食べ物

 

 

先月(11月)の初旬に、東京の西部近郊の御岳(mitake)山に、一泊二日で、遊びに行って来た時の物です。御岳(mitake)山は、東京の都心部から日帰りで行ける、東京近郊の気軽なハイキング(hiking)場所・保養場所(夏の気軽な避暑にも良い)として、人気の山の一つです(ただし、東京都心部から日帰りで、行って、ハイキング(hiking)して、帰って来るには、朝早く、起きる必要がある)。

 

御岳(mitake)山は、古くから山岳信仰(山に宗教的意味を与え、崇拝したり儀礼を行なったりする事)の対象となっている山で、山の上には、御嶽(mitake)神社(shrine)が有り、古くから、参拝者を集めて来ました。もっとも、現在は、全般的に、参拝よりも、ハイキング(hiking)・保養を主目的で訪れる人々の方が、多いと思います(古くから、多くの参拝者を受け入れて来た故に、山道等、訪れる人々の為の、基礎的な観光インフラ(infrastructure)が、比較的古くから整備され、その事から、近代・現代(特に第2次世界大戦後の高度経済成長期(1950年代から1960年代)以降)において、庶民の間で、(それまでの参拝場所としてだけでなく)、ハイキング(hiking)・保養場所としても、人気を集める様になったと言う面も有ると思います)。

 

以下、この投稿(「御岳(mitake)山散歩&食事1」)は、先月(11月)の初旬に、御岳(mitake)山に、一泊二日で、遊びに行って来た時の一日目(初日)についてですが、投稿の便宜上、写真は、二日目(翌日)に撮影した物も含みました。

 

写真以下4枚。写真は、翌日(2日目)に撮影した物ですが、御岳(mitake)山ケーブルカー(funicular)。1934年に開業しましたが、第2次世界大戦中の1944年に、(戦況の悪化により、戦時中には必要の無い路線として)、政府により、運行休止の命令が下されました。運行が再開されたのは、1951年(第2次世界大戦直後の混乱と大衆の貧困が、ようやく収まって来て、間も無くの頃)の事です。それ以来、日本の高度経済成長に伴い、多くの、東京areaに暮らす人々の、日曜日、週末ハイキング(hiking)客を運んで来ました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御岳(mitake)山から他の山まで足を伸ばすならばどうか分かりませんが(私は、まだ、御岳(mitake)山から他の山まで足を伸ばした事がないし、今の所、伸ばすつもりも有りませんw)、御岳(mitake)山のみのハイキング(hiking)だったら、ケーブルカー(funicular)で、山の上まで登ってしまえば、山の上の、あまり、登り下りが激しくない、楽な道を歩くだけと言った感じで、山なのに、あまり登山と言う感じがしません。したがって、御岳(mitake)山のハイキング(hiking)は、至って気軽なハイキング(hiking)であり、大変なハイキング(hiking)や登山は苦手だし、あまり好きではない私に、実に向いていると言えますw。

 

写真以下26枚。北海道(hokkaido)や長野(nagano)県の自然風景が、雄大だとしたら、御岳(mitake)山及び、その周辺は、箱庭(miniature landscape garden)の様な、小じんまりとした風景と言った感じです(それは、それで、趣が有ります)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下、御岳(mitake)山の山の上には、御嶽(mitake)神社(shrine)、御嶽(mitake)神社(shrine)で、代々、神職(shinsyoku。神に奉仕し儀式等を行う者)として働く人々(下の補足説明参照)の家、御嶽(mitake)神社(shrine)に参拝する人々の為の宿坊(syukubou。寺又は神社(shrine)に参拝する人々の為の宿泊施設)、参拝者(観光客)向けの売店や食堂等の有る、小さな集落(村)が有ります。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)までは、自動車で登る事が可能ですが、御岳(mitake)山の山の上の集落(村)まで自動車で登る事は、(御岳(mitake)山の山の上の集落(村)の住人を中心とした)一部の人々のみに制限され、一般人(ハイキング客(hiker)、参拝者、観光客等)は、山の上の集落(村)まで自動車で登る事は、禁止されています(したがって、一般人は、ケーブルカー(funicular)を利用するか、歩いて登る事になります)。尚、上で、紹介した、御岳(mitake)山ケーブルカー(funicular)は、山の上の集落(村)で暮らす人々(御嶽(mitake)神社(shrine)で、神職(shinsyoku)として働く人々)の子供達の通学手段としても活躍している様です(山の上の集落(村)には、学校がない(おそらく。。)為。。)。

御嶽(mitake)神社(shrine)で、代々、神職(shinsyoku)として働く人々:中小規模の寺の多くが、基本的に、お坊さん(僧侶)は、一人(その寺のお坊さん(僧侶)=その寺の住職(寺を管理する僧侶))である事と同様、中小規模の神道の神社(shrine)の多くが、基本的に、神職(shinsyoku。神に奉仕し儀式等を行う者)は、一人(その神社(shrine)の神職(shinsyoku)=その神社(shrine)の神主(kannushi。その神社(shrine)を管理する神職(shinsyoku))だと思いますが(尚、巫女(miko。神職(shinsyoku)を補佐する女性)は、他にいます)、(規模の大きな寺の場合、複数の僧侶が、勤めている場合がある事と同様)、規模の大きな神道の神社(shrine)の場合、複数の神職(shinsyoku)が勤めている場合が有ります。御嶽(mitake)神社(shrine)も、その一つです。

 

写真以下3枚。御嶽(mitake)神社(shrine)(写真は、その入り口)。創建は、紀元前91年と言われる、非常に歴史の古い神道の神社(shrine)です(ただし、建物は、時代に合わせて、建て替えられています)。中世以降、東日本の山岳信仰(山に宗教的意味を与え、崇拝したり儀礼を行なったりする事)の霊場(聖地)の一つとして、発展し(wikiを参考にしました)、特に、17世紀以降、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)が、大都市として発展すると供に?、多くの参拝者を集める様になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元々、どの様な目的で建てられた建物なのか分かりませんが、1910年代から1930年代頃建てられたと思われる建物を利用した、売店。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下5枚。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)に有る住宅の建物の中で、一番立派な建物なので、おそらく、御嶽(mitake)神社(shrine)の神主(kannushi。その神社(shrine)の神職(shinsyoku。神に奉仕し儀式等を行う者)の長(leader))の家だと思われます。。。現在の建物は、1910年代から1930年代頃建てられた物かな。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下5枚(写真以下5枚は、同じ住宅の建物)。御嶽(mitake)神社(shrine)の神職(shinsyoku。神に奉仕し儀式等を行う者)の住宅の一つ。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)の建物は、時代に合わせて、建て替えられて来ましたが、この住宅の建物は、御岳(mitake)山の山の上の集落(村)の、現在の住宅の建物の中で、建物の古さ、建物に改装が加えられている度合い(建物に改装が加えられている度合いの低さ)等の総合面において、おそらく最も歴史的価値の高い建物です。1866年に建てられた物で、文化財に指定されており、これから、建て替えられたり、大きく改装される様な事はないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御嶽(mitake)神社(shrine)の神職(shinsyoku)の住宅の一つ(おそらく。。。)の門。

 

 

御嶽(mitake)神社(shrine)の神職(shinsyoku。神に奉仕し儀式等を行う者)の、ほとんどが、(御岳(mitake)山の山の上の集落(村)に有る)、御嶽(mitake)神社(shrine)に参拝する人々の為の宿坊(syukubou。寺又は神社(shrine)に参拝する人々の為の宿泊施設)の経営者も兼ねています(また、御岳(mitake)山の山の上の集落(村)に有る、宿坊(syukubou)の、ほとんどは、御嶽(mitake)神社(shrine)の神職(shinsyoku)が、経営していると言った感じです)。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)に有る、宿坊(syukubou)は、現在は、御嶽(mitake)神社(shrine)の参拝者だけでなく、多くのハイキング客(hiker)や、保養客も利用しており、その多くは、実体は、民宿(下の補足説明参照)と言った感じになっている様です。
民宿:旅館よりも、簡易な宿泊施設で、一般的に、旅館よりも、規模が小さく、風呂等の施設が簡素で、宿泊料金が安い。海沿いや、離島に多く、一般的に家族経営で有り、副業で営んでいる場合も多い(海沿いや、離島で、漁師の家庭が、民宿も営んでいる場合が、多いかな。。。)。庶民的な宿泊施設だが、料理は、料理の質の低い旅館よりも、むしろ良い場合も有る。

 

 

写真以下2枚。山楽荘(sanraku)荘の入り口。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)にある宿坊(syukubou)の一つで、その実体は、旅館と言った感じになっています。私が知る限り、御岳(mitake)山の山の上の集落(村)にある宿泊施設の中で、最も格式の高い(高級感のある)宿泊施設の一つです(最も格式の高い(高級感のある)宿泊施設の一つと言っても、一般的に見れば、中級classの旅館と言った感じですが)。川合 玉堂(kawai gyokudo。1873年生まれ。1957年に亡くなる。19世紀末から活躍した、有名な日本伝統画家。御岳(mitake)山周辺の自然を、こよなく愛した)、吉川 英治(yoshikawa eiji。1892年生まれ1962年に亡くなる。歴史小説で、人気を博した小説家)等が、お気に入りだった宿泊施設です。私は、山楽荘(sanraku)荘は、2回程泊まった事が有りますが、雰囲気は、良いものの、料理は、個人的に、私が、御岳(mitake)山で、お気に入りの民宿(宿坊(syukubou))の方が、好みと言った印象です。。

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)にある宿坊(syukubou)の一つ(写真以下2枚は、同じ宿坊(syukubou))。調べたら、この宿坊(syukubou)の歴史は、江戸(edo)時代(1603年から1868年)からだそうです。現在の建物は、広く推定して、19世紀から1910年代頃建てられた物かな。。。

 

写真右側は、(現在の建物が建てられた当初の物ではなく)後から付け加えられた部分(でしょう。。。)。

 

 

 

 

写真以下2枚。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)にある宿坊(syukubou)の一つ(写真以下2枚は、同じ宿坊(syukubou))。この宿坊(syukubou)も、江戸(edo)時代(1603年から1868年)からの歴史を有するそうです。現在の建物は、広く推定して、19世紀末から1920年代頃建てられた物だと思われますが、時代と供に、大幅な改装が施されている様です。

 

 

 

 

 

 

 

写真以下、御岳(mitake)山で、お気に入りの民宿(宿坊(syukubou))に泊まりました。御岳(mitake)山の山の上の集落(村)にある宿坊(syukubou)の一つで、その実体は、民宿と言った感じになっています(少なくとも、この宿坊(syukubou)の宿泊者に限っては、現在は、全般的に、御嶽(mitake)神社(shrine)の参拝が主目的の人よりも、ハイキング客(hiker)や、保養客の方が、ずっと多い感じです)。この民宿(宿坊(syukubou))は、料理が良い所(私好みの所)が、特に気に入って、お気に入りの民宿となっています。

 

この民宿(宿坊(syukubou))も、歴史は、古いのでしょうが、現在の建物は、残念ながら、割りと新しい、現代的な物となっています(割りと新しいと言っても、建てられてから、40年から60年程経っていると思われますが。。。)。

 

 

写真以下3枚。この民宿(宿坊(syukubou))の部屋(この時、私達が、宿泊した部屋)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。部屋の窓(この時、私達が、宿泊した部屋)からの景色。調度、椛の紅葉が綺麗でした。

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。この民宿(宿坊(syukubou))の共同風呂。二つの共同風呂が有り(温泉では有りません。御岳(mitake)山周辺は、温泉は乏しい様。。。)、男女別の共同風呂形式で、どちらが、男用共同風呂、どちらが、女用共同風呂と、固定的に決まっている訳ではなく、朝と夜で入れ替わります。民宿らしく、部屋数、宿泊収容人数供に、少ないのですが、それにしても、共同風呂としては小さいので(普通の家庭の風呂よりは、大きいですが)、誰も風呂に入っていない時を狙って入って、一人で貸し切り状態で、入浴するのが、ゆったりとして良いです(一人で入る分には、普通の家庭の風呂よりも、立派で、大きく、気持ちが良い。。。)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下、この時、この民宿(宿坊(syukubou))で、私達が、食べた夕食等。写真は、全て一人分です(全て、一人一皿ずつ)。

 

 

この夕食時に、私が飲んだ飲み物の一つ。澤乃井(sawanoi)(御岳(mitake)山周辺の、1702年創業の日本酒の会社)の日本酒です。

 

 

写真以下5枚までは、最初からテーブル(table)に置かれていた物で、刺身こんにゃく以降は、一品ずつテーブル(table)に運ばれて来た物です。

 

写真右下は、食前酒の梅酒。

 

 

 

写真左下は、山葵。

 

 

 

 

 

 

 

 

茸等の鍋物。下から火で温める方式になっています。

 

 

 

自家製刺身こんにゃく。

 

 

 

茶碗蒸し。

 

 

 

鮎?の焼き物。

 

 

 

鮪の刺身。

 

 

 

和え物。

 

 

栗の形を模した料理。この民宿の名物料理(得意料理)の一つとなっています。棘の部分は、茶蕎麦で、中身は、栗、魚、海老等の練り物になっています。見た目も楽しく、とても美味しいです。

 

 

 

酢の物。

 

 

蕎麦。

 

 

ご飯(rice)と漬物。

 

 

デザート(dessert)。キーウィ(kiwifruit)。

 

 

 

御岳(mitake)山散歩&食事2へ続く。。。

 

 

 


오다케(mitake) 산산책&식사 1

 

 

지난 달(11월)의 초순에, 도쿄의 서부 근교의 오다케(mitake) 산에, 일박 이틀로, 놀러 갔다 왔을 때의 물건입니다.오다케(mitake) 산은, 도쿄의 도심부로부터 당일치기로 갈 수 있는, 도쿄 근교의 가벼운 하이킹(hiking) 장소·보양 장소(여름의 가벼운 피서에도 좋다)로서 인기의 산의 하나입니다(다만, 도쿄도심부로부터 당일치기로, 가서, 하이킹(hiking) 하고, 돌아오려면 , 아침 일찍, 일어날 필요가 있다).

 

오다케(mitake) 산은, 옛부터 산악 신앙(산에 종교적 의미를 주어 숭배하거나 의례를 행하거나 하는 일)의 대상이 되고 있는 산에서, 산 위에는, 온타케(mitake) 신사(shrine)가 있어, 옛부터, 참배자를 모아 왔습니다.무엇보다, 현재는, 전반적으로, 참배보다, 하이킹(hiking)·보양을 주목적으로 방문하는 사람들이, 많다고 생각합니다(옛부터, 많은 참배자를 받아 들여 온 고로, 산길등 , 방문하는 사람들을 위한, 기초적인 관광 인프라(infrastructure)가, 비교적 옛부터 정비되어 그 일로부터, 근대·현대(특히 제2차 세계대전 후의 고도 경제성장기(1950년대부터 1960년대) 이후)에 있고, 서민의 사이로, (지금까지의 참배 장소로서 뿐만이 아니고), 하이킹(hiking)·보양 장소라고 해도, 인기를 끄는 것처럼 되었다고 하는 면도 있다고 생각합니다).

 

이하, 이 투고( 「오다케(mitake) 산산책&식사 1」)는, 지난 달(11월)의 초순에, 오다케(mitake) 산에, 일박 이틀로, 놀러 갔다 왔을 때의 하루눈(첫날)에 대해입니다만, 투고의 편의상, 사진은, 이틀눈(다음날)에 촬영한 것도 포함했습니다.

 

사진 이하 4매.사진은, 다음날(2일째)에 촬영한 것입니다만, 오다케(mitake) 산케이블카(funicular).1934년에 개업했습니다만, 제2차 세계대전중의 1944년에, (전황의 악화에 의해, 전시중에는 필요가 없는 노선으로서), 정부에 의해, 운행 휴지의 명령이 내려졌습니다.운행이 재개된 것은, 1951년( 제2차 세계대전 직후의 혼란과 대중의 빈곤이, 간신히 들어가 오고, 이윽고의 무렵)의 일입니다.그 이후로, 일본의 고도 경제성장에 수반해, 많은, 도쿄 area에 사는 사람들의, 일요일, 주말 하이킹(hiking) 객을 옮겨 왔습니다. 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

오다케(mitake) 산으로부터 다른 산까지 발길을 뻗친다면 어떨까 모릅니다만( 나는, 아직, 오다케(mitake) 산으로부터 다른 산까지 발길을 뻗친 일이 없고, 지금 단계, 늘릴 생각도 없습니다 w), 미타케(mitake) 산만의 하이킹(hiking)이라면, 케이블카(funicular)로, 산 위까지 올라 버리면, 산 위의, 너무, 올라 내리막이 격렬하지 않은, 편한 길을 걸을 뿐(만큼)이라고 한 느낌으로, 산인데, 별로 등산이라고 말하는 느낌이 들지 않습니다.따라서, 오다케(mitake) 산의 하이킹(hiking)은, 도달해 가벼운 하이킹(hiking)이며, 대단한 하이킹(hiking)이나 등산은 서투르고, 너무 좋아하지 않는다 나에게, 실로 향하고 있다고 말할 수 있는 w.

 

사진 이하 26매.홋카이도(hokkaido)나 나가노(nagano) 현의 자연 풍경이, 웅대하다고 하면, 오다케(mitake) 산 및, 그 주변은, 모형정원(miniature landscape garden)의 같은, 소로 한 풍경이라고 한 느낌입니다(그것은, 그래서, 정취가 있습니다).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하, 오다케(mitake) 산의 산 위에는, 온타케(mitake) 신사(shrine), 온타케(mitake) 신사(shrine)에서, 대대, 신관(shinsyoku.신에 봉사해 의식등을 실시하는 사람)으로서 일하는 사람들(아래의 보충 설명 참조)의 집, 온타케(mitake) 신사(shrine)에 참배하는 사람들을 위한 스쿠보우(syukubou.절 또는 신사(shrine)에 참배하는 사람들을 위한 숙박시설), 참배자(관광객) 보내의 매점이나 식당등이 있는, 작은 취락(마을)이 있습니다.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)까지는, 자동차로 오르는 것이 가능합니다만, 오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)까지 자동차로 오르는 일은, (오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)의 거주자를 중심으로 한) 일부의 사람들에만 제한되어 일반인(하이킹객(hiker), 참배자, 관광객등 )은, 산 위의 취락(마을)까지 자동차로 오르는 일은, 금지되고 있습니다(따라서, 일반인은, 케이블카(funicular)를 이용하는지, 걸어 오르는 일이 됩니다).히사시, 우에로, 소개한, 오다케(mitake) 산케이블카(funicular)는, 산 위의 취락(마을)에서 사는 사람들(온타케(mitake) 신사(shrine)에서, 신관(shinsyoku)으로서 일하는 사람들)의 아이들의 통학 수단이라고 해도 활약하고 있는 것 같고 (산 위의 취락(마을)에는, 학교가 없다(아마..) 때문..).

온타케(mitake) 신사(shrine)에서, 대대, 신관(shinsyoku)으로서 일하는 사람들:중소 규모의 절의 대부분이, 기본적으로, 스님(승려)은, 한 명(그 절의 스님(승려)=그 절의 주직(절을 관리하는 승려))인 일과 같이, 중소 규모의 신도의 신사(shrine)의 대부분이, 기본적으로, 신관(shinsyoku.신에 봉사해 의식등을 실시하는 사람)은, 한 명(그 신사(shrine)의 신관(shinsyoku)=그 신사(shrine)의 제주(kannushi.그 신사(shrine)를 관리하는 신관(shinsyoku))이라고 생각합니다만(상, 무녀(miko.신관(shinsyoku)을 보좌하는 여성)은, 그 밖에 있습니다), (규모의 큰 절의 경우, 복수의 승려가, 근무하고 있는 경우가 있는 일과 같이), 규모의 큰 신도의 신사(shrine)의 경우, 복수의 신관(shinsyoku)이 근무하고 있는 경우가 있습니다.온타케(mitake) 신사(shrine)도, 그 하나입니다.

 

사진 이하 3매.온타케(mitake) 신사(shrine)(사진은, 그 입구).창건은, 기원 전 91년이라고 말해진다, 매우 역사의 낡은 신도의 신사(shrine)입니다(다만, 건물은, 시대에 맞추고, 다시 세워지고 있습니다).중세 이후, 동일본의 산악 신앙(산에 종교적 의미를 주어 숭배하거나 의례를 행하거나 하는 일)의 영지(성지)의 하나로서 발전해(wiki를 참고로 했습니다), 특히, 17 세기 이후, 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있었다)가, 대도시로서 발전하면 보조자에?, 많은 참배자를 모으는 것처럼 되었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

원래, 어떤 목적으로 지어진 건물인가 모릅니다만, 1910년대부터 1930년대무렵 지어졌다고 생각되는 건물을 이용한, 매점.

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 5매.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 주택의 건물 중(안)에서, 제일 훌륭한 건물이므로, 아마, 온타케(mitake) 신사(shrine)의 제주(kannushi.그 신사(shrine)의 신관(shinsyoku.신에 봉사해 의식등을 실시하는 사람)의 장(leader))의 집이라고 생각됩니다...현재의 건물은, 1910년대부터 1930년대무렵 지어진 것일까...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 5매(사진 이하 5매는, 같은 주택의 건물).온타케(mitake) 신사(shrine)의 신관(shinsyoku.신에 봉사해 의식등을 실시하는 사람)의 주택의 하나.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)의 건물은, 시대에 맞추고, 다시 세워져 왔습니다만, 이 주택의 건물은, 오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)의, 현재의 주택의 건물 중(안)에서, 건물의 낡음, 건물에 개장이 더해지고 있는 정도(건물에 개장이 더해지고 있는 정도의 낮음) 등의 종합면에 있고, 아마 가장 역사적 가치의 높은 건물입니다.1866년에 지어진 것으로, 문화재로 지정되어 있어 지금부터, 다시 세워지거나 크게 개장되는 것 같은 일은 없을 것입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

온타케(mitake) 신사(shrine)의 신관(shinsyoku)의 주택의 하나(아마...)의 문.

 

 

온타케(mitake) 신사(shrine)의 신관(shinsyoku.신에 봉사해 의식등을 실시하는 사람)의, 대부분이, (오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있다), 온타케(mitake) 신사(shrine)에 참배하는 사람들을 위한 스쿠보우(syukubou.절 또는 신사(shrine)에 참배하는 사람들을 위한 숙박시설)의 경영자도 겸하고 있습니다(또, 오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는, 스쿠보우(syukubou)의, 대부분은, 온타케(mitake) 신사(shrine)의 신관(shinsyoku)이, 경영하고 있다고 한 느낌입니다).오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는, 스쿠보우(syukubou)는, 현재는, 온타케(mitake) 신사(shrine)의 참배자 뿐만이 아니라, 많은 하이킹객(hiker)이나, 보양객도 이용하고 있어, 그 많게는, 실체는, 민박(아래의 보충 설명 참조)이라고 말한 기분이 들고 있는 것 같습니다.
민박:여관보다, 간단하고 쉬운 숙박시설로, 일반적으로, 여관보다, 규모가 작고, 목욕탕등의 시설이 간소하고, 숙박 요금이 싸다.해안이나, 낙도에 많아, 일반적으로 가족 경영으로 있어, 부업으로 영위하고 있는 경우도 많다(해안이나, 낙도에서, 어부의 가정이, 민박도 영위하고 있는 경우가, 많을까...).서민적인 숙박시설이지만, 요리는, 요리의 질의 저있어 여관보다, 오히려 좋은 경우도 있다.

 

 

사진 이하 2매.산락장(sanraku) 장의 입구.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 스쿠보우(syukubou)의 하나로, 그 실체는, 여관이라고 말한 기분이 들고 있습니다.내가 아는 한, 오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 숙박시설 중(안)에서, 가장 격식의 높은(고급감이 있다) 숙박시설의 하나입니다(가장 격식의 높은(고급감이 있다) 숙박시설의 하나라고 말해도, 일반적으로 보면, 중급 class의 여관이라고 한 느낌입니다만).가와이 교쿠도(kawai gyokudo.1873 년생.1957년에 죽는다.19 세기말로부터 활약한, 유명한 일본 전통 화가.오다케(mitake) 산주변의 자연을, 각별히 사랑한), 요시카와 에이지(yoshikawa eiji.1892 년생 1962년에 죽는다.역사 소설로, 인기를 얻은 소설가) 등이, 마음에 드는 것이었던 숙박시설입니다.나는, 산락장(sanraku) 장은, 2회 정도 묵은 일이 있습니다만, 분위기는, 좋기는 하지만, 요리는, 개인적으로, 내가, 오다케(mitake) 산에서, 마음에 드는 민박(스쿠보우(syukubou))가, 기호라고 한 인상입니다..

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 스쿠보우(syukubou)의 하나(사진 이하 2매는, 같은 스쿠보우(syukubou)).조사하면, 이 스쿠보우(syukubou)의 역사는, 에도(edo) 시대(1603년부터 1868년) 몸 그렇습니다.현재의 건물은, 넓게 추정하고, 19 세기부터 1910년대무렵 지어진 것일까...

 

사진 우측은, (현재의 건물이 지어진 당초의물은 아니고) 나중에 덧붙일 수 있었던 부분(지요...).

 

 

 

 

사진 이하 2매.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 스쿠보우(syukubou)의 하나(사진 이하 2매는, 같은 스쿠보우(syukubou)).이 스쿠보우(syukubou)도, 에도(edo) 시대(1603년부터 1868년)부터의 역사를 가진다고 합니다.현재의 건물은, 넓게 추정하고, 19 세기말에서 1920년대무렵 지어진 것이라고 생각됩니다만, 시대와 보조자에, 대폭적인 개장이 베풀어지고 있는 것 같습니다.

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하, 오다케(mitake) 산에서, 마음에 드는 민박(스쿠보우(syukubou))에 묵었습니다.오다케(mitake) 산의 산 위의 취락(마을)에 있는 스쿠보우(syukubou)의 하나로, 그 실체는, 민박이라고 말한 기분이 들고 있습니다(적어도, 이 스쿠보우(syukubou)의 숙박자에 한해서는, 현재는, 전반적으로, 온타케(mitake) 신사(shrine)의 참배가 주목적의 사람보다, 하이킹객(hiker)이나, 보양객이, 훨씬 많은 느낌입니다).이 민박(스쿠보우(syukubou))는, 요리가 좋은 곳( 나취향의 곳)이, 특별히 마음에 들고, 마음에 드는 민박이 되고 있습니다.

 

이 민박(스쿠보우(syukubou))도, 역사는, 낡을 것입니다가, 현재의 건물은, 유감스럽지만, 나누기와 새로운, 현대적인 물건이 되고 있습니다(나누기와 새롭다고 해도, 지어지고 나서, 40년부터 60년 정도 지나 있다고 생각됩니다만...).

 

 

사진 이하 3매.이 민박(스쿠보우(syukubou))의 방(이 때, 저희들이, 숙박한 방).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.방의 창(이 때, 저희들이, 숙박한 방)으로부터의 경치.세간, 화의 단풍이 깨끗했습니다.

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.이 민박(스쿠보우(syukubou))의 공동 목욕탕.두 개의 공동 목욕탕이 있어(온천이 아닙니다.오다케(mitake) 산주변은, 온천은 부족한 님...), 남녀별의 공동 목욕탕 형식에서, 어느 쪽이, 남용 공동 목욕탕, 어느 쪽이, 녀용 공동 목욕탕과 고정적으로 정해져 있는 것이 아니고, 아침과 밤에 바뀝니다.민박인것 같고, 방수, 숙박 수용 인원수보조자에, 적습니다만, 그렇다 치더라도, 공동 목욕탕으로서는 작기 때문에(보통 가정의 목욕탕보다는, 큽니다만), 아무도 목욕하지 않을 때를 노려 들어가고, 혼자서 전세주어 상태로, 입욕하는 것이, 느긋해 좋습니다(혼자서 들어가는 분에는, 보통 가정의 목욕탕보다, 훌륭하고, 크고, 기분이 좋다...).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하, 이 때, 이 민박(스쿠보우(syukubou))에서, 저희들이, 먹은 저녁 식사등.사진은, 모두 일인분입니다(모두, 일인일명씩).

 

 

이 저녁 식사시에, 내가 마신 음료의 하나.택내정(sawanoi)(오다케(mitake) 산주변의, 1702년 창업의 일본술의 회사)의 일본술입니다.

 

 

사진 이하 5매까지는, 최초부터 테이블(table)에 놓여져 있던 것으로, 생선회 곤약 이후는, 일품씩 테이블(table)에 옮겨져 온 것입니다.

 

사진 우하는, 식전술의 매실주.

 

 

 

사진 좌하는, 와사비.

 

 

 

 

 

 

 

 

버섯등의 냄비 요리.아래로부터 불로 따뜻하게 하는 방식이 되어 있습니다.

 

 

 

자가제 생선회 곤약.

 

 

 

계란찜.

 

 

 

점?의 구이.

 

 

 

큰 다랑어의 생선회.

 

 

 

무침 요리.

 

 

률의 형태를 본뜬 요리.이 민박의 명물 요리(이익 요리)의 하나가 되고 있습니다.가시나무의 부분은, 차소바로, 내용은, 률, 어, 새우등의 가다듬어 쓸모 있게 되고 있습니다.외형도 즐겁게, 매우 맛있습니다.

 

 

 

초절임.

 

 

소바.

 

 

밥(rice)과 채소 절임.

 

 

디저트(dessert).키위(kiwifruit).

 

 

 

오다케(mitake) 산산책&식사 2에 계속 된다...

 

 

 

 



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