少し前の事ですが、去年の7月に、横浜での仕事の用事の合間に、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で、この時行われていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)を見て来た時の物です。
蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県生まれ。1979年に亡くなる。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)で、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画の画風の原型を作った作家です。
以下、横浜での食事と展覧会2からの続き。。。
写真以下3枚。この日、我が家に帰って来て食べた甘い物。
コンビニの、ヨーグルト(yogurt)風味の青林檎アイスバー(ice pop)。すっきりしていて、中々美味しく、一時期、時々買って食べていました。
写真以下2枚。NICHOLASと言う東京の中南西部郊外(百合ヶ丘(yurigaoka)・新百合ヶ丘(shinyurigaoka))のケーキ(cake)・西洋菓子屋さんの、クッキー(cookie)。


メロン(melon)。
写真以下2枚。料理の写真が、これだけだと寂しいので、おまけ。。。(今年の)4月の第三水曜日(以下、この日と書きます)に、仕事の用事で、横浜(東京areaの海の玄関口(gateway)となっている大きな港町)を訪れた際に、非常に、遅く食べた昼食(この日は、仕事が詰まっていて、昼食を食べるのは、夕方頃になってしまいました)。この日の昼食は、横浜の関内(kannai)area(横浜の都心部に有る、横浜の古くからの中心ビジネス(business)地区)にある、周 富輝(shu tomiteru)(下の補足説明参照)が経営する、中国料理レストランで食べました。周 富輝(shu tomiteru)は、親の経営していた、中国料理レストランを継いだのですが、本人(周 富輝(shu tomiteru))の方針が、そうだからか、その知名度にも関わらず、その中国料理レストランを、高級な中国料理レストランにせず、その中国料理レストランは、(完全に庶民的な中国料理レストランとは言えないものの)、比較的、大衆的な、中国料理レストランとなっています。
周 富輝(shu tomiteru):1950年、横浜の中華街(chinatown)生まれ。日本の、中国系日本人(又は、在日中国人)の、有名な、中国料理のシェフ(chef)。前は、よくTV番組等に出ていたが、脱税で、有罪判決を受けてからは、目立たなくなった。ちなみに、周 (shu tomiteru)の兄、周 富徳(shu tomitoku)(1943年。横浜の中華街(chinatown)生まれ)も、有名な、中国料理のシェフ(chef)。
海老と野菜の中国蕎麦。この店の、海老と野菜の中国蕎麦は、中々、美味しいと思います。
デザート。杏仁豆腐(alomond jelly)。この店の、杏仁豆腐(alomond jelly)は、お気に入りとなっています。この店の、杏仁豆腐(alomond jelly)は、とても美味しいと思います。

これも、おまけですが、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で、去年の8月10日から8月15日に開催されていた、「コクリコ坂から(From up on Poppy Hill)」(スタジオジブリ(Studio Ghibli)の、1963年の横浜を舞台にしたアニメーション(animation)映画。去年の7月16日に公開)の原画の展覧会(exhibition)のチラシ(leaflet)。この蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)を見た際に、このチラシ(leaflet)を、一応持って来ましたが、この展覧会(exhibition)どころか、この映画すら見ていませんw。
以下、この蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)(去年の7月に見た展覧会)の説明の続き。。。
以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)及び、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品に関する説明は、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)の文を、参考又は要約又は抜粋・引用した物です。
写真以下、この展覧会(exhibition)の展示作品例の続き。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。 全て、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品です。この投稿では、この展覧会(exhibition)の展示作品の内、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の作品例を紹介します。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から1930年代における、少女雑誌での活躍が華々しい分、第二次世界大戦後の仕事は、斜陽時代の様に見えますが、戦後、活動を再開させてから、晩年まで、多くの作品を描きました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦前は、主として、少女雑誌等で、少女や若い女性向けに描いてきましたが、戦後は、(蕗谷 虹児(fukiya koji)の)活動媒体が、少女雑誌から児童書(子供向けの本)等に移行した為、(蕗谷 虹児(fukiya koji)が)描く対象となる読者の性別の枠が外れると共に、低年齢化し、幼稚園児から小学生の男女向けの絵の仕事が、主体となりました。
第二次世界大戦後、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵画家ではなく、本格的な画家として再出発を図ろうとしていました。しかしながら、戦争で一時休刊していた雑誌が発行を再開すると、出版社から熱望されて、1946年に挿絵の仕事を再開しました。「少女倶楽部(少女club)」や「令女界(reijyo kai)」、1947年に創刊された、「ひまわり(向日葵)」等、様々な少女雑誌に描いて行くと共に、「名作少女小説」や「世界名作童話」等の、子供向け書籍の装幀(design・ cover art)や挿絵も手掛け、戦後も、再び、挿絵画家として活躍していきました。しかし、芸能人記事と漫画によって、少女雑誌のヴィジュアル(visual)化や娯楽化が進展していくと、1950年代中頃には、雑誌での活躍の場がなくなり、「講談社(Kodansha)の絵本」等、子供向けの絵本が、仕事の主軸になりました。数々の昔話や童話を鮮やかな色彩と精緻な表現で描き出すと共に、アニメーション(animation)と言う、新たな分野にも挑戦しました。また、晩年には、悲願だった絵画制作に、意欲的に取り組みました。
以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の活動について、細かく見て行きたいと思います。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦後、挿絵画家として復帰する事に対しては、積極的ではありませんでした。その背景には、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、戦時体制が色濃くなって行く中、少女雑誌の言論が統制されて行った事に対する、嫌気があったものと思われます。蕗谷 虹児(fukiya koji)が描いていた、少女雑誌の内、「少女倶楽部(少女club)」は、第二次世界大戦中、休刊を免れましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)の同誌における仕事は、1941年4月までとなりました。しかし、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦時中、全く仕事が無くなった訳ではなく、「少女倶楽部(少女club)」を発行する講談社(kodansha)に依頼され、同社の、「世界名作童話」シリーズ(series)の他、「幼年倶楽部(幼年club)」に、挿絵を、1944年2月まで描き続けており、戦局が緊迫化する中でも、子供向けの分野では、引き続き、起用されていました。第二次世界大戦後、間も無く、戦時中、一時休刊していた雑誌が、再び発行される様になると、蕗谷 虹児(fukiya koji)の下に、いち早く訪れたのは、講談社(kodansha)の「幼年倶楽部(幼年club)」の編集長でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵の仕事を依頼されますが、一旦は、断っています。しかし、「長かった戦時下の欠乏に耐えてきてくれた日本の子供たちに、せめては先生の絵を見せてやりたいと思って、お伺いしたのでした」と訴えられると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、さすがに断る事が出来ませんでした。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、再び、「幼年倶楽部(幼年club)」の仕事を引き受けた背景には、子供達に、もう一度、綺麗な絵を見せたいと言う思いと共に、戦時下でも、長く描く事が出来た、「幼年倶楽部(幼年club)」への恩義があったのかもしれません。いずれにせよ、これを機に、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦後、挿絵画家として復帰して行きました。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1946年3月号の「幼年倶楽部(幼年club)」に挿絵を描いて復帰しますが、同じ、講談社(kodansha)が発行する「少女倶楽部(少女club)」に描かない訳にもいかず、1946年4月号から、再び、少女雑誌を、手掛けて行く事になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女倶楽部(少女club)」には、1954年12月号まで、ほぼ、毎号のように描き続け、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、最も多くの仕事をした雑誌となりました。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女倶楽部(少女club)」における作品例。
「ぼんおどり(盆踊り)」。口絵原画。1952年。

「ほたる」。1953年。
「令女界(reijyo kai)」が、1946年4月に発行が再開されると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1947年10月号から、同誌に、復帰しました。「少女倶楽部(少女club)」、「ひまわり(向日葵)」の他、「令女界(reijyo kai)」も、戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって重要な雑誌でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「令女界(reijyo kai)」に絵を描く、主要作家の一人として活躍し、戦後も、雑誌の顔と言うべき表紙絵を始め、挿絵等を描き続けました。
写真以下6枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「令女界(reijyo kai)」における作品例。
「マロニエの構図(虹児(koji)抒情画選)」。口絵原画。1946年。
西條 八十「わかれ」。口絵原画。1947年。
勝 承夫「アラビヤン・ナイト(虹児(koji)名作画選)」。口絵原画。1948年。

表紙原画。1949年。

表紙原画。1949年。

表紙。1949年。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦後、再び、雑誌の仕事を手掛けるようになると、戦前からの、主な活躍の舞台であった、「令女界(reijyo kai)」と「少女倶楽部(少女club)」を中心にして、1947年に創刊された、ひまわり(向日葵)」の他、「少女の友」、「少女世界」、「紺青」、「女学生の友」、「少女」等、各社から出版される少女雑誌の挿絵も幅広く手掛けました。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女の友」における作品例。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女倶楽部(少女club)」や「少女の友」では、「令女界(reijyo kai)」よりも、低年齢の読者を想定して、少女の姿を可愛らしく表現しています。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦前から、各少女雑誌の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けていました。例えば、17歳から20歳代前半が対象の、「令女界(reijyo kai)」には、理知と官能を秘めた、大人の女性を描いたのに対し、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を、描きました。また、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌と比べると、大人しい少女を描きました。

茅野 雅子「初冬(抒情名歌集)」。1949年。口絵原画。
「花嫁人形(人形童謡集)」。1951年挿絵原画。
蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後に、「少女倶楽部(少女club)」に次いで、多くの仕事をした雑誌は、「ひまわり(向日葵)」でした。「ひまわり(向日葵)」は、中原 淳一(nakahara jyunichi)(下の補足説明参照)が、女性雑誌、「それいゆ(soleil)」に次いで、1947年1月に創刊した少女雑誌です。「ひまわり(向日葵)」は、文芸的な嗜好の色濃い少女雑誌であり、主筆の中原 淳一(nakahara jyunichi)が、表紙の他、口絵や小説の挿絵に至るまで、大いに描いていたので、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活躍は、目立たない様に見えますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、実は、創刊当初から1952年10月に終刊するまで、ほぼ毎号の様に、「ひまわり(向日葵)」に描き続けていました。
中原 淳一(nakahara jyunichi):1913年生まれ、1983年に亡くなる。1930年代から1970年代にかけて活躍した、イラストレーター(illustrator)、人形作家。竹久 夢二(takehisa yumeji)、蕗谷 虹児(fukiya koji)等に続いて、日本の少女漫画の画風の原型を作った作家。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「ひまわり(向日葵)」における作品例。森 三千代「天使」。挿絵原画。1947年。


第二次世界大戦後、少女雑誌は、戦前を踏襲した内容から、新しい時代の流れに従い、大きく様変わりして行きました。例えば、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が復帰した、1946年4月号では、挿絵や活字が、小さ目で、読み物主体の内容でしたが、1949年から、折込みのカラー(color)口絵が入り、その後、漫画も、徐々に増えて行き、映画、舞踏やバレエ(ballet)の記事、写真を使った読み物の登場等、写真の掲載が目立つようになり、誌面のヴィジュアル(visual)化が進んで行きました。「令女界(reijyo kai)」は、1950年1月号から、表紙が、絵から、映画女優等の写真に替わり、その後、間も無く、1950年9月号を以って、終刊してしまいました。また、「ひまわり(向日葵)」は、社会情勢が変わって、少女雑誌の性格や使命の転換期が来たとして、新しい時代に即した少女雑誌の創刊を予告しながら、終刊して行きました。この様に、時代の流れと共に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、主だった活躍の場が、一つずつ失われて行きました。「少女倶楽部(少女club)」に話を戻しますと、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が姿を見せなくなる、1955年には、まだ、少女小説や絵物語の、読み物類が多いものの、もはや芸能人が大々的に巻頭を飾り、手塚 治虫(tezuka osamu)の「リボン(ribbon)の騎士(Princess Knight)」(最も初期のシリーズ(series)は、1953年から1956年に、「少女倶楽部(少女club)」に連載)等の、漫画の存在が顕著になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、「少女倶楽部(少女club)」で活躍した、約10年の間に、「少女倶楽部(少女club)」の総頁数は、約60頁から約280頁に増量し、「少女倶楽部(少女club)」は、現在に繋がる、通俗的な娯楽を提供する雑誌に向かって行きました。こうした転換は、他の少女雑誌でも、同じ傾向でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女の友」、「少女世界」、「女学生の友」、「少女」等でも、口絵や挿絵を描いていましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、少女雑誌で、存分に魅力を発揮できた、1920年代から1930年代の黄金期から時代は流れ、1950年代中頃までには、蕗谷 虹児(fukiya koji)の雑誌での仕事が無くなって行きました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、少女雑誌で描いてきた、主な内容は、抒情的な詩や歌、少女小説、世界の名作物語、日本の年中行事や童謡等、懐古的な作品であり、漫画の需要の激増で、益々、娯楽化やヴィジュアル(visual)化が進展して行く少女雑誌は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が必要とされる媒体ではなくなって行きました。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦後も、引き続き、「世界名作童話全集」等、講談社(kodansha)が発行する児童(子供)向けの書籍に携わって行きました。これ等を手掛けた、1950年代初め、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、同時進行で、少女雑誌の挿絵も描いていました。この頃は、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、少女雑誌から離れて行く過渡期にあたり、「世界名作童話全集」の仕事が、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、その後の絵本での活躍に繋がって行きました。ちなみに、1940年代末から1950年代は、日本では、各出版社が、世界の名作物語全集を刊行するブーム(boom)を迎えていました。
写真以下6枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、講談社(kodansha)の「世界名作童話全集」における作品例。
「雪の女王」 口絵原画。1951年。

「マッチ売りの少女」 口絵原画。1951年。丁寧な仕事ぶりに、幼い子供にこそ、良い絵を、と言う、蕗谷 虹児(fukiya koji)の意識が、よく表れています。
写真左、「人魚の、お姫さま」。写真右、「人魚の、お姫さま」の表紙原画。1953年。
「人魚の、お姫さま」。口絵原画。1953年。

「空とぶトランク」。口絵原画。1953年。
「空とぶトランク」。挿絵原画。1953年。
「令女界(reijyo kai)」と「ひまわり(向日葵)」が終刊し、雑誌の仕事が減少した1953年頃から、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活動の主軸は、絵本に移行する事になりました。1960年代中頃までに、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」や「講談社(Kodansha)の絵本」等を次々と手掛けて行きました。
「講談社(Kodansha)の絵本」は、小学校入学前の子供の為の絵本を出版しようと言う企画から始まった絵本で、1936年12月に創刊しました。1冊1テーマの形式で、一流の挿絵画家を起用し、偉人物語、昔話、漫画、童謡画集、知識絵本等、あらゆる分野が扱われました。ほぼ毎月、4冊ずつが発売され、1942年4月で、一旦終刊するまでに、計203冊に上るシリーズ(series)となり、絵本と言えば、「講談社(Kodansha)の絵本」と言うイメージが出来る程の成功を収めて、広く大衆に普及しました。第二次世界大戦後も、復刊を要望する機運が高まり、1948年に改訂版の刊行が始まり、改訂版も評判を呼びました。講談社(kodansha)は、「講談社(Kodansha)の絵本」だけでなく、「講談社(Kodansha)の一年生文庫」等の学年別絵本、「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本」、改訂版の「講談社(Kodansha)の絵本」を1958年に改題した「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版」等、子供向けの絵本シリーズ(series)を、幅広く展開し、蕗谷 虹児(fukiya koji)も、こうした絵本シリーズ(series)に、次々と絵を描いて行きました。第二次世界大戦後、間もない頃から1950年代にかけて、他の出版社も、講談社(kodansha)が型を築いた大衆絵本に力を入れており、数多くの、絵本シリーズ(series)が、出版されました。小学館(shogakukan)は、1950年代初めから、乗り物、動物、童謡、物語等を扱った、「小学館(shogakukan)の育児絵本」や「小学館(shogakukan)の幼年絵本」を刊行しており、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」を、「講談社(Kodansha)の絵本」(ゴールド版を含む)に次いで、多く手掛けました。
写真以下13枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の、絵本における作品例。戦前に始めた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の幼年(子供)向けの絵本の仕事は、1950年代に入って、一気に花開き、蕗谷 虹児(fukiya koji)の仕事の主軸は、少女雑誌から、絵本に移行して行きました。1960年代中頃までに、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」、「講談社(Kodansha)の絵本」、「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本」、「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版」等で、世界の名作童話や日本の昔話と言った絵本を次々と手掛けて行き、この間、蕗谷 虹児(fukiya koji)の手掛けた絵本は、20冊以上にもなりました。
「講談社(Kodansha)の絵本 人魚姫」。原画。1956年。
講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本。はくちょうのおうじ(白鳥の王子)」。原画。1956年。
「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本。はくちょうのおうじ(白鳥の王子)」。原画。1956年。
「講談社(Kodansha)の二年生文庫 かぐやひめ」。原画。1956年。
「講談社(Kodansha)の絵本 あかずきん」の中から、「かえるの王さま」。原画。1957年。
「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。ふしぎなランプ」。原画。1959年。

「講談社(Kodansha)の絵本 湖水の鐘」。1958年。
「かぞえうた(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
「とおりゃんせ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
浅野 鏡村「てるてるぼうず」。講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
鹿島 鳴秋「はまちどり」。[講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
「かごめかごめ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
「おつきさまいくつ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、絵本の仕事と並行しながら、今まで手掛けた事がなかった、アニメーション(animation)にも挑戦しました。国際的な仕事としてアニメーション(animation)に可能性を感じていた、東映(toei)(日本の大規模映画会社の一つ)は、1953年に始まったTV放送で、アニメーション(animation)番組やコマーシャルフィルム(commercial film)の需要が増加する事を見越して、技術面や興行面を調査すると共に、大正時代(1912年から1926年)後期から継がれたアニメーション(animation)制作会社であり技術もある日動映画に、アニメーション(animation)作品の制作を委託して行きました。1955年に完成した、「うかれバイオリン」が評判となって手応えを得ると、日動映画を買収して、1956年に、東映(toei)動画(現在の東映(toei)アニメーション(animation)。「Dragon Ball」等、数々の人気アニメーション(animation)を制作しています)を設立させました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、この東映(toei)動画の、1958年の、約15分の短編アニメーション(animation)作品、「夢見童子」の構成と原画を担当しました。この作品は、独創性や海外進出を意識した、実験的な作品でした。この作品は、梅の木の下で眠る夢見童子は、心優しい良い子には、夢を与えるが、そうでない子には夢を与えないと言う、単純な物語で、セリフ(登場人物の言葉)やナレーション(narration)がない代わりに、蕗谷 虹児(fukiya koji)が作詞した、童謡風の歌で語られて行きます。「静かな場面展開と静かな動きは、動画製作上、最も困難な技術を必要とするが、これを、私達は、よく極めて、今後の、静かな動画への道を拓こうとした」と言う会社側の意図もあり、アニメーション(animation)の最大の特徴と言える動きを、敢えて、穏やかにすると言う斬新さが狙われていました。「夢見童子」は、思想や理念を込めて制作されたものの、現在に繋がる、アニメーション(animation)の歴史においては、淡々たる内容で、独創性を狙い過ぎたと言った印象も否めません。しかしながら、蕗谷 虹児(fukiya koji)が残した作品と言う観点から見れば、むしろ、蕗谷 虹児(fukiya koji)の世界観が色濃く反映された貴重なアニメーション(animation)作品として見る事が出来るでしょう。
「夢見童子」原画。1958年。「夢見童子」は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の伝承物語を基にした作品ですが、作品の舞台設定は、天平時代(奈良(nara)時代前半。729年から749年まで)となっています。
荒廃した、第二次世界大戦直後の日本の子供達を思って復帰した蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵画家として教育的な責務を担いながら、子供達に作品を描き続けて来たのでしょう。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「私は想う。子供達に、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、卑しい絵を与えてはならない」と記しています。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、人気絶頂期が過ぎた、第二次世界大戦後も、決して、無責任な仕事をするような事はなく、子供向けの絵であっても、一枚一枚、心を込めて丁寧に描きました。漫画やアニメーション(animation)、テレビの普及によって急激に娯楽化が進み、高度経済成長を背景に、人々の生活様式も変化して行く時代に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の仕事は、少女雑誌から、絵本やアニメーション(animation)へと移行して行きました。しかし、媒体が変わろうとも、1920年代から築き上げて来た、蕗谷 虹児(fukiya koji)の信念だけは、翻弄される事はありませんでした。「夢見童子」も、詩的で優雅なアニメーション(animation)を追求して、身を削る思いで制作したと言います。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、晩年には、悲願だった絵画制作に、意欲的に取り組み、現代の浮世絵(ukiyoe)美人画と言える、独自の絵画作品を発表して行きました。
写真以下4枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の晩年の絵画作品例。
「薔薇と少女」。1968年。

「花嫁」。1968年。

「金髪」。1969年。

「雪うさぎ」。1973年。
横浜での食事と展覧会、終わり。。。