食べ物

 

 

7月の第4日曜日に、東京国立近代美術館で行われていた、「建築はどこにあるの?」と言う展覧会(exhibition)を見て来た時の物です。

 

 

東京国立近代美術館(写真は、前にkjでアップ(upload)した写真の再利用)。東京都心部の中でも、中心的な地域に有る、国立の近代美術館です。開館は、1952年ですが、現在のメイン(main)の建物は、大規模化に伴い、1969年に完成した、写真の建物です。現在のメイン(main)の建物(1969年完成)の設計は、日本の有名な建築家、谷口 吉郎(taniguchi yoshiro 1904年生まれ、1979年に亡くなる。息子は、日本の世界的に有名な建築家、谷口 吉生taniguchi yoshio。1937年生まれ)の手による物です。この他に、別館(annex)として、1910年に軍の司令部として建てられた、立派な近代建築の建物を改装した、東京国立近代美術館工芸館と、私は、まだ利用した事が有りませんが、国立近代美術館の映画部門で有る、フィルムセンター(Film Center)(1970年開館)が有ります。東京では、日本の伝統美術品は、19世紀末からの歴史を有する(起源は、1872年まで遡るが、現在の場所に、恒久的かつ立派な博物館の建物(現存はしない)が建てられたのは、1881年。現在の本館(mainの建物)は、1938年に完成したもの)東京国立博物館(東京都心部の北東部に位置する上野(ueno)に有る)に、膨大な量が、収蔵、展示されていますが、東京国立近代美術館は、東京で、伝統美術品以外の作品(すなわち、近代美術及び現代美術)を収蔵し展示する国立美術館として、1952年に開館した美術館です。日本の近代美術作品の収蔵、展示ならば、東京では、この東京国立近代美術館が、最も充実していると思うので、日本の近代美術に興味がある、韓国の方には、東京旅行の際に、お勧めの観光場所です(ちなみに、西洋美術専門の国立の美術館、国立西洋美術館は、1959年に、東京の上野(ueno)に開館しており(美術館の建物の設計は、歴史上、世界的に最も有名な建築家の一人で有る、スイス生まれのフランスの建築家Le Corbusier)、また、(東京国立近代美術館でも、近代美術作品と供に現代美術作品も収蔵・展示していますが)、東京で、現代美術専門の公立美術館として、現代美術専門の美術館としては、世界的に見ても規模が大きな、東京都現代美術館が、1995年に開館しています。)。

 

この時は、東京国立近代美術館の本館(メイン(main)の建物)で、(この時)、行われていた、「建築はどこにあるの?」と言う展覧会(exhibition)を見て来ました。世界的に有名な建築家で有る、伊東 豊雄(ito toyo)から、これから、さらなる活躍が期待される若手建築家まで、現在、活躍中の幅広い(とは言え、どちらかと言えば、これから、さらなる活躍が期待される若手建築家に焦点が置かれていた展覧会(exhibition)と言う感じがしました)、日本の建築家、7人による、インスタレーション(Installation art。下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)です。

インスタレーション(Installation art):ある特定の室内や屋外などにオブジェ(物体)や装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術(wikiより)。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。

 

 

 

パンフレット(leaflet)の中の写真は、この展覧会(exhibition)に参加した、建築家達の作品の写真です。

 

写真以下2枚。東京国立近代美術館の本館(メイン(main)の建物)の、すぐ近くに有るオフィス(office)用のビル、Palacesideビル(写真は、前にkjでアップ(upload)した写真の再利用)。1966年に完成した、主として、毎日(mainichi)新聞(日本の大手新聞会社の一つ)の、東京のオフィス(office)のビルとして使われているビルです。日本に現存し、現在も活用されている、1960年代に建てられた、大規模中層オフィス(office)用のビルの代表例の一つです。設計は、日本の世界最大級の建築設計事務所、日建設計です。

 

 

 

 

 

以下、小さな文字の部分は、私のenjoyの過去投稿の文ですが、興味の有る方だけ、ご覧下さい。

 

第二次世界大戦が終って間も無い1940年代後半から、戦後復興期初めの1950年代半ば頃くらいまでは、東京や大阪では、主として、(第二次世界大戦時の、アメリカによる空襲で破壊されずに生き残った)第二次世界大戦前に建てられた、近代建築のビルを、引き続き活用していました。その後、高度経済成長に伴い、1950年代後期頃から、ようやく、戦後の現代建築のビルの建設boomが起り始め、1950年代後期から1960年代を通じて、東京や大阪では、戦前に建てられた重厚な近代建築のビルが、戦後に建てられた、機能的な現代建築のビルに次々と、取り替えられる様になりました(この頃は、経済成長最優先であり、老朽化した近代建築を修理しながら、保存・活用しよう等と言う、ゆとりが無かった。)。尚、高層towerに関しては、日本では、既に、1950年代には、日本の様な地震地帯の大地震でも、耐えられる様な、建築設計技術が確立しており、1950年代から、1960年代初期にかけて、名古屋(nagoya )TV tower(1954年完成。高さ180m。1929年に完成した、高さ250mの日本の依佐美送信所鉄塔の様な支線式の鉄塔を除けば、完成当時アジアで最も高い建築物)、東京tower(1958年完成、高さ約333m。完成当時は、世界一高いtowerであると供に、名古屋(nagoya) TV towerを抜かし、アジアで、最も高い建築物。)等、日本の大都市で、展望台付き高層towerの建築boomがありました。日本では、TV放送は、1953年に始まりましたが、1950年代から1960年代初期にかけて、日本の大都市に建てられた、6個の展望台付き高層towerの内、名古屋(nagoya) TV tower(1954年完成)、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo) TV tower(1957年完成)、東京tower(1958年完成)は、(もちろん、観光施設としての側面も有していましたが)、基本的には、来るべき、TVの大衆化時代に備えて、建てられた、TV towerです(ちなみに、大阪areaでは、郊外の山の上に電波送信所を建てる事が出来た為、1956年に大阪に完成した、展望台付き高層tower、(2代目)通天閣(tsutenkaku)は、TV towerでは無く純粋に観光用です)。一方、1960年代において、日本の様な地震地帯の大地震でも、大丈夫な超高層ビルを設計建築する技術が日本国内で成熟するに至り、日本初の超高層ビルが、完成するのは、1960年代後期を待たなければなりませんでした。

 

 

写真以下3枚。この日、東京国立近代美術館の本館(メイン(main)の建物)に着いて、展覧会(exhibition)を見る前に、まず、東京国立近代美術館の本館に入っている、(フランス料理を中心とした)西洋料理レストランで、冷たい甘い物を食べて、少し、のんびりしましたw。このレストラン、値段が手頃で、味も良いレストランです(ただ、店員の要領が悪い所が、唯一だけれども、かなり重要な欠点となっていますw )。 本当に、値段が手頃で、味も良いので残念。。。

 

このレストランの内装写真(写真は、前にkjでアップ(upload)した写真の再利用。この写真を撮影した時は、暗かった(夕食時)ですが、この時、冷たい甘い物を食べた時は、もちろん、明るかったです)。

 

私が食べた、シャーベット(sorbet)盛り合わせ。

 

彼女が食べた、アイスクリーム(ice cream)盛り合わせ。

 

 

写真以下38枚。この展覧会(exhibition)の展示作品例等。尚、この展覧会(exhibition)は、写真撮影可でした。

 

写真以下4枚。中村 竜治(nakamura ryuji。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。紙で出来た構築物です。
中村 竜治(nakamura ryuji):1972年生まれ。現在活躍中で、これから、さらなる活躍が期待される、日本の若手建築家。以下、『』内、キュレーター(curator。学芸員)による解説文より、『単純な仕組みで、どれだけの複雑さを作れるか。しかも、美しさや、時には、単純に見える可能性を保持したままで。。。そうした、実験を続けているのが中村 竜治(nakamura ryuji)さんです。出来あがったのは、巨大で、密度が高い物なのに、ある種の透明感がある構造体。こうした存在の仕方が可能なのであれば、建築のある風景は、もっと変わっていけるはずです』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。鈴木 了二(suzuki ryoji。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。
鈴木 了二(suzuki ryoji):1944年生まれ。現在活躍中の日本の建築家。私は、詳しく無いのですが、主に、個人の富裕層の現代建築の住宅の設計を多く手がけて来た、有名な建築家の様です。

 

 

 

 

 

 

 

写真以下8枚。中山 英之(nakayama hideyuki。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。以下『』内、建築家(中山 英之(nakayama hideyuki))自身による解説文から抜粋、『北海道(hokkaido)の広大な草原を敷地に、ピクニック(picnic)に集まった人々に軽食をふるまうカフェ(cafe)として設計した建築の1/3の模型です。カフェ(cafe)と言っても、建物は、2棟に分かれていて、背の高い棟はキオスク(kiosk)で、ずんぐりした棟は、ガーデンファニチャー(椅子やテーブル(table))やブランケット(毛布)を収納する納屋(倉庫)です。つまり「中で何かをする」建築ではありません。建築空間は、どちらかと言うと外にあります。草原の両端に、どこかにつながっていそうな大きな扉が開いていて、間に広々としたリビングルーム(living room)が表れる様な風景を想像していました。そこに来た一人一人が、毎日違う「平面図」を描き直す様な建築です。扉が閉じると、広い広い建築空間も消えてなくなります。扉の大きさは、背の高い方で6mあります。1/3では、2m。普通の部屋にあるドア(扉)のサイズ(大きさ)です』。
中山 英之(nakayama hideyuki):1972年生まれ。現在活躍中で、これから、さらなる活躍が期待される、日本の若手建築家。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内藤 廣(naito hiroshi。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。写真の中の手は、私の手w。以下『』内、キュレーター(curator。学芸員)による解説文より、『レーザー(laser)による〈赤縞〉を楽しんでいる内に、人間が動く事で「空間」は生まれるのだと気付くのではないでしょうか。もちろん、人間がいなくても空間はあるのですが、では、それら二つの空間は同じものなのか、それとも違うのか、建築が扱うべき空間は、どちら(も)なのか。シンプル(単純)ですが、そんな深い事を考えさせてくれる作品です』
内藤 廣(naito hiroshi):1950年生まれ。現在活躍中の、日本の有名な建築家。

 

写真以下4枚。菊地 宏(kikuchi hiroshi。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。この展示のコンセプト(concept)は、「太陽の運行と室内空間から現れるもの」だそうです。
菊地 宏(kikuchi hiroshi):1972年生まれ。現在活躍中で、これから、さらなる活躍が期待される、日本の若手建築家。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下10枚。伊東 豊雄(ito toyo。下の補足説明参照)による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。
伊東 豊雄(ito toyo):1941年生まれ。現在活躍中の、日本の世界的に有名な建築家。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classに有るSANAA(妹島 和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、伊東 豊雄(ito toyo)建築設計事務所の出身です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。東京国立近代美術館の本館の観覧者用休憩室の窓から見た、丸の内(marunouchi。古くからの東京のビジネス(business)の中心地区で有り、東京を代表するビジネス(business)街)の高層ビル郡。

 

丸の内(marunouchi)は、元々、皇居(天皇の宮殿)に近い事、景観(美観)上の観点等から、ビルの高さ制限(100尺(約31m))が有り、100尺(約31m。9階建て位)の、高さが揃った中層大規模オフィス(office)用ビルが建ち並ぶ、整然とした街並みでした。この丸の内(marunouchi)の高さ制限は、1960年代初めに撤廃され、皇居(天皇の宮殿)周辺も、高層ビルが建てられる様になりましたが、現在も、丸の内(marunouchi)は、整然とした街並みの名残が有り、特に、皇居(天皇の宮殿)周辺は、際だって高い超高層ビルは、建てられていません。

 

 

写真の中の石垣(stone wall)は、江戸(edo)城(castle)の遺構の一部です。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、日本を実質的に統治していた徳川(tokugawa)家の、(東京中心部にある)東京での、城(castle)であった、江戸(edo)城(castle)は、徳川(tokugawa)家の中心的な城(castle)であり、広大な城(castle)でした。江戸(edo)城(castle)は、1860年代末に、天皇の東京の住まいとなり、以来、旧江戸(edo)城(castle)の敷地の中心部は、天皇の平常時の住まい(天皇の東京の宮殿)として整備が進められました。現在は、かつての江戸(edo)城(castle)の敷地の一部(かつての江戸(edo)城(castle)の敷地の中心部であった部分)が、皇居(天皇の宮殿)と公園として整備されていますが、それだけでも、700,000坪(tsubo)近く(2,300,000平方m)あります(皇居(天皇の宮殿)の敷地面積が約350,000坪(tsubo)(1,150,000平方m)、公園・広場等の面積が約350,000坪(tsubo)(1,150,000平方m))。かつての江戸(edo)城(castle)の建物で、現在残っている物は、極僅かに過ぎませんが、かつての江戸(edo)城(castle)の中心部の堀(moat)(江戸(edo)城(castle)は、堀(moat)に囲まれていました)と石垣(stone wall)については、よく残されています。写真の堀(moat)と石垣(stone wall)は、その一部です。

 

写真以下6枚。こちらは、アトリエ・ワン(Atelier Bow-Wow。塚本 由晴(tsukamoto yoshiharu。下の補足説明参照)&貝島 桃代(kaijima momoyo。下の補足説明参照))による、インスタレーション(Installation art)作品(部分)です。屋外展示作品となっていました。
塚本 由晴(tsukamoto yoshiharu):1965年生まれ。現在活躍中の日本の若手建築家。1992年に、貝島 桃代(kaijima momoyo)とアトリエ・ワン(Atelier Bow-Wow)を結成。
貝島 桃代(kaijima momoyo):1969年生まれ。現在活躍中の日本の若手女性建築家。1992年に、塚本 由晴(tsukamoto yoshiharu)とアトリエ・ワン(Atelier Bow-Wow)を結成。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。夕食は、東京国立近代美術館の本館に入っている、(フランス料理を中心とした)西洋料理レストラン(上の、冷たい甘い物を食べたレストラン)で食べました。これにパンを食べました。

 

ローストチキン(roasted chicken)、ローズマリー(rosemary)風味。一人一皿ずつ。このレストランのローストチキン(roasted chicken)は、美味しいです。

 

 

私が、追加で頼んで食べた、サイドディッシュ(side dish)のポテト(potato)の揚げ物。

 

 

デザート(dessert)。ピーチメルバ(peach melba)。一人一皿ずつ。

 

写真以下2枚。東京国立近代美術館の展覧会(exhibition)のスケジュール(schedule)のパンフレット(leaflet)。

 

表紙の作品は、小出 楢重(koide narashige。下の補足説明参照)作、「ラッパを持てる少年」(ラッパを持つ少年)(1923年)。

小出 楢重(koide narashige):1887年生まれ。1931年に亡くなる。主として、1920年代に活躍した、日本の有名な近代画家(西洋画家)。


 

 

 

写真以下11枚。行くか行かないかは、別として、この時、東京国立近代美術館の本館から持って来た、ちょっと気になる展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。

 

写真以下7枚。9月7日から10月17日にかけて、東京国立近代美術館の本館で行われる予定の、上村 松園(uemura syouen。下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。

上村 松園(uemura syouen):1875年生まれ、1949年に亡くなる。1890年代から1940年代に活躍した、日本の有名な、女性、近代日本伝統画家。


 

「焔」(1918年)、上村 松園(uemura syouen)作(の部分)。

 

 

「序の舞」(1936年)、上村 松園(uemura syouen)作(の部分)。

 

左、「人生の花」(1899年)、上村 松園(uemura syouen)作。右、「草紙洗小町」(1937年)、上村 松園(uemura syouen)作。

 

左、「舞仕度」(1914年)、上村 松園(uemura syouen)作。

 

右、「楊貴妃」(1922年)、上村 松園(uemura syouen)作。

 

 

「母子」(1934年)、上村 松園(uemura syouen)作。

 

「砧」(1938年)、上村 松園(uemura syouen)作。

 

 

現在、東京都写真美術館(下の補足説明参照)で開催中の、写真家達が写した、第2次世界大戦後(1945年から2010年)の、日本の女性をテーマ(theme)とした展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。表紙となっている作品は、「農村の娘(秋田(akita)県))」(1953年)(木村 伊兵衛(kimura ihei。1901年生まれ、1974年に亡くなる。日本を代表する著名な写真家の一人。1930年代から1970年代半ばに亡くなる近くまで活躍)撮影)。
東京都写真美術館:写真・映像専門の、公立美術館。東京都心部西部の恵比寿(ebisu)に有る。

 

写真以下3枚。東京国立近代美術館の映画部門で有る、東京国立近代美術館フィルムセンター(Film Center)で、現在開催中の、大藤 信郎(ofuji noburo。下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)と、同フィルムセンター(Film Center)で、これから開催される予定の、大藤 信郎(ofuji noburo)の作品上映会のパンフレット(leaflet)。
大藤 信郎(ofuji noburo):1900年生まれ。1961年に亡くなる。日本のアニメーション(animation)の先駆者の一人。1920年代から1950年代にかけて活躍。第2次世界大戦前は、江戸(edo)千代紙(chiyogami。下の補足説明参考照)を素材に用いた、切り絵アニメーション(animation)、千代紙(chiyogami)映画を考案し、短編映画を次々と発表して注目を浴びる。戦後は、さらに独自の表現を求めて色彩セロファン(cellophane)用いた、カラフル(colorful)な影絵映画の製作に着手し、1950年代に、それ等の作品は、国際的な注目も集めた(パンフレット(leaflet)の説明文を参考にしました)。
千代紙(chiyogami):日本の伝統的な遊びである折り紙(origami)を作るために使われたり、紙人形の衣装、工芸品や化粧箱に装飾の目的で貼られる、紋や柄の豊かな和紙(日本伝統紙)で作られた正方形の紙(wikiより)。

 

パンフレット(leaflet)の上の方は、団子兵衛(dangobei。下の補足説明参照)の切り抜きキャラクター(character)。
団子兵衛(dangobei):大藤 信郎(ofuji noburo)の短編アニメーション(animation)映画、「馬具田城の盗賊」(1926年)で、初登場した、大藤 信郎(ofuji noburo)の短編アニメーション(animation)映画のキャラクター(character))

 

このパンフレット(leaflet)の表紙に出ている作品は、大藤 信郎(ofuji noburo)の、戦前の切り絵アニメーション(animation)(千代紙(chiyogami)映画)かな。。。

 

上の方は、大藤 信郎(ofuji noburo)の、色彩セロファン(cellophane)用いた影絵アニメーション(animation)映画、「幽霊船」(1956年)の、セロファン(cellophane)影絵原画。下の方は、大藤 信郎(ofuji noburo)の、色彩セロファン(cellophane)用いた影絵アニメーション(animation)映画、「くじら」(1952年)から。。。

 

美術館散歩&食事、終り。。。

 

以下、おまけ。

 

写真以下3枚。昨日、仕事から帰って来てから、我が家で食べた夕食。日本橋(nihonbashi。東京の古くからの商業の中心地。東京の主要な商業地の一つで有ると供に、東京を代表する商業地の一つ。東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)に有る、穴子(anago。下の補足説明参照)料理食堂、玉ゐ(tamai)の穴子(anago)丼。玉ゐ(tamai)の穴子(anago)丼は、私のお気に入りとなっています。たまたま、期間限定で、新宿(東京最大級の繁華街の一つ。東京都心部の西部に位置する)の京王(keio)デパートの食料品売場に出店していたと言うので、買って来て貰った物です。
穴子(anago):鰻に似た魚だが、鰻よりも、さっぱりとした味わい。鰻と供に、日本で、よく食べられている。基本的に、鰻よりも安価で、大衆的な食材(魚)だが、鰻よりも、比較的さっぱりとした穴子(anago)の方が、好きと言う人もいる。

 

 

 

 

 

どうでも、いいですが(しかも、ちょっと、フライングして(食べてしまって)から撮影しましたがw)、私は、二つw(このサイズ(size)(小さなサイズ(size))の物しか売っていなかったと言うので。。。)。これと、あと、野菜サラダ(salad)を食べました。

 

 

昨日の夕食のデザート(dessert)として(も)、食べた、夕張(yubari)メロン(melon)。頂き物。北海道(hokkaido)の夕張(yubari)市で生産される夕張(yubari)メロン(melon)は、美味しいですが、高級メロン(melon)で、私の様な庶民が、自分で、頻繁に購入して食べる様なメロン(melon)では有りませんw。尚、写真は、昨日の夕食前に撮影した物ですが(昨日の夕食前の時点で残っていた物全て)、今日で全て食べ切りました。


미술관 산책&식사.

 

 

7월의 제4 일요일에, 도쿄 국립 근대미술관에서 행해지고 있던, 「건축은 어디에 있어?」라고 하는 전람회(exhibition)를 보고 왔을 때의 물건입니다.

 

 

도쿄 국립 근대미술관(사진은, 전에 kj로 업(upload) 한 사진의 재이용).도쿄도심부안에서도, 중심적인 지역에 있는, 국립의 근대미술관입니다.개관은, 1952년입니다만, 현재의 메인(main)의 건물은, 대규모화에 수반해, 1969년에 완성한, 사진의 건물입니다.현재의 메인(main)의 건물(1969년 완성)의 설계는, 일본의 유명한 건축가, 다니구치 요시로(taniguchi yoshiro 1904 년생, 1979년에 죽는다.아들은, 일본의 세계적으로 유명한 건축가, 타니구치 요시우 taniguchi yoshio.1937 년생)의 손에 의한 것입니다.이 그 밖에, 별관(annex)으로서 1910년에 군의 사령부로서 지어진, 훌륭한 근대 건축의 건물을 개장한, 도쿄 국립 근대미술관공예관과 나는, 아직 이용한 일이 없습니다만, 국립 근대미술관의 영화 부문에서 있는, 필름 센터(FilmCenter)(1970년 개관)가 있습니다.도쿄에서는, 일본의 전통 미술품은, 19 세기말로부터의 역사를 가지는(기원은, 1872년까지 거슬러 올라가지만, 현재의 장소에, 항구적 한편 훌륭한 박물관의 건물(현존은 하지 않는다)이 지어진 것은, 1881년.현재의 본관(main의 건물)은, 1938년에 완성한 것) 도쿄 국립 박물관(도쿄도심부의 북동부에 위치하는 우에노(ueno)에 있다)에, 방대한 양이, 수장, 전시되고 있습니다만, 도쿄 국립 근대미술관은, 도쿄에서, 전통 미술품 이외의 작품(즉, 근대미술 및 현대 미술)을 수장 해 전시하는 국립 미술관으로서 1952년에 개관한 미술관입니다.일본의 근대미술 작품의 수장, 전시라면, 도쿄에서는, 이 도쿄 국립 근대미술관이, 가장 충실한다고 생각하므로, 일본의 근대미술에 흥미가 있는, 한국 분에게는, 도쿄 여행 시에, 추천의 관광 장소입니다(덧붙여서, 서양 미술 전문의 국립의 미술관, 국립 서양 미술관은, 1959년에, 도쿄의 우에노(ueno)에 개관하고 있어(미술관의 건물의 설계는, 역사상, 세계적으로 가장 유명한 건축가의 혼자서 있는, 스위스 태생의 프랑스의 건축가 LeCorbusier), 또, (도쿄 국립 근대미술관에서도, 근대미술 작품과 보조자에 현대 미술 작품도 수장·전시하고 있습니다만), 도쿄에서, 현대 미술 전문의 공립 미술관으로서 현대 미술 전문의 미술관으로서는, 세계적으로 봐도 규모가 큰, 도쿄도 현대 미술관이, 1995년에 개관하고 있습니다.).

 

이 때는, 도쿄 국립 근대미술관의 본관(메인(main)의 건물)에서, (이 때), 행해지고 있던, 「건축은 어디에 있어?」라고 하는 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.세계적으로 유명한 건축가로 있는, 이토 도요오(ito toyo)로부터, 지금부터, 새로운 활약이 기대되는 신진 건축가까지, 현재, 활약중의 폭넓은(그렇지만, 어느 쪽일까하고 말하면, 지금부터, 새로운 활약이 기대되는 신진 건축가에 초점이 놓여져 있던 전람회(exhibition)라고 말하는 느낌이 들었습니다), 일본의 건축가, 7명에 의한, 인스타 배급량(Installation art.아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)입니다.

인스타 배급량(Installation art):어느 특정의 실내나 옥외 등에 오브제(물체)나 장치를 두고, 작가의 의향에 따라서 공간을 구성해 변화시켜, 장소나 공간 전체를 작품으로서 체험시키는 예술(wiki보다).

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet).

 

 

 

팜플렛(leaflet) 안의 사진은, 이 전람회(exhibition)에 참가한, 건축가들의 작품의 사진입니다.

 

사진 이하 2매.도쿄 국립 근대미술관의 본관(메인(main)의 건물)의, 곧 근처에 있는 오피스(office) 용의 빌딩, Palaceside 빌딩(사진은, 전에 kj로 업(upload) 한 사진의 재이용).1966년에 완성한, 주로, 매일(mainichi) 신문(일본의 대기업 신문 회사의 하나)의, 도쿄의 오피스(office)의 빌딩으로서 사용되고 있는 빌딩입니다.일본에 현존 해, 현재도 활용되고 있는, 1960년대에 지어진, 대규모 중층 오피스(office) 용의 빌딩의 대표 예의 하나입니다.설계는, 일본의 세계 최대급의 건축설계사무소, 닛켄 설계입니다.

 

 

 

 

 

이하, 작은 문자의 부분은, 나의 enjoy의 과거 투고의 문장입니다만, 흥미의 있는 분만, 봐 주세요.

 

제이차 세계대전이 끝나 동안도 없는 1940년대 후반부터, 전후 부흥기 초의 1950년대 중반무렵 정도까지는, 도쿄나 오사카에서는, 주로, (제이차 세계대전시의, 미국에 의한 공습으로 파괴되지 않고 살아 남은) 제이차 세계대전전에 지어진, 근대 건축의 빌딩을, 계속 활용하고 있었습니다.그 후, 고도 경제성장에 수반해, 1950년대 후기무렵부터, 간신히, 전후의 현대 건축의 빌딩의 건설 boom가 일어나기 시작해 1950년대 후기부터 1960년대를 통해서, 도쿄나 오사카에서는, 전쟁 전에 지어진 중후한 근대 건축의 빌딩이, 전후에 지어진, 기능적인 현대 건축의 빌딩에 차례차례로, 바꿀 수 있는 것처럼 되었습니다(요즘은, 경제성장 최우선이며, 노후화 한 근대 건축을 수리하면서, 보존·활용하자 등이라고 말하는, 여유가 없었다.).상, 고층 tower에 관해서는, 일본에서는, 이미, 1950년대에는, 일본의 같은 지진 지대의 대지진에서도, 견딜 수 있는 것 같은, 건축 설계 기술이 확립하고 있어, 1950년대부터, 1960년대 초기에 걸치고, 나고야(nagoya ) TVtower(1954년 완성.높이 180 m.1929년에 완성한, 높이 250 m의 일본의 의사비 송신소 철탑의 같은 지선식의 철탑을 제외하면, 완성 당시 아시아에서 가장 높은 건축물), 도쿄 tower(1958년 완성, 높이 약 333 m.완성 당시는, 세계 제일 높은 tower이라고 보조자에, 나고야(nagoya) TV tower를 빠뜨려, 아시아에서, 가장 높은 건축물.) 등 , 일본의 대도시에서, 전망대 첨부 고층 tower의 건축 boom가 있었습니다.일본에서는, TV방송은, 1953년에 시작했습니다만, 1950년대부터 1960년대 초기에 걸치고, 일본의 대도시에 지어진, 6개의 전망대 첨부 고층 tower중, 나고야(nagoya) TV tower(1954년 완성), 홋카이도(hokkaido)의 삿포로(sapporo) TV tower(1957년 완성), 도쿄 tower(1958년 완성)는, (물론, 관광 시설로서의 측면도 가지고 있었습니다만), 기본적으로는, 와야 한다, TV의 대중화 시대에 대비하고, 지어진, TV tower입니다(덧붙여서, 오사카 area에서는, 교외의 산 위에 전파 송신곳을 세울 수가 있던 때문, 1956년에 오사카에 완성한, 전망대 첨부 고층 tower, (2대째) 통천각(tsutenkaku)은, TVtower는 아니고 순수하게 관광용입니다).한편, 1960년대에 있고, 일본의 같은 지진 지대의 대지진에서도, 괜찮은 초고층 빌딩을 설계 건축하는 기술이 일본내에서 성숙하기에 이르러, 일본 최초의 초고층 빌딩이, 완성하는 것은, 1960년대 후기를 기다리지 않으면 안되었습니다.

 

 

사진 이하 3매.이 날, 도쿄 국립 근대미술관의 본관(메인(main)의 건물)에 도착하고, 전람회(exhibition)를 보기 전에, 우선, 도쿄 국립 근대미술관의 본관에 들어가 있는, (프랑스 요리를 중심으로 한) 서양 요리 레스토랑에서, 차가운 단 것을 먹고, 조금, 빈둥거렸던 w.이 레스토랑, 가격이 적당하고, 맛도 좋은 레스토랑입니다(단지, 점원의 요령이 나쁜 곳이, 유일하다 그러나, 꽤 중요한 결점이 되고 있습니다 w ). 정말로, 가격이 적당하고, 맛도 좋기 때문에 유감...

 

이 레스토랑의 내장 사진(사진은, 전에 kj로 업(upload) 한 사진의 재이용.이 사진을 촬영했을 때는, 어두웠다(저녁 식사시)입니다만, 이 때, 차가운 단 것을 먹었을 때는, 물론, 밝았습니다).

 

내가 먹은, 샤벳(sorbet) 진열.

 

그녀가 먹은, 아이스크림(ice cream) 진열.

 

 

사진 이하 38매.이 전람회(exhibition)의 전시 작품예등.상, 이 전람회(exhibition)는, 사진 촬영가능이었습니다.

 

사진 이하 4매.나카무라 류지(nakamura ryuji.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.종이로 만든 구축물입니다.
나카무라 류지(nakamura ryuji):1972 년생.현재 활약중에서, 지금부터, 새로운 활약이 기대되는, 일본의 신진 건축가.이하, 「」 안, 관장(curator.학예원)에 의한 해설문보다, 「단순한 구조로, 얼마나의 복잡함을 만들 수 있을까.게다가, 아름다움이나, 가끔 , 단순하게 보일 가능성을 보관 유지한 채로...그러한, 실험을 계속하고 있는 것이 나카무라 류지(nakamura ryuji)씨입니다.할 수 있던 것은 , 거대하고, 밀도가 비싼 것인데, 어떤 종류의 투명감이 있는 구조체.이러한 존재의 방법이 가능해서 있으면, 건축이 있는 풍경은, 더 변해갈 수 있을 것입니다」.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.스즈키 류우지(suzuki ryoji.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.
스즈키 류우지(suzuki ryoji):1944 년생.현재 활약중의 일본의 건축가.나는, 자세하지 않습니다만, 주로, 개인의 부유층의 현대 건축의 주택의 설계를 많이 다루어 온, 유명한 건축가의 같습니다.

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 8매.나카야마 히데유키(nakayama hideyuki.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.이하 「」 안, 건축가(나카야마 히데유키(nakayama hideyuki)) 자신에 의한 해설문으로부터 발췌, 「홋카이도(hokkaido)의 광대한 초원을 부지에, 피크닉(picnic)에 모인 사람들에게 경식을 대접하는 카페(cafe)로서 설계한 건축의 것1/3한 모형입니다.카페(cafe)라고 말해도, 건물은, 2동으로 나누어져 있고, 키가 큰 동은 철도 매점(kiosk)에서, 땅딸막한동은, 가든 퍼니쳐(의자나 테이블(table))이나 블랭킷(모포)을 수납하는 헛간(창고)입니다.즉 「안으로 무엇인가를 한다」건축이 아닙니다.건축 공간은, 어느 쪽일까하고 하면 밖에 있습니다.초원의 양단에, 어디엔가 연결되어 있을 것 같은 큰 문이 열려 있고, 사이에 매우 넓은 리빙룸(livingroom)가 나타나는 것 같은 풍경을 상상하고 있었습니다.거기에 온 한사람 한사람이, 매일 다른 「평면도」를 다시 그리는 것 같은 건축입니다.문이 닫으면, 넓은 넓은 건축 공간도 사라져서 없어집니다.문의 크기는, 키가 큰 분으로 6 m 있습니다.1/3그럼, 2 m.보통 방에 있는 도어(문)의 사이즈(크기)입니다」.
나카야마 히데유키(nakayama hideyuki):1972 년생.현재 활약중에서, 지금부터, 새로운 활약이 기대되는, 일본의 신진 건축가.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

나이토 히로시(naito hiroshi.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.사진안의 손은, 나의 손w.이하 「」 안, 관장(curator.학예원)에 의한 해설문보다, 「레이저(laser)에 의한〈적호〉를 즐기고 있는 동안에, 인간이 움직이는 일로 「공간」은 태어나는 것이라고 깨닫는 것은 아닐까요.물론, 인간이 없어도 공간은 있습니다만, 그럼, 그것들 두 개의 공간은 같은 것인가, 그렇지 않으면 다른지, 건축이 취급해야 할 공간은, 어느 쪽(도)인가.심플(단순)입니다만, 그렇게 깊은 일을 생각하게 해 주는 작품입니다」
나이토 히로시(naito hiroshi):1950 년생.현재 활약중의, 일본의 유명한 건축가.

 

사진 이하 4매.키쿠치 히로시(kikuchi hiroshi.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.이 전시의 컨셉(concept)은, 「태양의 운행과 실내 공간으로부터 나타나는 것」이라고 합니다.
키쿠치 히로시(kikuchi hiroshi):1972 년생.현재 활약중에서, 지금부터, 새로운 활약이 기대되는, 일본의 신진 건축가.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 10매.이토 도요오(ito toyo.아래의 보충 설명 참조)에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.
이토 도요오(ito toyo):1941 년생.현재 활약중의, 일본의 세계적으로 유명한 건축가.덧붙여서, 현재 활약중의 세계의 건축가중에서, 최고 class에 있는 SANAA(세지마화세(sejima kazuyo.1956 년생의 일본의 여성 건축가)&니시자와립위(nishizawa ryue.1966 년생의 일본의 건축가))는, 이토 도요오(ito toyo) 건축설계사무소의 출신입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.도쿄 국립 근대미술관의 본관의 관람자용 휴게실의 창으로부터 본, 마루노우치(marunouchi.옛부터의 도쿄의 비지니스(business)의 중심지구로 있어, 도쿄를 대표하는 비지니스(business) 거리)의 고층빌딩군.

 

마루노우치(marunouchi)는, 원래, 황궁(천황의 궁전)에 가까운 일, 경관(미관) 상의 관점등으로부터, 빌딩의 높이 제한(100자( 약 31 m))가 있어, 100자( 약 31m.9층건물정도)의, 높이가 갖추어진 중층 대규모 오피스(office) 용 빌딩이 늘어선다, 정연하게 한 거리풍경이었습니다.이 마루노우치(marunouchi)의 높이 제한은, 1960년대 초에 철폐되어 황궁(천황의 궁전) 주변도, 고층빌딩이 지어지는 것처럼 되었습니다만, 현재도, 마루노우치(marunouchi)는, 정연하게 한 거리풍경의 자취가 있어, 특히, 황궁(천황의 궁전) 주변은, 눈에 띄어 높은 초고층 빌딩은, 지어지고 있지 않습니다.

 

 

사진안의 돌담(stone wall)은, 에도(edo) 성(castle)의 옛날 건축의 잔존물의 일부입니다.에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에, 일본을 실질적으로 통치하고 있던 토쿠가와(tokugawa) 가의, (도쿄 중심부에 있다) 도쿄에서의, 성(castle)인, 에도(edo) 성(castle)은, 토쿠가와(tokugawa) 집안 심적인 성(castle)이며, 광대한 성(castle)이었습니다.에도(edo) 성(castle)은, 1860년대말에, 천황의 도쿄의 거주지가 되어, 이래, 구에도(edo) 성(castle)의 부지의 중심부는, 천황의 평상시의 거주지(천황의 도쿄의 궁전)로서 정비가 진행되었습니다.현재는, 한 때의 에도(edo) 성(castle)의 부지의 일부(한 때의 에도(edo) 성(castle)의 부지의 중심부에서 만난 부분)이, 황궁(천황의 궁전)과 공원으로서 정비되고 있습니다만, 그 정도 만으로, 700,000평(tsubo) 가깝게(2,300,000평방 m) 있습니다(황궁(천황의 궁전)의 부지면적이 약 350,000평(tsubo)(1,150,000평방 m), 공원·광장등의 면적이 약 350,000평(tsubo)(1,150000평방 m)).한 때의 에도(edo) 성(castle)의 건물에서, 현재 남아 있는 것은, 극히 불과에 지나지 않습니다만, 한 때의 에도(edo) 성(castle)의 중심부의 호리(moat)(에도(edo) 성(castle)은, 굴(moat)에 둘러싸여 있었습니다)과 돌담(stone wall)에 대해서는, 잘 남아 있습니다.사진의 굴(moat)과 돌담(stone wall)은, 그 일부입니다.

 

사진 이하 6매.이쪽은, 아틀리에·원(Atelier Bow-Wow.츠카모토유청(tsukamoto yoshiharu.아래의 보충 설명 참조)&패도도대(kaijima momoyo.아래의 보충 설명 참조))에 의한, 인스타 배급량(Installation art) 작품(부분)입니다.옥외 전시 작품이 되고 있었습니다.
츠카모토유청(tsukamoto yoshiharu):1965 년생.현재 활약중의 일본의 신진 건축가.1992년에, 패도도대(kaijima momoyo)와 아틀리에·원(Atelier Bow-Wow)을 결성.
패도도대(kaijima momoyo):1969 년생.현재 활약중의 일본의 젊은이 여성 건축가.1992년에, 츠카모토유청(tsukamoto yoshiharu)과 아틀리에·원(Atelier Bow-Wow)을 결성.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.저녁 식사는, 도쿄 국립 근대미술관의 본관에 들어가 있는, (프랑스 요리를 중심으로 한) 서양 요리 레스토랑(위의, 차가운 단 것을 먹은 레스토랑)에서 먹었습니다.이것에 빵을 먹었습니다.

 

로스트 치킨(roasted chicken), 로즈메리(rosemary) 풍미.일인일명씩.이 레스토랑의 로스트 치킨(roasted chicken)은, 맛있습니다.

 

 

내가, 추가로 부탁해 먹은, 사이드 디쉬(side dish)의 포테이토(potato)의 튀김.

 

 

디저트(dessert).피치메르바(peach melba).일인일명씩.

 

사진 이하 2매.도쿄 국립 근대미술관의 전람회(exhibition)의 스케줄(schedule)의 팜플렛(leaflet).

 

표지의 작품은, 고이데 나라시게(koide narashige.아래의 보충 설명 참조) 작, 「나팔을 가질 수 있는 소년」(나팔을 가지는 소년)(1923년).

고이데 나라시게(koide narashige):1887 년생.1931년에 죽는다.주로, 1920년대에 활약한, 일본의 유명한 근대 화가(서양화가).


 

 

 

사진 이하 11매.가는지 가지 않는지는, 예외지만, 이 때, 도쿄 국립 근대미술관의 본관으로부터 가져 온, 조금 신경이 쓰이는 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet).

 

사진 이하 7매.9월 7일부터 10월 17일에 걸치고, 도쿄 국립 근대미술관의 본관에서 행해질 예정의, 우에무라 쇼엔(uemura syouen.아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet).

우에무라 쇼엔(uemura syouen):1875 년생, 1949년에 죽는다.1890년대부터 1940년대에 활약한, 일본의 유명한, 여성, 근대 일본 전통 화가.


 

「염」(1918년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작(의 부분).

 

 

「순서의 무용」(1936년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작(의 부분).

 

왼쪽, 「인생의 꽃」(1899년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.오른쪽, 「이야기 책세코마치」(1937년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.

 

왼쪽, 「무용 준비」(1914년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.

 

오른쪽, 「양귀비」(1922년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.

 

 

「모자」(1934년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.

 

「다듬이질」(1938년), 우에무라 쇼엔(uemura syouen) 작.

 

 

현재, 도쿄도 사진 미술관(아래의 보충 설명 참조)에서 개최중의, 사진가들이 찍은, 제2차 세계대전 후(1945년부터 2010년)의, 일본의 여성을 테마(theme)로 한 전람회(exhibition)의 팜플렛(leaflet).표지가 되고 있는 작품은, 「농촌의 낭(아키타(akita) 현))」(1953년)(기무라 이헤에(kimura ihei.1901 년생, 1974년에 죽는다.일본을 대표하는 저명한 사진가의 한 명.1930년대부터 1970년대 중반에 죽는 근처까지 활약) 촬영).
도쿄도 사진 미술관:사진·영상 전문의, 공립 미술관.도쿄도심부 서부의 에비스(ebisu)에 있다.

 

사진 이하 3매.도쿄 국립 근대미술관의 영화 부문에서 있는, 도쿄 국립 근대미술관필름 센터(Film Center)에서, 현재 개최중의, 오후지 노부로(ofuji noburo.아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)와 동필름 센터(Film Center)에서, 지금부터 개최될 예정의, 오후지 노부로(ofuji noburo)의 작품 상영회의 팜플렛(leaflet).
오후지 노부로(ofujinoburo):1900 년생.1961년에 죽는다.일본의 애니메이션(animation)의 선구자의 한 명.1920년대부터 1950년대에 걸쳐 활약.제2차 세계대전전은, 에도(edo) 수공용 색종이(chiyogami.아래의 보충 설명 참고조)를 소재에 이용한, 잘라 그림 애니메이션(animation), 수공용 색종이(chiyogami) 영화를 고안 해, 단편 영화를 차례차례로 발표하고 주목을 받는다.전후는, 한층 더 독자적인 표현을 요구해 색채 세로판(cellophane) 이용한, 컬러풀(colorful)인 그림자 그림 영화의 제작에 착수해, 1950년대에, 그것등의 작품은, 국제적인 주목도 모았다(팜플렛(leaflet)의 설명문을 참고로 했습니다).
수공용 색종이(chiyogami):일본의 전통적인 놀이인 종이접기(origami)를 만들기 위해서 사용되거나 종이 인형의 의상, 공예품이나 화장 도구 상자에 장식의 목적으로 붙여지는, 문이나 모양의 풍부한 일본 종이(일본 전통지)로 만들어진 정방형의 종이(wiki보다).

 

팜플렛(leaflet) 위는, 경단 무관(dangobei.아래의 보충 설명 참조)의 샘플 캐릭터(character).
경단 무관(dangobei):오후지 노부로(ofuji noburo)의 단편 애니메이션(animation) 영화, 「마구전성의 도적」(1926년)로, 첫등장 한, 오후지 노부로(ofuji noburo)의 단편 애니메이션(animation) 영화의 캐릭터(character))

 

이 팜플렛(leaflet)의 표지에 나와 있는 작품은, 오후지 노부로(ofuji noburo)의, 전쟁 전의 채 안되어 그림 애니메이션(animation)(수공용 색종이(chiyogami) 영화)일까...

 

위는, 오후지 노부로(ofuji noburo)의, 색채 세로판(cellophane) 이용한 그림자 그림 애니메이션(animation) 영화, 「유령선」(1956년)의, 세로판(cellophane) 그림자 그림 원화.아래쪽은, 오후지 노부로(ofuji noburo)의, 색채 세로판(cellophane) 이용한 그림자 그림 애니메이션(animation) 영화, 「고래」(1952년)로부터...

 

미술관 산책&식사, 끝...

 

이하, 덤.

 

사진 이하 3매.어제, 일로부터 돌아오고 나서, 우리 집에서 먹은 저녁 식사.니혼바시(nihonbashi.도쿄의 옛부터의 상업의 중심지.도쿄의 주요한 상업지의 하나로 있으면 보조자에, 도쿄를 대표하는 상업지의 하나.도쿄도심부안에서도, 중심적인 지역에 위치한다)에 있는, 붕장어(anago.아래의 보충 설명 참조) 요리 식당, 구슬(tamai)의 붕장어(anago) 사발.구슬(tamai)의 붕장어(anago) 사발은, 나의 마음에 드는 것이 되고 있습니다.우연히, 기간 한정으로, 신쥬쿠(도쿄 최대급의 번화가의 하나.도쿄도심부의 서부에 위치한다)의 게이오(keio) 백화점의 식료품 판매장에 출점하고 있었다고 하므로, 사 와 받은 것입니다.
붕장어(anago):뱀장어를 닮은 물고기이지만, 뱀장어보다, 시원시원한 맛.뱀장어와 보조자에, 일본에서, 잘 먹을 수 있고 있다.기본적으로, 뱀장어보다 염가로, 대중적인 식품 재료(물고기)이지만, 뱀장어보다, 비교적 시원시원한 붕장어(anago)가, 좋아라고 하는 사람도 있다.

 

 

 

 

 

꼭, 좋습니다만(게다가, 조금, 플라잉 해(먹어 버려)로부터 촬영했습니다만 w), 나는, 둘 w(이 사이즈(size)(작은 사이즈(size))의 물건 밖에 팔지 않았다고 말하므로...).이것과 그리고, 야채 사라다(salad)를 먹었습니다.

 

 

어제의 저녁 식사의 디저트(dessert)로서(도), 먹은, 유우바리(yubari) 멜론(melon).선물.홋카이도(hokkaido)의 유우바리(yubari) 시에서 생산되는 유우바리(yubari) 멜론(melon)은, 맛있습니다만, 고급 멜론(melon)으로, 나의 같은 서민이, 스스로, 빈번히 구입해 먹는 것 같은 멜론(melon)이 아닙니다 w.상, 사진은, 어제의 저녁 식사전에 촬영한 것입니다만(어제의 저녁 식사전의 시점에서 남아 있던 것모두), 오늘로 모두 다 먹었습니다. 



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