生活/文化


この投稿の、動画・曲は、you tubeから借りて来た物です。



過去の、私の、様々な投稿・レスの中から、抜粋して来た投稿です。


シャイなのに/兄的な性格1からの続きです。


シャイなのに/兄的な性格1は、以下です。


シャイなのに/兄的な性格1(日本語)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2640464?&sfl=membername&stx=jlemon
シャイなのに/兄的な性格1(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2640464?&sfl=membername&stx=jlemon



東京都心部の西部の、静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、敷地面積100坪程(約330平方m)の、庭がある、一戸建て住宅です(ちなみに、我が家は、狭い土地に3階建ての(1階部分の半分くらいが駐車場の)、居住床面積30坪(約100平方m)程の庭がない、地価が高い、東京中心部(東京23区)の、典型的な、比較的、新しい、庶民向けの、一戸建て住宅です)。私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、現在は、両親が、その家を引き継いでいます(ちなみに、私の母は、一人娘です)。元々は、私の母方の祖母の父(田舎の、裕福な地主であった。第二次世界大戦後には、(おそらく)農地改革により没落した)が、東京に保有していた不動産の一つであった物で(私の母方の祖母の父が、私の母方の祖母が結婚した際に、私の母方の祖父母に与えた物。当時の中流階級の一戸建て住宅として、小さな方であったと思います)、元々の家の建物は、1920年代頃?に建てられた、日本伝統式の住宅の建物だった様ですが、現在の家の建物は、1960年代初め頃に、建替えられた物です(現在は、耐震補強もなされています)。

ちなみに、既に、母方の祖父母ともに亡くなっています。


私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。


私の母方の祖母は、東京での学生時代・独身時代、私の母方の祖母の父が、東京の麻布(azabu)(東京都心部の高級住宅地の一つ)に保有していた東京の別宅に暮らしていたそうです。私の母方の祖母の父は、当時、東京及びその郊外(現在の東京23区内)に、いくつかの、土地と家を保有し、人に貸したり、また、用事が有って、東京に出てくる際の、滞在先等として使ったりしていましたが、その内の一つが、(私の母方の祖母が、見合いによって、私の母方の祖父と結婚した際に)私の母方の祖父母に、与えられました。これが、先に説明した、私が、生まれ育った我が家の近所の実家です(前述の通り、家の建物は、私が生まれる前に建て替えられています)。麻布(azabu)の家の方は、これよりも、はるかに大きくて、立派だったそうですが、第2次世界大戦後、他人の手に渡ってしまったそうです(私の母方の祖母の実家は、戦後、徐々に、没落して行った様です。現在も、一応、少しは、立派な家に暮らしているらしいですが。。。)。

私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。私の母方の祖母は、私の母方の祖父と結婚してから、ずっと主婦をしていました。もっとも、私の母方の祖母は、第二次世界大戦が終わるまでは、東京での、学生時代・独身時代を含めて、ずっと、メイド(maid)がいる(メイド(maid)に身の回りの世話をして貰う)生活であったので、主婦とは言っても、私の母方の祖母が、生まれて初めて、本格的に家事をする様になったのは、第二次世界大戦後からであった様です。


私の、母方の祖母は、大人しくて、上品な性格であったのですが、私の母の活発な性格は、私の母方の祖母の姉(私の母の、私の母と同年代の、女性の、いとこの母。既に亡くなっています)に似ています。私の母は、幼い頃から、よく、近所の、私の母の、女性の、いとこの家に遊びに行っていました。ちなみに、逆に、私の母の、女性の、いとこは、性格は、上品で、おっとりとしていて、大人しい性格で、性格は、私の母方の祖母に似ています(ちなみに、私の母の、女性の、いとこも、幼い頃・子供の頃、私の母の家(我が家の近所の私の実家)に、よく、遊びに来ていた様です)。

私の母方の祖母は、(大学から東京に出てきたものの)、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性です。私の母方の祖母は、東京のA学院大学と言う、キリスト教系の大学(私の母方の祖母が、卒業した時は、その前身の高等教育機関でしたが)を卒業した後、東京のキリスト教の教会に就職したものの、間もなく、私の母方の祖父と結婚、祖父と結婚した後は、アルバイトを含めて、一切、仕事した事がない、専業主婦であり、人生において、ほとんど社会人と言うものを経験した事がないまま亡くなりました。私の母方の祖母は、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。私の母方の祖母は、見合い(私の母方の祖母の父(私の母方の曽祖父)の知り合いの紹介)により、私の母方の祖父と知り合い、結婚しました。母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw




亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターは、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。

私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。


蕗谷 虹児(fukiya koji)に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。


蕗谷虹児(祖母が好きであった挿絵画家)(日本語)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2581912/page/7?&sfl=membername&stx=jlemon

蕗谷虹児(祖母が好きであった挿絵画家)(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2581912/page/7?&sfl=membername&stx=jlemon




私の母方の祖父母が生きていた時は、私の実家の財産の系統は、私の母方の祖父母(私の母の両親)の系統と、私の両親の系統に分かれ、それぞれ、管理権限は、別となっていました。

私の母方の祖父母の財産の管理権限は、生活費も含めて、私の母方の祖父が、全て管理を行い、母方の祖母は、母方の祖父の管理の下で、母方の祖父母の財産の中から生活費を使い、又、それとは別に、母方の祖父は、母方の祖母に対し、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金を、お小遣いとして渡す方式でした。私の母方の祖父は、自分自身に関する、出費に関しては、とても、つましかった一方で、母方の祖母が、自分の物を買ったり・自分の楽しみの為に使ったりする金である、お小遣いに関しては、私の母方の祖母が、そのお小遣いを使う使わないに関わらず、かなりの金額を渡していた様です。

私の母は、常々、半分、からかいを含めて、私の母方の祖母に対して、「おばあちゃん、おじいちゃんに、お小遣い、たくさん貰っているんだから、自分の欲しい物買ったり、自分の楽しみの為に、じゃんじゃん(どんどん)、お金を使えば、いいじゃん(使えばいいでしょう)」と言ったような事を言っていたのですが、母方の祖母は、もちろんキメる時の服(フォーマルな服)等は、ちゃんと持っていましたが、あまり、お金を使わずに(普段の服等も質素で、普段の服等にも、あまり、お金を使わずに)、つましく、日々の、生活を送っていました。もっとも、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)は、自分の為に、よく(たくさん)買っていました。

私は、大の、おばあちゃん子でした。

私が社会人となり忙しくなる前は(私が幼い頃・子供の頃から大学生の頃までは)、母方の祖母の、一番の話し相手は(私の母方の祖母と、一番、たくさん話していたのは)、大の、おばあちゃん子であった私でした。2番目の話し相手は(私の母方の祖母と、2番目に、たくさん話していたのは)、近所に暮らしていた私の母方の祖母の姉で(私の母方の祖母の姉は、生前、よく、近所の私の実家(元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、妹である、私の母方の祖母と話していました)、私の母は、私の母方の祖母の、3番目の話相手と言った感じでした。その他、時々からたまに、私の母方の祖母の、学生時代からの、女性の親友が、家(私の実家。元々、私の母方の祖父母の家)に遊びに来て、私の母方の祖母と話をしていました。

私の母方の祖母は、結婚してからアルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦でしたし、私の母も、結婚してからは、アルバイトを含めて、一切の仕事をした事がない専業主婦です。

私の母は、もちろん家事もあったのですが、私の母方の祖母の姉の性格を受け継ぎ、絶えず動いていないと気が済まない活発な性格で、自分がやりたい事で、忙しいと言った感じで、基本的に、じっくりと、私の母方の祖母の話相手をするような事は、あまりしませんでしたが、私が、社会人となり忙しくなって、以前のように、私の母方の祖母の話相手を出来なくなってからは、さすがに、気を遣って、前に比べれば、相対的に、よく、私の母方の祖母の話相手をするようになりました。

私は、実生活の会話においては、女性の、悩み等を、共感しながら、じっくり聞いてあげると言う事は心掛けており、話相手が女性の場合、そうした事は、ある程度自然に身について、出来ていると思いますが、その様な、私の女性の(と言うか人の)話の、聞き上手と言った事に関して、私は、母方の祖母と、たくさん話をした(母方の祖母の話を、たくさん聞いた)と言う事を通じて、培われた、その事が、大いなる土台となったと思います。

私の母方の祖母からは、人の心を思いやる、優しい心と言う物を学びました。そこにいてくれるだけで、存在していてくれるだけで、皆の(少なくとも私の)、癒しとなり、優しい気持ちになれた、おばあちゃんで、そこにいてくれるだけで、存在していてくれているだけで、ありがたく、いつでも、幸せな気持ちになる事が出来ました。

私は、学生時代(高校・大学時代)、ピアス等をして外見を派手に飾り立てていて、街を歩けば、ホストのスカウトの声が掛かったりしていたのですがw、母方の祖母は、そんな私の外見とは関係なく、ずっと、私の中身を見続けてくれていて、私の母方の祖母にとって、私は、いつまで経っても、ずっと、可愛い孫のままでした。


私が、実家で、母方の祖母の部屋を訪れると、母方の祖母は、いつでも、満面の、温かく、嬉しそうな、優しい笑顔で迎えてくれました。そして、母方の祖母は、私が、一度、祖母の部屋に遊びに訪れると、時間が許す限り(いや、時間が許さなくても)、いつまでも、私にいて欲しいと言った感じで、私が適当に時間を見て、「じゃあ、おばあちゃん、そろそろ行くね」と言わない限り、祖母の部屋から出て来れずw、私の母方の祖母の方からは、絶対に、そろそろ、遊びに行っておいでとか、そろそろ、勉強があるんじゃないか等と言って、私に、そろそろ行ってもいいよと配慮するような事は、絶対にありませんでしたw


前述の通り、母方の祖母は、甘い物(お菓子等)が好きだったので、甘い物(お菓子等)を、自分の為に、よく(たくさん)買っていたのですが、母方の祖母は、その様な、自分の為に買った、甘い物を、自分の部屋で、私と、一緒に食べる・私と、分けて食べるのが、大好きでした。私は、その様な経験を通じて、大切な人と、美味しい物を、一緒に・分け合って(シェアして)、美味しいねと言い合いながら・美味しいと言う気持ちを共有しながら、食べる事は、とても幸せで、楽しい気分になると言う事を、学んだ気がします。

私が、母方の祖母の部屋を訪れた際の、祖母の、満面の優しい笑顔は、今でも、鮮明に、私の心の中に残っています。その一方において、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にあります。

私の母は、男の子は女性を助ける力強く優しい男性に育てなければならないと言う保守的な教育方針があって、私も私の弟も、母に、男は涙を見せるものではない、男は簡単に泣くようでは、女性を守れない等と言った内容の事を言われて、育てられて来たと言う影響もあり、私も実際に、その通りであると思い、私は、少なくとも、中学生以降は、自分自身に関する事で、泣いた(涙を流した)事は、一度もありません。まあ、そんな私も、悲しい映画とか、悲しいドラマとかには弱く、割と、涙もろいと言うか、割と、すぐ涙が出て来てしまう方なのですが(まあ、涙が出ると言うだけで、泣くと言う程ではない)w

私は、そもそも、子供の頃を含めて、号泣と言ったものは、ほとんどした事がないのですが(私の親(母)は、子供(私、及び、私の弟)が、子供の頃から高校生の頃、子供(私、及び、私の弟)の事を、物質的には、好き放題、甘やかせていた為、私と私の弟は、幼い頃・子供の頃から、自分が欲しい物の為に、駄々をこねると言った必要はありませんでしたw)、私は、大人になってから、と言うか中学生以降、号泣(しかも大号泣w)した事が、たった一度だけあります。

それが、母方の祖母の、お葬式の時です。私の、母方の祖母の、お葬式の時(私の母方の祖父は、既に亡くなっていました)、父は泣かず、母は、しくしく泣いて、私の2歳年下の弟も、しくしく泣いて、私だけ、号泣(しかも、恥ずかしげもなく、思わず、大号泣w)してしまいました。

前述の通り、私の母方の祖母は、生涯、世間知らずの田舎の裕福な家の箱入りのお嬢さん的な要素があった女性であり、生涯、窓際で、白馬の王子様が、自分を迎えに来るのを、待ち続ける、夢見る少女の様な面を持った女性でした。

母方の祖父は、良き(良い)夫でしたが、母方の祖母にとって、母方の祖父は、白馬の王子様としては、物足りない男性であった様ですw

前述の通り、私が社会人になった後は、忙しく、私の母方の祖母が亡くなるまで、たまにしか、私の母方の祖母の、話し相手を出来なくなってしまったのが、今でも、私の大きな、悔い・心残りとなって、心の中にありますが、私が、母方の祖母にとって、少しでも、白馬の王子になれていたとしたら良かったなと思います。

実は、(ここでは書ききれませんが)、私の母方の祖母の、お葬式の時、私が、ただの号泣ではなく、大号泣したのは、理由がありました。私の母方の祖母について、及び、私の母方の祖母に対する、私の思い等は、これだけでは書ききれない事から、また、まとめて、改めて、投稿しようと思っています。



私は、個人的に、小津  安二郎(ozu yasujiro)(日本の世界的に有名な映画監督の一人)の映画が好きなのですが、個人的に、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画の中でも、一番、好きな映画は、地味な映画ですが(と言うか、そもそも、小津  安二郎(ozu yasujiro)は、黒澤 明(kurosawa akira)(日本の世界的に有名な映画監督の一人)等と異なり、人々の日常を舞台とした、地味な映画を特徴とする、映画監督です)、「晩春(Late Spring)」(1949年)です。その理由の一つに、「晩春(Late Spring)」の登場人物達が、私の、身近な人々に重なると言うのがあります。笠 智衆(ryu chishu)と言う、日本の俳優が演じる、保守的で、つましい(質素な)、大学の教授は、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、亡くなった、私の母方の祖父に重なります。原 節子(harasetsuko)と言う日本の女優が演じる、大学教授の娘は、亡くなった、私の母方の祖母に重なります。原 節子(harasetsuko)が演じる、大学教授の娘の、元々、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子(女性)向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学校と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘(中流階級・中上流階級(upper-middle class)・上流階級の、家庭の娘)が通った)の同級生(同学年・同じクラス)である、親友の女性(月丘 夢路(tsukioka yumeji)と言う、日本の女優が演じています)は、我が家、及び、我が家の近所の実家の近所に暮らしていた、亡くなった、私の母方の祖母の姉の若い頃のイメージに重なります。





動画は、you tubeから借りて来た物。映画、「晩春(Late Spring)」の中で、好きな場面の一つです。動画は、6分程の動画です。結婚したくなく、いつまでも、父と一緒に暮らしたいと思っている、娘に対して、父が、ど正論に、どストレートに、理詰めで、お見合い相手の男性と、結婚するように、お説教・説得する場面です。前述の通り、笠 智衆(ryu chishu)と言う、日本の俳優が演じる、保守的で、つましい(質素な)、大学の教授は、誰に対しても、めったに怒らない穏やかな紳士であった、亡くなった、私の母方の祖父に重なります。また、前述の通り、私は大のおばあちゃん子で、私が実家で母方の祖母の部屋に遊びに訪れると母方の祖母はいつも満面の笑みで私を迎えてくれて、その母方の祖母の笑顔が今でも鮮明に記憶に残っているのですが、その母方の祖母の満面の笑顔と、小津  安二郎(ozu yasujiro)の映画の中の原 節子(harasetsuko)の笑顔のイメージが重なります。












以下、参考の投稿。
ボブの絵画教室(日本語)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2610488/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon
ボブの絵画教室(韓国語)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2610488/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

母方の祖父とカツカレーの思い出(日本語)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2616382/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon

母方の祖父とカツカレーの思い出(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2616382/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon

母方の祖父の男の意地(日本語)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2612459/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

母方の祖父の男の意地(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2612459/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

















私には、兄弟姉妹は、2歳年下の弟が一人います。私の弟は、外資系の会社員で、既に、結婚をし、(まだ、二人共、幼いですが)子供が2人いて(男の子(上)が1人と、女の子(下)が1人。女の子は、一昨年、生まれたばかり)、弟の家族(妻・子供)と共に、東京の西部郊外の、静かで落ち着いた住宅地に買った、一戸建て住宅に、暮らしています。

私の弟に関しては、以下の投稿を、参照して下さい。

80年代の音楽の思い出後編(日本語)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2636407?&sfl=membername&stx=jlemon
80年代の音楽の思い出後編(韓国語)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2636407?&sfl=membername&stx=jlemon





前述の通り、私は、男兄弟二人の兄として育った関係からか、私は、男性との友人関係として、兄的な雰囲気の関係になる場合もあります(もちろん、いつもそうであると言う訳では全くありません)。



以下の私の高校時代の親友の一人の話は、以下の投稿から抜粋して来た物です。
ボーイズラブに見える?関係(日本語)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2637417?&sfl=membername&stx=jlemon
ボーイズラブに見える?関係(韓国語)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2637417?&sfl=membername&stx=jlemon





神聖かまってちゃん(Shinsei Kamattechan)-「イマドキの子」(2017年)。私は、歩く時に、背筋を伸ばしてスマートに(美しく)歩くと言う事に関しては、いつ頃から意識し始めたのか記憶が曖昧ですが、少なくとも高校1年生の時には、既に意識していました。調度、このMVに出て来る、高校生の男の子のような感じ。。。まあ、このMVの高校生の男の子は、スマートに(美しく)歩くと言う程ではないですが、まあ、実は、私も、高校生の頃は、スマートに(美しく)歩くと言う事を明らかに意識してと言う程ではなかったのですが、少なくとも、高校1年生の頃からは、学校内外の、女子達(女の子達)に見られていると言う事を意識して歩いていました。














幸いな事に、私のような駄目人間でも、何故だか不思議と優しい女性達は、昔から(幼稚園児位の頃から)、私の事を、よく構ってくれましたw



(まあ、小学生の頃から、その様な事はあったのですが)、中学・高校に入学した時、また、中学や高校のクラス替えの時等に、よく、クラスの女子達のグループが、はにかみながら、私の席、又は、廊下で、私を囲んで、私に、「誕生日は、いつですか?」とか「好きな食べ物は、何ですか?」とか、英語の授業の時の私の発音から、「帰国子女なのですか?」と言った感じのインタビューをしましたw また、私は、自分の事を、普通の、ソース顔の日本人だと思っているのですが、「ハーフなんですか?」とか「外国人の血が混じっているのですか?」とか聞かれる事もありました。すぐ打ち解けて、タメ語になるのですが、同い年・同学年なのに、何故か、いつも、最初は、敬語で質問されましたw(ちなみに、私は、20代の初めまでは、実年齢よりも上に見られ、20代の後半頃からは、実年齢よりも下に見られるようになったのですが、それが、関係しているのかもしれませんw)。



また、私の実家は、普通の中流の家庭なのですが、私は、中学や高校の頃、何故だか、女子達に、玄関から家の建物が見えないような邸宅に暮らすような、金持ちの、お坊ちゃんに、勝手に、勘違いされる事が、よくありましたw

東京都庁を見学した際、都議会議事堂を見て、女の子に、「○○君の家って、こんな感じ?」と言われた事もあります。ちなみに、都議会議事堂は、こんな感じです→
http://www.yokoso.metro.tokyo.jp/kengaku/img/img_gijyou2.jpg

勝手に、妄想を膨らまして貰っては困る。普通の中流の家だって!と言った感じですw




私の叔父(父の弟)(身長は、180cmの長身)は、私の父と違って(私の父は、叔父と同様、外貌は、どちらかと言えば、ガリ勉タイプの人(勉強を非常に熱心にする人)とは、正反対の外貌と言った感じなのですが、中学校時代・高校時代に、(勉強ばかりしていたと言う訳ではなかった様ですが)、とても真面目に、熱心に勉強した様です)、勉強は、ほとんどせず、私の父と違って勉強は、全く、出来なかったようですが、運動が、とても得意で(ちなみに、高校の頃、学校のバスケットボール(basketball)clubに所属していたそうです)、私の父方の祖母や私の父の話によると、高校の時、数々の、地元の伝説を作るくらいw、学校内、及び、学校外の、女子高生達に、モテていた(人気があった)そうですが、その、私の叔父(父の弟)の、高校時代の、誇張された?モテ伝説の一つに、学校の、靴の下駄箱に収まり切らない、女子達からのラブレターが、下駄箱から溢れ出て、床に、こぼれ落ちていたと言う物がありますw

私は、そんな、私の叔父(父の弟)の、誇張された?モテ伝説には、遥かに及びませんがw、中学時代や高校時代に、女子達から、ラブレターは、貰っていました。

自分が好意を抱いていない女性に告白されると言う事は、多くの確率において、他人(告白した女性)の心を傷つける可能性を背負わされる事を意味します。したがって、そうした事については、いい加減な気持ちで対処するのではなく、(はっきりと断ると言う事も含めて)、真摯な気持ちで対処しなければならないと思っています。

私は、女性に告白された場合(付き合って下さいと言われた場合)、これから先、自分が交際する程の好意を抱く可能性がないと思う女性に対しては、出来るだけ誠実に、はっきりと断って来ました。

また、女性に告白された場合(付き合って下さいと言われた場合)において、これから先、その女性に、自分が交際する程の好意を抱く可能性が、あるかもしれないと言う女性に関しては、一旦、返事を保留し、何回かデートしてみる場合もありますが、それでも、自分が交際する程の好意を抱く可能性がないと思われた場合は、出来るだけ誠実に、はっきりと断って来ました。

当時、告白の手紙に関しては、はっきりと断ると言う事で対処していましたが、中には対処に困る手紙もありました。そうした対処に困った手紙の一つに、ある女の子から、定期的に、その女の子の自作の詩を書いた手紙を貰った事があります。詩の内容は、恋愛や告白を、ほのめかすような内容の物が多かったのですが、明確に、私に告白すると言った内容ではなく、また、その詩の良さも、よく分からず、対処に困りました。結局、手紙は受け取るが、詩の感想は言わずに、「ああ、読んだよ」と言った感じで、出来るだけ、冷たく、無感情に対応していたら、その内、手紙をくれなくなりました。どうして良いのか分からなかったのですが、まあ、個人的には、その対処がベストであったのかなと、今でも、思っています。






以下、私の、高校時代の親友の一人の話で、私の学校内の友達(以下、その親友と書きます)の話です。



その親友は、当時、身長は、私よりも少し低く、174cm位で、痩せ型の、ほっそりとした体型で、色白の、ジャニーズ系の顔立ちの、イケメンでした。

その親友と私が知り合ったのは、私が高校1年生の時、その親友と同じクラスになり、(私が、クラスの女子達から、インタビューを受けていた頃w)、その親友が、男子の友達も女子の友達も出来ず、クラスの中で、浮いている感じで、独りぼっちな感じであった事から、寂しいかな?と思って、私が、彼に話しかけた事です。

それを、きっかけに、すぐに二人は、親しくなり、その親友は、何て事ない、人見知りが激しい性格なだけであって、私と二人で、過ごしている内に、どんどん、明るくなって行きました。

また、その親友は、何てことない、私と同じで、女好きの男で、又、私と同じで、幼稚園児位の頃から、女子・女性達に、よく構って貰うタイプの男性で、(まあ、その親友は、私と違って、クラスの女子達から、インタビューを受けるような事はありませんでしたがw)、まあ、高校生当時、学校内でも、アルバイト先でも、女子達から、次から、次へと、アプローチを受けて、(私は、高校生の時、二股以上かけて、女の子と交際したりしていましたが)、その親友も、だいたい、二股かけて、女の子と交際したり、浮気をしたりしていましたw

私と、その親友は、学校で、それぞれの、(学校内の)彼女と、よく二人きりで、過ごしたり、よく二人きりで昼食を食べたりする一方で、よく、私と、その親友の、男同士の二人で、過ごしたり、一緒に、昼食を食べたりもしていました。

私は性格が猫又は極端に言えば一匹狼で、昔から、人付き合いに関して、集団・群れるというよりも個人対個人・集うと言った付き合いを好みます。その事もあって、中学・高校時代は部活に縛られない帰宅部を選択したのですが、私の弟も、その影響を受けました。

私は、高校生の時は、放課後は女の子・女の子達や私と同じチャラチャラした男友達達と遊ぶのに忙しく(渋谷でよく遊んでいました)、クラブ等での夜遊びや合コンもたくさんしていました。

私の弟は、高校の頃、サーフィン(surfing)や、スケートボード(skateboarding)、スノーボード(snowboarding)を、よく、やっていて、アウトドア派でしたが、私は、基本、インドア派でした。私の場合、インドア派と言っても、人と過ごすインドアで、交際している女の子・親密な女の子との放課後のカラオケボックスでのカラオケ(渋谷のカラオケボックスをよく利用していました)、交際している女の子・親密な女の子との放課後のラブホテルのご休憩(エッチ)(渋谷周辺のラブホテルをよく利用していました)、放課後に交際している女の子と家(実家)の自分の部屋でテレビゲームをして遊ぶ事、放課後に交際している女の子の家(実家)に遊びに行き交際している女の子の部屋で過ごす事、合コン、クラブでの夜遊び等と言った物です。

ちなみに、その親友は、当時、私と違って、夜遊びをするようなタイプでは全くなく、私にとって、基本的に、学校内限定の友人と言った感じで、その親友とは、基本的には、学校外では、一緒に、遊ぶ事はありませんでしたが、学校内においては、クラスが変わっても、前述の通り、よく、休み時間に、二人で過ごしたり、二人で、昼食を取ったり、また、その親友は、運動が割と得意でしたが、読書家であり、本を読むのが好きであり、私も、読書家と言う程ではありませんが、高校生の頃、本を読むのは、割と好きな方であったので、二人で、図書室で過ごしたりしていました。

私の高校生の時の昼食については、以下の投稿を、参照して下さい。
母の、お弁当(bento)(日本語)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2637418?&sfl=membername&stx=jlemon

母の、お弁当(bento)(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2637418?&sfl=membername&stx=jlemon



私と、その親友は、同学年(同い年)であったのですが、二人で過ごしている時、その親友には、私は、何となく、兄的な感じで、頼りにされている感じで、私も、その親友に対して、何となく、お兄さん的な態度で接していました。ちなみに、その親友には、兄弟姉妹は、姉が一人いました。前述の通り、その親友とは、基本的には、学校外では、一緒に、遊ぶ事はありませんでしたが、何度か、その親友の家に、遊びに訪れた事があり、その親友の、お姉さんと会った事もありましたが、美人な、お姉さんでした。

その親友は、その内、学校内において、その親友に憧れる男子達の取り巻きが付き、その親友は、その取り巻きの男子達((イケメンで女子達にモテモテの)その親友に憧れる、その親友の、太鼓持ち的な男子達)から、「王子」と言う、あだ名で、呼ばれるようになりましたw

私は、学校で(高校で)、その親友と、二人で、昼食を食べている時に、その親友が、私の顔を見て、私に、「口の周りに、食べ物の汚れがついているよ」と言って、私が、その親友に、「とって!」と言って、その親友に、(その親友の)指で、私の口の周りの汚れを拭わせるなんて、やり取りもしたりしていましたw(その親友は、「何だよ」と言いながらも、笑いながら私の指示に従っていましたw)。 私は、聖人君子(完璧な人間)ではないので、私は、当時、まだ青くて、その親友に、その様な行為をさせるのは、「王子」にその様な事をさせる事によって、私の優越感を満たし、楽しんでいた(遊んでいた)と言った面もありましたw

私は、ボーイズラブについては、全く詳しくなくて、どんな物だか、全く分からないのですが、もしかしたら、当時、私と、その親友は、学校内の女子から見て、一見、ボーイズラブ的な関係に見えるような事もあったかもしれませんw 実は、私も、その親友も、二人共、女好きの男で、二股かけて、女の子と交際したり、浮気したりして、やる事は、しっかりとやっていたw、チャラチャラした、女好きの男子高校生であったのですがw




シャイなのに/兄的な性格3へ続く。。。


シャイなのに/兄的な性格3は、以下です。


シャイなのに/兄的な性格3(日本語)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2640462?&sfl=membername&stx=jlemon

シャイなのに/兄的な性格3(韓国語)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2640462?&sfl=membername&stx=jlemon








수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 2


이 투고의, 동영상·곡은, you tube로부터 빌려 온 것입니다.



과거의, 나의, 님 들인 투고·레스중에서, 발췌해 온 투고입니다.


수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 1으로부터의 계속입니다.


수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 1은, 이하입니다.


수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 1(일본어)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2640464?&sfl=membername&stx=jlemon
수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 1(한국어)→

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도쿄도심부의 서부의, 조용하고 침착한 주택지에 있는, 우리 집의 부근의, 나의 친가는, 부지면적 100평 정도( 약 330평방 m)의, 뜰이 있다, 독립주택입니다(덧붙여서, 우리 집은, 좁은 토지에 3층건물의(1층 부분의 반 정도가 주차장의), 거주 바닥 면적 30평( 약 100평방 m) 정도의 뜰이 없는, 지가가 비싼, 도쿄 중심부(도쿄 23구)의, 전형적인, 비교적, 새로운, 서민 전용의, 독립주택입니다).나의 친가는, 원래, 나의 외가의 조부모의 집에서, 현재는, 부모님이, 그 집을 계승하고 있습니다(덧붙여서, 나의 어머니는, 외동딸입니다).원래는, 나의 외가의 조모의 아버지(시골의, 유복한 지주였다.제이차 세계대전 후에는, (아마) 농지 개혁에 의해 몰락했다)가, 도쿄에 보유하고 있던 부동산의 하나인 것으로( 나의 외가의 조모의 아버지가, 나의 외가의 조모가 결혼했을 때에, 나의 외가의 조부모에게 준 것.당시의 중류 계급의 독립주택으로서 작은 분이었다고 생각합니다), 원래의 집의 건물은, 1920년대무렵?에 지어진, 일본 전통식의 주택의 건물이었다 님입니다만, 현재의 집의 건물은, 1960년대 초 무렵에, 형태 `섭요 얻을 수 있던 것입니다(현재는, 내진 보강도 이루어지고 있습니다).

덧붙여서, 이미, 외가의 조부모 모두 죽습니다.


나의 외가의 조모는, (대학에서 도쿄로 나왔지만), 생애, 철부지의 시골의 유복한 집의 규중의 아가씨적인 요소가 있던 여성입니다.


나의 외가의 조모는, 도쿄에서의 학생시절·독신 시대, 나의 외가의 조모의 아버지가, 도쿄의 아자부(azabu)(도쿄도심부의 고급 주택지의 하나)에 보유하고 있던 도쿄의 별택에 살고 있었다고 합니다.나의 외가의 조모의 아버지는, 당시 , 도쿄 및 그 교외(현재의 도쿄 23 구내)에, 몇개의, 토지와 집을 보유해, 사람에게 빌려 주거나 또, 용무가 있고, 도쿄에 나올 때의, 체재지등으로서 사용하거나 하고 있었습니다만, 그 안의 하나가, ( 나의 외가의 조모가, 맞선에 의해서, 나의 외가의 조부와 결혼했을 때에) 나의 외가의 조부모에게, 주어졌습니다.이것이, 먼저 설명한, 내가, 태어나 자란 우리 집의 부근의 친가입니다(상술한 대로, 집의 건물은, 내가 태어나기 전에 다시 세워지고 있습니다).삼베(azabu)의 집은, 이것보다, 훨씬 크고, 훌륭했다고 합니다만, 제2차 세계대전 후, 타인의 손에 건너 섬?`치 싶다고 합니다( 나의 외가의 조모의 친가는, 전후, 서서히, 몰락해서 간 님입니다.현재도, 일단, 조금은, 훌륭한 집에 살고 있는 것 같습니다만...).

나의 외가의 조모는, 맞선( 나의 외가의 조모의 아버지( 나의 외가의 증조부)의 아는 사람의 소개)에 의해, 나의 외가의 조부와 알게 되어, 결혼했습니다.나의 외가의 조모는, 나의 외가의 조부와 결혼하고 나서, 쭉 주부를 하고 있었습니다.무엇보다, 나의 외가의 조모는, 제이차 세계대전이 끝날 때까지는, 도쿄에서의, 학생시절·독신 시대를 포함하고, 쭉, 메이드(maid)가 있는(메이드(maid)에게 신변을 돌봐 받는다) 생활이었으므로, 주부라고는 해도, 나의 외가의 조모가, 태어나고 처음으로, 본격적으로 가사를 하는 것처럼 된 것은, 제이차 세계대전 후부터에서 만난 님입니다.


나의, 외가의 조모는, 얌전하고, 품위있는 성격이었습니다만, 나의 어머니의 활발한 성격은, 나의 외가의 조모의 언니(누나)( 나의 어머니의, 나의 어머니와 동년대의, 여성의, 사촌의 어머니.이미 죽습니다)를 닮아 있습니다.나의 어머니는, 어릴 적부터, 자주(잘), 근처의, 나의 어머니의, 여성의, 사촌의 집에 놀러 가고 있었습니다.덧붙여서, 반대로, 나의 어머니의, 여성의, 사촌은, 성격은, 상품?`나, 대범하고 의젓하고 있고, 얌전한 성격으로, 성격은, 나의 외가의 조모를 닮아 있습니다(덧붙여서, 나의 어머니의, 여성의, 사촌도, 어릴 적·어릴 적, 나의 어머니의 집(우리 집의 부근의 나의 친가)에, 자주(잘), 놀러 와있던 님입니다).

나의 외가의 조모는, (대학에서 도쿄로 나왔지만), 생애, 철부지의 시골의 유복한 집의 규중의 아가씨적인 요소가 있던 여성입니다.나의 외가의 조모는, 도쿄의 A학원 대학이라고 말하는, 크리스트교계의 대학( 나의 외가의 조모가, 졸업했을 때는, 그 전신의 고등교육 기관이었지만)을 졸업한 후, 도쿄의 크리스트교의 교회에 취직했지만, 머지 않아, 나의 외가의 조부와 결혼, 조부와 결혼한 다음은, 아르바이트를 포함하고, 모두, 일한 일이 없는, 전업 주부이며, 인생에 대하고, 거의 사회인이라고 하는 것을 경험한 일이 없는 채 돌아가셨습니다.나의 외가의 조모는, 생애, 창가에서, 백마의 왕자님이, 자신을 마중 나오는 것을, 계속 기다리는 , 꿈꾸는 소녀와 같은 면을 가진 여성이었습니다.나의 외가의 조모는, 맞선( 나의 외가의 조모의 아버지( 나의 외가의 증조부)의 아는 사람의 소개)에 의해, 나의 외가의 조부와 알게 되어, 결혼했습니다.외가의 조부는, 좋은(좋다) 남편이었지만, 외가의 선조 어머니에게 있어서, 외가의 조부는, 백마의 왕자님으로서는, 어딘지 부족한 남성인 님입니다 w




죽은, 나의 외가의 조모가, 가장, 좋아함 , 일러스트레이터는, 후키곡홍아(fukiyakoji)입니다.

나의 외가의 조모는, 죽구 꿈2(takehisa yumeji) 등이나 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 님입니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 생애, 후키골짜기 홍아(fukiya koji)와 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).


후키골짜기 홍아(fukiya koji)에 관해서는, 이하의 투고를, 참조해 주세요.


후키곡홍아(조모를 좋아함 삽화 화가)(일본어)→

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후키곡홍아(조모를 좋아함 삽화 화가)(한국어)→

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나의 외가의 조부모가 살아 있었을 때는, 나의 친가의 재산의 계통은, 나의 외가의 조부모( 나의 어머니의 부모님)의 계통과 나의 부모님의 계통으로 나누어져 각각, 관리 권한은, 구별이 되고 있었습니다.

나의 외가의 조부모의 재산의 관리 권한은, 생활비도 포함하고, 나의 외가의 조부가, 모두 관리를 실시해, 외가의 조모는, 외가의 조부의 관리아래에서, 외가의 조부모의 재산중에서 생활비를 사용해, 또, 그것과는 별도로, 외가의 조부는, 외가의 조모에 대해, 외가의 조모가, 자신의 물건을 사거나·자신의 즐거움을 위해 사용하거나 하는 돈을, 용돈으로서 건네주는 방식이었습니다.나의 외가의 조부는, 자기 자신에 관한, 지출에 관해서는, 매우, 검소했던 한편, 외가의 조모가, 자신의 물건을 사거나·자신의 즐거움을 위해 사용하거나 하는 돈인, 용돈에 관해서는, 나의 외가의 조모가, 그 용돈을 사용하는 사용하지 않는 관련되지 않고, 상당한 금액을 건네주고 있던 님입니다.

나의 어머니는, 상들, 반, 때문인지 있어를 포함하고, 나의 외가의 조모에 대해서, 「할머니, 할아버지에게, 용돈, 많이 받고 있기 때문에, 자신 의 갖고 싶은 것 사거나 자신의 즐거움을 위해, 척척(자꾸자꾸), 돈을 사용하면, 좋잖아(사용하면 좋을 것입니다)」라고 한 것 같은 일을 말했습니다만 , 외가의 조모는, 물론 살결시의 옷(포멀한 옷) 등은, 제대로 가지고 있었습니다만, 너무, 돈을 사용하지 않고 (평상시의 옷등도 검소하고, 평상시의 옷등에도, 너무, 돈을 사용하지 않고 ), 검소하고, 나날의, 생활을 보내고 있었습니다.무엇보다, 외가의 조모는, 단 것(과자등 )을 좋아했기 때문에, 단 것(과자등 )은, 자신을 위해, 잘(많이) 사고 있었습니다.

나는, 대단한, 할머니자였습니다.

내가 사회인이 되어 바빠지기 전은(내가 어릴 적·어릴 적부터 대학생의 무렵까지는), 외가의 조모의, 제일을 이야기 해 상대는( 나의 외가의 조모와 제일, 많이 이야기하고 있던 것은), 대단한, 할머니자인 나였습니다.2번째의 대화 상대는( 나의 외가의 조모와 2번째에, 많이 이야기하고 있던 것은), 근처에 살고 있던 나의 외가의 조모의 언니(누나)로( 나의 외가의 조모의 언니(누나)는, 생전, 자주(잘), 근처의 나의 친가(원래, 나의 외가의 조부모의 집)에 놀러 오고, 여동생인, 나의 외가의 조모와 이야기하고 있었습니다), 나의 어머니는, 나의 어머니 분의 조모의, 3번째의 이야기 상대라고 한 느낌이었습니다.그 외, 가끔으로부터 이따금, 나의 외가의 조모의, 학생시절부터의, 여성의 친구가, 집( 나의 친가.원래, 나의 외가의 조부모의 집)에 놀러 오고, 나의 외가의 조모와 이야기를 하고 있었습니다.

나의 외가의 조모는, 결혼하고 나서 아르바이트를 포함하고, 일절의 일을 한 일이 없는 전업 주부였고, 나의 어머니도, 결혼하고 나서는, 아르바이트를 포함하고, 일절의 일을 한 일이 없는 전업 주부입니다.

나의 어머니는, 물론 가사도 있었습니다만, 나의 외가의 조모의 언니(누나)의 성격을 계승해, 끊임 없이 움직이지 않았다고 기분이 내키지 않는 활발한 성격으로, 자신이 하고 싶은 일로, 바쁘다고 한 느낌으로, 기본적으로, 차분히, 나의 외가의 조모의 이야기 상대를 하는 일은, 그다지 하지 않았습니다만, 내가, 사회인이 되어 바빠지고, 이전과 같이, 나의 외가의 조모의 이야기 상대를 할 수 없게 되고 나서는, 과연, 배려를 하고, 전에 비하면, 상대적으로, 자주(잘), 나의 외가의 조모의 이야기 상대를 하게 되었습니다.

나는, 실생활의 회화에 대해서는, 여성의, 고민등을, 공감하면서, 차분히 (들)물어 준다고 하는 일은 유의하고 있어 이야기 상대가 여성의 경우, 그러한 일은, 있다 정도 자연 에 몸에 대해서, 되어있다고 생각합니다만, 그 님, 나의 여성의(라고 할까 사람의) 이야기의, 잘 듣기라고 한 것에 관해서, 나는, 외가의 조모와 많이 이야기를 했다(외가의 조모의 이야기를, 많이 (들)물었다)라고 하는 것을 통해서, 길러진, 그 일이, 커다란 토대가 되었다고 생각합니다.

나의 외가의 조모에게서는, 사람의 마음을 배려하는, 상냥한 마음이라고 하는 것을 배웠습니다.거기에 있어 주는 것만으로, 존재하고 있어 주는 것만으로, 모두의(적어도 나의), 위안이 되어, 상냥한 기분이 될 수 있던, 할머니로, 거기에 있어 주는 것만으로, 존재하고 있어 주고 있는 것만으로, 고맙게, 언제라도, 행복한 기분이 될 수가 있었습니다.

나는, 학생시절(고교·대학시절), 피어스등을 해 외관을 화려하게 성장하고 있고, 거리를 걸으면, 호스트의 스카우트의 소리가 걸리거나 하고 있었습니다만 w, 외가의 조모는, 그런 나의 외관과는 관계없이, 쭉, 나의 내용을 계속 봐 주고 있고, 나의 외가의 조모에게 있어서, 나는, 언제까지 지나도, 쭉, 귀여운 손자인 채였습니다.


내가, 친가에서, 외가의 조모의 방을 방문하면, 외가의 조모는, 언제라도, 만면의, 따뜻하고, 기쁜 듯한, 상냥한 웃는 얼굴로 맞이해 줘?`와 했다.그리고, 외가의 조모는, 내가, 한 번, 조모의 방에 놀이에 방문하면, 시간이 허락하는 한(아니, 시간이 허락하지 않아도), 언제까지나, 나에게 있었으면 좋겠다고 한 느낌으로, 내가 적당하게 시간을 보고, 「자, 할머니, 이제 가는군」이라고 하지 않는 이상 조모의 방에서 나오고 오지 못하고 w, 나의 외가의 조모로부터는, 반드시, 이제, 놀러 가 둬라든지, 이제, 공부가 있다 응이 아닌가 등이라고 말하고, 나에게, 이제 가도 괜찮아와 배려하는 일은, 절대로 없었습니다 w


상술한 대로, 외가의 조모는, 단 것(과자등 )을 좋아했기 때문에, 단 것(과자등 )을, 자신을 위해, 잘(많이) 사고 있었습니다만, 외가의 조모는, 그 님, 자신을 위해 산, 단 것을, 자신의 방에서, 나와 함께 먹는· 나와 나누어 먹는 것이, 정말 좋아했습니다.나는, 그 님경험을 통해서, 소중한 사람과 맛있는 것을, 함께·서로 나누고 (쉐어 하고), 맛있다서로 라고 말하면서 ·맛있다고 하는 기분을 공유하면서, 먹는 일은, 매우 행복하고, 즐거운 기분이 된다고 하는 일을, 배운 것 같습니다.

내가, 외가의 조모의 방을 방문했을 때의, 조모의, 만면의 우 해 있어 웃는 얼굴은, 지금도, 선명히, 나의 마음 속에 남아 있습니다.그 한편에 있고, 내가 사회인이 된 다음은, 바쁘고, 나의 외가의 조모가 돌아가실 때까지, 이따금 밖에, 나의 외가의 조모의, 대화 상대를 할 수 없게 되어 버린 것이, 지금도, 나의 큰, 후회해·유감이 되고, 마음 속에 있습니다.

나의 어머니는, 사내 아이는 여성을 돕는 강력하고 상냥한 남성에게 기르지 않으면 안 된다고 하는 보수적인 교육 방침이 있고, 나도 나의 남동생도, 어머니에게, 남자는 눈물을 보이는 것은 아닌, 남자는 간단하게 울어서는 여성을 지킬 수 없는 등이라고 한 내용의 일을 듣고, 자라 왔다고 하는 영향도 있어, 나도 실제로, 그 대로이다고 생각, 나는, 적어도, 중학생 이후는, 자기 자신에 관한 일로, 운(눈물을 흘린) 일은, 한번도 없습니다.뭐, 그런 나도, 슬픈 영화라든지, 슬픈 드라마라든지에는 약하고, 생각보다는, 눈물이 많다고 하는지, 생각보다는, 곧 눈물이 나와 버리는 편입니다만(뭐, 눈물이 나온다고 하는 것만으로, 운다고 할 정도가 아니다) w

나는, 원래, 어릴 적을 포함하고, 통곡이라고 말한 것은, 거의 한 일이 없습니다만( 나의 부모(어머니)는, 아이( 나, 및, 나의 남동생)가, 어릴 적부터 고교생의 무렵, 아이( 나, 및/`A 나의 남동생)의 일을, 물질적이게는, 자기 마음대로, 응석을 받아 줄 수 있고 있던 때문, 나와 나의 남동생은, 어릴 적·어릴 적부터, 자신을 갖고 싶은 것을 위해, 타들을 반죽한다고 말한 필요는 없었습니다 w), 나는, 어른이 되고 나서, 라고 할까 중학생 이후, 통곡(게다가 대통곡 w) 한 일이, 딱 한번 만일 수 있는 있어요.

그것이, 외가의 조모의, 장례식때입니다.나의, 외가의 조모의, 장례식때( 나의 외가의 조부는, 이미 죽었습니다), 아버지는 울지 않고, 어머니는, 훌쩍훌쩍 울고, 나의 2세 연하의 남동생도, 훌쩍훌쩍 울고, 나만, 통곡(게다가, 수치않다 기울 수 있는도 없고, 무심코, 대통곡 w) 해 버렸습니다.

상술한 대로, 나의 외가의 조모는, 생애, 철부지의 시골의 유복한 집의 규중의 아가씨적인 요소가 있던 여성이며, 생애, 창가에서, 백마의 왕자님이, 자신을 마중 나오는 것을, 계속 기다리는 , 꿈꾸는 소녀와 같은 면을 가진 여성이었습니다.

외가의 조부는, 좋은(좋다) 남편이었지만, 외가의 조모에게 있어서, 외가의 조부는, 백마의 왕자님으로서는, 어딘지 부족한 남성인 님입니다 w

상술한 대로, 내가 사회인이 된 다음은, 바쁘고, 나의 외가의 조모가 돌아가실 때까지, 이따금 밖에, 나의 외가의 조모의, 대화 상대 (을)를 할 수 없게 되어 버린 것이, 지금도, 나의 큰, 후회해·유감이 되고, 마음 속에 있습니다만, 내가, 외가의 조모에게 있어서, 조금이라도, 백마의 왕자가 있었다고 하면 좋았다라고 생각합니다.

실은, (여기에서는 끝까지 쓸 수 없습니다만), 나의 외가의 조모의, 장례식때, 내가, 단순한 통곡이 아니고, 대통곡 한 것은, 이유가 있었습니다.나의 외가의 조모에게 대해서, 및, 나의 외가의 조모에 대한, 나의 생각등은, 이것만으로는 끝까지 쓸 수 없는 것으로부터, 또, 정리하고, 재차, 투고하려고 생각합니다.



나는, 개인적으로, 오즈 야스지로우(ozu yasujiro)(일본의 세계적으로 유명한 영화 감독의 한 명)의 영화를 좋아합니다만, 개인적으로, 오즈 야스지로(ozu yasujiro)의 영화 중(안)에서도, 제일, 좋아하는 영화는, 수수한 영화입니다만(라고 말하는지, 원래, 오즈 야스지로(ozu yasujiro)는, 쿠로자와 명(kurosawa akira)(일본의 세계적으로 유명한 영화 감독의 한 명) 등과 달리, 사람들의 일상을 무대로 한, 수수한 영화를 특징으로 하는, 영화 감독입니다), 「만춘(Late Spring)」(1949년)입니다.그 이유의 하나로, 「만춘(Late Spring)」의 등장 인물들이, 나의, 친밀한 사람들과 겹쳐진다고 하는 것이 있어요.삿갓 노리토모(ryu chishu)라고 말하는, 일본의 배우가 연기하는, 보수적이고, 검소한(검소한), 대학의 교수는, 누구에 대해서도, 좀처럼 화내지 않는 온화한 신사인, 죽은, 나의 외가의 조부과 겹쳐집니다.원 세츠코(harasetsuko)라고 하는 일본의 여배우가 연기하는, 대학교수의 딸(아가씨)는, 죽은, 나의 외가의 조모과 겹쳐집니다.원 세츠코(harasetsuko)가 연기하는, 대학교수의 딸(아가씨)의, 원래, 여학교(제이차 세계대전 이전의 일본에 있어서의, 여자(여성) 보내의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학교와 고등학교에 해당된다.제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)(중류 계급·나카가미류계급(upper-middle class)·상류계급의, 가정의 딸(아가씨))가 다녔다)의 동급생( 동학년·같은 클래스)인, 친구의 여성(월구꿈길(tsukioka yumeji)라고 말하는, 일본의 여배우가 연기하고 있습니다)는, 우리 집, 및, 우리 집의 부근의 친가의 부근에 살고 있던, 죽은, 나의 외가의 조모의 언니(누나)의 젊은 무렵의 이미지과 겹쳐집니다.




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동영상은, you tube로부터 빌려 온 것.영화, 「만춘(Late Spring)」 중(안)에서, 좋아하는 장면의 하나입니다.동영상은, 6분 정도의 동영상입니다.결혼하고 싶지 않고, 언제까지나, 아버지와 함께 살고 싶다 , 딸(아가씨)에 대해서, 아버지가, 정론에, 스트레이트하게, 이치따지기로, 맞선 상대의 남성과 결혼하도록(듯이), 설교·설득하는 장면입니다.상술한 대로, 삿갓 노리토모(ryu chishu)라고 말하는, 일본의 배우가 연기하는, 보수적이고, 검소한(검소한), 대학의 교수는, 누구에 대해서도, 좀처럼 화내지 않는 온화한 신사인, 죽은, 나의 외가의 조부과 겹쳐집니다.또, 상술한 대로, 나는 대단한 할머니자로, 내가 친가에서 외가의 조모의 방에 놀이에 방문하면 외가의 조모는 언제나 만면의 미소로 나를 맞이해 주고, 그 외가의 조모의 웃는 얼굴이 지금도 선명히 기억에 남아 있습니다만, 그 외가의 조모의 만면의 웃는 얼굴과 오즈 야스지로(ozu yasujiro)의 영화의 나카노하라 세츠코(harasetsuko)의 웃는 얼굴의 이미지가 겹칩니다.












이하, 참고의 투고.
보브의 회화 교실(일본어)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2610488/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon
보브의 회화 교실(한국어)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2610488/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

외가의 조부와 커틀릿 카레의 추억(일본어)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2616382/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon

외가의 조부와 커틀릿 카레의 추억(한국어)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2616382/page/3?&sfl=membername&stx=jlemon

외가의 조부의 남자의 고집(일본어)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2612459/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

외가의 조부의 남자의 고집(한국어)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2612459/page/4?&sfl=membername&stx=jlemon

















나에게는, 형제 자매는, 2세 연하의 남동생이 한 명 있습니다.나의 남동생은, 외자계의 회사원으로, 이미, 결혼을 해, ( 아직, 두 명모두, 어립니다만) 아이가 2명 있어(사내 아이(위)가 1명으로 여자 아이(아래)가 1명.여자 아이는, 재작년, 태어났던 바로 직후), 남동생의 가족(아내·아이)과 함께, 도쿄의 서부 교외의, 조용하고 침착한 주택지에 산, 독립주택에, 살고 있습니다.

나의 남동생에 관해서는, 이하의 투고를, 참조해 주세요.

80년대의 음악의 추억 후편(일본어)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2636407?&sfl=membername&stx=jlemon
80년대의 음악의 추억 후편(한국어)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2636407?&sfl=membername&stx=jlemon





상술한 대로, 나는, 남자 형제 두 명의 형(오빠)로서 자란 관계때문인지, 나는, 남성과의 친구 관계로서 형(오빠)적인 분위기의 관계가 되는 경우도 있습니다(물론, 언제나 그렇다라고 말하는 것이 전혀 없습니다).



이하의 나의 고교시절의 친구의 한 명의 이야기는, 이하의 투고로부터 발췌해 온 것입니다.
보이즈 러브로 보여?관계(일본어)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2637417?&sfl=membername&stx=jlemon
보이즈 러브로 보여?관계(한국어)→
/kr/board/exc_board_8/view/id/2637417?&sfl=membername&stx=jlemon




<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube-nocookie.com/embed/sEsIK-aTSko?rel=0" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>
신성한가 기다려(ShinseiKamattechan)-「현제의 아이」(2017년).나는, 걸을 때에, 등골을 펴 스마트하게(아름답게) 걷는다고 하는 일에 관해서는, 언제쯤부터 의식하기 시작했는지 기억이 애매합니다만, 적어도 고교 1 학년때에는, 이미 의식하고 있었습니다.세간, 이 MV에 나오는, 고교생인 사내 아이와 같이 느껴...뭐, 이 MV의 고교생인 사내 아이는, 스마트하게(아름답게) 걷는다고 할 정도는 아닙니다만, 뭐, 실은, 나도, 고교생의 무렵은, 스마트하게(아름답게) 걷는다고 하는 일을 분명하게 의식하고라고 말할 정도는 아니었습니다만, 적어도, 고교 1 학년의 무렵부터는, 학교 내외의, 여자들(여자 아이들)에게 보여지고 있다고 하는 일을 의식해 걷고 있었습니다.














다행스럽게, 나와 같은 타목인간이라도, 왜일까 신기하다와 상냥한 여성들은, 옛부터(유치원아위의 무렵부터), 나의 일을, 잘 상관해 주었던 w



(뭐, 초등 학생의 무렵부터, 그 님일은 있었습니다만), 중학·고등학교에 입학했을 때, 또, 중학이나 고등학교의 클래스 바꾸어의 때 등에, 자주(잘), 클래스의 여자들의 그룹이, 수줍어하면서, 나의 자리, 또?`헤, 복도에서, 나를 둘러싸고, 나에게, 「생일은, 언제입니까?」라고「좋아하는 음식은, 무엇입니까?」라고, 영어의 수업때의 나의 발음으로부터, 「귀국자녀입니까?」라고 한 느낌의 인터뷰를 했던 w 또, 나는, 자신의 일을, 보통, 소스얼굴의 일본인이라고 생각합니다만, 「하프입니까?」라고「외국인의 피가 섞이고 있습니까?」라고(듣)묻는 일도 있었습니다.곧 허물 없고, 타메어가 됩니다만, 동갑· 동학년인데, 왜일까, 언제나, 처음은, 경어로 질문받았던 w(덧붙여서, 나는, 20대의 처음까지는, 실연령보다 위로 보여져 20대의 후반무렵부터는, 실연령보다 깔볼 수 있게 되었습니다만, 그것이, 관계하고 있는지도 모릅니다 w).



또, 나의 친가는, 보통 중류의 가정입니다만, 나는, 중학이나 고등학교의 무렵, 왜일까, 여자들에게, 현관에서 집의 건물이 안보이는 듯한 저택에 사는, 부자의, 도련님에게, 마음대로, 착각 되는 것이, 자주 있었던 w

도쿄도청을 견학했을 때, 도의회 의사당을 보고, 여자 아이에게, 「00군의 집은, 이런 느낌?」라고 해진 일도 있습니다.덧붙여서, 도의회 의사전`-는, 이런 느낌입니다→
http://www.yokoso.metro.tokyo.jp/kengaku/img/img_gijyou2.jpg

마음대로, 망상을 부풀려 받아서는 곤란하다.보통 중류의 집이래!이렇게 말한 느낌입니다 w




나의 숙부(아버지의 남동생)(신장은, 180 cm의 장신)는, 나의 아버지와 달리( 나의 아버지는, 숙부와 같이, 외모는, 어느 쪽일까하고 말하면, 공부벌레 타입의 사람(공부를 매우 열심히 하는 사람)이란, 정반대의 외모라고 한 느낌입니다만, 중학교 시절·고교시절에, (공부만 하고 있었다고 하는 것은 아니었다 님입니다만), 매우 성실하게, 열심히 공부한 님입니다), 공부는, 거의 하지 않고, 나의 아버지와 달리 공부는, 완전히, 할 수 없었던 것 같습니다만, 운동이, 매우 자신있고(덧붙여서, 고등학교의 무렵, 학교의 농구(basketball) club에 소속하고 있었다고 합니다), 나의 아버지 쪽의 조모나 나의 아버지의 이야기에 의하면, 고등학교때, 수많은, 현지의 전설을 만들 정도로 w, 학교내, 및, 학교외의, 여고생들에게, 인기있고 있었다고(인기가 있었다고) 합니다만, 그, 나의 숙부(아버지의 남동생)의, 고교시절의, 과장되었어?인기있어 전설의 하나에, 학교의, 구두의 나막신상자에 들어가 자르지 않는, 여자들로부터의 러브 레터가, 나막신상자에서 넘쳐 나오고, 마루에, 넘쳐 흐름 떨어지고 있었다고 하는 것이 있어요 w

나는, 그런, 나의 숙부(아버지의 남동생)의/`A과장되었어?인기있어 전설에는, 훨씬 더 미치지 않습니다만 w, 중학생 시절이나 고교시절에, 여자들로부터, 러브 레터는, 받고 있었습니다.

자신이 호의를 안지 않은 여성에게 고백된다고 하는 일은, 많은 확률에 대하고, 타인(고백한 여성)의 마음을 손상시킬 가능성을 세오이원 되는 일을 의미합니다.따라서, 그러한 일에 대해서는, 적당기분으로 대처하는 것이 아니라,(분명히 거절한다고 말하는 일도 포함하고), 진지인 기분으로 대처해야 한다고 생각합니다.

나는, 여성에게 고백되었을 경우(교제해 주세요라고 해졌을 경우), 지금부터 앞, 자신이 교제할 정도의 호의를 안을 가능성이 없다고 생각하는 여성에 대해서는, 가능한 한 성실하게, 분명히 끊어 왔습니다.

또, 여성에게 고백되었을 경우(교제해 주세요라고 해졌을 경우)에 대하고, 지금부터 앞, 그 여성에게, 자신이 교제할 정도의 호의를 안을 가능성이, 있다일지도 모른다고 하는 여성에 관해서는, 일단, 대답을 보류해, 몇회나 데이트 해 보는 경우도 있습니다만, 그런데도, 자신이 교제할 정도의 호의를 안을 가능성이 없다고 생각되었을 경우는, 가능한 한 성실하게, 분명히 끊어 왔습니다.

당시 , 고백의 편지에 관해서는, 하?`라고 거절한다고 말하는 일로 대처하고 있었습니다만, 안에는 대처가 곤란한 편지도 있었습니다.그러한 대처가 곤란한 편지의 하나에, 있다 여자 아이로부터, 정기적으로, 그 여자 아이의 자작의 시를 쓴 편지를 받은 일이 있어요.시의 내용은, 연애나 고백을, 암시하는 내용의 물건이 많았습니다만, 명확하게, 나에게 고백한다고 말한 내용이 아니고, 또, 그 시의 좋은 점도, 잘 모르고, 대처가 곤란했습니다.결국, 편지는 받지만, 시의 감상은 말하지 않고 , 「아, 읽었어」라고 한 느낌으로, 가능한 한, 차갑고, 무감정에 대응하고 있으면, 그 안, 편지를 주지 않게 되었습니다.어째서 좋은 것인지 몰랐습니다만, 뭐, 개인적으로는, 그 대처가 베스트였는지와 지금도, 생각합니다.






이하, 나의, 고교시절의 친구의 한 명의 이야기로, 나의 학교내의 친구(이하, 그 친구와 씁니다)의 이야기입니다.



그 친구는, 당시 , 신장은, 나보다 조금 낮고, 174 cm위로, 마름형의, 호리호리한 체형으로, 살갗이 흼의, 쟈니즈계의 얼굴 생김새의, 이케멘이었습니다.

그 친구와 내가 알게 된 것은, 내가 고교 1 학년때, 그 친구와 같은 클래스가 되어/`A(내가, 클래스의 여자들로부터, 인터뷰를 받고 있었을 무렵 w), 그 친구가, 남자의 친구도 여자의 친구도 하지 못하고, 클래스안에서, 떠 있는 느낌으로, 외톨이인 느낌인 일로부터, 외로울까?(이)라고 생각하고, 내가, 그에게 말을 건넨 일입니다.

그것을, 계기로, 곧바로 두 명은, 친해져, 그 친구는, 은 일 없는, 낯가림이 격렬한 성격인 뿐이고, 나와 둘이서, 보내고 있는 동안에, 자꾸자꾸, 밝아져서 갔습니다.

또, 그 친구는, 은 일 없는, 나와 같고, 여자 좋아하는 남자로, 또, 나와 같고, 유치원아위의 무렵부터, 여자·여성들에게, 잘 상관해 받는 타입의 남성으로, (뭐, 그 친구는, 나와 달리, 클래스의 여자들로부터, 인터뷰를 받는 일은 없었습니다만 w), 뭐, 고교생 당시 , 학교내에서도, 아르바이트처에서도, 여자들로부터, 다음으로부터, 다음으로, 어프로치를 받고, ( 나는, 고교생때, 양다리 이상 걸치고, 여자 아이와 교제하거나 하고 있었습니다만), 그 친구도, 대체로, 양다리 걸치고, 여자 아이와 교제하거나 바람기를 하거나 하고 있었던 w

나와 그 친구는, 학교에서, 각각의, (학교내의) 그녀와 자주(잘) 둘이서로, 보내거나 자주(잘) 2진`l송곳으로 점심 식사를 먹거나 하는 한편으로, 자주(잘), 나와 그 친구의, 남자끼리의 둘이서, 보내거나 함께, 점심 식사를 먹기도 하고 있었습니다.

나는 성격이 늙은 고양이는 극단적으로 말하면 독불 장군으로, 옛부터, 교제에 관해서, 집단·군집한다고 하는 것보다도 개인대 개인·모인다고 한 교제를 좋아합니다.그 일도 있고, 중학·고교시절은 동아리에 묶이지 않는 귀가부를 선택했습니다만, 나의 남동생도, 그 영향을 받았습니다.

나는, 고교생때는, 방과후는 여자 아이·여자 아이들이나 나와 같은 체라체라 한 남자 친구들과 노는데 바쁘고(시부야에서 잘 놀고 있었습니다), 클럽등으로의 밤놀이나 미팅도 많이 하고 있었습니다.

나의 남동생은, 고등학교의 무렵, 서핑(surfing)이나, 스케이트보드(skateboarding), 스노보드(snowboarding)를, 자주(잘), 하고 있고, 아웃도어파였지만, 나는, 기본, 인도어파였습니다.나의 경우, 인도어파라고 말해도, 사람과 보내는 인도어로, 교제하고 있는 여자 아이·친밀한 여자 아이와의 방과후의 가라오케 박스로의 가라오케(시부야의 가라오케 박스를 자주(잘) 이용하고 있었습니다), 교제하고 있는 여자 아이·친밀한 여자 아이와의 방과후의 러브호텔의 휴식(에이치)(시부야 주변?`후라브호텔을 자주(잘) 이용하고 있었습니다), 방과후에 교제하고 있는 여자 아이와 집(친가)의 자신의 방에서 텔레비젼 게임을 해 노는 일, 방과후에 교제하고 있는 여자 아이의 집(친가)에 놀러 가 교제하고 있는 여자 아이의 방에서 보내는 일, 미팅, 클럽으로의 밤놀이등이라고 한 것입니다.

덧붙여서, 그 친구는, 당시 , 나와 달리, 밤놀이를 하는 타입에서는 전혀 없고, 나에게 있어서, 기본적으로, 학교내 한정의 친구라고 한 느낌으로, 그 친구란, 기본적으로는, 학교외에서는, 함께, 노는 일은 없었습니다만, 학교내에 있어서는, 클래스가 바뀌어도, 상술한 대로, 자주(잘), 쉬는 시간에, 둘이서 보내거나 둘이서, 점심 식사를 배달시키거나 또, 그 친구는, 운동이 생각보다는 자신있었습니다만, 독서가이며, 책을 읽는 것을 좋아하고, 나도, 독서가라고 말할 정도가 아닙니다만, 고교생의 무렵, 책을 읽는 것은, 생각보다는을 좋아하는 분이었으므로, 둘이서, 도서실에서 보내거나 하고 있었습니다.

나의 고교생때의 점심 식사에 대해서는, 이하의 투고를, 참조해 주세요.
어머니의, 도시락(bento)(일본어)→
/jp/board/exc_board_8/view/id/2637418?&sfl=membername&stx=jlemon

어머니의, 도시락(bento)(한국어)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2637418?&sfl=membername&stx=jlemon



나와 그 친구는, 동학년(동갑)이었습니다만, 둘이서 보내고 있을 때, 그 친구에게는, 나는, 웬지 모르게, 형(오빠)적인 느낌으로, 의지가 되고 있는 느낌으로, 나도, 그 친구에 대해서, 웬지 모르게, 형(오빠)적인 태도로 접하고 있었습니다.덧붙여서, 그 친구에게는, 형제 자매는, 언니(누나)가 한 명 있었습니다.상술한 대로, 그 친구란, 기본적으로는, 학교외에서는, 함께, 노는 일은 없었습니다만, 몇 번인가, 그 친구의 집에, 놀이에 방문한 일이 있어, 그 친구의, 언니(누나)와 만난 일도 있었습니다만, 미인인, 언니(누나)였습니다.

그 친구는, 그 안, 학교내에 있고, 그 친구를 동경하는 남자들의 측근자가 뒤따라, 그 친구는, 그 둘러쌈의 남자들((이케멘으로 여자들에게 대단한 인기가 있는) 그 친구를 동경하는, 그 친구의, 간신적인 남자들)로부터, 「왕자」라고 한다, 별명으로, 불리게 되었던 w

나는, 학교에서(고등학교에서), 그 친구와 둘이서, 점심 식사를 먹고 있을 때에, 그 친구가, 나의 얼굴을 보고, 나에게, 「입의 주위에, 음식의 더러움이 붙어 있어」라고 하고, 내가, 그 친구에게, 「취해!」라고 말(이)라고, 그 친구에게, (그 친구의) 손가락으로, 나의 입의 주위의 더러움을 닦게 하다니 교환도 하거나 하고 있었던 w(그 친구는, 「무엇이야」라고 하면서도, 웃으면서 나의 지시에 따라서 있었던 w). 나는, 성인 군자(완벽한 인간)는 아니기 때문에, 나는, 당시 , 아직 푸르고, 그 친구에게, 그 님행위를 시키는 것은, 「왕자」에게 그 님일을 시키는 일에 의해서, 나의 우월감을 채워, 즐기고 있었다(놀고 있었다)라고 한 면도 있었던 w

나는, 보이즈 러브에 대해서는, 전혀 자세하지 않아, 어떤 물건일까, 전혀 모릅니다만, 혹시, 당시 , 나와 그 친구는, 학교내의 여자가 보고, 일견, 보이즈 러브적인 관계로 보이는 일도 있었을지도 모릅니다 w 실은, 나도, 그 친구도, 두 명모두, 여자 좋아하는 남자로, 양다리 걸치고, 여자 아이와 교제하거나 바람피거나 하고, 하는 일은, 제대로 하고 있던 w, 체라체라 한, 여자 좋아하는 남자 고교생이었습니다만 w




수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 3에 계속 된다...


수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 3은, 이하입니다.


수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 3(일본어)→

/jp/board/exc_board_8/view/id/2640462?&sfl=membername&stx=jlemon

수줍어 하는데/형(오빠)적인 성격 3(한국어)→

/kr/board/exc_board_8/view/id/2640462?&sfl=membername&stx=jlemon









TOTAL: 601

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