3月の中旬に、4泊5日で、沖縄(okinawa)県の沖縄(okinawa)本島を旅行して来た時の物です(この時の旅行は、現地での交通手段は、小型自動車の、レンタカー(rent-a-car)を利用しました)。沖縄(okinawa)県は、日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つで、日本の都道府県(prefecture)の中で、最南端に位置する県です(沖縄(okinawa)県の気候は、熱帯性から亜熱帯性となっています)。沖縄(okinawa)県は、沖縄(okinawa)本島(沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県最大の島)及び、その周辺の島々から成ります。沖縄(okinawa)県は、1879年まで、琉球(ryukyu)王国と言う独立国だった為、日本の中で、かなり個性的な文化を有する地域となっています。琉球(ryukyu)王国は、かつて、中国、日本、韓国、東南アジアを結ぶ中継貿易国として栄えました。
以下、沖縄(okinawa)旅行&食べ物3からの続き。。。
以下、2日目(以下、この日と書きます)の続きからです。。。
この日は、まず、那覇(naha)市(沖縄(okinawa)本島南部(沖縄(okinawa)本島南部の北部)に位置する中都市。沖縄(okinawa)県最大の人口を有する都市であると共に、沖縄(okinawa)県の中心都市)の首里(shuri)area(下の補足説明参照)を訪れました。
首里(shuri):琉球(ryukyu)王国の首都(政治の中心地)として栄えた、小都市。首里(shuri)は、1954年に、首里(shuri)の貿易港都市・商業都市として発展して来た那覇(naha)市に編入され、那覇(naha)市の一部(現在の那覇(naha)市の北東部(内陸部の北部)area)となりました。
この日、那覇(naha)市の首里(shuri)areaで、玉陵(Tamaudun)を見て(沖縄(okinawa)旅行&食べ物2参照)、首里(shuri)城(castle)を訪れ(沖縄(okinawa)旅行&食べ物3参照)見て、琉球(ryukyu)王国時代(首里(shuri)が、琉球(ryukyu)王国の首都であった時代)の面影を残す、石畳の道(及び、その周辺)を散歩し、昼食を取った(沖縄(okinawa)旅行&食べ物2参照)後、首里(shuri)area(那覇(naha)市)を離れ、沖縄(okinawa)本島南部の南部にある玉泉洞(gyokusendo)を訪れたのですが、その前に、写真以下5枚、この旅行時に、ちょっと訪れてみたかったが、時間の関係で訪れる事が出来なかった、ガンガラー(gangala)の谷の、パンフレット(leaflet)。ガンガラー(gangala)の谷は、沖縄(okinawa)本島南部の南部にある、洞窟、森等の自然と、遺跡、沖縄(okinawa)県固有の多神教宗教(沖縄(okinawa)旅行&食べ物1参照)の聖地の、複合地区です。ガンガラー(gangala)の谷は、1日4回実施される、予約制のガイドツアー(guided tour)でのみ、回る事が出来ます(ツアー(tour)の料金は、2,000円と比較的安いです)。
ツアー(tour)の出発点となる、洞窟内のカフェ(cafe)。このカフェ(cafe)は、ツアー(tour)参加者でなくても、利用出来る様です。このカフェ(cafe)では、クラブ(nightclub)的なダンスパーティー(dance party)等も開かれている様です。
写真以下3枚。ガンガラー(gangala)の谷の風景例。パンフレット(leaflet)より。。。
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写真以下43枚。玉泉洞(gyokusendo)(及び、その周辺)。
写真以下2枚。ガジュマル(Ficus microcarpa)の木。沖縄(okinawa)では、古くから、ガジュマル(Ficus microcarpa)の大木には、精霊が住んでいると言われています。
写真以下33枚。玉泉洞(gyokusendo)。玉泉洞(gyokusendo)は、沖縄(okinawa)本島南部の南部にある洞窟で、40万年前から30万年前に生じた、鍾乳洞です。全長は、約5kmあり(現在発見されている日本の鍾乳洞の中では7番目の長さ。。おそらく。。。)、その内の、890mが、公開され、残りは、研究用に保存されています。鍾乳石の数は、100万本以上あり、鍾乳石の種類の多様さ等から、(一般の観光客に公開されている鍾乳洞の中では?)東洋で、最も美しい鍾乳洞と言われています。東洋で、最も美しいは、自称かもしれませんし、この景色を美しいと呼ぶのは、ちょっと意見が分かれる所だと思いますが、何れにしても、如何にも、SF映画やSF小説の地底世界と言った感じの光景が広がっており、見応えのある場所です。玉泉洞(gyokusendo)は、沖縄(okinawa)本島の主要な観光名所の一つとなっています。玉泉洞(gyokusendo)を訪れたのは、今回で2回目、子供の頃、親に連れられた沖縄(okinawa)旅行時に来て以来でした。
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写真以下6枚。玉泉洞(gyokusendo)の周辺は、レストラン・食堂、売店、(沖縄(okinawa)県内の古い住宅を移築し、改装した)沖縄(okinawa)の伝統工芸の制作体験が出来る工房等が建ち並ぶ一角等があり、ちょっとした、テーマパーク(theme park)の様な感じになっています。
写真以下3枚。売店で果物を買って、屋外席で食べました。
少し飲んでしまってから撮影しましたが、この時、私が飲んだ飲み物、パイナップル(pineapple)ジュース(juice)。沖縄(okinawa)県は、パイナップル(pineapple)の主要な産地となっています。
アテモヤ(atemoya)と言う果物。
カニステル(canistel)と言う果物。
アテモヤ(atemoya)も、カニステル(canistel)も、この時、初めて食べましたが、両方共、素朴な味で、美味しかったです(特に、アテモヤ(atemoya)が、美味しかった)。
沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))の貿易船を、実物大で、忠実に再現した物の展示。全長は、31mで、船の後ろには、「早く目的地に着く事」を願って、鷹の絵が描かれています。沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))が、中継貿易国として、最も栄えていた、14世紀から15世紀頃の、沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))の貿易船の主力となっていた船は、この様な、中国(明(Ming Dynasty))から、無償で、沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))に、多く提供された、中古になった、全長30mから40m位の、(倭寇撃退用に配備されていた)軍艦(装備されていた武器までは、提供されなかった様です)を改装した物ですが、これは、それよりも後の、16世紀から17世紀初め頃(ポルトガル、スペインの、東・東南アジア貿易の進出等により、琉球(ryukyu)王国が衰退して行った時代)に、かつて明(Ming Dynasty)から提供された船の技術を参考に?、沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))で造られた貿易船を基に復元された物の様です(たぶん。。。間違っていたら済みません。。。)。沖縄(okinawa)(琉球(ryukyu))に、無償で、中古の軍艦を、貿易船(朝貢の為の船)として提供していた頃の明(Ming Dynasty)は、15世紀始めの鄭 和(Zheng He)の大航海(ヨーロッパの大航海時代に70年ほど先んじての大航海。旗艦の全長は、120m以上(ちなみに、後の時代のコロンブス(Columbus)のSanta Maria号の全長は、約20m)もあったと言われている)に象徴される様に、当時のヨーロッパを遥かに凌ぐ、世界最高の造船技術を有していました。琉球(ryukyu)は、明(Ming)に朝貢し、明(Ming)が滅んだ後は、清(Qing)に朝貢しましたが、明(Ming Dynasty)は、国益上、当時の明(Ming Dynasty)への朝貢国の中で、実質上、琉球(ryukyu)を、最も優遇していました(おそらく。。。)。琉球(ryukyu)を優遇する事によって生ずる、明(Ming Dynasty)の国益は、幾つかあった様ですが、ここでは、説明を省略します。
玉泉洞(gyokusendo)を訪れた後は、那覇(naha)市に戻りました。この旅行時は、最初の2泊は、那覇(naha)の中心部の海の近くの、大衆的な、大規模リゾート(resort)ホテルに宿泊しました。那覇(naha)は、沖縄(okinawa)本島南部(沖縄(okinawa)本島南部の北部)に位置する中都市で、沖縄(okinawa)県最大の人口を有する都市であると共に、沖縄(okinawa)県の中心都市です。
沖縄(okinawa)県は、公共交通は、後述する、ゆいレール(yui rail)を除けば、沖縄(okinawa)本島(沖縄(okinawa)県の中心となっている、沖縄(okinawa)県最大の島)ですら、基本的に、バス(bus)とタクシー(taxi)しかなく、完全な自動車(自家用車)社会である(沖縄(okinawa)県では、おそらく、日本の、他の、田舎、地方都市、地方大都市郊外と同じく、70歳位以上の女性を除いて(日本の、田舎、地方都市、地方大都市郊外においては、これから、女性driverの高齢化も、さらに進んで行くと思います)、18歳以上の男女、ほぼ一人につき、一台、自動車を保有していると言った感じだと思います)のに加えて、那覇(naha)市及び那覇(naha)都市圏は、日本の地方都市及び地方都市圏の中で、最も人口密度が高く(おそらく。。。)、日本で一番過密な地方都市(地方都市圏)である事から、那覇(naha)の、通勤の自動車による、朝夕の交通渋滞は、深刻な様です。私は、沖縄(okinawa)旅行時に、レンタカー(rent-a-car)で、平日は、出勤時間帯に、那覇(naha)の郊外から都心に入る事と、退勤時間帯に、那覇(naha)の都心から郊外に出る事は、極力避けているので、那覇(naha)の渋滞の深刻さは、あまり実感した事がないのですが。。。
ゆいレール(yui rail)。写真は、借り物。那覇(naha)市内を東西(都心部は、南北)に走る、2003年に開業した、全長12.9kmのモノレール(monorail)(モノレール(monorail)路線)です(車両は、ゆいレール(yui rail)開業と共に2003年にデビュー(debut)した形式の車両が使われています)。那覇(naha)空港から、那覇(naha)都心部(国際通り周辺)、那覇(naha)新都心を通り、首里(shuri)areaまで走り、運転間隔は、6分から15分毎(通常時間帯は、10分毎)位の様です。私は、ゆいレール(yui rail)は、利用した事がありません。ゆいレール(yui rail)は、那覇(naha)市内の交通渋滞緩和に役立つ事を期待されて建設された様ですが、渋滞緩和に対して期待されていた程の成果は上げていない様です。
那覇(naha)新都心のモノレール(monorail)(ゆいレール(yui rail))の駅、おもろまち(omoromachi)駅。写真は、借り物。那覇(naha)新都心は、那覇(naha)市の中北東部に位置する、1990年代に開発が始まった、文字通り、那覇(naha)の新都心です。那覇(naha)の商業・ビジネス(business)・文化等の新たな拠点として、また、那覇(naha)の副都心として、注目が集まっている場所です。私は、那覇(naha)新都心は、訪れた事がありません。ちなみに、那覇(naha)新都心にある、免税店、DFS Galleria沖縄(okinawa)(2005年オープン(open))は、世界最大級の免税店となっています(那覇(naha)には、大規模免税店の他、南部郊外に、日本最南端のアウトレットモール(outlet mall)(2002年オープン(open))があります)。また、那覇(naha)新都心は、台湾系の資本が、高さ150m、35建てのホテルを建てる計画でしたが、1999年の台湾大地震(921大地震。1999年に、台湾を襲った大地震)により、計画を中止にしました。
国際通り(後述)を含む、那覇(naha)の都心部(那覇(naha)及び沖縄(okinawa)県の、商業・ビジネス(business)・政治等の中心地)は、那覇(naha)市の中部の西部(海側エリア(area))に位置しています。
写真(写真は、借り物)奥に見える、大きなビルは、那覇(naha)の都心部にある、沖縄(okinawa)県の行政の中心となっている沖縄(okinawa)県庁の建物。写真右側の、少し古い建物は、琉球(ryukyu)銀行本店の建物。
玉泉洞(gyokusendo)から、(那覇(naha)の中心部の海の近くの)ホテルに戻って、少し、のんびりした後、国際通り周辺に、夕食を食べに出ました。行きは、タクシー(taxi)を使って行き、帰りは、(国際通り周辺から、ホテルまで、少し距離がありますが)、散歩がてら、歩いて、ホテルに帰って来ました。
写真以下8枚。この日の夕食は、国際通り周辺の、現代風の、沖縄(okinawa)料理を出す居酒屋で食べました。国際通り及び、国際通り周辺は、那覇(naha)のみならず、沖縄(okinawa)県、最大の繁華街となっています。ちなみに、沖縄(okinawa)県の人口当たりの飲食店数は、日本の47の都道府県(prefecture)の中で、東京都(主に、東京中心部(東京23区)と東京の西部郊外・近郊から成る)、大阪(osaka)府(大阪都市圏)を凌ぎ、日本で一位となっています。人口当たりの飲食店数は、日本の47の都道府県(prefecture)の内、1位が沖縄(okinawa)県、2位が東京都、3位が高知(kochi)県、4位が大阪(osaka)府→http://www.japan-now.com/article/188403010.html
以前、沖縄(okinawa)の人口当たりの、居酒屋等の飲み屋の数は、東京よりも、はるかに多いと言う話を聞いた事があります。沖縄(okinawa)県の人々は、お酒を飲むのが、大好き、しかも、外(居酒屋等)で飲むのが、大好きなのでしょうか。。。
写真以下8枚。国際通り周辺の居酒屋で食べた、この日の夕食等。この居酒屋は、この時、初めて利用しました。この日の前日(旅行一日目)に夕食を食べた居酒屋(沖縄(okinawa)旅行&食べ物1参照)が、従来の(昔ながらの雰囲気の)、沖縄(okinawa)料理を出す居酒屋だとしたら、この居酒屋は、洗練された、現代風の、沖縄(okinawa)料理を出す居酒屋と言った感じかな。。。この居酒屋の料理、全般的に、中々、美味しかったです。
写真以下3枚。この夕食時に、私が、この居酒屋で飲んだ飲み物。
オリオン(orion)ビール(のビール)。オリオン(orion)ビールは、沖縄(okinawa)に本社と工場がある、日本の中規模ビール会社です。オリオン(orion)ビールは、沖縄(okinawa)で、最も多くビールを売り上げているビール会社であり、沖縄(okinawa)県のビール市場における、オリオン(orion)ビールのシェア(市場占有率)は、50%以上にもなります。
写真以下2枚。多良川(taragawa)(沖縄(okinawa)県の、宮古(miyako)島の泡盛(awamori)の会社)の、琉球(ryukyu)王朝と言う泡盛(awamori)(下の補足説明参照)。アルコール(alcohol)度数は、泡盛(awamori)としては、比較的低い、30%。ロック(on the rocks)で飲みました。
泡盛(awamori):インディカ米(細長い米)を使って作られる、沖縄(okinawa)県の、伝統的な焼酎。アルコール(alcohol)度数は、通常30%から40%強位と、普通の焼酎(通常25%位)に比べて高い(中には、アルコール(alcohol)度数60%なんて物も有る)。沖縄(okinawa)県で、非常に、よく飲まれている、お酒で有り、沖縄(okinawa)県の名物の一つとなっている。沖縄(okinawa)県には、非常に多くの(50近い)、泡盛(awamori)の会社があり、800種類以上もの、泡盛(awamori)の銘柄がある様です。
写真以下5枚。この時、この居酒屋で食べた夕食。これと、あと、ご飯(rice)を食べました。
突き出し(居酒屋等で最初に出される、ちょっとした料理)。一人一皿ずつ。。。何と言うか、ちょっとした、前菜水準の、突き出し。。。
私が、ほとんど食べた、豆腐よう(豆腐you)。島豆腐(生搾り製法で作られる、沖縄(okinawa)県の、水分が少なく硬い豆腐)を、紅麹、泡盛(awamori)等によって、発酵・熟成させた、沖縄(okinawa)の伝統料理で、味が、とても濃いので、お酒の、おつまみとして、楊枝や竹串で、少しずつ、舐める様にして食べて、味を楽しみます。元々、上流階級の食べ物だった様です。豆腐よう(豆腐you)は、個人的に、お酒の、おつまみとして、美味しいと思います。
写真以下4枚は、二人で分けて食べました。
大根サラダ(salad)。
ゴーヤ(ニガウリ・bitter melon)チャンプルー(chanpuru)。ゴーヤ(ニガウリ・bitter melon)チャンプルー(chanpuru)は、沖縄(okinawa)県の、代表的な家庭料理の一つです。ゴーヤ(ニガウリ・bitter melon)チャンプルー(chanpuru)は、少なくとも、沖縄(okinawa)県の人々以外の日本人が、沖縄(okinawa)県の家庭料理と言えば、最初に、思い浮かべる料理ではないでしょうか。。。ゴーヤ(ニガウリ・bitter melon)は、沖縄(okinawa)県で、よく食べられている野菜です。
ムルー(muru)と言う魚(だったかな。。。)の、唐揚げ(揚げ物)の、梅肉ソース(sauce)サラダ(salad)。
沖縄(okinawa)県で、ミーバイ(mibai)と呼ばれる魚の、煮物。ミーバイ(mibai)は、ハタ類の魚の、沖縄(okinawa)での呼び名ですが、沖縄(okinawa)で、よく食べられている様です。
写真以下3枚。国際通り。国際通りは、那覇(naha)の都心部にある、全長約1.6kmの、那覇(naha)で一番賑やかな通りです。国際通り及び、国際通り周辺は、那覇(naha)のみならず、沖縄(okinawa)県で、最大の繁華街となっています。
土産物店の前で撮影した写真だったかな。。。シーサー(shisa)(下の補足説明参照)をイメージした物。
シーサー(shisa):沖縄(okinawa)県で見られる伝説の獣の像。住宅や、その他の建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられ、家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持つ。説明は、wikiを参考にしました(ほぼ、引用)。
沖縄(okinawa)と言えば、ブルーシールアイスクリーム(blue seal ice cream)(下の補足説明参照)と言う事で、夕食後、国際通りを、ぶらぶら散歩している途中、ブルーシールアイスクリーム(blue seal ice cream)で、アイスクリーム(ice cream)を買って食べました。写真は、私が、この時食べた、チョコベリークッキー(chocolate berry cookies)のアイスクリーム(ice cream)と塩ちんすこう(塩chinsuko)味のアイスクリーム(ice cream)。ちんすこう(chinsuko)は、沖縄(okinawa)県の伝統菓子の一つで、クッキー(cookie)菓子の一つです。ちんすこう(chinsuko)は、サーターアンダギー(sata andagi)と共に、沖縄(okinawa)県の、お菓子の中で、日本で、最も有名です。
ブルーシールアイスクリーム(blue seal ice cream):沖縄(okinawa)県に拠点を置く、アイスクリーム(ice cream)会社・アイスクリーム(ice cream)店のチェーン(chain)。1948年創業。東京圏等にも、進出しています。
写真以下3枚。この日、ホテルに帰って、食べた、おやつ。ホテルへの帰りに、食料品店で買った物。二人で分けて食べました。
胡麻入り、サーターアンダギー(sata andagi)。サーターアンダギー(sata andagi)は、沖縄(okinawa)県の、大衆的な、お菓子の一つで、ドーナツ(doughnut)に似た揚げ菓子です。サーターアンダギー(sata andagi)は、ちんすこう(chinsuko)と共に、沖縄(okinawa)県の、お菓子の中で、日本で、最も有名です。
写真上、黒糖ポーポー(popo)(チンビン・チンピン)。ポーポー(popo)は、沖縄(okinawa)県の、伝統的な、お菓子(おやつ)の一つです。黒糖ポーポー(popo)(チンビン・チンピン)は、前日に引き続き、買って食べました。写真下、味噌ナントゥ餅。沖縄(okinawa)県の、伝統的な餅菓子の様です。初めて食べましたが、素朴な味で、美味しかったと思います(ちょっと、味忘れたw)。
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この日、ホテルの部屋で飲んだ飲み物の一つ。森永(morinaga)ヨーゴ(yogo)。沖縄(okinawa)県で、よく飲まれている(長い間、安定した人気のある)、沖縄(okinawa)森永(morinaga)乳業の製品で(たぶん。。。)、甘い、乳製品飲料です。現在、期間限定で、日本全国の、コンビニ等でも発売されています。
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この旅行時に、自動車の中や、ホテルの部屋で、飴(candy)の様な感じで食べていた、(そのまま、飴(candy)の様な感じで、お菓子としても食べられる事を前提とした)沖縄(okinawa)県産の黒砂糖(製品)。沖縄(okinawa)県では、サトウキビ(sugar cane)が多く栽培されていて、沖縄(okinawa)は、砂糖の主要な産地となっています(沖縄(okinawa)県では、実際には、普通の砂糖(白い砂糖)の原料糖の方が、多く作られているのですが(おそらく。。。)、一般的には、黒砂糖の産地として有名です)。
沖縄(okinawa)旅行&食べ物5へ続く。。。
以下、おまけ。「沖縄(okinawa)旅行&食べ物3」へのコメントへの返事。この投稿の本文とは、全く関係ありません。
琉球(ryukyu)にも、建国神話が存在しますが、ここでは、とりあえず、歴史面からの、文明国・地域としての琉球(ryukyu)の成立について、説明します。まず、文明国・地域としての琉球(ryukyu)の人々の起源についてですが、10世紀から13世紀頃にかけて、九州(kyusyu)(日本の南部)から移住した人々が、現地の人々と混血し、(文明国・地域としての琉球(ryukyu)の人々から続く)現代の沖縄(okinawa)の人々の起源となったと言う説が、現在、有力な様です。長い間(従来は)、現代の沖縄(okinawa)の人々の祖先は、北海道(hokkaido)のアイヌ(ainu)人と共に、縄文(Jomon)人であると言う説が有力でした。現代の、(アイヌ(ainu)系の人々を除く)本土日本人は、縄文(jomon)人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団(弥生(yayoi)人)の混血が基礎となっていますが、日本列島の北の端と南の端に暮らしていた縄文(jomon)系の人々は、弥生(yayoi)人と混血せず、もしくは、あまり混血せず(弥生(yayoi)人との混血に取り残され)、それぞれ、現在の、アイヌ(ainu)人と沖縄(okinawa)の人々の基礎となったと言う説です。しかしながら、現在、形質人類学及び遺伝学により、(現代の沖縄(okinawa)の人々は、現代の本土日本人と全く同じではないものの)、現代の沖縄(okinawa)の人々に、世界で最も近いのは、現代の、(アイヌ(ainu)系の人々以外の)本土日本人であると言う研究成果が出ており、また、現代の沖縄(okinawa)の人々は、アイヌ(ainu)人と縄文(Jomon)人よりも、現代の、(アイヌ(ainu)系の人々以外の)本土日本人に近いと言う研究成果が出ている事から、現代の沖縄(okinawa)の人々の祖先が、縄文(Jomon)人であると言う説は、現在、説得力が、比較的弱くなり、有力ではなくなってきています。最新の研究成果に依るならば、現代の沖縄(okinawa)の人々は、10世紀から13世紀頃にかけて、日本本土から移住した人々と、当時、既に、沖縄(okinawa)に暮らしていた人々の混血を基本とし、それに、(海の民(海(航海)の人々))として生きて来た、沖縄(okinawa)人々の歴史等から)、主として、16世紀以前において、東南アジア人、南アジア人、中国人等の血が混じって、形成された人々であると考えるのが、妥当な様です。なお、10世紀から13世紀頃にかけて、日本本土から移住した人々と混血した、それ以前から、沖縄(okinawa)に暮らしていた人々の起源については、様々な説がある様ですが、まだ、明らかでない部分が、多い様です。
ちなみに、前述の通り、現代の、(アイヌ(ainu)系の人々を除く)本土日本人は、縄文(jomon)人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団(弥生(yayoi)人)の混血が基礎となっていますが、弥生(yayoi)人は、3,000年から2,000年前に、主に、朝鮮半島を経由して、日本に渡って来た事から、日本人と韓国人は、特に、弥生(yayoi)人を通じて、先祖の重要な一部を、共有していると言えるでしょう。弥生(yayoi)人によってもたらされた、稲作農業を中心とした、本格的な農業の技術は、日本人の暮らしを、大きく変化させました。
少し話が脱線してしまいましたが、沖縄(okinawa)の歴史の話に戻ると、10世紀から13世紀頃にかけて、日本本土から、人々が移住し、沖縄(okinawa)で、本格的な農業が行われる様になる前は、沖縄(okinawa)の人々は、原始的な、狩猟採集(漁労採集)の生活を営んでいました。原始的な、狩猟採集(漁労採集)の生活を営んでいたと言っても、人々は、優れた航海技術を有し?、沖縄(okinawa)の島々(沖縄(okinawa)の島々は、広範囲に渡っています)を行き来し、日本の九州(kyusyu)地方や東南アジア等と交易・交流を行っていた様です。また、比較的高度な、石積み技術を有していた様です。沖縄(okinawa)が、古くから、日本の九州(kyusyu)等と交流がありながら、本格的な農業が開始されるのが遅れ、沖縄(okinawa)の人々が、原始的な、狩猟採集(漁労採集)の生活を長く続けていた背景には、沖縄(okinawa)では、手間のかかる農業を行わなくても、豊富な海産物資源等のおかげで、何とか生活が出来たと言う事がある様です(本格的な、田や畑を造るのには、手間がかかりますし、田や畑を造ったところで、農業を中心した生活は、狩猟採集(漁労採集)の生活よりも、(食料が、より安定的に供給されると言う利点があるものの)、労働時間が相対的に長くなります)。沖縄(okinawa)の人々は、一般的に、勤勉で、時間にうるさい(時間に正確な)、日本本土の人々と違って、一般的に、のんびりして、時間にもルーズですが(時間にも、いい加減ですがw)、その様な、沖縄(okinawa)の人々性格は、この様な、沖縄(okinawa)の風土が関係しているのかもしれません。
10世紀から13世紀頃にかけて、日宋貿易(10世紀から13世紀にかけて、日本と、中国(宋(Song))との間に行われていた貿易)に携わっていた商人・船員等の日本人が、日本の九州(kyusyu)から、沖縄(okinawa)に移住し、現地の人々と混血・同化して行きました。この間、日本人が、沖縄(okinawa)を侵略・占領したと言う訳ではなく、中世の日本人が、徐々に、沖縄(okinawa)に移り住み、現地の人々と同化していった様です。沖縄(okinawa)には、古くから、「ニライカナイ(niraikanai)と言う、遥か遠い、東の海の彼方にある理想郷から、神がやってきて、豊穣をもたらす」と言う伝承があり、海の向こうから、沖縄(okinawa)の島々に、やってくる人々を、手厚く、大切に、もてなすと言う文化がある事から、日本人移住者が、敵意を見せない限り、暖かく、迎え入れたのではないでしょうか。。一方、日本人移住者(九州(kyusyu)から移住した、国際貿易に携わる商人や船員等の日本人)は、自由意志で、沖縄(okinawa)に移り住んだ、民間人達で、沖縄(okinawa)移住に際し、日本と言う国家や、地方領主の、組織的な、後ろ盾(支え)があった訳ではないので、人数的にも、武力的にも、沖縄(okinawa)を武力で、侵略・制圧する程の力はなかったと思いますし、また、国境や国家と言う概念が、希薄な人達で、自分達さえ、上手く暮らせれば、それが、どこの地域でも、どこの国でも、構わないと言った考えを持った人達であったと思うので、現地の人々が、問題なく、自分達を迎え入れてくれたならば、犠牲者や面倒な対立を生む争いは、避けようと思ったと思います。この間、沖縄(okinawa)に移り住んだ、日本人は、現代の沖縄(okinawa)の人々の形成に、大きな影響を与えた様です(前述の通り、現代の沖縄(okinawa)の人々に、世界で最も近いのは、現代の、(アイヌ(ainu)系の人々以外の)本土日本人であると言う研究成果が出ています)。この間、沖縄(okinawa)は、中世日本の、文化的・経済的影響下において、原始的な、狩猟採集(漁労採集)の地域から、文明的な地域に転換して行きました。なお、沖縄(okinawa)に大量に、日本人移住者が押し寄せ、現地の人々を圧倒したと言う訳では、全くなく、元々人口の少なかった沖縄(okinawa)に移住した、それ程多くない日本人が、現地の文化や宗教(信仰)、中国の文化等を取り入れながら、現地の人々と混血・同化すると共に、日本人が伝えた、本格的な農業により、沖縄(okinawa)の人口が、爆発的に増大したと考えるのが妥当な様です。
12世紀から14世紀頃にかけて、本格的な農業の普及により、沖縄(okinawa)の人口は、爆発的に増大しました。また、この間、沖縄(okinawa)は、日本や中国大陸と、活発に交流を行い、アジア貿易の中継点としての重要性を増すと共に、国家が成立し、文明的な地域として、急速に発展して行きました。この様に、沖縄(okinawa)は、10世紀から14世紀頃にかけて、急速に、原始的な地域から、文明的な地域に転換し、文明的な地域として急発展を遂げ、後の、琉球(ryukyu)王国へと繋がって行きました。
以上が、歴史的に見た、文明国・地域としての琉球(ryukyu)の成立過程です。