清水 まゆみ(shimizu mayumi)の夫は、前に投稿で紹介した事がある、小高 雄二(odaka yuji)(1933年生まれ。2016年に亡くなる。1950年代初め頃から活動を行い、1950年代後期から1960年代にかけて活躍していた、日本の俳優。1971年に、病気を理由に、俳優を引退)です(1968年に、小高 雄二(odaka yuji)と結婚)。
小高 雄二(odaka yuji)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。ちなみに、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)の中でリンクを付けている、「街から街へつむじ風」(1961年の、日本の映画)は、期間限定の公開期間が過ぎている為、リンクは繋がりません)。
歴史的地下鉄車両・街から街へつむじ風他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3981299/page/7?&sfl=membername&stx=nnemon2
歴史的地下鉄車両・街から街へつむじ風他(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_11/view/id/3981299/page/7?&sfl=membername&stx=nnemon2
(前に投稿で紹介した)「有難や節(arigatayabushi) ああ有難や有難や(arigataya arigataya))」(1961年の、日本の映画)において、清水 まゆみ(shimizu mayumi)は、色白で、黒髪で、長髪、(上品で、大人しいと言う性格ではなく、活発な性格ではあるが)、裕福な家の娘(建設会社の経営者の娘)の、ヒロイン(heroine)(女性の主人公)の役を、演じ切っています(しっかりと演じています)。
「有難や節(arigatayabushi) ああ有難や有難や(arigataya arigataya))」(1961年の、日本の映画)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい(すぐ下でリンクを付けた投稿、「歴史的自動車・有難や(若干内容追加)」の中のリンクから、「有難や節(arigatayabushi) ああ有難や有難や(arigataya arigataya))」(1961年の、日本の映画)のフル映画を見る事が出来ます)。
有難や(曲を題材とした映画)他(若干内容追加) →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/4022985?&sfl=membername&stx=nnemon2
有難や(曲を題材とした映画)他(若干内容追加) (韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_5/view/id/4022985?&sfl=membername&stx=nnemon2
(後述する)「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)において、清水 まゆみ(shimizu mayumi)は、石原 裕次郎(ishihara yujiro)(日本の有名な俳優)が演じる、ヤクザ(yakuza。日本のマフィア(mafia))の男性の、恋人(交際している女性)である、キャバレー(cabaret)の、ダンサー(dancer)をしている女性の役を演じ、日焼けした、褐色の肌の、健康的・野性的な、存在感のある、脇役の女性を演じています(当時、清水 まゆみ(shimizu mayumi)は、19歳)。清水 まゆみ(shimizu mayumi)は、(前述した)「有難や節(arigatayabushi) ああ有難や有難や(arigataya arigataya))」(1961年の、日本の映画)で演じた、ヒロイン(heroine)(女性の主人公)とは、全く、違ったタイプの女性を演じ、まるで、違う女優が演じている様です(清水 まゆみ(shimizu mayumi)は、演技の幅が広かった女優の様です)。
下でリンクを付けている、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)において、清水 まゆみ(shimizu mayumi)が(清水 まゆみ(shimizu mayumi)が演じる、キャバレー(cabaret)の、ダンサー(dancer)が)、セクシー(sexy)な衣装を着て、踊る場面(11分00秒辺りから12分45秒辺りまで)において、(「有難や節(arigatayabushi) ああ有難や有難や(arigataya arigataya))」(1961年の、日本の映画)では分からない)、清水 まゆみ(shimizu mayumi)の、スタイル(体型)の良さが分かると思います(まあ、私は、清水 まゆみ(shimizu mayumi)について、全く、詳しくありませんが)。
以下、基本的に(「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)、無期限で、公式で、フル映画が公開される様になった様なので、リンクを、そちらの方に入れ替えました)、去年の9月の下旬に行った投稿の再掲です。
「男なら夢を見ろ」は、1959年の日本の映画で、東京を舞台とした映画です。
「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)は、アクション(action
film)映画的な要素を含む(基本的には、石原 裕次郎(ishihara yujiro)を主役とした、アクション(action
film)映画と言えます)、以下の3人の、主要な登場人物を巡る、人間関係・恋愛映画です。以下、仮に、3人の主要な登場人物を、A、B、Cとします。
登場人物A:戦争(第二次世界大戦)により孤児となり(日本の第二次世界大戦の戦争孤児の有り勝ちな例として、父親は徴兵により戦争により戦地で亡くなる(戦死する)。母親は、第二次世界大戦末期のアメリカ軍の空襲により亡くなる)、第二次世界大戦直後の混乱期において、支え合って生きていた、2人の少年(登場人物A・登場人物C)の内の一人の、兄的な存在の少年。第二次世界大戦直後の混乱期の闇市(
何らかの物価を統制する体制下で、物資が不足している状況において、違法取引の品物を売る店が集まっている場所)で靴を盗んで、刑事に捕まるが、刑事の家に引き取られ、刑事に、実の子供(自分の子供)の様に育てられる。大学の法学部に入学し、司法試験(弁護士・裁判官・検事になる為の試験)に合格し、ヤクザ(yakuza。日本のマフィア(mafia))の摘発に有能な検事となる。大学生の時に、ヤクザ(yakuza。日本のマフィア(mafia))となっていた登場人物Cに再会する。
ちなみに、第二次世界大戦中よりも、日本の敗戦によって、徴兵によって戦地や第二次世界大戦まで日本の統治下にあった地域に派遣されていた日本軍の兵隊の男性達や、第二次世界大戦まで日本の統治下にあった地域に在住していた日本の民間人(一般人)達が、大量に、日本に引き上げて来た、第二次世界大戦直後の混乱期(1940年代後期)の方が、(アメリカ等から食糧の支援・援助があったものの)、むしろ、日本の食糧事情は悪化したと言った話もあります。
登場人物B:「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の、ヒロイン(heroine)(女性の主人公)。芦川
いづみ(ashikawa
izumi)が演じる。(登場人物Aが少年の頃に)登場人物Aを引き取り、登場人物Aを、実の子供(自分の子供)の様に育てた、刑事の、一人娘(一人だけの子供で、女の子供)。母親(登場人物Aを引き取った刑事の妻)は、既に亡くなり(年代から、母親は、登場人物Bを生んで間もなく位に、第二次世界大戦末期のアメリカ軍の空襲によって亡くなったと考えるのが自然かもしれません)、父親(登場人物Aを引き取った刑事)、登場人物Aと共に、一戸建て住宅(お手伝いさん(maid)を雇っている)に暮らしている。登場人物Aを実の兄(実際の兄)の様に慕って育った。高校卒業後、ファッションデザイナー(fashion
designer)・洋裁家(洋服を作るための裁縫を仕事とする人)を養成する専門学校に通い、後に、子供向けの服店に就職する(子供向けの服店の店員となる)。
登場人物C:「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の、最も、重要な登場人物(主人公)。石原
裕次郎(ishihara
yujiro)が演じる。戦争(第二次世界大戦)により孤児となり、第二次世界大戦直後の混乱期において、支え合って生きていた、2人の少年(登場人物A・登場人物C)の内の一人の、弟的な存在の少年。登場人物A(兄的な存在の少年)が、靴を盗んで、刑事に捕まった事をきっかけに、登場人物Aと生き別れになった後、ヤクザ(yakuza。日本のマフィア(mafia))組織の首領(boss・leader)に引き取られ、ヤクザ(yakuza。日本のマフィア(mafia))となる。法学部の大学生となっていた、登場人物Aと偶然に再会する。
石原
裕次郎(ishihara
yujiro)(1934年生まれ。身長183cm)は、1956年にデビュー(debut)し、1950年代中期から、人気俳優として活躍していましたが、1987年に、52歳の若さで、癌により亡くなった、日本の有名な俳優です。石原
裕次郎(ishihara
yujiro)は、若い頃は、女性達に、アイドル(idol)的な、人気を博していましたが、エルヴィス・プレスリー(Elvis
Presley)同様、中年になると、太ってしまいました。
「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)は、現在、期間限定で(6月12日の20時から6月29日の19時59分まで)、you tubeで、公式で公開中です。

写真は、借り物。現在、期間限定で、you tubeで、公式で公開中の、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)のサムネイル画像。左側の男性が、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の主役の、登場人物Cの役を演じている、石原 裕次郎(ishihara yujiro)です。ちなみに、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の、テーマ曲は、石原 裕次郎(ishihara yujiro)自身が、歌っています。
現在、期間限定で(6月12日の20時から6月29日の19時59分まで)、you tubeで、公式で公開中の、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)(フル映画)→
https://youtu.be/CSePH-JVI6o?si=zKC4nW3bC2JTFiwR
先週の土曜日は、個人的に仕事で、先週の金曜日は、彼女は、我が家に泊まらず、仕事を終えた後(先週の金曜日は、自宅(我が家)に持ち込んだ仕事と、職場(事務所)に顔を出しての仕事の併用と言った感じでした)、夜、一人で過ごしていたのですが、先週の金曜日の夜、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)を、我が家のテレビで、一人で見てみました。
「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)を見た(男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)は、今回、初めて見ました)、個人的な感想は、中々、盛り沢山で、且つ、中々、バランスの取れた、中々、良い映画で、良作(良い作品)に近い、普通と良作(良い作品)の間と言った感じの作品でした。話の設定が面白く、もう、ほんの少しだけ、話に捻りか盛り上がりか(若しくは、捻りと盛り上がりの両方)を加えれば、良作(良い作品)になったであろう作品でした。
https://youtu.be/NMexhd2lD6o?si=AXqKm_bK1jIgxQLc
動画は、借り物。「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の予告編。動画の、サムネイル画像の女性は、「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)において、登場人物B(ヒロイン(heroine)(女性の主人公))の役を演じている、芦川 いづみ(ashikawa izumi)です。
芦川 いづみ(ashikawa
izumi)(1935年生まれ)は、1950年代初めから活動を行い、1950年代中期頃から1960年代にかけて活躍していた、日本の女優です(1968年に、日本の俳優と結婚し、女優・芸能界を引退。主婦?となる)。芦川
いづみ(ashikawa
izumi)は、私は、全く詳しくないので、間違っていたら申し訳ありませんが、基本的に、親しみ易い外貌と雰囲気の、清純派の、妹的な雰囲気の女優として、人気を博していたのではないでしょうか。
ちなみに、(後述する)宮崎
駿(miyazaki hayao)は、中学生の頃から、芦川 いづみ(ashikawa izumi)の熱心なファン(fan)であり、芦川
いづみ(ashikawa izumi)は、宮崎 駿(miyazaki hayao)及び、Studio
Ghibliの、アニメーション映画(animated
film)の、ヒロイン(heroine)(女性の主人公)・ヒロイン(heroine)(女性の主人公)像のモデル(model)となっていると言われている女性です。
宮崎 駿(miyazaki hayao)(1941年生まれ)は、日本の世界的に有名な、アニメーション(animation)作家・アニメーション映画(animated film)監督です。
Studio Ghibliは、宮崎 駿(miyazaki hayao)が設立した、アニメーション(animation)制作会社(film studio)です。
宮崎
駿(miyazaki hayao)の監督作品の、2002年の、日本の長編アニメーション映画(animated film)(Studio
Ghibli作品)、「千と千尋の神隠し(Spirited Away)」が、2002年の、ベルリン国際映画祭(Berlin
International Film Festival)で、金熊賞(Golden Bear)を受賞した他(「千と千尋の神隠し(Spirited
Away)」は、2002年の、アカデミー賞(Academy Awards)の、長編アニメ映画賞(Academy Award fo・r Best
Animated Feature)も受賞しています)、宮崎 駿(miyazaki
hayao)の監督作品は、日本国内及び日本国外で、多数の賞を受賞しており、宮崎 駿(miyazaki
hayao)自身も、ベネチア(ヴェネツィア)国際映画祭(Venice Film Festival)の、栄誉金獅子賞(Golden Lion
fo・r Lifetime Achievement)(2005年)、アカデミー賞(Academy Awards))の名誉賞(Academy
Honorary Award)(2014年)他、日本国内及び日本国外で、多数の賞を受賞しています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
小原 古邨 君たちはどう生きるか他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3841051/page/21?&sfl=membername&stx=nnemon2
「男なら夢を見ろ」(1959年の日本の映画)の終わりの方、登場人物Aと登場人物Bの結婚式の会場として、当時、既に、赤坂(akasaka)princeホテルとなっていた、かつての、李垠(Yi Un)の東京の邸宅の建物が出て来ます。

写真は、借り物(写真の作者:Riiiisa22)。かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物(東京都心部でも中心的な地域の西部に位置する)。1930年に建てられました。第二次世界大戦後は、日本の国会(日本の国会は、衆議院(syugiin)と参議院(sangiin)の2つに分かれている)の参議院(sangiin)の議長の公邸等として使用された後、1952年に、princeホテル(日本最大の、高級classホテル・準高級classホテルのチェーン(chain))に買収され、1955年に、客室数、35室の、高級classホテル、赤坂(akasaka)princeホテルとして開業しました。赤坂(akasaka)princeホテルの、新しい建物が建てられてからは、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場等として使用されました。
赤坂(akasaka)princeホテルは、旧館(kyukan)の建物(前述した、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物で、赤坂(akasaka)princeホテルの原点となった建物)、1960年に建てられた、別館(bekkan)(旧(かつての)新館(shinkan))の建物、1982年に建てられた、新館(shinkan)の建物、1997年に建てられた、コンベンションセンター(convention
center)の建物等から成る、規模の大きな、高級classホテルでした。

写真は、借り物(写真の作者:Wiiii)。1982年に建てられた、赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物。1980年代において、隣接する、規模の大きな高級ホテルである、ホテルnew otani(1964年に開業)の、ホテルnew otani garden tower(1974年完成)と共に、地域を象徴する建物でした。
ホテルnew otani、及び、ホテルnew otani garden towerに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
Hotel New Otani→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3871575/page/9?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物の設計は、丹下 健三(tange kenzo)(下の補足説明を参照)が行いました。
丹下
健三(tange
kenzo):1913年生れ、2005年に、亡くなる。日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、丹下 健三(tange kenzo)に関する参考の投稿。
なまこ壁・1937年パリ万博日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3905596/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
赤坂(akasaka)princeホテルは、再開発の為、2011年3月31日を以って閉業しました。
princeホテルは、赤坂(akasaka)princeホテルの跡地に、再開発によって完成した、新しい超高層ビル(2016年に完成)に、2016年に、新しい、高級ホテル、ザ・プリンスギャラリー
東京紀尾井町(The Prince Gallery Tokyo Kioicho)を開業しました。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物(1982年に完成)は、おそらく、東京の超高層ビルで、後述する、ソフィテル(Sofitel)東京の建物に次いで、2番目に、完成してから短い期間で、解体された建物であると同時に、2番目に解体された建物です。
赤坂(akasaka)princeホテルの新館(shinkan)の建物は、大成(taisei)建設(日本の大規模建設会社の一つで、日本の、5大建設会社の一つ)が開発した、粉塵や部材の飛散、騒音や振動を最小限に抑える、新しい工法の、「テコレップシステム(Taisei
Ecological Reproduction System)」により、解体されました。
https://youtu.be/KPTTUGxOHDQ?si=x0w1c_dLMc8QZz3n
動画は、借り物。大成(taisei)建設が開発した、最新の(世界最先端の)、大規模建築物の解体の工法により、2012年から2013年にかけて解体された、赤坂princeホテルの新館(shinkan)の建物の、解体の過程(定点撮影)。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、大成(taisei)建設に関する参考の投稿。
菊池美術館・50年代陶芸展他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3836518/page/24?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、おまけ。参考に。。。
上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
不忍(shinobazuno)池は、上野(ueno)にある、天然の池で、現在は、上野(ueno)公園の一部となっています。

写真は、借り物(写真の作者:Lover of Romance)。かつて、上野(ueno)の、不忍(shinobazuno)池の、畔(ほとり)にあった、ソフィテル(Sofitel)東京の建物。高さ110.2m。1994年完成。設計は、菊竹 清訓(kikutake kiyonori)(下の補足説明を参照)が行いました。メタボリズム(Metabolism)を感じさせる建物です。元々、日本国内資本のホテルの建物でしたが、後に、フランス資本が買収し、2000年に、フランス資本の、高級classホテル、ソフィテル(Sofitel)東京の建物となりました。再開発の為、2007年に建物が解体され(おそらく、東京の超高層ビルで、完成してから最も短い期間で、解体された建物であると同時に、東京の超高層ビルで、最初に解体された建物)、跡地には、2010年に、超高層マンション(超高層アパート)が建てられました。
菊竹
清訓(kikutake kiyonori):1928年生まれ。2011年に亡くなる。日本の有名な建築家。菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)設計事務所から、伊東 豊雄(ito
toyo。1941年生まれ。日本の世界的に有名な建築家)を始めとする多くの著名な建築家を輩出。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classにあるSANAA(妹島
和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa
ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、(菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計事務所出身である)伊東 豊雄(ito
toyo)の、建築設計事務所の出身です。
菊竹 清訓(kikutake kiyonori)及び、メタボリズム(Metabolism)に関しては、上でもリンクを付けましたが、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
なまこ壁・1937年パリ万博日本館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3905596/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
不忍(shinobazuno)池に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水堂・不忍池他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、おまけでした。
写真以下5枚(写真は、借り物)。1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物。再開発により、曳家(hikiya)(建物を、そのまま移動して、移築する、移築方法)により、元々あった場所より少し(44m程)移動し、2016年に、再び、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場として、営業を再会しました。ちなみに、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の、敷地面積は、10,700坪(約35,370平方m)程あった様です。近代日本(19世紀末から第二次世界大戦時まで)において、日本の富裕層の住宅は、邸宅の敷地内に、日本伝統式の建物と西洋式の建物がある場合も多く、特に、上流階級の邸宅は、その様な邸宅が非常に多かったですが(邸宅のメイン(main)の建物が、日本伝統式の建物と西洋式の建物によって構成されている場合も、多かった)、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅のメイン(main)の建物は、この西洋式の邸宅の建物のみであった様です。
以下、参考の投稿。
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735149/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸(東京都庭園美術館)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3735148/page/12?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下5枚(写真の作者:Riiiisa22)。





1930年に建てられた、かつての、李垠(Yi Un)の東京の邸宅の建物(現在は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)に関しては、以下のsiteも参照して下さい。
https://www.edo-chiyoda.jp/bunkazaihogonotorikumi/bunkazaihogochosain/hogocho2019/1/372.html
https://www.tgt-kioicho.jp/facilities/akasakaprince.html
https://akasakaprince.com/
以下、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、おまけ。
以下、宗 武志(sou takeyuki)に関する文は、wikiを参考にしました。
宗
武志(sou
takeyuki):1908年生まれ。1985年に亡くなる。日本の、貴族(伯爵)・英語学者・大学教授。東京出身。父は、対馬(tsushima)(長崎(nagasaki)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の北部に位置する県の一つ)に属する島。面積は、約696平方km(ソウル(Seoul)特別市(面積約605平方km)より、少し広い)。人口は、約2万8千人。日本の主要な有人島(人が暮らしている島)の中で、最も、韓国に近い島)を統治していた地方領主の弟。母は、千葉(chiba)県(東京圏の東部に位置する県)の、小規模な、地方領主の家柄。1918年、対馬(tsushima)に渡り、1920年、対馬(tsushima)中学校に入学。在学中、1923年に、伯父の子供(息子)が亡くなった事に伴い、かつての対馬(tsushima)の領主の家の、第37代当主となる。対馬(tsushima)中学校を卒業して東京に戻り、学習院(gakushuin)高等科
(旧制)に入学。1928年、東京帝国大学(現在の東京大学)の、文学部の英文科に入学。1931年に卒業。1931年、高宗(Gojong)の娘、李徳恵(Princess
Deokhye)と結婚。宗 武志(sou takeyuki)は、妻となった李徳恵(Princess
Deokhye)を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年に長女が生まれた。しかし、数年後、少女期には小康状態にあった、李徳恵(Princess
Deokhye)の、先天性精神・知能疾患が再発。宗 武志(sou takeyuki)は、学問と職務の傍ら、李徳恵(Princess
Deokhye)を献身的に介護したが、その甲斐なく、李徳恵(Princess
Deokhye)の病状は悪化の一途を辿り、1955年に、李徳恵(Princess Deokhye)の実家の要請により、李徳恵(Princess
Deokhye)と離婚した。また、李徳恵(Princess
Deokhye)との間に生まれた、一人娘(長女)も、日本人の男性と結婚したが、1956年に自殺を目的に失踪した。宗 武志(sou
takeyuki)は、1955年に、日本人の女性と再婚して、3人の子供が生まれた(長男(息子)・次女(娘)・次男(息子))。
写真は、借り物。宗 武志(sou takeyuki)。1931年頃。
写真は、借り物。写真左。宗 武志(sou takeyuki)。写真右。李徳恵(Princess Deokhye)。1931年頃。
以上、おまけでした。
ちなみに、英親王李垠伝によれば、(後述する)李垠(Yi
Un)は、お手伝いさん(maid)が、李垠(Yi Un)が自身(自分)の東京の邸宅(前述の通り、現在は、かつての、李垠(Yi
Un)の東京の邸宅の建物は、princeホテルが運営する、レストラン・バー(bar)・パーティー(party)会場・結婚式場となっている)で飼っていた小鳥を逃がしてしまった際に、お手伝いさん(maid)を叱る事なく、「あの鳥は渡り鳥だから、きっと秘苑(ソウル(Seoul)の昌徳宮(Changdeokgung)の庭園)に帰っていくだろうね」と話したようです。

写真は、借り物。李垠(Yi Un)。1928年頃に撮影。

写真は、借り物。写真右側。参謀旅行中の李垠(Yi Un)と方子(masako)女王。
以下、李垠(Yi Un)に関する文は、wikiを参考にしました。
李垠(Yi
Un):1897年生まれ。1970年に亡くなる。1907年に留学の名目で、日本に渡る。1908年、学習院(gakushuin)に入学。1911年に、日本陸軍中央幼年学校に編入する。小柄な体型のため器械体操を苦手としたが、音楽や武道を得意とし、同期生から敬愛を集めた。日本の陸軍士官学校で教育を受けた。この際には、品行で20点満点中19.7点の評価を受けるほど、模範的な学生だった。
日本の陸軍士官学校卒業後は、日本の陸軍に入隊し、日本の陸軍の将校となる。1920年に、日本の、宮家(miyake)(皇族(天皇の一族(親族))の内、天皇家から独立した生計を営み、且つ、天皇から称号(宮号)を賜り、代々、皇族(天皇の一族)の身分の保持を許された家(家族))の女性である、方子(masako)女王と結婚。政略結婚であったが、妃(妻)である方子(masako)女王と、その実家である梨本(nashimotonomiya)家との関係は良好であった。夫妻の間には、結婚の翌年に長男が誕生したが、1922年、夫妻が生後8ヶ月の長男を連れて韓国を訪問した際、長男は、急死する(長男の急死には、当時より陰謀説がある)。1931年に次男(長男が亡くなっている事により、一人息子(一人だけの子供で、男の子供))が誕生した。
第二次世界大戦の日本の敗戦に伴い、王の身分を失うと共に、日本の陸軍の将校であった為、公職追放となった。李垠(Yi
Un)は、家族と共に、韓国への帰国を試みるが、当時、日本と韓国との間には、国交は樹立されておらず、その上、李承晩大統領(Syngman
Rhee)の妨害などもあり、帰国できなかった。
夫婦の間の一人息子(一人だけの子供で、男の子供)は、アメリカに留学し、1957年にマサチューセッツ工科大学( Massachusetts
Institute of
Technology)を卒業した。夫妻が卒業式に出席するためアメリカ訪問を希望した際には、大学の招聘状を根拠に、日本政府が旅行証明書を発行した。家族でアメリカで生活を送るが、1959年、李垠(Yi
Un)が脳血栓に倒れ、日本に戻る。1963年、李垠(Yi
Un)は、妻である、方子(masako)女王と共に、ようやく、韓国に帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内(Changdeokgung)に住居を構える事となった。1970年、夫婦は、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、李垠(Yi
Un)は、その3日後に病院で、72歳で亡くなった。
韓国人となった(韓国籍を取得した)、方子(masako)女王は、李垠(Yi
Un)の、遺志を引き継ぎ、当時の韓国では、まだ進んでいなかった、障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。方子(masako)女王は、趣味でもあった七宝焼の特技を生かし、ソウル七宝研究所を設立し、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って、世界中を飛び回り、王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と、知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、「明暉」は李垠(Yi
Un)の、「慈恵」は方子(masako)女王のそれぞれの雅号である。方子(masako)女王の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。方子(masako)女王は、1989年、87歳で亡くなり、葬儀は、韓国で、旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われた。
写真以下2枚(写真は、借り物)。李グウ(Yi U)。


1943年1月、フィリピン(Philippines)にて。
以下、李グウ(Yi U)に関する文は、wikiを参考にしました。
李グウ(Yi
U):李垠(Yi
Un)の甥。1912年、日本統治下の、韓国、ソウル(Seoul)で生まれる。1922年に日本に渡って、学習院(gakushuin)初等科に入学。その後、日本陸軍中央幼年学校を経て、1933年に、日本の陸軍士官学校を卒業。日本陸軍の軍人となる。1941年に日本の陸軍大学校を卒業。1945年8月6日、広島(hiroshima)に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李グウ(Yi
U)は、馬に乗って司令部への出勤途中、原子爆弾の爆心地から710m付近で、アメリカ軍の原子爆弾投下に遭った。李グウ(Yi
U)は被爆後も、そのまま西方へ馬を飛ばしたが、力尽きて、抜いたサーベル(sabre)を手にしたまま、うずくまっているところを、同日の、夕方に発見され、ただちに、広島(hiroshima)市内の病院に収容されたが、翌日の午後4時過ぎに、32歳の若さで死亡した。遺体は妻と子供のいるソウル(Seoul)へ空輸され、8月15日に、ソウル(Seoul)で葬儀が行われた。
李グウ(Yi
U)の、御附武官の、日本の軍人、吉成 弘(yoshinari
hiroshi?)中佐(名前の読み方が間違っていたら済みません)は、本来なら李グウ(Yi
U)に同行しているところ、偶然水虫のため一足早く、第二総軍司令部に出勤して李グウ(Yi
U)を待っていたため、被爆死を免れた。しかし副官として自責の念に駆られ、李グウ(Yi
U)の死の直後にピストル(拳銃)自殺を遂げた。病床に就ききりでいた、吉成 弘(yoshinari hiroshi)中佐を、瀕死の李グウ(Yi
U)は、「お前の方は、体は大丈夫か」と気遣ったと言う。