
エリザベトキスがグリーン李舜臣将軍肖像画
中日記
1月1日: 夜明けに弟の禹臣′甥の蓬′息子のがて語り合った。母上と離れ′南の地で二度目の正月を迎えることになり′切ない思いを抑えきれない。兵使の軍官李慶信が訪し′兵使の書信′正月の品′長箭片箭などを上した。
1月2日: 晴れ。の忌日(明宗妃仁順王后の祭日)につき公務は行わず。金仁甫と語り合う。
1月3日: 晴れ。東憲に出向き別防軍を点剣し′各郡や浦口に公文を送った。
1月4日:晴れ。東憲にて公大根を執る。
1月5日: 晴れ。の東憲にて公務を執る。
1月6日: 晴れ. 東憲にて公務を執る。
1月7日: 朝は晴れ′くから雪と雨が交互に終日降った。甥の蓬が牙山へ向かった。南元から′文を奉じて行く儒生が入ってきた。
1月8日: 晴れ。客に出向いた後′東憲にて公務を執る。
1月9日: 晴れ。早めの朝食後′東憲にて文を封じ′送り出した。
1月10日: 終日雨。防踏に新しい僉使として李純信が赴任してきた。
1月11日: 終日霧雨。くに東憲へ。李鳳守が先生員の採石場を視察し′「すでに十七個の巨石に穴を穿った」と報告。西門外の濠が四足ほど崩れた。沈士立と語らう。
1月12日: 止まぬ雨。客と東憲へ出向き′本および各浦口の進武たちの弓術を競わせた。 1月13日: 朝は曇り。東憲にて公務。
1月14日: 晴れ。公務の後′弓を射た。
1月15日: 曇るが雨は降らず。夜明けに望闕(王宮に向かっての)を行う。
1月16日: 晴れ。東憲にて公務。各郡の役人たちがにる。防踏の軍船の修理を怠った軍官らに杖刑を科した。私利を貪り公務を疎かにする′前途が思いやられる。また′民を苦しめた石工の朴蒙世に杖刑八十を科した。
1月17日:晴れ。冬のような寒さ。巡察使らへ書信を送る。夜′鎖を固定する石を運ぶため船四隻を先生員へ送った。
1月18日: 晴れ。東憲にて公務。呂島の第一船が還。軍功の計上を巡察使へ送った。
1月19日: 晴れ。公務後′軍士を点。
1月20日: 晴れ′風。東憲にて座起し公務を執る。
1月21日: 晴れ。東憲にて公務。監牧官が泊。
1月22日: 晴れ。朝′光陽監(魚泳潭)がにた。
1月23日:晴れ。次兄尭臣の祭日につき公務なし。預かっていた馬を送り返した。
1月24日: 晴れ。長兄羲臣の祭日につき公大根なし。巡察使の返書によれば′古阜郡守李崇古の留任を巡り動となり′職願を出したという。
1月26日: 晴れ。公務後′興陽監(〓興立)と順天府使(俊)と語らう。
1月27日: 晴れ。午後に光陽監が訪。
1月28日: 晴れ。東憲にて公務。
1月29日: 晴れ。東憲にて公務。
1月30日:曇るが雨なし。初夏のように暖かい。公務後′弓を射た。
【四月:開の急報】
4月15日: 晴れ。の忌日だが公務を執る。日暮れ時′慶右水使(元均)より「倭船九十余隻が絶影島に停泊」との報。いて左水使(朴洪)より「三百五十余隻が釜山に到着」との公門。直ちに朝廷へ長啓を上げ′諸に檄を送る。
4月16日: 夜十時′元均より「釜山落」の報。無念に身が震える。直ちに長啓を上げ′三道へ公文を送る。
4月17日: 雨のち晴れ。慶右兵使より「敵は釜山に留まり動かず」との報。弓を射る。防備の兵がと到着。
4月18日:曇り。早朝より公務。巡察使より「ポ管が罷兔されたため代役を送れ」との命。羅大用を座に送る。午後二時′「東落′梁山蔚山の守護も敗走」との報。敵を前に慶のらが撤退したと聞き′痛嘆に堪えない。軍士を率いずした兵房を投獄した。
4月19日: 晴れ。濠を掘る作業を督。午後′相格台を巡視し′入隊した七百名の軍士を点。
4月20日: 晴れ。慶察使(金)より「敵勢に抗えず。援軍を乞う長啓を上げた」との公文。
4月21日: 晴れ。城壁に軍をべ命令を下す。順天府使(俊)がけつけ′約束を交わした。
4月22日: 偵察のため軍官らを各地(金五島など)へ送る。軍士らは濠の作業を。
6月2日: 晴れ。唐浦にて敵船二十余隻を見。閣の敵を火砲で射落とすと′敵は崩した。ことごとく殲滅し′一兵もさず。
6月3日: 晴れ。敵は逃走。全羅右水使を待つ。
6月4日: 晴れ。正午′右水使(李億祺)が到着。全軍喜に沸く。
6月5日: 唐項浦にて敵船三十二隻を破。敵の首七級をげ′士は大いに振るった。
6月6日: 晴れ。敵情を伺いつつ夜を明かす。
6月7日:晴れ。栗浦にて逃走する敵船五隻を追。金浣′鄭運らが首級三十六をげた。
6月8日: 晴れ。右水使と協議。
6月9日: 晴れ。加島まで索するも敵影なし。唐浦へる。
6月10日: 晴れ。未朝に出港′右水使と協議。
【七月:閑山島および安骨浦の大勝】
7月4日: 慶の敵勢を伺い′右水使と合流。
7月5日: 約束を交わす。
7月6日:露梁にて慶右水使(元均)の船七隻と合流。窓新島にて夜を明かす。
7月7日: 風。唐浦にて「敵船七十余隻が見乃梁にあり」との情報を牧童より得る。
7月8日: 見乃梁の敵を閑山島沖へと誘い出し′**「鶴翼陣」**を敷いて猛攻。敵船七十三隻のうち多くをきい′沈させた。俊′魚泳潭′李純信ら諸が競って敵を討ち′敵を斬り捨てた。逃げ場を失った敵四百余名は島へ逃げんだ。
7月9日: 晴れ。安骨浦の敵報を受け′七千島にて夜を明かす。
7月10日: 安骨浦の敵船四十二隻を攻。地勢がしいため′全軍交代で突入。三層閣船を粉し′敵の死傷者は無。入り江は赤く染まった。
7月11日: 敵は夜陰にじて逃走。跡には凄な骸が散していた。
7月12日: 晴れ。島に逃げた敵兵は飢えに苦しんでいる。軍糧がき′全州の急報もいたため′掃討を慶側に任せ′軍を返す。
7月13日: 本に還。敵の全羅道侵球計の主力を挫いた。
7月15日: 死力をくした兵たちの功績をえ′首級の有無にかかわらず軍功を等級に分け′朝廷へ長啓を上げた。

엘리자베스 키스가 그린 이순신 장군 초상화
乱中日記
1月1日: 夜明けに弟の禹臣、甥の蓬、息子の薈が来て語り合った。母上と離れ、南の地で二度目の正月を迎えることになり、切ない思いを抑えきれない。兵使の軍官・李慶信が来訪し、兵使の書信、正月の品々、長箭・片箭などを献上した。
1月2日: 晴れ。国の忌日(明宗妃・仁順王后の祭日)につき公務は行わず。金仁甫と語り合う。
1月3日: 晴れ。東憲に出向き別防軍を点검し、各郡や浦口に公文を送った。
1月4日: 晴れ。東憲にて公무を執る。
1月5日: 晴れ。奥の東憲にて公務を執る。
1月6日: 晴れ. 東憲にて公務を執る。
1月7日: 朝は晴れ、遅くから雪と雨が交互に終日降った。甥の蓬が牙山へ向かった。南元から、伝文を奉じて行く儒生が入ってきた。
1月8日: 晴れ。客舎に出向いた後、東憲にて公務を執る。
1月9日: 晴れ。早めの朝食後、東憲にて伝文を封じ、送り出した。
1月10日: 終日雨。防踏に新しい僉使として李純信が赴任してきた。
1月11日: 終日霧雨。遅くに東憲へ。李鳳守が先生員の採石場を視察し、「すでに十七個の巨石に穴を穿った」と報告。西門外の濠が四足ほど崩れた。沈士立と語らう。
1月12日: 止まぬ雨。客舎と東憲へ出向き、本営および各浦口の進武たちの弓術を競わせた。
1月13日: 朝は曇り。東憲にて公務。
1月14日: 晴れ。公務の後、弓を射た。
1月15日: 曇るが雨は降らず。夜明けに望闕礼(王宮に向かっての礼)を行う。
1月16日: 晴れ。東憲にて公務。各郡の役人たちが挨拶に来る。防踏の軍船の修理を怠った軍官らに杖刑を科した。私利を貪り公務を疎かにする様、前途が思いやられる。また、民を苦しめた石工の朴蒙世に杖刑八十を科した。
1月17日: 晴れ。真冬のような寒さ。巡察使らへ書信を送る。夜、鎖を固定する石を運ぶため船四隻を先生員へ送った。
1月18日: 晴れ。東憲にて公務。呂島の第一号船が帰還。軍功の計上を巡察使営へ送った。
1月19日: 晴れ。公務後、軍士を点検。
1月20日: 晴れ、強風。東憲にて座起し公務を執る。
1月21日: 晴れ。東憲にて公務。監牧官が来泊。
1月22日: 晴れ。朝、光陽県監(魚泳潭)が挨拶に来た。
1月23日: 晴れ。次兄・堯臣の祭日につき公務なし。預かっていた馬を送り返した。
1月24日: 晴れ。長兄・羲臣の祭日につき公무なし。巡察使の返書によれば、古阜郡守・李崇古の留任を巡り騒動となり、辞職願を出したという。
1月26日: 晴れ。公務後、興陽県監(裵興立)と順天府使(権俊)と語らう。
1月27日: 晴れ。午後に光陽県監が来訪。
1月28日: 晴れ。東憲にて公務。
1月29日: 晴れ。東憲にて公務。
1月30日: 曇るが雨なし。初夏のように暖かい。公務後、弓を射た。
【四月:開戦の急報】
4月15日: 晴れ。国の忌日だが公務を執る。日暮れ時、慶尚右水使(元均)より「倭船九十余隻が絶影島に停泊」との報。続いて左水使(朴洪)より「三百五十余隻が釜山に到着」との公문。直ちに朝廷へ長啓を上げ、諸将に檄を送る。
4月16日: 夜十時、元均より「釜山鎮陥落」の報。無念に身が震える。直ちに長啓を上げ、三道へ公文を送る。
4月17日: 雨のち晴れ。慶尚右兵使より「敵は釜山に留まり動かず」との報。弓を射る。防備の兵が続々と到着。
4月18日: 曇り。早朝より公務。巡察使より「発ポ権管が罷免されたため代役を送れ」との命。羅大用を即座に送る。午後二時、「東莱陥落、梁山・蔚山の守護も敗走」との報。敵を前に慶尚の将らが撤退したと聞き、痛嘆に堪えない。軍士を率いず遅滞した兵房を投獄した。
4月19日: 晴れ。濠を掘る作業を督励。午後、相格台を巡視し、入隊した七百名の軍士を点検。
4月20日: 晴れ。慶尚観察使(金粋)より「敵勢に抗えず。援軍を乞う長啓を上げた」との公文。
4月21日: 晴れ。城壁に軍を並べ命令を下す。順天府使(権俊)が駆けつけ、約束を交わした。
4月22日: 偵察のため軍官らを各地(金五島など)へ送る。軍士らは濠の作業を継続。
【六月:勝利の進撃】
6月2日: 晴れ。唐浦にて敵船二十余隻を発見。楼閣の敵将を火砲で射落とすと、敵は崩壊した。ことごとく殲滅し、一兵も残さず。
6月3日: 晴れ。敵は逃走。全羅右水使を待つ。
6月4日: 晴れ。正午、右水使(李億祺)が到着。全軍歓喜に沸く。
6月5日: 唐項浦にて敵船三十二隻を撃破。敵将の首七級を挙げ、士気は大いに振るった。
6月6日: 晴れ。敵情を伺いつつ夜を明かす。
6月7日: 晴れ。栗浦にて逃走する敵船五隻を追撃。金浣、鄭運らが首級三十六を挙げた。
6月8日: 晴れ。右水使と協議。
6月9日: 晴れ。加徳島まで捜索するも敵影なし。唐浦へ戻る。
6月10日: 晴れ。未朝に出港、右水使と協議。
【七月:閑山島および安骨浦の大勝】
7月4日: 慶尚の敵勢を伺い、右水使と合流。
7月5日: 約束を交わす。
7月6日: 露梁にて慶尚右水使(元均)の船七隻と合流。窓新島にて夜を明かす。
7月7日: 強風。唐浦にて「敵船七十余隻が見乃梁にあり」との情報を牧童より得る。
7月8日: 見乃梁の敵を閑山島沖へと誘い出し、**「鶴翼陣」**を敷いて猛攻。敵船七十三隻のうち多くを焼き払い、撃沈させた。権俊、魚泳潭、李純信ら諸将が競って敵を討ち、敵将を斬り捨てた。逃げ場を失った敵四百余名は島へ逃げ込んだ。
7月9日: 晴れ。安骨浦の敵報を受け、칠천島にて夜を明かす。
7月10日: 安骨浦の敵船四十二隻を攻撃。地勢が険しいため、全軍交代で突入。三層楼閣船を粉砕し、敵の死傷者は無数。入り江は赤く染まった。
7月11日: 敵は夜陰に乗じて逃走。跡には凄惨な残骸が散乱していた。
7月12日: 晴れ。島に逃げた敵兵は飢えに苦しんでいる。軍糧が尽き、全州の急報も届いたため、掃討を慶尚側に任せ、軍を返す。
7月13日: 本営に帰還。敵の全羅道侵공計画の主力を挫いた。
7月15日: 死力を尽くした将兵たちの功績を称え、首級の有無にかかわらず軍功を等級に分け、朝廷へ長啓を上げた。

