去年の12月の初めに、関西(kansai)areaの3大都市で有る、大阪、京都、神戸(kobe)を旅行して来た時の物です。
大阪、京都、神戸(kobe)を中心とした、関西(kansai)areaは、日本で、東京圏(東京area)に次ぐ、第二の人口規模を有する大都市圏です。大阪は、関西(kansai)大都市圏の中心都市であり、大阪単独で見ても、東京に次ぐ、日本第2の都市圏人口を有する都市となっています。大阪は、歴史は、8世紀末からの大都市としての歴史を有する京都には、遥かに及ばないものの、大都市として、東京の先輩であり(東京の大都市としての歴史は、17世紀からなのに対し、大阪の大都市としての歴史は、16世紀から)、第二次世界大戦後の高度経済成長期(1950年代から1960年代)以降、日本において、東京に急速に一極集中化が進み続けた結果、影響力は、低下して来たものの、古くから商業の大都市として栄えて来た、(市民が)自由商人の気質を持つ、日本の商業の中心都市です。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)、大阪、京都が、日本の3大都市で有り、(江戸(edo)時代に日本を実質的に統治していた徳川(tokugawa)家が、中心拠点を置いていた)東京(江戸(edo))が、日本の政治、経済、大衆文化の中心都市、(天皇家及び、多くの公家(貴族)が暮らす日本の首都)京都が、日本の上流文化、工芸の中心都市で有ったのに対し、大阪は、日本の商業、経済、流通、大衆文化の中心都市として、日本中から物資が集まり、天下(全国)の台所(kitchen)と呼ばれ栄えました。
以下、関西(kansai)旅行&食事10からの続き。
以下、この投稿の写真は、私自身が撮影した写真と借り物の写真によって構成されていますが、借り物と書いて有る写真以外は、全て、私自身が撮影した物です。
第2次世界大戦前の大阪は、東京と、日本で、人口で1位、2位を争う程の勢いの有る大都市でした。大阪は、東京と同様、第2次世界大戦中の空襲により、壊滅的な被害を受け、生き残った建物も、第2次世界大戦後、建て替えにより、次々と失われて来ましたが、極わずかですが(その極わずかな建物も、建て替えにより、現在進行形で、徐々に失われて来ています)、1920年代から1930年代の大阪の繁栄ぶりを現在に伝える建物が残っています。
写真以下2枚(写真は借り物)。大阪の都心部に有る、鉄道駅、阪急(hankyu)梅田(umeda)駅の旧コンコース(concourse)(1929年完成)。1920年代から1930年代の大阪の繁栄ぶりを現在に伝える建築物の一つでしたが、残念ながら、再開発により、近年、取り壊されてしまい、現存しません。国鉄(日本国有鉄道。1987年に分割民営化される)では無く、私鉄(私営鉄道会社)が、第2次世界大戦前において、これだけ豪華で、立派な駅の建物を建ててしまう点が、商人の都市(古くからの日本の商業の中心都市)、大阪らしいと言えます。
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大阪は、当然、第二次世界大戦前から日本有数の大都市として栄えていた(第二次世界大戦前は、東京と、日本で人口1位、2位を争う程の大都市であった)為、第二次世界大戦前(特に1920年代から1930年代)に近代・現代建築のオフィス(office)建築が、たくさん建てられましたが、その内の極一部が、現在まで残り、使用されています。上の写真(写真は借り物)の建物も、その一つです。住友(sumito)財閥(第二次世界大戦後に、連合国総司令部(GHQ)の政策により、日本全国の財閥が解体された事に伴い解体)は、大阪に本拠地を置く、主要な財閥の一つで、日本全国的に見ても、有数の規模を持つ財閥でした。住友(sumito)財閥の歴史は、17世紀以前に遡り、Rothschild財閥等を超える、世界最古の財閥とも呼ばれています(wikiより)。この、ビルは、かつての住友(sumito)財閥の銀行部門の本店であったものです。現在は、三井住友(mitsui sumitomo)銀行の、大阪地区の本店として使用されています。1930年に建てられた物です。
大阪の都心部(中之島(nakanoshima))に有る大阪の新市庁舎の建物です(写真は、借り物)。1985年に完成した建物ですが、周囲に残る美しい近代建築との調和を乱さないように、斬新さよりも、落ち着きと重厚感を重視したデザイン(design)となっています。
写真以下21枚。旅行最終日、のんびりホテルをチェックアウト(check out)した後、中之島(nakanoshima)を散歩。中之島(nakanoshima)を散歩したのは、今回が初めてです。大阪の都心部の北部、梅田(umeda)、堂島(doujima)、中之島(nakanoshima)等は、一体となって、大阪の中心ビジネス(business)地区を形成しています。ちなみに、1730年に、大阪の堂島(doujima)に開設された堂島(doujima)米会所は、近代的な先物取引を行う、世界初の整備された先物取引市場でした。
写真右下の近代建築は、日本銀行(日本の中央銀行(central bank)。1882年開業)、大阪支店の旧館の建物(1903年に建てられた物)。奥の建物(写真下部の建物)は、1980年に完成した、日本銀行、大阪支店の新館の建物。
大阪は、水の都市とも呼ばれ、江戸(edo)時代(17世紀)以降、多くの水路が開削され、橋の多さから「八百八橋」と言われました(wikiより)。江戸時代(17世紀から19世紀半ば)には、江戸(東京)は、八百八町、京都は、八百八寺、大阪は、八百八橋と呼ばれていました(本当に808の寺や橋が有ったのでは無く、寺や橋が、そう思わせる程の勢いで建ち並んでいた事を表現した、比喩的な言葉です)。
写真以下11枚。大阪府立中之島(nakanoshima)図書館。住友(sumito)家の寄付によって、1904年に建てられた、大阪の都心部に有る、公立の図書館です。建物(1904年完成)は、重要文化財に指定されています。
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写真以下5枚。中央公会堂。大阪の富裕層の一市民の、寄付によって、計画が始まった、市民の為の公共施設です。建物(1918年に完成)は、重要文化財に指定されています。
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写真以下4枚。御堂筋(midousuji)。御堂筋(midousuji)は、大阪の都心部の中心地区を南北に縦断する、約4kmの通りで、オフィス(office)用ビルや商業ビルが建ち並ぶ、大阪の中心的な通り(大阪を代表する通り)となっています。
写真以下2枚は、借り物。
写真以下2枚。今回、御堂筋(midousuji)の銀杏並木の紅葉が、調度、見頃となっていました。
大阪は、日本の商業の中心都市らしく、1920年代から1930年代にかけて、大規模な近代建築のデパートの建物が次々と完成し、賑わいました。そのような、近代建築デパートの建物の内、いくつかは、現在も残って、そのままデパートの建物として、使われ続けています。現代建築のデパートには無い、独特の重厚感のある雰囲気を持っています。
写真以下13枚。大阪の高級デパートの一つ、大丸(daimaru)心斎橋(shinsaibashi)店。大丸(daimaru)心斎橋(shinsaibashi)店は、大丸(daimaru)デパートの本店となっています。大丸(daimaru)(1717年京都で創業。1726年、大阪に進出。本店は、大阪の御堂筋(midousuji)沿いに有る心斎橋(shinsaibashi)店。関西(kansai)大都市圏に基盤を置く)は、三越(mitsukoshi)(1673年東京で創業。本店は、東京の日本橋(nihonbashi)に有る日本橋(nihonbashi)店。東京に基盤を置く)と並んで、おそらく、日本で最もbrand力の有る、デパートchainです。現在の建物(本館。写真の建物)は、1922年に完成した物です。私は、大丸(daimaru)心斎橋(shinsaibashi)店の建物の中に入るのは、今回が初めてでした(私は、この様な、第2次世界大戦前に日本に建てられた近代建築に興味が有るので、今回の旅行で、大丸(daimaru)心斎橋(shinsaibashi)店に立ち寄るのは、私の希望でした)。彼女が、(彼女が、この時履いていた)ブーツ(boots)の調子が悪いと言って、大丸(daimaru)デパート心斎橋(shinsaibashi)店で、ブーツ(boots)の中敷を調整して貰っている間、私は、趣の有る大丸(daimaru)デパート心斎橋(shinsaibashi)店の建物や、その周辺の写真を撮影しながら時間を潰していました。
写真以下2枚。大丸(daimaru)デパートの心斎橋(shinsaibashi)店に入っている、モロゾフ(Morozoff)のカフェ(cafe)で食べた、おやつと言うか、遅目の昼食と言うか。。。モロゾフ(Morozoff)は、1926年(又は1931年)創業の神戸(kobe)の西洋菓子店(会社)です。モロゾフ(Morozoff)は、まだ、日本の、一般庶民にとって、西洋菓子自体が、物珍しかった時代においては、高級ブランド(brand)だったかもしれませんが、現在においては、比較的、大衆的な方の西洋菓子ブランド(brand)となっています。モロゾフ(Morozoff)は、日本全国的な、西洋菓子の会社で有り、当然、東京にも進出しています。
写真左、私が食べたチョコレートパフェ(parfait)。写真右、プレーン(plain)なワッフル(waffle)。ワッフル(waffle)は、一人一皿ずつ食べました(写真は、一人分)。
名前は、忘れましたが、彼女が食べたデザート(dessert)の盛り合わせ。
写真以下3枚。今回は、訪れなかったし、写真も借り物ですが、大阪の高級デパートの一つ、高島屋(takashimaya)デパート大阪店。高島屋(takashimaya)デパートの本店となっています。建物は、1932年完成。完成当時、東洋一の規模のデパートでした(wikiより)。高島屋(Takashimaya)(本店は、大阪)は、1831年、京都で創業したデパートchainで、大阪には、1898年に進出しました(東京へは、1922年に進出)。
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写真奥の超高層ビルは、スイスホテル南海(nankai)大阪。大阪の高級ホテルの一つです(私は、まだ、宿泊した事が有りません)。
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日本のコンビニでは、様々な種類の、良く出来た、ちょっとした模型のおもちゃが売られています。コンビニで販売されている模型おもちゃの値段は、だいたい150円から600円ぐらいです。
写真以下4枚。前にenjoyでアップ(upload)した写真の再利用ですが、この模型おもちゃは525円です。日本の城(castle)の象徴的な建物である天守閣(tensyukaku)の内、現在においては、当時の姿は残っていないが、16世紀から17世紀には、実際に存在していたの物の模型のおもちゃSeriesです。
写真以下2枚。これは、1620年代に徳川(tokugawa)家によって建てられた2代目大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の模型のおもちゃです。尚、2代目大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)は、1665年に落雷で火事となり、取り壊されてしまいました。1932年に、コンクリート(concrete)により再建された現在の大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)は、この徳川(tokugawa)家によって建てられた2代目大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の、現存する石垣(stone wall)の上に、1580年代に、 豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)によって建てられた初代大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)を模した建物をコンクリート(concrete)で建てた物です。昔は、日本各地にたくさんあった天守閣(tensyukaku)の建物ですが、現存する、日本が近代化する以前(19世紀半ば以前)に建てられた天守閣(tensyukaku)の建物は、日本全国で12個しかありません。天守閣(tensyukaku)が無くなった原因は、日本国内の戦争、火事(元々、天守閣(tensyukaku)は、基本的に、地方領主の権力を見せつける為の城(castle)の象徴たる建物、又、戦争時に、敵軍が、城(castle)の周囲を取り囲んだ際に、地方領主が、立てこもって、軍の指揮を取る為の建物でした。したがって、天守閣(tensyukaku)は、たくさんある城(castle)の敷地内の建物の内の一つに過ぎず、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の戦争の無い平和な世の中になると、一度、天守閣(tensyukaku)が火事になると、通常、修復はせずに、そのまま取り壊してしまいました。尚、地方領主は、普段は、天守閣(tensyukaku)では無く、たくさんある城(castle)の敷地内の建物の内、居住用に建てられた、御殿(goten)と呼ばれる立派な建物に暮らしていました)、日本が西洋文明を取り入れ初めた19世紀末の頃、政府の方針により、当時日本各地にたくさんあった城(castle)の建物のほとんどが取り壊されてしまった事(日本の城(castle)の建物が無くなった最も大きな原因。下の補足説明参照)、第二次世界大戦中のアメリカ軍の空襲による破壊等です。
補足説明:封建制時代には、日本全国には、たくさんの地方領主の城(castle)が有りました。しかしながら、明治(meiji)時代(1868年から1912年)に入ると、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す、新中央政府にとっては、(無駄に多い、維持費のかかる、前近代的な建物が、広大な敷地内に建っている、)封建時代の象徴的な建物で有る、城(castle)は、必要の無い物(無用の長物)となります。これによって、政府の方針により、19世紀末に、日本全国の、多くの城(castle)の、ほとんどの建物が取り壊され、かつての地方領主達の城(castle)の広大な敷地は、他の用途の土地に転用されました(もっとも、地方領主としての地位を失うと供に、封建制時代の城(castle)と庭園を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました)。
以下、しばらく、大阪城(castle)の説明です(主にwikiを参考にしました)。
初代大阪城(castle)(豊臣(toyotomi)家)の大阪城(castle):1583年に、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)(下の補足説明参照)によって、築かれました。豊臣(toyotomi)家の大阪での拠点で、とても、豪華で壮大な城(castle)でしたが(敷地面積は、2代目大阪城(castle)よりも大きかった様です)、築城者で有る、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)自身は、大阪城(castle)よりも、聚楽第(jyurakudai)(壮大で、豪華であったとされる、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)の京都の邸宅。現存しない)や伏見(fushimi)城(castle)(1592年に、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)が、別荘(隠居後に暮らす城(castle))として、現在の京都郊外に建てた城(castle)。現存しない)で暮らしている事の方が多かった様です。この初代大阪城(castle)は、17世紀初め、豊臣(toyotomi)家と徳川(tokugawa)家の戦い(徳川(tokugawa)家の勝利に終る。これにより豊臣(toyotomi)家は、滅亡)により壊滅しました。
豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi):韓国では、侵略者(韓国侵略を計画・指示した者)として悪名が高い?、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)(1537年生まれ、1598年に亡くなる)は、(現在の名古屋(nagoya)の)農民(下層階級)の家に生まれましたが、出世をし、16世紀後半に、日本全国の地方領主達に、強い影響力を持つ、日本の実質的な統治者にまでなった人物です。日本の長い歴史(まあ、中国や韓国の歴史に比べれば短いですが)の中で見れば、豊臣(toyotomi)家が、日本を実質的に統治していた期間は、非常に短いですが(17世紀初めには、(元々、現在の名古屋(nagoya)近郊の地方領主の家系であった)徳川(tokugawa)家が、日本の実質的な統治者となり、以後、19世紀半ばまで、徳川(tokugawa)家が、日本全国の地方領主達に、強い影響力を持つ、日本の実質的な統治者として君臨した)、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)は、壮大な大阪城(castle)や、聚楽第(jyurakudai)(壮大で、豪華であったとされる、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)の京都の邸宅。現存しない)等を築き、非常に、派手で豪華な生活をしていた様です。ちなみに、京都は、古くからの大都市ですが(794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都で有った)、現在、日本で、第二の都市圏人口を有する大阪は、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)が大都市としての基盤を作り、16世紀に大都市に発展した都市で有り、日本で、第一の都市圏人口を有する東京は、徳川(tokugawa)家が、大都市としての基盤を作り、17世紀に大都市に発展した都市です。
2代目大阪城(castle)(徳川(tokugawa)家)の大阪城(castle)):壊滅した初代大阪城(castle)を、1620年代に、徳川(tokugawa)家が、徳川(tokugawa)家の大阪での拠点とする為に再建した物です。徳川(tokugawa)家の大坂城(castle)は、豊臣(toyotomi)家の大坂城(castle)の石垣(stone wall)と堀(moat)を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上に、より高く石垣(stone wall)を積んだので、初代大阪城(castle)の遺構は地中に埋もれました(wikiより)。 また、建物も初代大阪城(castle)構造を踏襲せずに一から造り替えられました。したがって、現在の大坂城(castle)の石垣(stone wall)と堀(moat)及び、現存する日本が近代化する以前(19世紀半ば以前)に建てられた大坂城(castle)の敷地内の建物は、2代目大阪城(castle)(徳川(tokugawa)家)の大阪城(castle))の物です。尚、大阪城(castle)の建物は、そのほとんどが、戊辰(boshin)戦争(1868年 から1869年。新中央政府と徳川(tokugawa)家による旧政府を支持する勢力、旧政府の残党勢力等との戦い。新政府側の勝利に終る)期の混乱の中で、失われてしまいました。
写真以下23枚。大阪の都心部の東部に位置する大阪城(castle)(大阪城(castle)公園)の周りを、ちょっと散歩。現在は、かつての大阪城(castle)の敷地の中心部分しか残っておらず、かつての大阪城(castle)の建物の、ほとんどが失われてしまいましたが、かつての大阪城(castle)の敷地の中心部分は、石垣(stone wall)と堀(moat)、かつての大阪城(castle)の建物の極一部が残り、公園(大阪城(castle公園)として整備されています。かつての大阪城(castle)の敷地の中心部分だけと言っても、敷地面積は、約320,000坪(tsubo)(106.7ha)あります。尚、写真に写っている大阪城(castle)の伝統的な建物の内、天守閣(tensyukaku)以外は、極わずかに生き残った、日本が近代化する以前(19世紀半ば以前)に建てられた2代目大阪城(castle)の建物で、重要文化財に指定されています。
以下2枚の写真は、借り物です。
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立派な石垣(stone wall)から大阪城(castle)の勢いを感じる事が出来ます。
初代大阪城(castle)(豊臣(toyotomi)家)の大阪城(castle))時代から大阪城(castle)は、大阪の象徴的建物でしたが、1665年に、落雷によって、2代目大阪城(castle)(徳川(tokugawa)家)の大阪城(castle))の天守閣(tensyukaku)が焼失し(徳川(tokugawa)家は、この後、大阪城(castle)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の再建は行わなかった)、また、前述した様に、戊辰(boshin)戦争(1868年 から1869年。新政府と徳川(tokugawa)家による旧政府を支持する勢力、旧政府の残党勢力等との戦い。新政府側の勝利に終る)期の混乱の中、大阪城(castle)の建物の、ほとんどが焼失し若しくは破壊されてしまいました。その後、かつての大阪城(castle)の敷地の一部(中心部)は、軍事施設として使われていましたが、大阪の象徴としての、大阪城(castle)の再建に対する市民の、想いは熱く、市民の募金によって、大阪城(castle))の天守閣(tensyukaku)が、再建されました。徳川(tokugawa)家によって建てられた2代目大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の、現存する石垣(stone wall)の上に、1580年代に、豊臣 秀吉(toyotomi hideyoshi)によって建てられた初代大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)を模した鉄筋コンクリート(concrete)造りの建物を建てた物で、1931年に完成しました。鉄筋コンクリート(concrete)による再建は、個人的には、惜しいと思いますが、現在の大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)は、市民の募金によって、再建された物であること、また、日本で最初に、火事に強い近・現代建築材料・技法によって再建された城(castle)の建物であると言う点、また、世界で最初に、地震に強い、鉄骨鉄筋コンクリート(concrete)構造(鉄筋コンクリート(reinforced concrete)の芯部に鉄骨を内蔵した建築の構造もしくは工法)によって建てられた建物(wikiより)と言う点に意義があると思います。尚、かつての大阪城(castle)の中心部(敷地面積、約320,000坪(tsubo)(106.7ha))は、1948年に、本格的に公園として整備され、大阪城(castle)公園となりました。
今回は、大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の近くまで、行きませんでした。写真以下2枚(借り物写真)、大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)。1931年に再建された、現在の大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)は、第2次世界大戦中の空襲の被害を免れ(大阪城(castle)の敷地自体は空襲の被害を受け、例外的に19世紀後半の焼失を免れた、日本が近代化する以前(19世紀半ば以前)に建てられた大坂城(castle)の敷地内の建物の内、5つ程が焼失した)、大阪を象徴する建物の一つとなっています。
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写真以下2枚。写真右、大阪城(castle)(大阪城(castle)公園)の、すぐ近くに建つ、NHK(日本の公共放送局。韓国で言えばKBSの様な物。職員数や金額ではBBC等と並ぶ世界有数規模の公共放送局(wikiより))の大阪都市圏の拠点となっている、NHK大阪放送局の建物。写真左は、NHK大阪放送局の建物に、寄り添う様にして建つ、大阪歴史博物館の建物。大阪歴史博物館は、まだ観覧した事が有りません(今回、ちょっとトイレを借りて、ミュージアムショップ(博物館の店)を覗いてみましたが。。。)。
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1980年代に開発された、大阪都心部東部に有る超高層ビル郡(新business地区)、Osaka business park(通称OBP)です(開発時期1980年代)(写真は、借り物)。1970年代以来、無秩序に、超高層ビルが建てられて来た、大阪都心部北部の梅田(umeda)及びその周辺areaと異なり(梅田(umeda)及び、その周辺areaについては、この投稿Series前回の投稿参照)、全体を総合的に計画して、建てられた超高層ビル郡です。したがってビルとビルの調和が素晴らしく、また、隣接する、大阪城(castle)との調和も計算されています。したがって、日本の伝統的なデザイン(design)の大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の建物と現代的なOBPの超高層ビル群の組み合わせの景観は、とても素晴らしく、私は、個人的には、日本で、最も美しい都市景観の一つであると供に、東京の、お台場(odaiba)から眺める、rainbow bridgeと東京towerと東京の高層ビル郡の組み合わせの夜景、横浜の大桟橋(oosanbashi)から、眺める、MM21の超高層ビル群と大観覧車と赤煉瓦倉庫の組み合わせの夜景等と並んで、日本を代表する都市景観だと思います。尚、写真は借り物ですが、大阪城(castle)の天守閣(tensyukaku)の展望台から眺めた、OBPの超高層ビル群です。
関西(kansai)旅行&食事12へ続く。。。長々、且つ、だらだらと連載して来た、関西(kansai)旅行&食事Seriesですが、いよいよ次回が、最終回となる予定です。
以下、適当な、おまけ(関西(kansai)旅行とは、全く関係が有りません)。
写真左、プリン(cream caramel)味の豆乳。写真右、西洋梨味の豆乳。西洋梨味の豆乳は、今回、初めて飲みましたが、個人的には、不味かった(西洋梨の風味と豆乳が合わない印象)。
おでん(oden)の缶詰。頂き物。韓国の、おでん(oden)は、魚の練り物だけの様ですが、日本の、おでん(oden)は、様々な具が入っています。まあ、不味くはなかったけど、どうしても、缶詰と言った感じでした。
写真以下2枚。煎餅(senbei)。米等を使って作られる日本の伝統的なスナック(snack)菓子です(中には、高級品も有りますが、それは、例外的で、基本的には、庶民的な、お菓子です)。
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私は、基本的には、煎餅(senbei)は、あまり来ない食べ物なのですが(味は、嫌いでは無いが、一部の種類の煎餅(senbei)を除けば、それ程、自発的には、食べたいと言う感情が、沸き起こらない)、これ系の煎餅(senbei)は、好きです。
これは、豆乳煎餅(senbei)。
岡崎(okazaki)市(名古屋(nagoya)の東部近郊の中都市。味噌の産地としても知られる)の約360年の歴史を有する味噌の会社、カクキューの、レトルトの八丁味噌カレー(curry)(左)と味噌豚カツのタレ(味噌トンカツのソース(sauce))(右)。頂き物。さっそく、さぼてん(saboten)で、豚カツを買って来て、味噌豚カツのタレ(味噌トンカツのソース(sauce))を付けて食べてみました。ちょっと甘過ぎるかな。。個人的には、むしろ、キャベツ(cabbage)に付けて食べる方が、合う様な気がします。八丁味噌カレー(curry)は、まだ、食べていません。
よく買って来て食べる、マートの、お気に入りのチーズケーキ(cheesecake)。普通は、通常の物を買って来ますが、これは、オレンジ(orange)入りの物です。
私の街の北部に最近オープン(open)した西洋菓子屋さんの、マドレーヌ(madeleine)。この店のマドレーヌ(madeleine)は、今回、初めて買ってみましたが、ちょっと、今一つだったかな。。。
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キャラメルコーン(caramel corn)。日本の大手(major)菓子会社の一つ、東ハト(tohato)の主力商品の一つ。結構古くから有る、甘いスナック(snack)菓子です。キャラメルコーン(caramel corn)は、私は、まあ普通と言った感じなのですが、彼女が大好物で。。。(子供の頃、母親に、体に悪いと禁止されていた事の反動だとか。。。)。このパッケージ(package)は、子供の日(男の子の日)版。鯉のぼりを意識したデザイン(design)となっています。鯉のぼりは、日本で、5月5日の、男の子の日及び、その前後に、屋外に、飾られる、布等に、鯉の絵を描いた物です(風に、なびくと、鯉が、泳いでいる様に見える)(ちなみに、日本では、3月3日(女の子の日)及び、その前後は、雛(hina)人形と言う、華やかな人形が、主に、室内に飾られます)。