食べ物

今日は土曜日ですが、個人的に仕事でした。彼女も仕事で、今日は一人なのでw、完成間近だった投稿文を仕上げて、投稿します。。。

 

先月の終わりの週末の金曜日、個人的に休みだったので(翌日の土曜日は、仕事でしたが。。。)、近場で遊んで来た時の物です。

 

渋谷(shibuya)区、南部を散歩して来ました。東京中心部(東京23区)の西部に位置する渋谷(shibuya)区の南部は、商業地&高級住宅地と言った感じになっています。渋谷(shibuya)駅周辺、原宿(harajyuku)・表参道(omotesando)に次ぐ、渋谷(shibuya)区第三の繁華街、恵比寿(ebisu)がありますが、それ程大きな繁華街では有りません。代官山(daikanyama)、広尾(hiro)は、高級住宅地となっています。代官山(daikanyama)と広尾(hiro)は、高級住宅地とは言っても、豪邸が建ち並ぶと言った程の雰囲気では無く、マンション(アパート)も、それ程、居住面積が広く無い物件も多いですが、住宅価格や、マンション(アパート)の家賃がとても高い為に、暮らしている人々の平均収入が高く、高級住宅地となっている感じです。住人は、マンション(アパート)暮らしの、小金持ち・中金持ちの若い層や欧米企業の駐在員、外国大使館の職員等も、多い印象です。東京を代表する様な高級レストランも点在しています。代官山(daikanyama)と広尾(hiro)は、一応商業地区と言えなくも無いですが、特に代官山(daikanyama)は、まとまった繁華街を形成すると言うよりは、レストラン、cafe、洒落た店等が、住宅街に溶け込んで存在していると言う感じです。

 

以下、東京散歩&食事前編からの続き。。。

 

写真以下2枚。通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)の恵比寿(ebisu)駅周辺の、商業ビルやoffice用ビルが建ち並ぶ通りの風景。恵比寿(ebisu)は、渋谷(shibuya)駅周辺、原宿(harajyuku)・表参道(omotesando)に次ぐ、渋谷(shibuya)区第三の商業地区となっています。ちょっと桜の花が咲き始めていました(注:この時は、先月の終わりの頃)。

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。広尾(hiro)に有る山種(yamatane)美術館。山種(yamatane)美術館は、米の大手(major)卸売会社、山種(ヤマタネ。 yamatane)等の、オーナー(owner)で有った、山崎 種二(yamazaki taneji)の個人コレクション(collection)を基礎にした、1966年に開館した、日本伝統画専門の私営美術館で、近代日本伝統画を中心とした、質の高い収蔵品(collection)を有しています。日本には、もちろん公営美術館も全国に、たくさんありますが、私営美術館も、全国たくさんあり、私営美術館の多くが、実業家等の金持ちが、個人の趣味で集めた美術品を、収蔵、公開する目的の物です。この様に、日本全国に、たくさんある私営美術館の多くが、実業家等の金持ちが、個人の趣味で集めた美術品を、収蔵、公開している物ですが、中には中々質の高い、美術品を、収蔵、公開している私営美術館も、かなりあり、(入場料こそ取られるものの)、一般庶民もこうした収集品を見る事が出来て、公立の美術館・博物館以外でも、質の高い美術品に身近に接する機会が与えられていると言う点で、利益を受けています。山種(yamatane)美術館も、その内の一つです。山種(yamatane)美術館は、元々、東京都心部でも、さらに中心部に有った美術館ですが、最近、東京中心部の西部の渋谷(shibuya)区の南部の広尾(hiro)に移転しました。私は、現在の場所に移転後の、山種(yamatane)美術館は、今回、初めて訪れました。ビルは、最近建てられたビルとしては凡庸で、中途半端に古臭い感じですね。。。何か、1970年代から1980年代頃に建てられたビルと言った感じ。。。これが、もし、1970年代初め頃に建てられたビルだったとしたら、まあ、当時の先端を行くビルだったのでしょうが。。。現在に建てられたビルとしては、余りに無難で退屈なデザイン(design)と言った感じです。。。まあ、保守的な建物にしたいと言った意向も有ったのでしょうが、個人的に、保守的=退屈となってしまっている典型例の様に感じます。

 

 

 

 

 

 

 

山種(yamatane)美術館のパンフレット(leaflet)。表紙は、奥村 土牛(okumura togyu。下の補足説明参照)の絵です。山種(yamatane)美術館は、日本(世界)有数の奥村 土牛(okumura togyu。下の補足説明参照)の作品のコレクション(collection)を有しています。

奥村 土牛(okumura togyu):1889年生まれ1990年に亡くなる。1920年代から1980年代にかけて活躍した、有名な、近代日本伝統画家。遅咲きの画家で、超有名になったのは、第2次世界大戦後の事かな。。。

 

写真以下4枚。パンフレット(leaflet)等の写真で申し訳有りませんが、山種(yamatane)美術館の収蔵作品(collection)例。

 

写真以下2枚。「炎舞」。速水 御舟(hayami gyosyu。下の補足説明参照)。1925年。速水 御舟(hayami gyosyu)の最高傑作と言うだけでなく、近代日本伝統画を代表する傑作の一つとも言われている作品です。山種(yamatane)美術館は、日本(世界)有数の速水 御舟(hayami gyosyu)の作品のコレクション(collection)を有していて、速水 御舟(hayami gyosyu)美術館として親しまれて来ました。
速水 御舟(hayami gyosyu):1894年生まれ。1935年に亡くなる。1910年代後半から1930年代前半に活躍した、有名な、近代日本伝統画家。

 

 

 

 

 

「春静」東山 魁夷(higashiyama kaii。下の補足説明参照)。1968年。

東山 魁夷(higashiyama kaii):1908年生まれ。1999年に亡くなる。1930年代から1990年代(主として、1940年代後半から1990年代)に活躍した日本の有名な、近・現代日本伝統画家。

 

 

「吉野」。奥村 土牛(okumura togyu)。1977年。

 

 

今回、山種(yamatane)美術館で、行われていた、それぞれ、初期の近代日本伝統画をリード(lead)した画家で有ると供に、近代日本伝統画を代表する画家の一人で有る、東京を代表する(初期の)近代日本伝統画家、横山 大観(yokoyama taikan。1868年生まれ。1958年に亡くなる。1890年代から1950年代に活躍)と、京都を代表する、(初期の)近代日本伝統画家、竹内 栖鳳(takeuchi seihou。1864年生まれ。1942年に亡くなる。1890年代から1930年代に活躍)の作品、及び、その周辺の画家達の作品を展示する展覧会(exhibition)を見て来ました。

写真以下7枚。パンフレット(leaflet)等の写真で申し訳有りませんが、この展覧会(exhibition)の展示作品例。例に挙げた作品は、何れも、山種(yamatane)美術館の収蔵(collection)作品です。前から、そう思っていましたが、改めて比較して鑑賞したら、やはり、個人的には、東京の横山 大観(yokoyama taikan)の作品は、比較的無骨で、(垢抜け無いと言う意味での)田舎っぽい感じ、京都の竹内 栖鳳(takeuchi seihou)の作品は、比較的都会的で、お洒落、洗練されていると言う印象を受けました(あくまで、個人的な感想です。。。)。

 

写真以下3枚。「作右衛門の家」。横山 大観(yokoyama taikan)。1916年。以下、「」内、山種(yamatane)美術館の公式siteの作品解説から。。。「どこにでもいそうな農夫(農民)の農作業の一コマ(一場面)、家畜にやる牧草を刈って家路につく(家に帰る)様子が描かれている。馬小屋では馬が主人の足音を聞きつけ、耳をピンと立てて待っているさまが微笑ましい。作右衛門とは、特定の人物を指すのではなく、ありふれた農民らしい名前として作者(横山 大観(yokoyama taikan))が名付けたものであるようだ。」。

 

 

 

 

 

 

 

 

「喜撰山」。横山 大観(yokoyama taikan)。1919年。

 

「心神」。横山 大観(yokoyama taikan)。1952年。富士山を描いた物です。

 

「班猫」。竹内 栖鳳(takeuchi seihou)。1924年。

 

「緑池」。竹内 栖鳳(takeuchi seihou)。1927年。

 

写真以下2枚。山種(yamatane)美術館で現在開催中の奥村 土牛(okumura togyu)の展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。

 

 

 

 

 

ちなみに、山種(yamatane)美術館は、公立高校で有る、東京都立広尾(hiro)高校の向かいに移転して来たのですが、この高校、私は、入学しようとして、中学3年の時に見学に行きました。私は、ほぼ、第2次世界大戦直後のベビーブーム(baby boom)に生まれた団塊の世代を親を持つ、団塊ジュニアの世代に該当するので、同世代の人口が多く、大学の入試競争が非常に激しかった世代(まあ、行く大学を選ばなければ、大変では無かったと思いますが)です。この高校を見学しに行った時、まだ中坊(中学生)だった私に、グラウンド(grounds)で放課後のクラブ(club)活動をしていた、女子高生の、お姉さん達が、「現役で、そこそこの大学に受かりたかったら、ここ(この高校)に入らない方がいいよ」と優しく教えてくれましたw。結局、私は、私の地域の学区(この頃の、東京都立高校は、学区制度で、私の街は、第二学区(新宿区、渋谷(shibuya)区、目黒(meguro)区、世田谷(setagaya)区)でした)で、もうちょっと入試難易度が高い公立(都立)高校に入学し、無事、現役で、(一流大学では有りませんが)そこそこの大学に合格しましたw

 

写真以下9枚。広尾(hiro)散歩。

 

 

 

写真以下2枚。春の兆候(注:この時は、先月の終わりの頃)。個人の邸宅の庭。

 

 

 

 

 

 

上の写真。かつては、個人の邸宅だった様ですが、建築計画を記したボード(board)が有って、どうやら低層の高級マンション(アパート)か何かに、なってしまう様です。敷地面積は、2,500坪位。(私の街もそうですが)、第2次世界大戦後の、(貧富の格差を無くす為の)不動産等を相続する際に支払う税金の税率の大幅な引き上げ等により、1960年代頃から、現在に至るまで、東京areaや関西(kansai)大都市圏の、高級住宅街や静かで落ち着いた住宅地の、ゆったりとした敷地を持つ邸宅は、(主に)低層の高級アパート(マンション)、企業や公務員の社宅、老人ホーム(高齢者が入居する施設。公営の物と私営の物が有る)等の公共施設等へと、次々と建て替えられて来ました。私の街に関しても、私の子供の頃から比べても、明かに、ゆったりとした敷地を持つ邸宅は減りましたし、ゆったりとした敷地を持つ邸宅の低層の高級アパート(マンション)等への建て替えは、現在も進行中です。これは、第2次世界大戦後、日本で、貧富の格差が解消し、社会福祉が充実して来た事の証の一つと言えますが、一方において、草木が生い茂る邸宅の庭が潰され、かつての邸宅の敷地、ほとんど目一杯に、共同住宅や公共施設の建物が建てられて来た事は、東京areaや関西(kansai)大都市圏の、高級住宅街や静かで落ち着いた住宅地の緑の減少と景観破壊に繋がって来ました。


広尾(hiro)には、東京areaの、お嬢様学校(富裕層の娘が通う学校)の一つとして知られる、私立女子大学、聖心(seishin)女子大学が有ります。

 

写真以下4枚。聖心(seishin)女子大学に通う女学生達の学生街の役割も果たしている、広尾(hiro)商店街(広尾(hiro)散歩通り)。投稿上の方の恵比寿(ebisu)駅周辺の写真と比較して貰えば分かると思いますが、この日は、夕方から天気が、どんどん悪くなりました。。。

 

向こうに東京towerが見えます。東京towerは、1958年完成。高さ約333m。現在では、世界的には、ちょっとした高いtowerに過ぎませんでしたが、完成当時は、エッフェル塔(Eiffel Tower)を抜かし世界一高い塔でした。現在でも、東京を象徴する建物の一つとなっています。尚、現在、東京中心部(東京23区)の東部の下町(旧市街)では、新東京towerが建設中で、これは、完成したら、高さ約634m、自立式建築物としては、Burj Dubaiに次ぐ、世界で2番目に高い建物となる予定で、中国の広州のGuangzhou TV & Sightseeing Tower(2009年末完成。2010年開業予定。中国で一番高い建築物。Burj Dubaiに次ぐ、世界で2番目に高い自立式建築物)を抜かし、観光用の展望台の有る塔としては、世界で、最も高い物となる予定です(自立式電波塔としても、世界一になる予定)。東京towerは、来るべきTVの大衆化時代(日本では、TV放送は、1953年に始まり、当初は、TVは、庶民にとっては、中々手が届かない贅沢品で有ったが、1950年代末には、テレビ(TV)が、庶民の家庭にも普及する様になった)に備えて、東京areaにTV電波を大量に送信する為に、計画され建てられた、TV電波塔ですが、新東京towerは、東京の超高層ビルの増加に伴い、(東京areaには)、東京都心部で立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない、より背の高いTV電波塔が必要になった為、建てられている物です(2011年7月24日をもって、日本では、従来のアナログ(analogue)TV(放送)は、地上波を含めて全て終了する予定なので、新東京towerは、地上デジタル(digital)放送用のTV電波塔です)。

 

 

 

 

 

 

地下鉄の広尾(hiro)駅周辺の風景。

 

写真以下8枚。広尾(hiro)商店街(広尾(hiro)散歩通り)の中原 淳一(nakahara jyunichi。下の補足説明参照)の専門店で、彼女につられて買った中原 淳一(nakahara jyunichi)の作品の絵葉書。まあ、こう言った世界、嫌いでは有りませんw。もっとも、感じの良い、若い女性店員に、作品集を勧められたのですが、いやぁ、そこまでは、と言った感じでしたが。。。w。しかし、この絵葉書、誰に出すんだw?(我が家には、この絵葉書、いったい誰に出すんだ?と言う絵葉書が、結構たくさん有りますw)。

中原 淳一(nakahara jyunichi):1913年生まれ、1983年に亡くなる。1930年代から1970年代にかけて活躍した、イラストレーター(illustrator)、人形作家。竹久 夢二(takehisa yumeji)(1884年生まれ1934年に亡くなる。1900年代後半から1930年代初めにかけて活躍した、近代日本伝統画家、近代画家、グラフィックデザイナー(graphic designer))、蕗谷 虹児(fukiya koji)(1898年生まれ。1979年に亡くなる。1920年代から1970年代に活躍した、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator))等に続いて、日本の少女漫画の画風の原型を作った作家。1939年には、自身のデザイン(design)した商品等を置く、雑貨店、中原 淳一(nakahara jyunichi)shop、「ヒマワリ」を東京の都心部の麹町(koujimachi)に開店し、この店は、学生等、当時の若い女性達に大変な人気を博しました。ちなみに、個人的な話ですが、亡くなった、私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)や中原 淳一(nakahara jyunichi)も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

 

絵葉書の袋。これも、中原 淳一(nakahara jyunichi)のデザイン(design)でしょう。。。

 

 

絵葉書の裏は、こんな感じ。。。

 

 

「娘十二ヶ月 一月・鹿子帯」。1940年。

 

 

「娘十二ヵ月 二月・如月の雪」。1940年。

 

 

「娘十二ヵ月 六月・蛍」。1940年。

 

 

「娘十二ヵ月 十二月・雪」。1940年。

 

 

「きものノ絵本 裏表紙」。1940年。

 

 

「ジュニアそれいゆ 表紙」。1958年。

 

写真以下3枚。広尾(hiro)に隣接する港(minato)区の麻布(azabu)area(下の補足説明参照)に有る有栖川宮記念公園(arisugawanomiya kinenkouen)。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、地方領主の東京での別荘の一つであり、19世紀末に、宮家(下の補足説明参照)の一つで有った、有栖川宮(arisugawanomiya)家の邸宅となりましたが、1934年に公園として一般開放されました。広さは、約20,000坪有ります。

宮家:天皇の親族の内、天皇家から独立した生計を営み、且つ、天皇から称号(宮号)を賜った家で、現在は、宮家は、5つしか存在しませんが、第2次世界大戦が終った直後には、日本には、14の宮家が存在していました。

麻布(azabu)area:広尾(hiro)等に隣接する港(minato)区の麻布(azabu)areaは、東京都心部に有る高級住宅街で、第2次世界大戦前からの高級住宅街且つ、東京を代表する高級住宅地の一つです。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、私の母方の祖母及び、私の母方の祖母の姉は、独身時代、私の母方の祖母の父が、麻布(azabu)areaに保有していた東京の別宅(私の母方の祖母の実家は、山梨(yamanashi)県の裕福な地主だった)に暮らしていたそうです。私の母方の祖母及び、その姉は、山梨(yamanashi)県の女学校を卒業した後、東京の、現在のA学院大学の前身である、高等教育機関を卒業し(ちなみに、私の母もA学院大学を出ています)、その後、私の母方の祖母と、その姉、供に、山梨(yamanashi)県には戻らずに、私の母方の祖母は、東京のキリスト教の教会に就職し、私の母方の祖母の姉は、東京で会社の事務員として、就職しました(第2次世界大戦前の話しです)。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(現在は、私の両親が引き継いで暮らしている)。敷地面積100坪程の庭付き一戸建て住宅で、当時の中流階級(ここで言う中流階級とは、労働者階級に対する中流階級の事です)の一戸建て住宅として見ても、小さな方だったと思いますが、私の母方の祖母の父が、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつか保有していた、土地と家の内の一つだったので、まあ、その様な物でしょう。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、山梨(yamanashi)県で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。尚、こんな話は、ちょっと。。かもしれないけど^^;私の母方の祖母のコネで、私は、A学院大学は、入ろうと思えば楽に入る事が、可能でしたがw、A学院大学しか受験しない事が、コネを使う条件だったので、コネを使いませんでした。結局、普通に受験して、A学院大学も、受かったのですが、別の大学に行きました(私の弟も、そうだった。と言うか、私の弟は、そもそも、A学院大学、受験したのかな。。。忘れてしまった。。)。

 

この日、広尾(hiro)&有栖川宮記念公園(arisugawanomiya kinenkouen)を散歩した後、彼女の仕事の用事に付き合って、彼女の取引先の有る街に移動しました(彼女が仕事の用事を済ませている間、私は、本の立ち読み等して時間を潰していました)。

 

とにかく、この日は、寒くて、彼女が仕事を用事を済ませた後、私の希望により、夕食は、街を歩いてすぐに、適当に目に入った、和民(watami)系の大衆居酒屋(日本伝統式のpub)のチェーン店(chain)、坐・和民(za・watami)にて食べました。和民(watami)は、日本の大衆居酒屋のチェーン店(chain)の一つです。

 

 

 

彼女は、基本的に、外ではアルコール(alcohol)の入った飲み物は飲まないのですが、この日は、例外的に、少し飲みました。写真は、彼女が、この時飲んだ飲み物の一つ、「森の妖精」と言うカクテル(cocktail)です。和民(watami)の独自のカクテル(cocktail)の様ですが、まあ、レインボー(rainbow)系のカクテル(cocktail)と言った所でしょう。。。白桃、パッションフルーツ(passion fruit)、オレンジ(orange)、ブルーキュラソー(curaçao)のカクテル(cocktail)だそうです。4色の色が綺麗なカクテル(cocktail)です。彼女は、結局、この時、「森の妖精」2杯と、アイスラテ(iced latte)を1杯飲みました。

 

私は、小人数の親しい友達達や彼女と大衆居酒屋のチェーン店(chain)で飲む時は、たいてい最初の一杯はビール、あとは、ひたすらウイスキー(whisky)と言った感じが多いです。もっとも、この日は、元々、食事をする(夕食を食べる)事を主に考えていた為、あまり飲みませんでした。写真は、私が2杯目に飲んだ、飲み物。ウイスキー(whiskey)、アーリータイムズ(EARLY TIMES)のダブル(double)ロック(on the rocks)。この日は、他に、生ビール(beer)1杯(suntory the premium malt’s)、国産のウイスキー(whisky)、サントリー(suntory)響(hibiki)のダブル(double)ロック(on the rocks)を1杯飲みました。ちなみに、全く気を使う必要の無い、極親しい男の友人(達)と、私を含めて2人から4人位で、大衆居酒屋のチェーン店(chain)で飲む時は、最初の1杯だけ生ビール(beer)を頼んで、後は、すぐに、角(kaku)(下の補足説明参照)のボトル(bottle)を1本頼んでしまう事も多いです(安上がりなので。。。)。

角(kaku):角(kaku)(角瓶)は、サントリー(suntory)のウイスキー(whisky)のブランド(brand)の一つで、日本のウイスキー(whisky)の中で、チープな大衆ウイスキー(whisky)ブランド(brand)の代表的な物の一つとなっています。1937年からの歴史を有しています。

 

大衆居酒屋のチェーン店(chain)の、おつまみは、チープな味なのですが、大学生の頃、こう言う味に慣らされてしまったからなのか、チープならではの美味さと言った物を感じますw。近年、ちょっと羽振りの良い、昔ながらの友人がいるのですが、以前、その友人が、湯河原(yugawara)(東京に近い歴史の古い温泉保養地)の海石榴(tsubaki)と言う高級温泉旅館(高級温泉旅館の中でも比較的高い旅館)に、休日に2連泊した、ちょっと後位に、その友人と、和民(watami)で一緒に飲んだのですが、何やら、海石榴(tsubaki)の料理は、2日で飽きてしまったそうで、「和民(watami)の方が、美味えや。。」と言っていましたw。まあ、私は、その友人程、極端では無いし、私も、その友人も、舌が肥えていないと言ったら、それまでなのですが。。。

 

写真以下11枚。この時食べた、おつまみ。彼女と二人で食べた物です。

 

突き出し(居酒屋等で最初に出される簡単な料理:説明文、wikiから抜粋)。一人一皿ずつ。

 

 

シーザーサラダ(caesar salad)。

 

 

チーズ(cheese)の揚げ物。

 

 

手羽先(鶏の翼部分の肉の揚げ物)。

 

 

牛肉、サイコロステーキ。

 

 

水菜と大根の柚子梅サラダ(salad)。

 

 

鮭とイクラ(鮭の卵)の親子寿司。和民(watami)の鮭とイクラ(鮭の卵)の親子寿司は、美味しいと思います。これは、後で、もう一皿、頼みました。

 

 

黄身トロ牛肉のつくね(団子)。

 

 

帆立とシメジ(茸)のバター(butter)焼き物。

 

 

バニラアイスクリーム(vanilla ice cream)。

 

 

フワトロプリン(pudding)。

 

 

東京散歩&食事、終り。。。

 

以下おまけ。

 

写真以下2枚。水曜日(夕食は、外食で済ませて来ました)、仕事から帰って来て(すぐに)食べた甘い物(これ全部一度に食べた訳では有りません)。私の長野(nagano)県の別荘の地元の西洋菓子屋さん(茅野(chino)店を、よく利用しています)、Nouvel 梅林堂(bairindo)の、お菓子。この、お菓子屋さんの、くるみやまびこと言う、お菓子は、私の、お気に入りの、お菓子となっています。まあ、諏訪(suwa)の月なんかも、美味しいですけどね。。

 

 

 

手前が、くるみやまびこ(これは、小さいsizeの、くるみやまびこで、通常のsizeの物では有りません)。左上は、諏訪(suwa)の月。名前は、仙台(sendai)の、お菓子、萩(hagi)の月の、何となく、パクリっぽい感じですが、お菓子自体は、萩(hagi)の月とは全く異なる感じの、お菓子です。

 

 

仕事から帰って来ての1杯用ビール。我が家の定番ビールは、エビス(yebisu)ビールですが、ビールは、エビス(yebisu)ばかり飲んでいると言う訳では無く、他のビールも飲みます。写真左から、それぞれ、日本の大手(major)ビール会社で有る、sapporo(1877年創業)、suntory(1899年創業)、asahi(1889年創業)のビール。ちなみに、suntoryは、日本の大手(major)ウイスキー(whisky)会社の一つでも有ります。この日は、一番左のsapporoのビールを飲みました。この日は、自宅に持ち込んだ仕事が有った為、飲んだ酒は、ビール1缶だけ。基本的に、自宅に、夜、仕事を持ち込んだ時は、酒は飲まないのですが、この日は、取引とは直接関係無い、(私が営んでいる個人事業の)雑多な事務処理だった為。。。

 

食料庫になっている、我が家の1階の廊下のクローゼット(closet)(本来は、服用)に、だいたい、いつも入っている酒の例。

 

どうでも良い時に飲む安酒(チープな日本酒)。全く気を使う必要の無い様な親しい友人が我が家に来た時に出しちゃったりもしますw 日本酒の中で、最もチープなclassの酒です。特に、このbrandとは限らず、他の「鬼ころし」や、白鶴 「まる」、松竹梅の「天」等、その時々によって違います。

 

写真以下2枚。ちょっとした時に飲むシャンパン(champagne)。まあ、ちょっとした時以外にも、飲んじゃうんですけどね。。。私の街の安売りマートで、シャンパン(champagne)も、(通常よりも)結構安い価格で手に入れる事が出来ます。 

 

 

 


도쿄 산책&식사 후편

오늘은 토요일입니다만, 개인적으로 일이었습니다.그녀도 일로, 오늘은 혼자이므로 w, 거의 완성이었던 투고문을 성공하고, 투고합니다...

 

지난 달의 마지막의 주말의 금요일, 개인적으로 휴일이었으므로(다음날의 토요일은, 일이었지만...), 근처에서 놀아 왔을 때의 물건입니다.

 

시부야(shibuya) 구, 남부를 산책해 왔습니다.도쿄 중심부(도쿄 23구)의 서부에 위치하는 시부야(shibuya) 구의 남부는, 상업지&고급 주택지라고 말한 기분이 들고 있습니다.시부야(shibuya) 역 주변, 하라쥬쿠(harajyuku)·오모테산도(omotesando)에 뒤잇는, 시부야(shibuya) 구 제3 번화가, 에비스(ebisu)가 있습니다만, 그렇게 큰 번화가가 아닙니다.다이칸산(daikanyama), 히로오(hiro)는, 고급 주택지가 되고 있습니다.다이칸산(daikanyama)과 히로오(hiro)는, 고급 주택지라고는 해도, 대저택이 늘어선다고 했을 정도의 분위기는 아니고, 맨션(아파트)도, 그렇게, 거주 면적이 넓지 않은 물건도 많습니다만, 주택 가격이나, 맨션(아파트)의 집세가 매우 비싸기 때문에, 살고 있는 사람들의 평균 수입이 높고, 고급 주택지가 되고 있는 느낌입니다.거주자는, 맨션(아파트) 생활의, 약간의 돈 소유·나카가네 소유의 젊은 층이나 구미 기업의 주재원, 외국 대사관의 직원등도, 많은 인상입니다.도쿄를 대표하는 것 같은 고급 레스토랑도 점재하고 있습니다.다이칸산(daikanyama)과 히로오(hiro)는, 일단 상업지구라고 말할 수 없지도 않습니다만, 특히 다이칸산(daikanyama)은, 결정된 번화가를 형성한다고 하는 것보다?`헤, 레스토랑, cafe, 멋부린 가게등이, 주택가에 용해해 존재하고 있다고 하는 느낌입니다.

 

이하, 도쿄 산책&식사 전편으로부터의 계속...

 

사진 이하 2매.통근 전철(한국식에 말하면 지하철)의 에비스(ebisu) 역 주변의, 상업 빌딩이나 office용 빌딩이 늘어서는 대로의 풍경.에비스(ebisu)는, 시부야(shibuya) 역 주변, 하라쥬쿠(harajyuku)·오모테산도(omotesando)에 뒤잇는, 시부야(shibuya) 구 제3 상업지구가 되고 있습니다.조금 벚꽃이 피기 시작하고 있었습니다(주:이 때는, 지난 달의 마지막의 무렵).

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.히로오(hiro)에 있는 산종(yamatane) 미술관.산종(yamatane) 미술관은, 미의 대기업(major) 도매 회사, 산종(야마타네. yamatane) 등의, 오너(owner)로 있던, 야마자키 다네지(yamazakitaneji)의 개인 콜렉션(collection)을 기초로 한, 1966년에 개관한, 일본 전통화 전문의 사영 미술관에서, 근대 일본 전통화를 중심으로 한, 질 높은 수장품(collection)을 가지고 있습니다.일본에는, 물론 공영 미술관도 전국에, 많이 있습니다만, 사영 미술관도, 전국 많이 있어, 사영 미술관의 대부분이, 실업가등의 부자가, 개인의 취미로 모은 미술품을, 수장, 공개하는 목적의 물건입니다.이와 같게, 일본 전국에, 많이 있는 사영 미술관의 대부분이, 실업가등의 부자가, 개인의 취미로 모은 미술품을, 수장, 공개하고 있는 것입니다만, 안에는 꽤 질 높은, 미술품을, 수장, 공개하고 있는 사영 미술관도, 꽤 있어, (입장료야말로 놓치지만), 일반 서민도 이러한 수집품을 보는 것이 되어있어 공립의 미술관·박물관 이외에도, 질 높은 미술품에 가까이에 접할 기회가 주어지고 있다고 하는 점으로, 이익을 받고 있습니다.산종(yamatane) 미술관도, 그 안의 하나입니다.산종(yamatane) 미술관은, 원래, 도쿄도심부에서도, 한층 더 중심부에 있던 미술관입니다만, 최근, 도쿄 중심부의 서부의 시부야(shibuya) 구의 남부의 히로오(hiro)에 이전했습니다.나는, 현재의 장소에 이전 후의, 산종(yamatane) 미융`p관은, 이번, 처음으로 방문했습니다.빌딩은, 최근 지어진 빌딩으로서는 범용으로, 어중간하게 낡은 느낌이군요...무엇인가, 1970년대부터 1980년대무렵에 지어진 빌딩이라고 한 느낌...이것이, 만약, 1970년대 초 무렵에 지어진 빌딩이었다고 하면, 뭐, 당시의 끝을 가는 빌딩이었을까가...현재에 지어진 빌딩으로서는, 너무 무난하고 지루한 디자인(design)이라고 한 느낌입니다...뭐, 보수적인 건물로 하고 싶다고 한 의향도 있었겠지요 가, 개인적으로, 보수적=싫증이 되어 버리고 있는 전형 예의님이 느낍니다.

 

 

 

 

 

 

 

산종(yamatane) 미술관의 팜플렛(leaflet).표지는, 오쿠무라토우(okumura togyu.아래의 보충 설명 참조)의 그림입니다.산종(yamatane) 미술관은, 일본(세계) 유수한 오쿠무라토우(okumura togyu.아래의 보충 설명 참조)의 작품의 콜렉션(collection)을 가지고 있습니다.

오쿠무라토우(okumura togyu):1889 년생 1990년에 죽는다.1920년대부터 1980년대에 걸쳐 활약한, 유명한, 근대 일본 전통 화가.철늦게 핌의 화가로, 초과 유명하게 된 것은, 제2차 세계대전 후의 일일까...

 

사진 이하 4매.팜플렛(leaflet) 등의 사진으로 죄송합니다만, 산종(yamatane) 미술관의 수장 작품(collection) 예.

 

사진 이하 2매.「염 무」.하야미배(hayami gyosyu.아래의 보충 설명 참조).1925년.하야미배(hayami gyosyu)의 최고 걸작이라고 말할 뿐만 아니라, 근대 일본 전통화를 대표하는 걸작의 하나라고도 말하고 있는 작품입니다.산종(yamatane) 미술관은, 일본(세계) 유수한 하야미배(hayami gyosyu)의 작품의 콜렉션(collection)을 가지고 있고, 하야미배(hayami gyosyu) 미술관으로서 사랑받아 왔습니다.
하야미배(hayami gyosyu):1894 년생.1935년에 죽는다.1910년대 후반부터 1930년대 전반에 활약한, 유명한, 근대 일본 전통 화가.

 

 

 

 

 

「춘정」히가시야마 가이이(higashiyama kaii.아래의 보충 설명 참조).1968년.

히가시야마 가이이(higashiyama kaii):1908 년생.1999년에 죽는다.1930년대부터 1990년대(주로, 1940년대 후반부터 1990년대)에 활약한 일본의 유명한, 근·현대 일본 전통 화가.

 

 

「요시노」.오쿠무라토우(okumura togyu).1977년.

 

 

이번, 산종(yamatane) 미술관에서, 행해지고 있던, 각각, 초기의 근대 일본 전통화를 리드(lead)한 화가로 있으면 보조자에, 근대 일본 전통화를 대표하는 화가의 혼자서 있는, 도쿄를 대표하는(초기의) 근대 일본 전통 화가, 요코야마 다이칸(yokoyama taikan.1868 년생.1958년에 죽는다.1890년대부터 1950년대에 활약)과 쿄토를 대표하는, (초기의) 근대 일본 전통 화가, 다케우치세이호우(takeuchi seihou.1864 년생.1942년에 죽는다.1890년대부터 1930년대에 활약)의 작품, 및, 그 주변의 화가들의 작품을 전시하는 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.

사진 이하 7매.팜플렛(leaflet) 등의 사진으로 죄송합니다만, 이 전람회(exhibition)의 전시 작품예.예로 든 작품은, 어느 쪽도, 산종(yamatane) 미술관의 수장(collection) 작품입니다.전부터, 그렇게 생각하고 있었습니다만, 재차 비교해 감상하면, 역시, 개인적으로는, 도쿄의 요코야마 다이칸(yokoyama taikan)의 작품은, 비교적 풍류를 모름으로, (세련되지 없다고 하는 의미로의) 시골 같은 느껴 쿄토의 다케우치세이호우(takeuchi seihou)의 작품은, 비교적 도시적이고, 멋부려 세련 되고 있다고 하는 인상을 받았습니다(어디까지나, 개인적인 감상입니다...).

 

사진 이하 3매.「작 우에몬의 집」.요코야마 다이칸(yokoyama taikan).1916년.이하, 「」 안, 산종(yamatane) 미술관의 공식 site의 작품 해설로부터...「어디에라도 있을 것 같은 농부(농민)의 농사일의 1 팽이(한 장면), 가축에 하는 목초를 베어 집으로 가는(집에 돌아간다) 모습이 그려져 있다.말오두막에서는 말이 주인의 발소리를 우연히 들어 귀를 핀과 설 수 있어서 기다리고 있고 말이야 가 미소해 있어.작 우에몬이란, 특정의 인물을 가리키는 것이 아니라, 흔히 있던 농민다운 이름으로서 작자(요코야마 다이칸(yokoyama taikan))이 이름 붙인 것인 것 같다.」.

 

 

 

 

 

 

 

 

「기센야마」.요코야마 다이칸(yokoyama taikan).1919년.

 

「심신」.요코야마 다이칸(yokoyama taikan).1952년.후지산을 그린 것입니다.

 

「반묘」.다케우치세이호우(takeuchi seihou).1924년.

 

「록지」.다케우치세이호우(takeuchi seihou).1927년.

 

사진 이하 2매.산종(yamatane) 미술관에서 현재 개최중의 오쿠무라토우(okumura togyu)의 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet).

 

 

 

 

 

덧붙여서, 산종(yamatane) 미술관은, 공립 고등학교에서 있는, 도쿄도립 히로오(hiro) 고등학교의 향해 이전해 왔습니다만, 이 고교, 나는, 입학하려고 하고, 중학 3년때에 견학하러 갔습니다.나는, 거의, 제2차 세계대전 직후의 베이비 붐(baby boom)으로 태어난 1948년을 전후로 태어난 세대를 부모를 가지는, 단괴 쥬니어의 세대에 해당하므로, 동세대의 인구가 대부분, 대학의 입시 경쟁이 매우 격렬했던 세대(뭐, 가는 대학을 선택하지 않으면, 큰 일이지 않았다고 생각합니다만)입니다.이 고등학교를 견학하러 갔을 때, 아직 중방(중학생)이었던 나에게, 그라운드(grounds)에서 방과후의 클럽(club) 활동을 하고 있던, 여고생의, 언니(누나)들이, 「현역으로, 적당히의 대학에 합격하고 싶었으면, 여기(이 고등학교)에 들어가지 않는 것이 좋아」라고 상냥하게 가르쳐 주었던 w.결국, 나는, 나의 지역의 학구(요즘의, 도쿄도립 고등학교는, 학구 제도로, 나의 거리는, 제2 학구(신쥬쿠구, 시부야(shibuya) 구, 메구로(meguro) 구, 세타가야(setagaya) 구)였습니다)에서, 좀 더 입시 난이도가 높은 공립(도립) 고등학교에 입학해, 무사, 현역으로, (일류 대학이 아닙니다만) 적당히의 대학에 합격했던 w

 

사진 이하 9매.히로오(hiro) 산책.

 

 

 

사진 이하 2매.봄의 징조(주:이 때는, 지난 달의 마지막의 무렵).개인의 저택의 뜰.

 

 

 

 

 

 

위의 사진. 이전에는, 개인의 저택이었다 같습니다만, 건축 계획을 적은 보드(board)가 있고, 아무래도 저층의 고급 맨션(아파트) 같은 것에, 되어 버리는 것 같습니다.부지면적은, 2500평위.( 나의 거리도 그렇습니다만), 제2차 세계대전 후의, (빈부의 격차를 잃기 때문에(위해)의) 부동산등을 상속할 때에 지불하는 세금의 세율의 대폭적인 인상등에 의해, 1960년대무렵부터, 현재에 이를 때까지, 도쿄 area나 칸사이(kansai) 대도시권의, 고급 주택가나 조용하고 침착한 주택지의, 느긋한 부지를 가지는 저택은, (주로) 저층의 고급 아파트(맨션), 기업이나 공무원의 사택, 양로원(고령자가 입주하는 시설.공영의 물건과 사영의 물건이 있다) 등의 공공 시설등으로, 차례차례로 다시 세워져 왔습니다.나의 거리에 관해서도, 나의 어릴 적부터 비교해도, 명확하게, 느긋한 부지를 가지는 저택은 줄어 들었고, 느긋한 부지를 가지는 저택의 저층의 고급 아파트(맨션) 등에의 재건축은, 현재도 진행중입니다.이것은, 제2차 세계대전 후, 일본에서, 빈부의 격차가 해소해, 사회 복지가 충실해 온 일의 증거의 하나라고 말할 수 있습니다만, 한편에 있고, 초목이 무성한 저택의 뜰이 망쳐져 한 때의 저택의 부지, 거의 힘껏에, 공동 주택이나 공공 시설의 건물이 지어져 온 일은, 도쿄 area나 칸사이(kansai) 대도시권의, 고급 주택가나 조용하고 침착한 주택지의 초록의 감소와 경관 파괴에 연결되어 왔습니다.


히로오(hiro)에는, 도쿄 area의, 아가씨 학교(부유층의 딸(아가씨)가 다니는 학교)의 하나로서 알려진, 사립 여자대학, 성심(seishin) 여자대학이 있습니다.

 

사진 이하 4매.성심(seishin) 여자대학에 다니는 여학생들의 학생거리의 역할도 과연 있는, 히로오(hiro) 상가(히로오(hiro) 산책 대로).투고상쪽의 에비스(ebisu) 역 주변의 사진과 비교해 받으면 안다고 생각합니다만, 이 날은, 저녁부터 날씨가, 자꾸자꾸 나빠졌습니다...

 

저 편으로 도쿄 tower가 보입니다.도쿄 tower는, 1958년 완성.높이 약 333 m.현재는, 세계적으로는, 약간의 높은 tower에 지나지 않았습니다만, 완성 당시는, 에펠탑(Eiffel Tower)을 빠뜨려 세계 제일 높은 탑이었습니다.현재에도, 도쿄를 상징하는 건물의 하나가 되고 있습니다.상, 현재, 도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동부의 변두리(구시가)에서는, 신토쿄 tower가 건설중으로, 이것은, 완성하면, 높이 약 634 m, 자립식 건축물로서는, Burj Dubai에 뒤잇는, 세계에서 2번째로 높은 건물이 될 예정으로, 중국의 꽝조우의 Guangzhou TV & Sightseeing Tower(2009년말 완성.2010년 개업 예정.중국에서 제일 높은 건축물.BurjDubai에 뒤잇는, 세계에서 2번째로 높은 자립식 건축물)을 빠뜨려, 관광용의 전망대가 있는 탑으로서는, 세계에서, 가장 비싼 것이 될 예정입니다(자립식 전파탑이라고 해도, 세계 제일이 될 예정).도쿄 tower는, 와야 할 TV의 대중화 시대(일본에서는, TV방송은, 1953년에 시작해, 당초는, TV는, 서민에게 있어서는, 꽤 손이 닿지 않는 사치품으로 있었지만, 1950년대말에는, 텔레비젼(TV)이, 서민의 가정에도 보급하는 것처럼 되는 것)에 대비하고, 도쿄 area에 TV전파를 대량으로 송신하기 위해, 계획되어 지어진, TV전파탑입니다만, 신토쿄 tower는, 도쿄의 초고층 빌딩의 증가에 수반해, (도쿄 area에는), 도쿄도심부에서 나란히 서는 200 m급의 초고층 빌딩의 영향을 받지 않는, 보다 키가 큰 TV전파탑이 필요하게 된 때문, 지어지고 있는 것입니다(2011년 7월 24일로서, 일본에서는, 종래의 아날로그(analogue) TV(방송)는, 지상파를 포함해 모두 종료할 예정이므로, 신토쿄 tower는, 지상 디지털(digital) 방송용의 TV전파탑입니다).

 

 

 

 

 

 

지하철의 히로오(hiro) 역 주변의 풍경.

 

사진 이하 8매.히로오(hiro) 상가(히로오(hiro) 산책 그대로)의 나카하라 준이치(nakahara jyunichi.아래의 보충 설명 참조)의 전문점에서, 그녀에게 끌려 산 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)의 작품의 그림 엽서.뭐, 이렇게 말한 세계, 싫은 것은 없습니다 w.무엇보다, 느낌이 좋은, 젊은 여성 점원에, 작품집을 권유받았습니다만, 아니, 거기까지는, 이라고 한 느낌이었지만...w.그러나, 이 그림 엽서, 누구에게 낸다 w?(우리 집에는, 이 그림 엽서, 도대체 누구에게 낸다?이렇게 말하는 그림 엽서가, 상당히 많이 있는 w).

나카하라 준이치(nakahara jyunichi):1913 년생, 1983년에 죽는다.1930년대부터 1970년대에 걸쳐 활약한, 일러스트레이터(illustrator), 인형 작가.타케히사 무지(takehisa yumeji)(1884 년생 1934년에 죽는다.1900년대 후반부터 1930년대 초에 걸쳐 활약한, 근대 일본 전통 화가, 근대 화가, 그래픽 디자이너(graphic designer)), 후키곡홍아(fukiya koji)(1898 년생.1979년에 죽는다.1920년대부터 1970년대에 활약한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator)) 등에 잇고, 일본의 소녀 만화의 화풍의 원형을 만든 작가.1939년에는, 자신의 디자인(design)한 상품등을 두는, 잡화점, 나카하라 준이치(nakahara jyunichi) shop, 「해바라기」를 도쿄의 도심부의 코우지마치(koujimachi)에 개점해, 이 가게는, 학생등 , 당시의 젊은 여성들에게 대단한 인기를 얻었습니다.덧붙여서, 개인적인 이야기입니다만, 죽은, 나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji)나 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiyakoji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 같습니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 만년이 되어도, 후키곡홍아(fukiya koji)의 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

 

그림 엽서의 봉투.이것도, 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)의 디자인(design)이지요...

 

 

그림 엽서의 뒤는, 이런 느낌...

 

 

「딸(아가씨) 12개월 1월·로쿠시대」.1940년.

 

 

「딸(아가씨) 12개월 2월·2월의 눈」.1940년.

 

 

「딸(아가씨) 12개월 6월·반디」.1940년.

 

 

「딸(아가씨) 12개월 12월·눈」.1940년.

 

 

「기모노노 그림책 표리지」.1940년.

 

 

「쥬니어 빗나가 표지」.1958년.

 

사진 이하 3매.히로오(hiro)에 인접하는 미나토(minato) 구의 삼베(azabu) area(아래의 보충 설명 참조)에 있는 아리스가와노미야 기념 공원(arisugawanomiya kinenkouen).에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에는, 지방 영주의 도쿄에서의 별장의 하나이며, 19 세기말에, 황족의 집안(아래의 보충 설명 참조)의 하나로 있던, 아리스가와노미야(arisugawanomiya) 가의 저택이 되었습니다만, 1934년에 공원으로서 일반 개방되었습니다.넓이는, 약 20,000평 있습니다.

황족의 집안:천황의 친족중, 천황가로부터 독립한 생계를 경영하고 한편, 천황으로부터 칭호(궁호)를 받은 집에서, 현재는, 황족의 집안은, 5밖에 존재하지 않습니다만, 제2차 세계대전이 끝난 직후에는, 일본에는, 14의 황족의 집안이 존재하고 있었습니다.

삼베(azabu) area:히로오(hiro) 등에 인접하는 미나토(minato) 구의 삼베(azabu) area는, 도쿄도심부에 있는 고급 주택가에서, 제2차 세계대전 전부터의 고급 주택가 한편, 도쿄를 대표하는 고급 주택지의 하나입니다.

 

 

 

 

 

 

 

덧붙여서, 나의 외가의 조모 및, 나의 외가의 조모의 언니(누나)는, 독신 시대, 나의 외가의 조모의 아버지가, 삼베(azabu) area에 보유하고 있던 도쿄의 별택( 나의 외가의 조모의 친가는, 야마나시(yamanashi) 현의 유복한 지주였다)에 살고 있었다고 합니다.나의 외가의 조모 및, 그 언니(누나)는, 야마나시(yamanashi) 현의 여학교를 졸업한 후, 도쿄의, 현재의 A학원 대학의 전신인, 고등교육 기관을 졸업해(덧붙여서, 나의 어머니도 A학원 대학을 나와 있습니다), 그 후, 나의 외가의 조모와 그 언니(누나), 보조자에, 야마나시(yamanashi) 현에는 돌아오지 않고 , 나의 외가의 조모는, 도쿄의 크리스트교의 교회에 취직해, 나의 외가의 조모의 언니(누나)는, 도쿄에서 회사의 사무원으로서 취직했습니다( 제2차 세계대전전의 이야기입니다).나의 외가의 조모의 아버지는, 당시 , 도쿄 및 그 교외(현재의 도쿄 23 구내)에, 몇개의, 토지와 집을 보유해, 사람에게 빌려 주거나 또, 용무가 있고, 도쿄에 나올 때의, 체재지등으로서 사용하거나 하고 있었습니다만, 그 안의 하나가, ( 나의 외가의 조모가, 맞선에 의해서, 나의 외가의 조부와 결혼했을 때에) 나의 외가의 조부모에게, 주어졌습니다.이것이, 내가, 태어나 자란 우리 집의 부근의 친가입니다(현재는, 나의 부모님이 계승해 모?`노오라고 있다).부지면적 100평 정도의 뜰첨부 독립주택에서, 당시의 중류 계급(여기서 말하는 중류 계급과는, 노동자 계급에 대한 중류 계급의 일입니다)의 독립주택으로서 봐도, 작은 분이었다고 생각합니다만, 나의 외가의 조모의 아버지가, 도쿄 및 그 교외(현재의 도쿄 23 구내)에, 몇개인가 보유하고 있던, 토지와 집 중의 하나였으므로, 뭐, 그 같은 것이지요.삼베(azabu)의 집은, 이것보다, 훨씬 크고, 훌륭했다고 합니다만, 제2차 세계대전 후, 타인의 손에 건너 버렸다고 합니다( 나의 외가의 조모의 친가는, 전후, 서서히, 몰락해 간 같습니다.현재도, 일단, 야마나시(yamanashi) 현에서, 조금은, 훌륭한 집에 살고 있는 것 같습니다만...).상, 이런 이야기는, 조금..일지도 모르지만^^;나의 외가의 조모의 커넥션으로, 나는, A학원 대학은, 들어가려고 하면 편하게 들어가는 것이, 가능했습니다만 w, A학원 대학 밖에 수험하지 않는 것이, 커넥션을 사용하는 조건이었으므로, 커넥션을 사용하지 않았습니다.결국, 보통으로 수험하고, A학원 대학도, 합격했습니다만, 다른 대학에 갔습니다( 나의 남동생도, 그랬다.이렇게 말하는지, 나의 남동생은, 원래, A학원 대학, 수험했던가...잊어 버렸다..) .

 

이 날, 히로오(hiro)&아리스가와노미야 기념 공원(arisugawanomiya kinenkouen)을 산책한 후, 그녀의 일의 용무에 교제하고, 그녀의 거래처가 있는 거리로 이동했습니다(그녀가 일의 용무를 끝마치고 있는 동안, 나는, 책의 서서 읽음등 해 시간을 보내고 있었습니다).

 

어쨌든, 이 날은, 추워서, 그녀가 일을 용무를 끝마친 후, 나의 희망에 의해, 저녁 식사는, 거리를 걷자 마자 , 적당하게 눈에 들어온, 화민(watami) 계의 대중 선술집(일본 전통식의 pub)의 체인점(chain), 좌·화민(za·watami)에서 먹었습니다.화민(watami)은, 일본의 대중 선술집의 체인점(chain)의 하나입니다.

 

 

 

그녀는, 기본적으로, 밖에서는 알코올(alcohol)이 들어간 음료는 마시지 않습니다만, 이 날은, 예외적으로, 조금 마셨습니다.사진은, 그녀가, 이 때 마신 음료의 하나, 「숲의 요정」이라고 하는 칵테일(cocktail)입니다.화민(watami)의 독자적인 칵테일(cocktail)의 같습니다만, 뭐, 레인보우(rainbow) 계의 칵테일(cocktail)이라고 한 곳이지요...백도, 패션 프루츠(passion fruit), 오렌지(orange), 블루 큐라소(curaç ao)의 칵테일(cocktail)이라고 합니다.4색의 색이 깨끗한 칵테일(cocktail)입니다.그녀는, 결국, 이 때, 「숲의 요정」2배로 아이스라테(iced latte)를 한잔 마셨습니다.

 

나는, 소수 인원의 친한 친구들이나 그녀와 대중 선술집의 체인점(chain)에서 마실 때는, 대부분 최초의 한 잔은 맥주, 나머지는, 오로지 위스키(whisky)라고 한 느낌이 많습니다.무엇보다, 이 날은, 원래, 식사를 하는(저녁 식사를 먹는다) 일을 주로 생각하고 있던 때문, 별로 마시지 않았습니다.사진은, 내가 2배눈에 마신, 음료.위스키(whiskey), 어얼리 타임즈(EARLY TIMES)의 더블(double) 락(on the rocks).이 날은, 그 밖에, 생맥주(beer) 한잔(suntory the premium malt’ s), 국산의 위스키(whisky), 산토리(suntory) 히비키(hibiki)의 더블(double) 락(on the rocks)을 한잔 마셨습니다.덧붙여서, 전혀 신경을 쓸 필요가 없는, 극히 친한 남자의 친구(들)와 나를 포함해 2명에서 4명 정도로, 대중 선술집의 체인점(chain)에서 마실 때는, 최초의 한잔만 생맥주(beer)를 부탁하고, 후는, 곧바로, 모퉁이(kaku)(아래의 보충 설명 참조)의 보틀(bottle)을 1개 부탁해 버리는 일도 많습니다(싸게 들어서...).

각(kaku):각(kaku)(각병)는, 산토리(suntory)의 위스키(whisky)의 브랜드(brand)의 하나로, 일본의 위스키(whisky) 중(안)에서, 저렴한 대중 위스키(whisky) 브랜드(brand)의 대표적인 것의 하나가 되고 있습니다.1937년부터의 역사를 가지고 있습니다.

 

대중 선술집의 체인점(chain)의, 안주는, 저렴한 맛입니다만, 대학생의 무렵, 이렇게 말하는 맛에 길들여져 버렸기 때문에인가, 저렴하면에서는의 맛있음이라고 한 것을 느끼는 w.근년, 조금 위세가 좋은, 옛날부터의 친구가 있습니다만, 이전, 그 친구가, 유가와라(yugawara)(도쿄에 가까운 역사의 낡은 온천 보양지)의 바다 석류(tsubaki)라고 하는 고급 온천 여관(고급 온천 여관 중(안)에서도 비교적 높은 여관)에, 휴일에 2련 묵은, 조금 후위에, 그 친구와 화민(watami)으로 함께 마셨습니다만, 무엇인가, 바다 석류(tsubaki)의 요리는, 2일에 질려 버렸다고 하고, 「화민(watami)이, 좋은 맛네나..」라고 했던 w.뭐, 나는, 그 친구정도, 극단적이고는 없고, 나도, 그 친구도, 입맛이 빠르지 않는다고 하면, 그것까지입니다만...

 

사진 이하 11매.이 때 먹은, 안주.그녀와 둘이서 먹은 것입니다.

 

밀어내기(선술집등에서 최초로 나오는 간단한 요리:설명문, wiki로부터 발췌).일인일명씩.

 

 

시저 사라다(caesar salad).

 

 

치즈(cheese)의 튀김.

 

 

닭의 가슴에서 날개까지의 고기(닭의 날개부 분의육의 튀김).

 

 

쇠고기, 주사위 스테이크.

 

 

유채와 무의 유자나무매화 사라다(salad).

 

 

연어와 이크라(연어의 알)의 부모와 자식 스시.화민(watami)의 연어와 이크라(연어의 알)의 부모와 자식 스시는, 맛있다고 생각합니다.이것은, 다음에, 이제(벌써) 일명, 부탁했습니다.

 

 

노른자위 다랑어 쇠고기가 빚어(경단).

 

 

범립과 송이 버섯(버섯)의 버터(butter) 구이.

 

 

바닐라 아이스크림(vanilla ice cream).

 

 

후와트로프린(pudding).

 

 

도쿄 산책&식사, 끝...

 

이하 덤.

 

사진 이하 2매.수요일(저녁 식사는, 외식으로 끝마쳐 왔습니다), 일로부터 돌아와(곧바로) 먹은 단 것(이것 전부 한 번에 먹은 것은 없습니다).나 나가노(nagano) 현의 별장의 현지의 서양 과자 가게씨(카야노(chino) 점을, 자주(잘) 이용하고 있습니다), Nouvel 매화나무 숲당(bairindo)의, 과자.이, 과자가게씨의, 오는 봐 메아리라고 말하는, 과자는, 나의, 마음에 드는, 과자가 되고 있습니다.뭐, 스와(suwa)의 달도, 맛있지만..

 

 

 

앞이, 오는 봐 메아리(이것은, 작은 size의, 오는 봐 메아리로, 통상의 size의 물건이 아닙니다).좌상은, 스와(suwa)의 달.이름은, 센다이(sendai)의, 과자, 하기(hagi)의 달의, 웬지 모르게, 파크리 같은 느낌입니다만, 과자 자체는, 하기(hagi)의 달과는 완전히 다른 느낌의, 과자입니다.

 

 

일로부터 돌아온 한잔용 맥주.우리 집의 정평 맥주는, 에비스(yebisu) 맥주입니다만, 맥주는, 에비스(yebisu)만 마시고 있다고 하는 것은 아니고, 다른 맥주도 마십니다.사진왼쪽에서, 각각, 일본의 대기업(major) 맥주 회사에서 있는, sapporo(1877년 창업), suntory(1899년 창업), asahi(1889년 창업)의 맥주.덧붙여서, suntory는, 일본의 대기업(major) 위스키(whisky) 회사의 하나에서도 있습니다.이 날은, 제일 왼쪽의 sapporo의 맥주를 마셨습니다.이 날은, 자택에 반입한 일이 있던 때문, 마신 술은, 맥주 1캔만.기본적으로, 자택에, 밤, 일을 반입했을 때는, 술은 마시지 않습니다만, 이 날은, 거래와는 직접 관계 없는, (내가 영위하고 있는 개인 사업의) 잡다한 사무 처리였던 때문...

 

식료고가 되어 있는, 우리 집의 1층의 복도의 크로젯트(closet)(본래는, 복용)에, 대체로, 언제나 들어가 있는 술의 예.

 

꼭 좋을 때에 마시는 안주(저렴한 일본술).전혀 신경을 쓸 필요가 없는 같은 친한 친구가 우리 집에 왔을 때에 내거나도 하는 w 일본술 중(안)에서, 가장 저렴한 class의 술입니다.특히, 이 brand라고는 할 수 없지 못하고, 다른 「귀신무렵 해」나, 백학 「만」, 송죽매의 「하늘」등 , 그때그때에 따라서 다릅니다.

 

사진 이하 2매.약간의 때에 마시는 샴페인(champagne).뭐, 약간의 시 이외에도, 마셔 버립니다지만...나의 거리의 염가 판매 마트에서, 샴페인(champagne)도, (통상보다) 상당히 싼 가격으로 손에 넣을 수가 있습니다. 

 

 

 

 



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