投稿が、かなり遅れてしまいましたが、1月の前半、個人的に休みだった日に、一人で、東京都心部の白金(shirokane)areaにある、東京都庭園美術館に、企画展示(美術館が、テーマを決めて、一時的に、行う展示)を見に行った際、ついでに、白金(shirokane)areaの住宅地を、ぶらぶらと散歩してきた時の物です。
以下、白金(shirokane)散歩&食べ物1からの続き。。。
東京都心部の高級住宅地・商業地の一つで有る、白金(shirokane)エリア(area)に有る、東京都庭園美術館は、地方自治体(東京都)が運営する、企画展(exhibition)を中心とした、公営の美術館です。東京都庭園美術館は、元々、宮家の一つで有った、朝香宮(asakanomiya)家の邸宅だったものです。宮家とは、皇族(天皇の一族(親族))の内、天皇家から独立した生計を営み、且つ、天皇から称号(宮号)を賜り、代々、皇族(天皇の一族)の身分の保持を許された家(家族)で(wiki等を参考にしました)、現在は、宮家は、5つしか存在しませんが、第2次世界大戦が終った直後には、日本には、朝香宮(asakanomiya)家を含む、14の宮家が存在していました。
かつての朝香宮(asakanomiya)家の邸宅を活用した、東京都庭園美術館(上の写真)は、敷地面積、約35,360平方m(約10,700坪)と、ゆったりとした敷地を有しています(東京都庭園美術館の建物については、次回の投稿で紹介します)。ちなみに、朝香宮(asakanomiya)家は、第二次世界大戦前、この東京の邸宅(本邸(mainの邸宅)。現在は、東京都庭園美術館となっている)の他に、私が知る限り、軽井沢(karuizawa。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)と熱海(atami。東京に近い、規模の大きな温泉保養地。第二次世界大戦後は、東京から1泊2日で気軽に行ける大衆的な温泉保養地として、急速に開発されたが、昔(特に第二次世界大戦前)は、(中流階級から庶民の夫婦の)新婚旅行のメッカ(mecca)として、又、富裕層の別荘地として、有名であった)に、別荘を保有していました。かつての朝香宮(asakanomiya)家の軽井沢(karuizawa)の別荘(敷地面積約36,000平方m(約10,900坪))は、第二次世界大戦後、resortホテル(1964年からは、一般市民の利用を受け付けない、皇室(天皇家)専用のホテルとなった)となり、熱海(atami)の別荘は、第二次世界大戦後、宮家の地位と、東京の本邸(mainの邸宅)(現在の東京都庭園美術館)を失った、朝香宮(asakanomiya)家の本邸(mainの邸宅)となりました(第二次世界大戦後、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、熱海(atami)で、趣味のゴルフ(golf)三昧の生活を送りました。wikiより)。
かつての、朝香宮(asakanomiya)家の邸宅(東京の本邸(mainの邸宅))を活用した、東京都庭園美術館は、通常は、美術品・工芸品の展覧会(exhibition)を行っているのですが、この時は、(異色の展覧会(exhibition)である)、「朝香宮(asakanomiya)のグランドツアー(Grand Tour)」と言う展覧会(exhibition)を行っていました。
展覧会(exhibition)のチケット(ticket)。
以下、この展覧会(exhibition)の概要については、ほぼ、美術館のsiteの文を引用しました。
この展覧会(exhibition)は、朝香宮(asakanomiya)夫妻のヨーロッパ滞在とアール・デコ(Art Deco)博覧会との出会い、日本に帰国後、朝香宮(asakanomiya)家の、新しい本邸(mainの邸宅)(現在の、東京都庭園美術館)建設に至るまでの逸話などを、美術館所蔵作品のほか、朝香宮(asakanomiya)家の邸宅の調度品や、朝香宮(asakanomiya)家ゆかりの品々、写真類等、新たに公開する資料を加えて紹介する展覧会(exhibition)です。
ちなみに、朝香宮(asakanomiya)夫妻(朝香宮(asakanomiya)鳩彦(ysuahiko)王・朝香宮(asakanomiya)允子(nobuko)妃)は、昭和(showa)天皇(Hirohito天皇。先代(第124代)の日本の天皇)の、それぞれ、義理の叔父一人と、叔母の一人に当たります。

以下、この展覧会(exhibition)に関する説明は、上の、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約した物です。
かつて、イギリスの貴族の息子や娘達は、学業(勉強)の総仕上げとして、数ヶ月から数年に及ぶ、海外への大旅行「グランドツアー(Grand Tour)」を経験しました。多くの場合、その目的地は、当時の文化的な先進国であった、フランスや、イタリアであり、身の回りの世話をする、御用掛(goyougakari)や家庭教師を同行しての、大掛かりな物でした。彼等は、この旅行で、異文化や芸術に触れると共に、現地の上流階級との交流を通じて、一人前のイギリス紳士・淑女へと成長していったのです。
1922年10月30日、当時35歳の朝香宮(asakanomiya)鳩彦(ysuahiko)王は、軍事研究の名目で、家族を日本に残し、ヨーロッパへと旅立ちました。明治(meiji)期(19世紀末から1910年代初め)以来、「国家有用(日本の経済的・文化的な発展に役立つ)」となる技術や新知識の吸収を目的とした、皇族(天皇の一族)や貴族の、渡欧(ヨーロッパに渡る事)が、慣例化していました。朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王の、ヨーロッパ滞在は、名目上は、軍事研究の為とされましたが、実際には、皇族(天皇の一族)の一員として、見聞を広める事と、現地の王族や貴族との文化的交流を目的とした物でした。
朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、特別列車で東京を出発し、九州(kyusyu)北部の門司(moji)港から、日本郵船株式会社の客船、伏見丸(fushimi maru)(約11,000トン)に乗船、フランスのマルセイユ(Marseille)に向けての、遥かなる旅に出発しました。朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、初めて目にする寄港地ごとに、その感想を記した絵葉書を日本の家族へ送りました。
12月中旬、マルセイユ(Marseille)に到着した朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、次いで、鉄道で、パリ(Paris)に入りました。当時、パリ(Paris)には、既に、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王の従兄弟夫妻である、北白川宮(kitashirakawanomiya)家(宮家)の、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王と、その妻、房子(fusako)妃、また、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王の、弟(実弟)である、東久邇宮(higashikuninomiya)家(宮家)の、東久邇宮(higashikuninomiya)稔彦(naruhiko)王が、暮らしていました。彼らは、貴族ではなく、皇族(天皇の一族)でしたが、敢えて、貴族の称号である、「伯爵」を名乗っていました。北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王は、北(kita)伯爵、東久邇宮(higashikuninomiya)稔彦(naruhiko)王は、東(higashi)伯爵です。これは、皇族(天皇の一族)の海外留学時の慣例として広く行われていた手法で、相手国に対して、皇族(天皇の一族)訪問の正式な対応を求めずに済み、現地での警護や外交儀礼も大幅に簡略化されると言う利点がありました。何より、皇族(天皇の一族)本人にとっては、堅苦しい身分から開放され、旅行中は、一個人として柔軟なスケジュール(schedule)が組めると言う点は魅力であり、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王も、この慣例に従って、ヨーロッパ滞在中は、「朝(asa)伯爵」を仮の名前として、使用していました。
朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、パリ(Paris)の16区(16th arrondissement)の、当時、北(kita)伯爵(北白川宮(kitashirakawanomiya))夫妻の暮らしていた近くの、アパルトマン(appartement)の最上階を借り受け、パリ(Paris)での住まいとしました。
1923年4月1日、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王夫妻から、driveに誘われました。北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王と、その妻、房子(fusako)妃、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王、御用掛(goyougakari)(高貴な者の、身の回りの世話に従事する者)のフランス人女性を乗せた、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王所有の、ヴォワザン(Avions Voisin)23cvは、フランス人の、御付運転手(専属driver、chauffeur)の運転で、ノルマンディー(Normandy)地方へと向かう道を快適に走り、途中、エヴルー(Evreux)に立ち寄って、昼食を済ませました。
昼食後は、御付運転手(chauffeur)に代わって、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王が運転を行いました(driveが好きな、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王は、自ら自動車を運転する事も、珍しくありませんでした)。北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王が運転する、排気量、約4,000ccの、ヴォワザン(Avions Voisin)23cv型リムジン(limousine)は、海沿いの保養地、ドーヴィル(Deauville)へと続く、国道を、矢の様な速さで、疾駆続けます。隣に座っていた、運転手(chauffeur)が、速度計を覗きこんだ時、既に、速度は、100kmを超えていたと言う事です。
一行を乗せた、ヴォワザン(Avions Voisin)23cvが、パリ(Paris)から、北西に100kmあまり離れた場所を走っている時でした。並木が続く未舗装の道の前方に、やがて一台の先行車が見え始め、その姿が、たちまち大きくなってきました。この自動車を追い越して、先を急ごうとしたのでしょう。北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王は、対向車線へと、ハンドル(steering wheel)を切り、さらに、アクセル(accelerator)を踏み込んで、先行車の前方に出ました。そして、再び、元の車線に戻ろうとした瞬間、バランス(balance)を崩した、ヴォワザン(Avions Voisin)23cvは、大きく傾いたまま、速度を落とす間もなく、路肩の並木に激しく激突、大破してしまいました。
この事故で、運転手(chauffeur)は、即死し、北白川宮(kitashirakawanomiya)成久(naruhisa)王も、間も無く、その場で、息を引き取りました。一方、房子(fusako)妃と、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王、御用掛(goyougakari)(高貴な者の、身の回りの世話に従事する者)のフランス人女性は、重傷を負いはしたものの、奇跡的に一命を取り留めて、事故現場近くの町の病院へと搬送され、応急処置を受ける事となりました。
事故を報じる、フランスの新聞紙(展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。)。
日本に事故の第一報が届いた時、朝香宮(asakanomiya)允子(nobuko)妃は、子供達と、関西(kansai)方面を旅行中でした。知らせを聞いた、允子(nobuko)妃は、その時、「エイプリル・フール(April fool)の冗談でしょ!」と叫んだと伝えられています。やがて、日本でも、事故の詳細が、次々と、明らかになり始めました。
允子(nobuko)妃は、事故に遭った、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王と北白川宮(kitashirakawanomiya)房子(fusako)妃(允子(nobuko)妃の実の姉)の看護の為、まだ、幼い子供達を日本に残して、パリ(Paris)へと旅立つ事を決心しました。
1923年4月下旬、允子(nobuko)妃を乗せた、日本郵船株式会社の客船、筥埼丸(hakozaki maru)は、半年前に、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王がたどったばかりの、欧州(Europe)航路を、一路、マルセイユ(Marseille)へと向かいました。允子(nobuko)妃も、鳩彦(yasuhiko)王と同じ様に、日本の子供達に向けて、寄稿する先々から、絵葉書を出しています。
1923年6月10日、允子(nobuko)妃は、パリ(Paris)に到着しました。この時、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王は、パリ(Paris)の病院に転院し、外科の権威であったアンリ・アルトマン医師による、当時最新の治療を受けていました。
パリ(Paris)の病院に入院中の、鳩彦(yasuhiko)王(展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。)。。
一時は、重体であった、鳩彦(yasuhiko)王は、すでに危機的な状況を脱し、ベッド(bed)の上に起き上がって、会話が出来るまでに、回復していました。その様子を見て、允子(nobuko)妃も安心したのでしょう。看病に通う日々の生活の合間に、フランス語と、水彩画のレッスン(lesson)を受ける事になりました。
この時、允子(nobuko)妃に、水彩画を教授していたのは、レオン・ブランショ(Leon Blanchot)と言う、フランス人彫刻家でした。幼少の頃より絵を描く事が好きだった允子(nobuko)妃は、ブランショ(Blanchot)の指導を受けて描いた静物画等、多くの作品を、フランス滞在中に残しています。このブランショ(Blanchot)が、水彩画を教授する事となった詳しい経緯は分かりませんが、両者の交友は、朝香宮(asakanomiya)夫妻の帰国まで続いたと思われます。1933年に完成した、朝香宮(asakanomiya)家の、新しい邸宅(現在の東京都庭園美術館)の、広間と食堂(dining room)には、ブランショ(Blanchot)の手による、レリーフ(relief)と壁画彫刻が採用されている事から、フランス人artist達が参加した、アールデコ(Art Deco)様式の、朝香宮(asakanomiya)家の、新しい邸宅の誕生に際して、実は、ブランショ(Blanchot)が、大変重要な役割を担ったのではないかと推測されています。
1923年、11月30日。医師より退院を許可され、ようやく、パリ(Paris)の16区(16th arrondissement)の自邸(パリ(Paris)での滞在先)へ戻った、鳩彦(yasuhiko)王は、療養とリハビリ(rehabilitation)を兼ねて、允子(nobuko)妃と共に、ブローニュの森(Bois de Boulogne)を散策する日々となります。
ブローニュの森(Bois de Boulogne)、アンフェリュール(Lec Inferieur)湖畔にで。。。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
夫婦が、パリ(Paris)で、穏やかな療養生活を送っていた頃、日本では、9月1日に、関東大震災(1923年に東京圏を襲った巨大地震。東京都心部等が、大きな被害を受けた)が、発生し、東京の、朝香宮(asakanomiya)家の邸宅(本邸(mainの邸宅))も、少なからず、被害を受けていました。今日の様に、便利な通信手段のなかった当時にあっては、夫妻の不安も、より、一層、大きかったのではないでしょうか。
朝香宮(asakanomiya)夫妻のパリ(Paris)での日常生活は、部屋には、常に近所の花屋から取り寄せた生花が飾られ、夫婦の食事や身の回りの世話をする、現地で雇った使用人が、数名働いていました。外出の際には、運転手(chauffeur)付きの自動車に乗り、時には、「La Tour d"Argent」や「Prunier」の様なレストランで、外食する事もありました。また、遠く離れて暮らす子供達の為に、絵本や服、自転車、楽器等を購入して、日本に送ったりもしています。
パリ(Paris)の写真館で撮影された、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王のポートレート(portrait)。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
左の写真。朝香宮(asakanomiya)允子(nobuko)妃。パリ19区(19th arrondissement)の、ビュット・ショーモン(Buttes Chaumont)公園にて。。。写真は、朝香宮(asakanomiya)鳩彦(yasuhiko)王が撮影した物と思われます。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
允子(nobuko)妃(写真右)と、杉岡(sugioka)御用掛(goyougakari)(写真左)。御用掛(goyougakari)は、高貴な者の、身の回りの世話に従事する者です。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
当初より、ヨーロッパ滞在の、重要な目的となっていた、現地の貴族や有力者との交流も、精力的に行われました。
ユゼス侯爵夫人主催の、宮廷式狩猟宴に招かれた、朝香宮(asakanomiya)夫妻。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
下の写真。現地貴族の晩餐会に、主賓として招かれた、鳩彦(yasuhiko)王。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
1925年、4月から11月にかけて、パリ(Paris)で開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(通称アール・デコ(Art Deco)博覧会)は、絵画や彫刻等の純粋美術に対する、「装飾美術」の地位向上と、大量生産・大量消費社会を背景とした、新時代に相応しいデザイン(design)を提唱する場として、フランス装飾美術家協会が、政府に働きかけて、実現した物でした。主催国のフランスは、政府を始め、工房等の民間に至るまで、様々な展示館を出展し、デザイン(design)や工芸の中心地としての、パリ(Paris)の地位の確立と、産業美術の発展に伴う、経済の活性化を目指していました。日本を含む、22カ国による、150もの展示館が立ち並んだ会場内は、常に活気にあふれ、多くの見学者達で、賑わっていました。
数ある展示の中でも、ひときわ目を引いたのは、当時、ガラス(glass)工芸家として、既に、大活躍をしていた、ルネ・ラリック(Rene Lalique)の一連の仕事ぶりでした。中でも、会場内、最奥部のメインエリア(博覧会の中心地区)に設けられた、ルネ・ラリック(Rene Lalique)自身の展示館と、高さ15mに及ぶ、ガラス(glass)製噴水塔の展示は、建築関連分野での、ガラス(glass)の可能性を追求していた、ルネ・ラリック(Rene Lalique)の名声を、国際的なものとしました。
アール・デコ(Art Deco)博覧会。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
右上の写真は、ルネ・ラリック(Rene Lalique)の、ガラス(glass)製噴水塔。下の写真は、博覧会会場、空撮。
アール・デコ(Art Deco)博覧会で、堅実な仕事ぶりを披露していた、フランス人artistは、ルネ・ラリック(Rene Lalique)だけではありませんでした。博覧会の主催者である、フランス装飾美術家協会の副会長として、博覧会の実現に力を尽くした、装飾美術家、アンリ・ラパン(Henri Rapin)です。アンリ・ラパン(Henri Rapin)は、事務局の要職者として、博覧会の運営に携わる一方で、フランス政府が出展した、「フランス大使館」部門の装飾にも腕を振るい、応接サロン(salon)や大食堂等、中心となる部屋の内装を担当する等、その活躍ぶりは、決して、ルネ・ラリック(Rene Lalique)にも劣らないものでした。
1925年7月9日、朝香宮(asakanomiya)夫妻は、アール・デコ(Art Deco)博覧会の会場を訪れました。日本の皇族(天皇の一族(親族))としての、公式の視察であった為、フランス滞在中、朝香宮(asakanomiya)夫妻にも、この時ばかりは、伯爵夫妻ではなく、「朝香宮(asakanomiya)同妃両殿下」の敬称が用いられています。その様子は、現地のニュース映画(newsreel)や新聞紙上でも、大きく採り上げられ、今日でも、その概要を知る事が出来ます。朝香宮(asakanomiya)夫妻は、フランス美術局長の案内で、博覧会を見学し、最後は、日本館(日本の展示館)の前から、自動車に乗って、会場を後にしました。フランスの、ニュース映画(newsreel)会社、ゴーモン(Gaumont)のアーカイブ(archive)には、この時の様子を記録した映像が、現在も、残されています。この映像に残された、朝香宮(asakanomiya)允子(nobuko)妃の、にこやかな表情は、博覧会が、いかに魅力的であったかを物語る様です。夫妻の見学の経路上には、ルネ・ラリック(Rene Lalique)や、アンリ・ラパン(Henri Rapin)、そして、允子(nobuko)妃に、水彩画の指導をしていた、彫刻家、レオン・ブランショ(Leon Blanchot)が、手がけた作品も、展示されていました。この時の出会いが、朝香宮(asakanomiya)夫妻の帰国後に開始される、アール・デコ(Art Deco)様式の、朝香宮(asakanomiya)家の、新しい東京の本邸(mainの邸宅)の建設に際して、大きな影響を与えたであろう事は、想像に難くありません。
鳩彦(yasuhiko)王の傷が癒えた頃より、朝香宮(asakanomiya)夫妻は、ヨーロッパ各国への視察旅行へと出発しました。その足跡は、イギリス、オランダ、ベルギー(Belgium)、ドイツ、オーストリア、ハンガリーを始め、デンマークやノルウェー、スウェーデン等、北欧各国から、スペイン、イタリアにまで、及んでいます。これらの旅行は、鳩彦(yasuhiko)王の転地療養の一環と言う意味合いがありましたが、それ以上に、日本の皇族((天皇の一族(親族))として、広く世界を見聞するという事に、より重きが置かれていました。その行程中に、天皇の名代(代理)として、オランダの、ウィヘルミナ(Wilhelmina)女王、ベルギー(Belgium)の、アルベール一世(Albert I)国王ら国家元首との会談を行う等、皇族((天皇の一族(親族))本来の役割も、果たしています。
左上の写真。朝香宮(asakanomiya)夫妻の愛車、ヴォワザン(Avions Voisin)24hp。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
写真以下2枚。自動車旅行中の、朝香宮(asakanomiya)夫妻。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
オランダの、ウィヘルミナ(Wilhelmina)女王と共に。。。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
運転手(chauffeur)の横で、午睡する、御用掛(goyougakari)の相馬孟胤(souma taketane)子爵と、後席の、允子(nobuko)妃。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
朝香宮(asakanomiya)夫妻と共に、グランドツアー(Grand Tour)を体験した、御用掛(goyougakari)(高貴な者の、身の回りの世話に従事する者)の人々は、朝香宮(asakanomiya)夫妻に代わり、金銭の出納管理や日程調整、時には、通訳もこなす秘書の様な役割も担っていました。鳩彦(yasuhiko)王には、元、学習院(gakusyuin)の英語教師の、稲葉(inaba)御用掛(goyougakari)と御付武官の藤岡萬蔵(fujioka manzo)中佐が随行し、允子(nobuko)妃には、宮岡(miyaoka)御用掛(goyougakari)と、杉岡(sugioka)御用掛(goyougakari)が同行、パリ(Paris)到着後に、フランス人女性の御用掛(goyougakari)が、現地雇用されました。さらに、允子(nobuko)妃が、ヨーロッパに渡る時、鳩彦(yasuhiko)王の、御用掛(goyougakari)として、宮内省(天皇および皇族(天皇の一族(親族))の日常生活、教育、財産管理等、あらゆる側面を支える官庁。wikiより。。。)から派遣された、貴族の、相馬孟胤(souma taketane)子爵が、加わりました。相馬孟胤(souma taketane)子爵は、東京帝国大学(東京大学の前身の大学)理学部植物学科を卒業後、宮内省に出仕しました(勤めに出ました)。日本に帰国後は、植物学の知識を活かして、ゴルフ場(golf course)に不可欠な、常緑芝の研究に没頭し、日本の気候風土でも育つ、洋芝(西洋芝)を発見した事で知られています。
御用掛(goyougakari)の、相馬孟胤(souma taketane)子爵と、相馬孟胤(souma taketane)子爵の愛車、フィアット(Fiat)20p。南フランスからパリ(Paris)に向かう途中にて。。。展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。
朝香宮(asakanomiya)夫妻は、1925年10月、パリ(Paris)を後にし、アメリカ経由で、日本に帰国しました。初めて目にする、大国アメリカの姿は、ヨーロッパ各国を旅した夫妻にとっても、たいへん新鮮に映った様です。ナイアガラの滝(Niagara Falls)を訪れた、允子(nobuko)妃は、照明に照らされた、夜のナイアガラの滝(Niagara Falls)を見ながら、「お金持ちの国のする事は、また格別です」と、その光景に圧倒されています。
サンフランシスコ(San Francisco)から、東洋汽船株式会社の客船、天洋丸(tenyo maru)(13,500トン)に乗船した、朝香宮(asakanomiya)夫妻は、1925年12月中旬に、横浜港へと入港し、この瞬間、朝香宮(asakanomiya)夫妻の、グランドツアー(Grand Tour)も、終わりを告げました。
朝香宮(asakanomiya)夫妻が、残した、最も大きな遺品は、現在、東京都庭園美術館となっている、アール・デコ(Art Deco)様式の、朝香宮(asakanomiya)家の、新しい邸宅です。
夫妻の帰国後、1931年頃より開始された、朝香宮(asakanomiya)家の新しい東京の本邸(mainの邸宅)の新築工事は、皇室(天皇および皇族(天皇の一族(親族))関係の建築を担当していた宮内省内匠寮の、建築家、権藤 要吉(gondou youkichi)が中心となって進められました。建物を特徴付ける内外装には、当時最先端の装飾様式であった、アール・デコ(Art Deco)が採用されています。これは、言うまでもなく、朝香宮(asakanomiya)夫妻の、強い希望が反映されての事でした。
次回の投稿では、この、朝香宮(asakanomiya)家の、アール・デコ(Art Deco)様式の、東京の新しい邸宅(1933年完成)(現在は、東京都庭園美術館の建物として使われている)を、見て行きたいと思います。
白金(shirokane)散歩&食べ物3へ続く。。。
写真以下6枚は、おまけですが、板違い防止用。
写真以下4枚。先月(11月)の第三週の火曜日、仕事の用事で、白金(shirokane)areaを訪れた際に、フランス料理を中心とした西洋料理を出すcafeで食べた昼食。このcafe(最近改装された様です)は、かなり目立つ場所にあるのですが、最近、初めて利用しました(この時の前の週に、仕事の用事で、白金(shirokane)areaを訪れた際に、初めて利用しました。この時の前の週に、このcafeで昼食を取った際は、スペイン風オムレツ(omeltte)(前菜)、暖かい南瓜のスープ(soup)、目鯛のポワレ(poele)帆立添え(main料理)、デザート(紫芋のムース(mousse)、クリームブリュレ(cream brulee)、ダックワーズ(dacquoise))、パンを食べました)。このcafeは、白金(shirokane)areaにしては(白金(shirokane)areaは、高級フランス料理レストランが多いイメージがあります)、手頃な値段で食事が出来き(と言うか、白金(shirokane)areaと言う場所を考慮しなくても、内容に比べて、安い値段だと思います)、料理の味も、全般的に、美味しいと思いました。このcafeでは、サービス(service)料(サービス(service)料金)を取られなかったのですが、この時の前の週に、このcafeを、初めて利用した時は、サービス(service)の良さも、印象に残りました。日本では、チップ(tip)の習慣が無い代わりに、比較的高級なレストラン・食堂では、(サービス(service)が良い代わりに)、サービス(service)料金(通常、飲食代金の10%)を取る店が多いのですが、この時の前の週に、このcafeを利用した時の、このcafeのサービス(service)の水準は、十分に、サービス(service)料を取っても良い水準でした(この時の前の週に、このcafeを利用した時の、このcafeのサービス(service)の水準よりも劣るサービス(service)の水準で、サービス(service)料をとるレストランも結構あります(あれ?、このサービス(service)で、サービス(service)料を取るの?と言うレストランも結構ある。。。))。このcafeに良い印象を持った一方(したがって、この次の週に、仕事の用事で、白金(shirokane)areaを訪れた際(この時)、また、このcafeを昼食で利用した)、地価の高い場所で(したがって店の維持費がかかる)、このサービス(service)の水準で、この値段で果たして経営をやっていけるのかと心配になる程でした。しかしながら、この時に、このcafeを利用した時は、逆に、(この時の前の週に、このcafeを利用した時と比べた)サービス(service)の水準低さに驚きました(まあ、この時の前の週に、このcafeを利用した時は、サービス(service)料を取らない割に、サービス(service)の水準が、あまりに良かったと言うのもありますが。。。)。従業員も、この時の前の週に、このcafeを利用した時にいた人は、一人もいなかった感じですし、いったい、どうしちゃったのかと言う感じです。まあ、このcafeは、サービス(service)の水準にムラがある(サービス(service)の水準の安定性に欠ける)点が、ちょっと気になりましたが、前述の通り、白金(shirokane)areaにしては、手頃な値段で食事が出来き(白金(shirokane)areaと言う場所を考慮しなくても、値段に比べた内容の満足感は高い)、料理の味も、全般的に、美味しく、店内の雰囲気も良いので、今後、仕事の用事等で、白金(shirokane)areaを訪れる際に、よく利用する店になりそうです。
写真以下4枚。先月(11月)の第三週の火曜日、仕事の用事で、白金(shirokane)areaを訪れた際に、このcafeで食べた昼食。これにパンが付きます。
前菜。蕪のブラマンジェ(blancmange)。
南瓜のポタージュ(potage)。この時の前の週に、このcafeを利用した時に出た、暖かい南瓜のスープ(soup)と似ていますが、盛り付けが異なり、食感も、少し異なる感じがしました。
メイン(main)料理。ノルウェー産のサーモン(salmon)のグリエ(焼き物)、ラタトゥユ(ratatouille)ソース(sauce)。
デザート。林檎のゼリー(jelly)、チョコレート系のケーキ、ダックワーズ(dacquoise)。
前にkjでアップ(upload)した写真ですが、割と最近閉店してしまった(閉店したのは、割と最近(この店が閉店する少し前)、この店の、すぐ近くに、オープン(open)した、ケーキ(cake)店の影響も、ある程度ある様です)、私の街のケーキ(cake)・西洋菓子店(本店は、港(minato)区の白金(shirokane)areaに有る。元々、プリン(cream caramel)専門店だった)の、プリン(cream caramel)(手前)と、カップに入った、柔らかいチーズケーキ(cheesecake)の様な感じのデザート(dessert)(奥)。この店は、私の街からは、撤退しましたが(私の街の支店は閉店しましたが)、白金(shirokane)areaに有る本店は、まだ営業を続けている様です。
これも、前に、kjでアップ(upload)した写真ですが、同ケーキ(cake)・西洋菓子店のチーズケーキ(cheesecake)。