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基本的に(若干、参考の投稿を入れ替えています)、去年の12月に行った投稿の再掲です。




以下、基本的に(参考の投稿を、新しい投稿に入れ替えています)、一昨年の4月の下旬に行った投稿の再掲です。



以下、参考の投稿。

芸者(geisha)・祖父の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658686/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
大國魂神社(1900年以上の歴史を有する神社)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658684/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
小津 安二郎映画「晩春」他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_2/view/id/3580708?&sfl=membername&stx=nnemon2
小津安二郎の映画「晩春(Late Spring)」と鎌倉→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3584065/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658681/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京會舘他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658266/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
ペットの話→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634898/page/18?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷 虹児(fukiya koji)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634899/page/18?&sfl=membername&stx=nnemon2






以下、比較的最近行った、以下の投稿から抜粋して来た物です。ちなみに、私は、若い頃は、遊んでいましたが、今は、落ち着いて、真面目なw大人になっています。

Smooth Jazz and Rain Sounds他→
/jp/board/exc_board_5/view/id/3279966?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「ちなみに、モデルで高校時代と言えば、高校時代の悲しい思い出として、高校時代に交際していた女の子の一人で(学外で知りあった当時高校生の女の子で、知りあったきっかけは私の夜遊びでのナンパw)、当時雑誌の読者モデルをしていて、普段は明るい綺麗系の女の子だったのですが、両親の夫婦仲が悪い事でとても悩んでいて、(高校生当時、私と交際している最中に)突然、両親に遺書を書いたまま行方不明になってしまいました(海に飛び込んだりした自殺の可能性が高いようです)。私が彼女の力になってやれなかった後悔で、今思い出しても、とても切ない思い出です。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は自分自身に関する事で泣いた(涙を流した)事は一度もないのですが、当時、しばらくの間、夜に、その、(私と交際している最中に)失踪(自殺?)してしまった雑誌の読者モデルの女の子の事を思っては、しくしくと泣いていました。

その読者モデルの女の子は、前述の通り、普段は明るい女の子だったのですが、両親の夫婦仲が悪い事でとても悩んでいて、(高校生当時、私と交際している最中に)突然、両親に遺書を書いたまま行方不明になってしまいました(海に飛び込んだりした自殺の可能性が高いようです)。私が彼女の力になってやれなかった後悔で、今思い出しても、とても切ない思い出です。

幸いな事に、私の両親は、昔から仲が良いのですが、私の今までの人生経験に基づくと(私が今まで接して来た人達を見て来た経験からすると)、両親の不仲、両親の離婚と言った物は、子供の心理や子供の心の悲しさ・虚しさ・やるせなさ等に、大きな影響を与えます。

私は、家族の、最も重要な、基本は夫婦であると思います。家族で、最も大切である事は、お互いに血が繋がっておらず、元々、育った環境も異なる、赤の他人同士の、夫婦が、しっかりと仲良くする事であると思います。夫婦の仲さえ、しっかりとしていれば、基本的には(例外もありますが)、血の繋がりもあり、同じ家庭環境を共有する、親子関係なんて、どうにでもなると思います。」


以上、比較的最近行った投稿から抜粋して来た物でした。


すぐ上の、「」内の話に関して、例外の例に関しては、私の今の彼女と私の今の彼女の母の関係があります。それに関しては、以下の投稿を参照して下さい。

アニメのテーマ曲他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3588995/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2
Cinderella(ヨーロッパの昔話)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3478413/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2




以下、1月上旬に行った投稿から抜粋して来た物です。




以下、基本的に、去年の1月上旬に行った投稿から抜粋して来た物です。



以下、前に投稿で紹介した動画です(女性が見ても、とても為になる動画だと思います)。ちなみに、私は、DaiGo(メンタリスト)の話の動画は、この動画を含めて、ほぼほぼ、今までに、kjで紹介している物しか見ていません

性体験が増える性格とは〜最新科学が明かすえげつないモテ技術(一昨年の7月21日にアップされた動画の様です)→
https://youtu.be/unx2o_4B2n8





以下、前に行った(去年の5月に行った)、投稿から抜粋して来た物です。



東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

私の母方の祖母は、若い頃の写真を見ると、中々、綺麗で、(自分の親族に対して言うのもなんなのですが)美人なのですが、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw

私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)で、私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが、私の母の、痩せの大食いの体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)は、私の母方の祖父、又は、私の母方の祖母の姉(やはり、生涯、痩せている体質であった)に似たのだと思います。ちなみに、私の母は、身長は、163cm位と、私の母の世代の女性にしては、比較的、高い方ですが、それは、母方の祖母(私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方であった)からの遺伝であると思います(私の母方の祖父は、身長は、165cm位と小柄であった)。ちなみに、私の父の家系は、長身の家系です。

諏訪 根自子(1920年生まれ。2012年に亡くなる)は、1930年代の初め頃から1950年代頃にかけて活躍していた、日本の、女性、violinistです。諏訪 根自子は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪 根自子が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(おそらく。。。)。



写真は、借り物。少女の頃の諏訪 根自子。若い頃の、私の母方の祖母は、若い頃の写真を見る限り、目が大きく、鼻筋が通った(鼻が高い)美人で、若い頃の、私の母方の祖母は、そっくり(完全に似ている)と言う程ではありませんが、少女の頃の諏訪 根自子に似ています。しかしながら、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw 

私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。私の母方の祖母は、大人しくて、上品な性格でした。

母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。


私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、田舎で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡った為、私の母方の祖父母が、我が家の近所の私の実家(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた、一戸建て住宅)に、本格的に暮らし始めたのは、第二次世界大戦後の事です。ちなみに、私の母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。

私の母方の祖父は、田舎に生まれ、東京の、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。

私の母方の祖父は、基本的には、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活は、好みませんでした。

私の母方の祖父は、その一方で、第二次世界大戦後、間もなく、(私の母方の祖父の)兄弟(私の母方の祖父の兄弟の中に、性格が、真面目で堅実と正反対の者達がいてw、私の母方の祖父は、そうした兄弟達に、釣られてしまったようですw)と共に事業(銀座(東京を代表する高級繁華街、且つ、東京を代表する繁華街)の小売商店)を起こしましたが、すぐに失敗し(母方の祖母の話によれば、母方の祖父は、当時、連日、(私の母方の祖父の)兄弟と共に、銀座(ginza)で宴会(party)を行っていたそうで、すぐに失敗したのは、当然だと思いますw)、借金の一部を背負う事となりました。その頃、私の母方の祖父母の間に、待望の子供(私の母)が生まれました。私の母方の祖母は、当時としては、割と高齢出産の方であったと思いますが、結局、女の子供一人(私の母)しか授かりませんでした(ちなみに、近所に暮らしていた、私の母方の祖母の姉も同様です)。

第二次世界大戦後、間もなくの頃は、私の母方の祖母の実家(田舎の裕福な地主であった。第二次世界大戦後、徐々に、没落して行ったようですが)のコネで、食料は、ある程度、困らなかったそうですし、私の母方の祖父は、幸いな事に事業が失敗した後、間もなく、会社員としての仕事を得る事が出来ました(ちなみに、母方の祖父は、その後、就職した会社の株を含む、株でも、かなり金を儲けたようです)。

しかし、田舎からの食糧の供給も、しばらくして途絶え、私の母方の祖父は、失敗した事業の借金の、一部を背負った事もあって、私の母が、小学生であった頃が、最も、生活が貧しかったそうで、今でも、私の母は、その頃の貧しい生活が鮮明に記憶に残っていると言います。その一方で、実家では、私の母が、子供の頃から、犬等のペットを飼っており( ちなみに、私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペットは、小型犬で、私の母が、子供の頃から飼った犬。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物)、そうした話を聞くと、ゆとりがあったようにも感じますがw

その一方において、私の母が小学生の頃は、実家の庭の一部を畑に改造して(現在は、その部分は、自動車が3台駐車出来る駐車場に改造されています)、野菜を自給自足したり、私の母方の祖母が、自分の持っている、高価な(高級な)、着物(日本の女性向けの伝統衣装)を売って、家計の足しにしても、なお、慢性的な、食料不足で、私の母は、絶えず空腹であったそうです。私の母が、小学校の半ば頃は、丁度、1950年代の半ば頃、日本国民、全般的に言えば、第二次世界大戦直後の貧しさのピークは過ぎ去り、第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会の夜明けを待つ頃でしたが、私の母は、当時、まともな家に暮らしていたものの(第二次世界大戦後、間もなくから、1950年代にかけては、東京中心部では、第二次世界大戦中の空襲による、焼け野原の上に、バラック小屋(仮の、粗末な家)を建てて、暮らしている人々が、たくさんいました)、その一方において、私の母は、当時、食生活や衣服に関しては、明らかに、小学校の、多くの同級生達の家に比べて、貧しかったそうです。

私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来たのは、私の母が中学校3年生位から、高校に入学した頃の事だそうです。丁度、その頃(1960年代の初め頃)、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物であった実家の建物を、現在の建物に建て替えています(現在は、耐震補強もなされていますし、時代に合わせて、内装等を、改装して来ています)。

私の母方の祖父母が、一人っ子である(一人娘である)、私の母を、甘やかし、伸び伸びと、自由に(自由奔放)に育てたのは、私の母方の祖父母が、私の母が子供の頃、物質的に、貧しい思いをさせてしまったと言う負い目もあったのかもしれません。

また、私の母が、ある程度、物質主義的な面があり、又、私と弟が、それぞれ、子供の頃から高校生の頃、私の母が、子供を(私と私の弟を)、物質的な面も含めて、とても甘やかしていた事は、自分が(私の母が)、子供の頃、物質的に、貧しい経験をした事の、反動であったのかもしれません。


ちなみに、私の母方の祖母は、結婚してから、アルバイトを含めて、仕事は、一切した事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してから、アルバイトを含めて、仕事は、一切した事がない専業主婦です。

私の母方の祖父母が生きていた時は、私の実家の財産の系統は、私の母方の祖父母(私の母の両親)の系統と、私の両親の系統に分かれ、それぞれ、管理権限は、別となっていました。

以下、この投稿においては、私の実家の財産の系統の内、祖父母(私の母の両親)の系統財産の管理について話します。

日本の、妻が、主婦の家族の場合、家庭の、お金(財産)の、実質的な管理権限は、女性(妻)にあると言う事は、第二次世界大戦後に始まった事なのかどうか分かりませんが、何れにしても、私の母方の祖父母の財産の管理権限は、生活費も含めて、私の母方の祖父が、全て管理を行い、母方の祖母は、母方の祖父の管理の下で、母方の祖父母の財産の中から生活費を使い、又、それとは別に、母方の祖父は、母方の祖母に対し、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金を、お小遣いとして渡す方式でした。

私の母方の祖父は、見合いで、私の母方の祖母と結婚したのですが、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。ちなみに、私の父も、同様の、紳士の美学・ポリシー(方針)を持った男性ですが、性格が穏やかで、温和な紳士であると言う点においても、私の母方の祖父に共通していて、元々、面食いの私の母が、私の父に、一目惚れして、私の母から、私の父に、バリバリにアプローチして、私の母と私の父は、交際する事になったのですが(バリバリの恋愛結婚w)、私の母が、私の父に、自分の父(私の母方の祖父)の性格と共通する面を見出したのも、私の母が、私の父と結婚するまでに至った、大きな理由の一つなのかもしれません。

一方において、私の母方の祖父は、妻(私の母方の祖母)を、よく旅行に連れて行ったりとか、よく外食に連れて行ったりとかの、夫としての甲斐性までは持ち合わせていませんでした(私の母方の祖父は、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活をする事は、好みませんでしたが、私の母方の祖父のつましさは、基本的には、あらゆる面において、適用されると言った感じでした)。まあ、母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず(外食に出る事すら、割と、面倒臭がると言った感じでした)、ほとんど家で過ごしていた女性である事から、それは、それで、大丈夫であったとも言えますが。。。(ちなみに、母方の祖母は、外に出る事は、好まなかったと言っても、私が子供の頃、孫(私と私の2歳年下の弟)を含めた、お出掛けに関しては、お出掛け自体と言うよりも、孫と出掛ける事を楽しんでいる感じでした)。

私の母方の祖母は、私の母と共に、私の母方の祖父の、真面目な点・誠実な点・正直な点・誰に対しても、めったに怒らない性格が穏やかな紳士である点等を賞賛していましたが、以下の事柄が、見合いで結婚した、当時の、保守的な中流層から富裕層の女性の、一般的な傾向であったのか、それとも、私の母方の祖母と、私の母方の祖父の間だけの事であったのか、よく分かりませんが、私の母方の祖母は、私の母方の祖父に対して、私の母方の祖父の生涯、どこか遠慮していると言うか、(私の母方の祖父に)心の底から甘える事を憚ると言うか、私の母方の祖父に対して、どこか、よそよそしい雰囲気があり、私の母方の祖母は、私の母方の祖父と、じっくり話をする(私の母方の祖父に、じっくり話を聞いて貰う)と言う事は、あまりありませんでした。ちなみに、私の母方の祖母の、一番の話相手は、大のおばあちゃん(母方の祖母)子であった私でした。


前述の通り、私の母方の祖父は、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活をする事は、好みませんでしたが、私の母方の祖父のつましさは、基本的には、あらゆる面において、適用されると言った感じでしたが、それは、私の母方の祖父の、元々の性格と言うのもあると思いますが、前述した事情から、私の母方の祖父は、家計を守らなければ(これは、結局、私の母方の祖母を守る事にも繋がるのですが。。。)と言う意識が染み付いてしまい、私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降も、その様な、つましい思考及び、お金の使い方が定着してしまっていたと言う事も、大きいと思います。

その一方で、前述の通り、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。前述の通り、私の母方の祖父母の財産の管理権限は、生活費も含めて、私の母方の祖父が、全て管理を行い、母方の祖母は、母方の祖父の管理の下で、母方の祖父母の財産の中から生活費を使い、又、それとは別に、母方の祖父は、母方の祖母に対し、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金を、お小遣いとして渡す方式でしたが、私の母方の祖父は、私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降は、(自分自身に関する、出費に関しては、引き続き、とても、つましかった一方で)、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金である、お小遣いに関しては、私の母方の祖母が、そのお小遣いを使う使わないにかかわらず、かなりの金額を渡していた様です。

私の母方の祖母は、前述の通り、田舎の裕福な地主の家の娘であった事から、おそらく、子供の頃、女学校時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)、実家(親)に服等を、たくさん買って貰い、お洒落等を、とても楽しんでいたと思いますし、また、結婚してからも、第二次世界大戦が終わるまでは(私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡り、母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。また、第二次世界大戦末期になると、日本本土では、人々は、食糧難(食料不足)に苦しみましたが、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)では、その様な事もなかったそうです)、私の母方の祖父から、十分な、お小遣いを貰い、服(お洒落・ファッション)等を、十分、楽しむ等していたと思いますが、前述した、第二次世界大戦後の、事情により、やはり、母方の祖父と共に、つましい、お金の使い方が、染み付いてしまった様でした。

前述の通り、私の母方の祖父は、私の実家が、第二次世界大戦後の、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降は、(自分自身に関する、出費に関しては、引き続き、とても、つましかった一方で)、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金である、お小遣いに関しては、私の母方の祖母が、そのお小遣いを使う使わないにかかわらず、かなりの金額を渡していた様ですが、私の母は、常々、半分、からかいを含めて、私の母方の祖母に対して、「おばあちゃん、おじいちゃんに、お小遣い、たくさん貰っているんだから、自分の欲しい物買ったり、自分の楽しみの為に、じゃんじゃん(どんどん)、お金を使えば、いいじゃん(使えばいいでしょう)」と言ったような事を言っていたのですが、母方の祖母は、もちろんキメる時の服(フォーマルな服)等は、ちゃんと持っていましたが、あまり、お金を使わずに(普段の服等も質素で、普段の服等にも、あまり、お金を使わずに)、つましく、日々の、生活を送っていました。もっとも、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)は、自分の為に、よく(たくさん)買っていましたがw




以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。



以下、前に行った(去年の5月に行った)、投稿から抜粋して来た物です。


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。


私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

前述の通り、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


ちなみに、私の母方の祖母は、動物が好きでした。



その事に関して、以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。


以下、私の母が子供の頃からの歴代の、我が家の近所の私の実家の、犬と猫のペットです。飼っていた順番に並んでいますが、それぞれ、飼っていた期間の一部は、前後と重複しています。


「犬1匹(小型犬で、雄。私の母が、子供の頃から。私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペット。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物。私が生まれた時には、既に死んでいて、存在しなかった)→猫2匹(私が生まれた時には、既に2匹とも、死んでいて存在しなかった)→犬2匹(大型犬が2匹で、雄と雌が1匹ずつ。去勢手術を行っていたので、子供は生まなかった。私が生まれた時には、既に存在していて、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした。もちろん、2匹とも、私にも懐いていた。と言うか、大型犬であったので、私の方が、犬に可愛がられていたと言った表現の方が、正しいですw  それぞれ、大型犬としては長生きであったが、雄の方が先に死んだ。それぞれ死んだ時に、私は、悲しくて泣きましたが、(子供の頃であったので、記憶が曖昧ですが)、私は、当時、まだ子供であったので、おそらく、それぞれ死んだ時に、号泣したと思います)→猫2匹。」


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。



以下、「」内。私が2018年に行った投稿から抜粋して来た物。

「実は、(ここでは書ききれませんが)、私の母方の祖母の、お葬式の時、私が、ただの号泣ではなく、大号泣したのは、理由がありました。私の母方の祖母について、及び、私の母方の祖母に対する、私の思い等は、これだけでは書ききれない事から、また、まとめて、改めて、投稿しようと思っています。」


以下、上の「」内の、私の母方の祖母の、お葬式の時、私が、ただの号泣ではなく、大号泣した、理由と、私の母方の祖母に対する、私の思い等について書きます。


前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私が社会人になって忙しくなってからは、私は、(実家の)母方の祖母の部屋で、母方の祖母の話相手をする時、必然的に、今、何時かと時間を気にして、祖母の部屋の時計を、こまめに見るようになりました(その事に関して、母方の祖母は、私の時計に対する視線を、当然気付いていたと思いますが、母方の祖母は、おそらく、意識的に気付いていないと思い込もうとしていたのではないでしょうか)。


私が、(実家の)母方の祖母の部屋で、最後に母方の祖母の話相手をしたのは、母方の祖母が亡くなる数日前の事でした。その際に、祖母と話しをしながら(祖母の話を聞きながら)、(私が社会人になってからの)いつものごとく、私は、今、何時かと時間を気にして、祖母の部屋の時計を、こまめに見ていました。そして、その際、私が、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言って、私が祖母の部屋を出る時、いつも通り、母方の祖母は笑顔で見送ってくれたのですが、その時だけ、笑顔の後、母方の祖母は、いつになく(異例の)、とても寂しそうな表情を浮かべました(母方の祖母は、自分の死という物を悟っていたのでしょうか)。それが、私が母方の祖母と話しをした、母方の祖母の顔を見た最後となりました。私は、その翌日、海外に向かう飛行機の中で、虫の知らせと言うのか、前日の、母方の祖母の、いつになく、とても寂しそうな表情を気になって思い出し、ちらちらと時計を気にしなければ良かったな(おばあちゃん、自分の時計に対する視線に気づいていただろうな)、もう少し、おばあちゃんといてあげれば良かったなと思っていました。


前述の通り、私の母方の祖母は、(私の母方の祖母の姉と同じく)80歳代の前半(普通に女性が健康に生きたら生きる寿命より短い)で、突然に心筋梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれて、そのまま、亡くなりました。私は、その時、仕事の関係で海外にいて、母方の祖母の、臨終の場に立ち会えませんでした。私が帰国し、母方の祖母のお葬式の前に、母から、母方の祖母から託された、私宛の手紙を渡されました。


その手紙は、母方の祖母が、最晩年(私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手で(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していた)、大の、おばあちゃん子であった私が、社会人になり、忙しく、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまい、また、母方の祖母の、2番目の話し相手であった(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していた)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉が亡くなった後)に、私宛に書いた手紙で、自分が(母方の祖母)が死んだら、私に渡して欲しいと、私の母に託していた手紙でした。


ちなみに、母方の祖母は、私の弟には、その様な手紙は、書いていませんでした。それは、私が、大の、おばあちゃん子であった為だと思います。


ちなみに、以下、「」内。私の前の投稿から抜粋して来た物。

「私の母は、昔から(私が子供の頃から)、「母親である前に女」であるような女性ですw 私と、私の母との関係は、私の母にとって、私は、昔から、自分の好みのタイプのルックス(外貌)の(私は、顔は、母よりも父に似ているのですが、私の父と母は、父の顔を見て、一目惚れした私の母が、父に対して、猛烈にアプローチ(誘惑)しての、バリバリの恋愛結婚ですw)、何でも、気楽に話せる、気の合う男友達と言った感じで、私の母は、昔から、自分の恋愛話でも何でも、自分の事は、何でも、バンバン私に話して来ていますw 父は、私が幼い頃・子供の頃、私と、よく遊んでくれましたが、父は、私の弟に関しては、長男である私と遊ぶので、子供と遊ぶのは飽きてしまったと言った感じもありましたw(前述の通り、私の父は、ある意味、子育てに関して自己中心的な面があった男性です)。これに対して、弟は、幼い頃・子供の頃は、甘えん坊で(今でも、私の弟は、性格に甘えん坊な面がある様な気がします)、私の母に、べったりと言った感じで、(弟が、幼い頃・子供の頃は)、私の母に、よく甘えており、母も、弟が、幼い頃・子供の頃、弟に対して、よく甘えさせて、相対的に、しっかりと母親をしていた感じですw」


私の母方の祖母は、生前、私と弟に言わずに、(私の母に事務的な手続きは頼んで)、前述した、私の母方の祖父が、母方の祖母に与えていた、お小遣い等(母方の祖父が亡くなった後は、母方の祖父が母方の祖母に残したお金)の中から、孫達(私と弟)の為に、銀行に、お金を積み立てており、その金額は、相当な額となっていました。


前述した、私の母方の祖母の、私宛の手紙の中には、母方の祖母の、私と過ごした・私とお話した楽しい思い出話が、たくさん書かれており、「楽しい思い出をたくさんありがとう、おばあちゃんはとても幸せでした。おばあちゃんは、○○(私の下の名前の最初の2文字)に、とても感謝しています」と言った内容の言葉と共に、前述した、孫達(私と弟)の為に、銀行に、積み立てていた、お金の事についても、書かれており、「○○(私の下の名前の最初の2文字)と○○(私の弟の下の名前の最初の2文字)が、何か困った事があったら、このお金を使いなさい。○○(私の弟の下の名前の最初の2文字)は、○○(私の下の名前の最初の2文字)の事を信頼しているようだから、お金の管理は、○○(私の下の名前の最初の2文字)に任せます」と言った内容の事が書かれていました。また、「ただし、お金は重要な物ではないんだよ。○○(私の下の名前の最初の2文字)は、とても優しい子だ。優しい心が何よりも一番大事。優しい心を持っていれば、何にでもなる。その優しい心を、ずっと持ち続けるようにね」と言った内容の事も書かれていました。


私の母方の祖母は、晩年、自分の眠っている間に見た夢の内容を絵と共に書く、夢絵日記をつけていました。私は、母方の祖母の夢絵日記は、母方の祖母の生前は、大きな興味は持つ事はなく、たまに見せて貰う程度であったのですが、祖母が亡くなった後、母方の祖母の夢絵日記をじっくりと読んでみたら、母方の祖母の夢には、私と、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹、私の実家で、最後に飼った、犬・猫のペットである、猫2匹が、とてもよく(頻繁に)登場しており(ちなみに、私が、母方の祖母の夢に登場する姿は、私が幼い頃から私が社会人になってからの姿まで、母方の祖母の夢に依って、実に、様々でした)、母方の祖母の夢絵日記を読みながら、ボロボロと涙を流してしまいました。


これは事実は小説よりも奇なりと言える程のエピソードであるかどうか分かりませんが、母方の祖母の、最晩年(私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手で(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していた)、大の、おばあちゃん子であった私が、社会人になり、忙しく、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまい、また、母方の祖母の、2番目の話し相手であった(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していた)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉が亡くなった後)の、夢絵日記に、母方の祖母が幼い子供の頃の私と手を繋いで、2人で、綺麗な花園の中で、散歩をしお話をし遊んでいた所、川にたどり着き、その川の向こう岸から、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹が、母方の祖母を呼んでいると言った内容の物がありました(母方の祖母が、どうしようかと迷っている間に夢は終わった様です)。その夢絵日記には、綺麗な花園の中で、手を繋いで、川の向こう岸を眺める、後ろ姿の、私の母方の祖母と幼い頃の私、川の向こう岸にいる、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹の絵が描かれていました(日付から、前述した、母方の祖母の、私宛の手紙は、母方の祖母が、その夢を見た後に、書かれた物でした)。

ちなみに、前述した、母方の祖母が、孫達(私と弟)の為に積み立てていた、お金に関して、一切、手をつけておらず、私は弟に、出来得る限り、これは使う必要はないように生きて行こう、また、(まだ具体的な事については決めていませんが)、最終的には、寄付という形で、人の為、社会の為に役立てる為に使おうと話し、弟は、それに共感して納得しています。


ちなみに、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私は、弟とは、昔から(幼い頃から)、お互いに、過干渉しない、適度な距離感の、個人主義と言った感じで、仲が良いです(弟と激しい喧嘩なんて、生まれてから、一度もした事がありません)。

私は、弟との、個人主義の原則に基づき、弟の私生活には、干渉しない主義ですが、これから先、弟が、金銭面においても精神面においても、いかなる面においても、私の助けが必要となる場合が生じた時は、私は、兄の責任として、弟に対する、出来る限りの援助(助け)をしたいと思っています。」


ちなみに、私の弟は、経済的に安定していると思いますし、私も、経済的に、とても安定しているので、やはり、前述した、母方の祖母が、孫達(私と弟)の為に積み立てていた、お金は、一切、使う必要はなさそうです。



ちなみに、私は、私の母方の祖母が、亡くなった年の、翌年に(私が、20代の後半に突入した頃に)、自分の家(今の我が家)を、実家の近所に買い、生まれて初めて、一人暮らしを始めました。私は、仕事は、男性の共同経営者(元々、大学時代の友人)と、二人で、小さな個人事業(その男性と二人だけで、営んでいる会社です)を営んでいるのですが(元々、大学の終わり頃から、事業を始めていて(厳密には、大学の終わり頃、その、元々、大学時代の友人が既に始めていた事業に参加した)、途中、私は、事業を離れて、企業に就職し、会社員として働いていた時もありましたが、また事業に戻りました)、20代の頃、事業が勢いにのり、羽振りは良かったのですが(下世話な話、ある程度、お金は稼いでいたのですが)、今の我が家は、その頃に買いました(ちなみに、当時、仕事は、今よりも、ずっと(遥かに)、忙しかったです)。

 


母方の祖母の話




基本的に(若干、参考の投稿を入れ替えています)、去年の12月に行った投稿の再掲です。




以下、基本的に(参考の投稿を、新しい投稿に入れ替えています)、一昨年の4月の下旬に行った投稿の再掲です。



以下、参考の投稿。

芸者(geisha)・祖父の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658686/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
大國魂神社(1900年以上の歴史を有する神社)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658684/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
小津 安二郎映画「晩春」他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_2/view/id/3580708?&sfl=membername&stx=nnemon2
小津安二郎の映画「晩春(Late Spring)」と鎌倉→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3584065/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658681/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京會舘他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658266/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
ペットの話→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634898/page/18?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷 虹児(fukiya koji)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634899/page/18?&sfl=membername&stx=nnemon2






以下、比較的最近行った、以下の投稿から抜粋して来た物です。ちなみに、私は、若い頃は、遊んでいましたが、今は、落ち着いて、真面目なw大人になっています。

Smooth Jazz and Rain Sounds他→
/jp/board/exc_board_5/view/id/3279966?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「ちなみに、モデルで高校時代と言えば、高校時代の悲しい思い出として、高校時代に交際していた女の子の一人で(学外で知りあった当時高校生の女の子で、知りあったきっかけは私の夜遊びでのナンパw)、当時雑誌の読者モデルをしていて、普段は明るい綺麗系の女の子だったのですが、両親の夫婦仲が悪い事でとても悩んでいて、(高校生当時、私と交際している最中に)突然、両親に遺書を書いたまま行方不明になってしまいました(海に飛び込んだりした自殺の可能性が高いようです)。私が彼女の力になってやれなかった後悔で、今思い出しても、とても切ない思い出です。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は自分自身に関する事で泣いた(涙を流した)事は一度もないのですが、当時、しばらくの間、夜に、その、(私と交際している最中に)失踪(自殺?)してしまった雑誌の読者モデルの女の子の事を思っては、しくしくと泣いていました。

その読者モデルの女の子は、前述の通り、普段は明るい女の子だったのですが、両親の夫婦仲が悪い事でとても悩んでいて、(高校生当時、私と交際している最中に)突然、両親に遺書を書いたまま行方不明になってしまいました(海に飛び込んだりした自殺の可能性が高いようです)。私が彼女の力になってやれなかった後悔で、今思い出しても、とても切ない思い出です。

幸いな事に、私の両親は、昔から仲が良いのですが、私の今までの人生経験に基づくと(私が今まで接して来た人達を見て来た経験からすると)、両親の不仲、両親の離婚と言った物は、子供の心理や子供の心の悲しさ・虚しさ・やるせなさ等に、大きな影響を与えます。

私は、家族の、最も重要な、基本は夫婦であると思います。家族で、最も大切である事は、お互いに血が繋がっておらず、元々、育った環境も異なる、赤の他人同士の、夫婦が、しっかりと仲良くする事であると思います。夫婦の仲さえ、しっかりとしていれば、基本的には(例外もありますが)、血の繋がりもあり、同じ家庭環境を共有する、親子関係なんて、どうにでもなると思います。」


以上、比較的最近行った投稿から抜粋して来た物でした。


すぐ上の、「」内の話に関して、例外の例に関しては、私の今の彼女と私の今の彼女の母の関係があります。それに関しては、以下の投稿を参照して下さい。

アニメのテーマ曲他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3588995/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2
Cinderella(ヨーロッパの昔話)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3478413/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2




以下、1月上旬に行った投稿から抜粋して来た物です。




以下、基本的に、去年の1月上旬に行った投稿から抜粋して来た物です。



以下、前に投稿で紹介した動画です(女性が見ても、とても為になる動画だと思います)。ちなみに、私は、DaiGo(メンタリスト)の話の動画は、この動画を含めて、ほぼほぼ、今までに、kjで紹介している物しか見ていません

性体験が増える性格とは〜最新科学が明かすえげつないモテ技術(一昨年の7月21日にアップされた動画の様です)→
https://youtu.be/unx2o_4B2n8





以下、前に行った(去年の5月に行った)、投稿から抜粋して来た物です。



東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。

私の母方の祖母は、若い頃の写真を見ると、中々、綺麗で、(自分の親族に対して言うのもなんなのですが)美人なのですが、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw

私の母は、痩せの大食い(大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)で、私も、私の母からの遺伝で、痩せの大食い(やはり、大食いと言っても、標準よりも少し多く食べる程度ですが)の体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)なのですが、私の母の、痩せの大食いの体質(比較的、たくさん食べても痩せている体質)は、私の母方の祖父、又は、私の母方の祖母の姉(やはり、生涯、痩せている体質であった)に似たのだと思います。ちなみに、私の母は、身長は、163cm位と、私の母の世代の女性にしては、比較的、高い方ですが、それは、母方の祖母(私の、母方の祖母は、身長は、160cm位と、祖母の世代の女性としては、比較的、高い方であった)からの遺伝であると思います(私の母方の祖父は、身長は、165cm位と小柄であった)。ちなみに、私の父の家系は、長身の家系です。

諏訪 根自子(1920年生まれ。2012年に亡くなる)は、1930年代の初め頃から1950年代頃にかけて活躍していた、日本の、女性、violinistです。諏訪 根自子は、1930年代の初めから1930年代の中期にかけて(諏訪 根自子が、10代の初めから10代の中頃にかけて)、(年齢の割に、とても高い実力があった事から)天才と呼ばれ、また、美人(美少女)であった事から、日本の、大衆の間で、現在で言う、女性、アイドル(idol)歌手的な、人気を博しました(おそらく。。。)。



写真は、借り物。少女の頃の諏訪 根自子。若い頃の、私の母方の祖母は、若い頃の写真を見る限り、目が大きく、鼻筋が通った(鼻が高い)美人で、若い頃の、私の母方の祖母は、そっくり(完全に似ている)と言う程ではありませんが、少女の頃の諏訪 根自子に似ています。しかしながら、私は、太ってしまって、若い頃と、大分、変わってしまってからの、母方の祖母の姿しか知りませんw 

私の母方の祖母(既に亡くなっています)は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。私の母方の祖母は、大人しくて、上品な性格でした。

母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず、ほとんど家で過ごしていた女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。


私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、田舎で、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。

私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡った為、私の母方の祖父母が、我が家の近所の私の実家(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた、一戸建て住宅)に、本格的に暮らし始めたのは、第二次世界大戦後の事です。ちなみに、私の母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。

私の母方の祖父は、田舎に生まれ、東京の、大学(まあ、当時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、第二次世界大戦までは、技師(技術者)、第二次世界大戦後は、会社員をしていました。私の母方の祖父の実家は、裕福であったと言う話は聞かず、また、かと言って、貧しかったとか、苦学したとか(金銭面で、苦労して、東京の、大学を卒業した)と言う話も聞かなかったので、まあ、中流の農家(中流の農民の家)、若しくは、会社員・公務員等の、家庭であったのではないでしょうか。。。

私の母方の祖父は、基本的には、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活は、好みませんでした。

私の母方の祖父は、その一方で、第二次世界大戦後、間もなく、(私の母方の祖父の)兄弟(私の母方の祖父の兄弟の中に、性格が、真面目で堅実と正反対の者達がいてw、私の母方の祖父は、そうした兄弟達に、釣られてしまったようですw)と共に事業(銀座(東京を代表する高級繁華街、且つ、東京を代表する繁華街)の小売商店)を起こしましたが、すぐに失敗し(母方の祖母の話によれば、母方の祖父は、当時、連日、(私の母方の祖父の)兄弟と共に、銀座(ginza)で宴会(party)を行っていたそうで、すぐに失敗したのは、当然だと思いますw)、借金の一部を背負う事となりました。その頃、私の母方の祖父母の間に、待望の子供(私の母)が生まれました。私の母方の祖母は、当時としては、割と高齢出産の方であったと思いますが、結局、女の子供一人(私の母)しか授かりませんでした(ちなみに、近所に暮らしていた、私の母方の祖母の姉も同様です)。

第二次世界大戦後、間もなくの頃は、私の母方の祖母の実家(田舎の裕福な地主であった。第二次世界大戦後、徐々に、没落して行ったようですが)のコネで、食料は、ある程度、困らなかったそうですし、私の母方の祖父は、幸いな事に事業が失敗した後、間もなく、会社員としての仕事を得る事が出来ました(ちなみに、母方の祖父は、その後、就職した会社の株を含む、株でも、かなり金を儲けたようです)。

しかし、田舎からの食糧の供給も、しばらくして途絶え、私の母方の祖父は、失敗した事業の借金の、一部を背負った事もあって、私の母が、小学生であった頃が、最も、生活が貧しかったそうで、今でも、私の母は、その頃の貧しい生活が鮮明に記憶に残っていると言います。その一方で、実家では、私の母が、子供の頃から、犬等のペットを飼っており( ちなみに、私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペットは、小型犬で、私の母が、子供の頃から飼った犬。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物)、そうした話を聞くと、ゆとりがあったようにも感じますがw

その一方において、私の母が小学生の頃は、実家の庭の一部を畑に改造して(現在は、その部分は、自動車が3台駐車出来る駐車場に改造されています)、野菜を自給自足したり、私の母方の祖母が、自分の持っている、高価な(高級な)、着物(日本の女性向けの伝統衣装)を売って、家計の足しにしても、なお、慢性的な、食料不足で、私の母は、絶えず空腹であったそうです。私の母が、小学校の半ば頃は、丁度、1950年代の半ば頃、日本国民、全般的に言えば、第二次世界大戦直後の貧しさのピークは過ぎ去り、第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費社会の夜明けを待つ頃でしたが、私の母は、当時、まともな家に暮らしていたものの(第二次世界大戦後、間もなくから、1950年代にかけては、東京中心部では、第二次世界大戦中の空襲による、焼け野原の上に、バラック小屋(仮の、粗末な家)を建てて、暮らしている人々が、たくさんいました)、その一方において、私の母は、当時、食生活や衣服に関しては、明らかに、小学校の、多くの同級生達の家に比べて、貧しかったそうです。

私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来たのは、私の母が中学校3年生位から、高校に入学した頃の事だそうです。丁度、その頃(1960年代の初め頃)、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物であった実家の建物を、現在の建物に建て替えています(現在は、耐震補強もなされていますし、時代に合わせて、内装等を、改装して来ています)。

私の母方の祖父母が、一人っ子である(一人娘である)、私の母を、甘やかし、伸び伸びと、自由に(自由奔放)に育てたのは、私の母方の祖父母が、私の母が子供の頃、物質的に、貧しい思いをさせてしまったと言う負い目もあったのかもしれません。

また、私の母が、ある程度、物質主義的な面があり、又、私と弟が、それぞれ、子供の頃から高校生の頃、私の母が、子供を(私と私の弟を)、物質的な面も含めて、とても甘やかしていた事は、自分が(私の母が)、子供の頃、物質的に、貧しい経験をした事の、反動であったのかもしれません。


ちなみに、私の母方の祖母は、結婚してから、アルバイトを含めて、仕事は、一切した事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してから、アルバイトを含めて、仕事は、一切した事がない専業主婦です。

私の母方の祖父母が生きていた時は、私の実家の財産の系統は、私の母方の祖父母(私の母の両親)の系統と、私の両親の系統に分かれ、それぞれ、管理権限は、別となっていました。

以下、この投稿においては、私の実家の財産の系統の内、祖父母(私の母の両親)の系統財産の管理について話します。

日本の、妻が、主婦の家族の場合、家庭の、お金(財産)の、実質的な管理権限は、女性(妻)にあると言う事は、第二次世界大戦後に始まった事なのかどうか分かりませんが、何れにしても、私の母方の祖父母の財産の管理権限は、生活費も含めて、私の母方の祖父が、全て管理を行い、母方の祖母は、母方の祖父の管理の下で、母方の祖父母の財産の中から生活費を使い、又、それとは別に、母方の祖父は、母方の祖母に対し、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金を、お小遣いとして渡す方式でした。

私の母方の祖父は、見合いで、私の母方の祖母と結婚したのですが、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。ちなみに、私の父も、同様の、紳士の美学・ポリシー(方針)を持った男性ですが、性格が穏やかで、温和な紳士であると言う点においても、私の母方の祖父に共通していて、元々、面食いの私の母が、私の父に、一目惚れして、私の母から、私の父に、バリバリにアプローチして、私の母と私の父は、交際する事になったのですが(バリバリの恋愛結婚w)、私の母が、私の父に、自分の父(私の母方の祖父)の性格と共通する面を見出したのも、私の母が、私の父と結婚するまでに至った、大きな理由の一つなのかもしれません。

一方において、私の母方の祖父は、妻(私の母方の祖母)を、よく旅行に連れて行ったりとか、よく外食に連れて行ったりとかの、夫としての甲斐性までは持ち合わせていませんでした(私の母方の祖父は、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活をする事は、好みませんでしたが、私の母方の祖父のつましさは、基本的には、あらゆる面において、適用されると言った感じでした)。まあ、母方の祖母は、(幼い頃・子供の頃は、それでも、ある程度、外で遊んでいたようですが)、子供の頃から、病弱で、基本的に、外に出る事を好まず(外食に出る事すら、割と、面倒臭がると言った感じでした)、ほとんど家で過ごしていた女性である事から、それは、それで、大丈夫であったとも言えますが。。。(ちなみに、母方の祖母は、外に出る事は、好まなかったと言っても、私が子供の頃、孫(私と私の2歳年下の弟)を含めた、お出掛けに関しては、お出掛け自体と言うよりも、孫と出掛ける事を楽しんでいる感じでした)。

私の母方の祖母は、私の母と共に、私の母方の祖父の、真面目な点・誠実な点・正直な点・誰に対しても、めったに怒らない性格が穏やかな紳士である点等を賞賛していましたが、以下の事柄が、見合いで結婚した、当時の、保守的な中流層から富裕層の女性の、一般的な傾向であったのか、それとも、私の母方の祖母と、私の母方の祖父の間だけの事であったのか、よく分かりませんが、私の母方の祖母は、私の母方の祖父に対して、私の母方の祖父の生涯、どこか遠慮していると言うか、(私の母方の祖父に)心の底から甘える事を憚ると言うか、私の母方の祖父に対して、どこか、よそよそしい雰囲気があり、私の母方の祖母は、私の母方の祖父と、じっくり話をする(私の母方の祖父に、じっくり話を聞いて貰う)と言う事は、あまりありませんでした。ちなみに、私の母方の祖母の、一番の話相手は、大のおばあちゃん(母方の祖母)子であった私でした。


前述の通り、私の母方の祖父は、保守的で、堅実、真面目で、生活は、つましく、派手な生活をする事は、好みませんでしたが、私の母方の祖父のつましさは、基本的には、あらゆる面において、適用されると言った感じでしたが、それは、私の母方の祖父の、元々の性格と言うのもあると思いますが、前述した事情から、私の母方の祖父は、家計を守らなければ(これは、結局、私の母方の祖母を守る事にも繋がるのですが。。。)と言う意識が染み付いてしまい、私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降も、その様な、つましい思考及び、お金の使い方が定着してしまっていたと言う事も、大きいと思います。

その一方で、前述の通り、私の母方の祖父は、結婚したからには、ずっと(一生)、妻の事を大切にし、守らなければならないと言った、昔ながらの(保守的な)、紳士の美学・ポリシー(方針)と言った物を持った男性でした。前述の通り、私の母方の祖父母の財産の管理権限は、生活費も含めて、私の母方の祖父が、全て管理を行い、母方の祖母は、母方の祖父の管理の下で、母方の祖父母の財産の中から生活費を使い、又、それとは別に、母方の祖父は、母方の祖母に対し、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金を、お小遣いとして渡す方式でしたが、私の母方の祖父は、私の実家が、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降は、(自分自身に関する、出費に関しては、引き続き、とても、つましかった一方で)、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金である、お小遣いに関しては、私の母方の祖母が、そのお小遣いを使う使わないにかかわらず、かなりの金額を渡していた様です。

私の母方の祖母は、前述の通り、田舎の裕福な地主の家の娘であった事から、おそらく、子供の頃、女学校時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)、実家(親)に服等を、たくさん買って貰い、お洒落等を、とても楽しんでいたと思いますし、また、結婚してからも、第二次世界大戦が終わるまでは(私の母方の祖父母は、結婚して間もなく、私の母方の祖父の仕事の関係で、中国の、上海(Shanghai )に渡り、母方の祖父母の、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)での、生活は、立派な家に暮らし、夫婦二人だけの生活に、二人の、中国人の、メイド(maid)がいる生活であったそうです。また、第二次世界大戦末期になると、日本本土では、人々は、食糧難(食料不足)に苦しみましたが、上海(Shanghai )の、日本租界(日本人用の外国人居留地)では、その様な事もなかったそうです)、私の母方の祖父から、十分な、お小遣いを貰い、服(お洒落・ファッション)等を、十分、楽しむ等していたと思いますが、前述した、第二次世界大戦後の、事情により、やはり、母方の祖父と共に、つましい、お金の使い方が、染み付いてしまった様でした。

前述の通り、私の母方の祖父は、私の実家が、第二次世界大戦後の、貧しい生活を完全に脱し、生活が安定し、生活に、ゆとりが出来た以降は、(自分自身に関する、出費に関しては、引き続き、とても、つましかった一方で)、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金である、お小遣いに関しては、私の母方の祖母が、そのお小遣いを使う使わないにかかわらず、かなりの金額を渡していた様ですが、私の母は、常々、半分、からかいを含めて、私の母方の祖母に対して、「おばあちゃん、おじいちゃんに、お小遣い、たくさん貰っているんだから、自分の欲しい物買ったり、自分の楽しみの為に、じゃんじゃん(どんどん)、お金を使えば、いいじゃん(使えばいいでしょう)」と言ったような事を言っていたのですが、母方の祖母は、もちろんキメる時の服(フォーマルな服)等は、ちゃんと持っていましたが、あまり、お金を使わずに(普段の服等も質素で、普段の服等にも、あまり、お金を使わずに)、つましく、日々の、生活を送っていました。もっとも、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)は、自分の為に、よく(たくさん)買っていましたがw




以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。



以下、前に行った(去年の5月に行った)、投稿から抜粋して来た物です。


私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。


私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。

私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw

前述の通り、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。


ちなみに、私の母方の祖母は、動物が好きでした。



その事に関して、以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。


以下、私の母が子供の頃からの歴代の、我が家の近所の私の実家の、犬と猫のペットです。飼っていた順番に並んでいますが、それぞれ、飼っていた期間の一部は、前後と重複しています。


「犬1匹(小型犬で、雄。私の母が、子供の頃から。私の実家、且つ、私の母が、初めて飼った、犬・猫のペット。名前は、Mickeyで、名前を付けたのは、子供の頃の私の母で、Disneyの Mickey Mouseから取った物。私が生まれた時には、既に死んでいて、存在しなかった)→猫2匹(私が生まれた時には、既に2匹とも、死んでいて存在しなかった)→犬2匹(大型犬が2匹で、雄と雌が1匹ずつ。去勢手術を行っていたので、子供は生まなかった。私が生まれた時には、既に存在していて、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした。もちろん、2匹とも、私にも懐いていた。と言うか、大型犬であったので、私の方が、犬に可愛がられていたと言った表現の方が、正しいですw  それぞれ、大型犬としては長生きであったが、雄の方が先に死んだ。それぞれ死んだ時に、私は、悲しくて泣きましたが、(子供の頃であったので、記憶が曖昧ですが)、私は、当時、まだ子供であったので、おそらく、それぞれ死んだ時に、号泣したと思います)→猫2匹。」


以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。



以下、「」内。私が2018年に行った投稿から抜粋して来た物。

「実は、(ここでは書ききれませんが)、私の母方の祖母の、お葬式の時、私が、ただの号泣ではなく、大号泣したのは、理由がありました。私の母方の祖母について、及び、私の母方の祖母に対する、私の思い等は、これだけでは書ききれない事から、また、まとめて、改めて、投稿しようと思っています。」


以下、上の「」内の、私の母方の祖母の、お葬式の時、私が、ただの号泣ではなく、大号泣した、理由と、私の母方の祖母に対する、私の思い等について書きます。


前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私が社会人になって忙しくなってからは、私は、(実家の)母方の祖母の部屋で、母方の祖母の話相手をする時、必然的に、今、何時かと時間を気にして、祖母の部屋の時計を、こまめに見るようになりました(その事に関して、母方の祖母は、私の時計に対する視線を、当然気付いていたと思いますが、母方の祖母は、おそらく、意識的に気付いていないと思い込もうとしていたのではないでしょうか)。


私が、(実家の)母方の祖母の部屋で、最後に母方の祖母の話相手をしたのは、母方の祖母が亡くなる数日前の事でした。その際に、祖母と話しをしながら(祖母の話を聞きながら)、(私が社会人になってからの)いつものごとく、私は、今、何時かと時間を気にして、祖母の部屋の時計を、こまめに見ていました。そして、その際、私が、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言って、私が祖母の部屋を出る時、いつも通り、母方の祖母は笑顔で見送ってくれたのですが、その時だけ、笑顔の後、母方の祖母は、いつになく(異例の)、とても寂しそうな表情を浮かべました(母方の祖母は、自分の死という物を悟っていたのでしょうか)。それが、私が母方の祖母と話しをした、母方の祖母の顔を見た最後となりました。私は、その翌日、海外に向かう飛行機の中で、虫の知らせと言うのか、前日の、母方の祖母の、いつになく、とても寂しそうな表情を気になって思い出し、ちらちらと時計を気にしなければ良かったな(おばあちゃん、自分の時計に対する視線に気づいていただろうな)、もう少し、おばあちゃんといてあげれば良かったなと思っていました。


前述の通り、私の母方の祖母は、(私の母方の祖母の姉と同じく)80歳代の前半(普通に女性が健康に生きたら生きる寿命より短い)で、突然に心筋梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれて、そのまま、亡くなりました。私は、その時、仕事の関係で海外にいて、母方の祖母の、臨終の場に立ち会えませんでした。私が帰国し、母方の祖母のお葬式の前に、母から、母方の祖母から託された、私宛の手紙を渡されました。


その手紙は、母方の祖母が、最晩年(私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手で(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していた)、大の、おばあちゃん子であった私が、社会人になり、忙しく、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまい、また、母方の祖母の、2番目の話し相手であった(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していた)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉が亡くなった後)に、私宛に書いた手紙で、自分が(母方の祖母)が死んだら、私に渡して欲しいと、私の母に託していた手紙でした。


ちなみに、母方の祖母は、私の弟には、その様な手紙は、書いていませんでした。それは、私が、大の、おばあちゃん子であった為だと思います。


ちなみに、以下、「」内。私の前の投稿から抜粋して来た物。

「私の母は、昔から(私が子供の頃から)、「母親である前に女」であるような女性ですw 私と、私の母との関係は、私の母にとって、私は、昔から、自分の好みのタイプのルックス(外貌)の(私は、顔は、母よりも父に似ているのですが、私の父と母は、父の顔を見て、一目惚れした私の母が、父に対して、猛烈にアプローチ(誘惑)しての、バリバリの恋愛結婚ですw)、何でも、気楽に話せる、気の合う男友達と言った感じで、私の母は、昔から、自分の恋愛話でも何でも、自分の事は、何でも、バンバン私に話して来ていますw 父は、私が幼い頃・子供の頃、私と、よく遊んでくれましたが、父は、私の弟に関しては、長男である私と遊ぶので、子供と遊ぶのは飽きてしまったと言った感じもありましたw(前述の通り、私の父は、ある意味、子育てに関して自己中心的な面があった男性です)。これに対して、弟は、幼い頃・子供の頃は、甘えん坊で(今でも、私の弟は、性格に甘えん坊な面がある様な気がします)、私の母に、べったりと言った感じで、(弟が、幼い頃・子供の頃は)、私の母に、よく甘えており、母も、弟が、幼い頃・子供の頃、弟に対して、よく甘えさせて、相対的に、しっかりと母親をしていた感じですw」


私の母方の祖母は、生前、私と弟に言わずに、(私の母に事務的な手続きは頼んで)、前述した、私の母方の祖父が、母方の祖母に与えていた、お小遣い等(母方の祖父が亡くなった後は、母方の祖父が母方の祖母に残したお金)の中から、孫達(私と弟)の為に、銀行に、お金を積み立てており、その金額は、相当な額となっていました。


前述した、私の母方の祖母の、私宛の手紙の中には、母方の祖母の、私と過ごした・私とお話した楽しい思い出話が、たくさん書かれており、「楽しい思い出をたくさんありがとう、おばあちゃんはとても幸せでした。おばあちゃんは、○○(私の下の名前の最初の2文字)に、とても感謝しています」と言った内容の言葉と共に、前述した、孫達(私と弟)の為に、銀行に、積み立てていた、お金の事についても、書かれており、「○○(私の下の名前の最初の2文字)と○○(私の弟の下の名前の最初の2文字)が、何か困った事があったら、このお金を使いなさい。○○(私の弟の下の名前の最初の2文字)は、○○(私の下の名前の最初の2文字)の事を信頼しているようだから、お金の管理は、○○(私の下の名前の最初の2文字)に任せます」と言った内容の事が書かれていました。また、「ただし、お金は重要な物ではないんだよ。○○(私の下の名前の最初の2文字)は、とても優しい子だ。優しい心が何よりも一番大事。優しい心を持っていれば、何にでもなる。その優しい心を、ずっと持ち続けるようにね」と言った内容の事も書かれていました。


私の母方の祖母は、晩年、自分の眠っている間に見た夢の内容を絵と共に書く、夢絵日記をつけていました。私は、母方の祖母の夢絵日記は、母方の祖母の生前は、大きな興味は持つ事はなく、たまに見せて貰う程度であったのですが、祖母が亡くなった後、母方の祖母の夢絵日記をじっくりと読んでみたら、母方の祖母の夢には、私と、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹、私の実家で、最後に飼った、犬・猫のペットである、猫2匹が、とてもよく(頻繁に)登場しており(ちなみに、私が、母方の祖母の夢に登場する姿は、私が幼い頃から私が社会人になってからの姿まで、母方の祖母の夢に依って、実に、様々でした)、母方の祖母の夢絵日記を読みながら、ボロボロと涙を流してしまいました。


これは事実は小説よりも奇なりと言える程のエピソードであるかどうか分かりませんが、母方の祖母の、最晩年(私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手で(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していた)、大の、おばあちゃん子であった私が、社会人になり、忙しく、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまい、また、母方の祖母の、2番目の話し相手であった(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していた)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉が亡くなった後)の、夢絵日記に、母方の祖母が幼い子供の頃の私と手を繋いで、2人で、綺麗な花園の中で、散歩をしお話をし遊んでいた所、川にたどり着き、その川の向こう岸から、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹が、母方の祖母を呼んでいると言った内容の物がありました(母方の祖母が、どうしようかと迷っている間に夢は終わった様です)。その夢絵日記には、綺麗な花園の中で、手を繋いで、川の向こう岸を眺める、後ろ姿の、私の母方の祖母と幼い頃の私、川の向こう岸にいる、私が幼い頃・子供の頃、共に過ごした実家の大型犬2匹の絵が描かれていました(日付から、前述した、母方の祖母の、私宛の手紙は、母方の祖母が、その夢を見た後に、書かれた物でした)。

ちなみに、前述した、母方の祖母が、孫達(私と弟)の為に積み立てていた、お金に関して、一切、手をつけておらず、私は弟に、出来得る限り、これは使う必要はないように生きて行こう、また、(まだ具体的な事については決めていませんが)、最終的には、寄付という形で、人の為、社会の為に役立てる為に使おうと話し、弟は、それに共感して納得しています。


ちなみに、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私は、弟とは、昔から(幼い頃から)、お互いに、過干渉しない、適度な距離感の、個人主義と言った感じで、仲が良いです(弟と激しい喧嘩なんて、生まれてから、一度もした事がありません)。

私は、弟との、個人主義の原則に基づき、弟の私生活には、干渉しない主義ですが、これから先、弟が、金銭面においても精神面においても、いかなる面においても、私の助けが必要となる場合が生じた時は、私は、兄の責任として、弟に対する、出来る限りの援助(助け)をしたいと思っています。」


ちなみに、私の弟は、経済的に安定していると思いますし、私も、経済的に、とても安定しているので、やはり、前述した、母方の祖母が、孫達(私と弟)の為に積み立てていた、お金は、一切、使う必要はなさそうです。



ちなみに、私は、私の母方の祖母が、亡くなった年の、翌年に(私が、20代の後半に突入した頃に)、自分の家(今の我が家)を、実家の近所に買い、生まれて初めて、一人暮らしを始めました。私は、仕事は、男性の共同経営者(元々、大学時代の友人)と、二人で、小さな個人事業(その男性と二人だけで、営んでいる会社です)を営んでいるのですが(元々、大学の終わり頃から、事業を始めていて(厳密には、大学の終わり頃、その、元々、大学時代の友人が既に始めていた事業に参加した)、途中、私は、事業を離れて、企業に就職し、会社員として働いていた時もありましたが、また事業に戻りました)、20代の頃、事業が勢いにのり、羽振りは良かったのですが(下世話な話、ある程度、お金は稼いでいたのですが)、今の我が家は、その頃に買いました(ちなみに、当時、仕事は、今よりも、ずっと(遥かに)、忙しかったです)。



TOTAL: 1356

番号 タイトル ライター 参照 推薦
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