伝統文化

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 臨海だね(臨海君), 順化だね(順和君). 加藤清政[加藤清正]の虜になる.

李舜臣が朝鮮水軍を導いて南海岸で日本水軍を連続撃破しながら災害圏を掌握している時, あほうで癬忌心が多い国王先祖(宣祖)と別に助けも与えることができないのに偉そうな顔はあらゆるやっつける朝廷の大臣たちは何をしていたのかよく見よう.

臨津江防御線が崩れたという消息を聞いて平壌を発ってまた避難の道に上がった先祖は中国亡命を決心して正式で班(分朝)を発足させた. 大臣たちも二つの無理路分けて配置した後, 咸境道に行った王妃も帰って来るようにした.

一方平壌城は左議政(左議政) 尹斗寿(尹斗寿), 桃源数(都元帥) 金人院(金命元), 平安道ドスンチァルサ(平安道都巡察使) イワンイック(李元翼), 平安監使宋言愼(宋言愼) などが残って守っていた.

大同江南岸に現われた日本軍は小西ユキナが[小西行長]の第1群と黒田ナがマサ[黒田長政]の第3だね主力部隊だった. これらは河幅が広くてお金を出さないで講義を聞くことができずに川辺 10余りの所に陣を張って機会だけうかがっていた.

6月 13日, 金人院が永遠軍需(寧遠郡守) 高彦伯(高彦伯), ビョックダンチォムサ留京領(柳〓令)にとって手早い軍事 4百名余を従えて川を渡って夜襲するようにした. これらの夜襲は初戦には成果が見えるようだったが反撃にあって浅い瀬を乗って退却したことが振り返えることができない結果を生んだ. 明くる日夕方に日本軍が総攻撃を始めながら昨日朝鮮官軍が渡ったその心配浅い瀬を渡って攻め寄せたのだ.

そうしてその翌日の 15日に日本軍は朝鮮官軍が皆逃げた平壌城に無血入城することができた.

その日バックチォンに到着した先祖は 16日加算を経って 17日井州に泊って 18日にグァックサンを経って 20日に竜泉に到着した.

これに先たち先祖は井州を経つ時に大司憲(大司憲) 李徳馨(李徳馨)を明に請願社に送って緊急に派兵を要請しながら ¥”宮嬪を導いて上国に内部しようとする.¥”と自分の亡命意思を明らかにする文を送ったことがあった. 明の調整では論難あげくかえって軍事を送って朝鮮地で戦うのが自国の国益のためにもっと優れるという結論を下した.

そして先祖が不可避に明で亡命したら随行員を 100人で制限して, 立ち居は空き家でしなさいと言った. このような明の屈辱的な措置と大臣たちのしつこい反対に先祖も遂に亡命の意を折って義州に避難調整を設置したからそれがその月 22日の仕事だった.

明軍事たちが初めて鴨緑江を越えて来たことは 6月 18日だった. 中国に渡った李徳馨が搖れかぶ(遼東巡撫) ハックゴル(壑杰)に出兵を訴えるとハックゴルが明朝廷の指示がある前に旗下軍事 5千名を派遣する事にしてまず選抜なりに 1千名をブチォングビョング(副総兵) ゾスングフン(祖承訓)に付いて送ったのだった.

なので謝恩使(謝恩使)で明首都北京に行っていた新店(申粘)が兵部上で(兵部尚書) 石聖(石星)を通じてこれを追認するようにした. ゾスングフンの軍事 1千名余は本隊が来る時まで義州で先祖の護衛を引き受けた.

かくして壬辰の乱(壬辰倭乱)は朝鮮と日本の戦争から明まで加勢した国際前(国際戦)で拡がった.

その頃咸境道でしのび込んだ加藤紀要マーサ[加藤清正]の第2群は朝鮮の二人の王子臨海だね(臨海君)と順化だね(順和君)が北に行ったという諜報を手に入れて猛烈にその後を追っていた.

ところで咸境道と平安道人々は国初から調整から冷遇と蔑視を受けて来たから恨みが根深くめりこんでいた.

太祖(太祖) 李成桂(李成桂)がこちら咸興出身ながらも建国後 ¥”西北人々を高く使わないでね.¥”と言ったし, 世祖(世祖) 時にイシエ(李施愛)の乱が起きた後からは差別政策がもっとひどくなって調整に対する不満が高かったのだ.

そんなわけに西北地方では立身出世した人がいなかったし, またソウルの両班たちもこの地元人々と婚姻を憚ったから碌な両班さえない故障になったし, 赴任して来る宮人ごとに民たちをぞんざいに取り扱って収奪だけ事としたから, 戦争が起こるとあちこちで反乱が起きたことはもしかしたら当然之事だったのかも分からなかった.

このような歴史的背景があったから壬辰の乱が勃発すると咸境道人々は今は骨髓にくすぶった恨みを返す日が来たと嬉しくて暴れ狂った. それで日本軍につかまって死んだ宮人より民たちに叩かれて死んだ管理がもっと多い位だった.

ハムギョン感謝ユヤングリブと判官遊戯陣は咸興が陷落されると山奥で逃げたが遊戯陣は咸興で, ユヤングリブは北青でそれぞれ民たちの押してで日本軍の虜になった. ユヤングリブは北青人金応戦の助けで九死一生で脱出して義州まで尋ねた. 聴令防御をあきらめて逃げた南兵使離婚は甲山で民たちに殺害された. 民たちは彼の首を枕にして日本軍長寿たちに捧げた. 北兵使ハングックすることは 6陣兵士 1千名余を見て馬川領を防御しようとしたが日本軍に潰滅されてギョングフングで虜につかまってからやっと脱出して調整で尋ねたが敵軍と内通したという濡れ衣を着せられて死薬を受けた.

反乱も相次いで名川で本当数(鄭末守), 宗姓で貴石とソングインソン, 穏城で神降ろし(姜伸) などがそれぞれ反乱を起こしたし, 雨後李犯(李範), 穏城副詞履修(李洙), 宗姓判官イホングアップ(李弘業) などがこれらに捕らわれて日本軍の虜になった.
7月 23日には会寧までゾッギョ行った臨海だね(臨海君)と順化だね(順和君) 二人の王子が反逆者国境である(鞠景仁), グックセピル(鞠世弼) などにつかまってやっぱり日本軍の虜になった.

朝鮮の二人の王子を取って開戦以後日本軍長寿たちの中最大の専攻(戦功)を立てるようになった加藤紀要マーサはグックセピルに京城を, 国境人に会寧をそれぞれ治めるように任せた後虜たちを連れてアンビョンに撤収して駐屯した.

一方, 班を導いて寧辺を去った王世子光海君(光海君)は平安道と咸境道を割るナンリン山脈を越えて蓋馬高原に入って行こうと思ったがチォルリョングを守った南兵使離婚が敗戦(敗戦)したという消息を聞いて足を振り返えるしかなかった. 班は険峻した山脈に沿って強行軍を続いてメングサン, 初産, ヤングドック, 谷山を経って 7月 5日には仮院も利川まで降りた. こちらで消息を聞いて尋ねて来た戸曹判書(戸曹判書) 韓準(韓準), 兵曹参判(兵〓参判) ゾングユンボック(丁胤福), 吏曹参議(吏曹参議) ホングホン(洪渾) など大臣たちを集めて初めて班の模様を取り揃えた.

これらは 7月 28日に利川を発ってまた谷山に上がってから 8月 4日にはソングチォンに移動したし, 以後ナンリン山脈の山岳地帯を歩き回って軍事を募集した.

その間戦況は小康状態で入っていた.

平壌を占領した第1群指揮官小西ユキナががもっと進撃する考えをしないでそのまま足を止めていた. しかし彼が待った増援軍は来なかった. 西海を回って大同江に入って来ることに予定された増援軍と軍需物資を積んだ水軍が李舜臣の艦隊に連続撃破されて来ることができなかったのだ.

その間に柳成竜(柳成竜)はおつまみ, 巡察使イワンイック(李元翼)は巡按, 桃源数金人院(金命元)はスックチォン等地で散らばった軍事たちを集める一方, 明の支援軍を当たる準備をした. 明軍事たちが過ぎ去る地点に軍糧とマルモックイも備蓄したし, 清川江には浮き橋も作って置いた.

◆ 義兵たちの眩しい活躍.

その間全国各地で義兵たちが起きて遊撃戦(遊撃戦)で日本軍に対抗していた.

壬辰の乱が起きた後 3ヶ月の間敵軍が足を入れることができなかった全羅道は本来第6だね指揮官ゴバヤカとダカー店[小早川隆景]がゴングツィ(攻取)することに計画されていた. 第6軍医実戦はアンゴクだエゲイ[安国寺恵瓊]が引き受けたが, 彼は広島[広島] 安国寺(安国寺)というお寺の株だ僧侶だった. しかしこれら第6郡は慶尚道宣寧で義兵を起こしたクァクゼウ(郭再祐)を含めて居昌の金面(金〓), 城主のゾングインホング(鄭仁弘) などに邪魔を受けて全羅道地では入って行くことができなくなる.

これら義兵部隊は日本軍の進撃を塞いで補給路を遮断しながら敵軍が占領していた邑城を攻撃して奪い返す大規模作戦まで敢行した.

アンゴクだエゲイは昌原のビョルグンを従えてパルリャングチを越して南原に越えて行く途中に宣寧ゾングアムジンでクァクゼウの義兵部隊に不意打ちを受けて大敗したし, 金山駐屯軍にとって六十領を越えて濃い中へ行くようにしてから居昌ウチォックヒョンで金面の義兵部隊に撃退された.

すると日本軍第6軍は秋風嶺を越えて忠清道永同で後ろ向きになって全羅道茂朱, 金山に攻めこんだ. 茂朱を通って 6月 23日に金山を占領したゴバヤカとダカー店は軍事をふたつに分けて全羅道で進撃しようと思った. 一部隊は自分が従えて珍しい山を経って理を越して前週を攻撃して, 他の部隊はアンゴクだエゲイが統率して竜胆, 鎭安を経ってはいするのを過ぎて前週を攻撃するようにしたのだった.

全羅道は先立って容認戦闘(竜仁戦闘)エッセ大敗したうえで予想できない日本軍の攻撃にひととき荒てたが光州牧師(光州牧使) 権慄(権慄)が 1千 5百余名医軍事を従えてジョン・ズソンに入って来ると混乱はすぐ沈んだ. 引き継いで冬服県監(同福県監) 黄塵(黄進)が軍事を従えて入って来たし, 羅州判官(羅州判官) イボックナム(李福男), 金堤軍需(金堤郡守) 鼎談(鄭湛), 義兵大将黄泊(黄璞) なども軍事を従えて入って来た.

全羅監事李光(李洸)は権慄を臨時ドゾルゼサにして防衛戦(防禦戦)を総指揮するようにした. 権慄は鼎談にはいするのを, 黄塵に理をそれぞれ担当するようにした. 前に咸境道で搖り返し族との戦闘に参加して専攻(戦功)を立てた事がある二人は軍事を従えて二つの峠に駐屯して徹底的な防御体制を取り揃えた.

7月 2日. エゲイが指揮する金山の日本軍第1台が竜胆を攻撃して 5日には鎭安を打った後 7日にはウングチに現われた. 鼎談を主張(主将)にしたウングチの朝鮮官軍と義兵たちは二日間熾烈な戦闘をしたが 3千名余に至る死傷者を出して敗退(敗退), ウングチの防御線は崩れてしまった.
しかし理では権慄とファン・ジニ砲撃戦(砲撃戦)と白兵戦(白兵戦)を敢行しながら猛烈な勇戦奮闘(勇戦奮闘)を展開したし, 高敬命(高敬命)の義兵部隊が金山の日本軍本陣を攻撃するとエゲイは軍事をドエムルリョ退却こんにちはだった.

高敬命は東莱副詞(東莱府使)である途中鄭汝立(鄭汝立) 謀反事件に掛かり合って罷職されて故郷である長興に都落ちしている途中壬辰の乱(壬辰倭乱)が起きると 5月 29日に潭陽で義兵 6千名余を募集して国王を保護するために北上した. 途中に全州で南原の義兵 1千名と力を合わせてずっと北進してからもうソウルが陷落されて賃金が北に避難したという消息を聞くとまた南下している途中金山の敵軍を攻撃したのだ.

高敬命は 6月 27日ヨサンを去って恩津を経って 7月 1日には演算に移動, 忠清道の義兵大将朝憲(趙憲)と一緒に金山を攻撃する事にした. しかし朝憲の合流時期が遅くなって先に去った. そしてウングチと理で熾烈な戦闘が起っていた 8日に演算を発って 9日に珍しい山に到着して防禦使グァックヤング(郭〓)と霊岩軍需金成憲(金成軒)が導く官軍と合流したし, この日午後に金山性をかこんだ.

この時ゴバヤカとダカー店旗下の日本軍 1万名余は皆金山性に帰って来ていた.

戦闘は 10日夜明けから本格的に起った. 高敬命が騎馬兵 100人余りを従えて序文を攻撃するのに急に敵軍が城の門を開いて総攻撃を浴びせた. 賊将ゴバヤカとダカー店[小早川隆景]は相対的に虚弱に見える官軍の陣営を集中攻撃したし, グァックヤングと金成憲が逃げると官軍はたちところに砂のように散らばってしまった. 日本軍が今度は義兵部隊を踏み付け始めた.

日本軍の怒涛のような突撃に義兵部隊の隊列はあっという間に崩れて高敬命の次男たまった後(高因厚)と従事官ユペングロ(柳彭老)は賊将ゴバヤカとダカー店の刀に切られて倒れた. 高敬命も敵兵たちの銃弾を当たって壮烈に戦死した.


高敬命(高敬命)の第一息子人高従厚(高従厚)は父親と弟(妹)の死体を捜して近くのお寺に仕えた後義兵部隊を再編してあちこちで敵軍と戦った. 彼は翌年起った第2次晋州城戦闘(晉州城戦闘)から戦死したが, こういうわけで高敬命 3父子は皆義兵大将で殉国した記録を残した.

このようにしてゴバヤカとダカー店が導いた日本軍の全羅道侵攻作戦は失敗に帰った. その後 8月 17日これらは金山ヨンゴンピョングけんかで戦歿(全歿)一朝憲と義兵 7百人に莫大な打撃を受けて 9月 17日慶尚道城主に退却してしまった.

全羅道防衛戦が一切りつくと権慄はその専攻で全羅監事になった. 前任者李カンウンジョン・ズソン戦闘の時に性を離脱した罪に罷職されて白衣従軍に処された.

権慄の壻で兵曹判書(兵曹判書)を執り行なった李恒福(李恒福)は白砂集(白沙集)でこんなに使った.

¥”敵軍が二度と湖南をうかがうことができないようにしたし, ここを根本にして数年間国を支えたし東西で軍需を送るにあって一度も不足とか切れなかったから皆が功(公)の力だった.¥”

権慄はその後全羅道軍事 1万名を従えて北上して幸州大捷(幸州大捷)の専攻(戦功)を立ててソウル奪還戦に先に立ったし, 朝鮮官軍総司令官である桃源数になった.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.


{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」7.의병부대의 선전(善戰) (1)

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 임해군(臨海君), 순화군(順和君). 가토 기요마사[加藤淸正]의 포로가 되다.

이순신이 조선 수군을 이끌고 남해안에서 일본 수군을 연속 격파하면서 재해권을 장악하고 있을 때, 멍청하고 시기심이 많은 국왕 선조(宣祖)와 별 도움도 주지 못하면서 잘난 척은 온갖 해대는 조정의 대신들은 뭘 하고 있었는지 살펴보자.

임진강 방어선이 무너졌다는 소식을 듣고 평양을 떠나 다시 피난길에 오른 선조는 중국 망명을 결심하고 정식으로 분조(分朝)를 발족시켰다. 대신들도 두 무리로 나누어 배치한 뒤, 함경도로 간 왕비도 돌아오도록 했다.

한편 평양성은 좌의정(左議政) 윤두수(尹斗壽), 도원수(都元帥) 김명원(金命元), 평안도 도순찰사(平安道都巡察使) 이원익(李元翼), 평안감사 송언신(宋言愼) 등이 남아서 지키고 있었다.

대동강 남안에 나타난 일본군은 고니시 유키나가[小西行長]의 제1군과 구로다 나가마사[黑田長政]의 제3군 주력부대였다. 이들은 강폭이 넓어 도강하지 못하고 강변 10여곳에 진을 치고 기회만 엿보고 있었다.

6월 13일, 김명원이 영원군수(寧遠郡守) 고언백(高彦伯), 벽단첨사 유경령(柳璟令)으로 하여금 날랜 군사 4백여명을 거느리고 강을 건너 야습하도록 했다. 이들의 야습은 초전에는 성과가 보이는 듯 했으나 반격을 당해 얕은 여울을 타고 퇴각한 것이 돌이킬 수 없는 결과를 낳았다. 이튿날 저녁에 일본군이 총공격을 시작하면서 어제 조선 관군이 건넌 그 수심 얕은 여울을 건너 쳐들어온 것이다.

그렇게 해서 그 다음날인 15일에 일본군은 조선 관군이 모두 달아난 평양성에 무혈입성할 수 있었다.

그날 박천에 도착한 선조는 16일 가산을 지나서 17일 정주에서 묵고 18일에 곽산을 지나 20일에 용천에 도착했다.

이에 앞서 선조는 정주를 지날 때에 대사헌(大司憲) 이덕형(李德馨)을 명나라에 청원사로 보내 다급하게 파병을 요청하면서 "궁빈을 이끌고 상국에 내부코자 한다."고 자신의 망명의사를 밝히는 글을 보낸 적이 있었다. 명나라의 조정에서는 논란 끝에 차라리 군사를 보내 조선 땅에서 싸우는 것이 자국의 국익을 위해 더 낫다는 결론을 내렸다.

그리고 선조가 불가피하게 명나라로 망명하겠다면 수행원을 100명으로 제한하고, 기거는 빈집에서 하라고 했다. 이와 같은 명나라의 굴욕적인 조치와 대신들의 끈질긴 반대에 선조도 마침내 망명의 뜻을 꺾고 의주에 피난 조정을 설치했으니 그것이 그 달 22일의 일이었다.

명나라 군사들이 처음 압록강을 넘어온 것은 6월 18일이었다. 중국으로 건너간 이덕형이 요동순무(遼東巡撫) 학걸(壑杰)에게 출병을 호소하자 학걸이 명나라 조정의 지시가 있기도 전에 휘하 군사 5천명을 파견하기로 하고 우선 선발대로 1천명을 부총병(副總兵) 조승훈(祖承訓)에게 딸려 보낸 것이었다.

이어서 사은사(謝恩使)로 명나라 수도 북경에 가 있던 신점(申粘)이 병부상서(兵部尙書) 석성(石星)을 통해 이를 추인토록 했다. 조승훈의 군사 1천여명은 본대가 올 때까지 의주에서 선조의 호위를 맡았다.

이리하여 임진왜란(壬辰倭亂)은 조선과 일본의 전쟁에서 명나라까지 가세한 국제전(國際戰)으로 확대되었다.

그 무렵 함경도로 잠입한 가토 기요마사[加藤淸正]의 제2군은 조선의 두 왕자 임해군(臨海君)과 순화군(順和君)이 북쪽으로 갔다는 첩보를 입수하고 맹렬히 그 뒤를 쫓고 있었다.

그런데 함경도와 평안도 사람들은 국초부터 조정으로부터 푸대접과 멸시를 받아왔기에 원한이 뿌리깊이 박혀 있었다.

태조(太祖) 이성계(李成桂)가 이곳 함흥 출신이면서도 건국 후 "서북 사람들을 높이 쓰지 말라."고 했고, 세조(世祖) 때에 이시애(李施愛)의 난이 일어난 뒤부터는 차별정책이 더욱 심해져 조정에 대한 불만이 높았던 것이다.

그런 까닭에 서북 지방에서는 입신출세한 사람이 없었고, 또 서울의 양반들도 이 고장 사람들과 혼인을 꺼려했기에 변변한 양반조차 없는 고장이 되었으며, 부임해오는 벼슬아치마다 백성들을 천대하고 수탈만 일삼았으니, 전쟁이 터지자 곳곳에서 반란이 일어난 것은 어쩌면 당연지사였는지도 몰랐다.

이와 같은 역사적 배경이 있었기에 임진왜란이 발발하자 함경도 사람들은 이제야 골수에 맺힌 원한을 갚을 날이 왔다고 기뻐 날뛰었다. 그래서 일본군에게 잡혀 죽은 벼슬아치보다 백성들에게 맞아 죽은 관리가 더 많을 정도였다.

함경감사 유영립과 판관 유희진은 함흥이 함락되자 산속으로 도망쳤는데 유희진은 함흥에서, 유영립은 북청에서 각각 백성들의 밀고로 일본군의 포로가 되었다. 유영립은 북청 사람 김응전의 도움으로 구사일생으로 탈출해 의주까지 찾아갔다. 청령 방어를 포기하고 달아났던 남병사 이혼은 갑산에서 백성들에게 살해되었다. 백성들은 그의 목을 베어 일본군 장수들에게 바쳤다. 북병사 한극함은 6진 병사 1천여명을 보아 마천령을 방어하려다가 일본군에게 궤멸당하고 경흥에서 포로로 잡혔다가 가까스로 탈출해 조정으로 찾아갔으나 적군과 내통했다는 누명을 쓰고 사약을 받았다.

반란도 잇달아 명천에서 정말수(鄭末守), 종성에서 귀석과 성인손, 온성에서 강신(姜伸) 등이 각각 반란을 일으켰고, 우후 이범(李範), 온성부사 이수(李洙), 종성판관 이홍업(李弘業) 등이 이들에게 사로잡혀 일본군의 포로가 되었다.
7월 23일에는 회령까지 좇겨 갔던 임해군(臨海君)과 순화군(順和君) 두 왕자가 반역자 국경인(鞠景仁), 국세필(鞠世弼) 등에게 붙잡혀 역시 일본군의 포로가 되었다.

조선의 두 왕자를 잡아 개전 이후 일본군 장수들 가운데 가장 큰 전공(戰功)을 세우게 된 가토 기요마사는 국세필에게 경성을, 국경인에게 회령을 각각 다스리도록 맡긴 뒤 포로들을 데리고 안변으로 철수해 주둔했다.

한편, 분조를 이끌고 영변을 떠난 세자 광해군(光海君)은 평안도와 함경도를 가르는 낭림산맥을 넘어 개마고원으로 들어가려 했으나 철령을 지키던 남병사 이혼이 패전(敗戰)했다는 소식을 듣고 발길을 돌이킬 수밖에 없었다. 분조는 험준한 산맥을 타고 강행군을 계속해 맹산, 초산, 양덕, 곡산을 거쳐 7월 5일에는 가원도 이천까지 내려갔다. 이곳에서 소식을 듣고 찾아온 호조판서(戶曹判書) 한준(韓準), 병조참판(兵曺參判) 정윤복(丁胤福), 이조참의(吏曹參議) 홍혼(洪渾) 등 대신들을 모아 비로소 분조의 모양을 갖추었다.

이들은 7월 28일에 이천을 떠나 다시 곡산으로 올라갔다가 8월 4일에는 성천으로 이동했고, 이후 낭림산맥의 산악지대를 돌아다니며 군사를 모집했다.

그 동안 전황은 소강상태로 접어들고 있었다.

평양을 점령한 제1군 지휘관 고니시 유키나가가 더 진격할 생각을 하지 않고 그대로 발길을 멈추고 있었다. 하지만 그가 기다리던 증원군은 오지 않았다. 서해를 돌아 대동강으로 들어오기로 예정되었던 증원군과 군수물자를 실은 수군이 이순신의 함대에게 연속 격파당해 올 수가 없었던 것이다.

그 사이에 유성룡(柳成龍)은 안주, 순찰사 이원익(李元翼)은 순안, 도원수 김명원(金命元)은 숙천 등지에서 흩어진 군사들을 모으는 한편, 명나라의 지원군을 맞을 준비를 했다. 명나라 군사들이 지나갈 지점에 군량과 말먹이도 비축했고, 청천강에는 부교도 만들어 놓았다.

◆ 의병들의 눈부신 활약.

그동안 전국 각지에서 의병들이 일어나 유격전(遊擊戰)으로 일본군에게 대항하고 있었다.

임진왜란이 일어난 뒤 3개월 동안 적군이 발을 들여놓지 못했던 전라도는 본래 제6군 지휘관 고바야카와 다카가게[小早川隆景]가 공취(攻取)하기로 계획되어 있었다. 제6군의 실전은 안고쿠지 에게이[安國寺惠瓊]가 맡았는데, 그는 히로시마[廣島] 안국사(安國寺)라는 절의 주지 승려였다. 그러나 이들 제6군은 경상도 의령에서 의병을 일으킨 곽재우(郭再祐)를 비롯하여 거창의 김면(金沔), 성주의 정인홍(鄭仁弘) 등에게 방해를 받아 전라도 땅으로는 들어갈 수가 없게 된다.

이들 의병부대는 일본군의 진격을 가로막고 보급로를 차단하면서 적군이 점령하고 있던 읍성을 공격하여 탈환하는 대규모 작전까지 감행했다.

안고쿠지 에게이는 창원의 별군을 거느리고 팔량치를 넘어 남원으로 넘어가는 도중에 의령 정암진에서 곽재우의 의병부대에게 기습을 받아 대패했고, 금산 주둔군으로 하여금 육십령을 넘어 진안으로 가게 했다가 거창 우척현에서 김면의 의병부대에게 격퇴되었다.

그러자 일본군 제6군은 추풍령을 넘어 충청도 영동으로 돌아서 전라도 무주, 금산으로 쳐들어갔다. 무주를 지나 6월 23일에 금산을 점령한 고바야카와 다카가게는 군사를 둘로 나누어 전라도로 진격하려고 했다. 한 부대는 자신이 거느리고 진산을 거쳐 이치를 넘어 전주를 공격하고, 다른 부대는 안고쿠지 에게이가 통솔하고 용담, 진안을 지나 웅치를 넘어 전주를 공격하도록 한 것이었다.

전라도는 앞서 용인전투(龍仁戰鬪)에세 대패한데다가 예상치 못한 일본군의 공격에 한때 당황했으나 광주목사(光州牧使) 권율(權慄)이 1천 5백여명의 군사를 거느리고 전주성으로 들어오자 혼란은 곧 가라앉았다. 이어서 동복현감(同福縣監) 황진(黃進)이 군사를 거느리고 들어왔고, 나주판관(羅州判官) 이복남(李福男), 김제군수(金堤郡守) 정담(鄭湛), 의병대장 황박(黃璞) 등도 군사를 거느리고 들어왔다.

전라감사 이광(李洸)은 권율을 임시 도절제사로 삼아 방어전(防禦戰)을 총지휘하도록 했다. 권율은 정담에게 웅치를, 황진에게 이치를 각각 담당하게 했다. 전에 함경도에서 여진족과의 전투에 참가하여 전공(戰功)을 세운 바 있는 두 사람은 군사를 거느리고 두 고개에 주둔하여 철저한 방어태세를 갖추었다.

7월 2일. 에게이가 지휘하는 금산의 일본군 제1대가 용담을 공격하고 5일에는 진안을 친 다음 7일에는 웅치에 나타났다. 정담을 주장(主將)으로 삼은 웅치의 조선 관군과 의병들은 이틀 동안 치열한 전투를 벌였으나 3천여명에 이르는 사상자를 내고 패퇴(敗退), 웅치의 방어선은 허물어지고 말았다.
그러나 이치에서는 권율과 황진이 포격전(砲擊戰)과 백병전(白兵戰)을 감행하면서 맹렬한 용전분투(勇戰奮鬪)를 전개했고, 고경명(高敬命)의 의병부대가 금산의 일본군 본진을 공격하자 에게이는 군사를 되물려 퇴각하였다.

고경명은 동래부사(東萊府使)로 있다가 정여립(鄭汝立) 모반사건에 연루되어 파직되고 고향인 장흥에 낙향해 있다가 임진왜란(壬辰倭亂)이 일어나자 5월 29일에 담양에서 의병 6천여명을 모집하여 국왕을 보호하기 위해 북상했다. 도중에 전주에서 남원의 의병 1천명과 합세하여 계속 북진하다가 이미 서울이 함락되고 임금이 북쪽으로 피난했다는 소식을 듣자 다시 남하하다가 금산의 적군을 공격했던 것이다.

고경명은 6월 27일 여산을 떠나서 은진을 지나 7월 1일에는 연산으로 이동, 충청도의 의병대장 조헌(趙憲)과 함께 금산을 공격하기로 했다. 그러나 조헌의 합류시기가 늦어져 먼저 떠났다. 그리하여 웅치와 이치에서 치열한 전투가 벌어지고 있던 8일에 연산을 떠나 9일에 진산에 도착하여 방어사 곽영(郭嶸)과 영암군수 김성헌(金成軒)이 이끄는 관군과 합류했고, 이날 오후에 금산성을 포위했다.

이때 고바야카와 다카가게 휘하의 일본군 1만여명은 모두 금산성에 돌아와 있었다.

전투는 10일 새벽부터 본격적으로 벌어졌다. 고경명이 기마병 100여명을 거느리고 서문을 공격하는데 갑자기 적군이 성문을 열고 총공격을 퍼부었다. 적장 고바야카와 다카가게[小早川隆景]는 상대적으로 허약해 보이는 관군의 진영을 집중 공격했고, 곽영과 김성헌이 달아나자 관군은 이내 모래알처럼 흩어져버렸다. 일본군이 이번에는 의병부대를 짓밟기 시작했다.

일본군의 노도와 같은 돌격에 의병부대의 대열은 순식간에 무너지고 고경명의 둘째아들 고인후(高因厚)와 종사관 유팽로(柳彭老)는 적장 고바야카와 다카가게의 칼에 베여 쓰러졌다. 고경명도 적병들의 총탄을 맞고 장렬하게 전사하였다.


고경명(高敬命)의 첫째아들인 고종후(高從厚)는 부친과 동생의 시신을 찾아 가까운 절에 모신 뒤 의병부대를 재편성하여 곳곳에서 적군과 싸웠다. 그는 이듬해 벌어진 제2차 진주성전투(晉州城戰鬪)에서 전사했는데, 이로써 고경명 3부자는 모두 의병대장으로 순국한 기록을 남겼다.

이렇게 해서 고바야카와 다카가게가 이끈 일본군의 전라도 침공 작전은 실패로 돌아갔다. 그 뒤 8월 17일 이들은 금산 연곤평 싸움에서 전몰(全歿)한 조헌과 의병 7백명에게 막대한 타격을 입고 9월 17일 경상도 성주로 퇴각하고 말았다.

전라도 방어전이 일단락되자 권율은 그 전공으로 전라감사가 되었다. 전임자 이광은 전주성 전투 때에 성을 이탈한 죄로 파직되어 백의종군에 처해졌다.

권율의 사위로 병조판서(兵曹判書)를 지낸 이항복(李恒福)은 백사집(白沙集)에서 이렇게 썼다.

"적군이 다시는 호남을 엿보지 못하게 했고, 여기를 근본으로 삼아 수년간 나라를 지탱했으며 동서로 군수를 보냄에 있어서 한번도 부족하거나 끊어지지 않았으니 모두가 공(公)의 힘이었다."

권율은 그 뒤 전라도 군사 1만명을 거느리고 북상하여 행주대첩(幸州大捷)의 전공(戰功)을 세우고 서울 탈환전에 앞장섰으며, 조선 관군 총사령관인 도원수가 되었다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.


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