食べ物

 

 

4月の前半に、長野(nagano)県に有る、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉に宿泊した後、東京の我が家に帰って来たのですが、その帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県(下の補足説明参照)の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したのは、この時が、初めてでした(富岡(tomioka)を散歩したのも、この時が、初めてでした)。

群馬(gunma)県:東京area(東京圏)の北西端に位置する県。南は、埼玉(saitama)県、西は、長野(nagano)県、東は、栃木(tochigi)県、北は、新潟(niigata)県と(少しでは有るが)福島(fukushima)県と接する。

 

日本では、多くの伝統的な文化財が保存されていますが、それと供に、(伝統的な文化財には、遥かに及ばないものの)、多くの近代化産業遺産が、保存されています。その様な近代化産業遺産(日本に保存されている近代化産業遺産)の中で、群馬(gunma)県の南西部にある小都市、富岡(tomioka)に有る、旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)は、代表的な物の一つとなっています。

 

以下、小さな字の部分は、興味の有る方だけ、ご覧下さい。

 

日本は、19世紀後半から、西洋の技術及び一部の文化を取り入れ、近代化を図る様になりました。日本は、それ以来、着実に近代化・工業化を進め、日清戦争(1894年から1895年の間に行われた、日本と中国(清)の間の戦争。兵力的には、圧倒的に優位であった中国(清)に対し、日本は、近代化された軍隊により勝利した)、日露戦争(1904年から1905年の間に行われた、日本とロシア(Russia)の間の戦争。日本の実質的な勝利に終る)等を経て、第一次世界大戦(1914年から1918年。下の補足説明参照)が終る頃には、日本は、名実供に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりました。

第一次世界大戦:1914年から1918年。日本は、第一次世界大戦においては、連合国側で、戦勝国で有った。日本は、主戦場で有ったヨーロッパ(Europe)から離れていたので、損害が少なく(国土は、戦火に見舞われなかった)、むしろ、連合国側の他の参戦国からの軍需品の注文を受け、好景気に湧き、高度経済成長を果たした(wikiを参考にしました)。戦後は、日本は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと供に、国際連盟(League of nations)(下の補足説明参照)の発足時の常任理事国となりました。

国際連盟(League of nations):1919年から1946年。国際連合(United Nations)の前身。発足時の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリア。発足時の加盟国は、42ヶ国。加盟国は、最高で60ヶ国近くに達した(1930年代半ば)。1946年に解散して国際連合(United Nations)に移項(wikiより)。

 

とは言え、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ(下の補足参照)、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と供に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、農業を中心とした第一次産業の比率が比較的高い農業国的な国で有り、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。

ドイツ:ドイツも、日本同様、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被りましたが、元々、第二次世界大戦以前から世界最高水準の科学技術力、(高速道路(Autobahnen)や世界最高水準の緻密さを誇る鉄道網等の)世界最高水準のインフラ(infrastructure)を有していた等の蓄積があった上に、第二次世界大戦後、特に西ドイツは、日本と同様、奇跡と言われる高度経済成長を果たし、見事に復活を遂げました(ちなみに、戦後、東ドイツも、着実な経済成長を遂げました)。西ドイツも、日本と同様、1970年代初め頃は、経済の発達にのみ集中する時代から抜け出しつつあると言われていた様です。

 

日本は、1950年代から1960年代にかけて、奇跡と言われる高度経済成長を果たし、1975年に発足した、サミット(summit)(下の補足説明参考照)には、日本は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアと供に、G6として、発足当初のメンバー(member)として参加しましたが、先に進む、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ等に追いつこうと、ひたすら経済成長のみを追い求めた結果、1950年代から1960年代にかけて、水俣(minamata)病等の深刻な公害病、大気汚染等の深刻な環境問題が発生しました(日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた、1970年代においては、それまでの、経済発展最重視の政策から、公害や環境に対する取り組みが本格的に行われるようになり、1970年代を通じて、日本の環境は、ずいぶん改善されました)。

サミット(summit):(主要)先進国首脳会議。1990年代後半にロシア(Russia)が参加してからは、主要国首脳会議。1975年発足。発足当初のメンバー(member)は、アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、日本、イタリア。イタリアも、日本と同様、第二次世界大戦後、奇跡の経済成長を遂げました。西ドイツ、日本、イタリアの、第二次世界大戦後の奇跡の高度経済成長は、もちろん、それぞれの国の、それまでの蓄積と国民の努力も有りましたが、戦後、西側先進国の一員となった、かつての枢軸国(敗戦国)且つ工業大国(西ドイツ、日本、イタリア)を、ソビエト(Soviet)連邦を中心とした東側諸国に対する、対抗勢力として育成しようとしたアメリカの、寛大な政策の、おかげも、かなり有ると思います。ちなみに、フランスも、第二次世界後、著しい経済成長を遂げましたが、イギリスは、長期に渡って経済が停滞傾向に有りました(イギリス病(The British disease)と呼ばれたりもした)。

 

国民一人当りのGNPにおいて、日本がアメリカを追い抜かした1980年代から、まだバブル景気(economic bubble)の余韻が残っていた1990年代半ば頃にかけては、おそらく、歴史上、日本の経済が、最も勢いが有り、且つ、最も世界に影響力が有った時期だと思います。この時期は、日本は、産業技術力・競争力及び、経済力で、アメリカに脅威を与える程で有り、このまま行けば、(日本は、アメリカよりも、人口が、ずっと少ないのにも関わらず)、日本経済規模がアメリカを上回り、世界一になるのではないかと、少なからぬアメリカの知識人達が日本に対して脅威を感じていました(日本の国民一人当りのGDPが、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス等の2倍程に達し(確か)、ルクセンブルク(Luxembourg)、スイスと並んで、世界最高水準だった時期も有ります。これは、人口5,000万人以上の先進工業大国としては、異例の事です。第二次世界大戦後においては、他は、全盛期のアメリカ位かな。。。)。もっとも、この頃の日本については、個人的に、大分、背伸びをしていたと言うか、過大評価されていた様に思います。

 

インターネット(Internet)が、先進国及び新興工業国の家庭に、広く普及し始めた、1990年代後期以降(所謂、ITの時代?)、アメリカは、総合的な、産業技術力・競争力及び、経済成長で、日本を巻き返し、日本は、逆に、長期に渡る、停滞期に入りました(それは、現在まで続いています)。また、一方において、日本は、従来の得意分野(の一部)で有る、自動車産業、電子産業、造船産業、製鉄(鉄鋼産業)で、これ等の分野で成長著しい韓国に、激しい追い上げを受ける事になりました。

 

日本は、現在、調度イギリス病(The British disease)の頃のイギリスの様に、経済が停滞中です。日本は、果たして、国際的な産業競争に乗り遅れたり、適切な産業転換を図れなかったりして、このまま、過去に蓄積した技術や富を食いつぶしながら、徐々に衰退して行くのでしょうか。。それとも、イギリスの様に復活を遂げるのか。。。

 

話が、大分、脱線しましたが、写真以下68枚。旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)。旧富岡(tomioka)製糸工場は、日本における産業革命を象徴する史跡であると供に、日本の代表的な近代化産業遺産の一つです。富岡(tomioka)製糸工場(富岡(tomioka)製糸場)は、1872年に操業が開始された、官営(国営)(後に民営化された)の製糸工場で、日本初の器械化された製糸工場です。富岡(tomioka)製糸工場は、1987年まで、約115年間操業を続けましたが、現在は、富岡(tomioka)市の所有・管理の下、日本の近代化産業遺産として保存され、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。

 

富岡(tomioka)製糸工場は、日本の製糸工場の模範となるべき工場として、国が、フランスから技師を招き、フランスから、最新式の器械を導入して(当時、フランスとイタリアが、世界の製糸業の先端を行っていた)、19世紀後半に建てた製糸工場(1872年に操業開始)で、当時としては、最新式の設備を持つ、世界最大級の規模を持つ製糸工場でした。

 

写真以下2枚。古い絵に描かれた、富岡(tomioka)製糸工場。


 

 

 

 

 

 

富岡(tomioka)製糸工場の古い写真。

 

写真以下4枚。(旧)富岡(tomioka)製糸工場の門(入り口)等。(旧)富岡(tomioka)製糸工場は、群馬(gunma)県(東京area(東京圏)の北西端に位置する県)の南西部にある小都市、富岡(tomioka)の市街地に有ります。富岡(tomioka)製糸工場は、創業時には、世界最大級の製糸工場でした。現在は、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場では、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)(富岡(tomioka)製糸工場設立の総指揮者・操業開始当初における、指導責任者・工場管理者)、男性技師、工女(女性工場労働者)から成る、日本政府に雇われた、10人程のフランス人が、指導的な立場で、働いていました。写真一番左側に写っている男性は、日本人通訳かと思われます。フランス人生糸技術者、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)は、東京圏及び、その周辺地域を調査し、富岡(tomioka)付近は、製糸に必要な繭を確保出来る事、町の中心部に、工場建設に必要な広い土地を確保出来、また町民の同意があった事、(製糸に必要な)水が豊富である事、燃料の石炭が、近くの、高崎(takasaki)、吉井(yoshii)で採れる事等の理由で、富岡(tomioka)に、日本の工業化の模範となるべき、製糸工場を建設しました。尚、フランス人工女(女性工場労働者)達は、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、日本人工女(女性工場労働者)達に対し、工場における、器械化された製糸作業の指導を行いました。

 

 

 

 

 

写真以下4枚。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物です。フランス人男性技師達が役目を終えて去った後は、改装されて、事務所及び、(工場を視察しに来る政府関係者等を接待する)貴賓室の建物として使われる様になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人工女(女性工場労働者)達の寮として使われていた建物です。後に改装され、1階は、食堂、2階は、休憩室・会議室等として使われていました。

 

 

 

写真左側は、上で紹介した、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物。

 

 

 

 

写真以下3枚。東繭倉庫。規模の大きな建物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真左、東繭倉庫。写真右、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人男性技師達の寮として使われていた建物。

 

写真右、東繭倉庫。写真左、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、フランス人工女(女性工場労働者)達の寮として使われていた建物。

 

 

 

 

写真以下10枚。ブリューナ(Brunat)館。操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場において、富岡(tomioka)製糸工場設立の総指揮者及び(富岡(tomioka)製糸工場の操業開始当初における)指導責任者・工場管理者であった、フランス人技術者、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)が、家族と供に暮らしていた、工場内に有る邸宅です。中々立派な邸宅です。富岡(tomioka)製糸工場は、日本の工業化の基礎となるべき重要な施設の一つとして建てられた物なので(その後に、日本各地に、たくさん建てられた製糸工場の模範となるべき工場として建てられた)、その設立の総指揮者及び操業開始当初における指導責任者で有った、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)には、(富岡(tomioka)製糸工場に関連して雇われたフランス人の中でも)、給料面も含めて、破格の(特別な)待遇が与えられました。ブリューナ(Brunat)館には、ワイン(wine)等の食料品を貯蔵していたと言われる、レンガ(煉瓦)造りの地下室が三室有ります。当初、富岡(tomioka)製糸工場は、たびたび工女(女性工場労働者)募集の通達を出しても、予定通りの人数が集まりませんでした。富岡(tomioka)製糸工場へ入場すると「外国人に生き血をとられる」と言う噂が、流れていたからです。フランス人技師達が、好んで飲むワイン(wine)を、生き血と思いこんだ所から、この様な噂が生じた様です(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(brochure)より)。当時の日本人は、基本的に、上流階級の人々、若しくは、西洋人(西洋文化)に、頻繁に接する職業に就いている者を除いて、ワイン(wine)など見た事も無かった事でしょう。。。尚、ブリューナ(Brunat)館は、ポール・ブリューナ(Paul Brunat)が、その役目を終えて、家族と供に、富岡(tomioka)を去った後は、改装されて、(工場の福利厚生(福祉)の一環としての)工女(女性工場労働者)の習い事(文化教室)の教室、工女(女性工場労働者)の為の余暇施設等として使われました(確か。。。ちょっとガイド(guide)に受けた説明の記憶が曖昧。。。)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下10枚。繰糸場(製糸作業場)の建物。

 

規模の大きな建物です。上の写真に写っている部分は、建物全体の40%程で、奥に、さらに長く建物が続いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、繰糸場(製糸作業場)に残されている機械は、1987年の工場の操業停止時に使われていた物で?、昭和40年代(1960年代半ばから1970年代初め)に導入された日本製の物です(創業時の、フランス製の製糸器械は、長野(nagano)県の中南部にある小都市、岡谷(okaya)(1910年代から1930年代にかけて、日本の製糸産業の中心地の一つ(おそらく、日本の製糸業の最大の生産拠点)として栄えた)に有る、蚕糸(製糸)博物館(私は、まだ、訪れた事が有りません)に保存されています)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚、写真に残る工場創業時に導入された、フランス製の製糸器械。創業当時、世界最先端の製糸器械が導入されました。

 

 

 

 

 

古い絵に描かれた、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の姿(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(brochure)から。。。)。富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の服装は、後に、西洋式の物に変わりましたが、初期の頃は、この様な日本(伝統)式の服装でした。富岡(tomioka)製糸工場は、上の方でも説明した通り、その後、日本各地に、たくさん建てられた製糸工場の模範となるべき工場として、1872年に操業が開始された、官営(国営)の製糸工場で、1893年に民営化され(民間(三井(mitsui)家)に売り渡され)ました(その後、富岡(tomioka)製糸工場は、2回、所有者(owner)・経営者が変わっています)。第二次世界大戦前の、日本の製糸工場と紡績工場については、賃金面、労働時間面等も含めた、工女(女性工場労働者)達の悲惨な労働環境(資本家(経営者)達による低賃金労働者の搾取)が有名ですが(中には、工場労働者の労働環境・福祉について、先進的な考えを持った資本家(経営者)達も存在しました)、日本各地の製糸工場に模範を示す役割を担っていた、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、事情が、少し異なっていました。工女(女性工場労働者)は、一日8時間労働で、日曜日は休み、夏休み、年末年始の休暇有りと言った、当時としては、決して悪く無い待遇でした。また、雇われた工女(女性工場労働者)達も、比較的良い家柄の娘達で、賃金面での待遇も、決して悪く無かった物と思われます。官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場には、全国から多くの工女(女性工場労働者)が集められ、工場における、器械化された製糸作業を学び、習得しました。彼女達は、富岡(tomioka)製糸工場で、ある程度勤務した後、それぞれの故郷に帰り、地元の製糸工場で指導的な立場で活躍し、日本の器械化された製糸工業の発展と産業の近代化に大きく貢献しました(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(brochure)を参考にしました)。しかしながら、理想と現実は、完全には合致せず、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、大規模過ぎるが故の効率性の悪さ(官営(国営)だったので、経営が甘かったと言うのも有ると思います)、工女(女性工場労働者)達の待遇(賃金・労働時間)の良さ(当時としては)等から、(生産された高品質の生糸は、海外でも、好評を得たものの)、経営は、決して黒字ばかりでは有りませんでした(確か。。。ちょっとガイド(guide)に受けた説明の記憶が曖昧。。。)。

 

 

写真以下6枚。工場内の病院として使われていた建物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下5枚。工場内、その他の建物等。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。前述した通り、現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物ですが、この煙突は、1939年に建てられた鉄筋コンクリート製の物です。高さは、37.5m有ります。尚、工場の1872年の創業時の煙突は、鉄製で、高さは、36m有り、フランス製と言われる避雷針も設置されていましたが、暴風雨の為、倒壊してしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

この写真に関しての説明書きは、東京国立博物館所蔵としか有りませんでしたが、1872年の創業時の煙突の写真かな。。。(ガイド(guide)さんに、質問すれば良かった。。。)。

 

 

 

 

 

写真以下5枚。西繭倉庫。規模の大きな建物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富岡(tomioka)製糸工場に関しては、これで終り。

 

写真以下10枚。富岡(tomioka)の市街地には、1910年代から1930年代頃に建てられたと思われる、商店や一戸建て住宅の建物が点在して残っています。こうした建物は、1910年代から1930年代頃の、日本の地方(田舎)や大都市近郊の、小都市の市街地の風景をイメージさせてくれます。

 

写真以下2枚。時計屋さんの建物。

 

 

 

 

 

 

洋服屋(tailor。顧客から注文を受けた服を仕立て(製作し)販売する店)の建物。

 

 

写真以下2枚。日本料理食堂の建物。

 

 

 

写真右側に見える、白い壁の建物は、蔵(倉庫)。

 

写真以下3枚。日本伝統式の一戸建て住宅(写真以下3枚は、同じ一戸建て住宅)。空き家の(現在は、もう誰も住んでいない)様でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

裏路地。

 

 

古い店舗の建物を改装した(記憶が曖昧だが、確か、そんな感じだったと思う)、レストラン。

 

 

昼食は、富岡(tomioka)市街の、庶民的な、うどん・蕎麦食堂で、お切り込み(okirikomi)を食べました(写真は、一人分)。お切り込み(okirikomi)は、群馬(gunma)県で、昔から、よく食べられている家庭料理です。お切り込み(okirikomi)は、うどんに似た食べ物ですが、平らな麺を使い、具が多い点に、特徴が有る様です。また、ほうとう(houtou)と同様、麺と具を汁で煮込んでいる事から、普通の、うどんに比べ、濃厚な独特な味わいが有る所に特徴が有る様です(wikiを参考にしました)。お切り込み(okirikomi)は、ほうとう(houtou)(山梨(yamanashi)県で、昔から、家庭で、よく食べられている、山梨(yamanashi)県の名物料理。うどんに似ているが、麺は、通常、平らな物で(すいとん状の物も有り)、汁(soup)は、味噌仕立てで、(通常)具の量が多い所に、特徴が有る)に、よく似ていますが、ほうとう(houtou)は、汁が、味噌仕立てで有るのに対し、お切り込み(okirikomi)は、汁が、(普通のうどんの汁に似た)醤油仕立ての物と、(ほうとう(houtou)の汁に似た)味噌仕立ての物、両方ある点が、異なる様です。この店の、お切り込み(okirikomi)の汁は、普通のうどんの汁に似た、醤油仕立ての物でした。また、ほうとう(houtou)は、南瓜(カボチャ)が、好んで、よく、具の一つとして使われますが、(南瓜(カボチャ)を中心に甘い具が含まれる、ほうとう(houtou)に対し)、お切り込み(okirikomi)は、サツマイモ(sweet potato)や南瓜(カボチャ)の様な甘い具は、あまり用いられない点に、特徴が有ります(wikiより)。お切り込み(okirikomi)は、記憶に残る限り(もしかしたら、今まで、宿泊した、旅館の料理の一品か何かとして、出ていた事が有ったかも。。。)、今回(この時)、初めて食べたのですが、中々、美味しかったです。


富岡(tomioka)散歩&食事、終り。

 

 

おまけ。季節の果物、桃。桃は、私の好きな果物の一つです。写真の桃は、山梨(yamanashi)県(桃の主要な産地の一つとなっている)産の桃です。日本の桃は、瑞々しくて美味しいです。

 

写真以下2枚。山梨(yamanashi)県の桃畑の桃の花(前にアップ(uplaod)した写真の再利用)。手前は、菜の花。

 

 

 


토미오카(tomioka) 산책&식사.

 

 

4월의 전반에, 나가노(nagano) 현에 있는, 별장에서, 보냈을 때, 별장으로부터 발길을 뻗쳐, 토구라 가미야마다(togurakamiyamada) 온천에 숙박한 후, 도쿄의 우리 집에 돌아왔습니다만, 그 돌아가는 길에, 토미오카(tomioka.군마(gunma) 현(아래의 보충 설명 참조)의 남서부에 있는 소도시)에 들르고, 일본의 대표적인 근대화 산업 유산의 하나, 구토미오카(tomioka) 제사 공장을 견학하거나 했을 때의 물건입니다.구토미오카(tomioka) 제사 공장을 견학한 것은, 이 때가, 처음이었습니다(토미오카(tomioka)를 산책했던 것도, 이 때가, 처음이었습니다).

군마(gunma) 현:도쿄 area(동경권)의 북서단에 위치하는 현.남쪽은, 사이타마(saitama) 현, 서쪽은, 나가노(nagano) 현, 동쪽은, 토치기(tochigi) 현, 북쪽은, 니가타(niigata) 현과(조금이지만) 후쿠시마(fukushima) 현과 접한다.

 

일본에서는, 많은 전통적인 문화재가 보존되고 있습니다만, 그것과 보조자에, (전통적인 문화재에는, 훨씬 더 미치지 않기는 하지만), 많은 근대화 산업 유산이, 보존되고 있습니다.그 같은 근대화 산업 유산(일본에 보존되고 있는 근대화 산업 유산) 중(안)에서, 군마(gunma) 현의 남서부에 있는 소도시, 토미오카(tomioka)에 있는, 구토미오카(tomioka) 제사 공장( 구토미오카(tomioka) 제사장)는, 대표적인 것의 하나가 되고 있습니다.

 

이하, 작은 글자의 부분은, 흥미의 있는 분만, 봐 주세요.

 

일본은, 19 세기 후반부터, 서양의 기술 및 일부의 문화를 받아 들이고 근대화를 도모하는 것처럼 되었습니다.일본은, 그 이후로, 착실하게 근대화·공업화를 진행시켜 청일 전쟁(1894년부터 1895년간에 행해진, 일본과 중국(청)의 사이의 전쟁.병력적으로는, 압도적으로 우위에서 만난 중국(청)에 대해, 일본은, 근대화 된 군대에 의해 승리한), 러일 전쟁(1904년부터 1905년간에 행해진, 일본과 러시아(Russia)의 사이의 전쟁.일본의 실질적인 승리에 끝난다) 등을 거치고, 제1차 세계 대전(1914년부터 1918년.아래의 보충 설명 참조)가 끝나는 무렵에는, 일본은, 명실보조자에, 공업국 한편 세계의 대국(열강)의 하나가 되었습니다.

제1차 세계 대전:1914년부터 1918년.일본은, 제1차 세계 대전에 대해서는, 연합국측에서, 전승국으로 있었다.일본은, 주전장에서 있던 유럽(Europe)에서 떨어져 있었으므로, 손해가 적고(국토는, 전화에 휩쓸리지 않았다), 오히려, 연합국측의 다른 참전국으로부터의 군수품의 주문을 받고 호경기에 솟아, 고도 경제성장을 완수했다(wiki를 참고로 했습니다).전후는, 일본은, 전승국 한편 자본주의 공업국 한편 대국으로서 영국, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, 국제연맹(League of nations)(아래의 보충 설명 참조)의 발족시의 상임이사국이 되었습니다.

국제연맹(League of nations):1919년부터 1946년.국제연합(United Nations)의 전신.발족시의 상임이사국은, 영국, 프랑스, 일본, 이탈리아.발족시의 가맹국은, 42개국.가맹국은, 최고로 60개국 가깝게에 이르렀다(1930년대 중반).1946년에 해산해 국제연합(United Nations)에 이항(wiki보다).

 

그렇지만, 일본과(일본보다 훨씬 더 전부터, 강력하게 공업화나 인프라(infrastructure) 정비를 추진하고 있던) 영국, 독일(아래의 보충 참조), 미국등과의 차이는, 훨씬 크고, 또, 일본은, 도중 , 제이차 세계대전에 대하고, 각 산업이 괴멸적인 손해를 입은 일등도 있고, (일본은), 1960년대 초 무렵까지(특히 1950년대무렵까지)는, 남 유럽 제국(이탈리아, 스페인, 포르투갈(Portugal), 그리스(Greece)) 등과 보조자에, 자본주의 공업국(혹은, 자본주의적인 공업국.제이차 세계대전 후는, 서쪽 선진 공업국) 중(안)에서는, 농업을 중심으로 한 제1차 산업의 비율이 비교적 높은 농업국적인 나라에서 있어, 가장 궁핍하게 후진적인 그룹(group)에 속하고 있었습니다.

독일:독일도, 일본 같이, 제이차 세계대전에 대하고, 각 산업이 괴멸적인 손해를 입었습니다만, 원래, 제이차 세계대전 이전부터 세계 최고 수준의 과학기술력, (고속도로(Autobahnen)나 세계 최고 수준의 치밀함을 자랑하는 철도망등의) 세계 최고 수준의 인프라(infrastructure)를 가지고 있던 등의 축적이 있던 후에, 제이차 세계대전 후, 특히 서독은, 일본과 같이, 기적이라고 해지는 고도 경제성장을 완수해, 보기 좋게 부활을 이루었습니다(덧붙여서, 전후, 동독도, 착실한 경제성장을 이루었습니다).서독도, 일본과 같이, 1970년대 초 무렵은, 경제의 발달에게만 집중하는 시대로부터 빠져 나가고 있다고 말해지고 있던 같습니다.

 

일본은, 1950년대부터 1960년대에 걸치고, 기적이라고 해지는 고도 경제성장을 완수해, 1975년에 발족한, 서미트(summit)(아래의 보충 설명 참고조)에는, 일본은, 미국, 영국, 서독, 프랑스, 이탈리아와 보조자에, G6로서 발족 당초의 멤버(member)로서 참가했습니다만, 먼저 진행되는, 미국, 영국, 프랑스, 서독등을 따라 잡으려고, 오로지 경제성장만을 추구한 결과, 1950년대부터 1960년대에 걸치고, 미나마타(minamata) 병 등의 심각한 공해병, 대기오염등의 심각한 환경 문제가 발생했습니다(일본이 성숙한 선진 공업국으로서의 길을 걷기 시작한, 1970년대에 있어서는, 지금까지의, 경제발전최중시의 정책으로부터, 공해나 환경에 대한 대처가 본격적으로 행해지게 되어, 1970년대를 통해서, 일본의 환경은, 대단히 개선되었습니다).

서미트(summit):(주요) 선진국 수뇌 회의.1990년대 후반에 러시아(Russia)가 참가하고 나서는, 주요국 정상회의.1975년 발족.발족 당초의 멤버(member)는, 미국, 서독, 프랑스, 영국, 일본, 이탈리아.이탈리아도, 일본과 같이, 제이차 세계대전 후, 기적의 경제성장을 이루었습니다.서독, 일본, 이탈리아의, 제이차 세계대전 후의 기적의 고도 경제성장은, 물론, 각각의 나라의, 지금까지의 축적과 국민의 노력도 있었습니다만, 전후, 서쪽 선진국의 일원이 된, 한 때의 추축국(패전국) 한편 공업 대국(서독, 일본, 이탈리아)을, 소련(Soviet) 연방을 중심으로 한 동쪽 제국에 대한, 대항 세력으로서 육성하려고 한 미국의, 관대한 정책의, 덕분도, 꽤 있다고 생각합니다.덧붙여서, 프랑스도, 제2차 세계 후, 현저한 경제성장을 이루었습니다만, 영국은, 장기에 걸쳐 경제가 정체 경향에 있었던(영국병(The British disease)으로 불리기도 했다).

 

국민 한 명당의 GNP에 대하고, 일본이 미국을 쫓아 빠뜨린 1980년대부터, 아직 버블 경기(economic bubble)의 여운이 남아 있던 1990년대 중반무렵에 있어서는, 아마, 역사상, 일본의 경제가, 가장 기세가 있어, 한편, 가장 세계에 영향력이 있었던 시기라고 생각합니다.이 시기는, 일본은, 산업기술력·경쟁력 및, 경제력으로, 미국에 위협을 주는만큼으로 있어, 이대로 가면, (일본은, 미국보다, 인구가, 훨씬 적은데도 관련되지 않고), 일본 경제 규모가 미국을 웃돌아, 세계 제일이 되는 것은 아닐까, 적지않은 미국의 지식인들이 일본에 대해서 위협을 느끼고 있었습니다(일본의 국민 한 명당의 GDP가, 미국, 독일, 영국, 프랑스등의 2배 정도에 이르러(확실히), 룩셈부르크(Luxembourg), 스위스와 함께, 세계 최고 수준이었던 시기도 있습니다.이것은, 인구 5,000만명 이상의 선진 공업 대국으로서는, 이례의 일입니다.제이차 세계대전 후에 대해서는, 외는, 전성기의 미국위일까...).무엇보다, 요즘의 일본에 대해서는, 개인적으로, 상당히, 발돋움을 하고 있었다고 하는지, 과대 평가되고 있던님이 생각합니다.

 

인터넷(Internet)이, 선진국 및 신흥 공업국의 가정에, 넓게 보급하기 시작한, 1990년대 후기 이후(소위, IT의 시대?), 미국은, 종합적인, 산업기술력·경쟁력 및, 경제성장으로, 일본을 반격, 일본은, 반대로, 장기에 걸치는, 정체기에 들어갔습니다(그것은, 현재까지 계속 되고 있습니다).또, 한편에 있고, 일본은, 종래의 우수 분야(의 일부)에서 있는, 자동차 산업, 전자 산업, 조선 산업, 제철(철강 산업)로, 이것등의 분야에서 성장 현저한 한국에, 격렬한 추격을 받는 일이 되었습니다.

 

일본은, 현재, 세간 영국병(The British disease)의 무렵의 영국과 같이, 경제가 정체중입니다.일본은, 과연, 국제적인 산업 경쟁에 놓치거나 적절한 산업 전환을 도모할 수 없거나 하고, 이대로, 과거에 축적한 기술이나 부를 탕진하면서, 서서히 쇠퇴해 가는 것입니까..그렇지 않으면, 영국과 같이 부활을 이루는 것인가...

 

이야기가, 상당히, 탈선했습니다만, 사진 이하 68매.구토미오카(tomioka) 제사 공장( 구토미오카(tomioka) 제사장).구토미오카(tomioka) 제사 공장은, 일본에 있어서의 산업혁명을 상징하는 사적이라고 보조자에, 일본의 대표적인 근대화 산업 유산의 하나입니다.토미오카(tomioka) 제사 공장(토미오카(tomioka) 제사장)는, 1872년에 조업이 개시된, 관영(국영)( 후에 민영화되었다)의 제사 공장에서, 일본 최초의 기계화 된 제사 공장입니다.토미오카(tomioka) 제사 공장은, 1987년까지, 약 115년간 조업을 계속했습니다만, 현재는, 토미오카(tomioka) 시의 소유·관리아래, 일본의 근대화 산업 유산으로 해서 보존되어 사적으로서 일반적으로 공개되고 있습니다.현존 하고 있는, ( 구) 토미오카(tomioka) 제사 공장의, 주요한 건물의, 대부분이, 1870년대 초에 지어진 것입니다.

 

토미오카(tomioka) 제사 공장은, 일본의 제사 공장의 모범이 되어야 할 공장으로서 나라가, 프랑스로부터 기사를 불러, 프랑스로부터, 최신식의 기계를 도입하고(당시 , 프랑스와 이탈리아가, 세계의 제사업의 끝을 실시하고 있던), 19 세기 후반에 세운 제사 공장(1872년에 조업 개시)에서, 당시로서는, 최신식의 설비를 가지는, 세계 최대급의 규모를 가지는 제사 공장이었습니다.

 

사진 이하 2매.낡은 그림에 그려진, 토미오카(tomioka) 제사 공장.


 

 

 

 

 

 

토미오카(tomioka) 제사 공장의 낡은 사진.

 

사진 이하 4매.( 구) 토미오카(tomioka) 제사 공장의 문(입구) 등.( 구) 토미오카(tomioka) 제사 공장은, 군마(gunma) 현(도쿄 area(동경권)의 북서단에 위치하는 현)의 남서부에 있는 소도시, 토미오카(tomioka)의 시가지에 있습니다.토미오카(tomioka) 제사 공장은, 창업시에는, 세계 최대급의 제사 공장이었습니다.현재는, 사적으로서 일반적으로 공개되고 있습니다.현존 하고 있는, ( 구) 토미오카(tomioka) 제사 공장의, 주요한 건물의, 대부분이, 1870년대 초에 지어진 것입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에서는, 폴·브류나(Paul Brunat)(토미오카(tomioka) 제사 공장 설립의 총지휘자·조업 개시 당초에 있어서의, 지도 책임자·공장 관리자), 남성 기사, 공녀(여성 공장 노동자)로부터 완성되는, 일본 정부 로 고용해진, 10명 정도의 프랑스인이, 지도적인 입장에서, 일하고 있었습니다.사진 제일 좌측으로 비치고 있는 남성은, 일본인 통역일까하고 생각됩니다.프랑스인 생사 기술자, 폴·브류나(Paul Brunat)는, 동경권 및, 그 주변지역을 조사해, 토미오카(tomioka) 부근은, 제사에 필요한 누에고치를 확보 할 수 있는 일, 마을의 중심부에, 공장 건설에 필요한 넓은 토지를 확보 할 수 있어 또 읍민의 동의가 있던 일, (제사에 필요한) 물이 풍부한 일, 연료의 석탄이, 가까이의, 타카사키(takasaki), 요시이(yoshii)에서 얻는 일등의 이유로, 토미오카(tomioka)에, 일본의 공업화의 모범이 되어야 한다, 제사 공장을 건설했습니다.상, 프랑스인공녀(여성 공장 노동자) 들은, 조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 일본인공녀(여성 공장 노동자) 들에 대해, 공장에 있어서의, 기계화 된 제사 작업의 지도를 실시했습니다.

 

 

 

 

 

사진 이하 4매.조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 프랑스인 남성 기사들의 기숙사로서 사용되고 있던 건물입니다.프랑스인 남성 기사들이 역할을 끝내 떠난 후는, 개장되고, 사무소 및, (공장을 시찰하러 오는 정부 관계자등을 접대한다) 귀빈실의 건물로서 사용되는 것처럼 되었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 프랑스인공녀(여성 공장 노동자) 들의 기숙사로서 사용되고 있던 건물입니다.후에 개장되어 1층은, 식당, 2층은, 휴게실·회의실등으로서 사용되고 있었습니다.

 

 

 

사진 좌측은, 위에서 소개한, 조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 프랑스인 남성 기사들의 기숙사로서 사용되고 있던 건물.

 

 

 

 

사진 이하 3매.동쪽누에고치 창고.규모의 큰 건물입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

사진왼쪽, 동쪽누에고치 창고.사진 오른쪽, 조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 프랑스인 남성 기사들의 기숙사로서 사용되고 있던 건물.

 

사진 오른쪽, 동쪽누에고치 창고.사진왼쪽, 조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 프랑스인공녀(여성 공장 노동자) 들의 기숙사로서 사용되고 있던 건물.

 

 

 

 

사진 이하 10매.브류나(Brunat) 관.조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장에 있고, 토미오카(tomioka) 제사 공장 설립의 총지휘자 및(토미오카(tomioka) 제사 공장의 조업 개시 당초에 있어서의) 지도 책임자·공장 관리자인, 프랑스인 기술자, 폴·브류나(Paul Brunat)가, 가족과 보조자에 살고 있던, 공장내에 있는 저택입니다.꽤 훌륭한 저택입니다.토미오카(tomioka) 제사 공장은, 일본의 공업화의 기초가 되어야 한다 중요한 시설의 하나로서 지어진 것이므로(그 후에, 일본 각지에, 많이 지어진 제사 공장의 모범이 되어야 할 공장으로서 지어진), 그 설립의 총지휘자 및 조업 개시 당초에 있어서의 지도 책임자로 있던, 폴·브류나(PaulBrunat)에는, (토미오카(tomioka) 제사 공장에 관련해서 고용된 프랑스인 중(안)에서도), 급료면도 포함하고, 파격의(특별한) 대우가 주어졌습니다.브류나(Brunat) 관에는, 와인(wine) 등의 식료품을 저장하고 있었다고 말해지는, 벽돌(벽돌) 구조의 지하실이 미무로있습니다.당초, 토미오카(tomioka) 제사 공장은, 가끔 공녀(여성 공장 노동자) 모집의 통지를 내도, 예정 그대로의 인원수가 모이지 않았습니다.토미오카(tomioka) 제사 공장에 입장하면 「외국인에게 생혈을 빼앗긴다」라고 하는 소문이, 흐르고 있었기 때문에입니다.프랑스인 기사들이, 기꺼이 마시는 와인(wine)을, 생혈과 굳게 결심한 곳으로부터, 이와 같은 소문이 생긴 같습니다( 구토미오카(tomioka) 제사 공장의 팜플렛(brochure)보다).당시의 일본인은, 기본적으로, 상류계급의 사람들, 혹은, 서양인(서양 문화)에게, 빈번히 접하는 직업에 종사하고 있는 사람을 제외하고, 와인(wine)등 본 일도 없었던 일이지요...상, 브류나(Brunat) 관은, 폴·브류나(PaulBrunat)가, 그 역할을 끝내고, 가족과 보조자에, 토미오카(tomioka)를 떠난 후는, 개장되고, (공장의 복리후생(복지)의 일환으로서의) 공녀(여성 공장 노동자)의 습관일(문화 교실)의 교실, 공녀(여성 공장 노동자)를 위한 여가 시설등으로서 사용되었습니다(확실히...조금 가이드(guide)에 받은 설명의 기억이 애매...).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 10매.조실장(제사 작업장)의 건물.

 

규모의 큰 건물입니다.위가 사진에 찍히고 있는 부분은, 건물 전체의 40%정도로, 안쪽에, 한층 더 길게 건물이 계속 되고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

현재, 조실장(제사 작업장)에 남아 있는 기계는, 1987년의 공장의 조업정지시에 사용되고 있던 것으로?, 쇼와 40년대(1960년대 중반부터 1970년대 초)에 도입된 일본제의 물건입니다(창업시의, 프랑스제의 제사 기계는, 나가노(nagano) 현의 중남부에 있는 소도시, 오카다니(okaya)(1910년대부터 1930년대에 걸치고, 일본의 제사 산업의 중심지의 한 살(아마, 일본의 제사업의 최대의 생산 거점)로서 돋보이는 것)에 있는, 명주실(제사) 박물관( 나는, 아직, 방문한 일이 없습니다)에 보존되고 있습니다).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매, 사진에 남는 공장 창업시에 도입된, 프랑스제의 제사 기계.창업 당시 , 세계 최첨단의 제사 기계가 도입되었습니다.

 

 

 

 

 

낡은 그림에 그려진, 조업 개시 당초의 토미오카(tomioka) 제사 공장의 공녀(여성 공장 노동자)의 모습( 구토미오카(tomioka) 제사 공장의 팜플렛(brochure)으로부터...).토미오카(tomioka) 제사 공장의 공녀(여성 공장 노동자)의 복장은, 후에, 서양식의 물건으로 바뀌었습니다만, 초기의 무렵은, 이와 같은 일본(전통) 식의 복장이었습니다.토미오카(tomioka) 제사 공장은, 위쪽에서도 설명한 대로, 그 후, 일본 각지에, 많이 지어진 제사 공장의 모범이 되어야 할 공장으로서 1872년에 조업이 개시된, 관영(국영)의 제사 공장에서, 1893년에 민영화되어(민간(미츠이(mitsui) 가)에 매도해져서) 한(그 후, 토미오카(tomioka) 제사 공장은, 2회, 소유자(owner)·경영자가 변합니다).제이차 세계대전전의, 일본의 제사 공장과 방적 공장에 대해서는, 임금면, 노동 시간면등도 포함한, 공녀(여성 공장 노동자) 들의 비참한 노동 환경(자본가(경영자) 들에 의한 저임금 노동자의 착취)가 유명합니다만(안에는, 공장 노동자의 노동 환경·복지에 대해서, 선진적인 생각을 가진 자본가(경영자) 들도 존재했습니다), 일본 각지의 제사 공장에 모범을 나타내는 역할을 담당하고 있던, 관영(국영) 시대의 토미오카(tomioka) 제 실공장은, 사정이, 조금 차이가 났습니다.공녀(여성 공장 노동자)는, 하루 8시간 노동으로, 일요일은 쉬어, 여름 방학(휴가), 연말 연시의 휴가유라고 말한, 당시로서는, 결코 나쁘지 않은 대우였습니다.또, 고용된 공녀(여성 공장 노동자) 들도, 비교적 좋은 집안의 낭들로, 임금면에서의 대우도, 결코 나쁘지 않았던 것이라고 생각됩니다.관영(국영) 시대의 토미오카(tomioka) 제사 공장에는, 전국으로부터 많은 공녀(여성 공장 노동자)가 모아져 공장에 있어서의, 기계화 된 제사 작업을 배워, 습득했습니다.그녀들은, 토미오카(tomioka) 제사 공장에서, 어느 정도 근무한 후, 각각의 고향에 돌아가, 현지의 제사 공장에서 지도적인 입장에서 활약해, 일본의 기계화 된 제사 공업의 발전과 산업의 근대화에 크게 공헌했던( 구토미오카(tomioka) 제사 공장의 팜플렛(brochure)을 참고로 했습니다).그렇지만, 이상과 현실은, 완전하게는 합치하지 않고, 관영(국영) 시대의 토미오카(tomioka) 제사 공장은, 너무 대규모이지만 고의 효율성의 나쁨(관영(국영)이었으므로, 경영이 달았다고 말하는 것도 있다고 생각합니다), 공녀(여성 공장 노동자) 들의 대우(임금·노동 시간)의 좋은 점(당시로서는) 등으로부터, (생산된 고품질의 생사는, 해외에서 도, 호평을 얻었지만), 경영은, 결코 흑자만이 아니었습니다(확실히...조금 가이드(guide)에 받은 설명의 기억이 애매...).

 

 

사진 이하 6매.공장내의 병원으로서 사용되고 있던 건물입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 5매.공장내, 그 외의 건물등.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.전술한 대로, 현존 하고 있는, ( 구) 토미오카(tomioka) 제사 공장의, 주요한 건물의, 대부분이, 1870년대 초에 지어진 것입니다만, 이 굴뚝은, 1939년에 지어진 철근 콘크리트제의 물건입니다.높이는, 37.5 m 있습니다.상, 공장의 1872년의 창업시의 굴뚝은, 철제로, 높이는, 36 m 있어, 프랑스제라고 해지는 피뢰침도 설치되어 있었습니다만, 폭풍우 (위해)때문에, 도괴해 버렸습니다.

 

 

 

 

 

 

 

이 사진에 관한 설명서나무는, 도쿄 국립 박물관 소장으로 밖에 없었습니다만, 1872년의 창업시의 굴뚝의 사진일까...(가이드(guide)에, 질문하면 좋았다...).

 

 

 

 

 

사진 이하 5매.서누에고치 창고.규모의 큰 건물입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

토미오카(tomioka) 제사 공장에 관해서는, 이것으로 끝나.

 

사진 이하 10매.토미오카(tomioka)의 시가지에는, 1910년대부터 1930년대무렵에 지어졌다고 생각되는, 상점이나 독립주택의 건물이 점재해 남아 있습니다.이러한 건물은, 1910년대부터 1930년대무렵의, 일본의 지방(시골)이나 대도시 근교의, 소도시의 시가지의 풍경을 이미지 시켜 줍니다.

 

사진 이하 2매.시계가게의 건물.

 

 

 

 

 

 

양복점(tailor.고객으로부터 주문을 받은 옷을 지어(제작해) 판매하는 가게)의 건물.

 

 

사진 이하 2매.일본 요리 식당의 건물.

 

 

 

사진 우측으로 보이는, 흰 벽의 건물은, 창고(창고).

 

사진 이하 3매.일본 전통식의 독립주택(사진 이하 3매는, 같은 독립주택).빈 집의(현재는, 더이상 아무도 살지 않았다) 같았습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

뒤골목.

 

 

낡은 점포의 건물을 개장한(기억이 애매하지만, 확실히, 그런 느낌이었다고 생각한다), 레스토랑.

 

 

점심 식사는, 토미오카(tomioka) 시가의, 서민적인, 우동·소바 식당에서, 절삭 깊이(okirikomi)를 먹었습니다(사진은, 일인분).절삭 깊이(okirikomi)는, 군마(gunma) 현에서, 옛부터, 잘 먹을 수 있고 있는 가정 요리입니다.절삭 깊이(okirikomi)는, 우동을 닮은 음식입니다만, 평평한 면을 사용해, 도구가 많은 점에, 특징이 있는 것 같습니다.또, 편 묻는(houtou)와 같이, 면과 도구를 국물로 삶고 있는 일로부터, 보통, 우동에 비해, 농후한 독특한 맛이 있는 곳에 특징이 있는 것 같습니다(wiki를 참고로 했습니다).절삭 깊이(okirikomi)는, 편 묻는(houtou)(야마나시(yamanashi) 현에서, 옛부터, 가정에서, 잘 먹을 수 있고 있는, 야마나시(yamanashi) 현의 명물 요리.우동을 닮아 있지만, 면은, 통상, 평평한 것으로(수제비장의 물건도 있어), 국물(soup)은, 된장완성으로, (통상) 도구의 양이 많은 곳에, 특징이 있다)에, 잘 닮습니다만, 편 묻는(houtou)는, 국물이, 된장완성으로 있는데 대해, 절삭 깊이(okirikomi)는, 국물이, (보통 우동의 국물을 닮은) 간장 간의 물건과(편 묻는(houtou)의 국물을 닮은) 된장완성의 물건, 양쪽 모두 있는 점이, 다른 것 같습니다.이 가게의, 절삭 깊이(okirikomi)?`후 국물은, 보통 우동의 국물을 닮은, 간장 간의 물건이었습니다.또, 편 묻는(houtou)는, 호박(호박)이, 기꺼이, 자주(잘), 도구의 하나로서 사용됩니다만, (호박(호박)을 중심으로 단 도구가 포함되는, 편 묻는(houtou)에 대해), 절삭 깊이(okirikomi)는, 고구마(sweet potato)나 호박(호박)의 같은 단 도구는, 별로 이용되지 않는 점에, 특징이 있습니다(wiki보다).절삭 깊이(okirikomi)는, 기억에 남는 한(혹시, 지금까지, 숙박한, 여관의 요리의 일품이나 무엇인가 하고, 나와 있던 일이 있었는지도...), 이번(이 때), 처음으로 먹었습니다만, 꽤, 맛있었습니다.


토미오카(tomioka) 산책&식사, 끝.

 

 

덤.계절의 과일, 복숭아.복숭아는, 내가 좋아하는 과일의 하나입니다.사진의 복숭아는, 야마나시(yamanashi) 현(복숭아의 주요한 산지의 하나가 되고 있다) 산의 복숭아입니다.일본의 복숭아는, 서들 까는이라고 맛있습니다.

 

사진 이하 2매.야마나시(yamanashi) 현의 도전의 복숭아의 꽃(전에 업(uplaod) 한 사진의 재이용).앞은, 유채꽃.

 

 

 

 



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