生活/文化

 


清ゴンリュングファングゼ(1711-1799)を描いたゴンリュングユングザングもゴンリュングゼは清文化を絶頂期を離陸した舷梯で仰ぎ敬っている

 

高句麗流民と旺歪族が立てて約 200余年尊属したことと知られた渤海()はてんから搖り返し族の誇らしい先祖で堂堂と本に名前をあげた. 本の中間位に登場する, 搖り返し族が立てた国である金()国の根を明らかにした書き入れ時はかなり衝撃的だ.

金国詩調の名前はハブブ()なのに初めて高麗から来た (不足7 ワンアン()便 )

ご遠慮思うに, 金国の詩調は元々新羅から来たし, ワンアンシ()と言ったし, 治める呼ぶワンアンブだと言った. 新羅の王は金さん性となるとグムナという新羅の遠い親戚だ (不足7 ワンアンピョン願書())


 

正式名称は <欽定満洲源流で>です. 題目そのまま中国東北部満洲地方の歴史を清を立てた搖り返し族の観点で解説した清公式官撰研究でです. 皇帝の命によって建てられた本に <欽定> という栄誉なタイトルが付くと言いますね.

が本の作われた日が 1778年なのに, すぐ清 仰ぎ敬う舷梯 の中一人であるゴンリュングゼの人によって建てられたと言います. 我が国でも数年前からこの本を ¥”必ず翻訳しなければならない名著¥”で選択していくつかの教授たちに翻訳費を支援してくれたと言います. それなのに翻訳がまともにならなかったです. この本の内容は あまりショッキングイヤー書その間日製から下る相変らず 植民史観を持った 歴史学者たちに論難になっています

 

 

 

 

清歴史書, 中国夭逝を百済領土で認定
中国の東北公正覆す 史料 捜した!
●‘欽定満洲源流で’, 百済を中国東部支配した皇帝国で技術
温祖王‾ダルワングの間 11人の王が歴史で消えた
蘇ジョンバンが滅亡させたことは一部分, 新羅滅亡後にも百済は尊属
韓半島西部中心の百済社は日製の歴史歪曲

忠南付与所在百済離宮池である宮南池. 最近中国東部地方に位したという ‘華北百済’に対する関心が高くなっている.

 

よく百済だと言えば椅子王, 三千宮女, 落花岩みたいな敗亡の歴史, 恥ずかしい歴史を思い浮かぶ. それは百済歴史で誇らしい面より暗くて恥かしい面が目立ったからだ. 私たちは百済をまともに分かっているか. 百済が付与の伝統性を受け継いだ国家で, 大陸奥深い夭逝(遼西)地域に首都を持つほど力強い大帝国だったという事実は忘却された. しかし百済は三国の中で一番先に敗亡した国ではなく一番長い間尊属してしつこい生命力を見せてくれた国だった.

忘れてしまった百済社を修復するためには百済の根である付与で糸口を解いて行かなければならない. ‘市警(詩経)’ 老松(魯頌) 秘宮の方に次のような記録が出る.

“釜山(鳧山)と逆算(繹山)を占めと遂に西国(徐国)の領土を踏み付けて解放(海邦)に至ったらフェイ(淮夷)とマンメック(蛮貊)とあの南側異族たちがよらない人がなかったし, 敢えて順応しない人がなくて老後に順従した.”

 

老松と言う(のは)東方の東夷族を追い出して掻国を建てた住公(周公)をほめたたえるために子孫たちが書いた文でここに現われる副, 役, ソテック, 解放, フェイ, マンメック, 他人がは掻国建国当時今日の山東省, 江蘇省, 保存性, 安微省, 福建省一帯東南部屋地域に分布していた東夷族を示す.

このなかに部(鳧)は 9が(九夷)の五つ番目である富裕(鳧臾)ですぐ付与国の電信だ. 耳順の ‘イアソックジズ’とヒョングビョングの ‘論語与えなさい’は “東北地域焼き物の五番目が富裕”だと言った. ‘自晦補’には “富裕は東方の国名前なのにすぐ付与だ”と記録されている. そして ‘論語’ 字した方にも “焼き物の五つ番目である富裕はすぐ付与”という内容が出る.

このように古代文献を通じて今日ツィプを中心にした山東省一帯が櫓(魯)国が立てられる前まで付与のメッカだったことが分かる. 中国山東省の釜山が付与のメッカという事実は中国古代文献で易しく確認されることだけではなく中国の現代歴史学者たちも広く認める所だ.

 

例えば中国歴史学者ホグァンウェ(何光岳)は彼の著書 ‘東夷源流社(東夷源流史)’から “‘後漢書’ など四書にもう付与, 同名に関する記録がある. それなら同名が国を建てたことは凍寒時代中葉だったろう. しかし同名以前にもう付与族が存在した. この付与族はどの地域で祈ったのか”と問って “史料で見るが凍寒以前付与族の発源地は山東省ツヒョン近所にある釜山, すなわち富裕”と言った.


 

ボックフィで付与で伝統性受け継いだ百済

司馬遷が使った中国歴史 ‘詐欺’は皇帝(黄帝)から始まる. しかし孔子は明確に ‘皇帝以前に神農氏(神農氏)があったし神農氏以前にボックフィシ(伏羲氏)があった’と 言ったが司馬遷はどうして皇帝を出発点にしただろうか. それはボックフィを漢族の詩調で 思うの なかったからだ.

ここで ‘であられるの(輿地志)’の次の記録に注目する必要がある. “釜山はツヒョンにある. 察するがオデ(魚台)地方の地形がまるで鴨が飛ぶ模様と似ている. 世の中ではボックフィがこちらで八卦(八卦)を引いたと言う.”

中国人が漢族の詩調に奉ずる皇帝よりもずっと先に進んだ時期に東洋人類の詩調だと言っても過言ではないボックフィがあったし, 彼の活動舞台は外でない付与の発源地釜山だったという記録は私たちに非常に重要な意味がある. 今年 4月筆者が現地調査を通じて確認したところでは中国山東省ズォチォング(鄒城)時離散(繹山)でそんなに遠いではない米産号(微山湖)近所に実在釜山があったしボックフィの祠堂を含めた遺物遺跡たちが集中していた.

このように古代文献記録と遺物遺跡たちは山東省釜山が洞が富裕の足だまりで, 富裕が付与の発源地ですぐボックフィの主要活動舞台だったことを言ってくれている. したがって私たちはボックフィが東夷族の詩調で釜山が東夷文化のメッカという結論に到逹するようになる.

しかしボックフィ時代は古代国家樹立段階に進入する以前氏族社会だった可能性が高い. ‘朝鮮世紀’によれば東夷 9族が集まって最初で国を建てたことは古朝鮮だ. だから富裕で 9不足で発展して 9不足が集まって古朝鮮を立てたことで, 檀君は東夷の国鳥(国祖)でボックフィは東夷族の詩調(始祖)で富裕は東夷歴史の出発点になる.

ホグァンウェは ‘東夷源流社’で付与族の発展経路を次のように要約した.

“付与はすぐ焼き物の一つだった富裕の後裔だ. 一名富裕(浮楡), 語で(於余)とも言うのに元々は山東リーンが一帯に住んで行って後に一分岐点は用紙押さえして河南省内向の語中に移したし, 他の限り分岐点は東北地方で移して付与国を立てた. これが北部で(北夫余)だ. ブックブヨは電研(前燕)によって滅亡した. 北部女医他の限り分岐点は東にひいてはゾルボンチォン(卒本川)で移したがこれが東プヨ(東夫余), またはゾルボンブなさい称する. 東プヨは高句麗に併合された. 付与王族のまた他の一分岐点は南朝鮮地域に渡って百済国を立てたが後に当太宗によって滅亡した.”

 

高句麗と百済が皆富裕の後裔である付与族の一分岐点であることは明らかな事実だが, 高句麗と百済両国の中で敢えて付与族の伝統性を計算したら筆者は百済にあると言いたい. その理由は高句麗は後で東プヨを竝合することで付与を滅亡させる結果をもたらしたのに比べて, 百済は付与場(夫余璋), ブヨリュング(夫余隆), 付与風(夫余豊) など王朝の氏姓を初めから付与で使ってまた南に遷都した以後にも南プヨ(南夫余)という国名を使いながら付与を受け継ごうと努力した跡がありありと見えるからだ.


 

山東省除数(済水)で国名来由

‘三国史記’ 百済本紀には ‘百済詩調温祖が河南違例性に都邑を決めて 10人の臣下を補佐陣にした. それで国名前をシブゼ(十済)と言った. …その後初めて違例で今年時民たちが喜んで付いて来たと言って国名前を百済(百済)で直した’と言う. しかしこの説明だけでは国名にどうして私の(済)者が入って行ったのか論理が貧弱だ.

 

ホグァンウェはこれに対して ‘東夷源流社’で百済の ‘私の(済)’を山東省の除数(済水)で由来したことで見た. すなわち南に下った付与族は部落が徐徐に増えると昔の山東省 ‘除数’から由来したその根を忘却しないために国名前を百済だと言った可能性があるという意見だ. 筆者も百済の ‘私の(済)’を山東省の除数に見ることに同意する.

私たちはその間百済のメッカを韓半島の河南違例性だけで認識したから百済という国名前に対する明確な来由を捜すあてがなかった. しかし百済のメッカが今の山東省ツヒョンの釜山だと言ったら当然百済国名の来由も除数と連関をつけて捜すと正しい.

今も除数は山東省を横切って流れる. 現在山東省の性所在だ去る(済南)時は除数の南側にあると言って付けられた名前だ. 除数は昔の四涜(四涜), すなわち川(江), ハ(河), 回(淮), 私の(済) など事大数(四大水) 中の一つでホーナン聖賢西の方ワングオックサンで発源して東に流れて山東省に入って行く. その下流は東北方へ流れて黄河と一緒に海に入って行く.

このように除数周りに多くの東夷不足集団が形成されて国名を百済(百済)だと言えたかも知れなくてまた ‘三国史記’に記録されたとおり 100人余りにのぼる付与族が除数を渡って南に下って国を建てたと言って百済だと言えたかも知れない. したがって百済は山東省の除数と連関をつけて見ることが自然で論理的だ.

百済は高句麗や新羅と違い建国詩調説話から論議が行き違う. 例えば ‘三国史記’を含めた私たちの古代文献記録は百済の詩調は温祖だと記述しているのに比べて ‘朱書(周書)’ 49冊百済前, ‘水棲(隋書)’81冊百済前など中国住んで中一部は百済の建国詩調を旧態(九台)と記録している. このような冷たくは百済の初期歴史記録に問題があることを言ってくれる.


 

消えた百済初期歴史

 

日本の昔の文献である ‘シンチァンソングシロック’(24冊除番右傾下) グダラノ−ギミ(百提供) 組には “百済怒気米価百済国追慕王の 30歳手であるヒェワングの孫ムンヨンワング子孫だ”と言ったが ‘三国史記’ 往歳計票にはヒェワングが温祖王の 18歳手に記録されているし追慕王から計算すれば 19歳手になる. これは ‘三国史記’ 往歳計票に温祖王とダルワングの間 11人の王が抜けていることを意味する.

また ‘シンチァンソングシロック’(24冊除番右傾下) 藤井老手区の組には彼が ‘百済追慕王の 10代孫鬼手王の子孫だ’と言ったが ‘三国史記’ 百済本紀には鬼手王(214‾234年)は詩調の 5代孫, 東明王の 6台手だからなっている. やっぱり温祖王とダルワングの間に 4人の王が抜けている. ‘三国史記’ 百済本紀より ‘シンチァンソングシロック’に王が 4代あるいは 11台ももっと多いということを通じて初期百済の歴史が首になって行ったことを推し測ることができる. ‘シンチァンソングシロック’には追慕王の息子に伝えるウムテグィスワング, 追慕王の孫子と申すドックズァワングなどの名前がボーイや ‘三国史記’には全然現われない. こんな式で切られて行った初期百済の歴史がどの位か正確に分かるあてがない.

古代百済の首都に推定される河南違例性発掘だ.

百済歴史の根が相当部分削除されたことは百済建国初期の首都移り変わり過程を通じても確認される. 例えば ‘百済本紀’によれば百済は初めて河南違例性に首都を決めて国家成立を宣布した後わずか 10余年ぶりに首都を閑散, すなわち今の南漢山一帯に移して 2年後王宮を建てた. 10余年ぶりに首都を移してぞくぞく宮殿を建立する大歴史を進行するということは領域が 100余りえ過ぎなかった百済初期の経済能力で見てほとんど不可能な事だ. したがって百済が首都を河南違例性に移すこと 以前, 河北違例性にもう初期百済があった蓋然性が高くてまさにこの河北時代の百済社が首になって行ったことに推定される.

私たちはこれと関して次のような家庭ができる. すなわち河南違例性に韓半島百済が樹立される以前河北に大陸百済が建立されていたが大陸百済を立てた詩調は旧態で韓半島百済の詩調は温祖だったということだ.

そうだったら ‘三国史記’や ‘三国有史’に温祖の記録だけ男高大陸百済の歴史の消えたわけは何だろう. それは後期新羅の歴史編者たちが新羅中心に歴史を再編しながら百済社の手始めを新羅創建より後どおり引き下そうと韓半島で移住して来た後温祖王時代を百済の創建基準で設定して, 温祖以前大陸百済旧態王時代を切ってしまったことで由来したのではないか思われる.

韓半島百済は自生的に成り立った国ではなくて大陸西北地域から先進的な制度と技術文化を持った東夷付与系統の人々が集団的に移住して来て建立した国だ. したがって韓半島河南百済以前に大陸の河北百済があったという論理を全面否認することができない.

その間私たちは河南違例性を漢城と認めて来た. しかし漢江は歴史的に川(江)であってハ(河)ではない. 百済が実際夭逝ジンピョングなどを支配した記録が中国文献多くの箇所現われることで延ばして河南違例性の ‘下’を漢江ではない今の遼寧城腰下(遼河)で見ることがもっと説得力がないか. だから初期百済歴史の復元のためには河南違例性時代以前大陸の河北百済とその詩調旧態に対する研究が隋伴されなければならない.


 

中国夭逝地域から韓半島で移住

百済が夭逝(遼西)を支配したという最初の記録は ‘ソングで(宋書)’ 97冊百済前に積まれている. ‘高句麗が搖れを支配して百済は夭逝を支配したが百済の招いた結果(所治)はジンピョンググンジンピョングヒョンだ.’ この記録で私たちが注目しなければならない部分は ‘百済の招いた結果(所治)’という表現だ. ‘寸(治)’は古代社会で都城を示す用語に軍するの(郡治) 現するの(県治)の場合には地方長官が居住する郡庁, 県庁所在地を意味して国家の招いた結果(所治)はソード(所都) すなわち国道を意味した.

例えば ‘寒暑(漢書)’ 告祭期に ‘チジンズング(治秦中)’という記録が出るのにここで ‘寸’は治めるという意味ではなく都城という意味で, たいてい(漢) 高まりが陣中(秦中)に首都を決めたという話だ. したがって ‘百済招いた結果’も百済国の都城, すなわち国道を示したことで見なければならない.

 

清の時編纂された ‘欽定満洲源流で’ではこんな古記録を根拠で ‘百済の国道は夭逝にあった(国都在遼西)’と言い切った. ところで韓国史学界はその間これ ‘寸’を都城ではない統治で解釈する間違いを犯した. 百済の首都があったという夭逝ジンピョンググンは果して中国のどの地域だろう. マダンリム(馬端臨)イ・ジウン ‘通告(通考)’にはその地域を ‘唐の時の油性と北坪の中間地点’といったが ‘欽定満洲源流で’ではまたマダンリムの見解を基礎でこちらを清の時禁酒, 永遠, グァンニョング一帯で推正した.

それでは百済が中国の夭逝地域に国道を決めてから韓半島地域で都邑を移した時期はいつごろだったろうか. ‘欽定満洲源流で’はその時期をヤングナだとチォンガム(天監)時代に見た. チォンガムと言う(のは)中国ヤングナだと無題の年号でチォンガム 1年は西紀 502年で新羅ジズングワング 3年, 高句麗文咨王 11年, 百済武寧王 2年がここにあたる. だから百済首都が本来は夭逝にある途中武寧王の時初めて南側韓半島に遷都して来たというのだ. この主張の根拠は ‘良書(梁書)’ 百済熱戦にある. “チン(晉)国の時夭逝, ジンピョング二つの軍を占めていた百済が濫製(南斉) チォンガムシデに高句麗とのけんかで敗れて国力が大きくkなるとその後南韓(南韓)地域に移した.”

‘三国有史’は ‘旧唐書’を引用して ‘百済は付与の別種なのに…王の居所に東, 西二人の性がある’と言った. ‘ブックサ(北史)’の百済国に対する説明の中では ‘百済の王は東, 西二人の性で住むのに一つはゴバルソング(居抜城)で他の一つは雇馬性(古麻城)だ’とされている. ところで雇馬性の雇馬はすなわち熊(熊)を意味するので熊津城の国語である ‘故まなで’の ‘雇馬’を漢字で淫事(音写)したのではないか推測することができるがゴバルソングはどんな性を示すのか我が学界ではいまだに定説がない実情だ. ところが ‘欽定満洲源流で’はゴバルソングがすぐ夭逝の濃い平成(晉平城)と指摘した.

 

ヤングナだと時外国使節たちの顔つきを描いた絵とともにその国に関する簡単な説明を付け加えた ‘ヤングジックゴングも(梁職貢図)’を見れば ‘百済国旗(百済国記)’を引用して ‘百済は昔の内耳(莱夷)で馬韓族だ’だと言った. 内耳は右と一緒に清州(青州), すなわち今日の山東省一帯に居住した東夷族の一つだ(‘西経’ ウ貢の方). 山東省耐酸(莱山) 下に住んで彼らを内耳(莱夷)だと呼んだが耐酸はすぐ今日のチングダオとイェンタイ一帯だ.

‘三国史記’によれば 571年に北斉(北斉)が百済威徳王に ‘サジゾルドドックドングチォングズザサ(使持節都督東青州刺史)’の職を授与したという記録が見える. これはこの地域に対する百済の支配を承認したことで見なされるのに銅青与える今日山東省ザオゾウとは一帯に当たる. 歴史学者ホグァンウェは ‘富裕人が本来は山東省にある途中徐々に移動して春秋時代に夭逝に到逹して戦国時代にまた今日の吉林省付与地域に到着した’と主張する.

 

こんな記録たちを推し量る時元々 韓半島地域にあった百済が中国の夭逝に進出して夭逝, ジンピョングをしばらく経略したより, 大陸の夭逝地域を中心に活動した百済勢力が後で徐々に南下して韓半島で定着したと思うことが妥当だ.

百済の夭逝支配に関する記録は ‘ソングで’ 以外にも ‘良書’ 百済前, ‘ナムサ’ 百済前, ‘自治痛感’ ‘偽書水路前(魏書勿吉伝)’ などに現われる明白な事実にも日本のナカ及んでください(那珂通世)をはじめとした殖民史学者たちは概してこれを否定するとか黙殺する態度を取った. 夭逝地方は韓半島西南部で海を間に置いて数千里落ちている所なのに, 百済がこちらに進出しなければならない必要性や可能性が稀薄だというのだ.

 

我が国の高校国史教科では ‘百済が刮目に値する発展を成すようになったことは 4世紀後半近肖古王の時の仕事だった…百済は水軍を増強させて中国の夭逝地方で進出した”と記述して百済の夭逝地方に対する支配を進出路捐毀したし, また韓国情神文化研究院で発刊した ‘民族文化大白科辞書’はもう一さじすくい取って “近肖古王は海上貿易にも力を傾けて夭逝地方に貿易基地として百済軍を設置した”と記述して支配とは構わない貿易基地の建設で歪曲した. これは日帝植民史観の残在を脱皮することができなかったことから来た間違いだ.

大陸百済の首都夭逝の正体を把握する事は迷宮に包まれた漢城百済以前の百済社を解く鍵になるでしょう.


 

王と諸侯従えた大帝国

欽定満洲源流で’ 3冊は “四書(史書)に ‘百済は武技を崇尚して文化を愛する国’と言ったがその言葉は全然偽りではなくて事実だ”とした後次のように言葉を引き継いでいる. “百済は多くの諸侯や王を立てて彼らの手柄に報いたがソング(宋), 私の(斉)奈良時代からもうそうだった. これは百済の地が広くて民も多かったという証拠だ.”

一部史学者たちの中には ‘百済が王と諸侯を従えた大帝国だった’と言えば嘲笑う人もいるがしかしこれは虚無孟浪した主張ではなく歴史的事実だ. ‘欽定満洲源流で’のこの記録は ‘濫製で(南斉書)’ 百済前に現われた史料を根拠にしたのだ.

‘濫製で’ 百済前には “ゴンム(建武) 2年に百済の帽帯王(牟大王)が自分の臣下司法人をメラワング, 纂修類をビョックズングワング, ヘリェゴンを不重厚, モックガンナをミョンズングフに冊封した後形式上濫製に国書を送って承認を要請した”と言う記録が載せられている.

ゴンムは濫製命題(明帝)の年号で西紀 494年で新羅所持王 16年, 高句麗文咨王 3年, 百済トンソン王 16年にあたる. だからこれは百済のトンソン王時代に百済が自主的に王と諸侯を冊封したということだが, 帽帯王が濫製に要請した司法人などの王后官爵称号の前に付けられた名称が概して北中国の東部海岸地帯地名であることで推し量ったら百済の王と諸侯は単純に名医上だけで存在したのではなく実際百済勢力がこの地域海岸地帯まで伸ばしていたことを言ってくれる.

昔の天子(天子)下に球(公), 後(侯), 百(伯), 定木(子), 男(男)があった. 諸侯と王公を分封(分封)することは大帝国の天子だけができる仕事だった. 高句麗がたとえ剛性したが王と諸侯を冊封したという歴史記録は捜してみることができないし新羅は三国統一を成した後にも王と諸侯を従えることができなかった.

ところで百済が ‘重建の後王(衆建侯王)’, すなわち自主的に多くの諸侯と王を冊封したと言うことは百済は諸侯国ではなく大帝国だったのを実証的に見せてくれることだとする.

 

“百済の彊域は西北ではグァンニョング, 禁酒, 義州に至って南側では海星, ケ州, 東南の方では朝鮮の黄海, 忠青, 全羅道などを包括していた. したがって百済の彊域は東西が狭くて南北で長かった. また上(魏)国の時水路(勿吉)とはかって高句麗地を奪って東北では水路とも隣合っていた. 唐初期にはまた新羅の 60‾70省を取ってその領土がもっと広くなった.” これは ‘欽定満洲源流で’に出る当時百済の彊域に関する記録だ.

が記録によったら百済は隆盛期に韓半島だけではなく中国大陸の西北と東北の方にかけて広闊な領土を所有したしこんな基礎の上で王と諸侯を従える帝国で発展したのだ.


 

新羅は百済の属国だった

 

私たち国史教科では西暦B.C. 57年朴赫居世が慶州平野に新羅を建てたし, 高句麗はB.C. 37年朱蒙が鴨緑江中流のドングがガング流域で建立したし, 百済はB.C. 18,年に温祖が漢江流域にトザブゴ出発したことに記述されている. この記録によれば三国の中で新羅が一番先に建国されたし 20年後高句麗, それからまた 19年後百済が成立された.

しかしこれとは正反対の記録を ‘欽定満洲源流で’で捜してみることができる. “新羅は初めに百済の芙蓉(附庸) 国家だったが後で行きなさい, 任那など多くの国を兼併して百済と対等な隣国になった.”

欽定満洲源流で’は何の根拠でこのような論理を展開したのだろう. 多分ブックサ(北史)の次の記録を参考したようだ. “新羅は百済に芙蓉されていた国家だ.” ここで ‘芙蓉’と言う(のは)大きい国に附属した小さな国, すなわち独自的に株券を行使することができずに他の国の支配を受ける国家を言う. ‘孟子’には ‘彊域が 50里にならなくて諸侯に附属した小さな国家を芙蓉国と言う’と言う説明がある.

 

‘欽定満洲源流で’によれば新羅は元々独立国家ではなく百済の部属国家である途中後で徐々に発展して独立国になる. それなら百済より先に新羅が建国したという論理は説得力がない. 新羅と百済の出発をおいて韓国と中国の歴史記録がこのように格段な差がある理由が何だろう. ‘三国史記’と ‘三国有史’は我が民族の歴史を主に韓半島移住以後の歴史に限定したのに比べて中国の古代資料はその以前大陸時代歴史まで包括して扱ったことからその理由を捜すことができないだろう.


 

三国の中で一番生命力が長かった百済

‘羅-党連合軍は先に百済を攻撃した. キム・ユシンが導いた新羅君はタンヒョンを越えて黄山伐に至ったし蘇ジョンバンの導いた唐軍は金剛下流で侵入した. こういうわけで百済の首都であるサビー城が羅-党連合軍に陷落された.’

これは百済滅亡に対して我が国の高等学校国史教科書に載せられている記録だ. 660年百済が滅亡して高句麗は 668年, 新羅は 935年に滅亡したということが一般的な歴史常識だ. したがって百済は三国の中で一番先に敗亡した国に認識されている.

しかし ‘欽定満洲源流で’の記録を通じて見た百済の敗亡時期はこれと全然違う. 多分 ‘ブックサ(北史)’と ‘旧唐書(旧唐書)の次のような記録を参考したようだ.

‘ブックサ(北史)’には “百済には 5発(五方)があって部屋は 10だね(郡)を管理する”と言ったし, ‘旧唐書(旧唐書)’には “6発がそれぞれ 10ヵ郡を管理する”と言った. 二つの記録によれば百済の軍が 50個ないし 60個という話だ. ところで蘇ジョンバンが百済を攻撃して奪ったことは 37軍だ. 奪うことができなかった軍が 5分の 2もなる. これは百済が完全に滅亡しないで相当部分そのまま保存したことを志す.

660年唐蘇ジョンバンによって滅亡した百済は一部分に過ぎなくて半分近い勢力がそのまま残って百済という名前に尊属したということが ‘欽定満洲源流で’の主張だ. また三国の中で百済が最後まで残ったという事実の根拠を次のように提示した.

“後だ時期に百済で唐に使臣を派遣した記録が四書に載せられていて円(元)国の時も百済が中国と行き来した事実が四書に登場する.”

モンゴル族の立てた元国は 1280‾1367年まで尊属した. これを根拠で推正すれば百済は 935年に滅亡した新羅より最小限数百年ほどもっと尊属したし, したがって百済は三国の中で最後まで残っていた国だったという結論に到逹する.

どの民族や自分民族の歴史と文化を美化して誇張したいことが一般的な速成だ. ところで国史を振り返れば美化や課長どころかむしろ縮まって捐毀された傾向が濃い. 中華中心の事大(事大)士官と日帝植民史観の影響だ.

百済社は二度にかけて大きく歪曲される受難を経験した. 第一, 高麗時期新羅中心に三国社の正統を立てる過程で初期百済社の相当部分が削除あるいは毀損されたと思う. 第二, 日製による歪曲で, 日帝は韓半島に対する殖民統治を合理化するために先に韓国史研究に手を出したが, この時Imanishi類(今西竜)が百済社を総管(総観・全体を大まかによく見)する ‘百済薬剤師’と ‘百済サガン化’を著わした. Imanishiの百済社敍述の核心は二つに要約される. 一つは百済がジェントルマン時代(信史時代)に入って行った時期を近肖古王なりに取ってその以前は伝説の時期に把握したことで, 他の一つは百済が倭の任那日本府(任那日本府)の保護と統治の下に存在していたというのだ. Imanishiのこのような百済社認識体系は百済の後進性と打率性を強調することで日帝の殖民統治を学問的に裏付けるためのことだ.


 

‘欽定満洲源流で’の価値

 

光復以後日製によって歪曲された百済社を主体的に再解釈しようとする試みがなかったのではないが研究人力の制限と文献資料の不足などによって何の成果をおさめることができずに今日まで日本史学者たちによって作られた百済社認識体系を乗り越えることができない.

欽定満洲源流で’は清の時編纂された本だ. 欽定と言う(のは)皇帝の著述または皇帝の勅命によって作られた著述を意味する. 清ゴンリュング 43年にアギェ(阿桂) などが勅命を奉じて編纂したこの本は不足, 彊域, 山河(山川), 国俗(国俗) 君の部門で分けて総 20冊に刊行された.

当時朝鮮は親命拜聴(親明排清)政策を立て通すせいで朝鮮と清の関係はあまり良い方ではなかった. したがって清が韓国古代史を意図的に美化した里はずがない. ただ自分たちの基盤である満洲の古代史源流を追跡して見ると私たち民族史の一軸である百済社と会ってそれを加減なしに住み次第に記述したと思わなければならない. が ‘満洲源流で’に見える百済は後進的で虚弱な国ではなく領土は広大で, 人口は多くて, 歴史は深くて, 文化は優秀で, 国力は強大な大帝国だった.

光復されてからいつのまにか 60年なのに私たちがまだ植民史観の残在を脱ぐことができなかったまま古代史研究を国内の限定された資料に寄り掛かりながら ‘欽定満洲源流で’のような大事な歴史記録を捨ておいている現実を慨嘆しなければならない.

 

最近中国のいわゆる東北公正(東北工程)を通じる高句麗社奪取試み過程で私たちの国民の歴史文化に対する警戒心が高くなってまた東北公正に対応するために国策研究機関が出帆するようになったことはそれさえもさいわいな事に違いない. しかし高句麗や新羅社に比べて相対的に研究が脆弱でまた三国社の中で日製による歪曲の程度が一番深刻な付与, 百済社がここで除かれたことは非常に残念だ.


흠정만주원류고


청나라 건륭황제(1711-1799)를 그린 건륭융장도 건륭제는 청나라 문화를 절정기를 이륙한 현제로 추앙받고 있다

 

고구려 유민과 말갈족이 세워 약 200여년 존속한 것으로 알려진 발해()는 아예 여진족의 자랑스러운 선조로 당당히 책에 이름을 올렸다. 책의 중간쯤에 등장하는, 여진족이 세운 나라인 금()나라의 뿌리를 밝힌 대목은 꽤 충격적이다.

"금나라 시조의 이름은 합부()인데 처음 고려로부터 왔다" (부족7 완안()편 )

"삼가 생각건대, 금나라의 시조는 원래 신라로부터 왔고, 완안씨()라고 하였으며, 다스리는 부를 완안부라고 하였다. 신라의 왕은 김씨 성인즉 금나라는 신라의 먼 친척이다" (부족7 완안편 원서())


 

정식 명칭은 <흠정만주원류고>입니다. 제목 그대로 중국 동북부 만주 지방의 역사를 청나라를 세운 여진족의 관점에서 해설한 청나라 공식 관찬 연구서 입니다. 황제의 명에 의해 지어진 책에 <흠정> 이라는 영예로운 타이틀이 붙는다고 하더군요.

이 책이 만들어진 해가 1778년인데, 바로 청나라 추앙받는 현제 가운데 한분인 건륭제의 명에 의해 지어졌다고 합니다. 우리나라에서도 수년전부터 이 책을 "꼭 번역해야할 명저"로 선택하고 몇몇 교수들에게 번역비를 지원해 줬다고 합니다. 그런데도 번역이 제대로 안되고 있었습니다. 이 책의 내용은 너무 충격적이여서 그동안 일제부터 내려오는 여전히 식민사관을 가진 역사학자들에게 논란이 되고 있습니다

 

 

 

청나라 역사서, 중국 요서를 백제 영토로 인정
중국의 동북공정 뒤엎을 史料 찾았다!
●‘흠정만주원류고’, 백제를 중국 동부 지배한 황제국으로 기술
온조왕~다루왕 사이 11명의 왕이 역사에서 사라졌다
소정방이 멸망시킨 것은 일부분, 신라 멸망 후에도 백제는 존속
한반도 서부 중심의 백제사는 일제의 역사 왜곡

충남 부여 소재 백제 별궁 연못인 궁남지. 최근 중국 동부지방에 위치했다는 ‘화북백제’에 대한 관심이 높아지고 있다.

흔히 백제라고 하면 의자왕, 삼천궁녀, 낙화암 같은 패망의 역사, 부끄러운 역사를 떠올린다. 그것은 백제 역사에서 자랑스러운 면보다 어둡고 수치스러운 면이 부각됐기 때문이다. 우리는 백제를 제대로 알고 있는가. 백제가 부여의 정통성을 계승한 국가이고, 대륙 깊숙한 요서(遼西)지역에 수도를 가질 만큼 강력한 대제국이었다는 사실은 망각되었다. 그러나 백제는 삼국 중 제일 먼저 패망한 나라가 아니라 가장 오랫동안 존속하며 끈질긴 생명력을 보여준 나라였다.

잃어버린 백제사를 복원하기 위해선 백제의 뿌리인 부여에서 실마리를 풀어나가지 않으면 안 된다. ‘시경(詩經)’ 노송(魯頌) 비궁편에 다음과 같은 기록이 나온다.

“부산(鳧山)과 역산(繹山)을 차지하고 마침내 서국(徐國)의 영토를 짓밟아 해방(海邦)에 이르니 회이(淮夷)와 만맥(蠻貊)과 저 남쪽 이족들이 따르지 않는 이가 없었으며, 감히 순응하지 않는 이가 없어 노후에게 순종했다.”

노송이란 동방의 동이족을 몰아내고 노나라를 세운 주공(周公)을 칭송하기 위해 자손들이 쓴 글로 여기에 나타나는 부, 역, 서택, 해방, 회이, 만맥, 남이는 노나라 건국 당시 오늘의 산둥성, 장쑤성, 저장성, 안후이성, 푸젠성 일대 동남방 지역에 분포해 있던 동이족을 가리킨다.

이 가운데 부(鳧)는 9이(九夷)의 다섯 번째인 부유(鳧臾)로 바로 부여국의 전신이다. 이순의 ‘이아석지주’와 형병의 ‘논어주소’는 “동북지역 구이의 다섯 번째가 부유”라 했다. ‘자회보’에는 “부유는 동방의 나라 이름인데 바로 부여다”라고 기록돼 있다. 그리고 ‘논어’ 자한 편에도 “구이의 다섯 번째인 부유는 바로 부여”라는 내용이 나온다.

이처럼 고대문헌을 통해 오늘날 취푸를 중심으로 한 산둥성 일대가 노(魯)나라가 세워지기 전까지 부여의 발상지였음을 알 수 있다. 중국 산둥성의 부산이 부여의 발상지라는 사실은 중국 고대문헌에서 쉽게 확인될 수 있을 뿐만 아니라 중국의 현대 역사학자들도 널리 인정하는 바다.

예컨대 중국 역사학자 허광웨(何光岳)는 그의 저서 ‘동이원류사(東夷源流史)’에서 “‘후한서’ 등 사서에 이미 부여, 동명에 관한 기록이 있다. 그렇다면 동명이 나라를 세운 것은 동한시대 중엽이었을 것이다. 하지만 동명 이전에 이미 부여족이 존재했다. 이 부여족은 어느 지역에서 기원했는가”라고 묻고 “사료로 보건대 동한 이전 부여족의 발원지는 산둥성 추현 부근에 있는 부산, 즉 부유”라고 했다.


 

복희에서 부여로 정통성 계승한 백제

사마천이 쓴 중국 역사 ‘사기’는 황제(黃帝)로부터 시작된다. 그러나 공자는 분명히 ‘황제 이전에 신농씨(神農氏)가 있었고 신농씨 이전에 복희씨(伏羲氏)가 있었다’고 했는데 사마천은 왜 황제를 출발점으로 삼았을까. 그것은 복희를 한족의 시조로 생각하지 않았기 때문이다.

여기서 ‘여지지(輿地志)’의 다음 기록에 주목할 필요가 있다. “부산은 추현에 있다. 살피건대 어대(魚台)지방의 지형이 마치 오리가 날아가는 모양과 비슷하다. 세상에서는 복희가 이곳에서 팔괘(八卦)를 그었다고 한다.”

중국인이 한족의 시조로 받드는 황제보다도 훨씬 앞선 시기에 동양 인류의 시조라 해도 과언이 아닌 복희가 있었고, 그의 활동무대는 다름 아닌 부여의 발원지 부산이었다는 기록은 우리에게 매우 중요한 의미가 있다. 올해 4월 필자가 현지답사를 통해 확인한 바로는 중국 산둥성 줘청(鄒城)시 이산(繹山)에서 그리 멀지 않은 미산호(微山湖)부근에 실재 부산이 있었으며 복희의 사당을 비롯한 유물유적들이 집중해 있었다.

이처럼 고대 문헌기록과 유물유적들은 산둥성 부산이 동이 부유의 근거지이고, 부유가 부여의 발원지이며 곧 복희의 주요 활동무대였음을 말해주고 있다. 따라서 우리는 복희가 동이족의 시조이고 부산이 동이문화의 발상지라는 결론에 도달하게 된다.

그러나 복희 시대는 고대국가 수립단계에 진입하기 이전 씨족사회였을 가능성이 높다. ‘조선세기’에 의하면 동이 9족이 모여서 최초로 나라를 세운 것은 고조선이다. 그러니까 부유에서 9부족으로 발전하고 9부족이 모여 고조선을 세운 것으로, 단군은 동이의 국조(國祖)이고 복희는 동이족의 시조(始祖)이며 부유는 동이 역사의 출발점이 된다.

허광웨는 ‘동이원류사’에서 부여족의 발전경로를 다음과 같이 요약했다.

“부여는 바로 구이의 하나였던 부유의 후예다. 일명 부유(浮楡), 어여(於余)라고도 하는데 원래는 산둥 린이 일대에 살다가 뒤에 한 갈래는 서진하여 하남성 내향의 어중으로 옮겨갔고, 다른 한 갈래는 동북지방으로 옮겨가 부여국을 세웠다. 이것이 북부여(北夫餘)다. 북부여는 전연(前燕)에 의해 멸망했다. 북부여의 다른 한 갈래는 동쪽으로 나아가 졸본천(卒本川)으로 옮겨갔는데 이것이 동부여(東夫餘), 또는 졸본부여라 칭한다. 동부여는 고구려에 병합되었다. 부여왕족의 또 다른 한 갈래는 남조선 지역으로 건너가서 백제국을 세웠는데 뒤에 당태종에 의해 멸망했다.”

고구려와 백제가 모두 부유의 후예인 부여족의 한 갈래인 것은 분명한 사실이지만, 고구려와 백제 두 나라 중 굳이 부여족의 정통성을 따진다면 필자는 백제에 있다고 말하고 싶다. 그 이유는 고구려는 나중에 동부여를 병합함으로써 부여를 멸망시키는 결과를 가져온 데 반하여, 백제는 부여장(夫餘璋), 부여륭(夫餘隆), 부여풍(夫餘豊) 등 왕조의 성씨를 아예 부여로 쓰고 또 남쪽으로 천도한 이후에도 남부여(南夫餘)라는 국명을 쓰면서 부여를 계승하려고 노력한 흔적이 역력하기 때문이다.


 

산둥성 제수(濟水)에서 국명 유래

‘삼국사기’ 백제본기에는 ‘백제시조 온조가 하남 위례성에 도읍을 정하고 10명의 신하를 보좌진으로 삼았다. 그래서 나라 이름을 십제(十濟)라고 했다. …그 후 처음 위례로 올 때 백성들이 기꺼이 따라왔다고 하여 나라 이름을 백제(百濟)로 고쳤다’고 한다. 그러나 이 설명만으로는 국명에 왜 제(濟)자가 들어갔는지 논리가 빈약하다.

허광웨는 이에 대해 ‘동이원류사’에서 백제의 ‘제(濟)’를 산둥성의 제수(濟水)에서 유래한 것으로 보았다. 즉 남쪽으로 내려온 부여족은 부락이 점차 늘어나자 옛 산둥성 ‘제수’로부터 유래한 그 뿌리를 망각하지 않기 위해 나라 이름을 백제라고 했을 가능성이 있다는 의견이다. 필자도 백제의 ‘제(濟)’를 산둥성의 제수로 보는 데 동의한다.

우리는 그동안 백제의 발상지를 한반도의 하남 위례성으로만 인식했기 때문에 백제라는 나라 이름에 대한 명확한 유래를 찾을 길이 없었다. 그러나 백제의 발상지가 지금의 산둥성 추현의 부산이라고 한다면 당연히 백제 국명의 유래도 제수와 연관지어 찾아야 옳다.

지금도 제수는 산둥성을 가로질러 흐른다. 현재 산둥성의 성 소재지 지난(濟南)시는 제수의 남쪽에 있다 해서 붙여진 이름이다. 제수는 옛 사독(四瀆), 즉 강(江), 하(河), 회(淮), 제(濟) 등 사대수(四大水) 중의 하나로 허난성현 서쪽 왕옥산에서 발원해 동쪽으로 흘러 산둥성으로 들어간다. 그 하류는 동북쪽으로 흘러 황하와 함께 바다로 들어간다.

이처럼 제수 주위에 여러 동이부족 집단이 형성되어 국명을 백제(百濟)라 했을 수도 있고 또 ‘삼국사기’에 기록된 대로 100여명에 이르는 부여족이 제수를 건너 남쪽으로 내려와서 나라를 세웠다 해서 백제라 했을 수도 있다. 따라서 백제는 산둥성의 제수와 연관지어 보는 것이 자연스럽고 논리적이다.

백제는 고구려나 신라와 달리 건국시조 설화부터 논의가 엇갈린다. 예컨대 ‘삼국사기’를 비롯한 우리의 고대문헌기록은 백제의 시조는 온조라고 기술하고 있는데 반하여 ‘주서(周書)’ 49권 백제전, ‘수서(隋書)’81권 백제전 등 중국 사서 가운데 일부는 백제의 건국시조를 구태(九台)라고 기록하고 있다. 이 같은 차이는 백제의 초기역사기록에 문제가 있음을 말해준다.


 

사라진 백제 초기 역사

일본의 옛 문헌인 ‘신찬성씨록’(24권 제번 우경 하) 구다라노기미(백제공) 조에는 “구다라노기미가 백제국 추모왕의 30세 손인 혜왕의 손자 문연왕 후손이다”라고 했는데 ‘삼국사기’ 왕세계표에는 혜왕이 온조왕의 18세 손으로 기록되어 있으며 추모왕으로부터 계산하면 19세 손이 된다. 이것은 ‘삼국사기’ 왕세계표에 온조왕과 다루왕 사이 11명의 왕이 빠져 있음을 의미한다.

또 ‘신찬성씨록’(24권 제번 우경 하) 후지이노수쿠네 조에는 그가 ‘백제 추모왕의 10대손 귀수왕의 후손이다’라고 했는데 ‘삼국사기’ 백제본기에는 귀수왕(214~234년)은 시조의 5대 손, 동명왕의 6대 손이라 되어 있다. 역시 온조왕과 다루왕 사이에 4명의 왕이 빠져있다. ‘삼국사기’ 백제본기보다 ‘신찬성씨록’에 왕이 4대 혹은 11대나 더 많다는 것을 통해 초기 백제의 역사가 잘려나갔음을 미루어 짐작할 수 있다. ‘신찬성씨록’에는 추모왕의 아들로 전하는 음태귀수왕, 추모왕의 손자라고 하는 덕좌왕 등의 이름이 보이나 ‘삼국사기’에는 전혀 나타나지 않는다. 이런 식으로 잘려나간 초기 백제의 역사가 얼마나 되는지 정확히 알 길이 없다.

고대 백제의 수도로 추정되는 하남 위례성 발굴지.

백제 역사의 뿌리가 상당부분 삭제된 것은 백제 건국 초기의 수도변천과정을 통해서도 확인된다. 예컨대 ‘백제본기’에 의하면 백제는 처음 하남 위례성에 수도를 정하고 국가 성립을 선포한 다음 불과 10여년 만에 수도를 한산, 즉 지금의 남한산 일대로 옮겨 2년 후 왕궁을 지었다. 10여년 만에 수도를 옮기고 연이어 궁전을 건립하는 대역사를 진행한다는 것은 영역이 100여 리에 불과했던 백제 초기의 경제능력으로 보아 거의 불가능한 일이다. 따라서 백제가 수도를 하남 위례성으로 옮기기 이전, 하북 위례성에 이미 초기 백제가 있었을 개연성이 높고 바로 이 하북시대의 백제사가 잘려나간 것으로 추정된다.

우리는 이와 관련해 다음과 같은 가정을 할 수 있다. 즉 하남 위례성에 한반도 백제가 수립되기 이전 하북에 대륙백제가 건립되어 있었는데 대륙백제를 세운 시조는 구태이고 한반도 백제의 시조는 온조였다는 것이다.

그렇다면 ‘삼국사기’나 ‘삼국유사’에 온조의 기록만 남고 대륙백제의 역사가 사라진 까닭은 무엇일까. 그것은 후기 신라의 역사편찬자들이 신라 중심으로 역사를 재편하면서 백제사의 시작을 신라 창건보다 후대로 끌어내리려 한반도로 이주해온 후 온조왕 시대를 백제의 창건 기준으로 설정하고, 온조 이전 대륙백제 구태왕 시대를 잘라버린 데서 연유된 것이 아닌가 여겨진다.

한반도 백제는 자생적으로 성립한 나라가 아니고 대륙 서북지역으로부터 선진적인 제도와 기술문화를 가진 동이 부여계통의 사람들이 집단적으로 이주해 와서 건립한 나라다. 따라서 한반도 하남 백제 이전에 대륙의 하북 백제가 있었다는 논리를 전면 부인할 수 없다.

그동안 우리는 하남 위례성을 한성으로 인정해 왔다. 그러나 한강은 역사적으로 강(江)이지 하(河)가 아니다. 백제가 실제 요서 진평 등을 지배한 기록이 중국문헌 여러 군데 나타나는 것으로 미루어 하남 위례성의 ‘하’를 한강이 아닌 지금의 랴오닝성 요하(遼河)로 보는 것이 더 설득력이 있지 않을까. 그러므로 초기 백제 역사의 복원을 위해서는 하남 위례성 시대 이전 대륙의 하북 백제와 그 시조 구태에 대한 연구가 수반돼야 한다.


 

중국 요서지역에서 한반도로 이주

백제가 요서(遼西)를 지배했다는 최초의 기록은 ‘송서(宋書)’ 97권 백제전에 실려 있다. ‘고구려가 요동을 지배하고 백제는 요서를 지배했는데 백제의 소치(所治)는 진평군 진평현이다.’ 이 기록에서 우리가 주목해야 할 부분은 ‘백제의 소치(所治)’라는 표현이다. ‘치(治)’는 고대사회에서 도성을 가리키는 용어로 군치(郡治) 현치(縣治)일 경우에는 지방장관이 거주하는 군청, 현청 소재지를 뜻하고 국가의 소치(所治)는 소도(所都) 즉 국도를 의미했다.

예컨대 ‘한서(漢書)’ 고제기에 ‘치진중(治秦中)’이라는 기록이 나오는데 여기서 ‘치’는 다스린다는 의미가 아니라 도성이라는 뜻으로, 한(漢) 고조가 진중(秦中)에 수도를 정했다는 얘기다. 따라서 ‘백제소치’도 백제국의 도성, 즉 국도를 가리킨 것으로 보아야 한다.

청나라 때 편찬된 ‘흠정만주원류고’에서는 이런 고기록을 근거로 ‘백제의 국도는 요서에 있었다(國都在遼西)’고 잘라 말했다. 그런데 한국사학계는 그동안 이 ‘치’를 도성이 아닌 통치로 해석하는 오류를 범했다. 백제의 수도가 있었다는 요서 진평군은 과연 중국의 어느 지역일까. 마단림(馬端臨)이 지은 ‘통고(通考)’에는 그 지역을 ‘당나라 때 유성과 북평의 중간지점’이라 했는데 ‘흠정만주원류고’에서는 다시 마단림의 견해를 기초로 이곳을 청나라 때 금주, 영원, 광녕 일대라 추정했다.

그러면 백제가 중국의 요서 지역에 국도를 정했다가 한반도 지역으로 도읍을 옮긴 시기는 언제쯤이었을까. ‘흠정만주원류고’는 그 시기를 양나라 천감(天監)시대로 보았다. 천감이란 중국 양나라 무제의 연호로 천감 1년은 서기 502년이며 신라 지증왕 3년, 고구려 문자왕 11년, 백제 무령왕 2년이 이에 해당한다. 그러니까 백제 수도가 본래는 요서에 있다가 무령왕 때 비로소 남쪽 한반도로 천도해 왔다는 것이다. 이 주장의 근거는 ‘양서(梁書)’ 백제열전에 있다. “진(晉)나라 때 요서, 진평 두 군을 차지하고 있던 백제가 남제(南齊) 천감시대에 고구려와의 싸움에서 패하여 국력이 크게 약해지자 그 후 남한(南韓)지역으로 옮겨갔다.”

‘삼국유사’는 ‘구당서’를 인용하여 ‘백제는 부여의 별종인데…왕의 거처로 동, 서 두 성이 있다’고 했다. ‘북사(北史)’의 백제국에 대한 설명 가운데는 ‘백제의 왕은 동, 서 두 성에서 사는데 하나는 거발성(居拔城)이고 다른 하나는 고마성(古麻城)이다’라고 되어 있다. 그런데 고마성의 고마는 곧 곰(熊)을 뜻하므로 웅진성의 우리말인 ‘고마나루’의 ‘고마’를 한자로 음사(音寫)한 것이 아닐까 추측할 수 있지만 거발성은 어떤 성을 가리키는지 우리 학계에서는 아직까지 정설이 없는 실정이다. 그런데 ‘흠정만주원류고’는 거발성이 바로 요서의 진평성(晉平城)이라고 적시했다.

양나라 때 외국사절들의 용모를 그린 그림과 함께 그 나라에 관한 간단한 설명을 덧붙인 ‘양직공도(梁職貢圖)’를 보면 ‘백제국기(百濟國記)’를 인용하여 ‘백제는 옛날의 내이(萊夷)이며 마한족이다’라 했다. 내이는 우이와 함께 청주(靑州), 즉 오늘의 산둥성 일대에 거주하던 동이족의 하나다(‘서경’ 우공편). 산둥성 내산(萊山) 밑에 살아서 그들을 내이(萊夷)라 불렀는데 내산은 바로 오늘의 칭다오와 옌타이 일대다.

‘삼국사기’에 의하면 571년에 북제(北齊)가 백제 위덕왕에게 ‘사지절도독동청주자사(使持節都督東靑州刺史)’의 직을 수여했다는 기록이 보인다. 이는 이 지역에 대한 백제의 지배를 승인한 것으로 간주되는데 동청주는 오늘날 산둥성 자오저우완 일대에 해당된다. 역사학자 허광웨는 ‘부유인이 본래는 산둥성에 있다가 차츰 이동하여 춘추시대에 요서에 도달하고 전국시대에 다시 오늘의 지린성 부여지역에 도착했다’고 주장한다.

이런 기록들을 미루어 볼 때 원래 한반도 지역에 있던 백제가 중국의 요서에 진출하여 요서, 진평을 잠시 경략했다기보다, 대륙의 요서 지역을 중심으로 활동하던 백제 세력이 나중에 차츰 남하하여 한반도에서 정착했다고 보는 것이 타당하다.

백제의 요서 지배에 관한 기록은 ‘송서’ 이외에도 ‘양서’ 백제전, ‘남사’ 백제전, ‘자치통감’ ‘위서물길전(魏書勿吉傳)’ 등에 나타나는 명백한 사실임에도 일본의 나카 미치요(那珂通世)를 위시한 식민사학자들은 대체로 이를 부정하거나 묵살하는 태도를 취했다. 요서 지방은 한반도 서남부에서 바다를 사이에 두고 수천 리 떨어져 있는 곳인데, 백제가 이곳에 진출해야 할 필요성이나 가능성이 희박하다는 것이다.

우리나라 고교 국사교과서는 ‘백제가 괄목할 만한 발전을 이룩하게 된 것은 4세기 후반 근초고왕 때의 일이었다…백제는 수군을 증강시켜 중국의 요서 지방으로 진출하였다”라고 기술하여 백제의 요서 지방에 대한 지배를 진출로 폄훼했고, 또 한국정신문화연구원에서 발간한 ‘민족문화대백과사전’은 한술 더 떠서 “근초고왕은 해상무역에도 힘을 기울여 요서지방에 무역기지로서 백제군을 설치했다”고 기술하여 지배와는 상관없는 무역기지의 건설로 왜곡했다. 이는 일제 식민사관의 잔재를 탈피하지 못한 데서 온 오류다.

대륙 백제의 수도 요서의 정체를 파악하는 일은 미궁에 싸인 한성 백제 이전의 백제사를 푸는 열쇠가 될 것이다.


 

왕과 제후 거느린 대제국

흠정만주원류고’ 3권은 “사서(史書)에 ‘백제는 무예를 숭상하고 문화를 사랑하는 나라’라고 했는데 그 말은 전혀 거짓이 아니고 사실이다”라고 한 뒤 다음과 같이 말을 잇고 있다. “백제는 여러 제후나 왕을 세워 그들의 공훈에 보답했는데 송(宋), 제(齊)나라 시대로부터 이미 그러했다. 이는 백제의 땅이 넓고 백성도 많았다는 증거다.”

일부 사학자들 중에는 ‘백제가 왕과 제후를 거느린 대제국이었다’고 말하면 코웃음을 칠 사람도 있겠지만 그러나 이는 허무맹랑한 주장이 아니라 역사적 사실이다. ‘흠정만주원류고’의 이 기록은 ‘남제서(南齊書)’ 백제전에 나타난 사료를 근거로 한 것이다.

‘남제서’ 백제전에는 “건무(建武) 2년에 백제의 모대왕(牟大王)이 자기의 신하 사법명을 매라왕, 찬수류를 벽중왕, 해례곤을 불중후, 목간나를 면중후로 책봉한 뒤 형식상 남제에 국서를 보내 승인을 요청했다”는 기록이 실려 있다.

건무는 남제 명제(明帝)의 연호로 서기 494년이며 신라 소지왕 16년, 고구려 문자왕 3년, 백제 동성왕 16년에 해당한다. 그러니까 이것은 백제의 동성왕 시대에 백제가 자체적으로 왕과 제후를 책봉했다는 이야기인데, 모대왕이 남제에 요청한 사법명 등의 왕후 관작칭호 앞에 붙여진 명칭이 대체로 북 중국의 동부해안 지대 지명인 것으로 미루어 본다면 백제의 왕과 제후는 단순히 명의상으로만 존재한 것이 아니라 실제 백제세력이 이 지역 해안지대까지 뻗쳐 있었음을 말해준다.

옛날 천자(天子)밑에 공(公), 후(侯), 백(伯), 자(子), 남(男)이 있었다. 제후와 왕공을 분봉(分封)하는 것은 대제국의 천자만이 할 수 있는 일이었다. 고구려가 비록 강성했지만 왕과 제후를 책봉했다는 역사기록은 찾아볼 수 없으며 신라는 삼국 통일을 이룩한 후에도 왕과 제후를 거느리지 못했다.

그런데 백제가 ‘중건후왕(衆建侯王)’, 즉 자체적으로 여러 제후와 왕을 책봉했다고 하는 것은 백제는 제후국이 아니라 대제국이었음을 실증적으로 보여주는 것이라고 하겠다.

“백제의 강역은 서북으로는 광녕, 금주, 의주에 이르고 남쪽으로는 해성, 개주, 동남쪽으로는 조선의 황해, 충청, 전라도 등을 포괄하고 있었다. 따라서 백제의 강역은 동서가 좁고 남북으로 길었다. 또 위(魏)나라 때 물길(勿吉)과 도모해 고구려 땅을 빼앗아 동북으로는 물길과도 이웃해 있었다. 당나라 초기에는 또 신라의 60~70성을 취하여 그 강토가 더욱 넓어졌다.” 이것은 ‘흠정만주원류고’에 나오는 당시 백제의 강역에 관한 기록이다.

이 기록에 따른다면 백제는 융성기에 한반도뿐만 아니라 중국대륙의 서북과 동북쪽에 걸쳐 광활한 영토를 소유했고 이런 기초 위에서 왕과 제후를 거느리는 제국으로 발전했던 것이다.


 

신라는 백제의 속국이었다

우리 국사교과서는 서력 기원전 57년 박혁거세가 경주 평야에 신라를 세웠고, 고구려는 기원전 37년 주몽이 압록강 중류의 동가강 유역에서 건립했으며, 백제는 기원전 18,년에 온조가 한강유역에 터잡고 출발한 것으로 기술되어 있다. 이 기록에 따르면 삼국 중 신라가 가장 먼저 건국됐고 20년 후 고구려, 그로부터 다시 19년 후 백제가 성립됐다.

그러나 이와는 정반대의 기록을 ‘흠정만주원류고’에서 찾아볼 수 있다. “신라는 처음에 백제의 부용(附庸) 국가였는데 나중에 가라, 임나 등 여러 나라를 겸병하여 백제와 대등한 이웃나라가 됐다.”

흠정만주원류고’는 무슨 근거로 이러한 논리를 전개한 것일까. 아마 북사(北史)의 다음 기록을 참고한 듯하다. “신라는 백제에 부용되어 있던 국가다.” 여기서 ‘부용’이란 큰 나라에 부속된 작은 나라, 즉 독자적으로 주권을 행사하지 못하고 다른 나라의 지배를 받는 국가를 말한다. ‘맹자’에는 ‘강역이 50리가 안 되어 제후에게 부속된 작은 국가를 부용국이라 한다’는 설명이 있다.

‘흠정만주원류고’에 따르면 신라는 원래 독립국가가 아니라 백제의 부속국가로 있다가 나중에 차츰 발전하여 독립국이 된다. 그렇다면 백제보다 먼저 신라가 건국했다는 논리는 설득력이 없다. 신라와 백제의 출발을 놓고 한국과 중국의 역사 기록이 이처럼 현격한 차이가 나는 이유가 무엇일까. ‘삼국사기’와 ‘삼국유사’는 우리민족의 역사를 주로 한반도 이주 이후의 역사로 한정한데 반해 중국의 고대사료는 그 이전 대륙시대 역사까지 포괄하여 다룬 데서 그 이유를 찾을 수 있지 않을 것이다.


 

삼국 중 가장 생명력이 길었던 백제

‘나-당 연합군은 먼저 백제를 공격했다. 김유신이 이끈 신라군은 탄현을 넘어 황산벌에 이르렀고 소정방이 이끈 당군은 금강하류로 침입했다. 이로써 백제의 수도인 사비성이 나-당 연합군에 함락됐다.’

이것은 백제 멸망에 대해 우리나라 고등학교 국사교과서에 실려 있는 기록이다. 660년 백제가 멸망하고 고구려는 668년, 신라는 935년에 멸망했다는 것이 일반적인 역사상식이다. 따라서 백제는 삼국 중 가장 먼저 패망한 나라로 인식되고 있다.

그러나 ‘흠정만주원류고’의 기록을 통해서 본 백제의 패망 시기는 이와 전혀 다르다. 아마 ‘북사(北史)’와 ‘구당서(舊唐書)의 다음과 같은 기록을 참고한 듯하다.

‘북사(北史)’에는 “백제에는 5방(五方)이 있고 방은 10군(郡)을 관리한다”라고 했고, ‘구당서(舊唐書)’에는 “6방이 각각 10개군을 관리한다”라고 했다. 두 기록에 따르면 백제의 군이 50개 내지 60개라는 이야기다. 그런데 소정방이 백제를 공격해 빼앗은 것은 37군이다. 빼앗지 못한 군이 5분의 2나 된다. 이것은 백제가 완전히 멸망하지 않고 상당 부분 그대로 보존됐음을 뜻한다.

660년 당나라 소정방에 의해 멸망한 백제는 일부분에 불과하며 절반 가까운 세력이 그대로 남아 백제라는 이름으로 존속했다는 것이 ‘흠정만주원류고’의 주장이다. 또한 삼국 중 백제가 최후까지 남았다는 사실의 근거를 다음과 같이 제시했다.

“후당 시기에 백제에서 당나라에 사신을 파견한 기록이 사서에 실려 있고 원(元)나라 때도 백제가 중국과 내왕한 사실이 사서에 등장한다.”

몽골족이 세운 원나라는 1280~1367년까지 존속했다. 이를 근거로 추정하면 백제는 935년에 멸망한 신라보다 최소한 수백년 가량 더 존속했고, 따라서 백제는 삼국 중 최후까지 남아 있었던 나라였다는 결론에 도달한다.

어느 민족이나 자기민족의 역사와 문화를 미화하고 과장하고 싶은 것이 일반적인 속성이다. 그런데 우리 역사를 돌아보면 미화나 과장은커녕 오히려 축소되고 폄훼된 경향이 짙다. 중화 중심의 사대(事大)사관과 일제 식민사관의 영향이다.

백제사는 두 번에 걸쳐 크게 왜곡되는 수난을 겪었다. 첫째, 고려 시기 신라 중심으로 삼국사의 정통을 세우는 과정에서 초기 백제사의 상당부분이 삭제 혹은 훼손되었다고 본다. 둘째, 일제에 의한 왜곡으로, 일제는 한반도에 대한 식민통치를 합리화하기 위해 먼저 한국사 연구에 손을 댔는데, 이때 이마니시 류(今西龍)가 백제사를 총관(總觀·전체를 대충 살펴봄)하는 ‘백제약사’와 ‘백제사강화’를 저술했다. 이마니시의 백제사 서술의 핵심은 두 가지로 요약된다. 하나는 백제가 신사시대(信史時代)로 들어간 시기를 근초고왕대로 잡고 그 이전은 전설의 시기로 파악한 것이고, 다른 하나는 백제가 왜의 임나일본부(任那日本府)의 보호와 통치하에 존재하고 있었다는 것이다. 이마니시의 이와 같은 백제사 인식체계는 백제의 후진성과 타율성을 강조함으로써 일제의 식민통치를 학문적으로 뒷받침하기 위한 것이다.


 

‘흠정만주원류고’의 가치

광복이후 일제에 의해 왜곡된 백제사를 주체적으로 재해석하려는 시도가 없었던 것은 아니지만 연구인력의 제한과 문헌자료의 부족 등으로 인해 별다른 성과를 거두지 못하고 오늘날까지 일본 사학자들에 의해 만들어진 백제사 인식체계를 극복하지 못하고 있다.

흠정만주원류고’는 청나라 때 편찬된 책이다. 흠정이란 황제의 저술 또는 황제의 칙명에 의해 만들어진 저술을 뜻한다. 청나라 건륭 43년에 아계(阿桂) 등이 칙명을 받들어 편찬한 이 책은 부족, 강역, 산천(山川), 국속(國俗) 네 부문으로 나누어 총 20권으로 간행됐다.

당시 조선은 친명배청(親明排淸)정책을 견지하는 바람에 조선과 청의 관계는 그리 좋은 편이 아니었다. 따라서 청나라가 한국 고대사를 의도적으로 미화했을 리 만무하다. 단지 자신들의 터전인 만주의 고대사 원류를 추적하다보니 우리 민족사의 한 축인 백제사와 만나게 되고 그것을 가감 없이 사실대로 기술했다고 봐야 한다. 이 ‘만주원류고’에 보이는 백제는 후진적이고 허약한 나라가 아니라 강토는 광대하고, 인구는 많고, 역사는 깊고, 문화는 우수하고, 국력은 강대한 대제국이었다.

광복된 지 어언 60년인데 우리가 아직도 식민사관의 잔재를 벗지 못한 채 고대사연구를 국내의 한정된 자료에 의존하면서 ‘흠정만주원류고’와 같은 소중한 역사기록을 방치하고 있는 현실을 개탄하지 않을 수 없다.

 

최근 중국의 이른바 동북공정(東北工程)을 통한 고구려사 탈취 시도 과정에서 우리 국민의 역사문화에 대한 경각심이 높아지고 또 동북공정에 대응하기 위해 국책연구기관이 출범하게 된 것은 그나마 다행한 일이 아닐 수 없다. 그러나 고구려나 신라사에 비해 상대적으로 연구가 취약하고 또 삼국사 중 일제에 의한 왜곡의 정도가 가장 심각한 부여, 백제사가 여기서 제외된 것은 매우 유감이다.



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