大東亜戦争において、当時は日本であった韓国でも、今の卑怯な韓国人とは違い、多くの方が日本人としてアジア解放のために戦い、散華されました。この方々は日本人として日本を守り抜く為に命を落とされた、護国の英雄です。その中には特別攻撃隊要員つまり特攻隊員として志願し、出撃、散華された立派な朝鮮人もいらっしゃいます。
卓庚鉉(たくこうげん)(日本名・光山文博)
大正9年慶尚南道生まれ
昭和20年5月11日第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉
伊藤博文を心から尊敬していたことから、文博という日本名を自分で考えたそうです。
陸軍航空隊を志願し、昭和18年10月に特別操縦見習士官一期生として難関を突破しみごと合格した光山文博は大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となり、一年間の訓練のちに19年10月に少尉に任官す。11月に軍人になることを反対した母を亡くしています。その母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して彼の父は、「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ…。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』と言い残したんだよ」「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」すると父は「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」
光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。
三重県明野で編成された陸軍特別攻撃隊第51振武隊に所属。昭和20年4月、知覧に進出。
卓庚鉉大尉と とめさん |
特攻の母と呼ばれ、幾人もの特攻隊員を自身の経営する富家食堂でもてなし、そして「見送った」鳥浜とめさん。彼女を最も慕い、またとめさんやお嬢さんにとっても、一番忘れられない存在だったと言う、光山文博大尉(卓庚鉉)。光山文博は無口な青年でしたが、とめさんに心を開いてからは、いつも彼女の傍らから離れませんでした。とめさんが台所にいれば光山も台所に。野山に花摘みにいくときも、光山はシャベルを持ってついて回りました。 とめさんが野山で見つけた草花を、光山は根から掘って大切に持ち帰り、庭に植える。その花が根付かず枯れているのを見ると、光山は再び山に入り、同じ花を見つけては持ち帰り、だまって植え直しておきました。
台所仕事もこまめに手伝う光山に姿を見て、お嬢さんの礼子さんでさえ、本当の親子のようだと羨ましく思うほどの仲でした。知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」と普段は無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。涙を隠すために。
アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。
現在「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で故郷の慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。
金尚弼(きんしょうひつ)大正9年生まれ
9月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。
昭和20年2月11日満州新京で編成された特攻隊に自ら志願。
昭和20年4月3日 宮崎県新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 24歳。2階級特進で大尉。
満州綏中第23教育飛行隊配属に配属されている時の事です。隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「それならアリランを歌ってくれ」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和20年2月11日、満州・新京の第2飛行軍で2つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第32飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、2月25日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
彼はそのように言い切ったそうです。
林長守(りんちょうしゅ)軍曹
少年航空兵出身
昭和19年12月7日 勤王隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃 朝鮮人として最初の出撃
「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると
そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行聘の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。
山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令は聞く事が出来ません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった。
林軍曹は二式双襲(屠龍)10機の中の一員として乗り込みました。その時の戦果は、駆逐艦マハン(1630トン)輸送駆逐艦ワード(1600トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)
当時、毎日申報は、「半島神鷲」として、林軍曹のことを大きく報じました。
朴東薫(ぼくとうくん)伍長
大正15年生まれ 少年飛行兵第15期生
昭和20年3月29日 誠41・扶揺隊 知覧より97式戦闘機にて沖縄方面出撃 18歳
遺書には「靖國に召されし一身如何にせん、ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。
「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)
朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめ、迫害されて精神に異常をきたし、悶死したといわれる御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。
廬龍患(河田清治)少尉
京城法学専門学校
昭和20年5月29日
二式戦闘機(屠龍キ・45)にて御前崎上空でBー29編隊長機に体当たりを敢行 撃墜
当時、全国の新聞を飾ったこの武勲の主である河田少尉が朝鮮人であることをほとんどの日本人は知らなかった。
平成14年現在河田少尉の実弟は水原市に住まわれている。
我が国は、特攻隊員の場合は二階級特進の栄誉をもって応えた。
朝鮮の志願兵
昭和18年には6,300人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。朝鮮人の軍人軍属は242,341人であり、そのうち22,182人が第二次世界大戦で死亡または不明となり帰国していない。
年度 | 志願者 | 入所者数 | 競争倍率 |
1938年 | 2946人 | 406人 | 7.3倍 |
1939年 | 12,348人 | 613人 | 20.1倍 |
1940年 | 84,443人 | 3,060人 | 27.6倍 |
1941年 | 144,743人 | 3,208人 | 45.1倍 |
1942年 | 254,273人 | 4,077人 | 62.4倍 |
1943年 | 303,394人 | 6,000人 | 50.6倍 |
概要
下の略年表参照
1938年より陸軍特別志願兵を開始、1943年より海軍特別志願兵制度が導入された。
特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできず、朝鮮人の日本軍人は洪思翊に代表される、陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、李秉武のように旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者に限られていた。
略年表
1872年(M6) 徴兵制度はじまる
1910年 日韓併合
1938年 4月2日 朝鮮総督府・陸軍病気志願者訓練所規定
朝鮮総督府・陸軍兵志願者訓錬所生徒採用規則→ 陸軍兵特別志願
5月4日公布(5月5日施行)国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件
1941年 朝鮮総督府傷痍軍人療養所官制
1943年戦時行政特例法及許可認可等臨時措置法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件
7月 27日 海軍特別志願兵令,
1944年 朝鮮 徴兵検査⇒訓練中に終戦を迎える
強制で徴用された軍人は戦地に出る事なく終戦を迎えた。
戦争末期には朝鮮半島でも、日本人と同じく徴用されましたが、韓国人は戦争に出る事なく終戦を迎えました。
黒田福美さんらに無断で祈念碑を撤去 韓国・泗川市
女優の黒田福美さんが韓国南部に、太平洋戦争で特攻隊員として死んだ朝鮮人青年の祈念碑を建てた問題で、地元の泗川市が13日、この碑を勝手に撤去したことがわかった。黒田さんは「無断で撤去しており、行政がやる行為とは思えない」と反発している。
黒田さんは韓国の洪鍾ピル・前明知大教授らとともに、日本人として戦死した朝鮮-人たちの祈念碑を作ろうと計画。泗川市も積極的に応援し、土地などを提供、碑は完成した。だが、10日の除幕式の直前になって市は撤去方針を示した。
市側の担当者は無断撤去したことを認めた。
一方、黒田さんは「時間をおいて、韓国全体で論議してもらうためにも碑を残してもらいたかった。所有権は私自身にあり、絶対に納得できない」と憤慨している。
無念の思いを語る黒田福美さん
桜の樹を植えた特攻隊員
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社P468~470
「私は教頭をになる前に視学官をやっていました。各地を巡回していた時、韓国では珍しい女性の小学校長を訪ねたことがあります。その校名は本人に迷惑がかかるといけないので、まだ発表できません。なななか立派な人柄で、男性教師からも尊敬されていました。ところがその校長は未亡人で、子供がいないのです。校長の御主人は、どんな人だったと思いますか。韓国では余り吹聴できませんが、実は特攻隊員として、沖縄で戦死したんです。その御主人は航空隊員になると、死を覚悟してたんでしょう。出身小学校を訪ねて、校庭に桜の木を植えたんです。その桜は今は大きな樹に成長しています。未亡人は奇しくも御主人が桜を植えた学校の校長として赴任したんです。校長は言っていました『淋しい時は桜の木の下に立つと心が安まる』と。
私はこの話を日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせたました。A(朝日?)新聞の記者が、早速小学校長を取材しました。
校長は記者を桜の木の下に案内しました。すると記者は『日本の軍国主義が、御主人をダマして申し訳ないことをしました』と言ったのです。いつもは謙虚な校長でしたが『だました』という言葉には激怒しました。
『私の主人はダマされるような人ではありません。自分の意志で出撃したんです。ダマされたというのは、人間に対しての屈辱です。取材はお断りです』と。これが私の大東亜戦争観です」
張さんはこの秘話を紹介しながら、あとは何も語りませんでした。私は余韻を持たせる解答にうなりました。
大東亜戦争を評論し出したら、どんなことでも言えましょう。特に当時の朝鮮の人々にとっては複雑で一言で尽くせるものではありません。我々は評論する前に、このように生きた人々の心を深く偲びたいものです。
その張志学氏は、1992年、癌のために逝去しました。
大東亜戦争において、当時は日本であった韓国でも、今の卑怯な韓国人とは違い、多くの方が日本人としてアジア解放のために戦い、散華されました。この方々は日本人として日本を守り抜く為に命を落とされた、護国の英雄です。その中には特別攻撃隊要員つまり特攻隊員として志願し、出撃、散華された立派な朝鮮人もいらっしゃいます。
卓庚鉉(たくこうげん)(日本名・光山文博)
大正9年慶尚南道生まれ
昭和20年5月11日第51振武隊 第7次航空総攻撃として沖縄西海方面に陸軍戦闘機 隼にて出撃 戦死 24歳 2階級特進 大尉
伊藤博文を心から尊敬していたことから、文博という日本名を自分で考えたそうです。
陸軍航空隊を志願し、昭和18年10月に特別操縦見習士官一期生として難関を突破しみごと合格した光山文博は大刀洗陸軍飛行学校分教所(知覧)に配属となり、一年間の訓練のちに19年10月に少尉に任官す。11月に軍人になることを反対した母を亡くしています。その母の死に目に駆け付けた光山少尉に対して彼の父は、「ひと足遅かったなあ。お母さんは、随分待っていたのになあ…。お母さんなあ、お前の事を心配していたが、なくなる前には、もう諦めの心境なのか、『文博はもうお国に捧げた体だから、十分に御奉公するようにいって下さい』と言い残したんだよ」「じゃあ、お父さんも、僕が戦死しても嘆きませんね」すると父は「日本が勝か負けるか、大変な戦争だよ。お前も十分戦ってくれ」
光山少尉は基地に戻ってただちに特攻志願の願書を書いて、師団長に提出。
三重県明野で編成された陸軍特別攻撃隊第51振武隊に所属。昭和20年4月、知覧に進出。
卓庚鉉大尉と とめさん |
特攻の母と呼ばれ、幾人もの特攻隊員を自身の経営する富家食堂でもてなし、そして「見送った」鳥浜とめさん。彼女を最も慕い、またとめさんやお嬢さんにとっても、一番忘れられない存在だったと言う、光山文博大尉(卓庚鉉)。光山文博は無口な青年でしたが、とめさんに心を開いてからは、いつも彼女の傍らから離れませんでした。とめさんが台所にいれば光山も台所に。野山に花摘みにいくときも、光山はシャベルを持ってついて回りました。 とめさんが野山で見つけた草花を、光山は根から掘って大切に持ち帰り、庭に植える。その花が根付かず枯れているのを見ると、光山は再び山に入り、同じ花を見つけては持ち帰り、だまって植え直しておきました。
台所仕事もこまめに手伝う光山に姿を見て、お嬢さんの礼子さんでさえ、本当の親子のようだと羨ましく思うほどの仲でした。知覧の特攻隊員の多くを見送った鳥浜トメさんの経営する富屋食堂に、出撃前夜最後の別れに一人で訪れてました。他の特攻隊員の歌声に耳を傾けていた卓に、トメさんが「今夜が最後だから光山さんも歌わんね」と勧めると、「そうだね、最後だからね。それでは僕の故郷の歌を歌うから、おかあさん聞いてね」と普段は無口で恥ずかしがり屋だった光山は、被っていた戦闘帽を眼が隠れるぐらい目深に被って、あぐらをかき、柱にもたれかかってアリランを歌っています。涙を隠すために。
アリランを歌う光山は次第に涙でくしゃくしゃになって、二番は歌にならずに、いじらしく思ったとめさんは光山少尉の手を取り、トメさんの娘さん二人も手を取り合って泣いたそうです。
光山少尉こと卓庚鉉少尉はこの時トメさんに朝鮮の黄色い縞の布で作った財布を「お世話になりました。こんなもので恥ずかしいですが、受け取ってください」とお渡ししています。トメさんは「出撃記念 光山少尉」と書かれたこの形見となった財布を大切にしていて、それは今も残されています。
現在「日本陸軍隼大尉」と墓碑名に刻まれた墓で故郷の慶州で御両親といっしょに眠っているそうです。
金尚弼(きんしょうひつ)大正9年生まれ
9月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。
昭和20年2月11日満州新京で編成された特攻隊に自ら志願。
昭和20年4月3日 宮崎県新田原基地より第5編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 24歳。2階級特進で大尉。
満州綏中第23教育飛行隊配属に配属されている時の事です。隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「それならアリランを歌ってくれ」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。
その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和20年2月11日、満州・新京の第2飛行軍で2つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第32飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、2月25日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。
兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、
「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。
日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。
彼はそのように言い切ったそうです。
林長守(りんちょうしゅ)軍曹
少年航空兵出身
昭和19年12月7日 勤王隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃 朝鮮人として最初の出撃
「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると
そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。
人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行聘の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。
山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令は聞く事が出来ません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった。
林軍曹は二式双襲(屠龍)10機の中の一員として乗り込みました。その時の戦果は、駆逐艦マハン(1630トン)輸送駆逐艦ワード(1600トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)
当時、毎日申報は、「半島神鷲」として、林軍曹のことを大きく報じました。
朴東薫(ぼくとうくん)伍長
大正15年生まれ 少年飛行兵第15期生
昭和20年3月29日 誠41・扶揺隊 知覧より97式戦闘機にて沖縄方面出撃 18歳
遺書には「靖國に召されし一身如何にせん、ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。
「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)
朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめ、迫害されて精神に異常をきたし、悶死したといわれる御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。
廬龍患(河田清治)少尉
京城法学専門学校
昭和20年5月29日
二式戦闘機(屠龍キ・45)にて御前崎上空でBー29編隊長機に体当たりを敢行 撃墜
当時、全国の新聞を飾ったこの武勲の主である河田少尉が朝鮮人であることをほとんどの日本人は知らなかった。
平成14年現在河田少尉の実弟は水原市に住まわれている。
我が国は、特攻隊員の場合は二階級特進の栄誉をもって応えた。
朝鮮の志願兵
昭和18年には6,300人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。朝鮮人の軍人軍属は242,341人であり、そのうち22,182人が第二次世界大戦で死亡または不明となり帰国していない。
年度 | 志願者 | 入所者数 | 競争倍率 |
1938年 | 2946人 | 406人 | 7.3倍 |
1939年 | 12,348人 | 613人 | 20.1倍 |
1940年 | 84,443人 | 3,060人 | 27.6倍 |
1941年 | 144,743人 | 3,208人 | 45.1倍 |
1942年 | 254,273人 | 4,077人 | 62.4倍 |
1943年 | 303,394人 | 6,000人 | 50.6倍 |
概要
下の略年表参照
1938年より陸軍特別志願兵を開始、1943年より海軍特別志願兵制度が導入された。
特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできず、朝鮮人の日本軍人は洪思翊に代表される、陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、李秉武のように旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者に限られていた。
略年表
1872年(M6) 徴兵制度はじまる
1910年 日韓併合
1938年 4月2日 朝鮮総督府・陸軍病気志願者訓練所規定
朝鮮総督府・陸軍兵志願者訓錬所生徒採用規則→ 陸軍兵特別志願
5月4日公布(5月5日施行)国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件
1941年 朝鮮総督府傷痍軍人療養所官制
1943年戦時行政特例法及許可認可等臨時措置法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件
7月 27日 海軍特別志願兵令,
1944年 朝鮮 徴兵検査⇒訓練中に終戦を迎える
強制で徴用された軍人は戦地に出る事なく終戦を迎えた。
戦争末期には朝鮮半島でも、日本人と同じく徴用されましたが、韓国人は戦争に出る事なく終戦を迎えました。
黒田福美さんらに無断で祈念碑を撤去 韓国・泗川市
女優の黒田福美さんが韓国南部に、太平洋戦争で特攻隊員として死んだ朝鮮人青年の祈念碑を建てた問題で、地元の泗川市が13日、この碑を勝手に撤去したことがわかった。黒田さんは「無断で撤去しており、行政がやる行為とは思えない」と反発している。
黒田さんは韓国の洪鍾ピル・前明知大教授らとともに、日本人として戦死した朝鮮-人たちの祈念碑を作ろうと計画。泗川市も積極的に応援し、土地などを提供、碑は完成した。だが、10日の除幕式の直前になって市は撤去方針を示した。
市側の担当者は無断撤去したことを認めた。
一方、黒田さんは「時間をおいて、韓国全体で論議してもらうためにも碑を残してもらいたかった。所有権は私自身にあり、絶対に納得できない」と憤慨している。
無念の思いを語る黒田福美さん
桜の樹を植えた特攻隊員
「日韓共鳴二千年」名越二荒之助著 明成社P468~470
「私は教頭をになる前に視学官をやっていました。各地を巡回していた時、韓国では珍しい女性の小学校長を訪ねたことがあります。その校名は本人に迷惑がかかるといけないので、まだ発表できません。なななか立派な人柄で、男性教師からも尊敬されていました。ところがその校長は未亡人で、子供がいないのです。校長の御主人は、どんな人だったと思いますか。韓国では余り吹聴できませんが、実は特攻隊員として、沖縄で戦死したんです。その御主人は航空隊員になると、死を覚悟してたんでしょう。出身小学校を訪ねて、校庭に桜の木を植えたんです。その桜は今は大きな樹に成長しています。未亡人は奇しくも御主人が桜を植えた学校の校長として赴任したんです。校長は言っていました『淋しい時は桜の木の下に立つと心が安まる』と。
私はこの話を日本人に知って貰いたいと思って、ソウルにいる日本の新聞記者にそれとなく知らせたました。A(朝日?)新聞の記者が、早速小学校長を取材しました。
校長は記者を桜の木の下に案内しました。すると記者は『日本の軍国主義が、御主人をダマして申し訳ないことをしました』と言ったのです。いつもは謙虚な校長でしたが『だました』という言葉には激怒しました。
『私の主人はダマされるような人ではありません。自分の意志で出撃したんです。ダマされたというのは、人間に対しての屈辱です。取材はお断りです』と。これが私の大東亜戦争観です」
張さんはこの秘話を紹介しながら、あとは何も語りませんでした。私は余韻を持たせる解答にうなりました。
大東亜戦争を評論し出したら、どんなことでも言えましょう。特に当時の朝鮮の人々にとっては複雑で一言で尽くせるものではありません。我々は評論する前に、このように生きた人々の心を深く偲びたいものです。
その張志学氏は、1992年、癌のために逝去しました。