「日帝が朝鮮の米を収奪した」???
朝鮮半島の日本統治時代、日本が朝鮮の米を略奪して
朝鮮が深刻な食糧難になっていたと韓国は主張している。
以下、『入門 韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書 明石書店』より
―――引用はじめ―――――
「・・・とくに、日帝の彼らの食糧不足を解決するために、
韓国から米を略奪することに力を注いだ。
そのため韓国の農民は彼らが生産した多くの米を日本に奪われ、
飢えを免られなかった・・・・」
―――引用おわり―――――
ところが逆に、
日本から朝鮮へ米を送っていたという当時の新聞記事がある。
1935年(昭和10年)8月21日東亜日報
「日本内地払下米 朝鮮へ逆移入 政府米払下を要望」
朝鮮で米が不足した時は日本から米が送られていた記事もある。
1925年(大正14年)7月25日東亜日報
「仁川玄米上陸~朝鮮に在米が不足するという事を聞き、
門司商人が諏訪産の玄米2千石を朝鮮に送り、近日中に到着」
朝鮮の清津のあたりは寒くて米の栽培が難しいらしいのだが、
下記の記事でわかることは、
少なくとも1939年には玄米ではなく白米が食べられており、
価格暴騰のときには新潟から米を移入して価格を調整していた。
1939年(昭和14年)6月18日 東亜日報
「南朝鮮米断念し、新潟から白米移入。
~在庫米不足と価格暴騰で清津白米恐慌緩和」
以上のように、米の流れは「朝鮮→日本」だけでなく、
「日本→朝鮮」という流れもあったのである。
日本→朝鮮の米の流れについては、
下記の台湾総督府の「台湾の米」という資料から、
「台湾→朝鮮→日本」の米の動向を見るとわかりやすい。
1935年(昭和10年)1月 「台湾の米」 台湾総督府
下記の「朝鮮ヨリノ移入高」は、朝鮮→台湾の米の動向である。
1932年(昭和7年)、4510石。
1933年(昭和8年)、156石。
1934年(昭和9年)、512石。
このように朝鮮→台湾の移入は、ほとんど無かった。
「朝鮮ヨリノ移入高」
逆に、台湾→朝鮮は大量の蓬莱米が移入されている。
1925年(大正14年)、3万3806石。
1926年(大正15年)、5万1427石。
1929年(昭和4年)、12万3861石。
これは1932年(昭和7年)に韓国→台湾に移入された4510石の30倍の量である。
1929年(昭和4年)、台湾→日本に移入された量は218万石なので、
台湾は移出高の95%を日本へ、5%を朝鮮半島へ移出していたことになる。
なぜ朝鮮が台湾から蓬莱米を移入していたのか?
下記の資料では、昭和2年~昭和8年まで
台湾米は日本内地米と比べて、かなり価格差があるが、
朝鮮米は日本内地米と接戦していたことが分かる。
「内地ニ於ケル内地米、朝鮮米及台湾米ノ価格」
昭和9年の米価
11月
◆内地米→21.11円。
◆朝鮮米→22.30円。
12月
◆内地米→20.29円。
◆朝鮮米→21.81円。
朝鮮米が内地米より高くなったときがあった。
当時の先進国で米を日常的に食べていた国は日本だけなので、
そのとき朝鮮米は「世界一高い米」になっていたのだ。
つまり朝鮮は高値の朝鮮米を商品として日本へ移出し、
自分たちは台湾から安い蓬莱米を移入して食べていたということである。
日本は朝鮮の米を高値で買っていたのであり商取引であった。
事実を知っている韓国人も多いであろうに、
なぜ事実を捻じ曲げるのだろうか?
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朝鮮には李朝時代から「春窮麦嶺」という言葉があり、
米と麦の収穫の端境期である春に、食糧確保に窮するのは慢性化していて、
日本時代になって飢えるようになったのではない。
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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫
朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。
最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に2度、定期的に訪れる。
まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7月、
次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。
金銭は、法外な利子付きでしか借りられず、
わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、
米やその他の穀物を買うことすらできない。
彼らに残された生きる糧といえば、
ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である。
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『宇垣一成日記 2』 みすず書房 「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書より
(朝鮮総督の日記から)
咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する者少なからずして
僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、
痛心に堪へずして当路者に糺せば、彼氏曰く、
「朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば毎年各地に
現はるる事象である。今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから
夫れによりて収穫期まで何とかしていく」
とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7年3月31日付)
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宇垣総督は慢性的に疲弊した農民の生活を安定させるため、
総督府をあげて農村振興運動に取り組んだ。
李朝時代には、このような国家指導者は存在しなかった。
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李氏朝鮮時代の農民たちの惨状
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『朝鮮』 金達寿 1958年 岩波新書
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、
そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。
顕宗の時の大飢饉(1671年)は飢えと疫病とによって死んだものは、
前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多く、
飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。
また、この飢民は変じて火賊といわれる
群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、
その25年間に疫病による死者5~60万を数えたといわれ、
1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、
慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社
”生き地獄”を生きた李朝朝鮮の農民たち
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、
当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、
国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、
娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、
惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
「どこの道にも死体が転がっている」
と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、
中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、
むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」
(朝鮮事情・平凡社東洋文庫)
丁若[金+庸]著の『牧民心書』でも、
李朝社会の貪官汚吏の下であえぐ悲惨な朝鮮農民生活が書かれている。
(中略)
朝鮮農民の間には、
古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、
農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、
収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。
そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、
春窮期といわれるのだ。
李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う
歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。
それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、
保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、
どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
極端な場合には、松の木の表皮と木質との間に
ある柔らかい白い部分をはぎとって食用にする。
あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、
穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、
せっぱつまれば種子籾まで食べつくしてしまう場合もある。
朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。
旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、
間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。
そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、
慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。
だから「小作人は、地主のところで出来高の勘定をすまして帰るときには、
箒と箕(穀物をふるって、ちりやからをふりわける道具)を持って
家に帰るだけである。」という惨めな諺があるぐらいだ。
もちろん、それは大多数の農民に限らず、朝鮮の鉱山労働者も同じである。
『朝鮮旅行記』によれぱ、
「労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山(ウオンサン)にて
日本人へ金を売りさばく役人たちの懐に全てが入ってしまう。」
「勤労の民は非常に貧しくて、飢えている。」
「鉱山の近くに村があって、労働者らはそこで食事し、酒を買い、
給料には手を付けないで、ほとんど裸同然でうろついている。」
そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、
飢饉の多いところで、
最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。
たとえば、丙子胡乱後、毎年各地が旱魃で飢饉が続き、
崇徳3年、咸鏡道が飢饉で疫病、死者3300余、
黄海道に蝗害、三南地方まで凶作。
以来、3年間連続で飢饉が続いた。
朝鮮『仁祖実録』によれば、
「6年5月、3年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、
これは誠に千古未曾有の大異変なり」、
8年3月にまた「飢饉に疫病、人民はほとんど死に絶えた」とまで述べている。
1671年の大飢饉では、
墓を暴いて屍体の衣を剥ぎ取り、親は子を道端に捨てたほどであった。
朝鮮総督府は、
李朝社会の惨状――乞食同然の農民と道端に行き倒れの無宿者の多さに驚き、
自作農の創出、小作制度の改善を重視している。
朝鮮半島の開発、社会改革に献身した日本人が少なくなかったことは、
韓国人、朝鮮人も知っておくべきではないだろうか。
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李氏朝鮮時代は大量の餓死者がでる国だった。
朝鮮半島の歴史で飢饉による餓死者が出なかったのは、
現在に至るまで日本統治時代だけである。
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日本によるわずか36年の植民地統治で米の生産量が倍増
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社
◆朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか
日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、
1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、
反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、
当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。
だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、
その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。
「日帝36年」の朝鮮統治で、
米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。
有史以来、年産1000万石以上を一度も超えた事のなかった朝鮮産米生産量は、
昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。
それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に
並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、
低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、
日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。
朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に
大きな役割を果たしたことは事実であったが、
もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価低落に拍車をかけ、
内地の農家に脅成と圧迫を与えた。
とくに昭和5、6年の恐慌以後、いわゆる外地米統制問題として浮上し、
朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたらしたほど発展していた。
しかしながら、朝鮮近代史では、対日輸出による米価の高騰、
日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、買弁化を強要されたとか、
農民は正確な米穀の相場を知らないまま
米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたので、
詐欺同然であるとか、さらに日本商人の高利貸的取奪が強められた……
という記述も多い。
いかなる時代でも米穀商人の「収奪」は存在するかもしれないが、
朝鮮総督府の米穀保護政策は、
決して現在の日本農水省の米穀保護政策に劣ることはない。
たとえぱ、米価の決定と米作農に対する生産奨励補助金の交付などは、
どう考えるべきだろうか。
1941年の米価設定では、生産者の手取り価格は、
1石で50円となるのに対し、消費者価格は43円に据え置きである。
この差額は政府負担となった。
43年には政府の標準買入れ価格は44円、
奨励金などを算入して1石当たり62円50銭にまで引き上げられた。
だが、標準売渡し価格は、43円であった。
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米は売ったのであり、略奪されたというのは言い掛かりである。
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『韓国・朝鮮と日本人』 若槻泰雄 1989年 原書房
日本政府は日本内地の米不足を補うため朝鮮で米を増産させ、
それを内地に移出した。
そのため、朝鮮人は満州から輸入した粟を
食べることを余儀なくされたと非難されている。
この主張には、朝鮮における米の増産以上に
朝鮮から日本への米の移出量が増加し、
また満州からの粟の輸入量が増大している統計が示されて、
一見説得力があるかのごとく見える。
『朝鮮の飢えによって、日本人の食料が充足された』のであって
産米増殖計画は、実は『米取り上げ政策』に他ならないというのである。
しかしながらこの批判は、仮に当たっているとしても15%ぐらいしか
正しいといえないであろう。というのは為政者として、
農民の所得水準を上げようとするとき最大の悩みは、
何を植えさせるべきかということである。
そして、その際考慮すべきことは、
農業生産的見地からその土地に何が適当かということと、
その生産物に対して、市場が存在するのかという農産物流通上の問題である。
米は朝鮮においては従来最も多く栽培されてきたものであって、
自然条件がこれに適し、農民はその技術に最も習熟している、
そして日本内地という市場はきわめて近い。
米の増産で図ったのは、
為政者として賢明というよりは当然の方針というべきである。
米を作って日本へ移出したことだけを責められるが、その見返りとして、
朝鮮の農民が現金収入を得たことを無視してはならない。
戦争中の食糧難の折り、内地におけると同様、
強権をもって朝鮮の農民から米を供出させた事実はある。
しかしこのことと、大正時代に始まった産米増産政策とは直接の関係はなく、
別個の問題として取り上げるべきであろう。
また朝鮮の農民は米を日本内地へ移出し、
自らは粟を食べる結果になったということも、
これ自体として非難に当たらない。
市場性のある、すなわち価格の高いものを販売し、
安いもので我慢するというのは、
農民の、少なくとも貧農のごく普通のパターンである。
米を作っていた日本の農民が、米はお祭りの時ぐらいしか食べず、
麦や稗(ひえ)を食べていたことはよく知られている。
『米を売り、粟を買って食料とした』という事実は、
自ら収穫したものだけを食べる自給自足段階にあった朝鮮農民が、
高いものを売り、安いものを買い、
その差額で食料以外のものを購入して生活水準を上げるという
市場生産に参加する農民に脱皮したことを意味するのである。
なお朝鮮農民が食料として『満州から粟を輸入した』というと、
はなはだしく困窮化した状況を示すものとしてとられやすいが、
北鮮ではもともと粟を食することが多く、
米よりも雑穀の栽培面積のほうがずっと多かったのである。
もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、
短期間の一時期を除き日本政府は望んでいなかったという事実である。
1918年の米騷動を契期に日本内地において米の不足が痛感され、
総督府は1920年から15年間に135万トンの増産計画にとりかかったのだが、
世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途をたどった。
日本政府は米穀法を制定して価格維持に努力したのだが、
その効果は空しかった。
このような状況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、
ことに1927年の内地朝鮮を通ずる大豊作は米価をさらに下落させ、
内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間題にまで発展した。
1931年には、米の価格は1919年の実に40%に崩落した。
このため昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、
これに猛反対する朝鮮総督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。
このことは昭和農政史における著名な事件なのである。
米の増産を奨励したのは日本政府なのであるから、
その意味では自業自得であろうが、当時、日本政府が朝鮮米の移入を
奨励したり強制したりした事実はまったくないのであって、
事実はその逆なのである。
「朝鮮米の移入は、日本農民の犠牲によって行なわれた」
といっても過言ではない。
私は朝鮮農民の窮乏化を肯定しているのでもなければ、
当時の日本政府を弁護しようと意図しているのでもない。
ただ解放直後の感情的な反日非難の時期ならいざ知らず、
40年たった後にも、事実に反する批判を平然とくり返すものも、
それを黙って聞いているものも、将来の歴史家の軽蔑をかうであろうし、
また決して日韓(朝)両国民のためにならないと思われるのである。
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『歴史を偽造する韓国』 中川八洋 2002年 徳間書店
米を日本に移出したいと強引に総督府に”強要”したのは朝鮮人農家である。
日本は1912年の米騒動になったあの米不足の時を唯一の例外として、
日本国内の農家の保護のために朝鮮米の移入を制限することを試みていた。
このように、朝鮮米の移入をできるだけさせないとする日本政府と、
もっと移入しろと日本政府に迫る朝鮮総督府とが
凄まじい争いをしたのである。
それは、朝鮮人農家が、朝鮮の物価水準からして
破格の米代金を日本から手に入れるべく、
自らは粟や雑穀を食べて米を移出しようとしたのを
総督府が全面支援したためであった。
この朝鮮人の「米移出フィーバー」が朝鮮人全体の健康を害すると考え、
ある年には、総督府が、それにストップをかけ、
急いで満州その他から雑穀の大量輪入をした。
現に、日本統治下では米移出によって飢餓が生じたことは一度もない。
それを「飢餓輸出」とは、何という史実の歪曲であろうか。
朝鮮人の「過剰金欲主義による米移出フィーバー」というべきが、
唯一に正しい歴史である。
現に、この1920年代後半から朝鮮の人口は増えつづけ、
一人当りの国民所得も大幅に向上した。より豊かになった。
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貧しかった李朝時代の朝鮮人。日本統治時代になると、
農民は生産した米を高く売り、安い穀物を買って日々の食料とした。
食事の質を落として金を貯め、
それで家財道具を買い揃えて生活水準を上げていったのである。
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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫
あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。
では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、
その美しさと強固さの程度をさらに落として想像してみて下さい。
するとそれが、みすぼらしい朝鮮の住まいについての、
ほとんど正確な姿となるでしょう。
一般的にいって、朝鮮人は藁ぶきの家に住んでいます。
…二階建ての家は、探してもむだです。
そのようなものを朝鮮人は知らないのです。
(中略)
次に家具について、簡単に一瞥しましょう。
まず寝台ですが…
朝鮮人はほとんど、茣蓙(ござ)の上で寝ます。
貧しい人々、換言すれば大多数の者は、
昼も夜も着ている同じ服のほかには掛けるものとてなく、
茣蓙の上で横になります。
少しでも金のある者は、蒲団(ふとん)というぜいたく品を持っています。
その他の家具ですが、貧しい人々は、もうその他に何も持っていません。
常民たちは、横にかかった棒を用意し、それに着換えを掛けておきます。
裕福な人たちは、いくつかの籠を木の棒に掛けたり屋根につるしたりします。
裕福な家には、かなり野暮ったい行李(こうり=竹や柳で編んだ箱)
があります。
学者や商人たちは、筆と墨、
それに巻紙が置いてある小さな書見台を傍らに置いて座っています。
若い婦人はチマ(民族衣装)をいれておく小さな黒いタンスを持っています。
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朝鮮の食糧不足は急激な人口増加に食糧増産が
追いつけないから起こったのである。(植民地36年で倍増)
『朝鮮総督府統計年報』 朝鮮総督府編
年次……年末常住人口
1910年…1312万8780人 (日韓併合年)
1915年…1595万7630人
1920年…1691万6078人
1925年…1854万3326人
1930年…1968万5587人
1935年…2124万8864人
1940年…2295万4563人
1944年…2512万0174人 (5月)
このほか日本内地や満州にも多くの朝鮮人がいました。
一人当りの米消費量が年ごとに減少している統計資料を持ち出して、
朝鮮から米を略奪した結果だという主張もありますが、
人口増で少食の幼年人口の割合が大幅に増加していくのですから、
朝鮮人一人当りの米消費量が減少するのは当然でした。
また、大旱魃で米収穫量が激減した年もありました。
「일제가 조선의 미를 수탈 했다」?
한반도의 일본 통치 시대, 일본이 조선의 미를 약탈해
조선이 심각한 식량난이 되어 있었다고 한국은 주장하고 있다.
이하, 「입문 한국의 역사 국정 한국 중학교 국사 교과서 아카시 서점」보다
―――인용 시작해-----
「···특히, 일제의 그들의 식량부족을 해결하기 위해서,
한국으로부터 미를 약탈하는 것에 힘을 쏟았다.
그 때문에 한국의 농민은 그들이 생산한 많은 미를 일본에 빼앗겨
굶주림을 면없었다····」
―――인용 끝-----
그런데 반대로,
일본으로부터 조선에 미를 보내고 있었다고 하는 당시의 신문 기사가 있다.
1935년(쇼와 10년) 8월 21 닛토아일보
「일본 내지불하 미 · 북선에 역이입 정부미불하를 요망」
조선에서 미가 부족했을 때는 일본으로부터 미가 보내지고 있던 기사도 있다.
1925년(타이쇼 14년) 7월 25 닛토아일보
「인천 현미 상륙 조선에 재미가 부족한다고 하는 일을 (들)물어,
몬지 상인이 스와산의 현미 2 셍고쿠를 조선에 보내, 가까운 시일내로 도착」
조선의 기요쓰의 근처는 추워서 미의 재배가 어려운 것 같지만,
아래와 같은 기사로 밝혀지는 것은,
적어도 1939년에는 현미는 아니고 백미를 먹을 수 있고 있어
가격 폭등 때에는 니가타로부터 미를 이입 해 가격을 조정하고 있었다.
1939년(쇼와 14년) 6월 18 닛토아일보
「남조선미 단념해, 니가타로부터 백미 이입.
재고미 부족과 가격 폭등으로 기요쓰 백미 공황 완화」
이상과 같이, 미의 흐름은 「조선→일본」뿐만이 아니라,
「일본→조선」이라고 하는 흐름도 있었던 것이다.
일본→조선의 미의 흐름에 대해서는,
아래와 같은 대만 총독부의 「대만의 미」라고 하는 자료로부터,
「대만→조선→일본」의 미의 동향을 보면 알기 쉽다.
1935년(쇼와 10년) 1월 「대만의 미」대만 총독부
아래와 같은 「조선 요리노 이입고」는, 조선→대만의 미의 동향이다.
1932년(쇼와 7년), 4510석.
1933년(쇼와 8년), 156석.
1934년(쇼와 9년), 512석.
이와 같이 조선→대만의 이입은, 거의 없었다.
「조선 요리노 이입고」
반대로, 대만→조선은 대량의 대만미가 이입 되고 있다.
1925년(타이쇼 14년), 3만 3806석.
1926년(타이쇼 15년), 5만 1427석.
1929년(쇼와 4년), 12만 3861석.
이것은 1932년(쇼와 7년)에 한국→대만에 이입 된 4510석의 30배의 양이다.
1929년(쇼와 4년), 대만→일본에 이입 된 양은 218 망고쿠이므로,
대만은 이출고의 95%를 일본에, 5%를 한반도에 이출 하고 있던 것이 된다.
왜 조선이 대만으로부터 대만미를 이입 하고 있었는지?
아래와 같은 자료에서는, 쇼와 2년 쇼와 8년까지
대만미는 일본 국산미와 비교해서, 꽤 가격차가 있다가,
조선미는 일본 국산미와 접전하고 있던 것을 안다.
「내지니어켈 국산미, 조선미 급대만 코메노 가격」
쇼와 9년의 쌀값
11월
◆국산미→21.11엔.
◆조선미→22.30엔.
12월
◆국산미→20.29엔.
◆조선미→21.81엔.
조선미가 국산미보다 비싸졌을 때가 있었다.
당시의 선진국에서 미를 일상적으로 먹고 있던 나라는 일본 뿐이므로,
그 때 조선미는 「세계 제일 비싼 미」가 되어 있었던 것이다.
즉 조선은 고가의 조선미를 상품으로서 일본에 이출 해,
스스로는 대만으로부터 싼 대만미를 이입 해 먹고 있었다고 하는 것이다.
일본은 조선의 미를 고가에서 사고 있었던 것이어 상거래였다.
사실을 알고 있는 한국인도 많을 것이다에,
왜 사실을 비트는 것일까?
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조선에는 이조 시대부터 「춘궁맥령」이라고 하는 말이 있어,
미와 보리의 수확의 단경기인 봄에, 식량 확보에 궁하는 것은 만성화 하고 있고,
일본 시대가 되어 굶게 된 것은 아니다.
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「조선 사정」샤를르·다레 1874 연금용권 (뜻)이유 1979년 헤본사 동양문고
조선에서는, 기근을 빈번히 볼 수 있다.
가장 궁핍한 계급의 사람들에게 있어서, 그것은 1년에 2도, 정기적으로 방문한다.
우선, 보리의 수확을 기다리는 동안의 춘궁기의 6, 7월,
그 다음에 속류가 도입해 전의 9, 10월이다.
금전은, 불합리한 이자 첨부로 밖에 빌릴 수 있는 두,
불과뿐인 저축해도 다 써 버린 불행한 사람들은,
미나 그 외의 곡물을 사는 것조차 할 수 없다.
그들에게 남겨진 사는 양식이라고 하면,
단지 소금물로 익혀 채운 불과뿐인 초목이다.
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「우가키 카즈나리 일기 2」봐 주석 서점 「관부연락선」1988 연금찬정아침해 추천도서보다
(조선 총독의 일기로부터)
함경남북, 강원도(조선 북부) 이외에도 기아에 직면하는 사람 많이 해
불과에 초근목피에 의해라고 이슬 같은 목숨을 연결해 있다 것을 (들)물어,
통심에 감에 도시라고 당로자에게 가리면, 그이 가라사대,
「조선에서는 왼쪽 님의 일은 드물지도 않게 지금 쯤이 되면 매년 각지에
현사상이다.지금 한달도 하면 나뭇잎도 나오고 풀도 발생하기 때문에
남편에 의해라고 수확기까지 어떻게든 해 나간다」
(와)과라고 깊게 배려하는 것 님 아이도를 없앤.(쇼와 7년 3월 31 일자)
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우가키 총독은 만성적으로 피폐 한 농민의 생활을 안정시키기 위해,
총독부를 주어 농촌 진흥 운동에 맞붙었다.
이조 시대에는, 이러한 국가 지도자는 존재하지 않았다.
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이씨 조선 시대의 농민들의 참상
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「조선」김들 장수 1958년 이와나미 신서
농촌의 황폐는 몹시, 농민은 유랑민이 되어 헤매어,
게다가 한해·수해·악역 등등도 또 연달아 이 나라를 덮쳤다.
현종때의 대기근(1671년)은 굶주림과 역병과에 의해서 죽었다도 의는,
전이자(히데요시군·만주군)와의 전쟁에 의한 사망자보다 대부분,
기민은 무덤을 폭로해 시체의 옷취해, 부모는 아이를 버리고 길가에 지쳐 쓰러졌다.
또, 이 기민은 바꾸어 화적이라고 한다
떼도둑이 되는 것도 있다고 하는 상태였다.
이런 재해는 이조의 부흥기인 영조의 시대에도 일어나,
그 25년간에 역병에 의한 사망자 560만을 세었다고 해
1812년에는 기민의 수는 평안도 90만, 황해도 52만, 강원도 12만,
경상도 92만, 충청도 18만, 전라도 69만에 달했다.
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「삐뚤어진 조선 총독부」노랑 후미오 1998년 코우분사
"생지옥"을 산 이조 조선의 농민들
프랑스인 선교사 샤를르·다레는,
당시의 조선 왕국의 완고한 쇄국 정책에 대해서, 이렇게 쓰고 있다.
「1871년부터, 1872년에 걸치고, 놀랄 만한 기아가 한반도를 덮쳐,
국토는 황폐 했다.너무나 가혹함 , 서해안의 사람들 속에는,
딸(아가씨)를 중국인의 밀항 업자에게 1 인당미 1승으로 파는 것도 있었다.
북방의 국경의 삼림을 넘고 요동 반도에 가까스로 도착한 몇명의 한국인은,
참등?`오 있어 국장을 그림에 그려 선교사들에게 나타내,
「어디의 길에도 시체가 널려 있다」
(이)라고 호소했다.
그러나, 그럴 때조차, 조선 국왕은,
중국이나 일본으로부터의 식료 매입해를 허락하는 것보다도,
오히려 국민의 반수가 죽어 가는 것을 방치해 두는 길을 선택했다.」
(조선 사정·헤본사 동양문고)
정 젊은[금+용]저의 「목민심서」에서도,
이조 사회의 탐관 오리아래에서 허덕이는 비참한 조선 농민 생활이 쓰여져 있다.
(중략)
조선 농민의 사이에는,
고래부터 「춘궁, 맥령 넘어 난 해」라고 하는 옛 속담이 있다(정도)만큼이지만,
농민은 수확의 5할 이상을 연공으로서 내세울 수 있어 버리고,
수확한 미도 다음 해 3 월초경에는 전부, 물고라고 끝낸다.
거기서, 글자나가 감자나 보리를 할 수 있는 6월까지의 3개월은,
춘궁기라고 한다.
이조 이래, 수백년에 걸쳐서 조선 농민이 짊어진다
역사적인 지병(오랫동안 낫지 않는 병)이라고 말할 수 있다.
그것은 사람로의 9할을 차지하는 농민 중 8할의 소작인이,
보존식양식을 동계에 물고, 보리의 수확기까지의 사이, 풀뿌리, 건초,
응률, 이라고 치노열매등에서 연명해 가는 것이다.
극단적인 경우에는, 소나무의 표피와 나무의 성질과의 사이에
있다 부드러운 흰 부분취해 식용으로 한다.
있다 있어는 5월이 되면 보리의 성숙하는 것을 기다리지 못하고,
이삭이 아직 푸르게 유상인 것을, 이삭 앞만 따 취해 죽?`노 해 먹거나
궁지에 몰리면 종자인까지 다 먹어 치워 버리는 경우도 있다.
조선의 농서, 농사를 읽으면 중국의 농민과 아주 비슷한다.
한해, 수해, 풍해, 우박해, 상해, 병충해가,
간단 없게 연중 행사와 같이 각지방을 덮쳐, 농은 거지, 농노와 다름없다.
그 위에, 양반과 악리에 음식으로 되어 소작농, 대든지 소든지,
만성적인 식량난과 빚고에 맞을 수 있는 있어로 있다.
그러니까 「소작인은, 지주의 곳에서 거래 총액의 계산을 끝내 돌아갈 때는,
추와 미(곡물을 적극적으로, 티끌이나로부터를 거절해 나누는 도구)를 가져
집에 돌아가는 것만으로 있다.」라고 하는 비참한 속담이 있다 정도다.
물론, 그것은 대다수의 농민에게 한정하지 않고, 조선의 광산 노동자도 같다.
「조선 여행기」에,
「노동자가 받는 임금은 극히 조금으로, 원산(워산)에서
일본인에 금을 팔아 치우는 공무원들의 품에 모두가 들어가 버린다.」
「근로의 백성은 매우 궁핍해서, 굶고 있다.」
「광산의 근처에 마을이 있고, 노동자등은 거기서 식사해, 술을 사,
급료에는 손을 대지 말고, 거의 알몸과 다름없고 배회하고 있다.」
원래 한반도는 3남/`i충청, 경상, 전라) 지방 이외,
기근이 많은 곳으로,
최근의 북한과 같은 식량 위기는, 결코 특이한 현상은 아니다.
예를 들어, 병자호란 후, 매년 각지가 한발로 기근이 계속 되어,
숭덕 3년, 함경도가 기근으로 역병, 사망자 3300여,
황해도에 황해, 산난 지방까지 흉작.
이래, 3년간 연속으로 기근이 계속 되었다.
조선 「인조실록」에 의하면,
「6년 5월, 3년 흉작의 뒤, 8로가 큰 가뭄, 양계의 보리가 시들어 4들이 모두 붉은 바탕,
이것은 정말로 천고 전대미문의 대이변이든지」,
8년 3월에 또 「기근에 역병, 인민은 거의 멸족했다」라고까지 말하고 있다.
1671년의 대기근에서는,
무덤을 폭로해 시체의 옷을 벗겨내, 부모는 아이를 길가에 버렸을 정도에서 만났다.
조선 총독부는,
이조 사회의 참상--거지 동연의 농민과 길가에 지쳐 쓰러져의 방랑자가 많음에 놀라,
자작농의 창출, 소작제도의 개선을 중시하고 있다.
한반도의 개발, 사회 개혁에 헌신한 일본인이 적지 않았던 (일)것은,
한국인, 한국인도 알아 두어서는 안될까.
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이씨 조선 시대는 대량의 아사자가 나오는 나라였다.
한반도의 역사로 기근에 의한 아사자가 출(안)중?`스의 것은,
현재에 이르기까지 일본 통치 시대 뿐이다.
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일본에 의해요 두나 36년의 식민지 통치로 미의 생산량이 배증
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「삐뚤어진 조선 총독부」노랑 후미오 1998년 코우분사
◆조선산 쌀의 생산성은, 얼마나 향상했는지
일본의 농무성에 의한 「한국 토지 농산 조사보고」에,
1905년, 농업 생산력이 높은 한반도 남부조차,
단당의 평균 수확량은, 9두만으로,
당시의 일본의 평균 단당 평균 수확량, 1석 6두의 반강이었다.
하지만, 조선 총독부 스타트 당시 , 산미고가 약 1000 망고쿠 전후인 것에 대해,
그 후년들산미고가 증가해, 18년 후의 쇼와 3년에는 1700 망고쿠를 생산했다.
「일제 36년」의 조선 통치로,
미곡 생산 정책은 가장 한국인에 혜택을 베풀었지만 하나였다.
유사 이래, 년산 1000 망고쿠 이상을 한번도 넘은 일이 없었던 조선산 쌀 생산량은,
쇼와 시대에 들어가면 항상 2000 망고쿠를 돌피 했던 것이다.
그것은 역대 총독이, 식량 생산의 충실과 미곡 생산성의 향상에
평범치 않은 노력을 거듭해 토지 개량, 표`i종 개량, 경법의 개선, 소작법의 제정,
저리융자, 미곡 생산 장려등을 행하고 증산을 거듭해
일본내 산미와의 경쟁에 의해서 품질 향상에 노력해 왔기 때문에일 것이다.
조선산 쌀의 대일 수출은, 일본 내지의 식량부족의 구원에
큰 역할을 완수한 것은 사실이었지만,
이제(벌써) 한편에서는 일본 농민의 경쟁자가 되어, 국내의 쌀값 저락에 박차를 가해
내지의 농가에 협성과 압박을 주었다.
특히 쇼와 5, 6년의 공황 이후, 이른바 외지미 통제 문제로서 부상해,
조선 총독부와 일본 정부와의 사이의 대립을 가져왔을 정도 발전하고 있었다.
그렇지만, 조선 근대사에서는, 대일 수출에 의한 쌀값의 상승,
일본 상인에 의한 유통의 지배, 조선 상인의 종속화, 매변화를 강요 당했다든가,
농민은 정확한 미곡의 시세를 모르는 채
미곡 상인의 부르는 값으로 매도하는 것을 피할 수 없게 되었으므로,
사기와 다름없다라고인가, 한층 더 일본 상인의 고리대적취탈을 강하게 할 수 있었다
그렇다고 하는 기술도 많다.
어떠한 시대라도 미곡 상인의 「수탈」은 존재할지도 모르지만,
조선 총독부의 미곡 보호 정책은,
결코 현재의 일본 농수성의 미곡 보호 정책에 뒤떨어질 것은 없다.
와 /`A쌀값의 결정과 미작농에 대한 생산 장려 보조금의 교부 등은,
어떻게 생각해야 할 것일까.
1941년의 쌀값 설정에서는, 생산자의 실수령액 가격은,
1석으로 50엔이 되는데 대해, 소비자가격은 43엔에 보류이다.
이 차액은 정부 부담이 되었다.
43년에는 정부의 표준 매입해 가격은 44엔,
장려금등을 산입해 1석 당 62엔 50전에까지 끌어 올려졌다.
하지만, 표준 팔아 넘겨 가격은, 43엔이었다.
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쌀은 판 것이어, 약탈되었다는 것은 트집이다.
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「한국·조선과 일본인」와카츠키 야스시 수컷 1989년 원서방
일본 정부는 일본 내지의 미 부족을 보충하기 위해 조선에서 미를 증산시켜,
그것을 내지에 이출 했다.
그 때문에, 한국인은 만주로부터 수입한 조를
먹는 것을 피할 수 없게 되었다고 비난 당하고 있다.
이 주장에는, 조선에 있어서의 미의 증산 이상으로
조선으로부터 일본에의 미의 이출량이 증가해,
또 만주로부터의 조의 수입량이 증대하고 있는 통계가 나타나고,
일견 설득력이 있다인가와 같이 보인다.
「조선의 굶주림에 의해서/`A일본인의 식료가 충족 되었다」 것여
산미 증식 계획은, 실은 「미 다루어 정책」과 다름없다고 하는 것이다.
그렇지만 이 비판은, 만일 맞고 있다고 해도 15%정도 밖에
올바르다고 말할 수 있지 말고 있을것이다.그렇다고 하는 것은 위정자로서
농민의 소득수준을 올리려고 할 때 최대의 고민은,
무엇을 심게 해야할 것인가라고 하는 것이다.
그리고, 그 때 고려 해야 할것은,
농업 생산적 견지로부터 그 토지에 무엇이 적당한가라고 하는 것으로,
그 생산물에 대해서, 시장이 존재하는가 하는 농산물 유통상의 문제이다.
미는 조선에 있고는 종래 가장 많이 재배되어 온 것이며,
자연 조건이 이것에 적절해, 농민은 그 기술에 가장 익숙 하고 있는,
그리고 일본 내지라고 하는 시장은 극히 가깝다.
미의 증산으로 도모한 것은,
위정자로서 현명이라고 하는 것보다는 당연한 방침이라고 해야 하는 것이다.
쌀을 재배해 일본에 이출 한 것만을 꾸짖을 수 있지만, 그 담보로서
조선의 농민이 현금 수입을 얻은 것을 무시해서는 안 된다.
전쟁중의 식량난의 꺾어, 내지에 있어서의와 같이,
강권을 가지고 조선의 농민으로부터 미를 공출 시킨 사실은 있다.
그러나 이것과 대진`우 시대에 시작한 산미 증산 정책과는 직접적인 관계는 없고,
별개의 문제로서 채택해야 하는 것일 것이다.
또 조선의 농민은 미를 일본 내지에 이출 해,
스스로는 조를 먹는 결과가 되었다고 하는 일도,
이것 자체로서 비난에 해당되지 않는다.
시장성이 있다, 즉 가격의 비싼 것을 판매해,
싼 것으로 참는다는 것은,
농민의, 적어도 빈농의 극히 보통 패턴이다.
쌀을 재배하고 있던 일본의 농민이, 미는 축제때 정도 밖에 먹지 않고,
보리나 패(히네)를 먹고 있던 것은 잘 알려져 있다.
「쌀을 팔아, 조를 사고 식료로 했다」라고 하는 사실은,
스스로 수확한 것만을 먹는 자급 자족 단계에 있던 조선 농민이,
비싼 것을 팔아, 싼 것을 사,
그 차액으로 식료 이외의 것을 구입하고 생활수준을 올린다고 한다
시장 생산에 참가하는 농민에게 탈피한 것을 의미하는 것이다.
또한 조선 농민이 식료로서 「만주로부터 조를 수입했다」라고 하면,
심하게 곤궁화한 상황을 나타내는 것으로서 빼앗기기 쉽지만,
북조선에서는 원래 조를 음식 하는 것이 많아,
미보다 잡곡의 재배 면적 쪽이 훨씬 많았기 때문에 있다.
이제(벌써) 1?`트 덧붙이지 않으면 되지 않는 (일)것은, 조선미의 수입을,
단기간의 한시기를 제외해 일본 정부는 바라지 않았다고 하는 사실이다.
1918년의 쌀소동을 계기에 일본 내지에 있어 미의 부족이 통감되어
총독부는 1920년부터 15년간에 135만 톤의 증산계획에 착수했지만,
세계대전 후의 불경기에 의해, 쌀값은 하락의 일로를 더듬었다.
일본 정부는 미곡법을 제정해 가격 유지에 노력했지만,
그 효과는 허무했다.
이러한 상황에도 불구하고, 조선에서 증산된 미는 일본 내지에 유입해,
일로 1927 연내지 조선을 통 질질 끄는 대풍작은 쌀값을 한층 더 하락시켜,
내지의 농민의 궁박화를 불러, 일대 정치간 제목에까지 발전했다.
1931년에는, 미의 가격은 1919년의 실로 40%에 폭락했다.
이 때문에 쇼와 초년, 조선미의 내지 이입을 제한하려고 하는 농림성과
이것에 맹반대하는 조선 총독부와의 사이에 격렬한 논쟁 학리 돌려주어지게 된다.
이것은 쇼와 농정사에 있어서의 저명한 사건인 것이다.
미의 증산을 장려한 것은 일본 정부인 것이기 때문에,
그 의미에서는 자업자득이든지, 당시 , 일본 정부가 조선미의 이입을
장려하거나 강제하거나 한 사실은 전혀 없는 것이고,
사실은 그 역인 것이다.
「조선미의 이입은, 일본 농민의 희생에 의해서 행해졌다」
그렇다고 해도 과언은 아니다.
나는 조선 농민의 궁핍화를 긍정하고 있으므로도 없으면,
당시의 일본 정부를 변호하려고 의도하고 있으므로도 없다.
단지 해방 직후의 감정적인 반일 비난의 시기라면 막상 알지 못하고,
40년 지난 후에도, 사실에 반하는 비판을 태연하게 반복하는 것도,
그것을 입다물고 (듣)묻고 있는 것도, 장래의 역사가의 경멸을 살 것이다 해,
또 결코 일한(아침) 양국민에게 도움이 되지 않는다고 생각되는 것이다.
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「역사를 위조하는 한국」나카가와 하치요 2002년 토쿠마 서점
미를 일본에 이출 하고 싶으면 억지로 총독부에"강요"한 것은 한국인 농가이다.
일본은 1912년의 미 소동이 된 그 미 부족때를 유일한 예외로서
일본내의 농가의 보호를 위해서 조선미의 이입을 제한하는 것을 시도하고 있었다.
이와 같이, 조선미의 이입을 가능한 한 시키지 않는다고 하는 일본 정부와
더 이입 하라고 일본 정부에 강요하는 조선 총독부가
굉장한 싸움을 했던 것이다.
는, 한국인 농가가, 조선의 물가수준부터
파격의 쌀대금을 일본에서 손에 넣을 수 있도록,
스스로는 조나 잡곡을 먹어 미를 이출 하려고 한 것을
총독부가 전면 지원했기 때문에서 만났다.
이 한국인의 「미 이출 피버」가 한국인 전체의 건강을 해친다고 생각해
있다 해에는, 총독부가, 거기에 스톱을 걸쳐
서둘러 만주 그 외로부터 잡곡의 대량 수입을 했다.
실제로, 일본 통치하에서는 미 이출에 의해서 기아가 생긴 것은 한번도 없다.
그것을 「기아 수출」이란, 뭐라고 하는 사실의 왜곡일까.
한국인의 「과잉금 욕구 주의에 의한 미 이출 피버」라고 해야 하는 것이,
유일하게 올바른 역사이다.
실제로, 이 1920년대 후반부터 조선의 인구는 계속 증가해
한 명당의 국민소득도 큰폭으로 향상했다.보다 풍부해졌다.
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궁핍했던 이조 시대의 한국인.일본 통치 시대가 되면,
농민은 생산한 미를 비싸게 팔아, 싼 곡물을 사 나날의 식료로 했다.
식사의 질을 떨어뜨리고 돈을 모아
그래서 가재도구를 사 가지런히 하고 생활수준을 올리고 갔던 것이다.
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「조선 사정」샤를르·다레 1874 연금용권 (뜻)이유 1979년 헤본사 동양문고
당신은, 초라한 초가집이라는 것을 보았던 것이 있다지요.
그럼, 당신이 알고 있는 가장 궁핍한 초가집을,
그 아름다움과 강고함의 정도를 한층 더 떨어뜨려 상상해 봐 주세요.
그러자(면) 그것이, 초라한 조선의 거주지에 대한,
거의 정확한 모습이 되겠지요.
일반적으로 말하고, 한국인은 짚나무의 집에 살고 있습니다.
이층건물의 집은, 찾아도 쓸데 없습니다.
그러한 것을 한국인은 모릅니다.
(중략)
다음에 가구에 대해서, 간단하게 시선을 돌림 합시다.
우선 침대입니다만
한국인은 거의, 돗자리(돗자리) 위에서 잡니다.
궁핍한 사람들, 환언하면 대다수의 사람은,
낮이나 밤에도 입고 있는 같은 옷 외에는 거는 것과라고 없고,
돗자리 위에서 눕습니다.
조금이라도 돈이 있는 사람은, 이불(이불)이라고 하군 아프게 물건을 가지고 있습니다.
그 외의 가구입니다만, 궁핍한 사람들은, 더이상 그 외에 아무것도 가지고 있지 않습니다.
상민들은, 옆에 걸린 봉을 준비해, 거기에 갈아 입어를 걸어 둡니다.
유복한 사람들은, 몇개의 롱을 나무의 봉에 걸거나 지붕에 매달거나 합니다.
유복한 집에는, 꽤 들모싶은 행리(소매=대나무나 버드나무로 짠 상자)
하지만 있어요.
학자나 상인들은, 붓과 먹,
거기에 두루마리가 놓여져 있는 작은 독서대를 옆에 두어 앉아 있습니다.
젊은 부인은 치마(민족 의상)를 넣어 두는 작은 검은 장을 가지고 있습니다.
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조선의 식량부족은 급격한 인구증가에 식량 증산이
따라잡을 수 없기 때문에 일어났던 것이다.(식민지 36년에 배증)
「조선 총독부 통계 연보」조선 총독부편
연차
연말 늘 인구
1910년만 8780명 (한일합방년)
1915년만 7630명
1920년만 6078명
1925년만 3326명
1930년만 5587명
1935년만 8864명
1940년만 4563명
1944년만 0174명 (5월)
이 외 일본 내지나 만주에도 많은 한국인이 있었습니다.
한 명당의 미 소비량이 년마다 감소하고 있는 통계 자료를 꺼내고,
조선으로부터 미를 약탈한 결과라고 하는 주장도 있습니다만,
인구증가로 소식의 유년 인구의 비율이 큰폭으로 증가해 나가니까,
한국인 한 명당의 미 소비량이 감소하는 것은 당연했습니다.
또, 큰 가뭄발로 쌀의 수확확량이 격감한 해도 있었습니다.