伝統文化

国語辞典

ウェノ− [倭奴]

[名詞]この前に, 中国人や高麗人が日本人を低く見積もる意味で早かった言葉. ≒ウェイ.

漢字辞典

倭奴 [ ウェノ− ]

(先日)日本(日本) 人を侮って早かった言葉

 

 

太宗 16冊 8年 10月 21日 (乙巳) 003 / 倭人奴婢を買うことを禁ずる.
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命じてなぜ奴婢(倭奴婢)を買うことを禁じた. 慶尚道ドグァンチァルサ(都観察使)が申し上げるのを,

“金海部(金海府) 人であるバックチォン(朴天)の家に交易(交易)一ウェビ(倭婢)があるのに日本国王(日本国王)の獅子(使者)のお腹で逃げて入って行きました. 副詞(府使)が獅子(使者)に至るのを, ‘異種[婢]は本来中限値段をあげて買ったことだから, 今隠して出さなければ交隣(交隣)の意味に行き違ったら早く返しなさい.’ したら, 獅子(使者)が答えるのを, ‘我が国には本来四天(私賎)がない.’ して, 遂に返さなかったです.”

した. 賃金がこの言葉を聞いてこの命令があった.



太宗 19冊 10年 4月 8日 (甲辰) 002 / 誣告禁止法・グァゾンチェスボブ・教育振興・売場法・ウェノ−廃止など司諌院の 8種時無策四番目に至るのを,

“倭寇(倭寇)が我が国に対して京人年以来で郡県(郡県)を侵略して生民(生民)を殺戮して, 為替(患)になったことが至極です. 私たち声調(盛朝)から大根(武)として侵略を阻んで, 門(文)で治めることを成すが, 倭人の良い人になることが性分が荒しくて, ああ言ったりこう言ったりして信じにくいのに, 今官職を与えて宮廷(宮庭)から宿衛(宿衛)するようにして, これらを買って奴婢(奴婢)をして主君(州郡)に散らばっているようにしたら, 甚だしく未の方(未便)します. また慶尚道(慶尚道) 限度(道)を見てもその数鼠がほとんど 2千にのぼるのに, あるいは仮装(家長)(家長)の妻を劫奪して, あるいは隣り村の人をおかゆだから, これが充分に以上地界(履霜之戒)になるに値します. 字で(自古)で外オレングケ[外夷]の人が初めには極めて微弱(微弱)したようだが, 後には必ず制御しにくくなるものです. 神さまなどはドリョブゴンデ, これら無理が一瞬にボルテのように起きればまた強敵になるはずだから心配されます. もしその父兄(父兄)が私たちの辺方を盗みを働いたら果して私たちのためにその父兄を打ちますか? 戦場に出れば窓[戈]を逆にするのかわからない事です. またその自制(子弟)を求めて死[求売]で私たちの奴婢(奴婢)をすると称託して私たち主君(州郡)に置くのに, その心もわからないのです. 先日に私たちの民をたくさんおかゆであるので言ったら, たとえすべて殺しても加えます. ワンコンデ, これから倭人を四書 奴婢をすることを 一切の皆厳禁して火(禍)の芽を阻んでください.”

した. 政府で議論するのを,

“申し上げたことによって施行するのがどうですか?”

した.



太宗 24冊 12年 10月 17日 (記事) 004 / 逃げだすことを憂慮してウェノ−(倭奴)を草深い所に移しておくようにする
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ウェノ−(倭奴)を僻処(僻処)2304) 路移しておいた. 慶尚道観さつ使が報告した.

“全平前(田平殿)が詞訟(使送)一客人(客人)が帰る時, 英和(迎日)に分散させておいた倭人ダラングゴだと(多郎高羅) などを密かに船に積んで行こうとするので, 守った人がこれを制止すると剣(剣)を抜いて腰を突いて行ったと言います. 願わくば, 海辺に分置(分置)になったウェノ−(倭奴)を奥深くて草深い所に移すようにしてください.”

賃金がそのまま従った.


世宗 46冊 11年 12月 4日 (病者) 002 / 礼曹判書で 通信社が連れて来た倭人 奴婢の居住地問題を申し上げる————————————————————————————————————————

礼曹判書で申し上げるのを,

“通信社(通信使)が連れて帰って来たつかまって行った女ボックセング(福生)と奴婢同時に 6人は, チォングコンデ本故郷であるよめしゅうとめだね(古阜郡)にとって適当に衣服・食糧・土地・穀物種子などを支給して平安に住むようにして, 真珠先君庭園優(鄭元右)が貿易した事がある ウェノ−(倭奴)は浜辺に住むようにすることは不当だから, 奥深い内陸地方に売るようにしてください.”

したら, そのまま従った.

 

 

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中世以後から朝鮮を遥かに過ぎた先進国 倭国の民たちが 朝鮮に越えて来て奴隷になった.

 

 

 

 

 
倭小な 倭人の熱血キノブが履き物
 

 

身に乱切りする 伝統, 狡くて 野蛮な 倭人
 
ふんどしを着てひさごで何か飲もうとする 倭人
猿のような顔をしている
 
 
ふんどし + 身に乱切り 野蛮列島の伝統
 

 

倭人化け物たちの新型 豊田に試乗している西洋人
周りには ふんどしスーツを着た豊田 倭人 販売社員
 

 

 

近代倭人の熱血 タクシー

 

一方ゾッがスムを現わす列島の伝統服装

 

一般的な倭人  列島のハウス

 

アメリカに降参の後 盗みを働く前いつも乞食たちにあふれた列島

 

 

 

 

倭国は日本国だ.倭という元々名前を恥ずかしがったが, 極東にあると言って自らが日本だと呼ぶ. 高麗の属国だ.

倭国乃日本国也. 本名倭既恥其名. 又自以在極東因号日本也. 今則臣属高麗也) - 郭若虚.『図画見聞志』 巻6. 高麗国

 

 

朝鮮王朝実録を見れば , 倭国が朝鮮に朝貢した内訳と  ともに送った  書簡の内容が 詳しく記録されている.

日本将軍と 地方政権太守たちは朝貢書簡で朝鮮を上国(上国)または大房(大邦)といったし自分はヌバングで  低めて称した.

 

 

日本が朝鮮君主を皇帝陛下と呼んだ事例もヨリョチァリェ発見されるのに,

朝鮮が自主的に皇帝という職することを置いていなかったにもかかわらず, 

日本が朝鮮君主を皇帝で, 朝鮮を 上国(上国)と呼ぶほど ,

朝鮮は東アジアで 明の次で 力量あって高い位置にある国家だったことが事実だ.

 

朝鮮や明では将軍を ‘日本国王’と呼んだが, 

明治維新(1868年) 以前にはいわゆる ‘天皇’ではない将軍(幕府の首長)が日本の実力者で,
対外的な国家代表機関だった.

 

参照で , 朝鮮王朝実録はユネスコ指定記録文化遺産に指定されている.

 

 

 

〓世祖 9年聖未(1463, チォンスン 7)
日本国王がサインを送って物産を捧げながらあげた西界

日本国王(日本国王)が死因(使人)を送ってトムル(土物)を捧げたら, その文[書]に至るのを,
“保隣(宝隣)が近年に陰謀(音耗)6179) が疏沿(疏闊)して, 空は遠くて海は支えたから, どうして喉が乾くように望むことを勝ちますか? もうチォンリョング(天竜)6180) の準初寺小屋(俊超西堂)とボムゴ首座(梵高首座) などを情事(正使)・副詞(副使)にして, 借見(差遣)して前のような好意(好意)をダックウオブニだ.
ここに数年の前に斜線(使船)を帰国(貴国)に送ったら, 早いのを, ‘近い将来に適切にポグェ(包?)6181) を人(明)国朝廷に捧げて前年[前歳]を事例しなさい.’と言ったが, 行事(行使)が不軌(不軌)の罪(罪)を犯しました. たとえしかしヌバング(陋邦)は近年にドングボル男丁(東伐南征)しようとして軍事(軍事)に暇がなかったです.¥”
こんなわけで充分にそのお話を実践することができずに, インスン(因循)して今までのぼったから, いかにもドンオ(豚魚)6182) の神さま(信)を失ったことのようです. 陛下(陛下)が かつて逸書(一書)に来る方に私は(伝)して, 僉知中枢怨辞(僉知中樞院事) ソングチォゴム(宋処倹)・大豪だね(大護軍) 異種室(李宗実)を堡氷獅子(報聘使者)にして送ったが, 海上(海上)で忽然と台風[?風]に会って, 二倍がピョモル(漂沒)して, 文中[書中]に記載したかけたのは(件件)の小間物(方物)はたとえこの地方に到逹することはできなかったが, もう礼儀(礼意)の厚さを受けたし, よって海辺帝国(諸国)にひいてはその事をすべて捜したが, 皆軟膏が分からないからその漂流したお腹を返すことができなかったし, またその残り死骸を葬りました.
私たちチォンリョングソンサ(天竜禅寺)に命じて, 水陸大災回(水陸大斎会)を施して二人の人[二子]のために冥福(冥福)を自薦(資薦)しただけです. チォンリョングソンサ(天竜禅寺)はすなわち操縦(祖宗)が創業(創業)してヌバング(陋邦)から福(福)を植える神霊な度量[霊場]です. グンザに会録(回禄)の便(変)に会って旧観(旧観)を回復することができなかったです. こんなわけで連曲(年穀)が熟しないで災い(災殃)がよくのぼってもう将来僧堂(僧堂)を経営しようと思うのに,
大房(大邦)の助けを祈らなければ楽しんで成しにくいです.
グウックが命じてウィヨック(義廉)・センググァン(生観)・教職(教直) などに執逹吏(執事)を歯医(致意)するようにしたんですが, 凡そ我が国が部処[仏]を仕えて善良になったことは正しく帰国(貴国)の雨で法宝(〓廬法宝)を得た小異(所以)だから, 大抵一つの蔵書[一蔵]を得たことはその大きいことを下げてズームです. その上に句(求)ハムに付くことで常道[常]をしたら, ヌバング(陋邦)が伏せて請い(請)するのです. この前にイン(仁)の考察(古刹)を建てながら 1万民(緡)を与えることを得て, 輪かん(輪奐)を美しく直したし, もうまたチォンリョング晩唐(天竜満堂)の海中(海衆)が陛下の鼻音(庇蔭)を着ればどうして西北(西北)を眺めて万歳(万歳)の祝福が早くないですか? 討議(土宜)が碌なのモッハオやビョルポック(別幅)と一緒に取り揃えました. ボムツウィがまだ残ったから, 時に付いて惜しんで保全してください.”
と, ビョルポック(別幅)は採火船(綵?扇) 1バック波(把), 雄途(長刀) 2袋[柄], 大刀(大刀) 10なが葱(把), 大紅漆モックゴとは(大紅漆木車椀) 大小合わせて 70士(事), 大紅漆チォンバングブン(大紅漆浅方盆) 大小合わせて 20士(事), 紅漆黒漆雑色木桶(紅漆黒漆雑色木桶) 2個(箇)だった.



*上国(上国) : 朝鮮(朝鮮)を言い
*陛下 : 世祖を言い
*大房(大邦) :  大きい国を意味する.  ここでは朝鮮を 示し 
*ヌバング(陋邦) :  日本を言い



室町幕府の 8大将軍足利ヨシマサが  朝貢物品とともに朝鮮に送った書簡に
朝鮮の世祖を廃しなさいと呼びながら, 日本自分はヌバングで朝鮮は大房(大邦)と称していることを分かる.




 




世祖 9年聖未(1463, チォンスン 7)
日本国王(日本国王)が死因(使人)を送ってトムル(土物)を捧げたら
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その文[書]に至るのを,
“保隣(宝隣)が近年に陰謀(音耗)が疏沿(疏闊)して, 空は遠くて海は支えたから, どうして喉が乾くように望むことを勝ちますか? もうチォンリョング(天竜)の準初寺小屋(俊超西堂)とボムゴ首座(梵高首座) などを情事(正使)・副詞(副使)にして, 借見(差遣)して前のような好意(好意)をダックウオブニだ.
陛下(陛下)がかつて逸書(一書)に来る方に 私は(伝)して, 僉知中枢怨辞(僉知中樞院事) ソングチォゴム(宋処倹)・大豪だね(大護軍) 異種室(李宗実)を堡氷獅子(報聘使者)にして送ったが, 海上(海上)で忽然と台風[?風]に会って, 二倍がピョモル(漂沒)して, 文中[書中]に記載したかけたのは(件件)の小間物(方物)はたとえこの地方に到逹することはできなかったが, もう礼儀(礼意)の厚さを受けたし, よって海辺帝国(諸国)にひいてはその事をすべて捜したが, 皆軟膏が分からないからその漂流したお腹を返すことができなかったし, またその残り死骸を葬りました.




 




〓成宗 1年京人(1470, 聖火 6)
日本国王が送った入道などが来て西界と物産を捧げる


日本国王(日本国王) 刺身収納定所(懐守納政所) 二世数(伊勢守) 情親(政親)が送った入道(入道) などが来て物産を捧げた. その西界(書契)に至るのを,
“情親はご遠慮文を造船国議政府(議政府) ハブハ(閤下)に捧げます. 丁寧に願わくば国が大きく平安で 金賞皇帝(今上皇帝)のオウィ(御位)が長い間行ってください! 陛下(陛下)は丁寧に徳(徳)が乾坤(乾坤)と一致して 当優(唐虞)の善良で長生きする地域(地域)を保全して, 玄聖(賢聖)を臣下に集めて移住(伊周)の純粋で素朴な気風を回復するように願って, 誠意をつくして祝福します. ところで負傷(扶桑) 電荷の高い命令に応じて同じ日に西界を封じて朝鮮(朝鮮)と悠久(琉球)の両国に斜線(使船)を送ります. これは私の個人的な意思ではないから, このような切実な意味を陛下に酒疸(奏逹)して承諾してくださればただ幸いと思います.
帰国の出ることは力を借りようとするのに, 望む品物はミョンズ(綿紬) 3千ピール, 綿布(綿布) 5千ピール, 百苧布(白苧布) 1千ピール, 米 5千岩茸だから, 慈悲で察してください. ただ我が国の太平をおさめて一歩進んでボンシン(藩臣)としての忠誠された手柄を立てるように祈ります. しがない物産をビョルポック(別幅)に取り揃えました. 今こそ新しい雪が降った山を覆い被せたから豊年になる吉兆(吉兆)です. これで止みます. ビョルポックは, 金(金) 2ウォン(員) 21ニャングツング[両], 株(朱) 4砲(包) 40ニャングツング, 大刀(大刀) 15なが葱(把), 端子(段子) 1匹, 数字(?子) 1匹, 団扇[扇子] 50本(本)です. 受けてくれればさいわいです.”




 





 

 

〓成宗 32冊, 4年( 1473 啓辞 / 人聖火(成化) 9年)
日本国インバックダン三走太守遠郊風がヤングヤングソダングを送って贈り物と文を書く 


日本国(日本国) インバックダン三走太守(因伯丹三州太守) サンミョングゾン(山名殿) ソフィーを(少弼) 遠郊風(源教?)がヤングヤング寺小屋(亮瑛西堂)を送って来て討議(土宜)を捧げて, 同時に四書(四書) それぞれ 1件(件)ずつを捧げた. その西界(書契)には早いのを,

 
ゴングギョングヒ思うが, 皇帝陛下(皇帝陛下)が宝位(宝位)に上がって天運(天運)を受け継いだら, 旧部屋(旧邦)が維新(維新)して, 徳(徳)以下(夏)国・銀(殷)国の哨艇(初政)よりすぐれてからも(道)歌謡(尭)賃金・順序(舜)賃金より上に相棒したら, 極めて祝って極めてことぶきします. 神さまは先祖(先祖) 以来で加勢(家世)で 上国(上国)3198) に憑文(聘聞)を通じなかったことがないから, 京人年3199) 秋にいちアムザスング(菴子僧)とソックドムン(〓都聞) などを借見(差遣)して, 昔の誓いを磨いて, また討議(土宜)の些細な真心を捧げました. 幸いに金賞皇帝(今上皇帝)3200) 頃で王位(王位)を受け継ぐ哨艇(初政)に会って, 目ではたいてい(漢)国管理の上の(威儀)を見て, 耳では株(周)奈良市(詩)のがソング(歌頌)を聞いたら, ああ, 声帯(盛大)します. 実に文武(文武)の国だから零雨(栄遇)するのがあまりにもクオブニだ. 戦死(専使)3201) が仕事を終えて東に帰って来るようにドエメ, 火鉢連れ(火炉銅盤) 1個と東京(銅磬) 1個を加えて下ってくださったら, もう後漢恩恵を受けたので, 感激して嬉しい心が至極さを勝つことができません. 今万福寺(万福寺)の主旨(住持) ヤングヤング寺小屋(亮瑛西堂) などを送って海を渡って朴(薄)一廃物(幤物)を捧げて ひたすら皇帝が王位を引き継いだことを拜賀(拜賀)するようにします. はいたたとえ遠い空, 遠い海辺の地においてウィグォル(魏闕)3202) 下に駆け付けて心を捧げることはできないが, 九九(区区)一単性(丹誠)3203) を伏せて預差を(睿察)してくださるように祈って, そんなにしてくだされば千万幸いです. 
信義袋(封地) 中の白昼(伯州)に万福プレゼント(万福禅寺)と言う昔の査察(寺刹)があるのに, 崩れて崩れてから歳月が古かったので 将来また霊鳥(営造)しようと思って, この前の時に上国(上国)に助演(助縁)3204) を句(求)したが, 寛大に受け入れて主審を受けることができなかったです. 望むことは大王が官印(寛仁)として砲金(布金)3205) の逢時を速く行ってくだされば, 仏閣(仏閣)と僧房(僧房)を一遍にまた昔のように見られるでしょう. そのようになったら永遠に盛需(聖寿)が湾岸(万安)なさるように奉祝(奉祝)する一応になるでしょう. 賀正(下情)3206) 銀極めて黄空函を勝つことができなくて拙い小間物(方物)をビョルポック(別幅)に取り揃えました.”
 

*上国(上国) : 朝鮮(朝鮮)を言い
*金賞皇帝(今上皇帝) : 成宗(成宗)を言い
*ウィグォル(魏闕) : 賃金の宮廷
*単性(丹誠) : 本当で染み出る真心
*賀正(下情) : 上司に対して自分の心や意味を低めてのぼる 言葉
*袋 [封紙]: 諸侯の領土.
 



 




〓成宗 4年啓辞(1473, 聖火 9)
日本国のダダリャングゾングホングが送ったウォン主徳が去ったら人絹して財物を下賜する


 申叔舟(申叔舟)をさせてウォン主徳(源周徳)に言うのを,
“君たちの対内前(大内殿)は族系(族係)が我が国から出たのでお互いに交互(交好)してからがもう古かった. もう聞くが楽だと言ったら嬉しくて慰労できるが, ただ君たちの国戦争がどうなのか?”
したらウォン主徳が答えるのを,
“私たちナヨン(那衍)は特別に星霜の恩徳を着て無恙(無恙)します. 本国は戦乱が止まないから 上国(上国)に長く通信(通信)できなかったです. しかし戦乱が平定される期限がなくて特別に
神さま(臣)を送って誠心で従うのです.”
した.





 




〓成宗 33冊, 4年(1473 啓辞 / 人聖火(成化) 9年)
日本
お吸物バングザングソブチォン 4株太守ダダリャングゾングホングがウォン主徳を送って来て物産を捧げる


日本お吸物(日本国) バングザングソブチォン 4株太守対内別家(大内別駕) ダダリャングゾングホング(多多良政弘)がウォン主徳(源周徳)を送って来て物産を捧げた. その西界(書契)に至るのを,

 

近来に我が国の人として 上国(上国)に朝貢(朝貢)と帰って来た者は異口同声(異口同声)で皆祝いながら言うのを, ‘陛下の竜鳳(竜鳳)のような姿態は天日(天日)の表象だから神聖な徳ずっと一顧, 善良で慈しみ深い教化(教化)が今こそふんだんでやっぱり中興(中興)を旋光(宣光)するようです.’ したから, 誰が西の方を向けて喜ばしがらない寝ていますか?






〓成宗 45冊, 5年( 1474 甲午 / 人聖火(成化) 10年) 日本国バングザングソブチォン 4株太守が人を送って討議を捧げる 
 
日本国(日本国) バングザングソブチォン 4株太守(防長攝泉四州太守) 対内別家(大内別駕) ダダ量ゾングホング(多多良政弘)が人を送って討議(土宜)を捧げた. その西界(書契)に至るのを,
 
ご遠慮 皇帝陛下(皇帝陛下) が明徳(明徳)が一月(日月)より輝いて盛需(聖寿)が将来に長久(長久)なさるように祈って祈ります. 上国(上国)4246) とうちの先祖(先祖)が通互(通好)してからゾングホング(政弘)まで 26大目です. 上国と貸し手(対州)とまだ同盟(同盟)する前によく戦争したが, その時に神さま(臣)の先人(先人)が上国のために救援病を送って士卒がすっかり戦死してした人も帰国することができなかったことがもう 80余年前の事です. それに存命(尊命)4247) を奉じて水牛(水牛) 雄と雌を捧げたりしたから, それなら先人の上国に対する忠誠が少なくなかったします. ゾングホングはその厚謝(後嗣)として壬辰年4248) に初めて獅子(使者)を送って先人が結んで来た掛け声(旧好)を磨いたが, あの時求礼(旧例)に外れる事にあって惜しんでくださる意味が非常になかったです. 執逹吏(執事)が昔の盟約(盟約)を忘れたからですか? それともまた獅子が碌でなかったからですか? 本当に分からない事です. そうではあるが存命によってすぐ繰り返し斜線(使船)を送って命を受けようとします. したがって琉球国(琉球国)から送った四向(麝香) 1匹(匹)を存命を奉じて捧げます. ゾングホングが何年前からサンミョング左金烏(山名左金吾)の軍事を助けようとして傾斜(京師)にとどまってから何日になったが, 去年 3月 18日に金烏が逝去(逝去)とグダル 28日にセチョン慶弔(細川京兆)も逝去するによって二つの家の自制たちがますます睦まじくなりました. それで私たち電荷(殿下)が大命国(大明国)に斜線(使船)を送ろうとハメ, 神さまが人を奉じてお腹を構えるのに, 工事間(公私間)にその費用が非常に多いです. 上国の豊かな財物の残りで恩師(恩賜)を曲がっていて下るように願ってこれから行くほど 昔の盟約によって忠節(忠節)を守ろうとします. 大命国と琉球国では神さまに対して恩問(恩問)がもっと手厚いのに, 上国だけが昔の盟約を忘れたようです. ギョメング(交盟)が加えることがないと思ったら, 保命(報命)によってその意味が分かって伏せて真情を申し上げます. 拙い討議(土宜)でも小さな意味を表します.” 


*
皇帝陛下(皇帝陛下) : 朝鮮国王を示し.
*上国(上国) : 朝鮮を示し
*存命(尊命) : 日本国王の人を示し.
*壬辰年 : 1472 成宗 3年



 


〓太宗 8冊, 4年(1404 甲申 / 人ヤングラック(永楽) 2年) 7月 30日(記事) 1番目記事
日本国王ウォン道義が使臣を送ってネビングして物産を捧げる


日本で使臣を送ってネビング(来聘)と, またトムル(土物)を捧げた. 日本国王は原図の(源道義)だった. 日本国ルームリーダー自社(防長刺史) デネダダリャングソングギョン(大内多多良盛見)もまた礼物を捧げた.


ウォン道義は室町幕府の 3台将軍足利ヨシミツでが対外的に使臣を送る時使った名前



 



〓 太宗 6年兵術(1406, ヤングラック 4) 日本国王が 《大蔵経》を清と, 欧洲節度私邸虜とトムルを捧げる

である見た国王原図の(源道義)が使臣を送ってネビング(来聘)と, 《大蔵経(大蔵経)》を請じたし, 欧洲節度使(九州節度使) 原図陣(源道鎭)が人を送ってトムル(土物)を捧げて部に(?虜)を返した.




 




〓世宗 5年聖卯(1423, ヤングラック 21) 日本国王の使臣ギュズ・汎霊など 135人が物産を捧げる

日本国王の使臣ギュズ(圭籌)・汎霊(梵令)と導線株(都船主) グズン(久俊) など 1百 35人が大闕にさらには物産を捧げたら, 賃金が仁政殿にさらには例を受けた後に, ギュズと汎霊は大闕の中に入って来るように命じて, グズンは大闕外にあるようにした. 賃金が言うのを,
“漢字版は操縦組からお互いに伝えるのがただ 1本だけだ. もし重なって何着あったら国王に対して敢えて惜しんでくれないという心があるのか.”
したら, ギュズなどが答えて申し上げるのを,
“星霜の下校が優しいから厚く感謝して厚くガムサハ来ます. 神々もまたよく推し量って申し上げるのです.”
した.



 




以下日本の朝貢記録


太祖 2年聖酉(1393) 6月 16日(京人)    日本天気図の中ゴンチォルが虜 200余インを返して小間物を捧げる 
太祖 4年乙亥(1395) 7月 1日(壬辰)    日本欧洲節度使ワンヨズンが中を送って物産を捧げる 
太祖 4年乙亥(1395) 7月 11日(壬寅)    日本一轄株人が物産を捧げる 
太祖 4年乙亥(1395) 7月 16日(精米)    日本サルマズ人が物産を捧げる 
太祖 4年乙亥(1395) 12月 16日(乙巳)    日本対内前のダダ量が物産を捧げる 
太祖 6年丁丑(1397) 6月 21日(伸縮)    日本欧洲節度使ワンヨズンが人を送って物産を捧げる 
太祖 6年丁丑(1397) 10月 1日(奇妙)    日本欧洲節度使が物産を捧げる 
太祖 6年丁丑(1397) 11月 14日(壬戌)    日本ユックズモックウィホングが中ヤングボム・ヤングファック便に物産を捧げる 
太祖 7年武人(1398) 7月27日(庚子)    日本ビジョン株準株太守遠景が礼物を捧げる 

正宗 1年奇妙(1399) 9月 10日(丁丑)    今月に日本国の私を与え人をさせて礼物を捧げる
正宗 1年奇妙(1399) 11月 1日(丁卯)    日本西しても準株太守正宗(貞宗)が人を送って物産を捧げる 
正宗 2年軽震(1400) 8月 1日(啓辞)    日本が使臣を送って小間物とじゃがいも, 梅をそれぞれ一人ずつ捧げる 

太宗 1年ジェントルマン(1401) 6月 18日(乙亥)    日本国ビジュー太守が言葉と薬剤を捧げる 
太宗 1年ジェントルマン(1401) 9月 29日(乙卯)    日本の対馬島臨時太守ゾングゾングムなどが言葉・石膏・白飯を捧げる 
太宗 2年壬午(1402) 9月 29日(己酉)    日本サルズ酸性の太守ウォン脳髓と日記株地主ワンヤングフィが礼物を捧げる 
太宗 3年聖未(1403) 2月 27日(甲戌)    日本獅子が来て物産を捧げる 
太宗 3年聖未(1403) 1月 23日(伸縮)    日本で使臣 12人が来て物産を捧げる 
太宗 3年聖未(1403) 10月 8日(壬子)    日本獅子がつかまって行った我が国の人を連れて来て物産を捧げる 
太宗 4年甲申(1404) 7月 30日(記事)    日本国王ウォン道義が使臣を送ってネビングして物産を捧げる 
太宗 4年甲申(1404) 7月 17日(併進)    日本全平前ワンワンギュがトムルを捧げる 
太宗 5年乙酉(1405) 6月 29日(啓辞)    日本国王ウォン道義が使臣を送って盗賊を取ったことを報告して礼物を捧げる 
太宗 5年乙酉(1405) 6月 3日(丁卯)    日本ジズァゾンが中度だねなどを送って薬剤などの物産を捧げる 
太宗 5年乙酉(1405) 5月 24日(戊午)    日本で礼物を捧げる 
太宗 6年兵術(1406) 12月 21日(丙午)    日本端株数とビジュー数価使臣を送って小木などの物品を捧げる 
太宗 6年兵術(1406) 8月 6日(壬辰)    日本日記株地主ワンヤングフィが虜 76人を召還して宗正武道物産を捧げる 
太宗 6年兵術(1406) 4月 22日(壬午)    日本ホザゾン客人が来てトムルを捧げる 
太宗 6年兵術(1406) 4月 16日(病者)    日本西しても端株太守遠泳が使臣を送って物産を捧げる 
太宗 6年兵術(1406) 2月 27日(戊子)    日本国王が 《大蔵経》を清と, 欧洲節度私邸虜とトムルを捧げる 
太宗 7年正解(1407) 10月 26日(丙午)    日本サルマズドングワンヌェグが礼物を捧げる 
太宗 7年正解(1407) 11月 26日(病者)    日本対馬島守護宗正無価礼物を捧げる 
太宗 7年正解(1407) 5月 6日(気味)    日本ジズァゾン, ホザゾンが礼物を捧げる 
太宗 7年正解(1407) 7月 21日(姙娠)    日本国対内ダダ量ドックウングが礼物を捧げる 
太宗 7年正解(1407) 8月 5日(兵術)    日本全平前が獅子を送って礼物を捧げる 
太宗 7年正解(1407) 2月 1日(兵術)    日本サルマズ太守が獅子を送って物産を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 2月 27日(丙午)    日本ジンソタムゼザンググン原図陣が礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 6月 3日(軽震)    日本のジズァゾン・御酒前が礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 10月 28日(壬寅)    日本国王ウォン道義がゾムドゾックを禁止させたと知らせて礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 4月 19日(精油)    日本駆使前が獅子を送って礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 7月 6日(壬子)    日本の対内前が玉鮎者・屏風・薬剤・記名・ヌングギョンなどの礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 7月 20日(病因)    日本サルマズ太守が礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 8月 21日 (病気,神さま)    日本国欧洲節度使が物産を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 9月 29日(甲戌)    日本の祝酒太守が礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 12月 6日(奇妙)    日本欧洲首原図陣が礼物を捧げる 
太宗 8年戊子(1408) 1月 26日(乙亥)    日本の円満職が礼物と, 不老院という約 1百個を捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 3月 6日(己酉)    日本のジズァゾンが人を送って礼物を捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 3月 26日(記事)    日本日記株とビジュー前で真偽して礼物を捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 11月 8日(病者)    日本祝典株客人が来て物産を捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 9月 6日(乙亥)    日本一轄株人が物産を捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 磨き 4月 11日(聖丑)    日本の対内前ダダリャングドックウングが中酒精を送って物産と観音やけどを捧げる 
太宗 9年基軸(1409) 3月 26日(記事)    日本下送胞衣三下数ユンググンが礼物を捧げる 

<中略>

世宗即位年武術(1418) 10月 14日(京人)    日本一轄株太守が切符をあげて神さま(臣)と称して小間物を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 10月 29日(乙巳)    日本ビジョン株中・一轄株太守・管にも祝典株石聖官府が刀・香などを捧げる 
世宗即位年武術(1418) 10月 30日(丙午)    日本関西で欧洲桃源数原図陣が小間物を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 11月 29日(乙亥)    日本西海で米作太守などが物産を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 12月 6日(ジェントルマン)    日本対馬島宗正性が小間物を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 10月 13日(基軸)    日本欧洲総帥と西海で米作太守が小間物を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 8月 21日(武術)    日本西しても一轄株太守と大麻株調律酸性数が物産を捧げる 
世宗即位年武術(1418) 12月 29日(甲辰)    日本祝典株太守が小木白飯などを捧げる
世宗 1年己亥(1419) 1月 3日(武臣)    日本対馬島万戸が物産を捧げる 
世宗 1年己亥(1419) 3月 7日(辛亥)    日本欧洲桃源数が 《大般若経》を請求して物産を捧げる 
世宗 1年己亥(1419) 4月4日(武人)    日本国ビジュー太守・張株太守・対馬島ファゾンポドマンホが物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 磨き 1月 28日(精油)    日本欧洲総管ピョングゾングスが物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 12月 2日 (病気,神さま)    日本ルームリーダー風三走道号ダダ量万歳が供え物をあげる 
世宗 2年庚子(1420) 11月 28日(壬辰)    日本ビジュー太守ワンチァングチォングが物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 11月 25日(基軸)    日本国欧洲総管ウォン依準が供え物と物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 10月 26日(辛酉)    日本国欧洲節度使原図陣が物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 8月 9日(乙巳)    日本前西しても欧洲桃源数が使臣を送って物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 1月 5日(甲辰)    日本国硬度・欧洲などで人を送って物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 8月 2日(武術)    日本西してもビジョン株ピョングウジン準注目怨声が物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 12月 8日(壬寅)    日本国欧洲桃源数ウムウィ原図陣が物産を捧げる 
世宗 2年庚子(1420) 12月 9日(聖卯)    日本国欧洲総管原義与えたなどが物産を捧げる 
世宗 3年伸縮(1421) 9月 9日(記事)    日本ピョングマンギョングが朝貢を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 7月 5日(更新)    日本人三走太守と対馬島ズァウィムンデラングが物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 3月 27日(甲申)    日本国大麻株のズァウィムンデラングが物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 2月 26日(聖丑)    日本の原義与えた・ドングワンルェ・怨声などが物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 磨き 12月 23日(病者)    日本欧洲総管が人を送って物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 7月 23日(武人)    日本道営・ピョングマンギョング・ウングス・平民所早天・入道街並などが小間物を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 7月 22日(丁丑)    日本国デネダダリャングドウング・原図陣・原義与えたなどが小間物を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 3月 26日(聖未)    日本国欧洲総管ウォン依準が物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 3月 5日(壬戌)    日本の私は欧洲総管原図陣が物産を捧げる 
世宗 4年壬寅(1422) 3月 5日(壬戌)    日本のウォン依準が物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 10月 18日(乙丑)    日本国欧洲原義与えたなどが物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 10月 25日(姙娠)    日本国原義与えた・ピョングマンギョングなどが物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 11月 24日(伸縮)    日本国原図陣が物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 5月 19日(武術)    日本国管にもワンズンシンが物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 1月 12日(甲午)    日本国祝酒冠詞ピョングマンギョングが物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 12月 25日(姙娠)    日本国王の使臣ギュズ・汎霊など 135人が物産を捧げる 
世宗 5年聖卯(1423) 10月15日(壬戌)    日本欧洲ダダリャングドックウング・ピョングマンギョングなどが物産を捧げる 

<中略>

世祖 1年乙亥(1455) 10月 14日(併進)    日本国五度雨具数ワンスングが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 10月 29日(辛未)    日本国サングソングポ駆使島のドングワンウィヤングと二世数原文などが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 11月 1日(姙娠)    日本国サルズドングフィで・五度雨具数ワンスングなどが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 12月 9日(庚戌)    日本国官制が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 9月 20日(壬辰)    日本国日記株どうして号だねドンググとなどが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 8月 22日(乙丑)    日本国ビジョン株サンソン胞衣ジズァワンシの娘が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 8月 18日(辛酉)    日本国大麻株どうして号だねゾングデラングが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 8月 17日(更新)    日本国ドングワンウィヤングが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 12月 12日(聖丑)    日本国ビジョン株全平優陣などが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 11月 27日(武術)    日本国日記数原稿と二世数原文が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 11月 13日(甲申)    日本国サルズドングフィで・五度雨具数ワンスングが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 11月 6日(丁丑)    日本国五度雨具数ウォン僧科ビジョン株サングソングポつけた後太守怨声が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 10月 8日(庚戌)    日本国関西で祝典株冷泉歌舞が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 9月 29日(伸縮)    日本国サルズ異執院ウジン宇宙太守ドングフィでなどが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 9月 2日(甲戌)    日本国サルズ異執院ウジン宇宙太守ドングフィでなどが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 磨き 6月 16日(更新)    日本国対馬島の宗姓職が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 磨き 6月21日(乙丑)    日本国の原紙職・サンソン胞衣の中でウォン優・大麻株の宗姓職が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 磨き 6月 29日(聖酉)    日本国サングソングポ派茶道の願納などが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 7月 3日(病者)    日本国大麻株の宗姓職・宗姓家家それぞれ物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 7月 21日(甲午)    日本国原稿・遠泳と大麻株宗姓職・ゾングソングホング・ゾングホウングワがそれぞれ物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 7月 30日(聖卯)    日本国ソックギョンズの登院・主砲化かたがたが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 12月 15日(併進)    日本国五度雨具数ワンスングが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 7月 1日(甲戌)    日本国ビジョン株終喪君指数ゾングサングゾシンシゾングなどが物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 8月 3日(丙午)    日本国五度雨具数ワンスング・ビジョン株つけた後太守怨声が物産を捧げる 
世祖 1年乙亥(1455) 7月 11日(甲申)   日本国ドングワンゾシンギョルェなどが物産を捧げる 
世祖 2年病者(1456) 7月 28日(乙巳)    日本国ビジョン株のジングング兵部小補遠泳が獅子を送ってトムルを捧げる 
世祖 2年病者(1456) 6月 26日(甲子)    日本国大麻株宗姓職が人を送ってトムルを捧げる 
世祖 2年病者(1456) 6月 2日(庚子)    日本国から人が来てトムルを捧げる 
世祖 2年病者(1456) 5月 24日(壬辰)    日本から人が来てトムルを捧げる 
世祖 2年病者(1456) 4月 22日(辛酉)    日本国大麻株号だねゾングデラングの息子事情定価文殊係などが物産を捧げる

<中略>

成宗即位年基軸(1469) 12月 8日(情事)    日本国欧洲桃源数遠郊職が人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 1月 25日(甲辰)    日本国大麻株の宗正国・宗正数と人為君のゾングソングがと宗姓職が物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 4月 5日(聖丑)    日本国祝典株終喪君指数シヒャングが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 6月 21日(無所)    日本国のワンスング・終焉パラリと無税・ドングフィで・宗正国などが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月 19日(乙巳)    日本国の宗正国・ゾングソングが・ゾングソングホング・円満・ドングシの語尾が人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月 27日(聖卯)    日本国ソックギョンズのドングワンズポズァグンザングガムファギョムとグィヘジグックのギョゴングが物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 8月 24日(記事)    日本国王が送った入道などが来て西界と物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 10月 24日(無所)    日本国管にも欧洲桃源数遠郊職が人を送って討議を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 12月 18日(辛酉)    日本国と今年適合などで人を送って来て物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 12月 27日(庚午)    日本国大麻株太守宗正国などが人を送って来て討議を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月13日(基軸)    日本国キッチン株産具小史大三下数ウォン紅顔が人を送って物産を捧げる
成宗 1年京人(1470) 3月 12日(神妙)    日本国日記株守護大観ジングング兵部小補円舞が人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 6月 23日(庚午)    日本国の宗正国・ゾングソングが・ゾングソングホング・宗祖育成与えたなどが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月 6日(壬午)    日本国の宗正国・ゾングソングホング・宗務のため・ワンスング・ウォン中室などが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 12月 8日(辛亥)    日本国大麻株太守宗正国などが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 11月 1日(乙亥)    日本国欧洲シーソーの終焉パラリと無税などが人を送って討議を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 10月 8日(壬子)    日本国プングズ太守デウパルラングサヌングなどが人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 9月 28日(聖卯)    日本国で人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 9月 19日(甲午)    日本国で西界とともに物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 8月 28日(聖酉)    日本国セチョン左烏頭至賢が人を送って来て物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 8月 25日(庚午)    日本国で人を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 8月 23日(無所)    日本国で人を送って来て物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 8月 7日(壬子)    日本国多くの太守たちが人を送って来て物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月 19日(乙巳)    日本国京城官令電算前左傾貸し付けワンウィスングが中向陽を送って物産を捧げる 
成宗 1年京人(1470) 7月 12日(戊子)    日本国宗正国・宗正数・ゾングソングホング・ゾングソングが・元徳などが人を送って物産を捧げて成宗 2年神妙(1471) 2月 28日(辛未)    日本国大麻株太守宗正国などが人を送って来て物産を捧げる 
成宗 2年神妙(1471) 5月 22日(甲午)    日本国ビジョン株元徳が人を送って物産を捧げる 
成宗 2年神妙(1471) 6月 11日(壬子)    日本国長文株摘奸官真髄虫垂が人を送って討議を捧げる 
成宗 2年神妙(1471) 6月 27日(無所)    日本国で人を送って来て物産を捧げる 

 

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<あまりにも多くて 以下略する>

大朝鮮に 呼吸するように朝貢することができる 倭


수천년 노예민족倭

국어사전
왜노 [倭奴]
[명사]예전에, 중국 사람이나 고려 사람이 일본 사람을 낮잡는 뜻으로 이르던 말. ≒왜이.
한자사전
倭奴 [ 왜노 ]
(지난날)일본(日本) 사람을 얕잡아 이르던 말

 

 

태종 16권 8년 10월 21일 (을미) 003 / 왜인 노비를 사는 것을 금하다.
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명하여 왜노비(倭奴婢)를 사는 것을 금하였다. 경상도 도관찰사(都觀察使)가 아뢰기를,

“김해부(金海府) 사람인 박천(朴天)의 집에 교역(交易)한 왜비(倭婢)가 있는데 일본 국왕(日本國王)의 사자(使者)의 배로 도망해 들어갔습니다. 부사(府使)가 사자(使者)에게 이르기를, ‘이 종[婢]은 본래 중한 값을 주고 산 것이니, 지금 숨기고 내놓지 않으면 교린(交隣)의 뜻에 어긋나니 빨리 돌려보내라.’ 하였더니, 사자(使者)가 대답하기를, ‘우리 나라에는 본래 사천(私賤)이 없다.’ 하고, 마침내 돌려보내지 않았습니다.”

하였다. 임금이 이 말을 듣고 이 명령이 있었다.



태종 19권 10년 4월 8일 (갑진) 002 / 무고금지법·과전체수법·교육진흥·매장법·왜노 혁파 등 사간원의 8가지 시무책 네째에 이르기를,

“일본인(倭寇)가 우리 나라에 대하여 경인년 이래로 군현(郡縣)을 침략하고 생민(生民)을 살육하여, 환(患)이 된 것이 지극합니다. 우리 성조(盛朝)에서 무(武)로써 침략을 막고, 문(文)으로 다스림을 이루나, 왜인의 사람됨이 성품이 사납고, 이랬다 저랬다 하여 믿기가 어려운데, 지금 관직을 주어 궁정(宮庭)에서 숙위(宿衛)하게 하고, 이들을 사서 노비(奴婢)를 삼아 주군(州郡)에 널려 있게 하니, 심히 미편(未便)합니다. 또 경상도(慶尙道) 한 도(道)를 보더라도 그 수효가 거의 2천에 이르는데, 혹은 가장(家長)의 아내를 겁탈하고, 혹은 이웃 마을의 사람을 죽이니, 이것이 족히 이상지계(履霜之戒)가 될 만합니다. 자고(自古)로 바깥 오랭캐[外夷]의 사람이 처음에는 지극히 미약(微弱)한 것 같으나, 나중에는 반드시 제어하기 어렵게 되는 법입니다. 신 등은 두렵건대, 이들 무리가 하루아침에 벌떼처럼 일어나면 또한 강적이 될 것이라 염려됩니다. 만일 그 부형(父兄)이 우리 변방을 도둑질한다면 과연 우리를 위해 그 부형을 치겠습니까? 싸움터에 나가면 창[戈]을 거꾸로 할는지 알 수 없는 일입니다. 또 그 자제(子弟)를 구하여 사[求賣]서 우리의 노비(奴婢)를 삼는다고 칭탁하여 우리 주군(州郡)에 두는데, 그 마음 또한 알 수 없는 것입니다. 지난날에 우리 백성을 많이 죽인 것으로 말한다면, 비록 다 죽이더라도 가합니다. 원컨대, 이제부터 왜인을 사서 노비를 삼는 것을 일체 모두 엄금하여 화(禍)의 싹을 막으소서.”

하였다. 정부에서 의논하기를,

“아뢴 바에 의하여 시행하는 것이 어떠합니까?”

하였다.



태종 24권 12년 10월 17일 (기사) 004 / 도망갈 것을 우려하여 왜노(倭奴)를 궁벽한 곳에 옮겨 두게 하다
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왜노(倭奴)를 벽처(僻處)2304) 로 옮겨 놓았다. 경상도 관찰사가 보고하였다.

“전평전(田平殿)이 사송(使送)한 객인(客人)이 돌아갈 때, 영일(迎日)에 분산시켜 두었던 왜인 다랑고라(多郞高羅) 등을 몰래 배에 싣고 가고자 하므로, 지키던 사람이 이를 제지하자 검(劍)을 뽑아 허리를 찌르고 갔다고 합니다. 바라건대, 바닷가에 분치(分置)된 왜노(倭奴)를 깊숙하고 궁벽한 곳으로 옮기게 하소서.”

임금이 그대로 따랐다.


세종 46권 11년 12월 4일 (병자) 002 / 예조에서 통신사가 데려온 왜인 노비의 거주지 문제를 아뢰다--------------------------------------------------------------------------------

예조에서 아뢰기를,

“통신사(通信使)가 데리고 돌아온 잡혀 갔던 여자 복생(福生)과 노비 아울러 6명은, 청컨대 본 고향인 고부군(古阜郡)으로 하여금 적당히 의복·식량·토지·곡물 종자 등을 지급하여 평안히 살도록 하고, 진주 선군 정원우(鄭元右)가 무역한 바 있는 왜노(倭奴)는 해변에 살게 하는 것은 부당하오니, 깊숙한 내륙 지방에 팔도록 하소서.”

하니, 그대로 따랐다.

 

 

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중세 이후부터 조선을 아득히 넘은 선진국 倭國의 백성들이 조선으로 넘어와 노예가 되었다.

 

 

 

 

 
왜소한 倭人의 열혈 키높이 신발
 
몸에 난도질하는 전통, 교활하고 야만스러운 倭人
 
훈도시를 입고 바가지로 뭔가 마시려는 倭人
원숭이와 같은 얼굴을 하고 있다
 
 
훈도시 + 몸에 난도질 야만 열도의 전통
 
왜인 괴물들의 신형 도요타에 시승하고 있는 서양인
주위에는 훈도시 정장을 입은 도요타 倭人 판매사원
 

 

근대 왜인의 열혈 택시

 

한쪽 젖가슴을 드러내는 열도의 전통복장

 

일반적인 왜인  열도의 하우스

 

미국에 항복후 도둑질을 하기전 언제나 거지들로 넘치던 열도

 

 

 

倭國은 일본국이다.倭라는 원래 이름을 부끄러워했는데, 극동에 있다고 해서 스스로가 일본이라고 부른다. 고려의 속국이다.

倭國乃日本國也. 本名倭旣恥其名. 又自以在極東因號日本也. 今則臣屬高麗也) - 郭若虛.『圖畵見聞志』 卷6. 高麗國

 

 

조선왕조실록을 보면 , 倭國이 조선에 조공한 내역과  함께 보낸  서한의 내용이 상세히 기록되어 있다.

일본 쇼군과 지방 정권 태수들은 조공서한에서 조선을 상국(上國)또는 대방(大邦)이라 하였고 자신은 누방으로  낮추어 칭했다.

 

일본이 조선 군주를 황제폐하로 부른 사례도 여려차례 발견되는데,

조선이 자체적으로 황제라는 직함을 두고 있지 않았음에도 불구하고, 

일본이 조선 군주를 황제로, 조선을 상국(上國)으로 부를 만큼 ,

조선은 동아시아에서 명나라 다음으로 역량있고 높은 위치에 있는 국가였음이 사실이다.

 

조선이나 명나라에서는 쇼군을 ‘일본국왕’이라고 불렀는데, 

메이지 유신(1868년) 이전에는 소위 ‘천황’이 아닌 쇼군(막부의 수장)이 일본의 실력자이고,
대외적인 국가대표기관이었다.

 

참고로 , 조선왕조실록은 유네스코 지정 기록문화유산에 지정되어 있다.

 

 

◈세조 9년 계미(1463, 천순 7)
일본 국왕이 사인을 보내 토산물을 바치며 올린 서계

일본 국왕(日本國王)이 사인(使人)을 보내 와서 토물(土物)을 바치니, 그 글[書]에 이르기를,
“보린(寶隣)이 근년에 음모(音耗)6179) 가 소활(疏闊)하오며, 하늘은 멀고 바다는 막혔으니, 어찌 목마르게 바라는 것을 이기겠습니까? 이제 천룡(天龍)6180) 의 준초 서당(俊超西堂)과 범고 수좌(梵高首座) 등을 정사(正使)·부사(副使)로 삼아, 차견(差遣)하여 전과 같은 호의(好意)를 닦으옵니다.
이에 수년 전에 사선(使船)을 귀국(貴國)에 보냈더니, 이르시기를, ‘가까운 장래에 마땅히 포궤(包?)6181) 를 명(明)나라 조정에 바쳐서 전년[前歲]을 사례하라.’고 하시었는데, 행사(行使)가 불궤(不軌)의 죄(罪)를 범하였습니다. 비록 그러나 누방(陋邦)은 근년에 동벌 남정(東伐南征)하느라고 군사(軍事)에 겨를이 없었습니다."
이런 까닭으로 능히 그 말씀을 실천하지 못하고, 인순(因循)하여 지금까지 이르렀으니, 자못 돈어(豚魚)6182) 의 신(信)을 잃은 것과 같습니다. 폐하(陛下)께서 일찍이 일서(一書)를 오는 편에 전(傳)하여, 첨지중추원사(僉知中樞院事) 송처검(宋處儉)·대호군(大護軍) 이종실(李宗實)을 보빙 사자(報聘使者)로 삼아 보내었는데, 해상(海上)에서 홀연히 태풍[?風]을 만나, 두 배가 표몰(漂沒)하여, 글 속[書中]에 기재한 건건(件件)의 방물(方物)은 비록 이 지방에 도달하지는 못하였으나, 이미 예의(禮意)의 두터움을 받았으며, 인하여 바닷가 제국(諸國)에 나아가 그 일을 다 찾았으나, 모두 연고를 알지 못하기 때문에 그 표류한 배를 돌려보낼 수 없었으며, 또 그 나머지 시체를 장사지냈습니다.
우리 천룡선사(天龍禪寺)에 명하여, 수륙 대재회(水陸大齋會)를 베풀어 두 사람[二子]을 위하여 명복(冥福)을 자천(資薦)하였을 뿐입니다. 천룡선사(天龍禪寺)는 곧 조종(祖宗)이 창업(創業)하여 누방(陋邦)에서 복(福)을 심는 신령한 도량[靈場]입니다. 근자에 회록(回祿)의 변(變)을 만나서 구관(舊觀)을 회복하지 못하였습니다. 이런 까닭으로 연곡(年穀)이 익지 않고 재앙(災殃)이 자주 이르러서 이제 장차 승당(僧堂)을 경영하려 하는데,
대방(大邦)의 도움을 빌지 않으면 즐겨 이루기가 어렵겠습니다.
그윽이 명하여 의염(義廉)·생관(生觀)·교직(敎直) 등에게 집사(執事)를 치의(致意)하게 하였습니다만, 무릇 우리 나라가 부처[佛]를 섬겨 착하게 된 것은 바로 귀국(貴國)의 비로 법보(毗盧法寶)를 얻은 소이(所以)이니, 대저 하나의 장서[一藏]를 얻은 것은 그 큰 것을 내려 줌입니다. 더구나 구(求)함을 따름으로써 상도[常]를 삼으시니, 누방(陋邦)이 엎드려 청(請)하는 것입니다. 지난번에 인(仁)의 고찰(古刹)을 세우면서 1만 민(緡)을 주는 것을 얻어, 윤환(輪奐)을 아름답게 고치었으며, 이제 또 천룡 만당(天龍滿堂)의 해중(海衆)이 폐하의 비음(庇蔭)을 입으면 어찌 서북(西北)을 바라보며 만세(萬歲)의 축복이 이르지 않겠습니까? 토의(土宜)가 변변치 못하오나 별폭(別幅)과 같이 갖추었습니다. 봄추위가 아직 남았으니, 때를 따라 아끼어 보전하소서.”
하고, 별폭(別幅)은 채화선(綵?扇) 1백 파(把), 장도(長刀) 2자루[柄], 대도(大刀) 10파(把), 대홍칠 목거완(大紅漆木車椀) 대소 합하여 70사(事), 대홍칠 천방분(大紅漆淺方盆) 대소 합하여 20사(事), 홍칠 흑칠 잡색 목통(紅漆黑漆雜色木桶) 2개(箇)이었다.



*상국(上國) : 조선(朝鮮)을 말함
*폐하 : 세조를 말함
*대방(大邦) :  큰 나라를 의미함.  여기서는 조선을 가르킴 
*누방(陋邦) :  일본을 말함



무로마치 막부의 8대 쇼군 아시카가 요시마사가  조공물품과 함께 조선에 보낸 서한에
조선의 세조를 폐하라고 부르면서, 일본 자신은 누방으로 조선은 대방(大邦)으로 칭하고 있음을 알 수 있다.







세조 9년 계미(1463, 천순 7)
일본 국왕(日本國王)이 사인(使人)을 보내 와서 토물(土物)을 바치니
,


그 글[書]에 이르기를,
“보린(寶隣)이 근년에 음모(音耗)가 소활(疏闊)하오며, 하늘은 멀고 바다는 막혔으니, 어찌 목마르게 바라는 것을 이기겠습니까? 이제 천룡(天龍)의 준초 서당(俊超西堂)과 범고 수좌(梵高首座) 등을 정사(正使)·부사(副使)로 삼아, 차견(差遣)하여 전과 같은 호의(好意)를 닦으옵니다.
폐하(陛下)께서 일찍이 일서(一書)를 오는 편에 전(傳)하여, 첨지중추원사(僉知中樞院事) 송처검(宋處儉)·대호군(大護軍) 이종실(李宗實)을 보빙 사자(報聘使者)로 삼아 보내었는데, 해상(海上)에서 홀연히 태풍[?風]을 만나, 두 배가 표몰(漂沒)하여, 글 속[書中]에 기재한 건건(件件)의 방물(方物)은 비록 이 지방에 도달하지는 못하였으나, 이미 예의(禮意)의 두터움을 받았으며, 인하여 바닷가 제국(諸國)에 나아가 그 일을 다 찾았으나, 모두 연고를 알지 못하기 때문에 그 표류한 배를 돌려보낼 수 없었으며, 또 그 나머지 시체를 장사지냈습니다.







◈성종 1년 경인(1470, 성화 6)
일본 국왕이 보낸 입도 등이 와서 서계와 토산물을 바치다


일본 국왕(日本國王) 회수납정소(懷守納政所) 이세수(伊勢守) 정친(政親)이 보낸 입도(入道) 등이 와서 토산물을 바쳤다. 그 서계(書契)에 이르기를,
“정친은 삼가 글을 조선국 의정부(議政府) 합하(閤下)에게 바칩니다. 공손히 바라건대 나라가 크게 평안해서 금상 황제(今上皇帝)의 어위(御位)가 오래도록 가소서! 폐하(陛下)께서는 공손히 덕(德)이 건곤(乾坤)과 일치하여 당우(唐虞)의 어질고 장수하는 지역(地域)을 보전하고, 현성(賢聖)을 신하로 모아서 이주(伊周)의 순수하고 소박한 기풍을 회복하도록 원하며, 성의를 다하여 축복합니다. 그런데 부상(扶桑) 전하의 높은 명령에 응하여 같은 날에 서계를 봉하여 조선(朝鮮)과 유구(琉球)의 두 나라에 사선(使船)을 보냅니다. 이는 나의 개인적인 의사가 아니니, 이와 같은 간절한 뜻을 폐하에게 주달(奏達)하여서 허락하여 주시면 오직 다행으로 생각하겠습니다.
귀국의 남은 힘을 입고자 하는데, 바라는 물건은 면주(綿紬) 3천 필, 면포(綿布) 5천 필, 백저포(白苧布) 1천 필, 쌀 5천 석이니, 자비로 살피소서. 오직 우리 나라의 태평을 거두고 더 나아가 번신(藩臣)으로서의 충성된 공훈을 세우기를 빕니다. 보잘것 없는 토산물을 별폭(別幅)에 갖추었습니다. 바야흐로 새 눈이 온 산을 뒤덮었으니 풍년이 들 길조(吉兆)입니다. 이만 그칩니다. 별폭은, 금(金) 2원(員) 21냥쭝[兩], 주(朱) 4포(包) 40냥쭝, 대도(大刀) 15파(把), 단자(段子) 1필, 수자(?子) 1필, 부채[扇子] 50본(本)입니다. 받아주시면 다행하겠습니다.”








 

◈성종 32권, 4년( 1473 계사 / 명 성화(成化) 9년)
일본국 인백단 삼주 태수 원교풍이 양영서당을 보내어 선물과 글을 올리다 


일본국(日本國) 인백단 삼주 태수(因伯丹三州太守) 산명전(山名殿) 소필(少弼) 원교풍(源敎?)이 양영 서당(亮瑛西堂)을 보내어 와서 토의(土宜)를 바치고, 아울러 사서(四書) 각각 1건(件)씩을 바쳤다. 그 서계(書契)에는 이르기를,

 
공경히 생각하건대, 황제 폐하(皇帝陛下)께서 보위(寶位)에 오르시어 천운(天運)을 이어받으시니, 구방(舊邦)이 유신(維新)하며, 덕(德)이 하(夏)나라·은(殷)나라의 초정(初政)보다 뛰어나시고 도(道)가 요(堯)임금·순(舜)임금보다 위에 짝하시니, 지극히 축하하고 지극히 축수합니다. 신은 선조(先祖) 이래로 가세(家世)에서 상국(上國)3198) 에 빙문(聘聞)을 통하지 아니한 적이 없기 때문에, 경인년3199) 가을에 일개 암자승(菴子僧)과 석도문(奭都聞) 등을 차견(差遣)하여서, 옛날의 맹세를 닦으며, 또 토의(土宜)의 미미한 정성을 바쳤습니다. 다행히 금상 황제(今上皇帝)3200) 께서 왕위(王位)를 이어받으시는 초정(初政)을 만나서, 눈으로는 한(漢)나라 관리의 위의(威儀)를 보겠고, 귀로는 주(周)나라 시(詩)의 가송(歌頌)을 듣겠으니, 아아, 성대(盛大)합니다. 실로 문무(文武)의 나라인지라 영우(榮遇)하기가 너무나 크옵니다. 전사(專使)3201) 가 일을 끝마치고 동쪽으로 돌아오게 되매, 화로 동반(火爐銅盤) 1개와 동경(銅磬) 1개를 더하여 내려 주시니, 이미 후한 은혜를 받았으므로, 감격하고 기쁜 마음이 지극함을 이기지 못하겠습니다. 지금 만복사(萬福寺)의 주지(住持) 양영 서당(亮瑛西堂) 등을 보내어 바다를 건너가서 박(薄)한 폐물(幣物)을 바치어 오로지 황제께서 왕위를 이으신 것을 배하(拜賀)하게 합니다. 신은 비록 먼 하늘, 먼 바닷가의 땅에 있어서 위궐(魏闕)3202) 아래에 달려가 마음을 바치지는 못하나, 구구(區區)한 단성(丹誠)3203) 을 엎드려 예찰(睿察)하여 주시기를 빌며, 그리하여 주시면 천만 다행이겠습니다. 
신의 봉지(封地) 안의 백주(伯州)에 만복 선사(萬福禪寺)라고 하는 옛 사찰(寺刹)이 있는데, 허물어져 무너진 지가 세월이 오래 되었으므로 장차 다시 영조(營造)하려고 하여, 저번 때에 상국(上國)에 조연(助緣)3204) 을 구(求)하였으나, 너그러이 용납하여 주심을 받지 못하였습니다. 바라는 바는 대왕께서 관인(寬仁)으로써 포금(布金)3205) 의 봉시를 속히 행하여 주시면, 불각(佛閣)과 승방(僧房)을 일시에 다시 옛날처럼 볼 수가 있을 것입니다. 그렇게 된다면 길이 성수(聖壽)가 만안(萬安)하시도록 봉축(奉祝)하는 일단이 될 것입니다. 하정(下情)3206) 은 지극히 황공함을 이기지 못하여 변변치 않은 방물(方物)을 별폭(別幅)에 갖추었습니다.”
 

*상국(上國) : 조선(朝鮮)을 말함
*금상 황제(今上皇帝) : 성종(成宗)을 말함
*위궐(魏闕) : 임금의 궁궐
*단성(丹誠) : 진정에서 우러나는 정성
*하정(下情) : 윗사람에게 대하여 자기의 마음이나 뜻을 낮추어 이르는 말
*봉지 [封紙]: 제후의 영토.
 






◈성종 4년 계사(1473, 성화 9)
일본국의 다다량정홍이 보낸 원주덕이 하직하니 인견하고 재물을 하사하다


 신숙주(申叔舟)를 시켜서 원주덕(源周德)에게 말하기를,
“너희 대내전(大內殿)은 족계(族係)가 우리 나라에서 나갔으므로 서로 교호(交好)한 지가 이미 오래되었다. 이제 듣건대 편안하다고 하니 기쁘고 위로되나, 다만 너희 나라 전쟁이 어떠하냐?”
하니 원주덕이 대답하기를,
“우리 나연(那衍)은 특별히 성상의 은덕을 입어 무양(無恙)합니다. 본국은 전란이 그치지 아니하기 때문에 상국(上國)에 오래 통신(通信)하지 못하였습니다. 그러나 전란이 평정될 기한이 없어서 특별히
신(臣)을 보내어 성심으로 복종하는 것입니다.”
하였다.








◈성종 33권, 4년(1473 계사 / 명 성화(成化) 9년)
일본
국 방장섭천 4주 태수 다다량정홍이 원주덕을 보내어 와서 토산물을 바치다


일본국(日本國) 방장섭천 4주 태수 대내 별가(大內別駕) 다다량정홍(多多良政弘)이 원주덕(源周德)을 보내어 와서 토산물을 바치었다. 그 서계(書契)에 이르기를,

근래에 우리 나라 사람으로서 상국(上國)에 조공(朝貢)하고 돌아온 자는 이구동성(異口同聲)으로 모두 축하하며 말하기를, ‘폐하의 용봉(龍鳳)과 같은 자태는 천일(天日)의 표상이라 성스러운 덕이 계속 일고, 인자한 교화(敎化)가 바야흐로 풍성하여 역시 중흥(中興)을 선광(宣光)할 것 같습니다.’ 하였으니, 누군들 서쪽을 향해 기꺼워하지 않을 자 있겠습니까?






◈성종 45권, 5년( 1474 갑오 / 명 성화(成化) 10년) 일본국 방장섭천 4주 태수가 사람을 보내 토의를 바치다 
 
일본국(日本國) 방장섭천 4주 태수(防長攝泉四州太守) 대내 별가(大內別駕) 다다량 정홍(多多良政弘)이 사람을 보내 와서 토의(土宜)를 바쳤다. 그 서계(書契)에 이르기를,
 
삼가 황제 폐하(皇帝陛下) 께서 명덕(明德)이 일월(日月)보다 빛나고 성수(聖壽)가 장래에 장구(長久)하시기를 빌고 빕니다. 상국(上國)4246) 과 우리 선조(先祖)가 통호(通好)한 지 정홍(政弘)까지 26대째입니다. 상국과 대주(對州)와 아직 동맹(同盟)하기 전에 자주 전쟁하였는데, 그 때에 신(臣)의 선인(先人)이 상국을 위하여 구원병을 보내어 사졸이 죄다 전사하고 한 사람도 귀국하지 못한 것이 이제 80여 년 전의 일입니다. 게다가 존명(尊命)4247) 을 받들어 수우(水牛) 암수를 바치기도 하였으니, 그렇다면 선인의 상국에 대한 충성이 적지 않았다 하겠습니다. 정홍은 그 후사(後嗣)로서 임진년4248) 에 처음 사자(使者)를 보내어 선인이 맺어 온 구호(舊好)를 닦았는데, 그때 구례(舊例)에 어그러지는 일을 당하여 아껴 주시는 뜻이 매우 없었습니다. 집사(執事)가 옛 맹약(盟約)을 잊었기 때문입니까? 아니면 또 사자가 변변치 못하였기 때문입니까? 정말 모를 일입니다. 그렇기는 하나 존명에 따라 곧 거듭 사선(使船)을 보내어 명을 받고자 합니다. 따라서 유구국(琉球國)에서 보내 온 사향(麝香) 1필(匹)을 존명을 받들어 바칩니다. 정홍이 몇 해 전부터 산명 좌금오(山名左金吾)의 군사를 돕느라고 경사(京師)에 머문 지가 몇 해 되었는데, 지난해 3월 18일에 금오가 서거(逝去)하고 그달 28일에 세천 경조(細川京兆)도 서거함에 따라 두 집안의 자제들이 점점 화목해졌습니다. 그래서 우리 전하(殿下)가 대명국(大明國)에 사선(使船)을 보내고자 하매, 신이 명을 받들어 배를 꾸미는데, 공사간(公私間)에 그 비용이 매우 많습니다. 상국의 풍부한 재물의 나머지로 은사(恩賜)를 굽어 내리시기를 바라며 앞으로 갈수록 옛 맹약에 따라 충절(忠節)을 지키고자 합니다. 대명국과 유구국에서는 신에 대하여 은문(恩問)이 더욱 후한데, 상국만이 옛 맹약을 잊으신 듯합니다. 교맹(交盟)이 보탬이 없다고 생각하신다면, 보명(報命)에 따라 그 뜻을 알아서 엎드려 진정을 아뢰겠습니다. 변변치 않은 토의(土宜)나마 작은 뜻을 표합니다.” 


*
황제 폐하(皇帝陛下) : 조선 국왕을 가리킴.
*상국(上國) : 조선을 가리킴
*존명(尊命) : 일본 국왕의 명을 가리킴.
*임진년 : 1472 성종 3년




◈태종 8권, 4년(1404 갑신 / 명 영락(永樂) 2년) 7월 30일(기사) 1번째기사
일본 국왕 원도의가 사신을 보내 내빙하고 토산물을 바치다


일본에서 사신을 보내어 내빙(來聘)하고, 또 토물(土物)을 바쳤다. 일본 국왕은 원도의(源道義)였다. 일본국 방장 자사(防長刺史) 대내다다량성견(大內多多良盛見)도 또한 예물을 바쳤다.


원도의는 무로마치 바쿠후의 3대 쇼군 아시카가 요시미츠로가 대외적으로 사신을 보낼 때 쓰던 이름





◈ 태종 6년 병술(1406, 영락 4) 일본국왕이 《대장경》을 청하고, 구주 절도사가 포로와 토물을 바치다

본 국왕 원도의(源道義)가 사신을 보내어 내빙(來聘)하고, 《대장경(大藏經)》을 청하였고, 구주 절도사(九州節度使) 원도진(源道鎭)이 사람을 보내어 토물(土物)을 바치고 부로(?虜)를 돌려보냈다.







◈세종 5년 계묘(1423, 영락 21) 일본 국왕의 사신 규주·범령 등 135명이 토산물을 바치다

일본 국왕의 사신 규주(圭籌)·범령(梵齡)과 도선주(都船主) 구준(久俊) 등 1백 35인이 대궐에 나아가서 토산물을 바치니, 임금이 인정전에 나아가서 예를 받은 뒤에, 규주와 범령은 대궐 안에 들어오도록 명하고, 구준은 대궐 밖에 있도록 하였다. 임금이 말하기를,
“한자판은 조종조로부터 서로 전하는 것이 다만 1본뿐이다. 만약 겹쳐서 여러벌 있다면 국왕에 대하여 굳이 아끼어 주지 않으려는 마음이 있겠느냐.”
하니, 규주 등이 대답하여 아뢰기를,
“성상의 하교가 자상하시니 깊이 감사하고 깊이 감사하옵니다. 신들도 또한 잘 헤아려서 아뢰겠나이다.”
하였다.






이하 일본의 조공 기록


태조 2년 계유(1393) 6월 16일(경인)    일본 일기도의 중 건철이 포로 200여 인을 돌려보내고 방물을 바치다 
태조 4년 을해(1395) 7월 1일(임진)    일본 구주 절도사 원요준이 중을 보내어 토산물을 바치다 
태조 4년 을해(1395) 7월 11일(임인)    일본 일향주 사람이 토산물을 바치다 
태조 4년 을해(1395) 7월 16일(정미)    일본 살마주 사람이 토산물을 바치다 
태조 4년 을해(1395) 12월 16일(을사)    일본 대내전의 다다량이 토산물을 바치다 
태조 6년 정축(1397) 6월 21일(신축)    일본 구주 절도사 원요준이 사람을 보내어 토산물을 바치다 
태조 6년 정축(1397) 10월 1일(기묘)    일본 구주 절도사가 토산물을 바치다 
태조 6년 정축(1397) 11월 14일(임술)    일본 육주목 의홍이 중 영범·영확 편에 토산물을 바치다 
태조 7년 무인(1398) 7월 27일(경자)    일본 비전주 준주 태수 원경이 예물을 바치다 

정종 1년 기묘(1399) 9월 10일(정축)    이달에 일본국의 절 주지가 사람을 시켜 예물을 바치다
정종 1년 기묘(1399) 11월 1일(정묘)    일본 서해도 준주 태수 정종(貞宗)이 사람을 보내어 토산물을 바치다 
정종 2년 경진(1400) 8월 1일(계사)    일본이 사신을 보내 방물과 감자, 매화를 각각 한 분씩 바치다 

태종 1년 신사(1401) 6월 18일(을해)    일본국 비주 태수가 말과 약재를 바치다 
태종 1년 신사(1401) 9월 29일(을묘)    일본의 대마도 임시 태수 종정무 등이 말·석고·백반을 바치다 
태종 2년 임오(1402) 9월 29일(기유)    일본 살주 산성의 태수 원뇌수와 일기주 지주 원양희가 예물을 바치다 
태종 3년 계미(1403) 2월 27일(갑술)    일본 사자가 와서 토산물을 바치다 
태종 3년 계미(1403) 1월 23일(신축)    일본에서 사신 12명이 와서 토산물을 바치다 
태종 3년 계미(1403) 10월 8일(임자)    일본 사자가 잡혀 갔던 우리 나라 사람을 데리고 와서 토산물을 바치다 
태종 4년 갑신(1404) 7월 30일(기사)    일본 국왕 원도의가 사신을 보내 내빙하고 토산물을 바치다 
태종 4년 갑신(1404) 7월 17일(병진)    일본 전평전 원원규가 토물을 바치다 
태종 5년 을유(1405) 6월 29일(계사)    일본 국왕 원도의가 사신을 보내 도적을 잡은 것을 보고하고 예물을 바치다 
태종 5년 을유(1405) 6월 3일(정묘)    일본 지좌전이 중 도군 등을 보내 약재 등의 토산물을 바치다 
태종 5년 을유(1405) 5월 24일(무오)    일본에서 예물을 바치다 
태종 6년 병술(1406) 12월 21일(병오)    일본 단주 수와 비주 수가 사신을 보내 소목 등의 물품을 바치다 
태종 6년 병술(1406) 8월 6일(임진)    일본 일기주 지주 원양희가 포로 76명을 소환하고 종정무도 토산물을 바치다 
태종 6년 병술(1406) 4월 22일(임오)    일본 호자전 객인이 와서 토물을 바치다 
태종 6년 병술(1406) 4월 16일(병자)    일본 서해도 단주 태수 원영이 사신을 보내 토산물을 바치다 
태종 6년 병술(1406) 2월 27일(무자)    일본국왕이 《대장경》을 청하고, 구주 절도사가 포로와 토물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 10월 26일(병오)    일본 살마주 등원뇌구가 예물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 11월 26일(병자)    일본 대마도 수호 종정무가 예물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 5월 6일(기미)    일본 지좌전, 호자전이 예물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 7월 21일(임신)    일본국 대내 다다량 덕웅이 예물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 8월 5일(병술)    일본 전평전이 사자를 보내어 예물을 바치다 
태종 7년 정해(1407) 2월 1일(병술)    일본 살마주 태수가 사자를 보내 토산물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 2월 27일(병오)    일본 진서탐제장군 원도진이 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 6월 3일(경진)    일본의 지좌전·어주전이 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 10월 28일(임인)    일본 국왕 원도의가 좀도적을 금지시켰다고 알리고 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 4월 19일(정유)    일본 구사전이 사자를 보내어 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 7월 6일(임자)    일본의 대내전이 옥교자·병풍·약재·기명·능견 등의 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 7월 20일(병인)    일본 살마주 태수가 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 8월 21일 (병,신)    일본국 구주 절도사가 토산물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 9월 29일(갑술)    일본의 축주 태수가 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 12월 6일(기묘)    일본 구주 목 원도진이 예물을 바치다 
태종 8년 무자(1408) 1월 26일(을해)    일본의 원만직이 예물과, 불로원이라는 약 1백 개를 바치다 
태종 9년 기축(1409) 3월 6일(기유)    일본의 지좌전이 사람을 보내 예물을 바치다 
태종 9년 기축(1409) 3월 26일(기사)    일본 일기주와 비주전에서 진위하고 예물을 바치다 
태종 9년 기축(1409) 11월 8일(병자)    일본 축전주 객인이 와서 토산물을 바치다 
태종 9년 기축(1409) 9월 6일(을해)    일본 일향주 사람이 토산물을 바치다 
태종 9년 기축(1409) 윤 4월 11일(계축)    일본의 대내전 다다량덕웅이 중 주정을 보내 토산물과 관음화상을 바치다 
태종 9년 기축(1409) 3월 26일(기사)    일본 하송포의 삼하 수 융군이 예물을 바치다 

<중략>

세종 즉위년 무술(1418) 10월 14일(경인)    일본 일향주 태수가 표를 올려 신(臣)이라 칭하고 방물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 10월 29일(을사)    일본 비전주 중·일향주 태수·관서도 축전주 석성 관부가 칼·향 등을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 10월 30일(병오)    일본 관서로 구주 도원수 원도진이 방물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 11월 29일(을해)    일본 서해로 미작 태수 등이 토산물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 12월 6일(신사)    일본 대마도 종정성이 방물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 10월 13일(기축)    일본 구주 총수와 서해로 미작 태수가 방물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 8월 21일(무술)    일본 서해도 일향주 태수와 대마주 조율 산성수가 토산물을 바치다 
세종 즉위년 무술(1418) 12월 29일(갑진)    일본 축전주 태수가 소목 백반 등을 바치다
세종 1년 기해(1419) 1월 3일(무신)    일본 대마도 만호가 토산물을 바치다 
세종 1년 기해(1419) 3월 7일(신해)    일본 구주 도원수가 《대반야경》을 청구하고 토산물을 바치다 
세종 1년 기해(1419) 4월 4일(무인)    일본국 비주 태수·장주 태수·대마도 화전포 도만호가 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 윤 1월 28일(정유)    일본 구주 총관 평종수가 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 12월 2일 (병,신)    일본 방장풍삼주 도호 다다량만세가 공물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 11월 28일(임진)    일본 비주 태수 원창청이 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 11월 25일(기축)    일본국 구주 총관 원의준이 공물과 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 10월 26일(신유)    일본국 구주 절도사 원도진이 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 8월 9일(을사)    일본 전 서해도 구주 도원수가 사신을 보내어 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 1월 5일(갑진)    일본국 경도·구주 등에서 사람을 보내어 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 8월 2일(무술)    일본 서해도 비전주 평우진 준주목 원성이 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 12월 8일(임인)    일본국 구주 도원수 우무위 원도진이 토산물을 바치다 
세종 2년 경자(1420) 12월 9일(계묘)    일본국 구주 총관 원의준 등이 토산물을 바치다 
세종 3년 신축(1421) 9월 9일(기사)    일본 평만경이 조공을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 7월 5일(경신)    일본인 삼주 태수와 대마도 좌위문대랑이 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 3월 27일(갑신)    일본국 대마주의 좌위문대랑이 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 2월 26일(계축)    일본의 원의준·등원뢰·원성 등이 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 윤 12월 23일(병자)    일본 구주 총관이 사람을 보내 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 7월 23일(무인)    일본 도영·평만경·웅수·평민소조천·입도상가 등이 방물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 7월 22일(정축)    일본국 대내다다량도웅·원도진·원의준 등이 방물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 3월 26일(계미)    일본국 구주 총관 원의준이 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 3월 5일(임술)    일본의 전 구주 총관 원도진이 토산물을 바치다 
세종 4년 임인(1422) 3월 5일(임술)    일본의 원의준이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 10월 18일(을축)    일본국 구주 원의준 등이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 10월 25일(임신)    일본국 원의준·평만경 등이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 11월 24일(신축)    일본국 원도진이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 5월 19일(무술)    일본국 관서도 원준신이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 1월 12일(갑오)    일본국 축주 관사 평만경이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 12월 25일(임신)    일본 국왕의 사신 규주·범령 등 135명이 토산물을 바치다 
세종 5년 계묘(1423) 10월 15일(임술)    일본 구주 다다량덕웅·평만경 등이 토산물을 바치다 

<중략>

세조 1년 을해(1455) 10월 14일(병진)    일본국 오도 우구수 원승이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 10월 29일(신미)    일본국 상송포 구사도의 등원의영과 이세수 원문 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 11월 1일(임신)    일본국 살주 등희구·오도 우구수 원승 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 12월 9일(경술)    일본국 관제가 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 9월 20일(임진)    일본국 일기주 왜 호군 등구랑 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 8월 22일(을축)    일본국 비전주 상송포의 지좌원씨의 딸이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 8월 18일(신유)    일본국 대마주 왜 호군 정대랑이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 8월 17일(경신)    일본국 등원의영이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 12월 12일(계축)    일본국 비전주 전평우진 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 11월 27일(무술)    일본국 일기수 원고와 이세수 원문이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 11월 13일(갑신)    일본국 살주 등희구·오도 우구수 원승이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 11월 6일(정축)    일본국 오도 우구수 원승과 비전주 상송포 단후 태수 원성이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 10월 8일(경술)    일본국 관서로 축전주 냉천가무가 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 9월 29일(신축)    일본국 살주 이집원 우진 우주 태수 등희구 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 9월 2일(갑술)    일본국 살주 이집원 우진 우주 태수 등희구 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 윤 6월 16일(경신)    일본국 대마도의 종성직이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 윤 6월 21일(을축)    일본국의 원지직·상송포의 중 원우·대마주의 종성직이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 윤 6월 29일(계유)    일본국 상송포 파다도의 원납 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 7월 3일(병자)    일본국 대마주의 종성직·종성가가 각각 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 7월 21일(갑오)    일본국 원고·원영과 대마주 종성직·종성홍·종호웅와가 각각 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 7월 30일(계묘)    일본국 석견주의 등원·주포화겸이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 12월 15일(병진)    일본국 오도 우구수 원승이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 7월 1일(갑술)    일본국 비전주 종상군 지수 종상조신씨정 등이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 8월 3일(병오)    일본국 오도 우구수 원승·비전주 단후 태수 원성이 토산물을 바치다 
세조 1년 을해(1455) 7월 11일(갑신)    일본국 등원조신교뢰 등이 토산물을 바치다 
세조 2년 병자(1456) 7월 28일(을미)    일본국 비전주의 진궁 병부 소보 원영이 사자를 보내 토물을 바치다 
세조 2년 병자(1456) 6월 26일(갑자)    일본국 대마주 종성직이 사람을 보내와 토물을 바치다 
세조 2년 병자(1456) 6월 2일(경자)    일본국에서 사람이 와서 토물을 바치다 
세조 2년 병자(1456) 5월 24일(임진)    일본에서 사람이 와서 토물을 바치다 
세조 2년 병자(1456) 4월 22일(신유)    일본국 대마주 호군 정대랑의 아들 사정 정가문수계 등이 토산물을 바치다

<중략>

성종 즉위년 기축(1469) 12월 8일(정사)    일본국 구주 도원수 원교직이 사람을 보내와 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 1월 25일(갑진)    일본국 대마주의 종정국·종정수와 인위군의 종성가와 종성직이 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 4월 5일(계축)    일본국 축전주 종상군 지수 씨향이 사람을 보내와 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 6월 21일(무진)    일본국의 원승·종언팔랑무세·등희구·종정국 등이 사람을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 19일(을미)    일본국의 종정국·종성가·종성홍·원만·등씨의 어미가 사람을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 27일(계묘)    일본국 석견주의 등원주포좌근장감화겸과 귀해지국의 교공이 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 8월 24일(기사)    일본 국왕이 보낸 입도 등이 와서 서계와 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 10월 24일(무진)    일본국 관서도 구주 도원수 원교직이 사람을 보내 와서 토의를 바치다 
성종 1년 경인(1470) 12월 18일(신유)    일본국과 올적합 등에서 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 12월 27일(경오)    일본국 대마주 태수 종정국 등이 사람을 보내어 와서 토의를 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 13일(기축)    일본국 주방주 산구 소사 대삼하수 원홍안이 사람을 보내와 토산물을 바치다
성종 1년 경인(1470) 3월 12일(신묘)    일본국 일기주 수호 대관 진궁 병부 소보 원무가 사람을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 6월 23일(경오)    일본국의 종정국·종성가·종성홍·종조육성준 등이 사람을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 6일(임오)    일본국의 종정국·종성홍·종무차·원승·원중실 등이 사람을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 12월 8일(신해)    일본국 대마주 태수 종정국 등이 사람을 보내 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 11월 1일(을해)    일본국 구주 시소의 종언팔랑무세 등이 사람을 보내 와서 토의를 바치다 
성종 1년 경인(1470) 10월 8일(임자)    일본국 풍주 태수 대우팔랑사능 등이 사람을 보내 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 9월 28일(계묘)    일본국에서 사람을 보내 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 9월 19일(갑오)    일본국에서 서계와 함께 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 8월 28일(계유)    일본국 세천 좌오두 지현이 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 8월 25일(경오)    일본국에서 사람을 보내 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 8월 23일(무진)    일본국에서 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 8월 7일(임자)    일본국 여러 태수들이 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 19일(을미)    일본국 경성 관령 전산전 좌경 대부 원의승이 중 향양을 보내 토산물을 바치다 
성종 1년 경인(1470) 7월 12일(무자)    일본국 종정국·종정수·종성홍·종성가·원덕 등이 사람을 보내와 토산물을 바치다 성종 2년 신묘(1471) 2월 28일(신미)    일본국 대마주 태수 종정국 등이 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 
성종 2년 신묘(1471) 5월 22일(갑오)    일본국 비전주 원덕이 사람을 보내 와서 토산물을 바치다 
성종 2년 신묘(1471) 6월 11일(임자)    일본국 장문주 적간관진수 충수가 사람을 보내 와서 토의를 바치다 
성종 2년 신묘(1471) 6월 27일(무진)    일본국에서 사람을 보내어 와서 토산물을 바치다 

 

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<너무 많아서 이하 생략한다>

大조선에 숨쉬듯 조공할 수 있는 倭



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