食べ物

 

去年の12月の初めに、関西(kansai)area(東京areaに次ぐ、日本第2の人口を有する大都市圏)の3大都市で有る、大阪、京都、神戸(kobe)を、4泊5日で、旅行して来た時の物です。関西(kansai)areaの3大都市、大阪、京都、神戸(kobe)は、東京から遠い順(東から西に)、京都(東京から480km程)、大阪(京都から40kmから50km程)、神戸(kobe)(大阪から30km程)となっています。大阪、京都、神戸(kobe)は、それぞれ個性の異なる都市です。

 

以下、関西(kansai)旅行&食事8からの続き。。。

 

旅行4日目、途中、神戸(kobe)の西の郊外の須磨(suma)に寄って、貿易商の古い西洋式の邸宅を改装した、フランス料理レストランで、遅い朝食兼昼食を取った後、姫路(himeji)城(castle)を観る為に、姫路(himeji)城(castle)の有る姫路(himeji)に向かいました。

 

姫路(himeji)は、関西(kansai)大都市圏の西部を占める兵庫(hyogo)県(中心都市は、神戸(kobe))の西部に位置する都市で、関西(kansai)大都市圏の西端辺りのareaに位置しています。中都市と大都市の中間位の人口を有する都市で、兵庫(hyogo)県で、神戸(kobe)(人口約150万人)に次ぐ、第2の人口を有する都市(人口約50万人)となっており、神戸(kobe)、明石(akashi)(下の補足説明参照)と供に、関西(kansai)area西部の主要都市となっています。神戸(kobe)近郊とは、言えなくは無いですが、神戸(kobe)の都心部から西に約60km離れており、神戸(kobe)から比較的独立した経済圏を有しています。もっとも、姫路(himeji)の中心部に位置する姫路(himeji)城(castle)へは、神戸(kobe)の都心部から半日(少し、ゆったり観たい場合は、半日強)有れば、行って観光して帰って来る事が出来ますし、大阪の都心部からも、日帰りで十分、行って観光して帰って来る事が出来ます。

明石(akashi):神戸(kobe)と姫路(himeji)の間に有る(明石(akashi)から見て、神戸(kobe)は、東に20km強、姫路(himeji)は、西に40km弱)、海沿いの中都市(人口約30万人)。蛸が名物で、明石(akashi)の蛸は、美味で、日本全国的に有名です。また、明石(akashi)の名物(郷土料理)で有る明石(akashi)焼き(蛸焼き(takoyaki)に似た食べ物。蛸焼き(takoyaki)の元となった食べ物と言われている。wikiより)も、有名で、メジャー(major)性においては、蛸焼き(takoyaki)に劣るものの、今では、明石(akashi)焼きは、明石(akashi)のみならず、(明石(akashi)が含まれる)兵庫(hyogo)県の南部から、大阪都市圏(特に大阪の中心部)にかけての、広い範囲の名物料理となっています。また、周辺には(明石(akashi)海峡大橋の本州(honsyu)側の起点は、神戸(kobe)市の西端辺り)、本州(honsyu。東京大都市圏や関西(kansai)大都市圏の有る日本最大の島。面積は、朝鮮半島(韓国と北朝鮮を合わせた面積)よりも、少し大きく、イギリス(United Kingdom)の国土よりも、少し小さい位)から淡路(awaji)島(下の補足説明参照)を経て、四国(shikoku。日本で4番目に大きな島。面積は、韓国の江原道(Gangwon-do)よりも、少し大きく、慶尚北道(Gyeongsangbuk-do)よりも少し小さい位、オランダ、スイスの半分弱位)へ至る道路の一部で有る、明石(akashi)海峡大橋(本州(honsyu)と淡路島(awajishima)を結ぶ橋で、世界最長の吊り橋(suspension bridge)。1998年に完成。二つの主塔の高さは、海面から、300m近い高さが有り、70階建て位のビル高さに相当。あまりの大きさから橋自体が観光名所となっている)が有ります。
淡路(awaji)島:兵庫(hyogo)県に属する島。面積は、シンガポール(Singapore)よりも、ほんの少し小さく、ソウル特別市と、だいたい同じ位。済州島の約3分の1、江華島(Ganghwa Island)の約2倍、永宗島(Yeongjong Island)の約9倍の大きさの島。数多くのビーチ(beach)等、関西(kansai)areaに暮らす人々にとっての、主要なリゾート(resort)地の一つとなっている。

 

封建制時代には、日本全国には、たくさんの地方領主の城(castle)が有りました。しかしながら、明治(meiji)時代(1868年から1912年)に入ると、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す、新中央政府にとっては、(無駄に多い、維持費のかかる、前近代的な建物が、広大な敷地内に建っている、)封建時代の象徴的な建物で有る、城(castle)は、必要の無い物(無用の長物)となります。これによって、政府の方針により、19世紀末に、日本全国の、多くの城(castle)の、ほとんどの建物が取り壊され、かつての地方領主達の城(castle)の広大な敷地は、他の用途の土地に転用されました(もっとも、地方領主としての地位を失うと供に、封建制時代の城(castle)と庭園を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました)。その様な日本の歴史が有る中で、姫路(himeji)の中心部に有る姫路(himeji)城(castle)は、現在の日本において、天守閣(tensyukaku)を有する封建制時代(18世紀半ば以前)の城(castle)が、建物を含めて、もっとも良く残されている例となっています。この事から、姫路(himeji)城(castle)は、関西(kansai)areaのみならず、日本を代表する観光名所の一つとなっていて(姫路(himeji)城は、1931年に国宝に指定されました)、日本国内外の、多くの観光客が、姫路(himeji)城(castle)を見に、姫路(himeji)を訪れます。

 

姫路(himeji)城(castle)は、姫路(himeji)を統治していた地方領主の城(castle)で、歴史は、1346年まで遡りますが、現在に至る最終型に整備されたのは、17世紀初めの事です。

 

 

17世紀初めに、現在に至る最終型に整備された姫路(himeji)城(castle)の鳥瞰図(17世紀から19世紀初めに描かれた物?)。姫路(himeji)城(castle)は、現在の日本において、天守閣(tensyukaku)を有する封建制時代(18世紀半ば以前)の城(castle)が、建物を含めて、もっとも良く残されている例とは言え、姫路(himeji)城(castle)の敷地内の建物の数多くが、やはり19世紀末に、取り壊されてしまいました。したがって、現存している姫路(himeji)城(castle)の建物は、この鳥瞰図に描かれている建物の内の、極一部(主に城(castle)の中核部分)に過ぎません。もっとも、約70,000坪(tsubo)の城(castle)の敷地に関しては、特に縮小される様な事は無く、現在まで、残されていると思います。

 

姫路(himeji)城(castle)は、姫路(himeji)城(castle)の周辺を掘(moat)と石垣(stone wall)等で囲い、その中に、地方領主に仕える侍(samurai)、商人、職人等を住まわせた城郭都市を形成していました。これは、17世紀から18世紀頃の?、姫路(himeji)城(castle)の城郭都市の再現模型です(写真右上に有るのが姫路(himeji)城(castle))。城郭都市を含む姫路(himeji)城(castle)の面積は、約700,000坪有りました。姫路(himeji)城(castle)部分(約70,000坪)は、現在も残されていますが、姫路(himeji)城(castle)以外の城郭都市部分は、現在は、現代的なビルや住宅が建ち並ぶ、姫路(himeji)の市街地の一部となっており、かつての面影は、ほとんど残っていません。姫路(himeji)城(castle)は、奇跡的に空襲の被害を免れたものの(下の補足説明参照)、姫路(himeji)は、日本の他の多くの、大都市・主要近郊都市・主要地方都市同様、第2次世界大戦末期のアメリカ軍の空襲により、大きな被害を受けました。尚、現在、(姫路(himeji)は)、かなりの人口を有する都市に発展したものの、姫路(himeji)には、姫路(himeji)城(castle)の景観を著しく妨げる程の高層ビルや高層マンション(アパート)の建物は無く(もしかしたら、景観に配慮した建築規制が有るのかもしれません)、姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)(城(castle)を象徴する建物)は、現在でも、姫路(himeji)を象徴する建物となっています。

第2次世界大戦末期の空襲の被害を奇跡的に免れた姫路(himeji)城(castle):1945年7月3日の姫路(himeji)空襲で、姫路(himeji)は、壊滅的な被害を受けた。姫路(himeji)城(castle)内にも着弾するが、城(castle)の敷地内に有った中学校(1939年設立)の校舎のみが焼失しただけで、城(castle)の西部に着弾した2発は不発あるいは、すぐに消火された。また天守閣(tensyukaku)にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったこと等により、城(castle)の建物の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路(himeji)城(castle)を見て、姫路(himeji)の人々は涙を流したと言う。姫路(himeji)城(castle)は、貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言う俗説があるが、日本の他の都市やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、その様な考えは無かったとするのが一般的である。また、当時のB-29搭乗員は「レーダー(radar)から見れば城(castle)も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と回顧している。(wikiより)。


姫路(himeji)城(castle)の建物の老朽化に伴い、1934年から1964年にかけて(1944年に、第2次世界大戦の激化に伴い修理は、一度中断。1950年に再開)、姫路(himeji)城(castle)の建物の大規模な修理が行われました(wikiより)。前回の大修理から、約45年が経ち、漆喰(shikkui。下の補足説明参照)等の劣化が進んだため、建物の漆喰(shikkui)の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が、2009年10月から2014年にかけて行われる事となりました。

漆喰(shikkui):建築材料として用いられる白色の天然素材です(wikiより)。古くから、日本の伝統建築等に用いられて来ました。建築材料としては、かなり古くから用いられてきたものであり、原始的な漆喰(ほぼ石灰)は古墳(高松塚古墳壁画等)等にも使われています(wikiより)。

 

写真以下85枚。姫路(himeji)城(castle)。姫路(himeji)城(castle)を訪れたのは、あまり、よく憶えていない子供の頃を含めて、今回で3回目です。次回、完全な形で、姫路(himeji)城(castle)の建物を見る事が出来る時(補修工事が全て完了する時)には、私も結構な年(40代突入間近)となっているのでw、今を逃してはいけないと思い、今回、姫路(himeji)城(castle)の姿を目に焼き付けて来ました。

鉄道の姫路(himeji)駅から、姫路(himeji)城(castle)に向けて、真っ直ぐに伸びる、約1kmの大手前(ootemae)通りは、姫路(himeji)の中心的な通りとなっています。姫路(himeji)駅を出ると、遠くに(大手前(ootemae)通りの先に)、姫路(himeji)城(castle)の、天守閣(tensyukaku)(城(castle)を象徴する建物)を見る事が出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真真ん中の建物が、姫路(himeji)城(castle)の、天守閣(tensyukaku)(城(castle)を象徴する建物)です。現在の天守閣(tensyukaku)の建物は、17世紀初めに、当時、姫路(himeji)を統治していた、地方領主、池田 輝政(ikeda terumasa)が、先代の姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の建物(1580年に建てられた)を解体し、新たに建てた物です。天守閣(tensyukaku)を含む、現在の姫路(himeji)城(castle)の建物の、ほとんどは、17世紀初期に建てられた物です。

 

姫路(himeji)城(castle)は、現在の日本において、天守閣(tensyukaku)を有する封建制時代(18世紀半ば以前)の城(castle)が、建物を含めて、もっとも良く残されている例とは言え、姫路(himeji)城(castle)の敷地内の建物の数多くが、やはり19世紀末に、取り壊されてしまいました。したがって、残されている姫路(himeji)城(castle)の建物は、極一部(天守閣(tensyukaku)を含む、主に城(castle)の中核部分)に過ぎません。

 

 

 

この時は、紅葉時期でしたが、桜の花の時期の、桜の花と姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の組み合わせの風景は、富士山の風景等と供に、日本を象徴する風景として、よく、その写真が、絵葉書、カレンダー(calendar)、観光用の宣伝ポスター(poster)等に使われます。

 

enjoy時代、姫路(himeji)城(castle)の建物の白い壁を見て、姫路(himeji)城(castle)の建物は、近現代において、コンクリート(concrete)によって再建された物だと主張する韓国人が、たまに見られましたが、コンクリート(concrete)の様に見えるのは漆喰(shikkui)と言う、古くから、日本の伝統建築等に用いられて来た、建築材料として用いられる白色の天然素材です。他の現存する、封建制時代(18世紀半ば以前)に建てられた、日本の城(castle)の建物についても同様。。。。

 

 

 

 

 

 

今年の桜の花の時期までは、姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の外観は、見られる様ですが、その後、徐々に、姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の補修工事用建物が建てられる予定で有り、今年の9月の下旬には、姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の外観は、ほとんど見えなくなる事が予想されています。天守閣(tensyukaku)の補修工事は、補修工事用建物で、天守閣(tensyukaku)を、すっぽり覆う形で、行われる様です。もっとも、補修工事用建物の中に、観光客も入れ、天守閣(tensyukaku)の補修工事の様子も、一般観光客に公開する予定でいる様です(詳しくは、姫路(himeji)城(castle)の公式hpを、ご覧下さい→http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下4枚。間近で見る、姫路(himeji)城(castle)の天守閣(tensyukaku)。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天守閣(tensyukaku)の内部に有る鉄砲(古い物か再現された物か、ちょっと分かりません)。天守閣(tensyukaku)は、基本的に、地方領主の権力を見せつける為の城(castle)の象徴たる建物、又、戦争時に、敵軍が、城(castle)の周囲を取り囲んだ際に、地方領主が、立てこもって、軍の指揮を取る為の建物であって、通常、地方領主は、普段は、居住用に建てられた、城(castle)の敷地内の別の建物に暮らしていました。尚、姫路(himeji)城(castle)の、地方領主が、普段暮らしていた建物は、19世紀末に取り壊されて、現存していません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。まだ、始まったばかりでしたが、既に、姫路(himeji)城(castle)の建物の補修作業は、始まっていて、既に、姫路(himeji)城(castle)の建物の壁の一部は、漆喰(shikkui)の塗り替えが完了している感じでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。姫路(himeji)城(castle)を観光した後、姫路(himeji)から大阪に向かう前に、姫路(himeji)駅の地下のショピングモール(shopping mall)の、フードコート(food court)にて。。。

 

明石(akashi)焼きは、蛸焼き(takoyaki)に似た食べ物ですが、蛸焼き(takoyaki)に比べて玉子の比率が多い事、具が基本的に蛸だけで有る事、お吸い物に似た出汁に浸して食べる点等が、蛸焼き(takoyaki)と異なります(wikiを参考にしました)。元々、明石(akashi)(この投稿文、初めの方の説明、参照)の郷土料理でしたが、今では、明石(akashi)のみならず、(明石(akashi)が含まれる)兵庫(hyogo)県の南部から、大阪都市圏(特に大阪の中心部)にかけての、広い範囲の名物料理となっています。私も、彼女も、明石(akashi)焼きは、好きな食べ物です(彼女の方が、私よりも、より明石(akashi)焼きが好き)。

 

写真以下2枚。姫路(himeji)駅の地下のショピングモール(shopping mall)の、フードコート(food court)にて食べた明石(akashi)焼き風蛸焼き(takoyaki)。現地の人は、微妙な違いが分かるのかもしれませんが、正直、私達は、明石(akashi)焼きとの違いが分かりませんでした(ただ、私達の周りで食べていた現地の人達は、テーブル(table)に置いて有った、ソース(sauce)を付けて、蛸焼き(takoyaki)式に食べ、出汁の方は、スープ(soup)として、そのまま飲んでいる様な感じでした。私達は、これを真似ずに、出汁に浸して、明石(akashi)焼き式で食べました)。美味しかったです。

 

当初、この日(旅行4日目)の夕食は、大阪で食べる予定で有り、このフードコート(food court)では、明石(akashi)焼き風蛸焼き(takoyaki)を、二人で、1個頼んで、軽い間食(snack)として食べるつもりだったのですが。。。


 

美味しかったので、もう1個、追加注文。。。


終に、胃袋にエンジン(engine)かかってしまいw、ここで(このフードコート(food court)で)夕食を済ます事に。。。w天丼(天麩羅丼)を食べました。

 

写真は、私が食べた天丼(天麩羅丼)。さすが関西(kansai)らしく、値段に比べた満足度が高かった様な記憶が有ります。

 

関西(kansai)旅行&食事10へ続く。。。このSeries、次回からは、大阪編です。だらだらと続けてきた、関西(kansai)旅行Series、残す所、あと、2回と言った感じかな。。。

 

以下は、雑多な、おまけ。。。

 

東京近郊にある、鎌倉(kamakura)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。私は、鎌倉(kamakura)が好きで、よく散歩します。

 

鎌倉(kamakura)に有る、鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)(1063年創建)は、鎌倉(kamakura)の武士(侍)の守護神として建てられた規模の大きな神社(shrine)で、鎌倉(kamakura)の主要な観光名所の一つとなっています。

 

今月の10日の早朝、樹齢、およそ1000年と推定されている、長い間、人々に親しまれて来た、鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)の大きな銀杏の木が、強風により、根元付近から、折れて倒れてしまいました。現在、再生の為の作業が始まっている様です。もちろん、完全に元の通りに戻るのは無理でしょうが、少しでも、元気に再生する事を祈っています。

 

写真以下4枚。私が前に撮影し、enjoyにアップ(upload)した鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)の写真。

 

向こうに見える大きな銀杏の木(黄色く紅葉している木)が、今月の10日に倒れてしまった、銀杏の木の在りし日の姿。

 

この時、調度、結婚式が行われていました。日本では、神社(shrine)で結婚式を行うカップル(couple)が結構多いです(近年、神社(shrine)での結婚式は、さらに,ちょっとした流行になっている)。

 

倒れてしまった、銀杏の木の在りし日の姿。

 

鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)から、海の方角を眺める。鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)の正面から、海の方にまっすぐ伸びる、大きな通り、若宮大路(wakamiyaooji)(鎌倉(kamakura)の中心的な通り)を、自動車でまっすぐに進むと、海に突き当り、海の景色が、大きく広がります。写真右側が、倒れてしまった、銀杏の木の在りし日の姿(階段の上から撮った写真なので、木の上部しか見えていませんが。。。)。

 

写真以下2枚。私の長野(nagano)県の別荘(別荘とは言っても、庶民的な中古の一戸建て住宅ですが)の地元の陶芸作家が、東京の西の郊外(立川)で作品の展示会を開く様です。私は、この陶芸作家の作風が、結構好きです。

 

 

 

展示会の会場の近くに、お住まいの方、気が向かれたら、覗いて見て下さい。何て、適当に勧めといて、私は、今の所、行くつもりは無いですけどw。

 

写真以下3枚(以前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用)。東京の我が家のインテリア(interior)。この陶芸作家の作品です。

 

 

 

 

 

ちょっと写真が斜めになってしまいました。

 

 

 

折り込みチラシ。新宿の京王デパートで現在開催中の、九州展の広告から。。。鹿児島(kagoshima)焼酎50本セット(各1.8リットル)。94,500円。限定5セット。抽選。応募期間は、今日まで。。。どなたか、いかがですかw?


折り込みチラシ。新宿の伊勢丹デパート本店の広告から。。。写真右上、同デパートで、期間限定販売中の、蒸匠の竹炭ロールケーキ。。。ちょっと気になっています。


칸사이(kansai) 여행&식사 9

 

작년의 12 월초에, 칸사이(kansai) area(도쿄 area에 뒤잇는, 일본 제 2의 인구를 가지는 대도시권)의 3 대도시에서 있는, 오사카, 쿄토, 코베(kobe)를, 4박 5일로, 여행해 왔을 때의 물건입니다.칸사이(kansai) area의 3 대도시, 오사카, 쿄토, 코베(kobe)는, 도쿄에서 먼 순서(동쪽에서 서쪽으로), 쿄토(도쿄로부터 480 km 정도), 오사카(쿄토로부터 40 km에서 50 km 정도), 코베(kobe)(오사카로부터 30 km 정도)가 되고 있습니다.오사카, 쿄토, 코베(kobe)는, 각각 개성이 다른 도시입니다.

 

이하, 칸사이(kansai) 여행&식사 8으로부터의 계속...

 

여행 4일째, 도중 , 코베(kobe)의 서쪽의 교외의 스마(suma)에 들르고, 무역상의 낡은 서양식의 저택을 개장한, 프랑스 요리 레스토랑에서, 늦은 아침 식사겸 점심 식사를 배달시킨 후, 히메지(himeji) 성(castle)을 보기 위해, 히메지(himeji) 성(castle)이 있는 히메지(himeji)로 향했습니다.

 

히메지(himeji)는, 칸사이(kansai) 대도시권의 서부를 차지하는 효고(hyogo) 현(중심 도시는, 코베(kobe))의 서부에 위치하는 도시에서, 칸사이(kansai) 대도시권의 니시하타 근처의 area에 위치하고 있습니다.안도시와 대도시의 중간위의 인구를 가지는 도시에서, 효고(hyogo) 현에서, 코베(kobe)(인구 약 150만명)에 뒤잇는, 제2의 인구를 가지는 도시(인구 약 50만명)가 되고 있어 코베(kobe), 아카시(akashi)(아래의 보충 설명 참조)와 보조자에, 칸사이(kansai) area 서부의 주요 도시가 되고 있습니다.코베(kobe) 근교란, 말할 수 없지는 않습니다만, 코베(kobe)의 도심부에서 서쪽으로 약 60 km 떨어져 있어 코베(kobe)로부터 비교적 독립한 경제권을 가지고 있습니다.무엇보다, 히메지(himeji)의 중심부에 위치하는 히메지(himeji) 성(castle)에는, 코베(kobe)의 도심부로부터 반나절(조금, 하거나 보고 싶은 경우는, 반나절강) 있으면, 가서 관광해 돌아올 수가 있고, 오사카의 도심부로부터도, 당일치기로 충분히, 가서 관광해 돌아올 수가 있습니다.

아카시(akashi):코베(kobe)와 히메지(himeji)의 사이에 있는(아카시(akashi)로부터 보고, 코베(kobe)는, 동쪽으로 20 km강, 히메지(himeji)는, 서쪽으로 40 km 미만), 해안안도시(인구 약 30만명).낙지가 명물로, 아카시(akashi)의 낙지는, 맛있고, 일본 전국적으로 유명합니다.또, 아카시(akashi)의 명물(향토 요리)로 있는 아카시(akashi) 구이(낙지구이(takoyaki)를 닮은 음식.낙지구이(takoyaki)의 원이 된 음식이라고 말해진다.wiki보다)도, 유명하고, 메이저(major) 성에 대해서는, 낙지구이(takoyaki)에 뒤떨어지지만, 지금은, 아카시(akashi) 구이는, 아카시(akashi) 뿐만 아니라, (아카시(akashi)가 포함된다) 효고(hyogo) 현의 남부로부터, 오사카 도시권(특히 오사카의 중심부)에 걸친, 넓은 범위의 명물 요리가 되고 있습니다.또, 주변에는(아카시(akashi) 해협 오오하시의 혼슈(honsyu) 측의 기점은, 코베(kobe) 시의 니시하타 근처), 혼슈(honsyu.도쿄 대도시권이나 칸사이(kansai) 대도시권이 있는 일본 최대의 섬.면적은, 한반도(한국과 북한을 맞춘 면적)보다, 조금 크고, 영국(UnitedKingdom)의 국토보다, 조금 작은 정도)로부터 아와지(awaji) 섬(아래의 보충 설명 참조)을 거치고, 시코쿠(shikoku.일본에서 4번째로 큰 섬.면적은, 한국의 강원도(Gangwon-do)보다, 조금 크고, 경상북도(Gyeongsangbuk-do)보다 조금 작은 정도, 네델란드, 스위스의 반약위)에 도달하는 도로의 일부에서 있는, 아카시(akashi) 해협 오오하시(혼슈(honsyu)와 아와지섬(awajishima)을 연결하는 다리에서, 세계 최장의 조교(suspension bridge).1998년에 완성.두 개의 주탑의 높이는, 해면으로부터, 300 m 가까운 높이가 있어, 70층건물정도의 빌딩 높이에 상당.지나친 크기로부터 다리 자체가 관광 명소가 되고 있다)가 있습니다.
아와지(awaji) 섬:효고(hyogo) 현에 속하는 섬.면적은, 싱가폴(Singapore)보다, 아주 조금 작고, 서울 특별시와 대체로 같은 정도.제주도의 약 3분의 1, 강화도(Ganghwa Island)의 약 2배, 영종도(Yeongjong Island)의 약 9배의 크기의 섬.수많은 비치(beach) 등 , 칸사이(kansai) area에 사는 사람들에게 있어서의, 주요한 리조트(resort) 지의 하나가 되고 있다.

 

봉건제 시대에는, 일본 전국에는, 많은 지방 영주 성(castle)이 있었습니다.그렇지만, 메이지(meiji) 시대(1868년부터 1912년)에 들어가면, 가능한 한 효율 좋게, 신속히, 일본을 근대적인 국가로 하는 일을 목표로 하는, 신중앙정부에 있어서는, (쓸데 없게 많은, 유지비가 걸리는, 전근대적인 건물이, 광대한 부지내에 세워지고 있는, ) 봉건 시대의 상징적인 건물에서 있는, 성(castle)은, 필요가 없는 것(쓸데없는 장물)이 됩니다.이것에 의해서, 정부의 방침에 의해, 19 세기말에, 일본 전국의, 많은 성(castle)의, 대부분의 건물이 해체되어 한 때의 지방 영주들 성(castle)의 광대한 부지는, 다른 용도의 토지에 전용되었던(가장, 지방 영주로서의 지위를 잃으면 보조자에, 봉건제 시대의 성(castle)과 정원을 잃었지만, 많은 지방 영주들은, 귀족계급에 집어 넣을 수 있어 근대사회(19 세기말로부터 제2차 세계대전 후, 이윽고까지)에 대해도, 일본의 상류계급으로서의 지위와 부는, 유지했습니다).그 같은 일본의 역사가 있는 가운데, 히메지(himeji)의 중심부에 있는 히메지(himeji) 성(castle)은, 현재의 일본에 있고, 아성의 망루(tensyukaku)를 가지는 봉건제 시대(18 세기 중반이전)의 성(castle)이, 건물을 포함하고, 가장 잘 남아 있는 예가 되고 있습니다.이 일로부터, 히메지(himeji) 성(castle)은, 칸사이(kansai) area 뿐만 아니라, 일본을 대표하는 관광 명소의 하나가 되고 있어(히메지(himeji) 성은, 1931년에 국보로 지정되었습니다), 일본 내외의, 많은 관광객이, 히메지(himeji) 성(castle)을 봐에, 히메지(himeji)를 방문합니다.

 

히메지(himeji) 성(castle)은, 히메지(himeji)를 통치하고 있던 지방 영주 성(castle)에서, 역사는, 1346년까지 거슬러 올라갑니다만, 현재에 이르는 최종형에 정비된 것은, 17 세기 처음의 일입니다.

 

 

17 세기 처음에, 현재에 이르는 최종형에 정비된 히메지(himeji) 성(castle)의 조감도(17 세기부터 19 세기 처음에 그려진 것?).히메지(himeji) 성(castle)은, 현재의 일본에 있고, 아성의 망루(tensyukaku)를 가지는 봉건제 시대(18 세기 중반 이전)의 성(castle)이, 건물을 포함하고, 가장 잘 남아 있는 예라고는 해도 히메지(himeji) 성(castle)의 부지내의 건물의 많이가, 역시 19 세기말에, 해체되어 버렸습니다.따라서, 현존 하고 있는 히메지(himeji) 성(castle)의 건물은, 이 조감도에 그려져 있는 건물 중의, 극히 일부(주로 성(castle)의 핵심 부분)에 지나지 않습니다.무엇보다, 약 70,000평(tsubo)의 성(castle)의 부지에 관해서는, 특히 축소되는 것 같은 일은 없고, 현재까지, 남아 있다고 생각합니다.

 

히메지(himeji) 성(castle)은, 히메지(himeji) 성(castle)의 주변을 굴(moat)과 돌담(stone wall) 등에서 둘러싸, 그 중에, 지방 영주를 시중드는 사무라이(samurai), 아킨도, 쇼쿠닌등을 사게 한 성곽도시를 형성하고 있었습니다.이것은, 17 세기부터 18 세기무렵의?, 히메지(himeji) 성(castle)의 성곽도시의 재현 모형입니다(사진 우상에 있는 것이 히메지(himeji) 성(castle)).성곽도시를 포함한 히메지(himeji) 성(castle)의 면적은, 약 700,000평 있었습니다.히메지(himeji) 성(castle) 부분( 약 70000평)은, 현재도 남아 있습니다만, 히메지(himeji) 성(castle) 이외의 성곽도시 부분은, 현재는, 현대적인 빌딩이나 주택이 늘어서는, 히메지(himeji)의 시가지의 일부가 되고 있어 한 때의 모습은, 거의 남아 있지 않습니다.히메지(himeji) 성(castle)은, 기적적으로 공습의 피해를 면했지만(아래의 보충 설명 참조), 히메지(himeji)는, 일본의 다른 많은, 대도시·주요 근교 도시·주요 지방도시 같이, 제2차 세계대전 말기의 미군의 공습에 의해, 큰 피해를 받았습니다.상, 현재, (히메지(himeji)는), 상당한 인구를 가지는 도시로 발전했지만, 히메지(himeji)에는, 히메지(himeji) 성(castle)의 경관을 현저하게 방해할 정도의 고층빌딩이나 고층 맨션(아파트)의 건물은 없고(혹시, 경관에 배려한 건축 규제가 있는지도 모릅니다), 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku)(성(castle)을 상징하는 건물)은, 현재에도, 히메지(himeji)를 상징하는 건물이 되고 있습니다.

제2차 세계대전 말기의 공습의 피해를 기적적으로 면한 히메지(himeji) 성(castle):1945년 7월 3일의 히메지(himeji) 공습으로, 히메지(himeji)는, 괴멸적인 피해를 받았다.히메지(himeji) 성(castle) 내에도 착탄 하지만, 성(castle)의 부지내에 있던 중학교(1939년 설립)의 교사만이 소실한 것만으로, 성(castle)의 서부에 착탄 한 2발은 불발 혹은, 곧바로 소화되었다.또 아성의 망루(tensyukaku)에도 소이탄이 직격했지만, 불발인 것 등에 의해, 성(castle)의 건물의 소실은 면했다.이튿날 아침, 초토안에 무사하게 세워지는 히메지(himeji) 성(castle)을 보고, 히메지(himeji)의 사람들은 눈물을 흘렸다고 한다.히메지(himeji) 성(castle)은, 귀중한 문화재이므로 폭격 대상과는 되지 않았다고 말하는 속설이 있지만, 일본의 다른 도시나 독일에 있어서의 무차별 폭격에서는 역사적 건조물도 가차 없이 파괴된 것으로부터, 그 같은 생각은 없었다고 하는 것이 일반적이다.또, 당시의 B-29 탑승원은 「레이더(radar)로부터 보면 성(castle)도 빛나는 점의 하나이며, 그것을 역사적 건조물이라고 인식하는 것은 어렵다」라고 회고 하고 있다.(wiki보다).


히메지(himeji) 성(castle)의 건물의 노후화에 수반해, 1934년부터 1964년에 걸쳐(1944년에, 제2차 세계대전의 격화에 수반해 수리는, 한 번 중단.1950년에 재개), 히메지(himeji) 성(castle)의 건물의 대규모 수리를 했습니다(wiki보다).전회의 대수리로부터, 약 45년이 지나, 회반죽(shikkui.아래의 보충 설명 참조) 등의 열화가 진행되었기 때문에, 건물의 회반죽(shikkui)이 바꿔발라·기와의 즙 나무 바꾸어·내진 보강을 중점으로 한 보수 공사가, 2009년 10월부터 2014년에 걸쳐 행해지는 일이 되었습니다.

회반죽(shikkui):건축재료로서 이용되는 백색의 천연 소재입니다(wiki보다).옛부터, 일본의 전통 건축등에 이용되어 왔습니다.건축재료로서는, 꽤 옛부터 이용되어 온 것이어, 원시적인 회반죽(거의 석회)은 고분(다카마츠즈카 고분 벽화등 ) 등에도 사용되고 있습니다(wiki보다).

 

사진 이하 85매.히메지(himeji) 성(castle).히메지(himeji) 성(castle)을 방문한 것은, 너무, 잘 기억하지 않은 어릴 적을 포함하고, 이번에 3번째입니다.다음 번, 완전한 형태로, 히메지(himeji) 성(castle)의 건물을 볼 수가 있을 때(보수 공사가 모두 완료할 때)에는, 나도 좋은 해(40대 돌입 가까이)가 되고 있으므로 w, 지금을 놓쳐선 안 된다고 생각해, 이번, 히메지(himeji) 성(castle)의 모습을 눈에 새겨 왔습니다.

철도의 히메지(himeji) 역으로부터, 히메지(himeji) 성(castle)을 향해서, 곧게 성장하는, 약 1 km의 오테마에(ootemae) 거리는, 히메지(himeji)의 중심적인 대로가 되고 있습니다.히메지(himeji) 역을 나오면, 멀리(오테마에(ootemae) 그대로의 끝에), 히메지(himeji) 성(castle)의, 아성의 망루(tensyukaku)(성(castle)을 상징하는 건물)을 볼 수가 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 한가운데의 건물이, 히메지(himeji) 성(castle)의, 아성의 망루(tensyukaku)(성(castle)을 상징하는 건물)입니다.현재의 아성의 망루(tensyukaku)의 건물은, 17 세기 처음에, 당시 , 히메지(himeji)를 통치하고 있던, 지방 영주, 이케다 아키라정(ikeda terumasa)이, 선대의 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku)의 건물(1580년에 지어졌다)을 해체해, 새롭게 세운 것입니다.아성의 망루(tensyukaku)를 포함한, 현재의 히메지(himeji) 성(castle)의 건물의, 대부분은, 17 세기 초기에 지어진 것입니다.

 

히메지(himeji) 성(castle)은, 현재의 일본에 있고, 아성의 망루(tensyukaku)를 가지는 봉건제 시대(18 세기 중반 이전)의 성(castle)이, 건물을 포함하고, 가장 잘 남아 있는 예라고는 해도 히메지(himeji) 성(castle)의 부지내의 건물의 많이가, 역시 19 세기말에, 해체되어 버렸습니다.따라서, 남아 있는 히메지(himeji) 성(castle)의 건물은, 극히 일부(아성의 망루(tensyukaku)를 포함한, 주로 성(castle)의 핵심 부분)에 지나지 않습니다.

 

 

 

이 때는, 단풍 시기였지만, 벚꽃의 시기의, 벚꽃과 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku) 의 편성의 풍경은, 후지산의 풍경등과 보조자에, 일본을 상징하는 풍경으로서 자주(잘), 그 사진이, 그림 엽서, 캘린더(calendar), 관광용의 선전 포스터(poster) 등에 사용됩니다.

 

enjoy 시대, 히메지(himeji) 성(castle)의 건물의 흰 벽을 보고, 히메지(himeji) 성(castle)의 건물은, 근현대에 있고, 콘크리트(concrete)에 의해서 재건된 것이라고 주장하는 한국인이, 이따금 볼 수 있었습니다만, 콘크리트(concrete)와 같이 보이는 것은 회반죽(shikkui)이라고 말한다, 옛부터, 일본의 전통 건축등에 이용되어 온, 건축재료로서 이용되는 백색의 천연 소재입니다.다른 현존 하는, 봉건제 시대(18 세기 중반 이전)에 지어진, 일본의 성(castle)의 건물에 대해서도 같이....

 

 

 

 

 

 

금년의 벚꽃의 시기까지는, 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku)의 외관은, 볼 수 있는 것 같습니다만, 그 후, 서서히, 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku)의 보수 공사용 건물이 지어질 예정으로 있어, 금년의 9월의 하순에는, 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku)의 외관은, 거의 안보이게 되는 것이 예상되고 있습니다.아성의 망루(tensyukaku)의 보수 공사는, 보수 공사용 건물에서, 아성의 망루(tensyukaku)를, 푹 가리는 형태로, 행해지는 것 같습니다.무엇보다, 보수 공사용 건물가운데에, 관광객도 넣어 아성의 망루(tensyukaku)의 보수 공사의 모습도, 일반 관광객에게 공개할 예정으로 있는 것 같습니다(자세한 것은, 히메지(himeji) 성(castle)의 공식 hp를, 봐 주세요→http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 4매.가까이서 보는, 히메지(himeji) 성(castle)의 아성의 망루(tensyukaku).


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

아성의 망루(tensyukaku)의 내부에 있는 총(낡은 것이나 재현된 것인가, 잘 모릅니다).아성의 망루(tensyukaku)는, 기본적으로, 지방 영주의 권력을 과시하기 때문에(위해)의 성(castle)의 상징인 건물, 또, 전쟁시에, 적군이, 성(castle)의 주위를 둘러쌌을 때에, 지방 영주가, 틀어박히고, 군의 지휘를 취하기 때문에(위해)의 건물이며, 통상, 지방 영주는, 평상시는, 거주용으로 지어진, 성(castle)의 부지내의 다른 건물에 살고 있었습니다.상, 히메지(himeji) 성(castle)의, 지방 영주가, 평상시 살고 있던 건물은, 19 세기말에 해체되고, 현존 하고 있지 않습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.아직, 시작되었던 바로 직후였지만, 이미, 히메지(himeji) 성(castle)의 건물의 보수 작업은, 시작되어 있고, 이미, 히메지(himeji) 성(castle)의 건물의 벽의 일부는, 회반죽(shikkui)이 바꿔발라가 완료하고 있는 느낌이었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.히메지(himeji) 성(castle)을 봐 빛 한 후, 히메지(himeji)로부터 오사카로 향하기 전에, 히메지(himeji) 역의 지하의 쇼핑 몰(shopping mall)의, 푸드 코트(food court)에서...

 

아카시(akashi) 구이는, 낙지구이(takoyaki)를 닮은 음식입니다만, 낙지구이(takoyaki)에 비해 계란의 비율이 많은 일, 도구가 기본적으로 낙지만으로 있는 일, 국을 닮은 국물에 담그어 먹는 점등이, 낙지구이(takoyaki)와 다릅니다(wiki를 참고로 했습니다).원래, 아카시(akashi)(이 투고문, 처음쪽의 설명, 참조)의 향토 요리였지만, 지금은, 아카시(akashi) 뿐만 아니라, (아카시(akashi)가 포함된다) 효고(hyogo) 현의 남부로부터, 오사카 도시권(특히 오사카의 중심부)에 걸친, 넓은 범위의 명물 요리가 되고 있습니다.나도, 그녀도, 아카시(akashi) 구이는, 좋아하는 음식입니다(그녀가, 나보다, 보다 아카시(akashi) 구이를 좋아해).

 

사진 이하 2매.히메지(himeji) 역의 지하의 쇼핑 몰(shopping mall)의, 푸드 코트(food court)에서 먹은 아카시(akashi) 구이풍낙지구이(takoyaki).현지의 사람은, 미묘한 차이를 알 수 있는지도 모릅니다만, 정직, 저희들은, 아카시(akashi) 구이와의 차이를 몰랐습니다(단지, 저희들의 주위에서 먹고 있던 현지의 사람들은, 테이블(table)에 두어 있던, 소스(sauce)를 붙이고, 낙지구이(takoyaki) 식에 먹어 국물은, 스프(soup)로서 그대로 마시고 있는 것 같은 느낌이었습니다.저희들은, 이것을 흉내내지 않고 , 국물에 담그고, 아카시(akashi) 구이식에서 먹었습니다).맛있었습니다.

 

당초, 이 날(여행 4일째)의 저녁 식사는, 오사카에서 먹을 예정으로 있어, 이 푸드 코트(food court)에서는, 아카시(akashi) 구이풍낙지구이(takoyaki)를, 둘이서, 1개 부탁하고, 가벼운 간식(snack)으로서 먹을 생각이었습니다만...


 

맛있었기 때문에, 1개, 추가 주문...


종에, 위에 엔진(engine) 걸려 버려 w, 여기서(이 푸드 코트(food court)에서) 저녁 식사를 끝내는 일에...w하늘사발(천부라 사발)을 먹었습니다.

 

사진은, 내가 먹은 하늘사발(천부라 사발).과연 칸사이(kansai)인것 같고, 가격에 비한 만족도가 높았다 같은 기억이 있습니다.

 

칸사이(kansai) 여행&식사 10에 계속 된다...이 Series, 다음 번부터는, 오사카편입니다.지루하게 계속해 온, 칸사이(kansai) 여행 Series, 남기는 곳, 앞으로 , 2회라고 한 느낌일까...

 

이하는, 잡다한, 덤...

 

도쿄 근교에 있는, 카마쿠라(kamakura)는, 중세(1185년부터 1333년까지)에, 일본의 정치의 중심지에서 만난 안도시이며, 중세 이래의 역사를 가지는, 절이나 신사(shrine)가, 많이 있습니다(다만, 카마쿠라(kamakura)의 절이나 신사(shrine)의, 현재의 건물에 대해서는, (극히 일부의 예외를 제외해) 중세보다 후의 시대에, 화재등의 소실에 의해, 재건된 것이거나 시대에 맞추고, 다시 세워지고 있는 것입니다).그 때문에, 카마쿠라(kamakura)는, 도쿄 근교의 주요한 관광지의 하나가 되고 있습니다.나는, 카마쿠라(kamakura)를 좋아하고, 자주(잘) 산책합니다.

 

카마쿠라(kamakura)에 있는, 쓰루가오카하치만궁(tsurugaoka hachimangu)(1063년 창건)는, 카마쿠라(kamakura)의 무사(사무라이)의 수호신으로서 지어진 규모의 큰 신사(shrine)에서, 카마쿠라(kamakura)의 주요한 관광 명소의 하나가 되고 있습니다.

 

이번 달의 10일의 이른 아침, 수령, 대략 1000년으로 추정되고 있다, 오랫동안, 사람들에게 사랑받아 온, 쓰루가오카하치만궁(tsurugaoka hachimangu)의 큰 은행의 나무가, 강풍에 의해, 근원 부근으로부터, 접혀 넘어져 버렸습니다.현재, 재생을 위한 작업이 시작되어 있는 것 같습니다.물론, 완전하게 원대로로 돌아오는 것은 무리이겠지만, 조금이라도, 건강하게 재생하는 일을 빌고 있습니다.

 

사진 이하 4매.내가 전에 촬영해, enjoy에 업(upload) 한 쓰루가오카하치만궁(tsurugaoka hachimangu)의 사진.

 

저 편으로 보이는 큰 은행의 나무(노랗게 단풍이 들고 있는 나무)가, 이번 달의 10일에 넘어져 버린, 은행의 나무의 있을 때의 모습.

 

이 때, 세간, 결혼식이 거행되고 있었습니다.일본에서는, 신사(shrine)에서 결혼식을 실시하는 커플(couple)이 상당히 많습니다(근년, 신사(shrine)에서의 결혼식은, 게다가 약간의 유행이 되어 있다).

 

넘어져 버린, 은행의 나무의 있을 때의 모습.

 

쓰루가오카하치만궁(tsurugaoka hachimangu)으로부터, 바다의 방위를 바라본다.쓰루가오카하치만궁(tsurugaoka hachimangu)의 정면에서, 바다에 곧바로 성장하는, 큰 대로, 와카미야 오오지(wakamiyaooji)(카마쿠라(kamakura)의 중심적인 대로)를, 자동차로 똑바로 진행되면, 바다에 부딪쳐, 바다의 경치가, 크게 퍼집니다.사진 우측이, 넘어져 버린, 은행의 나무의 있을 때의 모습(계단 위로부터 찍은 사진이므로, 나무의 상부 밖에 보이고 있지 않습니다만...).

 

사진 이하 2매.나 나가노(nagano) 현의 별장(별장이라고는 해도, 서민적인 중고의 독립주택입니다만)의 현지의 도예 작가가, 도쿄의 서쪽의 교외(타치카와)에서 작품의 전시회를 여는 것 같습니다.나는, 이 도예 작가의 작풍이, 상당히 좋아합니다.

 

 

 

전시회의 회장의 근처에, 살고 있는 분, 기분이 내켜지면, 들여다 봐 주세요.(은)는, 적당하게 권해 물어라고, 나는, 지금 단계, 갈 생각은 없지만 w.

 

사진 이하 3매(이전에 enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용).도쿄의 우리 집의 인테리어(interior).이 도예 작가의 작품입니다.

 

 

 

 

 

조금 사진이 비스듬하게 되어 버렸습니다.

 

 

 

끼워넣음 광고지.신쥬쿠의 게이오 백화점에서 현재 개최중의, 큐슈전의 광고로부터...카고시마(kagoshima) 소주 50개 세트( 각 1.8리터).94,500엔.한정 5 세트.추첨.응모 기간은, 오늘까지...누군가, 어떻습니까 w?


끼워넣음 광고지.신쥬쿠의 이세탄 백화점 본점의 광고로부터...사진 우상, 동백화점에서, 기간 한정 판매중의, 증장의 죽탄 롤 케이크...조금 신경이 쓰이고 있습니다.



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