時事/経済 PositiveNegativeFreeStyleArguments

台湾人「韓国は日本人がつくった」

 

黄文雄著 より

 19世紀から20世紀初頭にかけての韓国は農村から都市ソウルまで、あらゆる地域においてきわめて不衛生な生活環境であった。

 今のハングル世代は常に韓国の山紫水明を誇りにし、韓国人はどこへ行っても生水が飲める世界でも珍しく水のきれいな国だと自慢している。しかし、日帝時代以前の韓国を見た外国人は、赤裸々に当時の実情を記録している。例えば、ダレ神父の「朝鮮事情」には、韓国の「水はまずく」、水が原因でかかる早老病をはじめ様々な、「水土病」について書いている。そんな朝鮮に、慈恵医院の管制が発布されたのは1909年のことであった。本格的に近代医学医療制度が導入されたのは、朝鮮総督府時代からである。総督府が設立した大韓医院は、やがて京城帝大(現在のソウル大学)付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。各開港都市と国境都市は1910年から厳しい防疫、検疫を実旋しており、疫病の浸入防止に取り組んでいた。

 コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は1918年〜20年が最後となり、その後は乳児の死亡率が撃滅した。その後、地方の医療制度は清州、金州など順次各地で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに、150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来存続していた階級制度の廃止とともに、各道から市町村に至るまで医療設備が整備されていった。賎民も国民として、近代医療の恩恵を受けられるようになったのである。

30年代に入ると、近代医療制度の確立と普及によって、中国大陸から来襲してくる疫病を完全に食い止められるようになっていた。飢饉による餓死と、疫病による大量の死亡者を出していた中国大陸とは、天国と地獄ほどの隔世の感を抱くほどであった。ことにインド、中国から朝鮮にわたって猛威を振っていたハンセン病には徹底して対処し、6000人以上収容できる小鹿島更正園は世界的に有名になった。



「日帝36年」はほかならぬ近代医学による衛生、環境の改善と疫病の撲滅によって朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きく貢献したのである。







日帝は全国に病院を建て、無料で治療していた

http://www.pressian.com/news/article/?no=96795
プレシアン(韓国語) 2009.9.11

[医学史散歩] 全国に慈恵医院を設立しなさい!

明治天皇に感謝申し上げます
私は42歳であって、1907年から痔が発生して6年間薬を試してみたが効果がなかった。
慈しみ深い皇帝の広い徳でこの地域に慈恵医院が設置されたことにより、その恩恵を被り治療を受けた。22日ですべて良くなったので治療を通じて民を救おうと思うその神聖な恩恵に感謝して、永遠に忘れないことを約束します。


 慈恵医院で治療を受けた患者が書いた感謝の手紙だ。ここで彼が感謝しようと思った皇帝は誰であろうか?
1897年、朝鮮は従来の事大関係を脱して大韓帝国になった。国王も皇帝になった。それならこの人が感謝しようと思った皇帝は高宗?
でなければ、高宗の後を引き継いだ純宗? 皆ちがう。
この韓国人が感謝を表明した対象は、日本の明治天皇だ。なぜこの人は日本の王に感謝の手紙を送ったのだろうか?
彼が治療を受けた慈恵医院が大韓帝国でなく、日帝によって設立されたためだ。


慈恵医院の設置
 慈恵医院は1909年12月、全羅北道全州市、忠清北道清州市、1910年1月、咸鏡南道咸興市に各々設立された。1910年に10か所が増設されて計13か所、すなわち各道ごとに1か所ずつ設立された。慈恵医院が設立されたことで、地方民らは中央で建設した医療機関で治療を受けることができるようになった。1920年代中盤、道立医院に改編され、1945年の解放の頃その数は46か所に増えた。各道ごとに3か所だった。

慈恵医院は草創期に患者を無料で診療した。設立目的自体が貧しい人々の診療にあったためだ。無料診療の恩恵は韓国人らがより幅広く利用した。
 日本人の場合、府・群庁、憲兵隊、警察署、居留民団、学校組合の証明書が必要だったが、韓国人の場合、特別な証明書がなくても診療を受けることができた。



平安北道の慈恵医院(義州)と江原道の慈恵医院(春川)



慈恵医院の巡回診療
 慈恵医院は診療の恩恵を広げるために特別な努力をした。巡回診療であった。医師と助手が所属地域の主要所在地を訪問して患者を診療した。毎年1回または2回程度訪問し、1か所で大体1週間から3週間留まった。慈恵医院の所在地から遠方に居住する住民のために施行した出張診療を公式化したのだった。

 慈恵医院が増設されて巡回診療が成り立ちながら、各地方の居住民が受ける医療恩恵の範囲は広くなっていった。

 1910年に入院患者1万965人、外来患者6万2609人、計7万3574人が医療恩恵を受けたが、1918年には入院患者8135人、外来患者33万900人、計33万9035人が治療を受けた。8年で総患者数がほぼ4.6倍に近い増加率を見せたのだ。診療対象の拡大傾向は継続的につながった。明確に慈恵医院は韓国人に恩恵だった。

 しかし問題はあった。開院が心急いて行なわれ付帯施設を完備できない場合が多かった。使われていない官庁の建物を応急に修理して院務を開始したりもした。ひどくは患者を受け入れる病室を用意することが出来ない所もあった。医者たちも問題であった。軍医らが大挙診療に従事したためだ。

慈恵医院と日本軍医


朝鮮総督府医院長 藤田嗣章

 実は慈恵医院の設立自体が日本陸軍の支援のおかげで可能だった。朝鮮駐留軍が医療器具と薬品5万ウォン分を統監部に寄付することによって、慈恵医院が設立されたのだ。設立議論を進めたのも朝鮮駐留軍付軍医部長で併合後に総督府医院長になった藤田嗣章であった。

 日本軍医らは日本政府が特別に養成した医師であるだけに一般の医師より優秀だという評価を受けた。だが彼らの主な対象は負傷者の治療であった。外科経験に比べて内科経験が不足するほかはなかった。しかも彼らの治療対象は軍人である成人男性だった。軍人らに対する診療経験は豊富だが婦人と小児科の経験が不足していたことは事実だった。軍医らが一般人を対象にした診療で持つ限界は明らかだった。
 韓国人にはまた他の苦痛があった。言葉が通じなかった。通訳がいるといっても日本人医師に自らの苦痛を十分に理解させることはできなかった。韓国人患者らは「言葉と情がよく通じない医療機関で診療を受けるのは嫌」という評価が出てきた。言葉と文化が違う日本医者たちが韓国人に馴染んだ相手になることは無かった。

慈恵医院の運営予算


公州慈恵医院長 田中徳次郎

 さらに慈恵医院の設立目的だった無料診療の恩恵も順次減っていった。1910年から1917年まで60〜80%を占めた無料患者の比率は1920年代中盤を過ぎると10%に落ちた。1940年代に至ると5%以下に落ち込んでいた。皆予算のためだった。

慈恵医院が設立された当時から運営予算に対してはうるさかった。ずっと「国庫で負担するべきか適当な時期に地方予算に移すか」を巡り意見が入り乱れていた。結論は独立運営だった。自主的に運営費を充当しろとの要求であった。

 具体的には診療費と薬の価格を徴収し、さらに値上げを通じて収入を拡大する方案が検討された。結局、慈恵医院は従来割引をしていた薬の価格と診療費を上げた。

道立医院への転換
慈恵医院の運命は1920年代初期をたどりながら決定された。まず、日本本国で財政緊縮が成り立った。1923年、関東大地震は緊縮の程度を強化させた。日本本国の資金で財政不足を補充していた総督府は、日本本国で始まった財政緊縮の余波をそのまま抱き抱えるほかはなかった。総督府は自身の負担を最小化しようとした。その結果は慈恵医院の運営主体を道に移管するということだった。慈恵医院は1925年、道立医院になった。

道立医院は収益中心の運営を始めた。1925年以後に設立された道立医院に対しては、既存の慈恵医院が受けた基金の支援までなかった。自らの収益によって病院を運営しなければならなかった。運営費の調達のために多様な方式が動員された。医療スタッフには患者を熱心に診療して親切に待遇しなさいという篤励が成された。早期に退院できる患者を長期間入院させる便法が強行されたりもした。


清州の道立医院の診療光景

 開業医らは競争相手に変わってしまった道立医院を批判した。道立医院の前身は慈恵医院であり、慈恵医院は本来、貧しい患者、頼る所ない患者を救済するために設立されたものと声を高めた。だが、その批判は通じなかった。1930年代に入り日本は戦争を拡大させていった。戦争費用は福祉に投与される予算を削った。韓国人らは自らが受ける診療に対して適切な価格を支払わなければならなかった。もうこれ以上の“慈恵”はなかった。
“慈恵”の後に隠れていた意味は?


元山医院

 この文の初めに言及した感謝の手紙に戻ろう。痔の苦痛は体験してみた人だけが分かるという。トイレに行くべきかを考えただけでも苦痛だという話がある。6年もの間経験したその苦痛を、1か月にもならない時間で治療をしたというから感謝する心が生まれないことはない。感謝は当然の人間の道理だ。

 だが、この手紙が載せられた<朝鮮総督府救療機関>(1912) を読んでみると、日本人患者の感謝の手紙を探すことはできない。絶対的な数では韓国人より少なかったが、相対的な比率では高かった日本の患者の手紙がないのはなぜであろうか?

 それは韓国人患者の感謝が自発的であったのではは無かった、という証拠ではないか

 日帝は“慈恵”という名の下、地方民に対する診療を広げていた。だが、その恩恵は無料ではなかった。韓国人らは診療の主体の医師、総督、ひいては天皇に感謝を表明しなければならなかった。しかも植民支配が確固になりながら当初、韓国人が受けた恩恵は減った。医療はもうお金なしでは在り得ない対象に成っていった。


日帝期の道立医院現況(1925年以前は慈恵医院)
1909年12月:全北全州、忠北清州
1910年01月:咸南咸興
1910年09月:京畿水原、忠南公州、全南光州、慶北大邱、慶南晋州、黄海海州、
江原春川、平南平壌、平北義州、咸北京城(1920年南に移転)
1912年08月:江原江陵
1912年10月:全南済州、慶北安東、平北楚山、咸北会寧
1916年02月:全南小鹿島慈恵医院
1918年:咸北会寧医院出張院診療所
1922年02月:全北群山、全北南原、全南順天
1922年09月:慶南馬山
1922年12月:平北江界
1923年01月:慶北金川
1923年08月:咸北城津
1923年11月:咸南恵山鎭
1925年04月:京畿開城
1926年08月:平南鎭南浦
1926年12月:平南新義州
1930年06月:忠南大田
1930年07月:黄海沙里院
1931年04月:江原鉄原
1931年06月:咸北会寧医院出張院診療所
1932年05月:京畿仁川(仁川府立病院に移管)
1933年07月:咸南元山(元山府立病院に移管)
1933年10月:京畿利川
1936年03月:京畿安城
1936年12月:忠南洪城、咸南北青
1937年05月:忠北清州医院清州分院
1938年03月:平南安住
1938年12月:江原長箭
1938年12月:龍井延吉診療所(満州国に委譲)
1939年10月:江原三陟
1940年11月:平北朔州
1941年07月:慶北浦項
1942年01月:江原原州
1943年05月:黄海南天



韓国には病院が無かった

台湾人「韓国は日本人がつくった」

 

黄文雄著 より

 19世紀から20世紀初頭にかけての韓国は農村から都市ソウルまで、あらゆる地域においてきわめて不衛生な生活環境であった。

 今のハングル世代は常に韓国の山紫水明を誇りにし、韓国人はどこへ行っても生水が飲める世界でも珍しく水のきれいな国だと自慢している。しかし、日帝時代以前の韓国を見た外国人は、赤裸々に当時の実情を記録している。例えば、ダレ神父の「朝鮮事情」には、韓国の「水はまずく」、水が原因でかかる早老病をはじめ様々な、「水土病」について書いている。そんな朝鮮に、慈恵医院の管制が発布されたのは1909年のことであった。本格的に近代医学医療制度が導入されたのは、朝鮮総督府時代からである。総督府が設立した大韓医院は、やがて京城帝大(現在のソウル大学)付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。各開港都市と国境都市は1910年から厳しい防疫、検疫を実旋しており、疫病の浸入防止に取り組んでいた。

 コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は1918年〜20年が最後となり、その後は乳児の死亡率が撃滅した。その後、地方の医療制度は清州、金州など順次各地で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに、150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来存続していた階級制度の廃止とともに、各道から市町村に至るまで医療設備が整備されていった。賎民も国民として、近代医療の恩恵を受けられるようになったのである。

30年代に入ると、近代医療制度の確立と普及によって、中国大陸から来襲してくる疫病を完全に食い止められるようになっていた。飢饉による餓死と、疫病による大量の死亡者を出していた中国大陸とは、天国と地獄ほどの隔世の感を抱くほどであった。ことにインド、中国から朝鮮にわたって猛威を振っていたハンセン病には徹底して対処し、6000人以上収容できる小鹿島更正園は世界的に有名になった。



「日帝36年」はほかならぬ近代医学による衛生、環境の改善と疫病の撲滅によって朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きく貢献したのである。







日帝は全国に病院を建て、無料で治療していた

http://www.pressian.com/news/article/?no=96795
プレシアン(韓国語) 2009.9.11

[医学史散歩] 全国に慈恵医院を設立しなさい!

明治天皇に感謝申し上げます
私は42歳であって、1907年から痔が発生して6年間薬を試してみたが効果がなかった。
慈しみ深い皇帝の広い徳でこの地域に慈恵医院が設置されたことにより、その恩恵を被り治療を受けた。22日ですべて良くなったので治療を通じて民を救おうと思うその神聖な恩恵に感謝して、永遠に忘れないことを約束します。


 慈恵医院で治療を受けた患者が書いた感謝の手紙だ。ここで彼が感謝しようと思った皇帝は誰であろうか?
1897年、朝鮮は従来の事大関係を脱して大韓帝国になった。国王も皇帝になった。それならこの人が感謝しようと思った皇帝は高宗?
でなければ、高宗の後を引き継いだ純宗? 皆ちがう。
この韓国人が感謝を表明した対象は、日本の明治天皇だ。なぜこの人は日本の王に感謝の手紙を送ったのだろうか?
彼が治療を受けた慈恵医院が大韓帝国でなく、日帝によって設立されたためだ。


慈恵医院の設置
 慈恵医院は1909年12月、全羅北道全州市、忠清北道清州市、1910年1月、咸鏡南道咸興市に各々設立された。1910年に10か所が増設されて計13か所、すなわち各道ごとに1か所ずつ設立された。慈恵医院が設立されたことで、地方民らは中央で建設した医療機関で治療を受けることができるようになった。1920年代中盤、道立医院に改編され、1945年の解放の頃その数は46か所に増えた。各道ごとに3か所だった。

慈恵医院は草創期に患者を無料で診療した。設立目的自体が貧しい人々の診療にあったためだ。無料診療の恩恵は韓国人らがより幅広く利用した。
 日本人の場合、府・群庁、憲兵隊、警察署、居留民団、学校組合の証明書が必要だったが、韓国人の場合、特別な証明書がなくても診療を受けることができた。



平安北道の慈恵医院(義州)と江原道の慈恵医院(春川)



慈恵医院の巡回診療
 慈恵医院は診療の恩恵を広げるために特別な努力をした。巡回診療であった。医師と助手が所属地域の主要所在地を訪問して患者を診療した。毎年1回または2回程度訪問し、1か所で大体1週間から3週間留まった。慈恵医院の所在地から遠方に居住する住民のために施行した出張診療を公式化したのだった。

 慈恵医院が増設されて巡回診療が成り立ちながら、各地方の居住民が受ける医療恩恵の範囲は広くなっていった。

 1910年に入院患者1万965人、外来患者6万2609人、計7万3574人が医療恩恵を受けたが、1918年には入院患者8135人、外来患者33万900人、計33万9035人が治療を受けた。8年で総患者数がほぼ4.6倍に近い増加率を見せたのだ。診療対象の拡大傾向は継続的につながった。明確に慈恵医院は韓国人に恩恵だった。

 しかし問題はあった。開院が心急いて行なわれ付帯施設を完備できない場合が多かった。使われていない官庁の建物を応急に修理して院務を開始したりもした。ひどくは患者を受け入れる病室を用意することが出来ない所もあった。医者たちも問題であった。軍医らが大挙診療に従事したためだ。

慈恵医院と日本軍医


朝鮮総督府医院長 藤田嗣章

 実は慈恵医院の設立自体が日本陸軍の支援のおかげで可能だった。朝鮮駐留軍が医療器具と薬品5万ウォン分を統監部に寄付することによって、慈恵医院が設立されたのだ。設立議論を進めたのも朝鮮駐留軍付軍医部長で併合後に総督府医院長になった藤田嗣章であった。

 日本軍医らは日本政府が特別に養成した医師であるだけに一般の医師より優秀だという評価を受けた。だが彼らの主な対象は負傷者の治療であった。外科経験に比べて内科経験が不足するほかはなかった。しかも彼らの治療対象は軍人である成人男性だった。軍人らに対する診療経験は豊富だが婦人と小児科の経験が不足していたことは事実だった。軍医らが一般人を対象にした診療で持つ限界は明らかだった。
 韓国人にはまた他の苦痛があった。言葉が通じなかった。通訳がいるといっても日本人医師に自らの苦痛を十分に理解させることはできなかった。韓国人患者らは「言葉と情がよく通じない医療機関で診療を受けるのは嫌」という評価が出てきた。言葉と文化が違う日本医者たちが韓国人に馴染んだ相手になることは無かった。

慈恵医院の運営予算


公州慈恵医院長 田中徳次郎

 さらに慈恵医院の設立目的だった無料診療の恩恵も順次減っていった。1910年から1917年まで60〜80%を占めた無料患者の比率は1920年代中盤を過ぎると10%に落ちた。1940年代に至ると5%以下に落ち込んでいた。皆予算のためだった。

慈恵医院が設立された当時から運営予算に対してはうるさかった。ずっと「国庫で負担するべきか適当な時期に地方予算に移すか」を巡り意見が入り乱れていた。結論は独立運営だった。自主的に運営費を充当しろとの要求であった。

 具体的には診療費と薬の価格を徴収し、さらに値上げを通じて収入を拡大する方案が検討された。結局、慈恵医院は従来割引をしていた薬の価格と診療費を上げた。

道立医院への転換
慈恵医院の運命は1920年代初期をたどりながら決定された。まず、日本本国で財政緊縮が成り立った。1923年、関東大地震は緊縮の程度を強化させた。日本本国の資金で財政不足を補充していた総督府は、日本本国で始まった財政緊縮の余波をそのまま抱き抱えるほかはなかった。総督府は自身の負担を最小化しようとした。その結果は慈恵医院の運営主体を道に移管するということだった。慈恵医院は1925年、道立医院になった。

道立医院は収益中心の運営を始めた。1925年以後に設立された道立医院に対しては、既存の慈恵医院が受けた基金の支援までなかった。自らの収益によって病院を運営しなければならなかった。運営費の調達のために多様な方式が動員された。医療スタッフには患者を熱心に診療して親切に待遇しなさいという篤励が成された。早期に退院できる患者を長期間入院させる便法が強行されたりもした。


清州の道立医院の診療光景

 開業医らは競争相手に変わってしまった道立医院を批判した。道立医院の前身は慈恵医院であり、慈恵医院は本来、貧しい患者、頼る所ない患者を救済するために設立されたものと声を高めた。だが、その批判は通じなかった。1930年代に入り日本は戦争を拡大させていった。戦争費用は福祉に投与される予算を削った。韓国人らは自らが受ける診療に対して適切な価格を支払わなければならなかった。もうこれ以上の“慈恵”はなかった。
“慈恵”の後に隠れていた意味は?


元山医院

 この文の初めに言及した感謝の手紙に戻ろう。痔の苦痛は体験してみた人だけが分かるという。トイレに行くべきかを考えただけでも苦痛だという話がある。6年もの間経験したその苦痛を、1か月にもならない時間で治療をしたというから感謝する心が生まれないことはない。感謝は当然の人間の道理だ。

 だが、この手紙が載せられた<朝鮮総督府救療機関>(1912) を読んでみると、日本人患者の感謝の手紙を探すことはできない。絶対的な数では韓国人より少なかったが、相対的な比率では高かった日本の患者の手紙がないのはなぜであろうか?

 それは韓国人患者の感謝が自発的であったのではは無かった、という証拠ではないか

 日帝は“慈恵”という名の下、地方民に対する診療を広げていた。だが、その恩恵は無料ではなかった。韓国人らは診療の主体の医師、総督、ひいては天皇に感謝を表明しなければならなかった。しかも植民支配が確固になりながら当初、韓国人が受けた恩恵は減った。医療はもうお金なしでは在り得ない対象に成っていった。


日帝期の道立医院現況(1925年以前は慈恵医院)
1909年12月:全北全州、忠北清州
1910年01月:咸南咸興
1910年09月:京畿水原、忠南公州、全南光州、慶北大邱、慶南晋州、黄海海州、
江原春川、平南平壌、平北義州、咸北京城(1920年南に移転)
1912年08月:江原江陵
1912年10月:全南済州、慶北安東、平北楚山、咸北会寧
1916年02月:全南小鹿島慈恵医院
1918年:咸北会寧医院出張院診療所
1922年02月:全北群山、全北南原、全南順天
1922年09月:慶南馬山
1922年12月:平北江界
1923年01月:慶北金川
1923年08月:咸北城津
1923年11月:咸南恵山鎭
1925年04月:京畿開城
1926年08月:平南鎭南浦
1926年12月:平南新義州
1930年06月:忠南大田
1930年07月:黄海沙里院
1931年04月:江原鉄原
1931年06月:咸北会寧医院出張院診療所
1932年05月:京畿仁川(仁川府立病院に移管)
1933年07月:咸南元山(元山府立病院に移管)
1933年10月:京畿利川
1936年03月:京畿安城
1936年12月:忠南洪城、咸南北青
1937年05月:忠北清州医院清州分院
1938年03月:平南安住
1938年12月:江原長箭
1938年12月:龍井延吉診療所(満州国に委譲)
1939年10月:江原三陟
1940年11月:平北朔州
1941年07月:慶北浦項
1942年01月:江原原州
1943年05月:黄海南天




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