伝統文化紹介 Relationship

 





以下、基本的に、2017年に行った投稿の再掲です。



東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。



亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。


私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。




この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。


蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久 夢二(takehisa yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷 虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮 恵子(takemiya keiko)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。



以下、蕗谷虹児(fukiyakoji)1(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。


蕗谷虹児(fukiyakoji)1→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618381?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。




日本の近代の児童文学(子供向けの文学)の歴史は、1891年の、「こがね丸(koganemaru)」に始まるとされます。以後、本来は、大人向けの挿絵を描く画家達が、児童向け(子供向け)の雑誌や本にも描いていましたが、1918年7月、日本の、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、「赤い鳥」の創刊が契機となり、幼児向けの雑誌や絵本(絵が、多い本)に、新しい潮流がもたらされました。この雑誌は、芸術性を重んじ、童話(子供向けの話・文学)や童謡(子供向けの歌)に名作を生み出し、同時に、それに伴う絵にも、芸術性を求めました。その翌年の1919年11月には、「赤い鳥」に、刺激を受けた、日本の雑誌、「金の船」が創刊されました。「金の船」は、1922年に、雑誌名が、「金の星」に変わりましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、雑誌名が、「金の星」になってからの、1923年8月から、同雑誌の、表紙や挿絵を描きました。その後も、1920年4月創刊の「童話」、1922年1月創刊の「コドモノクニ(子供の国)」、1923年11月創刊の「コドモアサヒ(子供朝日)」と、芸術性に根ざした、日本の、幼年(子供)向けの、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、絵雑誌(絵が、多い雑誌)の創刊が相次ぎ、そこで活躍した日本の画家達は、1927年に、「日本童画家協会」を結成しました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「日本童画家協会」のメンバー(member)には、含まれていませんが、「金の星」だけでなく、「コドモノクニ(子供の国)」にも描き、やはり、この時代に創刊された、「児童の世紀」等の、日本の、童話(子供向けの話・文学)・童謡(子供向けの歌)雑誌、絵雑誌(絵が、多い雑誌)にも、作品を載せ、日本の近代児童(子供)文化の発展に、大きく貢献しました。この時代に描かれた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の童画(子供向けの絵)作品を見ると、芸術性と言う意味では、「日本童画家協会」の設立メンバー(member)の作品に劣るものではありません。もっとも、読者である子供にとっては、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品の緻密さが、やや息苦しく感じられたのではないか?とも思われます(なお、第二次世界大戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の子供向けの絵の画風は、第二次世界大戦前の、同画風と異なり、息苦しい程の描きこみがなされる物ではなく、さらりと、分かり易く描かれる物となっています)。「日本童画家協会」のメンバー(member)の作品全般に対しても、「大人の評価は高いものの、子供には、高踏的過ぎて(質が高過ぎて)、あまり好まれなかった」と言われています。その後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、子供向けの出版物における活躍については、後で書きますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、生涯に渡って、幼年(子供)向けの絵の分野でも、活躍しました。

 

第一次世界大戦後の1910年代末から1920年代初めは、日本において、近代文学や近代文化が、中産階級及び大衆層(庶民層)の注目を集めた時代であり、暮らしのゆとりと自由な雰囲気から、日本の近代的な大衆文化が成熟して行った時代です。この時期、日本では、子供の個性や自我を重視した、「赤い鳥」、「コドモノクニ(子供の国)」等の、日本の、子供向けの雑誌が、数多く登場、絵雑誌(絵が多い雑誌)や童話(子供向けの話・文学)雑誌が次々と創刊され、日本の近代児童文化(子供向けの文化)の興隆期を迎えました。1920年代前半において、既に、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)で大活躍していましたが、子供向けの絵雑誌(絵が多い雑誌)にも、度々、絵を描きました。




「王子と忠犬」。日本の、子供向けの雑誌、「宝の山」の表紙。1922年。






「アラビヤ(Arabia)の月」。「金の星」の表紙。1923年。「金の星」は、1919年に、キンノツノ社から創刊された「金の船」から、1922年に誌名変更された、日本の、子供向けの雑誌(童話・童謡雑誌)。







「ロスケ(rosuke)パン」。日本の、子供向けの雑誌、「ミソラ」の挿絵。1924年。露助(ロスケ。rosuke)とは、日本人がロシア(Russia)人に対して使う、蔑称です(現在は、差別用語として認識されている)。ロシア革命(Russian Revolution)後、かなりの数のロシア(Russia)人が日本に亡命して来ました。こうした、ロシア革命(Russian Revolution)後、日本に亡命したロシア(Russia)人(革命から、しばらくしてから、日本に来た人も、少なからず含まれる)は、かつてロシア帝国(Russian Empire)で貴族であったような裕福な人々や、モロゾフ(Morozoff)家やマカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)(モロゾフ(Morozoff)家と、マカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)は、それぞれ、神戸(kobe)(日本の西部に位置する大都市)に本社を置く、日本の西洋菓子会社、「モロゾフ(Morozoff)」(1926年創業)と、「ゴンチャロフ(Goncharoff)」(1923年創業)を創業)の様に、商売等で成功した人々もいましたが、娘を花売り娘として、街頭(市街地の道路や広場)に立たせなければならない様な、貧しい人々も、かなりいた様です。上の挿絵の(挿絵を伴った)文の内容は、以下「」内の通りです。「私は、悲しい、ロシア(Russia)の子供。日本の坊ちゃん(男の子)パン買ってよ。日本の嬢ちゃん(女の子)パン買ってよ。パンパン、ロスケ(rosuke)パン。パンは、いかが」。ここでの、「ロスケ(rosuke)」には、蔑みの意味と言うよりか、愛情や親しみの意味が込められていると思います(大人の子供に対する愛情の様に、絶対的に優位な立場にある者の愛情ですが。。)。日本人は、日露戦争(Russo-Japanese War。1904年から1905年にかけて、日本とロシア帝国(Russian Empire)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後、第二次世界大戦まで、(日露戦争(Russo-Japanese War)の勝利や、ロシア革命(Russian Revolution)による亡命者等により)、ロシア(Russia)人に対して優越感を抱いていた様です。第二次世界大戦の最終局面、日本がアメリカを中心とした連合国(ソビエト連邦(Soviet Union)を除く)との戦争で、ほぼ完全に壊滅状態にあった時に、ソビエト連邦(Soviet Union)が、日ソ中立条約(Soviet–Japanese Neutrality Pact)を一方的に破棄し、日本に対して宣戦布告した事や、それ以後、ソビエト連邦(Soviet Union)によって抑留された(抑留は、第二次世界大戦が終わった後も、しばらく続きました)、日本人捕虜(日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人)の、非人道的な取り扱い(第二次世界大戦中の、日本軍による、連合国軍捕虜の取り扱いも、この時の、ソビエト連邦(Soviet Union)の、日本人捕虜の取り扱い同様、非人道的な物でしたが。。。ちなみに、日露戦争(Russo-Japanese War)における、日本のロシア(Russia)軍捕虜の取り扱い、第一次世界大戦における、日本のドイツ人(ドイツ兵が中心)捕虜の取り扱いは、人道的で、紳士的な物でした)等により、第二次世界大戦後は、日本人のロシア(Russia)人に対する、主だった感情は、優越感から憎しみへと変わりました。



蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon d‘Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。なお、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。




蕗谷 虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)(日本の、一般人の、女性)。当時、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。






下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。

 






「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。





蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、フランスの雑誌社からも、口絵の依頼を受ける様になりました。写真以下3枚は、現地の(フランスの)雑誌、「ファンタジオ」に掲載された口絵の切り抜きです。この他、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、現地の(フランスの)、児童雑誌(子供向けの雑誌)、「ラ・ジュネスヌーベル」からも、挿絵や口絵の依頼を受けました。




















蕗谷 虹児(fukiya koji)が、パリ(Paris)に滞在中の1929年1月、パリ(Paris)からも、日本からも、遠く離れた、上海で、魯迅(Lu Xun。中国の有名な作家)が、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」を出版しました。魯迅(Lu Xun)は、1927年に、上海の書店で、蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集を手に入れ、蕗谷 虹児(fukiya koji)が描く絵に魅せられました。魯迅(Lu Xun)は、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集の中から、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵と詩を、抜粋して掲載し、詩は、魯迅(Lu Xun)自らが、漢訳(中国語訳)しました。




「旅人」。魯迅(Lu Xun)が出版した、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」から。。。








下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部の西部)に位置する)の自宅(自分の家)の庭で、薔薇の剪定をする、蕗谷 虹児(fukiya koji)。1939年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、自宅の庭に、様々な種類の薔薇を植えていました。





蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けましたが、中でも、「令女界(reijyo kai)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と同じでしたが、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)の高学年から、女学校を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚女性」が増加したのです。そのような社会状況に、いち早く対応して、それまでの少女雑誌(少女向けの雑誌)と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。




写真以下。1920年代後期から1930年代の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例(途中、「胡蝶の夢」を除く)。




「山の乙女」 表紙原画。1928年。






「花の国の乙女」。表紙原画。1928年。






「新緑」。表紙原画。1928年。







「水草の花」。表紙原画。1928年。







「郊外の秋」。表紙原画。1928年。





写真以下2枚。江馬 修「悩みをとおして」(物語の内容は、不遇な女性ピアニストの波乱に満ちた生涯)の、挿絵原画。1927年から1929年。















1929年から1930年にかけての「令女界(reijyo kai)」においては、目次の次は、ニュース(news)写真が誌面を埋めていました。挿絵よりも写真に重点が置かれていたのです。そこに変化が現れたのは、1931年の新年号です。豪華なフルカラー(full-color)の見開き口絵が1年間を通して、毎号載る様になったのです。口絵とは、文字の助けを借りる事なく、絵そのもので、世界を表現する、雑誌においては、表紙に次ぐ、重要な価値を持つ物です。特に口絵の中でも、フルカラー(full-color)の口絵は、画家が色の出方まで拘る重要な物です。



「幸福の使者」。口絵。1931年。







「夢」。口絵。1931年。







「胡蝶の夢」。1968年。




1931年の、「令女界(reijyo kai)」の、豪華な口絵で、蕗谷 虹児(fukiya koji)が登場したのは、2月号と6月号でした。特に、6月号では、仰向けの女性の横顔と蝶が、薄暗い背景に溶け込んだ、「夢」を発表し、大反響を呼びました。「茶和会」と言う、「令女界(reijyo kai)」の読者投稿欄に寄せられた、16件のコメントの内、「夢」について書かれている投稿は、7件にのぼり、「素晴らしく気高い作品」、「美しい色取り、崇高なプロフィル(profil)は、本当に夢のようですね。ある神秘さを感じました」、「この絵は、絵と言うより、余りに詩的です。この絵から受ける感じは詩的な幻想です」等、「令女界(reijyo kai)」の読者の、日本の、少女・若い女性達から、絶賛されました(ちなみに、同年2月号に載った、「幸福の使者」に対するコメントは2件でした)。「夢」の構想は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、フランスの雑誌、「ファンタジオ」の為に描いた口絵から生まれ、1960年代末には、「胡蝶の夢」として、同様の作品を展覧会(exhibition)に出品している事から、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、相当、思い出深い作品であったと思われます。なお、翌年(1932年)から、この口絵ページは、単色又は2色刷りで、詩が掲載されるページとなりましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、ここに掲載される、西條 八十(saijyo yaso)や野口 雨情(noguchi ujyo)等の詩を飾る挿絵を描き続けました。

 



2月号に掲載された、「幸福の使者」は、決して、悪い絵ではなく、むしろ、第二次世界大戦後に、蕗谷 虹児(fukiya koji)が手掛けた、「令女界(reijyo kai)」の表紙を彷彿させるような、きりっとした目つきの美しい作品です。それでは、この2月号と6月号の作品(「幸福の使者」と「夢」)に対する読者の反応の違いは、いったい何故起こったのでしょうか。そこに、「令女界(reijyo kai)」の読者層は、誰なのかと言う問題が大きく絡んでくるのです。

 


前述の通り、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けましたが、「少女倶楽部(少女club)」の読者と「令女界(reijyo kai)」の読者とでは、10歳程の年齢差がある事を考えると、取り上げられる題材や描かれる絵柄は、全く違っていて当然と言えます。「少女倶楽部(少女club)」と「令女界(reijyo kai)」の中間に位置する、「少女の友」と「少女画報」は、可愛らしさ、快活さ、可憐さと言った物が、主な要素でした。これに対して、「令女界(reijyo kai)」は、結婚して大人の女性となるまで、あと一歩と言う、大人の色気を伴い、もはや、可愛いだけの少女ではなくなった、純真な少女と大人の女性の中間の、少女・若い女性層を対象としていました。もちろん絵ばかりでなく、内容も、他の、当時の日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と比べて、かなり大人向けとなっていました。例えば、「令女界(reijyo kai)」の、人生相談欄には、しばしば性や結婚に関する質問や相談が寄せられました。その多くは、色恋(sexや恋愛)についての現実生活に直面した悩み相談でした。また、「令女界(reijyo kai)」に掲載された小説には、10代後半の少女を読者対象とするのに、現代の保守的な健全志向派の人々の基準からすると、疑問に思われるような物が多くあります。例えば、北川 千代の「路遠く」は、主人公の姉が、遊び人の夫から梅毒(性病)を感染させられると言う、衝撃的な展開を見せます。他にも、裏切りの物語や男女の三角関係を取り上げた物等、(はしたない言い方をすれば)他人の不幸を楽しむ為の物語が多くなっています。「令女界(reijyo kai)」の読者層は、年齢層的に、少女と呼ぶには大人びた存在であり、しかし大人とも呼べない女性達でした。「令女界(reijyo kai)」の読者層に当たる年齢層の女性達は、過剰な好奇心に溢れている一方で、自らを守る意識も高く、無防備でありながら、守りが固く、無垢でありながら残酷であると言った、様々な矛盾した性質を有する存在です。彼女達は、火遊び程度の体験(それは、実現しない事を望むと言う意味で、彼女達にとっては、ロマンティック(romantic)な体験である)に憧れながらも、実際には、自分が傷つく事のない、ぎりぎりの線を楽しみたいのです。ここで、1931年の、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、「令女界(reijyo kai)」の為に描いた、2点の口絵に立ち返ってみると、ともに大人びた雰囲気の作品であったにもかかわらず、「幸福の使者」にはなくて、「夢」にあったもの、それは、現実離れした、ロマンティック(romantic)な要素であり、前者が後者よりも、不人気だったのは、この要素が無かったからだと考えられます。現実的な大人の世界を描いていながら、同時にロマンティック(romantic)な物を見せてくれる事が、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性達が求めた物でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、他の少女雑誌(少女向けの雑誌)では描き切れなかった、現実的な少女像、婦人(主婦・大人の女性)向けの雑誌では描けなかった、ロマンティック(romantic)な少女像を、同時に表現する事が可能でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、成長したい・成長したくない、大人になりたい・大人になりたくないと言う、「令女界(reijyo kai)」の読者の、少女・若い女性達の矛盾を、「令女界(reijyo kai)」における絵において、優しく強く表現し、「令女界(reijyo kai)」の読者の、少女・若い女性達は、自分達と等身大の、時には憧れの女性像を、「令女界(reijyo kai)」における、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵に見ていました。






表紙。1936年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「知性を感じさせる、毅然とした眼差しに、同時に誘いかける様なセクシャル(sexy)な魅力も含む、相反する二つの魅力を、一身秘めた(同時に持つ)、若い女性」を描くのを得意としていました。


蕗谷虹児(fukiyakoji)3(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。


蕗谷虹児(fukiyakoji)3→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618378?&sfl=membername&stx=nnemon2



 


후키곡홍아(fukiyakoji) 2





이하, 기본적으로, 2017년에 간 투고의 재게입니다.



도쿄도심부의 서부의 조용하고 침착한 주택지에 있는, 우리 집의 부근의, 나의 친가는, 원래, 나의 외가의 조부모의 집에서(덧붙여서 어머니는, 독자입니다), 현재는, 부모님이 계승하며 살고 있습니다.이미, 외가의 조부모 모두, 죽습니다.



죽은, 나의 외가의 조모가, 가장, 좋아함 , 일러스트레이터가, 이 투고로 소개하는, 후키곡홍아(fukiyakoji)입니다.


나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 님입니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 생애, 후키곡홍아(fukiyakoji)와 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

나의 외가의 조모는, 시골의 유복한 지주의 집의 딸(아가씨)였으므로, 아마, 어릴 적·어릴 적, 여학교(제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)가 다닌, 여자 전용의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학과 고등학교에 해당된다) 시대, 도쿄에서의 대학시절, 도쿄에서의 독신의 사회인 시대(뭐, 나의 외가의 조모는, 사회인이 되어 머지 않아 결혼해, 이후, 쭉 주부였습니다만...)에, 나의 외가의 조모의 친가( 나의 외가의 조모의 부모)에, 당시의, 일본의, 여성의 어린이용의 잡지, 소녀 전용의 잡지, 젊은 여성취향의 잡지를, 많이 사 받고 있었다고 생각합니다.




이 투고는, 전에, kj로, 간, 2011년에, 요코하마역 주변(도쿄의 남부 교외 최대의 번화가)에 있는, 규모의 큰 백화점의 하나, 소고(sogo) 백화점 요코하마 점내에 있는 미술관에서 행해진, 후키곡홍아(fukiyakoji)(아래의 보충 설명을 참조)의 전람회(exhibition)에 관한 투고중에서 발췌해 온 것입니다.


후키곡홍아(fukiya koji):1898년, 니가타(niigata) 현(일본의 중부 지방의 북단에 위치하는 현) 태생.1979년에 죽는다.아버지는, 신문기자.1920년대부터 1970년대에 활약한, 일본의 유명한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator).유명하다고는 말해도, 타케히사 무지(takehisa yumeji)와는 다르고, 초유명(매우 유명)이라고 말할 정도가 아닙니다.잡지·책·신문등은, 구매자별로, 유년(아이) 향해·소년 전용·소녀 전용·성인의 남녀 전용·여성취향과 대략적으로 분류 할 수 있습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 그것들 모든 분야에 그림이나 문장을 쓰고 있지만, 유년(아이) 향해·소녀·여성취향의 출판물에 대하고, 가장, 일을 했던(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).후키곡홍아(fukiya koji)는, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo) 등과 함께, 일본의 소녀 만화(소녀 전용의 만화)의 화풍의 원형을 만든 작가입니다.현대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게도, 후키골짜기 홍아(fukiya koji) 팬(fan)은 대부분, 「후키곡홍아(fukiya koji)를 참고로 했다」라고 명언하고 있는, 타케미야 케이코(takemiya keiko)는, 이것 또, 차세대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게, 큰 영향을 계속 미치고 있는 만화가의 한 명이 되고 있습니다(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).



이하, 후키곡홍아(fukiyakoji) 1(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)의 계속입니다.


후키곡홍아(fukiyakoji) 1→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3618381?&sfl=membername&stx=nnemon2



이하의 사진은, 모두, 이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...설명문도, 기본적으로, 카탈로그(catalogue)의 문장으로부터 발췌해 온 것입니다.




일본의 근대의 아동문학(어린이용의 문학)의 역사는, 1891년의, 「적은 돈환(koganemaru)」에 시작한다고 여겨집니다.이후, 본래는, 어른용의 삽화를 그리는 화가들이, 아동 전용(어린이용)의 잡지나 책에도 그리고 있었습니다만, 1918년 7월, 일본의, 동화(어린이용의 이야기·문학)·동요(어린이용의 노래) 잡지, 「붉은 새」의 창간이 계기가 되어, 유아전용의 잡지나 그림책(그림이, 많은 책)에, 새로운 조류가 초래되었습니다.이 잡지는, 예술성을 존중해 동화(어린이용의 이야기·문학)나 동요(어린이용의 노래)에 명작을 낳아, 동시에, 거기에 따르는 그림에도, 예술성을 요구했습니다.그 다음 해의 1919년 11월에는, 「붉은 새」에게, 자극을 받은, 일본의 잡지, 「돈의 배」가 창간 되었습니다.「돈의 배」는, 1922년에, 잡지명이, 「돈의 별」로 바뀌었습니다만, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 잡지명이, 「돈의 별」이 되고 나서의, 1923년 8월부터, 동잡지의, 표지나 삽화를 그렸습니다.그 후도, 1920년 4월 창간의 「동화」, 1922년 1월 창간의 「코드모노크니(아이의 나라)」, 1923년 11월 창간의 「코드모아사히(아이 아침해)」라고, 예술성에 기인한, 일본의, 유년(아이) 향해의, 동화(어린이용의 이야기·문학)·동요(어린이용의 노래) 잡지, 그림 잡지(그림이, 많은 잡지)의 창간이 잇따라, 거기서 활약한 일본의 화가들은, 1927년에, 「일본 동화가 협회」를 결성했습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「일본 동화가 협회」의 멤버(member)에게는, 포함되어 있지 않습니다만, 「돈의 별」뿐만이 아니라, 「코드모노크니(아이의 나라)」에도 그려, 역시, 이 시대에 창간 된, 「아동의 세기」등의, 일본의, 동화(어린이용의 이야기·문학)·동요(어린이용의 노래) 잡지, 그림 잡지(그림이, 많은 잡지)에도, 작품을 실어 일본의 근대 아동(아이) 문화의 발전에, 크게 공헌했습니다.이 시대에 그려진, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 동화(어린이용의 그림) 작품을 보면, 예술성이라고 하는 의미에서는, 「일본 동화가 협회」의 설립 멤버(member)의 작품에 뒤떨어지는 것이 아닙니다.무엇보다, 독자인 아이에게 있어서는, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품의 치밀함이, 약간 가슴이 답답하게 느껴진 것은 아닌가?(와)과도 생각됩니다(덧붙여 제이차 세계대전 후의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 어린이용의 그림의 화풍은, 제이차 세계대전전의, 동화풍과 달리, 가슴이 답답할 수록의 그리기 포함이 되는 것이 아니고, 깨끗이, 알기 쉽게 그려지는 것이 되고 있습니다).「일본 동화가 협회」의 멤버(member)의 작품 전반에 대해서도, 「어른의 평가는 높기는 하지만, 아이에게는, 고답너무 적이고(너무 질이 높아서), 별로 선호되지 않았다」라고 해집니다.그 후의, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 어린이용의 출판물에 있어서의 활약에 대해서는, 다음에 씁니다만, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 생애에 건너고, 유년(아이) 향해의 그림의 분야에서도, 활약했습니다.



제1차 세계 대전 후의 1910년대말부터 1920년대 초는, 일본에 있고, 근대문학이나 근대 문화가, 중산계급 및 대중층(서민층)의 주목을 끌었던 시대이며, 생활의 여유와 자유로운 분위기로부터, 일본의 근대적인 대중문화가 성숙해서 갔던 시대입니다.이 시기, 일본에서는, 아이의 개성이나 자아를 중시한, 「붉은 새」, 「코드모노크니(아이의 나라)」등의, 일본의, 어린이용의 잡지가, 많이 등장, 그림 잡지(그림이 많은 잡지)나 동화(어린이용의 이야기·문학) 잡지가 차례차례로 창간 되어 일본의 근대 아동 문화(어린이용의 문화)의 융성기를 맞이했습니다.1920년대 전반에 있고, 이미, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로 대활약하고 있었습니다만, 어린이용의 그림 잡지(그림이 많은 잡지)에도, 종종, 그림을 그렸습니다.




「왕자와 충견」.일본의, 어린이용의 잡지, 「보물의 산」의 표지.1922년.






「아라비야(Arabia)의 달」.「돈의 별」의 표지.1923년.「돈의 별」은, 1919년에, 킨노트노사로부터 창간 된 「돈의 배」로부터, 1922년에 지명 변경된, 일본의, 어린이용의 잡지(동화·동요 잡지).







「로스케(rosuke) 빵」.일본의, 어린이용의 잡지, 「미소라」의 삽화.1924년.로조(로스케.rosuke)와는, 일본인이 러시아(Russia) 인에 대해서 사용하는, 멸칭입니다(현재는, 차별 용어로서 인식되고 있다).러시아 혁명(Russian Revolution) 후, 상당한 수의 러시아(Russia) 인이 일본에 망명해 왔습니다.이러한, 러시아 혁명(Russian Revolution) 후, 일본에 망명한 러시아(Russia) 인(혁명으로부터, 잠시 후로부터, 일본에 온 사람도, 많이 포함된다)은, 일찌기 러시아 제국(Russian Empire)에서 귀족인 것 같은 유복한 사람들이나, 모로조프(Morozoff) 가나 마카르·곤체로후(Makar Goncharoff)(모로조프(Morozoff) 가와 마카르·곤체로후(MakarGoncharoff)는, 각각, 코베(kobe)(일본의 서부에 위치하는 대도시)에 본사를 두는, 일본의 서양 과자 회사, 「모로조프(Morozoff)」(1926년 창업)과 「곤체로후(Goncharoff)」(1923년 창업)을 창업)과 같이, 장사등으로 성공한 사람들도 있었습니다만, 딸(아가씨)를 꽃을 파는 것딸(아가씨)로서 가두(시가지의 도로나 광장)에 세우지 않으면 안 되는 님, 궁핍한 사람들도, 꽤 있던 님입니다.위의 삽화의(삽화를 수반한) 문장의 내용은, 이하 「」 안대로입니다.「 나는, 슬픈, 러시아(Russia)의 아이.일본의 도련님(사내 아이) 빵 사.일본의 양(여자 아이) 빵 사.빵 빵, 로스케(rosuke) 빵.빵은, 어떻게」.여기서의, 「로스케(rosuke)」에는, 업신여김의 의미라고 말하는 것보다인가, 애정이나 친밀감의 의미가 담겨져 있다고 생각합니다(어른의 아이에 대한 애정과 같이, 절대적으로 우위인 입장에 있는 사람의 애정입니다만..).일본인은, 러일 전쟁(Russo-Japanese War.1904년부터 1905년에 걸치고, 일본과 러시아 제국(Russian Empire)의 사이에 행해진 전쟁.일본의 실질적인 승리에 끝난다) 후, 제이차 세계대전까지, (러일 전쟁(Russo-JapaneseWar)의 승리나, 러시아 혁명(Russian Revolution)에 의한 망명자등에 의해), 러시아(Russia) 인에 대해서 우월감을 안고 있던 님입니다.제이차 세계대전의 최종 국면, 일본이 미국을 중심으로 한 연합국(소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)을 제외한다)과의 전쟁으로, 거의 완전하게 괴멸 상태에 있었을 때에, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)이, 일소 중립 조약(Soviet–Japanese Neutrality Pact)을 일방적으로 파기해, 일본에 대해서 선전포고한 일이나, 그것 이후, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)에 의해서 억류된(억류는, 제이차 세계대전이 끝난 후도, 당분간 계속 되었습니다), 일본인 포로(일본군포로 및 소련군이 체포한 일본인)의, 사람축에 들지 못한 사람도적인 취급해(제이차 세계대전중의, 일본군에 의한, 연합국군포로의 취급도, 이 때의, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)의, 일본인 포로의 취급해 같이, 사람축에 들지 못한 사람도적인 물건이었지만...덧붙여서, 러일 전쟁(Russo-JapaneseWar)에 있어서의, 일본의 러시아(Russia) 군포로의 취급해, 제1차 세계 대전에 있어서의, 일본의 독일인(독일병이 중심) 포로의 취급은, 인도적이고, 신사적인 것이었습니다) 등에 의해, 제이차 세계대전 후는, 일본인의 러시아(Russia) 인에 대한, 주요했던 감정은, 우월감으로부터 미움으로 바뀌었습니다.



후키곡홍아(fukiya koji)는, 1925년부터 1929년에 걸치고, 파리(Paris)에서, (삽화 화가로서가 아니고) 본격적인 화가로서 성공하는 일을 목표로 하고, (프랑스의) 파리(Paris)에 체재하고 있었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 파리(Paris) 체제중, 살롱·드톤누(Salon d‘ Automne) 등의 살롱(salon)으로 입선을 거듭해 파리(Paris)의 잡지사로부터도 삽화의 의뢰를 받는 것처럼 되었습니다만, 가정의 사정등에 의해, 파리(Paris)에서 본격적인 화가로서 성공하는 꿈을 단념해, 1929년에, 약 4년간에 있어서의, 파리(Paris) 체재를 끝내 일본에 귀국했습니다.덧붙여 후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyokai)」등의, 일본의 잡지 전용의 일은, (전보다도, 적게 되었지만), 파리(Paris) 체제중도 계속하고 있었습니다.




후키곡홍아(fukiya koji)의 파리(Paris)의 아틀리에(작품 제작 작업장)에서...1926년경.앞, 후키곡홍아(fukiya koji).안쪽, 후키곡홍아(fukiya koji)의 최초의 아내, 응(rin)(일본의, 일반인의, 여성).당시 , 후키곡홍아(fukiya koji)는, 27세, 응(rin)은, 17세(후키곡홍아(fukiya koji)는, 1923년, 24세 때, 당시 14세에 있던, 근처의 딸(아가씨), 응(rin)과 결혼).






하의 사진, 파리(Paris)에서...사진 제일 왼쪽의 안쪽, 후키곡홍아(fukiya koji).사진 제일 왼쪽의 앞, 응(rin).1928년경.







「일본을 나중에(일본을 후에)」.「소령녀(소reijyo)」( 「령녀계(reijyo kai)」의 매판으로서 창간 된, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지))의 삽화 원화.응(rin)을 모델(model)로 하고 있다고 생각됩니다.1926년.





후키곡홍아(fukiya koji)는, 파리(Paris) 체제중, 프랑스의 잡지사로부터도, 삽화의 의뢰를 받는 것처럼 되었습니다.사진 이하 3매는, 현지의(프랑스의) 잡지, 「환타 지오」에 게재된 삽화의 샘플입니다.이 외, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 현지의(프랑스의), 아동 잡지(어린이용의 잡지), 「라·쥬네 소왕-벨」로부터도, 삽화나 삽화의 의뢰를 받았습니다.




















후키곡홍아(fukiya koji)가, 파리(Paris)에 체제중의 1929년 1월, 파리(Paris)로부터도, 일본으로부터도, 멀게 떨어진, 샹하이에서, 노신(Lu Xun.중국의 유명한 작가)가, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」을 출판했습니다.노신(Lu Xun)은, 1927년에, 샹하이의 서점에서, 후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집을 손에 넣어 후키곡홍아(fukiya koji)가 그리는 그림에 매료되었습니다.노신(Lu Xun)은, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」에, 후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집중에서, 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림과 시를, 발췌해 게재해, 시는, 노신(Lu Xun) 스스로가, 한역(중국어(뜻)이유)했습니다.




「여행자」.노신(Lu Xun)이 출판한, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」으로부터...








시모오치아이(shimoochiai.현재의 신쥬쿠구(도쿄 중심부의 서부)에 위치한다)의 자택(자신의 집)의 뜰에서, 장미의 전정을 하는, 후키곡홍아(fukiya koji).1939년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 자택의 뜰에, 님 들인 종류의 장미를 심고 있었습니다.





후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터, 「소녀의 친구」, 「소녀 화보」, 「령녀계(reijyo kai)」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의, 당시의, 일본의 대표적인 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지), 모두에 계속 그렸습니다만 , 안에서도, 「령녀계(reijyo kai)」는, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 스스로의 가지는 힘을 전개시키는 일을 할 수 있다, 가장 중요한 무대가 된 잡지입니다.당초, 「령녀계(reijyokai)」가, 대상 연령으로 하고 있던 것은, 다른, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)와 같았습니다만, 창간으로부터 수년후의, 1920년대 중반무렵부터, 대상 연령이 올라, 대상 연령은, 여학교(제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)가 다닌, 여자 전용의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학과 고등학교에 해당된다)의 고학년으로부터, 여학교를 졸업하고 나서 결혼할 때까지의 여성(주로, 17세부터 20대 전반)이 되어, 「령녀계(reijyo kai)」는, 소녀와 주부의 사이에 있는, 「미혼의 여성」을 대상으로 한, 일본에서 최초의 잡지가 되었습니다.일본에서는, 1910년대 중반무렵부터, 직업을 가지는 여성도 증가해 결혼 연령도 서서히 올라, 「미혼 여성」이 증가했습니다.그러한 사회 상황에, 재빨리 대응하고, 지금까지의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)와 여성 잡지(주부용의 잡지)의, 중간적인 연령층을 구매자로 한 것이, 「령녀계(reijyo kai)」였습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyokai)」에 두고, 가련한 소녀가 아니고, 가정의 냄새를 가진 주부도 아닌, 독립한 여성의 매력을, 눈에 보이는 형태로, 독자에게 나타냈습니다.




사진 이하.1920년대 후기부터 1930년대의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품예(도중 , 「나비의 꿈」을 제외한다).




「산의 아가씨」표지 원화.1928년.






「꽃의 나라의 아가씨」.표지 원화.1928년.






「신록」.표지 원화.1928년.







「수초의 꽃」.표지 원화.1928년.







「교외의 가을」.표지 원화.1928년.





사진 이하 2매.에마 나가시 「고민을 이라고 눌러」(이야기의 내용은, 불우한 여성 피아니스트의 파란으로 가득 찬 생애)의, 삽화 원화.1927년부터 1929년.















1929년부터 1930년에 걸친 「령녀계(reijyo kai)」냄새나서는, 목차의 다음은, 뉴스(news) 사진이 지면을 묻고 있었습니다.삽화보다 사진에 중점이 놓여져 있었습니다.거기에 변화가 나타난 것은, 1931년의 신년호입니다.호화로운 풀 컬러(full-color)의 좌우 양면 삽화가 1년간을 통하고, 매호 실리는 것처럼 되었습니다.삽화란, 문자의 도움을 빌리는 무사히, 그림 그 자체로, 세계를 표현하는, 잡지에 대해서는, 표지에 뒤잇는, 중요한 가치를 가지는 것입니다.특히 삽화 중(안)에서도, 풀 컬러(full-color)의 삽화는, 화가가 색 나오는 태도까지 구애받는 중요한 것입니다.



「행복의 사자」.삽화.1931년.







「꿈」.삽화.1931년.







「나비의 꿈」.1968년.




1931년의, 「령녀계(reijyo kai)」의, 호화로운 삽화로, 후키곡홍아(fukiya koji)가 등장한 것은, 2월호와 6월호였습니다.특히, 6월호에서는, 위로 돌려의 여성의 옆 얼굴과 나비가, 어슴푸레한 배경으로 용해한, 「꿈」을 발표해, 대반향을 불렀습니다.「다화회」라고 하는, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자 투고란에 전해진, 16건의 코멘트중, 「꿈」에 대해서 쓰여져 있는 투고는, 7건에 달해, 「훌륭하고 고상한 작품」, 「아름다운 색 취해, 숭고한 프로필(profil)은, 정말로 꿈같네요.있다 신비를 느꼈습니다」, 「이 그림은, 그림이라고 말하는 것보다, 너무 시적입니다.이 그림으로부터 받는 느낌은 시적인 환상입니다」등 , 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 일본의, 소녀·젊은 여성들로부터, 절찬되었습니다(덧붙여서, 동년 2월호에 실린, 「행복의 사자」에 대한 코멘트는 2건이었습니다).「꿈」의 구상은, 후키곡홍아(fukiyakoji)가, 프랑스의 잡지, 「환타 지오」를 위해 그린 삽화로부터 태어나 1960년대말에는, 「나비의 꿈」으로서, 같은 작품을 전람회(exhibition)에 출품하고 있는 일로부터, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서, 상당, 추억 깊은 작품이었다고 생각됩니다.덧붙여 다음 해(1932년)부터, 이 삽화 페이지는, 단색 또는 2 컬러인쇄로, 시가 게재되는 페이지가 되었습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 여기에 게재되는, 사이죠80(saijyo yaso)이나 노구치 우죠(noguchi ujyo) 등의 시를 장식하는 삽화를 계속 그렸습니다.





2월호에 게재된, 「행복의 사자」는, 결코, 나쁜 그림이 아니고, 오히려, 제이차 세계대전 후에, 후키곡홍아(fukiya koji)가 다룬, 「령녀계(reijyo kai)」의 표지를 방불 시키는, 송곳로 한 눈초리의 아름다운 작품입니다.그러면, 이 2월호와 6월호의 작품( 「행복의 사자」와「꿈」)에 대한 독자의 반응의 차이는, 도대체 왜 일어났는지요.거기에, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자층은, 누구인가라고 하는 문제가 크게 관련되어 옵니다.




상술한 대로, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 1920년대부터, 「소녀의 친구」, 「소녀 화보」, 「령녀계(reijyo kai)」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의, 당시의, 일본의 대표적인 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지), 모두에 계속 그렸습니다만 , 「소녀 클럽(소녀 club)」의 독자와 「령녀계(reijyo kai)」의 독자와는, 10세 정도의 연령차이가 있다 일을 생각하면, 다루어지는 소재나 그려지는 도안은, 완전히 차이가 나 당연이라고 말할 수 있습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」과「령녀계(reijyo kai)」의 중간에 위치하는, 「소녀의 친구」와「소녀 화보」는, 사랑스러움, 쾌활함, 가련함이라고 한 것이, 주된 요소였습니다.이것에 대해서, 「령녀계(reijyo kai)」는, 결혼해 어른의 여성이 될 때까지, 나머지 한 걸음이라고 말하는, 어른의 성적 매력을 수반해, 이미, 귀여운 것뿐의 소녀는 아니게 된, 순진한 소녀와 어른의 여성의 중간의, 소녀·젊은 여성층을 대상으로 하고 있었습니다.물론 그림 뿐만이 아니라, 내용도, 다른, 당시의 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)와 비교해서, 꽤 어른용이 되고 있었습니다.예를 들면, 「령녀계(reijyokai)」의, 인생 상담란에는, 자주 성이나 결혼에 관한 질문이나 상담이 전해졌습니다.그 많게는, 변색(sex나 연애)에 대한 현실 생활에 직면한 고민 상담이었습니다.또, 「령녀계(reijyo kai)」에 게재된 소설에는, 10대 후반의 소녀를 독자 대상으로 하는데, 현대의 보수적인 건전 지향파의 사람들의 기준으로는, 의문에 생각되는 것이 많이 있어요.예를 들면, 기타가와 지요의 「로 멀고」는, 주인공의 언니(누나)가, 건달의 남편으로부터 매독(성병)을 감염 당한다고 말하는, 충격적인 전개를 보입니다.그 밖에도, 배반의 이야기나 남녀의 삼각 관계를 채택한 것등 , (상스러운 말투를 하면) 타인의 불행을 즐기기 때문에(위해)의 이야기가 많아지고 있습니다.「령녀계(reijyo kai)」의 독자층은, 연령층적으로, 소녀라고 부르려면 어른스러워진 존재이며, 그러나 어른이라고도 부를 수 없는 여성들이었습니다.「령녀계(reijyokai)」의 독자층에 해당되는 연령층의 여성들은, 과잉인 호기심에 흘러넘치고 있는 한편으로, 스스로를 지키는 의식도 높고, 무방비면서, 방비가 단단하고, 번뇌에서 벗어나 깨끗함이면서 잔혹하다라고 말한, 님 들인 모순된 성질을 가지는 존재입니다.그녀들은, 불장난 정도의 체험(그것은, 실현되지 않는 것을 바란다고 하는 의미로, 그녀들에게 있어서는, 로맨틱(romantic)인 체험이다)을 동경하면서도, 실제로는, 자신이 다치는 일이 없는, 최대한의 선을 즐기고 싶습니다.여기서, 1931년의, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 「령녀계(reijyo kai)」를 위해 그린, 2점의 삽화로 되돌아와 보면 ,함께 어른스러워진 분위기의 작품이었음에도 불구하고, 「행복의 사자」에게는 없어, 「꿈」에 있던 것, 그것은, 현실과 동떨어진, 로맨틱(romantic)인 요소이며, 전자가 후자보다, 불인기였던 것은, 이 요소가 없었기 때문이다라고 생각할 수 있습니다.현실적인 어른의 세계를 그리고 있으면서 , 동시에 로맨틱(romantic)인 솜씨를 보여주는 것이, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자인, 소녀·젊은 여성들이 요구한 것이었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyokai)」에 두고, 다른 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)에서는 다 그릴 수 없었다, 현실적인 소녀상, 부인(주부·어른의 여성) 보내의 잡지에서는 그릴 수 없었다, 로맨틱(romantic)인 소녀상을, 동시에 표현하는 것이 가능했습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 성장하고 싶은·성장하고 싶지 않은, 어른이 되고 싶은·어른이 되고 싶지 않다고 하는, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 소녀·젊은 여성들의 모순을, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 그림에 대하고, 상냥하고 강하게 표현해, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 소녀·젊은 여성들은, 자신들과 등신대의, 가끔 동경의 여성상을, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림에 보고 있었습니다.






표지.1936년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「지성을 느끼게 하는, 의연히 한 시선에, 동시에 유혹하는 님섹슈얼(sexy)인 매력도 포함한, 상반되는 두 개의 매력을, 일신 숨긴(동시에 가진다), 젊은 여성」을 그리는 것을 자랑으로 여기고 있었습니다.


후키곡홍아(fukiyakoji) 3(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)에 계속 된다...


후키곡홍아(fukiyakoji) 3→

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