6月の中旬に、東京の我が家から自動車で2時間半程の、長野(nagano)県の中南部の高原地帯(避暑地)にある別荘(別荘とは言っても、比較的裕福な人々が保有する様な典型的な別荘ではなく、庶民的な中古の一戸建て住宅です)に、滞在して来た時の後半に、長野(nagano)県の北部の、湯田中(yudanaka)温泉に足を延ばして、湯田中(yudanaka)温泉の温泉旅館に一泊してから帰って来た時の物です。
以下、この時、湯田中(yudanaka)温泉の温泉旅館に宿泊した日の事を、この日と言います。
この日は、別荘から、長野(nagano)県の北部の、湯田中(yudanaka)温泉に足を延ばし、湯田中(yudanaka)温泉の温泉旅館に1泊し(別荘に滞在する際、時々、気分転換に、別荘の有る長野(nagano)県や隣接する山梨(yamanashi)県の、旅館やリゾート(resort)ホテル、ペンション等に一泊程度宿泊しています)、翌日、湯田中(yudanaka)温泉から、直接、東京の我が家に帰って来ました。
以下、「以下、長野(nagano)県北部の温泉旅館前編からの続き。。。」と言う文までは、前回の投稿の、投稿文と、ほとんど重複しています。
湯田中(yudanaka)温泉は、長野(nagano)市(下の補足説明参照)の近郊の東北端辺りに有る、温泉保養地です。湯田中(yudanaka)温泉の周辺は、渋(shibu)温泉を始めとする、多くの温泉保養地があり、湯田中(yudanaka)温泉は、周辺の温泉保養地と共に、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷と言う、長野(nagano)市の近郊の温泉保養地地帯の一つを形成しています。湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉を中心とする、温泉保養地地帯、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷(長野(nagano)市の近郊の東北端辺りに位置する)は、湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉及び、その周囲の、小規模な温泉保養地から成り、およそ10の温泉保養地の集合帯となっています。
長野(nagano)市:長野(nagano)県の北部に有る中都市。長野(nagano)県の県庁所在地(capital)で有ると供に、長野(nagano)県最大の人口を有する都市(都市圏人口も、長野(nagano)県で最大)。
湯田中(yudanaka)温泉は、とても歴史が古い(7世紀からの、温泉地としての歴史が有る)、温泉の湯量が、とても豊富な温泉保養地です。湯田中(yudanaka)温泉は、近代以前から栄えていましたが、近代以降(19世紀後期以降)、長野(nagano)市の奥座敷(長野(nagano)市に暮らす人々の、身近な温泉保養地(現代風に言えば、週末温泉保養地))である湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷の、中心的な温泉保養地の一つとして、さらに発展しました。湯田中(yudanaka)温泉は、小林 一茶(kobayashi issa)(1763年、長野(nagano)県の北端部に生まれる。1828年に亡くなる。日本の有名な俳人(詩人))に、縁が深い、温泉保養地で、小林 一茶(kobayashi issa)は、晩年は、湯田中(yudanaka)温泉に、頻繁に訪れ、また、長期滞在しました(湯田中(yudanaka)温泉観光協会のsiteを参考にしました)。ちなみに、湯田中(yudanaka)温泉と共に、湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷の、中心的な温泉保養地となっている、渋(shibu)温泉は、湯田中(yudanaka)温泉と供に、古い歴史を持つ湯量豊富な温泉保養地で、1300年以上の、温泉地としての歴史が有ります。江戸時代(17世紀初めから19世紀半ば)には、佐久間 象山(sakuma syouzan)、小林 一茶(kobayashi issa)、葛飾 北斎(katsushika hokusai)等の、有名な文化人達が、渋(shibu)温泉を訪れました。ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)(下で、説明します)の、お気に入りの温泉旅館であった、渋(shibu)温泉の、400年以上の歴史を有する、ひしや寅蔵(hishiya torazo)と言う、温泉旅館は、一度、宿泊した事があります(現在は、中級classの温泉旅館と言った感じになっています)。
以下、長野(nagano)県北部の温泉旅館前編からの続き。。。
以下、この時、私達が、湯田中(yudanaka)温泉で宿泊した温泉旅館(よろづや(yoroduya))の後編です。
よろづや(yoroduya)は、18世紀後期創業の温泉旅館です(建物は、時代に合せて、建て替えられています)。よろづや(yoroduya)は、おそらく、湯田中(yudanaka)温泉で、最も、有名な温泉旅館の一つであると共に、湯田中(yudanaka)温泉を代表する温泉旅館の一つです。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、現在の建物は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)と言う3つの建物から成っていて、建物に依って、宿泊料金と、クラス(質・水準)が異なり、松籟荘(shoraiso)は、高級温泉旅館、本館は、中級classの温泉旅館、別館(annex)は、チープな(安い・安っぽい)庶民的な温泉宿泊施設となっています。この時、私達は、チープな(安い・安っぽい)庶民的な温泉宿泊施設と言った感じの、別館(annex)に宿泊しました(別館(annex)については、前回の投稿で、詳しく紹介しているので、前回の投稿を参照して下さい)。
私は、最近まで、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、別館(annex)の存在を知らず、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))は、中級classから高級の(中上級classの)、温泉旅館かと思っていました。この温泉旅館は、古くて立派な、共同温泉風呂が、魅力的な感じで、一度泊まりたいと思っていた、温泉旅館なのですが、まあ、別に、泊まるのは、今すぐでなくても良く、老後になってからでも良いかなと思っていたのですが、今回、安く泊まる事が出来る、別館(annex)の存在を知り、それなら気軽に泊まる事が出来るし、ちょっと、気軽に泊まって、この温泉旅館の温泉風呂に、ゆっくり入って来ようかなと思い、宿泊しました。ちなみに、渋(shibu)温泉の、金具屋(kanaguya)と言う、趣のありそうな、1758年創業の、高級classの温泉旅館(安く泊まる事が出来る、「よろづや(yoroduya)の別館(annex)」に相当する様な建物(施設)はない様です)も、一度泊まって見たいのですが、まあ、別に今ではなく、老後になってからでも良いかなと思っています(金具屋(kanaguya)は、おそらく、渋(shibu)温泉で、最も有名な温泉旅館の一つであると共に、渋(shibu)温泉を代表する温泉旅館の一つです)。
以下、この投稿では、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、真髄(真の魅力)と言える、松籟荘(shoraiso)、本館、共同温泉風呂を中心に、紹介します。
この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の館内には、この温泉旅館の、歴史的資料や、オーナー(owner)家族が、代々、保有して来た、古くて、価値が高そうな、芸術品・工芸品等が展示されており、この温泉旅館が、その歴史を大切にしている事が分かります。
写真以下3枚。この温泉旅館の館内の展示例。昔の、この温泉旅館の、女将(okami・jyosyo。旅館のオーナー(owner)の妻。通常、その旅館の実務の、最上位の地位にある)が使用していた、装身具・日用品。
この温泉旅館の館内の、この温泉旅館に関する資料の展示から。。。この写真の、番号4(写真左上)は、この温泉旅館の共同温泉風呂の一つである、桃山(momoyama)風呂に飾られている物の一つで、佐久間 像山(sakuma syouzan)(下で、説明します)の作品です。漢字で、「酒心」(酒・心)と書かれています。

佐久間 象山(sakuma syouzan):写真は、借り物。説明は、wiki等を参考にしました。1811年生まれ。1864年に亡くなる。学者(朱子学(Cheng-Zhu school)・軍事学)・思想家。身長は、173cmから175cm位であったと言われ(180cm前後であったと言う説、185cm以上あったと言う説もありますが、私は、173cmから175cm位説が、最も、信憑性が高いと思います)、当時としては長身で、体格も立派で、堂々としていたと言われています。天才でありましたが、自信過剰で、傲慢な性格で、他人を見下す傾向にあり、嫌う人も多かったとも言われています。現在の、長野(nagano)市の松代(matsushiro)areaの、侍(samurai)階級の家に生まれる(佐久間 象山(sakuma syouzan)の生まれた家は、侍(samurai)階級の中では、下級の家でしたが(ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)の母は、農民の家の娘で、佐久間 象山(sakuma syouzan)の父の妾(愛人)でした)、佐久間 象山(sakuma syouzan)の父(剣術の達人であった)は、地方領主の秘書を務め、地方領主に、重用されていました)。若年期に、経学(儒教の経典を解釈・研究する学問)、詩文、数学等を学ぶ。特に、数学に興味を示し、熱心に学ぶ(後の、西洋の学問・科学の吸収に、大いに役立ちました)。学業が、優秀であった事等から、1831年、20歳の時に、地方領主(真田 幸貫(sanada yukitsura))の息子(当時16歳)の、教育係に抜擢されたが、高齢の父に、孝行が出来ないと、すぐに辞任しています。1833年、長野(nagano)から、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)に出て、朱子学(Cheng-Zhu school)・詩文を学び、1839年に、江戸(edo)に私塾(個人経営の、小さな学校)を開きます(当時の、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であり、自身(自分)の学校で教えていたのは、儒学でした)。1842年、佐久間 象山(sakuma syouzan)が仕えていた、地方領主、真田 幸貫(sanada yukitsura)(現在の長野(nagano)県の北部の一部を統治していた、地方領主)が、老中(rojyu。幕府(日本の、当時の中央政府)の、最高の職。4、5名が選ばれ、将軍(shogun)(日本全国の、侍(samurai)の長(leader)で、当時の日本の実質的な統治者)に直属して、幕府(当時の中央政府)の政務の責任者として、実務を行った)兼任で、幕府(当時の中央政府)の、海防掛(日本の海防の指導的な役割を担う役職)に任ぜられて以降、状況が一変し、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、真田 幸貫(sanada yukitsura)に、洋学(西洋の学問)の担当者として登用され、兵学(軍事学)を学ぶ様になります。それ以降、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、当時の、日本における、西洋の兵学(軍事学)の第一人者となると共に、西洋の学問そのものに、大きな関心を示し、当時の日本の、洋学(西洋の学問)の第一人者として、学問や、科学・工学分野において、日本国内における、数々の業績を残しました。しかしながら、日本の国力の充実の為に、西洋の学問・科学技術を取り入れる事を主張し、強力な開国論者(日本の鎖国を解くべきだと主張する者)であった為、1864年、京都に暮らす様になって間もなく、攘夷派(外国勢力を実力行使で排除しようとする勢力)の侍(samurai)達にassassinated、53歳で、亡くなりました。
写真以下2枚。佐久間 象山(sakuma syouzan)の、肖像画(の写し)。この温泉旅館の館内の、資料の展示から。。。この温泉旅館の共同温泉風呂の一つ、桃山(momoyama)風呂の、温泉露天(野外)風呂は、佐久間 象山(sakuma syouzan)が、1854年から、約10年間暮らしていた、現在の長野(nagano)市の松代(matsushiro)areaにあった邸宅の、庭園を模した物の様です。ちなみに、佐久間 象山(sakuma syouzan)は、1844年に、地方領主(真田 幸貫(sanada yukitsura)。湯田中(yudanaka)温泉が、お気に入りであった)により、湯田中(yudanaka)温泉・渋(shibu)温泉一帯の、利用掛(開発を指導する役職)に任命されています。


写真以下19枚。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、3つある現在の建物の内の一つ、松籟荘(shoraiso)。本館と、渡り廊下で繋がっています。この温泉旅館の現在の建物の中で、最も古く、1939年に建てられた物です。この温泉旅館の建物の中で、宿泊費を含めて、最も高級な建物で、そのまま、高級温泉旅館と言った感じです。
写真以下2枚。松籟荘(shoraiso)の外観。

パンフレット(leaflet)より。。。
本館(後で、紹介します)と松籟荘(shoraiso)を結ぶ、渡り廊下。。。
写真以下12枚。松籟荘(shoraiso)の内装例。松籟荘(shoraiso)の内玄関(入り口)と、その周辺。
写真以下7枚。松籟荘(shoraiso)の内玄関(入り口)。

写真以下3枚。松籟荘(shoraiso)の客室例等。12室ある、松籟荘(shoraiso)の客室は、全て、デザイン(design)が異なる様です。

写真上。松籟荘(shoraiso)の客室例。写真下、松籟荘(shoraiso)の廊下。

松籟荘(shoraiso)の客室例。

写真上、松籟荘(shoraiso)の、温泉露天(野外)風呂が付いている客室の、温泉露天(野外)風呂の例。写真下、松籟荘(shoraiso)の客室例。
松籟荘(shoraiso)の広間(hall)。
写真以下6枚。十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)(下の、補足説明参照)の写真。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)に関する展示より。十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)は、1945年2月から、この温泉旅館に疎開しました。
十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon):1874年生まれ。1945年に亡くなる。20世紀初期に活躍した、日本の、人気、歌舞伎(kabuki)(日本の、伝統、大衆演劇の一つ)俳優。以下、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)に関する説明は、wiki等を参考にしました。出生は、明確にされていないが、定説によると、Charles Le Gendre(1830年生まれ。1899年に亡くなる。南北戦争(American Civil War)で活躍した、フランス系アメリカ人の軍人。1872年に、日本の、明治(meiji)政府(日本の近代の新しい中央政府)に、外交顧問及び、軍事顧問として雇用された。1890年に、韓国に渡り、韓国の王(後に皇帝)、高宗(Gojong)の顧問を務める。1899年、ソウルで亡くなる。ソウルに墓がある)と、日本人女性の間に生まれた、私生児(母(日本人女性)は、松平 慶永(matsudaira yoshinaga。日本の有力な侍(samurai)。明治(meiji)政府においても、要職を歴任した)と、その愛人との間に生まれた、娘)。幼少の頃、歌舞伎(kabuki)俳優の家の養子となる。後に、歌舞伎(kabuki)俳優となり、20世紀初期の、人気、歌舞伎(kabuki)俳優の一人として活躍した。女性に、非常に、よくもてて(多くの女性に愛され)、自分が二枚目(美男)である事を強く認識・意識した性格(悪く言えば、とてもナルシスト(narcissist)的な性格)であった様です。その一方で、如何にも、江戸っ子(伝統的な(古くからの)、東京の大衆)らしい性格(気前が良い、細かい事に拘らない、正義感が強く短気と言った特徴で表される)であると共に、周囲の人々に対して心配りの行き届いた情の深い性格で、多くの人から慕われた様です。

1928年に撮影された写真(当時、53歳)。たぶん、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)が、ヨーロッパ、アメリカ旅行に出発する、直前に撮影された写真。





1934年に撮影された写真(当時、59歳)。一緒に写っているのは、十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)の親戚の女性(当時19歳)と思われる。
十五代目、市村 羽左衛門(ichimura uzaemon)が、1945年2月に、東京から、この温泉旅館に疎開(下の補足説明参照)してから、1945年5月に、疎開先の、この温泉旅館で、70歳で、突然、病気により、ひっそりと亡くなるまで、滞在していた、この温泉旅館の、松籟荘(shoraiso)の客室。当時、松籟荘(shoraiso)(1939年完成)は、まだ、完成してから、6年程しか建っておらず、新館と呼ばれていた様です(当時、現在の本館のある場所には、松籟荘(shoraiso)よりも古い、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の、先代の、本館の建物が建っていたと思われます)。
疎開:戦争中、空襲の被害から逃れる為、空襲の被害を受け易い、大都市や中都市の中心部を離れ、郊外や田舎に、一時的に滞在若しくは、一時的に移り住む事で、第2次世界大戦中、空襲の被害が大きかった、日本とヨーロッパでは、盛んに、行われました。比較的裕福な層は、郊外や田舎に、家を購入して移り住んだり、(元々保有していた)郊外や田舎の別荘に滞在する事が可能でしたが、庶民は、(田舎から大都市に出て来ている場合等は)実家を頼るか、若しくは、親戚を頼るか、学校疎開(学校毎の疎開)に、子供を送るしか有りませんでした。
写真以下11枚。この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の本館。本館は、松籟荘(shoraiso)と共に、道路を挟んで、別館(annex)の向かいに建っており、別館(annex)とは、地下の通路で、松籟荘(shoraiso)とは、渡り廊下で繋がっています。本館は、中級classの温泉旅館と言った感じです。本館の建物は、別館(annex)の建物と同様、第二次世界大戦後に建てられた現代建築の建物ですが、やはり、別館(annex)の建物同様、既に、建てられてから、かなり、長く、時が経過している感じです(現在の、本館の建物は、1960年代に建てられた様です)。
本館の玄関。
写真以下7枚。本館のロビー(lobby)。本館のロビー(lobby)は、松籟荘(shoraiso)のロビー(lobby)も兼ねています。ちなみに、別館(annex)のロビー(lobby)は、別にあります(別館(annex)にあります。前回の投稿参照)。

写真以下2枚。本館の内装例。


本館には、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))の歴史を感じさせる、古い物が、所々に置かれたり、飾られたりしています。この時計も、かなり古い感じです。
本館の客室例。パンフレット(leaflet)より。。。本館で、基本的(標準的)な、客室です(おそらく。。。)。
写真以下9枚。この温泉旅館の共同温泉風呂。この温泉旅館の、共同温泉風呂は、男女別の、共同温泉風呂の形式となっています。この温泉旅館にある、二つの共同温泉風呂の内、どちらが、男用の共同温泉風呂、どちらが、女用の共同温泉風呂と、固定的に決まっている訳ではなく、時間によって、男用の共同温泉風呂と、女用の共同温泉風呂が、入れ替わります。前述の通り、この温泉旅館は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)と、宿泊料金と、クラス(質・水準)が異なる、三つの建物から成りますが、どの建物に宿泊しても、利用する共同温泉風呂は、共通となっています。ちなみに、この温泉旅館の共同温泉風呂の、温泉は、おそらく、全て、源泉かけ流しです(前述の通り、共同温泉風呂の湯だけでなく、この温泉旅館の湯は、客室(別館(annex)の客室を含む)の風呂(bathroom)の湯を含む、全ての湯が、源泉かけ流しの、温泉となっている様です)。
写真以下5枚。この温泉旅館の、共同温泉風呂の一つ。桃山(momoyama)風呂と呼ばれています(以下、桃山(momoyama)風呂と書きます)。桃山(momoyama)風呂は、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、温泉蒸し風呂(温泉サウナ(sauna))から成ります。以下、桃山(momoyama)風呂に関する説明は、この温泉旅館の、この温泉旅館の歴史に関する展示等を参考にしました。桃山(momoyama)風呂は、この温泉旅館の、第二次世界大戦後の、復興(復活)の象徴となった施設で、1951年初めに着工され、およそ2年半以上の歳月をかけ、1953年9月に完成しました。桃山(momoyama)風呂の建物は、安土桃山(azuchi・momoyama)時代(16世紀後期)の建築様式を模した建物で、当時の、この温泉旅館(よろづや(yoroduya))のオーナー(owner)は、この温泉旅館の、新しい共同温泉風呂(桃山(momoyama)風呂)を建設するに当たって、修善寺(syuzenji)温泉(日本の、伊豆(izu)半島の内陸部にある、とても歴史が古い温泉保養地)の、高級温泉旅館、新井(arai)旅館の、天平(tenpyo)時代(8世紀前半)の建築様式を模した、共同温泉風呂の建物(1934年完成)を視察し、構想のヒント・参考にしました。当時(第二次世界大戦が終わって間も無く)の、この温泉旅館には、(おそらく)お金(現金)の余裕が無かった事に加えて、桃山(momoyama)風呂を計画通り建設するのは、とても、お金が掛かると言う事で、当時の、この温泉旅館のオーナー(owner)は、銀行から、金を借りようとしましたが、(まだ、第二次世界大戦直後の混乱期の名残が、強く残っていた)当時の、日本においては、様々な商売の業種の中で、旅館業は、銀行の貸付順位が、低かった為、銀行から、希望通りの融資を受けるのは、とても困難でした。やっとの事で、銀行から、ある程度の、金を借りる事が出来ましたが、それでも、資金が足りず(希望していた、融資額の、40%程しか融資を受ける事が出来ず)、当時の、この温泉旅館のオーナー(owner)は、この温泉旅館のオーナー(owner)の家族が、代々保有して来た、価値の高い、美術品や工芸品を、トラック(truck)一台分、富山(toyama)県(日本の中部地方の県の一つ。長野(nagano)県の北西部に隣接する)の、比較的裕福な商家(商人の家)に、(おそらく、当時は、第二次世界大戦直後の混乱期の名残が、強く残っていた事から、実際の価値よりも、かなり低い価格で)、断腸の思いで(とても、惜しい思いで)売却する事によって、ようやく、桃山(momoyama)風呂の建設に必要な資金を得る事が出来ました(その時、富山(toyama)県の商家(商人の家)に、売却した、絵画等の美術品等は、現在も保有していれば、ちゃんとした(しっかりとした)美術館を開ける程の、量と質の物であった様です)。桃山(momoyama)風呂の建物は、第二次世界大戦後(1953年)に建てられた建物ですが、近代(19世紀後期から1930年代頃)の、日本伝統式の建物の雰囲気を、とても強く感じさせる建物となっており、当時の、この温泉旅館の、オーナー(owner)の意志が、強く感じられます。第二次世界大戦後の、大量生産・大量消費の高度経済成長期(1950年代から1960年代)の日本においては、本物の職人は、活躍の場を急速に失って行きましたが、桃山(momoyama)風呂が建てられた1950年代初めは、日本が大量生産・大量消費の時代に突入する前夜の頃で、第二次世界大戦前(1930年代以前)から活躍していた職人が、活躍出来た、最後の時期(末期)であった様な気がします。この温泉旅館の桃山(momoyama)風呂は、第二次世界大戦後に建てられた建物としては、比較的珍しく?、文化財に指定されていますが、それは、その辺りが評価されたからかもしれません。この温泉旅館に、一度泊まりたいと思っていたのは、この桃山(momoyama)風呂が、魅力的な感じだったからです。確かに、この、桃山(momoyama)風呂は、立派で、素晴らしい、共同温泉風呂でした。個人的に、今まで、入浴した、共同温泉風呂の中で、最も魅力的な、共同温泉風呂の一つだと思いました。
この温泉旅館に展示されている、(まだ完成してから、2年位しか経っていない)1955年頃に撮影された、桃山(momoyama)風呂の、(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部の写真。
客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。写真上。桃山(momoyama)風呂の、屋内(室内)温泉風呂。写真下。桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部。
桃山(momoyama)風呂の屋内(室内)温泉風呂。パンフレット(leaflet)より。。。
桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と温泉露天(野外)風呂の一部。客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。
桃山(momoyama)風呂の(屋内(室内)温泉風呂の)建物と、温泉露天(野外)風呂。パンフレット(leaflet)より。。。温泉露天(野外)風呂は、とても大きく、写真に写っているのは、その極一部で、全体の大きさは、写真に写っている部分の、4倍位ある感じです。紅葉の時期は、非常に景色が綺麗そうです。

パンフレット(leaflet)より。。。写真上側、この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、露天(野外)の、温泉泡(jacuzzi)風呂。写真下側、この温泉旅館の、貸切り温泉風呂。
写真以下4枚。客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。
写真以下3枚。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂は、屋内(室内)温泉風呂、温泉露天(野外)風呂、露天(野外)の、温泉泡(jacuzzi)風呂、温泉蒸し風呂(温泉サウナ(sauna))から成ります。この温泉旅館の、(現在の)、もう一つの温泉風呂も、桃山(momoyama)風呂同様、第二次世界大戦後に造られた様ですが、こちらの方は、現代的な、共同温泉風呂となっています(第二次世界大戦後に造られた、現代的な、共同温泉風呂と言っても、かなり古い感じ(既に、造られてから、かなり、長く、時が経過している感じ)です)。
この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、屋内(室内)温泉風呂。一つの大きな、温泉風呂の様に見えますが、浴槽は、二つに仕切られていて、それぞれ、湯の温度が、異なる様になっています。
写真以下2枚。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、温泉露天(野外)風呂。この温泉旅館の、もう一つの共同温泉風呂の、温泉露天(野外)風呂は、二つあって、一つは、普通の、温泉露天(野外)風呂、もう一つは、温泉泡(jacuzzi)風呂となっています。
普通の、温泉露天(野外)風呂。
温泉泡(jacuzzi)風呂。この風呂は、この時は、故障中で、入浴出来ませんでした。
この温泉旅館の、貸切り温泉風呂(下の補足説明参照)。この温泉旅館の、貸切り温泉風呂は、貸切り温泉風呂としては、広く、小ぢんまりとした温泉旅館の、共同温泉風呂位の、広さがあります。なお、貸切り温泉風呂は、松籟荘(shoraiso)、本館、別館(annex)、どの建物に宿泊しても、共通となっています。
貸切り温泉風呂:貸切り温泉風呂は、共同温泉風呂では無く、夫婦やcouple、家族だけで入れる温泉風呂で、通常は、小規模で(普通の家の家庭用風呂よりかは、大きいが、裕福な家の家庭用風呂位?)、入る時は、内側から鍵をかけたり、入浴中の表示を出したりして、他の人が、入って来ないようにします(鍵が、かかっていたり、入浴中の表示が、出ていると、利用中だと判断して、他の人が、入って来ない)。
この温泉旅館の、食堂(dining room)は、別館(annex)に1つ、本館に3つ、松籟荘(shoraiso)に1つの、全部で、5つある様です。夕食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客は、基本的に、部屋(客室)で、特別料理が提供され、本館の宿泊客と別館(annex)の宿泊客は、本館の食堂(dining room)で、ほとんど共通の夕食を食べます。
写真以下2枚。本館の食堂(dining room)。

パンフレット(leaflet)より。。。
客室に置いてある、ガイド(旅館案内)より。。。この時、私達は、この食堂(dining room)で、夕食を食べました。
写真以下12枚。この温泉旅館の本館の食堂(dining room)で食べた、この日の夕食等。
この夕食時に、私が飲んだ、飲み物の一つ。利き酒セット(色々な、日本酒を、少量ずつ、飲み比べる事が出来る組み合わせ)。左から。。遠藤(endo)酒造場(須坂(suzaka)(長野(nagano)県の北部の小都市。長野(nagano)市の都市圏に位置する)の、1864年創業の、日本酒の会社。「渓流」の、ブランド(brand)で知られる)の、「渓流」と言う、日本酒。田中屋(tanakaya)酒造店(飯山(iiyama)(長野(nagano)県の北部に位置する小都市)の、1868年創業の、日本酒の会社。水尾(mizuo)の、ブランド(brand)で知られる)の、「水尾(mizuo)」と言う、日本酒。玉村(tamamura)本店(山ノ内(yamanouchi)町(湯田中(yudanaka)・渋(shibu)温泉郷(湯田中(yudanaka)温泉と渋(shibu)温泉を中心とする、長野(nagano)市の北東部近郊に位置する、温泉保養地地帯)や、志賀(shiga)高原等が属する、長野(nagano)県の東北部の町)の、1805年創業の日本酒の会社の、「緑喜(engi)」と言う、日本酒。この他、この夕食時は、私は、飲み物は、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、志賀(shiga)高原ビール(地元のビール)を1本と、玉村(tamamura)本店の、「雪猿(snow monkey)」と言う、濁り酒(アルコール(alcohol)度数は、15%から16%)を、300ml飲みました。
写真以下11枚(途中、笹寿司の説明写真1枚を除く)、この温泉旅館で食べた、この日の夕食。この温泉旅館の、本館と別館(annex)の、ほとんど共通の夕食の内、一番、安い夕食を食べました。全て、一人一皿ずつです(写真は、一人分)。
前菜と、食前酒(右下)。食前酒は、この温泉旅館、自家製の、林檎酒です(長野(nagano)県は、林檎の主要な産地となっています)。ちなみに、この食前酒の様な、食前酒は、個人的に、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)の内に、入りませんw
前菜。写真上の、笹の葉に包まれている物は、地元の、伝統料理、笹寿司です。
笹寿司の中身は、こんな感じです。観光パンフレット(leaflet)より。。。
信州(shinsyu)牛(長野(nagano)県産の、高級牛肉)の、しゃぶしゃぶしゃぶ(shabu-shabu)。
お吸い物。
刺身(カンパチ、帆立、鯉)。鯉は、海に面していない県である長野(nagano)県で、他の、川魚・湖魚と共に、昔から、よく食べられている食材です(おそらく。。。)。
鮎(川魚)の、焼き物。
蕎麦饅頭。
手打ち蕎麦。蕎麦は、長野(nagano)県で、昔から、よく食べられている、長野(nagano)県の名物料理の一つです。上に載っている、天麩羅は、山菜(山や、森、野原で採れる食用植物)と、すじ海老(川や池に生息する、淡水性の海老)の、掻き揚げ(kakiage)。掻き揚げ(kakiage)は、天麩羅の一つで、魚介類(seafood)や野菜等を、何種類か組み合わせ、衣とともに揚げた天麩羅です(説明は、wikiを参考にしました)。
左から、ご飯(rice)、野沢菜(アブラナ科(Cruciferae)の野菜の漬物。野沢菜(nozawana)は、長野(nagano)県で、よく食べられている漬物です)、長野(nagano)県産の味噌を使った、味噌汁(miso soup)。長野(nagano)県は、味噌の主要な産地の一つとなっています。
デザート(dessert)。ブルーベリー(blueberry)シャーベット(sorbet)。

参考に、松籟荘(shoraiso)の宿泊客の、夕食の一部の例。。。パンフレット(leaflet)より。。。夕食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客は、基本的に、部屋(客室)で、特別料理が提供される様です。
この旅館の、朝食は、松籟荘(shoraiso)の宿泊客と、本館の宿泊客は、本館の食堂(dining room)で、共通の日本料理の朝食を食べ(おそらく。。。)、別館(annex)の宿泊客は、別館(annex)の食堂(dining room)で、比較的チープな(安っぽい)、朝食バイキング(buffet)が提供される事になります(別館(annex)の食堂は、別館(annex)の宿泊客専用の食堂(dining room)且つ、朝食専用の食堂且つ、朝食バイキング(buffet)専用の食堂(dining room)となっています)。
翌日の朝食は、別館(annex)の食堂の、朝食バイキング(buffet)で食べました(前回の投稿、参照)。
翌日は、朝食後、チェックアウト(checkout)時間まで、温泉風呂に入る等、旅館で、のんびりしていましたが、旅館を、チェックアウト(checkout)してからは、直接、東京の我が家に帰って来ました(翌日は、夕方から仕事であった為、早目に、東京の我が家に帰って来ました)。
翌日の昼食は、帰りに、高速道路(motorway)の、SA・PA(rest area)で食べました。
長野(nagano)県北部の温泉旅館、終わり。。。