1月2日に、初詣(hatsumoude。新年に、神社(shrine)や寺に、お参りして、その年の願い事などをする、日本の風習)と運動(ウォーキング)を兼ねて、私の街に近い、世田谷(setagaya)区の中北東部(中北東端部)から中東部を、ぶらぶら散歩して来た時の物です。世田谷(setagaya)区は、東京中心部(東京23区)の西端に位置する区で、東京の23の区の中で、最大級の面積を有すると供に、最大の人口を有しています。世田谷(setagaya)区は、基本的に、東京の都心部に通勤する人々が暮らす静かで落ち着いた住宅地となっています。
まずは、下北沢(shimokitazawa)まで、通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)で移動し、そこから散歩をスタートしました(散歩を始めました)。下北沢(shimokitazawa)は、私の街(渋谷区(shibuya)区中北部area)の、西の隣町(西に隣接する)、世田谷(setagaya)区中北東部(中北東端部)areaに有ります。下北沢(shimokitazawa)は、若者に人気となっている繁華街ですが、繁華街を、少し外れると、静かで落ち着いた住宅地となります。ちなみに、我が家から、直線距離だと、新宿、渋谷(shibuya)、原宿(harajyuku)、下北沢(shimokitazawa)は、だいたい同じ位の距離だと思います。
アメリカや西ヨーロッパの国々に、非常に多くのキリスト教の教会がある事と同様、日本には、非常に多くの、仏教の寺と神道の神社(shrine)があり、また、アメリカや西ヨーロッパの国々では、どの町内でも、少なくとも一つの、キリスト教の教会があると思いますが、それと同様に、日本でも、どの町内にも、一般的には、少なくとも、1つの仏教の寺又は神道の神社(shrine)、もしくは両方が存在します。こうした、神道の神社(shrine)と仏教の寺は、宗教と言うよりも、生活文化として、町内の人々の生活の中に自然と溶け込んでいます。
この時の、散歩時は、世田谷(setagaya)区(東京中心部(東京23区)の西端に位置する区)の中北東部(中北東端部)から中東部の静かで落ち着いた住宅地の中にある、3つの仏教の寺と2つの神道の神社(shrine)で(厳密に言えば、もっとですが。。。)、初詣(hatsumoude。新年に、神社(shrine)や寺に、お参りして、その年の願い事などをする、日本の風習)をしました(何れの、寺・神社(shrine)も、初詣(hatsumoude)の時期には、初めて訪れました)。ちなみに、通常、初詣(hatsumoude)において、こんなに、お参りする必要は、ありません。初詣(hatsumoude)は、一つの神社(shrine)又は寺だけでしても、十分です。まあ、この時は、運動を兼ねた散歩ついでだったので。。。
写真以下15枚。森巌(shingan)寺。1608年に創建された、仏教の寺です。銀杏の大木が、印象的な寺で、紅葉時期は、銀杏の紅葉が、綺麗です。規模は大きくない寺ですが、境内(敷地内)には、淡島(awashima)神社(shrine)と言う、小さな神社(shrine)もあります。







写真以下6枚。北澤(kitazawa)八幡(hachiman)神社(shrine)。15世紀後半頃に創建された、神道の神社(shrine)です。
写真以下4枚。阿川(agawa)家(読み方は、agawa家で良いと思いますが、間違っていたら済みません)の門。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の名主(nanushi。富裕な農家(農民))の邸宅の、古い門が、現存し、世田谷(setagaya)100景(下の補足説明参)に選定されています。
世田谷(setagaya)100景:1984年に、以下の8つ基準により、世田谷(setagaya)区民によって選ばれた、世田谷(setagaya)区の、100の趣のある風景。区民の誰もが見ること、加わることができる風景。多くの区民の愛着・共感を集めている風景。このまま持続することが期待できる風景。大小にかかわらず、その町の景観の顔となっている風景。区民の運動・努力の結果として守られている風景。地域の持つ歴史、風土、文化が現れている風景。ユニークさを(個性を)持つ風景、あるいは、世田谷(setagaya)独特の風景。催し、行事などを含め、コミュニティー(community。地域共同体)の雰囲気が、にじみ出ている風景。
阿川(agawa)家の門は、この時、初めて見ました。かつての、阿川(agawa)家の邸宅の敷地は、現在は、幾つかの、似た様な感じの一戸建て住宅が建ち並ぶ(門の右側の、一戸建て住宅は、その内の一つ)、非常に小規模な、一戸建て住宅団地(一戸建て住宅を計画的、集団的に建てた区域)と言った感じになっていました(時代の流れを感じさせられます)。

写真以下7枚。北沢(kitazawa)川緑道の一部を通り、世田谷(setagaya)区中北東部(中北東端部)areaから、その西(南西)に隣接する世田谷(setagaya)区中東部areaへ。。。北沢(kitazawa)川緑道は、世田谷(setagaya)区の東部を、東から西へ(まあ、別に西から東と言ってもいいのですが)横切る感じの、静かで落ち着いた住宅地の遊歩道(歩行者専用の散歩道)で、4km以上の長さがあります(私は、全部は、歩いた事がありません)。この時の、散歩の主目的は、北沢(kitazawa)川緑道を散歩する事でした。北沢(kitazawa)川緑道は、中々、好きな散歩道です。北沢(kitazawa)川緑道は、春には、桜の花が綺麗です。

写真以下3枚。円乗院(enjyouin)。1625年に創建された、仏教の寺です。
寒桜。
写真以下7枚。散歩途中、世田谷(setagaya)区中東部area(梅ヶ丘(umegaoka)・豪徳(goutoku)寺area)の、梅ヶ丘(umegaoka)にある、寿司食堂、美登利(midori)(美登利(midori)寿司と呼ばれる事が多い)で昼食を食べました。美登利(midori)は、梅ヶ丘(umegaoka)に本店を有する、寿司食堂で、現在、東京中心部と東京の西部郊外に、5店舗、(寿司食堂の)支店を展開しています。美登利(midori)は、値段と質のバランスの良さから(手頃な値段(安い値段)にしては、質が高い事から)、非常に人気のある、寿司食堂です。美登利(midori)は、昔は(昔と言っても、それ程、大昔ではないけど)、たまに利用していましたが、最近は、混雑(席に案内されるまでの行列)に、うんざりして、遠ざかり気味です。美登利(midori)の、梅ヶ丘(umegaoka)の本店は、本館と新館があるのですが、この日も、本館の方は、順番待ちの、長い行列が出来ていました。この日は、比較的空いている(穴場と言える)、新館の方で食べました(新館の方は、調度、待たずに入れて、上手く行ったと言う感じでしたw)。
写真以下7枚。これに、味噌汁(miso soup)が付きます。二人共、同じ物を食べました(写真は、一人分)。
写真左から、鮪(中トロ)、金目鯛、鮪、帆立。
写真左、イカ。写真右、卵焼き。
写真左から、蟹(松葉蟹)、ウニ(海栗)、イクラ(鮭の卵)。
左、ボタン海老。右は、上の物と重複ですが、蟹(松葉蟹)とウニ(海栗)。
穴子寿司。
茶碗蒸し。
デザート。杏仁豆腐(almond jelly)。
写真以下、寿司と共に飲んだ、ビールと樽の木の香りが良い振舞酒(正月等に無料で配られる日本酒)で、ほろ酔い気分になりながら、散歩を再開。

住宅街の大きな木。近くには、立派な、日本伝統式の邸宅がありました。
写真以下36枚。豪徳(goutoku)寺。世田谷(setagaya)区中東部areaの、静かで落ち着いた住宅地にある、規模の大きな、仏教の寺です。豪徳(goutoku)寺は、中々、雰囲気が好きな寺です(まあ、夕方に訪れると、カラス(crows)が鳴いたりして、不気味な雰囲気(少し怖い雰囲気)の時もあるけどw)。以下、豪徳(goutoku)寺に関する説明は、wiki等を参考にしました。豪徳(goutoku)寺及び、その周辺は、中世以来、武蔵(musashi)吉良(kira)家(世田谷(setagaya)(現在の、ほぼ世田谷(setagaya)区に当たる地域でいいのかな。。。)を統治していた地方領主)が居館とし(邸宅を構え)、1590年に廃城となった(豊臣(toyotomi)家に接収された後、城が廃止された)、世田谷(setagaya)城(castle)(武蔵(musashi)吉良(kira)家の城(castle))の主要部であったと言われています。豪徳(goutoku)寺は、1480年に、当事の武蔵(musashi)吉良(kira)家の当主が、亡くなった伯母の冥福の為に、世田谷(setagaya)城(castle)の敷地内に建てた、小規模な仏教の寺(弘徳院)が前身となっています。17世紀前半、井伊(ii)家(下の補足説明参照)の、当事の当主、井伊 直孝(ii naotaka)(1590年生まれ。1659年に亡くなる)が、貧しくなっていた、この寺を、整備し直し、井伊(ii)家の菩提寺(先祖代々の墓を置く寺)の一つ(井伊(ii)家の、東京(当事は、江戸(edo)と呼ばれていた)areaにおける菩提寺)としました(当事、現在の豪徳(goutoku)寺一帯は、井伊(ii)家の、東京(当事は、江戸(edo)と呼ばれていた)areaの領地内となっていました)。また、寺の名前も、井伊 直孝(ii naotaka)が亡くなった後、1659年に、井伊 直孝(ii naotaka)の戒名(仏教徒としての名前)に因み、豪徳(goutoku)寺と改められました。
井伊(ii)家:江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、彦根(hikone)藩(現在の滋賀(shiga)県北部)を統治していた地方領主の家。居城は、現在の、滋賀(shiga)県、彦根(hikone)市に位置する、彦根(hikone)城(castle)。徳川(tokugawa)家(下の補足説明参照)に、とても重用された、非常に有力な地方領主(の家)。少なからぬ当主が、徳川(tokugawa)幕府(中央政府)の中枢的な役職を務めた。
徳川(tokugawa)家:江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京(当事は、江戸(edo)と呼ばれていた)に拠点を置き、日本全国の地方領主の長(leader)として、日本を、実質的に統治していた家。



豪徳(goutoku)寺は、招き猫(下の補足説明参照)の発祥の地と言う説があり、現在は、むしろ、一般的に、井伊(ii)家の菩提寺と言うよりか、招き猫の寺として知られているかもしれません。
招き猫:前足で人を招く格好をした、日本の猫の置物。客や金を招き、商売が繁盛すると言われており、日本では、店舗によく置かれている他、家の置物(特に、客商売を営む家の置物)としても人気が高い。
以下、豪徳(goutoku)寺の招き猫発祥説の内容に関しては、wikiを参考にしました。
17世紀初期、当事の井伊(ii)家の当主、井伊 直孝(ii naotaka)が、鷹狩(狩猟)の帰りに、豪徳(goutoku)寺の前身の寺(弘徳院)の前を通りかかった。この時、この寺の和尚(僧)の飼い猫が、寺の門の前で、手招きする様な仕草をしていた為、井伊 直孝(ii naotaka)は、この寺に立ち寄り、休憩した。すると、雷雨が降りはじめた。これを機に、井伊 直孝(ii naotaka)は、この寺(豪徳(goutoku)寺の前身の寺)の和尚(僧)と親しくなり、雨に降られずにすんだことを喜んだ井伊 直孝(ii naotaka)は、後日、荒れていた、この寺(当事は、小さな貧しい寺だった)を建て直すために多額の寄進をし(金銭・物品を寄付し)、寺は、盛り返した。この縁で、寺は、井伊(ii)家の菩提寺となり、名前も、豪徳(goutoku)寺となった(ちなみに、豪徳(goutoku)寺の名前は、井伊 直孝(ii naotaka)の戒名(仏教徒としての名前)に由来する)。豪徳(goutoku)寺(の前身の寺)の和尚(僧)は、この猫が亡くなると墓を建てて弔った。後に、豪徳(goutoku)寺の境内(寺の敷地内)に、招猫堂(この猫を祀る建物)が建てられ、猫が片手を挙げている姿を模った置物(招き猫)が作られるようになった。豪徳(goutoku)寺の招き猫発祥説は、別の説もある。井伊 直孝(ii naotaka)が、豪徳(goutoku)寺の前身の寺(弘徳院)の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の猫が手招きをしていた。井伊 直孝(ii naotaka)が、その猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、井伊 直孝(ii naotaka)は、豪徳(goutoku)寺(の前身の寺)に多くの寄進をし(多くの金銭・物品を寄付し)、井伊(ii)家の菩提寺としたと言うものである。私は、個人的に、1番目の説の方が、信憑性が高いと思います。
ちなみに、井伊(ii)家の居城であった、彦根(hikone)城(castle)(滋賀(shiga)県、彦根(hikone)市)の、観光用マスコットキャラクター(mascot)、ひこにゃん(hikonyan)は、この猫に由来します(ひこにゃん(hikonyan)は、より劇的な2番目の説の猫(井伊 直孝(ii naotaka)を落雷から救った猫)をモデル(model)にしている様です)。個人的に、彦根(hikone)城(castle)は、2回しか訪れた事がありませんが、雰囲気が好きな城(castle)です。

写真以下4枚。世田谷(setagaya)八幡(hachiman)神社(shrine)。1091年に創建された、神道の神社(shrine)です。食べ物や甘酒を売る屋台が出て、初詣(hatsumoude)をしに来た人達で賑わっていました。

豪徳(goutoku)寺駅(豪徳(goutoku)寺の通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)の最寄り駅)の駅の入り口(出口)前の、招き猫の像。
帰りは、豪徳(goutoku)寺駅から、通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)に乗って帰りました。
この日、我が家で食べた夕食については、次回の投稿、「年末年始の食事」に書きます。