韓国社会・一般人へのハングルの普及は、ある日本人の尽力があったという事が歴史上のFACT
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。
壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。
号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
閔泳翊
1882年8月に発生した李氏朝鮮の壬午事変では、日本公使館焼き討ち事件や公使一行襲撃事件が発生し、当時の日本の周辺地域は、外国公使館への暴動が発生するなど混迷を極めていた。事後条約となる済物浦条約の公式謝罪並びに賠償金の借款のために訪日した李氏朝鮮側の関係者に対して、外務卿の井上馨や福澤諭吉が関係者を世話したことが井上が渡鮮する契機となった。
同年12月、福澤の指示によって朝鮮政府顧問として派遣された牛場卓蔵、高橋正信に井上も同行。朝鮮の一般庶民の意識改革の為、識字率を上げる必要を感じていた福澤諭吉は、井上らに「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠」と訓示した。牛場と高橋は厳しい情勢に見切りをつけて帰国したが、井上だけは朝鮮に留まり1883年、外衙門顧問(外交顧問)に任命された。井上は、しばらくの間政府の組織・運営などについてじっくり観察していたが、改革するには王自ら乗り出さなければならないという結論に達した。そこで改革し易いような雰囲気を作るべく思い立ち、官報に近い新聞の発行を進言した。これが受け入れられ登竜門に教育・文化を扱う博文局が設立され、穏健派の金允植がその責任者となり同年10月1日、同局から「漢城旬報」を創刊した(10日に一回発行)。井上は翻訳、編集指導として関わった。「漢城旬報」は国王の認可を受け、政府の機関が発行所となったもので、朝鮮社会に与えたインパクトは大きかった。「漢城旬報」は朝鮮における最初の近代的新聞であった。ところが同国の保守派の人々は危険分子を助長させるとして反対した。また清国人は清国の従属国朝鮮が官報に独立論を掲載したのは許しがたい行為であるとし、その背後に日本があると断じ非難した。
「漢城旬報」の文章は、当初は純漢文であったが、福澤は井上から送られて来た「漢城旬報」の第一号・第二号を見て「朝鮮には諺文(ハングル)があるはずだ。諺文を使えば多くの人が読めるようになるだろう」と指摘。井上は早速ハングルの使用について検討を始めた。当時ハングルの使用については、保守派があれこれ難癖をつけ使用の目途はつかなかった。
1884年12月に朝鮮で起こった急進改革派の金玉均・朴泳孝らによる甲申政変は、韓国併合の契機となったといわれるが、井上はこの事件の巻き添えをくい、駐朝公使・竹添進一郎や在留邦人とともに命からがら首都漢城を脱出・日本に逃れた。
1885年早々、井上が朝鮮へ戻ろうとしたとき福澤は「行く必要はあるまい」と止めたが、井上は「先生がお教え下さったハングルの普及のため是非とも行かなければなりません」と言って漢城へ戻った。しかし博文局は焼け、その復旧に手間取り、ハングルを使うという空気ではなかった。そこで事あるごとにハングル使用の必要性を説き、ようやく実現の運びとなったが、ハングルの活字を作る職人がいなかった。このため井上は日本に帰り、活字職人二人を連れて漢城に戻った。井上は急ぎ準備を進め、井上の編集指導のもとに1886年1月「漢城旬報」の後継誌「漢城周報」が創刊された(週に一回発行)。この「漢城周報」は、政府公認の公文書(官報)としては初めてハングルによる朝鮮文(吏読文など、漢字表記の朝鮮語が政府の実務文書に使われることや、民間への教化や布告がハングルで出されることはあった)が使用された。ここでは、国漢文という日本の漢文訓読体をモデルにした新しい文体(ハングル創製以来使用されていた、単なる漢字交じり文とは別)が採用されたが、これは日本の漢文訓読体に通じていた日本知識人である井上のアイディア・示唆があったとされる。実際に文体を作成したのは老儒学者の姜瑋とされる。「漢城周報」の発行部数は約3000部。読者は主に役人でこの新聞自体は庶民には浸透せず、新しい文体である国漢文も植民地統治期に官報などで限定的に使用されるのみにとどまったが、新聞にハングル表記の朝鮮語が使われたという点で朝鮮におけるハングル使用のエポックとされる。
同紙は井上の指導のもとに軌道に乗ったが、はじめ協力的だった関係者の気持ちが次第に遠のいていった。背後に閔妃ら反日的な保守派が勢力をもたげたからだと言われている。朝鮮の開化を願って朝鮮へ渡り、朝鮮人と共に行動したにもかかわらず結局受け入れられず。不満を胸に同年末、井上は帰国するが、井上の帰国した後も新聞の発行は続いた。
1910年から1945年の日本統治時代にハングルは、朝鮮の普通学校(小学校)の教科書に載り、朝鮮の子供たちに普及していった。
Wikiより
한국 사회·일반인에게의 한글의 보급은, 있다 일본인의 진력이 있었다고 하는 것이 역사상의 FACT
이노우에 카쿠고로(있후 격, 만연원년 10월 18일〈1860년 11월 30일〉 - 쇼와 13년〈1938년〉9월 23일)는, 일본의 실업가, 정치가.도쿄부 평민.
임오사변 후에 조선 정부의 고문이 된다.1883년 10월에 「한성순보」를 발간, 1886년 1월에는 「한성주보」를 창간.갑신정변에 깊게 관여해, 김옥균·박영효와 관계를 가졌다.제1회의 제국 의회 중의원 의원으로 당선 이래 연속 당선 14회, 제47회까지 14회 국회의원을 맡는다.홋카이도탄광철도 사장, 일본 제강소 설립자, 회장, 국민 공업 학원 이사장, 경응의숙 평의원등을 역임해, 타이쇼 9년(1920년) 녹수 포장 하사.경부철도, 남만주철도의 설립에도 관련되었다.
호는 민비의 미노루 조카·민영익으로부터 주어진 탁원.
민영익
1882년 8월에 발생한 이씨 조선의 임오사변에서는, 일본 공사관 구워 토벌해 사건이나 공사 일행 습격 사건이 발생해, 당시의 일본의 주변지역은, 외국 공사관에의 폭동이 발생하는 등 혼미를 지극히 있었다.사후 조약이 되는 제물포 조약의 공식 사죄 및 배상금의 차관을 위해서 방일한 이씨 조선측의 관계자에 대해서, 외무경의 이노우에형이나 후쿠자와유길이 관계자를 돌보았던 것이 이노우에가 도선 하는 계기가 되었다.
동년 12월, 후쿠자와의 지시에 의해서 조선 정부 고문으로서 파견된 우장탁장, 다카하시 타다시신에 이노우에도 동행.
「한성순보」의 문장은, 당초는 순한문이었지만,후쿠자와는 이노우에로부터 보내져 온 「한성순보」의 제일호·제2호를 보고 「조선에는 언문(한글)이 있다는 두다.언문을 사용하면 많은 사람이 읽을 수 있게 될 것이다」라고 지적.이노우에는 조속히 한글의 사용에 대해 검토를 시작했다.당시 한글의 사용에 대해서는, 보수파가 이것저것 트집을 잡아 사용의 목표는 붙지 않았다.
1884년 12월에 조선에서 일어난 급진 개혁파 김옥균·박영효등에 의한 갑신정변은, 한국 병합의 계기가 되었다고 하지만, 이노우에는 이 사건의 연루를 먹어, 주조공사·죽첨신이치로우나 재류 방인과 함께 간신히 수도한성을 탈출·일본에 피했다.
동지는 이노우에의 지도하에서 궤도에 올랐지만, 초협력적이었던 관계자의 기분이 점차 멀어지고 갔다.배후에 민비등 반일적인 보수파가 세력나막신으로부터라고 말해지고 있다.조선의 개화를 바라고 조선에 건너, 한국인과 함께 행동했음에도 불구하고 결국 받아 들여지지 않고.불만을 가슴에 동년말, 이노우에는 귀국하지만, 이노우에의 귀국한 후도 신문의 발행은 계속 되었다.
1910년부터 1945년의 일본 통치 시대에 한글은, 조선의 보통 학교(초등학교)의 교과서에 실려, 조선의 아이들에게 보급 사제.
Wiki보다