この話に掛かるために今一度半島の近代史をちょこちょこ見直したり、法令集に首をひねったりしているわけです。が基本が「モノがたり」の人なので、できるだけ物に当たりたい状況に当たりたいという事で無い知恵をひねった結果あらぬ方向の資料をあさっております。結果下肥の話につながるような情報もいくつか取る事ができたのは僥倖なのですが、ちょっと今捜しているモノがございます。もし何か参考になる事があればご教授賜れば幸いです。考古・文献なんでも構いません。
衛生-洗濯-というのを調べていてそこにたどり着いてしまったのですが、それは『きぬた』であります。砧、洗濯後にアイロンがわりに使われた木製の道具で、日本では考古遺物としての散見と文献上鎌倉時代位から見られるとの事ですが、ネット上の話では半島の文献は18世紀以前のものが見あたらないとか、考古遺物としての砧に至っては半島のモノは今のところ見つけられていません。服飾史に関する分野であり、おそらくは絹の伝播に伴い流入してきたモノと思うのですが、今のところさっぱりであります。
ちなみに火熨斗は中国から間接・直接で日本に入った事は明確ですが、こちらは江戸時代以前は日本での発掘例は乏しく、江戸期以降に急激に普及したと考えられます。半島ではまずお目にかかれませんが、明治末年の写真ではチョゴリを着て火熨斗を当てている女性、と言う一葉があり、少なくとも全く使用されていなかったわけではない(ただし開国後日本から流入した可能性はある)ことのみ判明しています。
ではでは。
まず総督府時代の伝染病患者の発生についての数字についてお話しします。基になった資料統計は
『衛生局年報』(各年次)
『日本帝国統計年鑑』(各年次)
『法定伝染病統計』(T13:1923)
『朝鮮総督府統計年報』(各年次・中心的資料)
『統監府統計年報』
『台湾総督府統計書』(各年次)
戦後の朝鮮半島の人口については
『朝鮮半島の人口転換とその変動要因の分析』(三浦洋子:千葉経済論叢29;2004)によりました。原資料は韓国統計年鑑など。
問題なのはそれぞれ統計で見つかった集積期間がまちまちである事です。台湾・朝鮮総督府が成立する以前の現地の情報は見つけられないだけでなく、以下のような問題がありました。
1 日本(以下多くの場合「内地」と表記する事になります)の統計はM27(1894)-S10(1935)までしか見つけられませんでした。
2 台湾についてはM32(1899)-S4(1929)と飛んでS17(1942)を発見
3 関東州・樺太庁などは大正から昭和初頭くらいを発見(ただし今回は使いません)
4 朝鮮半島はM43(1910)-T14(1925)までは内地人・朝鮮人別の情報があるが、以後S17(1942)までは朝鮮全体しかなく、S9(1934)・S15(1940)・S17(1942)について区別された情報がありました。
情報自体はそれぞれ取られていたのだろうと思います。少なくとも1942の朝鮮総督府年報の資料から考えても内地・台湾でも収集は行われていたと思います。しかし朝鮮総督府年報ですら諸般の事情(おそらく紙面の都合)で内地人・朝鮮人別の資料を掲載しなかったなど、情報として統一された概念がなかったこと、戦争の混乱でまとまった資料として出版されないまま終わった可能性、あと最後は図書館に収蔵されてないか、私の検索が下手な事。最後のが結構可能性大なんですな。嘆息。特に内地の昭和10-15の情報が手に入れられてないのが残念です。
よって、各地の情報を比較できるのは
M43(1910)-S4(1929)
の20年程度にとどまります。
朝鮮半島自体では
M43(1910)-T14(1925) 朝鮮人・内地人まで比較可能
M43(1910)-S17(1942) 半島全体の状況を確認可能
全ての伝染病について大体同じ状況です。ブロードソードは手に入れたのに盾はお鍋のふたとか、足下は裸足とか、そんな感じです。まぁドラゴン狩りに行くわけでも無いのでこのまま行く事にします(もうこれ以上コピー取りに行くのが経済的にゲフンゲフン…)。

グラフ1収集できた伝染病情報のデータの存在期間
さて、天然痘。
少なくとも李氏朝鮮の段階で人痘法の受容、池錫永による総督府以前の種痘と、他の伝染病に比べて多少なりとも防疫体制が作られつつありましたが、限定的なものであったと推測されます。ただ、この頃の種痘は継続的に続ける必要があり、いつでも広げられる環境は整っていたと考えられます。開国から統監府時代についてははっきりした文献はありませんが、内地人用の病院では原則として居留者以外での種痘が行われておらず(統計がない)、例外的に居留地に出入りしている朝鮮人・そしてその家族に対して種痘が行われていたと考えられます。少なくとも池のように種痘法を求めるものに対しても気前よく伝授していること、継続的な種痘を行わないと痘苗が維持できない可能性がある事からです。
また『統監府臨時間島出張所紀要』(M43:1910)には間島慈恵病院で月に200から800人、2年間(M41-42)の累計で10641人の韓人の治療を行ったとあり、全く朝鮮人に対してアプローチをしていなかったわけでもありませんでした。※1
※1 この二年の間島での日本人の治療は1302人。はっきり言って、現地人用の病院と言っていいと思います。患者は会寧郡・冨寧郡等、間島以外からの者も多かったとしています。種痘は喜んで受けていた(喜テ之ヲ求ムルノ状アリ)としています。
まず、実人数のデータ。これは比較するというのは結構難しいですね。やはり人口比とかで考えるべきなのかもしれません。でもあえてここで揚げてみたのは、その対人口、と言うところにかなり問題があると思われたからです。内地ですら登録された人口に揺れがある事は間違いなく、まして朝鮮半島では皆さんご存じの通り1910-15あたりの爆発的人口増加が逆にノイズにすらなるからです。

グラフ2天然痘患者の数※2

グラフ3天然痘死者の数※2
※2 この患者死者というのはちょっと食わせ物で、天然痘にかかった結果医師(病院)にかかり、その後死んだ数と思われます。法律上は法定伝染病にかかった場合速やかに届け出てお上の指示を仰ぐ必要があるのですが、通常の半島・台湾の医療機関利用率では現地人はおおむね1割に満たない数であり、大流行した年は年報の数字以上の罹患者・死者が出た可能性があります。検討するときに意識する必要があろうかと思います。特に天然痘のように罹患時にはっきりと症状が出るものはともかく、その他のいくつかについては実数以上の被害が出たと考えるべきだと思います。
患者数と死者数はほぼリンクしており、内地における1896近辺の大流行はコレラの大流行の影響があるかもしれません。また1909に大流行していますが、こちらはよく分かりません。もしかしたら、大陸との交流が極めて大きくなった影響なのかもしれません。そして1917-20にかけて流行しています。特に1919-20にかけてひとつ山がありますが、これはスペイン風邪の影響ではないかと思っています。他の伝染病も類似傾向が認められますが、何かひとつでかい病気が流行すると他の病気も流行する傾向があります。これは至極当然な話で大流行した病気により体力が無くなっているところに別の病気が襲うわけです。天然痘の場合種痘によりその傾向はなくせそうなのですが、やはり善感が微弱(ちゃんと抗体ができていなかった)者の存在など、問題はあったので防ぎきれなかったのでしょう。また、大きな病気が流行する事により医療機関がパンク、人手不足、薬品の欠乏などが誘発され、通常の防疫体制が崩れていくという事もあったのでしょう。
この「何かが流行るとほかもつられる」傾向は、他の伝染病にも顕著に表れます。特に1919-20は全ての伝染病が蔓延します。恐るべしパンデミック。以後この話でパンデミック期、と出てきたらこの1919-20を指すと思ってください。
台湾もこの年は内地と同様の状況が小さいなりに起きているので、天然痘については内地と台湾での状況は近いものだったと思われます。特異なのは台湾では統計の取られているほとんどの年で天然痘患者が出ていない事。ここは情報を検討して初めて気がついたので、この話を考える事を終えたら当時の台湾情勢について今一度確認しようかとも考えていますが、清朝もしくは欧米列強の影響で種痘が進んでいたのではないかと考えています。
内地・台湾に対し、朝鮮ではやや事情が違っていたようです。1910近辺の流行も、1919付近の流行も、内地にやや遅れて発生します。1918頃から大陸北部経由でコレラが大流行する(後述予定)ように、基本的に朝鮮の疫病は北から南に流行する傾向が強いのですが、天然痘についてはもしかしたら日本航路経由であったのかもしれません。このあたりは詳細な発生経路などが統計上にでていない事もありますが、私が地域ごと・月別の発生数まで精査していない事もあり(時代によってこれらの情報は残っています)、不明です。ただ、1919からの大流行は極めて深刻な被害を朝鮮半島にもたらしたと考えていいでしょう。
さて、単に人数だけを出しても仕方ないかと思い、対人口における発生率も見てみました。他の伝染病についても同様の数式を使います。
発生率(‰)=患者数/当時の人口*1000
あんまり意味のある数式ではないですね。こういうところはもっと勉強しておけばよかったと悔やまれます。あと、ベーシスの方がよかったかなぁ。

グラフ4 天然痘発生率(‰)
朝鮮人と朝鮮人全体の発生率がほぼ同じなので少々分かりづらいですが、朝鮮半島では以下の事が起きていました
1 内地人(日本人)の天然痘は1910から急激に発生率が下がり、天然痘は一旦撲滅されたかに見えます。これは内地人の人口が17万から30万まで急激に増加した事によるところも大きいのですが、それ以上に患者が100人から1人まで減るということに起因しています(以後パンデミック期を除き多くても100人程度)。
2 朝鮮人では1913まで毎年4桁の患者が出ています。グラフには入れられませんでしたが(総人口が不明のため)1908の1443人、1909の4260人と、少ない年でも1500人近く、多い年では4000人を超す患者が出ています。死亡率も20から25%と、かなり高い値。
3 1913になると、急激に朝鮮人の発生率が下がります。これも人口の増加よりも患者数(214)・死者数(33)が激減したためとみていいでしょう。死亡率もここで15%程度にさがり、種痘(予防)だけでなく治療も機能してきた事が分かります。
4 その後内地人・朝鮮人どちらも天然痘の脅威は去ったかに見えたが、パンデミック期に突然発生率が上がります。特に1920は内地人が患者1291人・死者288人と爆発的な猛威をふるい、死亡率も20%超え。朝鮮人はこの年患者数10224人・死者3321人、死亡率30%と、深刻な被害を出しています。
5 1921には朝鮮半島全体でパンデミックからの立ち直り傾向を示し、1924にはほぼ流行が止まったと見ていいでしょう。これは内地人・朝鮮人共に同じ傾向を示しています。すなわち「医療」、特に伝染病については総督府は内鮮の区別無く治療防疫に当たっていたと考えられます。
6 その後の昭和時代について内地人の情報が乏しくなりますが、1933(全体で4928)・1941(同4720)と、小さい流行を繰り返しています。たとえば1940の情報を見ると以下の数字が見て取れます
内地人患者 135 死者 5
朝鮮人患者 3128 死者 611
内地人ではこうした流行時でも患者数は拡大せず、もっぱら朝鮮人が天然痘にかかっている事がはっきり分かります。死亡率も内地人が4%程度なのに対し、朝鮮人では20%近く、統監府時代に近い数値を示します。
種痘に関しても検討はしてみたのですが、こちらは何回か受けてどこかで善感が出るとおしまいと言うもので、実際に善感になった人数がどれくらいなのかと言う事はよく分かりませんでした。なので、本当は検討しなくてはならないのですが、ここでは泣く泣く割愛します。
3については『最近朝鮮事情』(T2:1913)の伝染病の項目に以下のような記述が見えます。(当該405-406Pより抜粋・旧字等多少手直しあり)。あくまで日本から見た状況ですが、この辺が実情でありこの傾向が残ってしまった部分があるのでしょう。
…(ロ)痘瘡 痘瘡ハ朝鮮ニ於テハ殆ド地方病ノ観ヲ呈シ古来ヨリ四季ヲ通ジ各地ニ発生シ年年多少ノ流行ヲ見サルハナシ故ニ種痘ノ普及ニ就テハ特ニ力ヲ致シ一般ニ厲行(励行)シツツアリ然レトモ衛生思想ノ尚幼稚ナル朝鮮人間ニ於テハ痘瘡ハ人生必ス経過セサルヘカラサルモノニシテ到底人力ヲ以テ済フヘカラサル災厄ナリトシ之ニ対シテ毫モ予防ノ方法ヲ講セサルノミナラス同病ニ罹ルヲ以テ寧ロ自然ノ命数ナリト思惟スル者多シ況ヤ種痘ノ効力ヲ解スル者ノ如キハ極メテ鮮少ニシテ官ヨリ種痘施行ノ命ヲ受クルヤ徒ニ疑懽ノ念ヲ抱キ之ヲ忌避スル者多ク甚シキハ往往故ラニ隠遁奔竄ヲ企ツル如キ状況ナリ故ニ種痘ノ施行ニ際シテハ各警察官憲兵ニ於テ努メテ其ノ迷信ヲ誠諭シ種痘ハ痘瘡予防ノ最善ナル唯一ノ良法ナルヲ示シタル結果近時漸ク之ヲ受クル者多キヲ加フルニ至レリ…
これらの事から考えられる事は
1)1910総督府に政治が移行した時点では種痘の効果がまだはっきりと現れていない、すなわち李氏朝鮮から大韓帝国で行われていた種痘は極めて限定的であったと考えられます。
2)1913、すなわち3年強を経てようやく朝鮮半島での天然痘は種痘の効果が出てきて、患者数を減らす事に成功します。これは総督府が伝染病防疫に力点を置いていたからです。
3)1919-20のパンデミック期の治療等に関しては内鮮の区別はなく行われていた形跡が認められます。
4)その後内地人にはほとんど天然痘が出なくなりますが、朝鮮人にはだらだらと患者が残ります。人口比のため発生率などは低下していますが、患者数自体は総督府直前(統監府時代)を超える人数の年もあり、種痘が朝鮮人には完全には浸透していなかった事が分かります。
後述する事になるかと思いますが、年齢別の伝染病による死者数は明治末年と大正末年では明らかに傾向が違います(明治末は全体に広がるが、大正では若年層に集中していく)。ですので親が赤ん坊にすぐ種痘を行わなかったなどの結果、いつまでも天然痘が残ってしまったと思われます。
経済的な問題も絡んでいるとは思いますが『最近朝鮮事情』の状況が昭和まで続いていたならば、総督府の衛生教育が行き届いていなかったためだろうと思われます。少なくとも種痘は義務に近いものとして半ば強制的に行われましたし、その結果が1913以降の激減につながっています。また慈恵病院など朝鮮人は無料の医療施設も少なからず存在し、受けられなかった事はありません。
強いて言えば種痘施設(種痘所や慈恵医院・または学校など)に行くだけの経済力(交通費や学校に行かせるためのそれ)にも事欠いていたためかもしれませんが、そこを突っ込んでいくとそれだけで一冊分位ものを組み立てなきゃならなくなりそうなので、天然痘についてはここまでにしたく思います。
おまけ。朝鮮半島の人口動態のグラフも作ってみたのですが、何かこう不自然な部分が多い気がします。特に1940年代の統計断絶時にそんなに人口が増えたのかな?というのは疑問です。50年代にがくんと下がるのは朝鮮戦争の影響ですね。戦後は南北を足したあくまで推定値。

グラフ5 朝鮮半島推定人口
次は何を取り上げるべきなのかちょっと思案中。天然痘に次いで情報が多いのはコロリなのではありますが。なので次はちょっと時間があくと思います。年度末にもかかっちゃうしね。
おまけのおまけ(こっちがメインかも)
