以下、前に行った、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)から抜粋して来た物です。後述する、「この展覧会(exhibition)」に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京都美術館 出張江戸博後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924660?&sfl=membername&stx=nnemon2
上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)を拠点として、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた家です。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の中心的な城(castle)は、江戸(edo)城(castle)(東京都心部でも中心的な地域に位置する)でした。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の当時の当主、徳川
家光(tokugawa
iemitsu))は、江戸(edo)城(castle)の北東方面に、1625年に、寛永(kanei)寺と言う、規模の大きな、仏教の寺を創建しました。
寛永(kanei)寺は、現在の、上野(ueno)公園の、ほぼ全域を、敷地面積とした、とても、大きな仏教の寺で、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、とても繁栄していました。寛永(kanei)寺は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京の庶民達の、娯楽の場ともなっており、東京の多くの庶民の参拝者達を集めていました。
1832年に描かれた(歌川広重(utagawa hiroshige)の作品)、寛永(kanei)寺の中心的な建物→
https://dl.ndl.go.jp/pid/1302538
しかしながら、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争(下の補足説明を参照)の主要な戦場の一つとなった為、寛永(kanei)寺は、壊滅的な被害を受け、寛永(kanei)寺の建物の、ほとんどが焼失してしまいました。その後、寛永(kanei)寺の敷地は、とても縮小され、現在は、寛永(kanei)寺の敷地は、上野(ueno)公園の周辺を中心に、約3万坪(9万9千平方m強)となっています。
戊辰(boshin)戦争:1868年から1869年にかけて行われた、明治(meiji)時代(1868年から1912年)の新しい日本の中央政府の軍と、旧(かつての)徳川(tokugawa)幕府(bakufu)(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)における、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家による、日本の政府)側の侍(samurai)達の軍による戦争(日本国内の内戦)。明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府の勝利に終わる。ちなみに、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争の戦場となった頃は、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家自体は、既に、明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府に恭順の意を示しており、戊辰(boshin)戦争に関わっていませんでした。
ちなみに、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、近代においては(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまでおいては)、貴族階級に組み入れられ(公爵)となり、日本の上流階級としての地位と富は維持しました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
江戸城跡・旧徳川邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3901679/page/6?&sfl=membername&stx=nnemon2
この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、パンフレット(booklet)。
写真以下。この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、展示作品例。
写真以下4枚。寛永(kanei)寺の中心的な建物を描いた1868年の作品です。
パンフレット(booklet)より。
こちらも、戊辰(boshin)戦争で焼失する前の、寛永(kanei)寺の一部を描いた作品。
以上、前に行った、「東京都美術館 出張江戸博後編」と言う投稿から抜粋して来た物でした。
以下、基本的に、前に行った、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)から抜粋して来た物です。
清水堂・不忍池他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662?&sfl=membername&stx=nnemon2
不忍(shinobazuno)池は、上野(ueno)にある、天然の池で、現在は、上野(ueno)公園の一部となっています。
京都(kyoto)(日本の西部に位置する大都市)は、794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった大都市であり、日本の伝統文化の中心都市です。京都(kyoto)は、非常に多くの、文化財や歴史的建造物を有し、日本を代表する、観光都市であると共に、世界を代表する観光都市(世界の代表的な観光都市)の一つともなっています。
ちなみに、非常に多くの仏教の寺を有する、日本の仏教の中心地、京都(kyoto)は、8世紀末から19世紀半ばまで、日本の首都であっただけに(8世紀末から16世紀までの、ほとんどの間、日本の政治、経済、商業、文化等(即ち、あらゆる面での)の中心都市だった)、日本の仏教の宗派の多くが、中心となる寺(日本全国の、その宗派の寺を束ねる本部となる寺(会社で言えば本社の様な感じ))を京都(kyoto)に置いています。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)にある、778年に創建された、歴史の古い、規模の大きな、仏教の寺です。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)の主要な観光地の一つとなっていると共に、日本の主要な観光地の一つともなっています。
現在の、上野(ueno)公園内にある、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)は、現在残っている、数少ない、戊辰(boshin)戦争よりも前に(江戸(edo)時代に)、建てられた、寛永(kanei)寺の建物の一つで、1631年に、清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)をイメージして建てられた建物です(清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に比べたら、遥かに(ずっと)小さいですが)。
清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水(kiyomizu)寺→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924363?&sfl=membername&stx=nnemon2
名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)は、歌川広重(utagawa hiroshige)(下の補足説明を参照)が、1856年から1858年に制作した、東京の、様々な名所を描いた作品です。
歌川広重(utagawa hiroshige):1797年生まれ。1858年に亡くなる。日本の、代表的な、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)画家の一人。
参考に、Japonismeとは、19世紀中期から20世紀初頭にかけて(特に、19世紀の後半に)、フランスを中心とした、西洋の国々(ヨーロッパ及び北米)で、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)等の日本文化が流行すると共に、当時の(近代の)ヨーロッパを中心とした西洋の芸術・工芸に強い影響を与えた現象の事を言います。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
Japonisme他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3806140/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。

写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)の、月の松。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。
清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)の、月の松は、19世紀後期の台風により被害を受けて失われてしまいましたが、江戸(edo)時代の風景を復活させる為、2012年に復元されました。
写真以下4枚。清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)。
写真中央よりも、やや下。月の松。
以上、基本的に、前に行った、「清水堂・不忍池他」と言う投稿から抜粋して来た物でした。

写真は、借り物。葛飾 北斎(katsushika hokusai)(1760年生まれ。1849年に亡くなる。日本の、代表的な、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆(大衆向けの)版画・絵画)画家の一人)によって描かれた、寛永(kanei)寺の建物の一部(寛永(kanei)寺の中心的な建物)。1786年頃。
写真は、借り物(写真の作者:Kakidai)。現在の、寛永(kanei)寺の、本堂(hondo)(寺の建物の中で、最も、重要な建物)。戊辰(boshin)戦争からの、寛永(kanei)寺の復興に際し、東京近郊(埼玉(saitama)県(東京圏の北部に位置する県))の別の寺の建物を、1879年に移築して来た物です。ちなみに、現在の、寛永(kanei)寺の敷地は、元々、寛永(kanei)寺の中心的な建物があった場所とは、別の場所に位置しています。
上野(ueno)動物園は、上野(ueno)公園の中にある動物園で、1882年に開園した、日本で最も長い歴史を持つ近代式動物園です。上野(ueno)動物園は、郊外にある、比較的新しい大規模動物園に比べると、規模、施設等の面で劣りますが、都心部にある動物園にしては、まあまあ規模が大きく、また、東京中心部の中で有数の広さを持つ公園の中にあると言う立地条件の良さから、長年の間、東京に暮らす人々に愛されて来ました。
上野(ueno)動物園は、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の一つ。主として、東京中心部(東京23区)と、東京の西部郊外・近郊から成る)が運営している、動物園の一つです。

写真は、借り物(写真の作者:Kakidai)。戊辰(boshin)戦争で焼失せずに、現存している、(かつての)寛永(kanei)寺の、2代目の、五重塔。1631年に建てられた、寛永(kanei)寺の、初代の、五重塔が、火事により?、1639年に焼失した後、同年(1639年に)、再建された物です。現在の、上野(ueno)動物園の敷地内に位置し、1958年に、寛永(kanei)寺が、上野(ueno)動物園に寄付した為、現在は、(上野(ueno)動物園を運営する)東京都が保有しています。