
西紀 1591年 1月 13日 , 李舜臣は遂に全裸左図数だね節度使で赴任した. 彼が全裸左水使で赴任する前までの過程は決してやさしくなかった.
井邑県監に在任した 1年間李舜臣は考査リジン晨辞, 満浦陣晨辞, 進度軍需がリポ晨辞で君の番任命校誌を受けた事があるが皆赴任することができなかったし
五番目任命校誌を受けてから初めて全裸左水使で赴任するようになる
しかし赴任した以後にも李舜臣の発令が不当だという台諌たちの弾劾は絶えなかった. 一度の 7品階乗車と言う(のは)前例がない破格的な昇進である点を映して見れば
無理な事でもなかった
しかし君王先祖は李舜臣の弾劾を允許しなかった朝鮮と日本の戦争が起こる 14ヶ月前李舜臣は遂に歴史の全面にその姿を現わしていた
1. 1592年 1月 1日
「新年を迎え′弟や甥′息子たちが集まり′語り合った。だが′故の母を想うと′またもこの南の地でり新年を過ごす悔しさと寂しさがこみ上げてくる。兵使(上官)からの年賀の品として′矢がいた。(いくさ)の足音が聞こえるようだ。」
2. 1592年 1月 16日
「執務を執った。軍船の修理を怠った校や役人たちを罰(杖刑)にした。己の腹を肥やすことばかりを考え′の守りを疎かにする。こんな有では′るべき危局をどうり越えるというのか。また′民の犬を殺めてぎを起こした兵士にも′軍律のしさをえむため′容赦なく杖で打った。」
3. 1592年 2月 4日
「北峰に築いた狼煙台(のろしだい)を分した。に見事な出えだ。これなら崩れる心配はあるまい。李鳳(イボンス)の忠義ときぶりが目に浮かぶ。日暮れまでその要塞を眺め′城をむ堀を隅まで見回った。」
4. 1592年 2月 19日
「視察の道中′昇平府使が弟を連れて出迎えてくれた。雨上がりの山には花がきれ′その絶景は言葉では言いくせないほどだ。だが′この平も長くはくまい。夜′呂島(ヨド)に到着し′直ちに防備の点を始めた。」
5. 1592年 4月 13日‾16日
【13日】 「執務の後′いつものように弓を射て精神をぎ澄ませた。」【15日】 「衝の知らせがいた。釜山の海に九十余隻′いや′三五隻を超える倭船(日本船)が押し寄せたという。直ちに朝廷へ急報を送り′全軍に警戒を命じた。」【16日】 「夜′釜山が落したとの悲報に接した。悔しさに胸が締め付けられる。すぐさま援軍を要請し′三道の軍を動員した。」
6. 1592年 5月 29日「慶右水使と合流し′泗川に陣取った敵を急襲した。敵は山の上から頑に抵抗したが′我らは一に突し′矢を雨あられと降らせ′火砲を雷鳴のように打ち鳴らした。敵船13隻をきい′首級をげた。私自身も左肩に丸を受けたが′この程度の傷で退くわけにはいかない。」
7. 1592年 6月 2日
「唐浦にいた敵の巨艦は′我がの板屋船(パンオクソン)ほどもあり′高くそびえる閣の上では敵が悠然と座っていた。我らは片箭(ピョンジョン)と火砲を集中させた。矢を浴びた敵が海へ落すると′敵軍は崩れとなった。一兵もさず殲滅(せんめつ)した。」
8. 1597年 9月 15日
「わずかな船で′潮の流れが激しい鳴梁(めいりょう)を背にうことはできぬ。ゆえに陣を移し′諸を集めて言い渡した。『必死生′必生死(死なんとする者は生き′生きんとする者は死ぬ)』。 一人が道を塞げば′千の軍をも震え上がらせることができる。それが今の我らだ。軍律に背く者は容赦せぬ。」
9. 1597年 9月 16日
「夜明けとともに′百三十余隻の敵船が我らを包した。恐怖に震え′逃げ腰になる部下たち。私はただ一で敵陣に突っみ′叫んだ。『敵が千隻いようとも′我らの船には敵わぬ!怯むな!』。
逃げれた味方の′安衛(アンウィ)を叱り飛ばして前線へし′共にを繰りげた。降伏した日本人′俊沙(ジュンサ)が海に浮く敵馬多時(マダシ)を見つけ出し′その首を船上にげると′敵の士は一に崩した。
怒の反で敵船30隻を破。敵はついに逃げ出した。これはに′天が助けてくれた幸運(天幸)であった。」

서기 1591년 1월 13일 , 이순신은 마침내 전라좌도수군 절도사로 부임하였다. 그가 전라좌수사로 부임하기 전까지의 과정은 결코 녹록치 않았다.
정읍 현감으로 재임하던 1년간 이순신은 고사리진 첨사, 만포진 첨사, 진도 군수 가리포 첨사로 네 차례 임명교지를 받은 바 있으나 모두 부임하지 못했고
다섯번째 임명교지를 받고서야 비로소 전라좌수사로 부임하게 된다
그러나 부임한 이후에도 이순신의 발령이 부당하다는 대간들의 탄핵은 끊이지 않았다. 한번의 7품계 승차란 전례가 없는 파격적인 승진인 점을 비추어 보면
무리한 일도 아니었다
그러나 군왕 선조는 이순신의 탄핵을 윤허하지 않았다 조선과 일본의 전쟁이 일어나기 14개월전 이순신은 마침내 역사의 전면에 그 모습을 드러내고 있었다
1. 1592年 1月 1日
「新年を迎え、弟や甥、息子たちが集まり、語り合った。だが、故郷の母を想うと、またもこの南の地で独り新年を過ごす悔しさと寂しさがこみ上げてくる。兵使(上官)からの年賀の品として、矢が届いた。戦(いくさ)の足音が聞こえるようだ。」
2. 1592年 1月 16日
「執務を執った。軍船の修理を怠った将校や役人たちを厳罰(杖刑)に処した。己の腹を肥やすことばかりを考え、国の守りを疎かにする。こんな有様では、来るべき危局をどう乗り越えるというのか。また、民の犬を殺めて騒ぎを起こした兵士にも、軍律の厳しさを教え込むため、容赦なく杖で打った。」
3. 1592年 2月 4日
「北峰に築いた狼煙台(のろしだい)を検分した。実に見事な出来栄えだ。これなら崩れる心配はあるまい。李鳳寿(イ・ボンス)の忠義と働きぶりが目に浮かぶ。日暮れまでその要塞を眺め、城を囲む堀を隅々まで見回った。」
4. 1592年 2月 19日
「視察の道中、昇平府使が弟を連れて出迎えてくれた。雨上がりの山々には花が咲き乱れ、その絶景は言葉では言い尽くせないほどだ。だが、この平穏も長くは続くまい。夜、呂島(ヨド)に到着し、直ちに防備の点検を始めた。」
5. 1592年 4月 13日~16日
【13日】 「執務の後、いつものように弓を射て精神を研ぎ澄ませた。」【15日】 「衝撃の知らせが届いた。釜山の海に九十余隻、いや、三五〇隻を超える倭船(日本船)が押し寄せたという。直ちに朝廷へ急報を送り、全軍に警戒を命じた。」【16日】 「夜、釜山が陥落したとの悲報に接した。悔しさに胸が締め付けられる。すぐさま援軍を要請し、三道の軍を動員した。」
6. 1592年 5月 29日「慶尚右水使と合流し、泗川に陣取った敵を急襲した。敵は山の上から頑強に抵抗したが、我らは一斉に突撃し、矢を雨あられと降らせ、火砲を雷鳴のように打ち鳴らした。敵船13隻を焼き払い、首級を挙げた。私自身も左肩に弾丸を受けたが、この程度の傷で退くわけにはいかない。」
7. 1592年 6月 2日
「唐浦にいた敵の巨艦は、我が国の板屋船(パンオクソン)ほどもあり、高くそびえる楼閣の上では敵将が悠然と座っていた。我らは片箭(ピョンジョン)と火砲を集中させた。矢を浴びた敵将が海へ転落すると、敵軍は総崩れとなった。一兵も残さず殲滅(せんめつ)した。」
8. 1597年 9月 15日
「わずかな船で、潮の流れが激しい鳴梁(めいりょう)を背に戦うことはできぬ。ゆえに陣を移し、諸将を集めて言い渡した。『必死即生、必生即死(死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ)』。 一人が道を塞げば、千の軍をも震え上がらせることができる。それが今の我らだ。軍律に背く者は容赦せぬ。」
9. 1597年 9月 16日
「夜明けとともに、百三十余隻の敵船が我らを包囲した。恐怖に震え、逃げ腰になる部下たち。私はただ一艘で敵陣に突っ込み、叫んだ。『敵が千隻いようとも、我らの船には敵わぬ!怯むな!』。
逃げ遅れた味方の将、安衛(アンウィ)を叱り飛ばして前線へ戻し、共に乱戦を繰り広げた。降伏した日本人、俊沙(ジュンサ)が海に浮く敵将・馬多時(マダシ)を見つけ出し、その首を船上に掲げると、敵の士気は一気に崩壊した。
怒涛の反撃で敵船30隻を撃破。敵はついに逃げ出した。これは実に、天が助けてくれた幸運(天幸)であった。」

