最近話題のことは仮名手本忠臣蔵とか必殺シリーズで株仲間の未公開株を受け取る話とかと、構造は一緒なんだろうなぁと思ってる。「古田先生への愛情はないのかー!」な人々の良心もすごいなぁとも。
さて、国会図書館に行く余裕もないので、日々近代デジタルライブラリなぞをうろうろしているわけですが、欲しいものは「ここまで来い」ばかりなくせに、ひょんな事から変なところにぶち当たってばかり。で、今回は単発的にそう言うお話。主な参考テクストは
『朝鮮西伯利紀行』矢津昌永(1894:明治27)
『韓国地理』矢津昌永(1904:明治37)
『矢津昌永の地理学』源昌之(1978)
『六学年小学校新学科教授法』小平高明(1907:明治40)
特に深く突っ込んでもいないし知らなかった私が「へー」とおもった程度のまぁ、情報提供。何かにつながる話でも無し、つなげる予定もないそう言うお話。しかも聞けば昔紹介された方がいるとのこと。
矢津昌永は日本の地理学者。
源昌久氏の研究(『矢津昌永の地理学』)によると小学校の二等訓導からスタートして、最後は陸軍教授になった立身出世の人。ただ、かなり学歴について悩んでいたようである(帝国大卒でないということで)。熊本出身で、嘉納治五郎の元で働いていたりした。
明治20年代に従来の翻訳型地理学から脱皮し、日本の事例を採用して解説を試みた地文学(自然地理)の書物として最も早いもののひとつ(日本地文学)を書いた人。明治時代から大正にかけて、中等地理教育の教科書・参考書を多数執筆し、この世界の重鎮。日本地文学執筆当時一介の地方教員であったにも拘わらず内務省気象台、海軍省水路部の報告等のデータを丹念に収集して使用していることは高く評価してよいとのこと。
明治後半に日本が獲得した権益地域については、著書をきちんと改訂している、事情が変わった地域(例えば要塞が建設されたところ)についても素早く改訂をしている、マメな人。表日本・裏日本という言葉を造語した人ともいわれます。少なくとも明確にこうした書籍に定義して使用している最も古い人。フリークな皆様の間では『韓国地理』と『大日本地理集成』の著者としてご存じかと思います。
この人の著作に『朝鮮西伯利紀行』があり、これは著者が第五高等中学校(五高:現熊本大学)から高等師範(東京高等師範:現筑波大学)に移動する頃の夏(明治26年7/26から8/16)に朝鮮半島(釜山・蔚山・元山など)とシベリア(ウラジオストック)を実地に周遊した紀行文です。最初の方に「元々外国を色々見て回りたいと思っていたんだけどまずは東洋から、だんだんと西に行きたい(宿志として)。その手始めに」と書いています。彼が半島に行った年は日本でいうと富岡製糸場の払い下げがあったり、宮田製作所が国産自転車製造を開始してたり、ようやくそう言った所に来ていました。時期的に半島情勢は緊張していたとも思うのですが、あっさりとした紀行が書かれています。地理学者なので、随所にそうした切り口が見られ、非常に面白い一冊でした。
釜山で初めて韓人の女性を見て「乳房はおおうに由なく現れて歩々房房たり」とか、事細かに韓屋について語る(冬基準なので、夏は暑すぎてみんな外で食事をし寝ている)とかしています。釜山測候所訪問時には、その不備について指摘しています。蔚山では土人が集まって見せ物状態に辟易しています。とにかく臭気がひどいこと、食べ物がきついことが繰り返し出てきます。この紀行は著者にはかなりインパクトがあったようで、その後の彼の教科書・地理学書には似たような記述が随所に見られます。『韓国地理』の記述の下敷きはこの紀行だと言ってもいいかと思います。
『朝鮮西伯利紀行』P10 内地旅行に就き領事の談話
『朝鮮西伯利紀行』P26余等の携帯品
『朝鮮西伯利紀行』P44酒の製法を見て吐気胸を衝く
画像は見づらいなぁと思いますので、ご興味がある方は近代デジタルライブラリで検索してみてくださいね。
おまけ。
こうした明治から大正期の地理学者、なかでも地理教育に携わっていた人の考え方は『韓国地理』の序にも顕れています。ですがもっとすごいなぁと思ったのが小平の『六学年小学校新学科教授法』。これは同年に改正された教育法令ににより、尋常小学校の年限が4年から6年になったことを受けて作られた地理・歴史・理科の指導方法。要はアンチョコです。
プロパガンダの部分は多分にあると思いますが、教育者教育という分野ですら、当時の人の考え方はこんなもんだったというのには驚かされます。
『六学年小学校新学科教授法』より第13章
おまけのおまけ
本当はこういうところを調べていたらでくわしたんですけどね。
『韓国地理』より風俗図の一部拡大