに、従来、「令女界(reijyo kai)」が持っていたエレガント(elegance)さを表現するかと言う葛藤が感じ取れる、軍から睨まれず(軍の意向に反発せず)、それでいて、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性が目にするに相応しい物、その、ぎりぎりの境界を探っている様な作品が見られます。



「彼への贈り物」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。






「そして今年も逝く」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。






「お店の、お嬢さん」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」。1938年。戦争下、女性の服装から華美な物が、徐々に排斥されていきました。初めは、推奨服であった、もんぺ(monpe)が、1940年代以降、強制圧力が強まり、戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました(女学生(現代の、中学生と高校生に当たる)については強制)。最も、お洒落に敏感で、可愛くある事が必須である、少女・若い女性達にとって、もんぺ(monpe)を身に着ける事は、辛い事であったでしょう。この絵は、もんぺ(monpe)を着なければならないのならば、せめて、少しでも素敵に着ようと言う、説得効果を、「令女界(reijyo kai)」の読者である、日本の、少女・若い女性達に対してもたらしたと思われます。








「慰問品売り場にて」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」。1938年。







「いくさ(戦)の物語」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1939年。

 






「荒磯」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1940年。





蕗谷 虹児(fukiya koji)は、出版統制が厳しくなってからも、雑誌の口絵や挿絵の仕事において、時流との折衷点や打開策を模索しながら制作を続けていましたが、1942年頃からは、雑誌の仕事は、日本の、文芸雑誌である、「あきつ」と「防人」を主とする様になり、代わりに、軍事色の強い、絵や、書籍の装幀(design)を手掛けました。しかし、1944年には、一切の制作を止め、神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)、山北(yamakita)町に疎開し、第二次世界大戦が終わるまで、作品を発表する事はありませんでした。





「天兵神助」。1943年。この作品は、第3回航空美術展覧会に出品された作品で、従軍画家ではなかった蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、軍国主義に身を置いて描いた、数少ない作品です。航空美術展覧会は、1941年から1943年までの、全三回、東京都心の、デパートの一つ、高島屋(Takashimaya)デパート、日本橋(nihonbashi)店で行われた、展覧会(exhibition)です。この絵は、崩れ落ちる航空兵を、古代兵が、胸に抱きながらも敵に向かおうとしている(あるいは、味方を鼓舞している)所が、描かれています。

 






以下、この展覧会(exhibition)の展示作品の内、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の作品例を紹介します。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から1930年代における、少女雑誌での活躍が華々しい分、第二次世界大戦後の仕事は、斜陽時代の様に見えますが、第二次世界大戦後、活動を再開させてから、晩年まで、多くの作品を描きました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦前は、主として、少女雑誌(少女向けの雑誌)等で、少女や若い女性向けに描いてきましたが、戦後は、(蕗谷 虹児(fukiya koji)の)活動媒体が、少女雑誌(少女向けの雑誌)から児童書(子供向けの本)等に移行した為、(蕗谷 虹児(fukiya koji)が)描く対象となる読者の性別の枠が外れると共に、低年齢化し、幼稚園児から小学生の男女向けの絵の仕事が、主体となりました。

 


第二次世界大戦後、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵画家ではなく、本格的な画家として再出発を図ろうとしていました。しかしながら、戦争で一時休刊していた雑誌が発行を再開すると、出版社から熱望されて、1946年に挿絵の仕事を再開しました。「少女倶楽部(少女club)」や「令女界(reijyo kai)」、1947年に創刊された、「ひまわり(向日葵)」等、様々な、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)に描いて行くと共に、「名作少女小説」や「世界名作童話」等の、日本の子供向け書籍の装幀(design・ cover art)や挿絵も手掛け、第二次世界大戦後も、再び、挿絵画家として活躍していきました。しかし、芸能人記事と漫画によって、少女雑誌(少女向けの雑誌)のヴィジュアル(visual)化や娯楽化が進展していくと、1950年代中頃には、雑誌での活躍の場がなくなり、「講談社(Kodansha)の絵本」等、日本の子供向けの絵本が、仕事の主軸になりました。数々の昔話や童話を鮮やかな色彩と精緻な表現で描き出すと共に、アニメーション(animation)と言う、新たな分野にも挑戦しました。また、晩年には、悲願だった絵画制作に、意欲的に取り組みました。

 




以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の活動について、細かく見て行きたいと思います。

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦後、挿絵画家として復帰する事に対しては、積極的ではありませんでした。その背景には、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、戦時体制が色濃くなって行く中、日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の言論が統制されて行った事に対する、嫌気があったものと思われます。蕗谷 虹児(fukiya koji)が描いていた、日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の内、「少女倶楽部(少女club)」は、第二次世界大戦中、休刊を免れましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)の同誌における仕事は、1941年4月までとなりました。しかし、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦時中、全く仕事が無くなった訳ではなく、「少女倶楽部(少女club)」を発行する講談社(kodansha)に依頼され、同社の、「世界名作童話」シリーズ(series)の他、「幼年倶楽部(幼年club)」に、挿絵を、1944年2月まで描き続けており、戦局が緊迫化する中でも、子供向けの分野では、引き続き、起用されていました。第二次世界大戦後、間も無く、戦時中、一時休刊していた雑誌が、再び発行される様になると、蕗谷 虹児(fukiya koji)の下に、いち早く訪れたのは、講談社(kodansha)の「幼年倶楽部(幼年club)」の編集長でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵の仕事を依頼されますが、一旦は、断っています。しかし、「長かった戦時下の欠乏に耐えてきてくれた日本の子供たちに、せめては先生の絵を見せてやりたいと思って、お伺いしたのでした」と訴えられると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、さすがに断る事が出来ませんでした。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、再び、「幼年倶楽部(幼年club)」の仕事を引き受けた背景には、子供達に、もう一度、綺麗な絵を見せたいと言う思いと共に、戦時下でも、長く描く事が出来た、「幼年倶楽部(幼年club)」への恩義があったのかもしれません。いずれにせよ、これを機に、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦後、挿絵画家として復帰して行きました。

 


蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1946年3月号の「幼年倶楽部(幼年club)」に挿絵を描いて復帰しますが、同じ、講談社(kodansha)が発行する「少女倶楽部(少女club)」に描かない訳にもいかず、1946年4月号から、再び、少女雑誌(少女向けの雑誌)を、手掛けて行く事になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女倶楽部(少女club)」には、1954年12月号まで、ほぼ、毎号のように描き続け、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、最も多くの仕事をした雑誌となりました。





写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女倶楽部(少女club)」における作品例。





「ぼんおどり(盆踊り)」。口絵原画。1952年。





「ほたる」。1953年。





「令女界(reijyo kai)」が、1946年4月に発行が再開されると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1947年10月号から、同誌に、復帰しました。「少女倶楽部(少女club)」、「ひまわり(向日葵)」の他、「令女界(reijyo kai)」も、戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって重要な雑誌でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「令女界(reijyo kai)」に絵を描く、主要作家の一人として活躍し、戦後も、雑誌の顔と言うべき表紙絵を始め、挿絵等を描き続けました。




写真以下6枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「令女界(reijyo kai)」における作品例。



「マロニエの構図(虹児(koji)抒情画選)」。口絵原画。1946年。






西條 八十「わかれ」。口絵原画。1947年。






勝 承夫「アラビヤン・ナイト(虹児(koji)名作画選)」。口絵原画。1948年。

 







表紙原画。1949年。






表紙原画。1949年。







表紙。1949年。

 


蕗谷虹児(fukiyakoji)5(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。


蕗谷虹児(fukiyakoji)5→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618376?&sfl=membername&stx=nnemon2



 


후키곡홍아(fukiyakoji) 4





이하, 기본적으로, 2017년에 간 투고의 재게입니다.



도쿄도심부의 서부의 조용하고 침착한 주택지에 있는, 우리 집의 부근의, 나의 친가는, 원래, 나의 외가의 조부모의 집에서(덧붙여서 어머니는, 독자입니다), 현재는, 부모님이 계승하며 살고 있습니다.이미, 외가의 조부모 모두, 죽습니다.



죽은, 나의 외가의 조모가, 가장, 좋아함 , 일러스트레이터가, 이 투고로 소개하는, 후키곡홍아(fukiyakoji)입니다.


나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 님입니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 생애, 후키곡홍아(fukiyakoji)와 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

나의 외가의 조모는, 시골의 유복한 지주의 집의 딸(아가씨)였으므로, 아마, 어릴 적·어릴 적, 여학교(제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)가 다닌, 여자 전용의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학과 고등학교에 해당된다) 시대, 도쿄에서의 대학시절, 도쿄에서의 독신의 사회인 시대(뭐, 나의 외가의 조모는, 사회인이 되어 머지 않아 결혼해, 이후, 쭉 주부였습니다만...)에, 나의 외가의 조모의 친가( 나의 외가의 조모의 부모)에, 당시의, 일본의, 여성의 어린이용의 잡지, 소녀 전용의 잡지, 젊은 여성취향의 잡지를, 많이 사 받고 있었다고 생각합니다.




이 투고는, 전에, kj로, 간, 2011년에, 요코하마역 주변(도쿄의 남부 교외 최대의 번화가)에 있는, 규모의 큰 백화점의 하나, 소고(sogo) 백화점 요코하마 점내에 있는 미술관에서 행해진, 후키곡홍아(fukiyakoji)(아래의 보충 설명을 참조)의 전람회(exhibition)에 관한 투고중에서 발췌해 온 것입니다.


후키곡홍아(fukiya koji):1898년, 니가타(niigata) 현(일본의 중부 지방의 북단에 위치하는 현) 태생.1979년에 죽는다.아버지는, 신문기자.1920년대부터 1970년대에 활약한, 일본의 유명한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator).유명하다고는 말해도, 타케히사 무지(takehisa yumeji)와는 다르고, 초유명(매우 유명)이라고 말할 정도가 아닙니다.잡지·책·신문등은, 구매자별로, 유년(아이) 향해·소년 전용·소녀 전용·성인의 남녀 전용·여성취향과 대략적으로 분류 할 수 있습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 그것들 모든 분야에 그림이나 문장을 쓰고 있지만, 유년(아이) 향해·소녀·여성취향의 출판물에 대하고, 가장, 일을 했던(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).후키곡홍아(fukiya koji)는, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo) 등과 함께, 일본의 소녀 만화(소녀 전용의 만화)의 화풍의 원형을 만든 작가입니다.현대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게도, 후키골짜기 홍아(fukiya koji) 팬(fan)은 대부분, 「후키곡홍아(fukiya koji)를 참고로 했다」라고 명언하고 있는, 타케미야 케이코(takemiya keiko)는, 이것 또, 차세대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게, 큰 영향을 계속 미치고 있는 만화가의 한 명이 되고 있습니다(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).



이하, 후키곡홍아(fukiyakoji) 3(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)의 계속입니다.

후키곡홍아(fukiyakoji) 3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618378?&sfl=membername&stx=nnemon2



이하의 사진은, 모두, 이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...설명문도, 기본적으로, 카탈로그(catalogue)의 문장으로부터 발췌해 온 것입니다.




후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지) 이외에도, 「애송」, 「납인형」등 , 몇개의, 일본의 문예 잡지나, 「부인 화보」나 「여성 문화」라고 한, 일본의 부인 잡지(주부·어른의 여성취향의 잡지) 등 , 님 들인 잡지로 활약했습니다.




상, 잡지, 「애송」의 표지 원화.1932년.아래, 잡지, 「애송」의 표지.1932년.





후키곡홍아(fukiya koji)는, 책의 장정(design· cover art)이나, 레코드 쟈켓(record cover·album cover)의 디자인(design)의 분야에서도 활약했습니다.




사진 이하 5매.후키곡홍아(fukiya koji)가 다룬, 책의 장정(design· cover art) 례.




요시야 노부코(yoshiya nobuko.1896 년생.1973년에 죽는다.1910년대 중반부터 죽는 근처까지 활약한, 일본의 여성 소설가) 작, 「실락의 사람들」. 1930년.






츠루미 유스케 「세계 소녀 이야기」.1940년.「세계 소녀 이야기」는, 1934년부터 1935년경에, 「소녀 클럽(소녀 club)」에 연재되고 있던, 「세계 소녀 독본」을 모은 책입니다.







츠루미 유스케 「세계 소녀 이야기」.표지 원화( 오른쪽)와 표리 카미하라화(왼쪽).1939년부터 1940년.







알렉시스·키비(Aleksis Kivi.1834 년생.1872년에 죽는다.핀란드(Finland)의 희곡가켄 작가) 작, 「일곱 명 형제」.1942년.이 책에는, 당시의, 주일 핀란드(Finland) 공사(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)가 서문을 보내고 있습니다.






알렉시스·키비(Aleksis Kivi) 작, 「일곱 명 형제」.삽화 원화.1941년부터 1942년.





사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiya koji)가 디자인(design)을 다룬, 레코드 쟈켓(record cover·album cover)의 예.





「L’ARLESIENNE-EXCERPS Bizet」.1937년경.





위, 「Weber Album Tango」.1937년경.아래, 「Hawaiian Album」.1937년경.






후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)에 특화하지 않고, 삽화의 일을 시작한 빠른 시기부터, 어린이용의 그림도 다루고 있어 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로 인기 작가가 되고 나서도, 그림책이나 외국 동화의 삽화에는, 적극적으로 임하고 있었습니다.




사진 이하 11매.후키곡홍아(fukiya koji)의 1930년대 중반부터 1940년대 초의, 어린이용의 출판물에 있어서의 작품예.





고지마 마사지로 「메즈사의 목」.「유년 클럽(유년 club)」의 삽화 원화.1934년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1930년대 중반부터, 일본의, 어린이용의 잡지, 「유년 클럽(유년 club)」의 삽화를 묘했다.





기타가와 지요 「마치노테후테후(거리의 첩들)」.「유년 클럽(유년 club)」의 삽화.1941년.






「긴자(ginza)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책.도쿄 구경」의 삽화 원화.1937년.1936년에 창간 한, 코단샤(Kodansha)의 그림책 시리즈(series)는, 「(일본의) 일류 화가를 총동원해」라고 해질 정도의 책이며, 이것에, 자주 등용된 일은, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서 명예로운 일이었겠지요.채색의 정중한 일하는 태도에, 어린 아이에게야말로, 좋은 그림을, 이라고 말하는, 후키곡홍아(fukiya koji)의 의식이, 잘 나타나고 있습니다.





사진 이하 8매.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1940년대 초에 간행된, 코단샤(kodansha)의, 「세계 명작 동화」시리즈(series)중, 「아라비안나이트(One Thousand and One Nights)」, 「앤더슨(Andersen)의 동화」에 그림을 그렸습니다.





「세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」.1950년(제이차 세계대전 후의, 재간행(재출판) 판).초판은, 1941년.





사진 이하 2매.「선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」.「세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」의 삽화 원화.1941년.

















「알리바바와 40명의 도적(Ali Baba and the Forty Thieves)」.세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」의 삽화 원화.1941년.





「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」.1950년(제이차 세계대전 후의, 재간행(재출판) 판).초판은, 1942년.





사진 이하 2매.「엄지공주(Thumbelina)」.「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」의 삽화 원화.1942년.

















「바다 제비」.「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」의 삽화 원화.1942년.





잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 중류층 이상의 가정의, 10대 후반부터 20대 전반의 여성이, 화려한 화장이나 패션(복장)으로, 근대 일본의 소녀·젊은 여성 문화를 만끽 할 수 있었던 시대는, 1937년에 발발한 중일 전쟁(일본과 중국의 사이의 전쟁) 이후, 조금씩 소멸해 갔습니다.전쟁에 의해서, 물자가 부족해지는 시대에 두고, 화려한 것이나 사치스러운 것은, 악이다고 하는 풍조가, 횡행해, 그것은, 잡지의 세계에도 영향을 미쳤습니다.1938년에 국가 총동원법이 시행되어 출판 통제가 어려워지면, 화려하고 섬세하다라고 말하다는 이유만으로, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)는, 존재를 위험하게 여겨져 후키곡홍아(fukiya koji)도, 1939년 이후, 「령녀계(reijyo kai)」의 표지를 그릴 수가 없게 되었습니다.후키곡홍아(fukiyakoji)는, 전시색이 진해지는 것에 따라, 제작의 변경을 피할 수 없게 됩니다(군으로부터 감시받고, 그림을 그릴 수 없게 되면, 어쩔 수 없기 때문에).이와 같은 시대의 흐름은, 근대적이고, 세련된, 또 가련한 소녀를 그리는 일을 자랑으로 여기고 있던, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서, 큰 타격이었습니다.1940년 12월 6일에 설치된 내각 정보국을 중심으로서 언론이나 보도에의 규제가 철저되어 거기에 따라, 후키곡홍아(fukiya koji)의 활동하는 잡지도 검열 대상하에 들어갔습니다.



1930년대 후기부터 1940년대 초에 있어서의, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 소녀 잡지에 있어서의 작품에는, 군국주의와 소녀다움의 절충을 모색하는, 고심의 자취가 느껴지는 작품을 볼 수 있습니다.특히, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품에는, 군국색의 강해지는 시류 중(안)에서, 얼마나, 종래, 「령녀계(reijyo kai)」가 가지고 있던 엘레강트(elegance) 를 표현하는가 하는 갈등을 감지할 수 있는, 군으로부터 감시받지 않고(군의 의향에 반발하지 않고), 그래서 있고, 「령녀계(reijyokai)」의 독자인, 소녀·젊은 여성이 보는에 적당한 것, 그, 최대한의 경계를 찾고 있는 님작품을 볼 수 있습니다.



「그에게의 선물」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1937년.






「그리고 금년도 돌아가신다」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1937년.






「가게의, 아가씨」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」.1938년.전쟁하, 여성의 복장으로부터 화려한 것이, 서서히 배척되어서 갔습니다.처음은, 추천옷인, 몸빼(monpe)가, 1940년대 이후, 강제 압력이 강해져, 전국 악화에 수반해, 공습시의 방공용으로 여성의 착용이 의무지워져 반 강제당했던(여학생(현대의, 중학생과 고교생에 해당된다)에 대해서는 강제).가장, 세련되게 민감하고, 귀엽고 있다 일이 필수인, 소녀·젊은 여성들에게 있어서, 몸빼(monpe)를 몸에 대는 일은, 괴로운 일이었겠지요.이 그림은, 몸빼(monpe)를 입지 않으면 안 되는 것이라면, 적어도, 조금이라도 멋지게 입자고 한다, 설득 효과를, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자인, 일본의, 소녀·젊은 여성들에 대해서 가져왔다고 생각됩니다.








「위문품 판매장에서」.잡지, 「소녀 클럽(소녀 club)」.1938년.







「전쟁(싸움)의 이야기」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1939년.







「파도가 몰아치는 갯바위」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1940년.





후키곡홍아(fukiya koji)는, 출판 통제가 어려워지고 나서도, 잡지의 삽화나 삽화의 일에 대하고, 시류와의 절충점이나 타개책을 모색하면서 제작을 계속하고 있었습니다만, 1942년경부터는, 잡지의 일은, 일본의, 문예 잡지인, 「잠자리」와「방인」을 주로 하는 것처럼 되어, 대신에, 군사색의 강한, 그림이나, 서적의 장정(design)을 다루었습니다.그러나, 1944년에는, 모두의 제작을 멈추어 카나가와(kanagawa) 현(동경권의 남부를 차지하는 현), 산북(yamakita) 마을에 피난 해, 제이차 세계대전이 끝날 때까지, 작품을 발표하는 일은 없었습니다.





「신이 이끄는 부대 신조」.1943년.이 작품은, 제3 회항하늘 미술전람회에 출품된 작품으로, 종군 화가는 아니었던 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서, 군국주의에 몸을 두어 그린, 얼마 안되는 작품입니다.항공 미술전람회는, 1941년부터 1943년까지의, 전3회, 도쿄도심의, 백화점의 하나, 다카시마야(Takashimaya) 백화점, 니혼바시(nihonbashi) 점에서 행해진, 전람회(exhibition)입니다.이 그림은, 붕괴되는 항공병을, 고대병이, 가슴에 안으면서도 적을 향하려 하고 있는(있다 있어는, 아군을 고무 하고 있다) 곳이, 그려져 있습니다.








이하, 이 전람회(exhibition)의 전시 작품중, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 제이차 세계대전 후의 작품예를 소개합니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터 1930년대에 있어서의, 소녀 잡지로의 활약이 화들주위분 , 제이차 세계대전 후의 일은, 사양 시대와 같이 보입니다만, 제이차 세계대전 후, 활동을 재개시키고 나서, 만년까지, 많은 작품을 그렸습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 전쟁 전은, 주로, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지) 등으로, 소녀나 젊은 여성취향으로 그려 왔습니다만, 전후는, (후키골짜기 홍아(fukiya koji)의) 활동 매체가, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로부터 아동서(어린이용의 본)등으로 이행한 때문, (후키곡홍아(fukiya koji)가) 그리는 대상이 되는 독자의 성별의 테두리가 빗나감과 동시에, 저연령화해, 유치원아로부터 초등 학생의 남녀 전용의 그림의 일이, 주체가 되었습니다.




제이차 세계대전 후, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 삽화 화가가 아니고, 본격적인 화가로서 재출발을 도모하려 하고 있었습니다.그렇지만, 전쟁으로 일시 휴간하고 있던 잡지가 발행을 재개하면, 출판사로부터 열망되고, 1946년에 삽화의 일을 재개했습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」나 「령녀계(reijyo kai)」, 1947년에 창간 된, 「해바라기(해바라기)」등 , 님 들인, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)에 그려서 감과 동시에, 「명작 소녀 소설」이나 「세계 명작 동화」등의, 일본의 어린이용 서적의 장정(design· coverart)나 삽화도 다루어 제이차 세계대전 후도, 다시, 삽화 화가로서 활약해 나갔습니다.그러나, 연예인 기사와 만화에 의해서, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 비쥬얼(visual) 화나 오락화가 진전해 나가면, 1950년대 중순에는, 잡지로의 활약의 장소가 없어져, 「코단샤(Kodansha)의 그림책」등 , 일본의 어린이용의 그림책이, 일의 주축이 되었습니다.수많은 옛날 이야기나 동화를 선명한 색채와 정밀한 표현으로 그려냄과 동시에, 애니메이션(animation)이라고 말한다, 새로운 분야에도 도전했습니다.또, 만년에는, 비원이었던 회화 제작에, 의욕적으로 임했습니다.






이하, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 제이차 세계대전 후의 활동에 대해서, 세세하게 보고 가고 싶습니다.



후키곡홍아(fukiya koji)는, 제이차 세계대전 후, 삽화 화가로서 복귀하는 일에 대해서는, 적극적이 아니었습니다.그 배경에는, 1937년에 발발한 중일 전쟁(일본과 중국의 사이의 전쟁) 이후, 전시체제가 현저해져서 가는 중, 일본의, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 언론이 통제되어서 간 일에 대한, 싫증이 있던 것이라고 생각됩니다.후키곡홍아(fukiyakoji)가 그리고 있던, 일본의, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)중, 「소녀 클럽(소녀 club)」는, 제이차 세계대전중, 휴간을 면했습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)의 같은 잡지에 있어서의 일은, 1941년 4월까지되었습니다.그러나, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 전시중, 완전히 일이 없어진 것은 아니고, 「소녀 클럽(소녀 club)」를 발행하는 코단샤(kodansha)에 의뢰받아 동사의, 「세계 명작 동화」시리즈(series) 외, 「유년 클럽(유년 club)」에, 삽화를, 1944년 2월까지 계속 그리고 있어 전국이 긴박화하는 가운데도, 어린이용의 분야에서는, 계속해, 기용되고 있었습니다.제이차 세계대전 후, 이윽고, 전시중, 일시 휴간하고 있던 잡지가, 다시 발행되는 것처럼 되면, 후키곡홍아(fukiya koji)아래에, 재빨리 방문한 것은, 코단샤(kodansha)의 「유년 클럽(유년 club)」의 편집장이었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 삽화의 일을 의뢰받습니다만, 일단은, 끊고 있습니다.그러나, 「길었던 전시하의 결핍에 참아 와 준 일본의 아이들에게, 적어도는 선생님의 그림을 보여 주고 싶어서 , 방문했던 것입니다」라고 호소할 수 있으면, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 과연 거절할 수가 없었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)가, 다시, 「유년 클럽(유년 club)」의 일을 맡은 배경에는, 아이들에게, 한번 더, 깨끗한 그림을 보여 주고 싶다고 하는 생각과 함께, 전시하에서도, 길게 그릴 수가 있던, 「유년 클럽(유년 club)」에의 은의가 있었을지도 모릅니다.어쨌든, 이것을 기회로, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 전후, 삽화 화가로서 복귀해 갔습니다.




후키곡홍아(fukiya koji)는, 1946년 3월호의 「유년 클럽(유년 club)」에 삽화를 그려 복귀합니다만, 같을, 코단샤(kodansha)가 발행하는 「소녀 클럽(소녀 club)」에 그리지 않는 것에도 가지 않고, 1946년 4월호로부터, 다시, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)를, 다루어서 가는 일이 되었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「소녀 클럽(소녀 club)」에는, 1954년 12월호까지, 거의, 매호와 같이 계속 과 같이 그려 「소녀 클럽(소녀 club)」는, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 전후, 가장 많은 일을 한 잡지가 되었습니다.





사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiyakoji)의, 「소녀 클럽(소녀 club)」에 있어서의 작품예.





「개춤(윤무)」.삽화 원화.1952년.





「반딧불」.1953년.





「령녀계(reijyo kai)」가, 1946년 4월에 발행이 재개되면, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 1947년 10월호로부터, 같은 잡지에, 복귀했습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」, 「해바라기(해바라기)」외, 「령녀계(reijyo kai)」도, 전후의, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서 중요한 잡지였습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터, 「령녀계(reijyo kai)」에 그림을 그리는, 주요 작가의 한 명으로서 활약해, 전후도, 잡지의 얼굴이라고 해야 할 표지그림을 시작해 삽화등을 계속 그렸습니다.




사진 이하 6매.후키곡홍아(fukiya koji)의, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품예.



「마로니에의 구도(홍아(koji) 서정화선)」.삽화 원화.1946년.






사이죠80 「헤어져」.삽화 원화.1947년.






승승부 「아라비얀·나이트(홍아(koji) 명작화선)」.삽화 원화.1948년.








표지 원화.1949년.






표지 원화.1949년.







표지.1949년.



후키곡홍아(fukiyakoji) 5(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)에 계속 된다...


후키곡홍아(fukiyakoji) 5→

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