4月の前半に、鎌倉(kamakura)を散歩して来た時の物です。
東京の南部近郊(神奈川(kanagawa)県、南東部)にある、鎌倉(kamakura)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。
鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降衰退し、一時期、基本的に衰退した状態に有りましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展しはじめ、また、19世紀後期以降、東京に近い保養地、富裕層の為の近代別荘地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。
また、鎌倉(kamakura)は、1920年代、1930年代頃から、横浜や東京に通勤する、大学教授や高学歴(大学卒)会社員等の、インテリ(知識人)中流層・中上流層が暮らす、郊外住宅地として発展して行きました。
この日は、大雑把に、鎌倉(kamakura)中心部→寿福(jyufuku)寺→英勝(eisyou)寺→源氏(genji)山→銭洗弁天(zeniaraibenten)→源氏(genji)山→鎌倉(kamakura)大仏(daibutsu)→鎌倉(kamakura)中心部の順で、散歩し、投稿も、その流れに沿っていますが、投稿の便宜上、写真は、必ずしも、撮影した順番に並んでいる訳ではありません。
鎌倉(kamakura)の、閑静な(静かで、落ち着いた)住宅地の風景例。
春は、木々の花々を含め、個人の家の庭の花々も、綺麗に、たくさん咲く季節です。
写真以下2枚、個人の家(一戸建て住宅)の庭の桜。

鎌倉(kamakura)には、富裕層の人々も多く暮らしており、鎌倉(kamakura)の、閑静な(静かで、落ち着いた)住宅地には、写真右側の一戸建て住宅の様な、広い敷地も持つ、一戸建て住宅も、かなりあります。
第2次世界大戦前に建てられた一戸建て住宅の建物は、日本では、第二次世界大戦時の空襲により、多く消滅した他、戦後、特に1970年代以降、建替え等により、急速に失われてしまいましたが、その様な中で、鎌倉(kamakura)(第二次世界大戦時に空襲の被害を受けなかった)は、東京近郊の都市の中では、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、古い趣の有る、一戸建て住宅の建物が、多く残っている方だと思います。
写真以下9枚、鎌倉(kamakura)にある、1920年代から1930年代頃に建てられたと思われる、趣のある、一戸建て住宅の例。
写真以下6枚(写真以下6枚は、同じ一戸建て住宅)、基本的には、日本伝統式であるが、一部西洋式(写真以下2枚の左側の部分)を取り入れた一戸建て住宅。基本的には、日本伝統式の一戸建て住宅で有るが、一部西洋式を取り入れた一戸建て住宅の建物は、(日本の)近代化以後、第2次世界大戦前(特に、1920年代から1930年代頃)、日本で流行し、多く建てられました。
写真以下2枚。この一戸建て住宅の庭の桜。

写真以下2枚(写真以下2枚は、同じ一戸建て住宅)。西洋式と日本伝統式両方の要素を取り入れた一戸建て住宅。
この一戸建て住宅は、西洋式の住宅の建物(写真で見える建物)に、(写真では見えませんが)日本伝統式の住宅の建物が繋がって建てられている形式の住宅です。この様な形式の住宅の建物も、(日本の)近代化以後、第2次世界大戦前まで、日本に多く建てられました。
この一戸建て住宅(写真左側の一戸建て住宅)は、日本伝統式の、門と木の塀は、ある程度古い(1920年代から1930年代頃造られた)と思われますが(ただ、もしかしたら、この住宅の、かつての門と塀を再現(復元)しながら、新しく建て替えた物かも。。。)、住宅の建物は、既に、建て替えられていました。
写真以下12枚。古い、趣のある、西洋式の邸宅(写真以下12枚は、同じ邸宅)。(現在の日本の大都市圏の住宅地の基準からすれば)とても広い敷地を有しながら、第二次世界大戦前に建てられた、趣のある邸宅の建物が、敷地の外から見られる邸宅として、鎌倉(kamakura)でも、(私が知る限り)、非常に珍しい存在の邸宅です(この様な、邸宅は、日本の他の、高級住宅地、閑静な(静かで落ち着いた)住宅地でも、非常に少なくなってきています。まあ、日本全国的に見れば、ある程度あると思いますが。。。)。第二次世界大戦前に、日本に建てられた、この様な邸宅の建物は、敷地の外から邸宅の建物が見えない邸宅(あまり、人目につかない(人が訪れない)場所で、別荘として使われている邸宅を含む)の建物を含めれば、もしかしたら、まだまだ、人知れず(あまり人に知られず)、かなりあるかもしれませんが、何れにしても、日本全国的に、現在進行形で減り続けていると思います。この邸宅は、(私と同様、近代建築を見る事を趣味としている方のsite等の情報によれば)、元々、銀行の重役(executive)の別荘として、1916年に建てられたもので、現在は、元、自動車のレーサー(racing driver)をやっていらした方の邸宅(若しくは別荘)となっているそうです(だだし、その方は、近年亡くなられたので、現在は、その方の、ご家族の邸宅(若しくは別荘)となっている様。。。)。
1920年代から1930年代頃に建てられたと思われる、趣のある、小じんまりとした、キリスト教の教会の建物。後日、調べた所、この教会の建物は、1930年頃に建てられた物の様です。
小町(komachi)通り(下の補足説明参照)で、お約束のw(有り勝ちな行動様式の)、クレープ(crepe)屋さんで、クレープ(crepe)を買って、食べ歩き。。。(クレープ(crepe)は、日本で、人気の、おやつの一つとなっています)。写真は、私が食べた、ラム酒(rum)とクリームチーズ(cream cheese)のクレープ(crepe)。
小町(komachi)通り:鎌倉(kamakura)の中心部にある、全長600m程の、幅の細い通りで、商店や飲食店が連なり、観光客や地元の人々で賑わう、鎌倉(kamakura)で、最も賑やかな通りとなっている。若宮大路(wakamiyaooji)(下の説明参照)の、最も賑やかな辺りと、ほぼ平行して通っている。
写真以下2枚。若宮大路(wakamiyaooji)。若宮大路(wakamiyaouji)は、鎌倉(kamakura)で、最大且つ、最も有名な神社(shrine)である鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)の参道(お参りする道)で、鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)の正面から、海の方にまっすぐ伸びる、全長2km程の大通りです。若宮大路(wakamiyaouji)は、鎌倉(kamakura)の中心的な通りとなっており、特に、鎌倉(kamakura)駅付近から、鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)までの、700m位が、賑やかです。若宮大路(wakamiyaouji)の一部(鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)側)は、中央部分が、段葛(dankazura)と呼ばれる、車道より高い位置にある歩行者専用の道となっています。(この時の様な)桜の花の時期には、段葛(dankazura)の桜並木の花が咲き、若宮大路(wakamiyaouji)は、とても華やかな雰囲気となります。
写真以下6枚。鶴岡八幡宮(tsurugaoka hachimangu)(1063年創建)。鎌倉(kamakura)の武士(侍)の守護神として建てられた、鎌倉(kamakura)中心部にある規模の大きな神社(shrine)で、鎌倉(kamakura)の主要な観光名所の一つとなっています。
鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及びその周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージが有ります。
鎌倉(kamakura)に暮らしていた、文化人の一人(と言うか二人)として、下で、アップ(upload)する写真に関連する、川喜多 長政(kawakita nagamasa)・川喜多 かしこ(kawakita kashiko)夫妻がいます。川喜多長政(kawakita nagamasa)(1903年生まれ、1981年に亡くなる)は、日本の有名な、映画輸入者、映画製作者です。1920年代後期頃から映画輸入者として活躍し、1939年、上海に、日中合弁の、中華電影公司が設立されると、その最高責任者に就任しました(彼自身が、中国大陸に渡る決心をしたのは幾つかの説があり、彼自身は、中国との友好の掛け橋となりたいと説明していますが、日本とドイツと満州国(1932年から1945年に存在した日本の傀儡国家。中国の東北部に当たる)の協定により、ドイツ映画の配給について満州国が独占権を握ったため、映画輸入者の彼は、これに対抗しようとしたとする説もあります。。wikiより。。。)。中華電影公司は、日本が関与した国策映画会社の一つでしたが、川喜多 長政(kawakita nagamasa)は、中国側のスタッフ(staff)に自由な映画制作を許し、日本の軍部からの圧力に抵抗しました。第二次世界大戦に、日本が敗戦した後は、川喜多 長政(kawakita nagamasa)は、家族を、先に、日本に帰らせ、上海で、残務整理をしていましたが(会社の、残った仕事を片付けていましたが)、1946年に、日本に帰国しました(wikiより)。日本に帰国して間もなく、1947年に、川喜多 長政(kawakita nagamasa)は、連合国軍最高司令官総司令部によって、日本の国策映画会社に強く関与していたとして?公職追放されましたが(政府の要職や民間企業の要職につく事を禁止されましたが)、世界中から、彼に助けられたユダヤ人や中国人の弁護の声明が出され、1950年に、公職追放が、解除されました(wikiより)。公職追放が、解除されてから、間もなく、川喜多 長政(kawakita nagamasa)は、黒澤 明(kurosawa akira。日本の世界的に有名な映画監督)の作品、「羅生門(rashomon)」(1950年)の、1951年のヴェネツィア国際映画祭(Venice Film Festival)への出品に関与しました(同作品は、1951年のヴェネツィア国際映画祭(Venice Film Festival)で、グランプリ(Golden Lion)を獲得。黒澤 明(kurosawa akira)の映画のみならず、日本の映画を、世界に知らしめるきっかけとまりました)。川喜多 かしこ(kawakita kashiko)(1908年生まれ。1993年に亡くなる)は、川喜多 長政(kawakita nagamasa)の妻で、日本の、有名な映画輸入者です(川喜多 長政(kawakita nagamasa)との結婚後、1930年代頃から活躍。川喜多 長政(kawakita nagamasa)と結婚する前は、川喜多 長政(kawakita nagamasa)の秘書をしていた)。川喜多 長政(kawakita nagamasa)・川喜多 かしこ(kawakita kashiko)夫妻は、世界中の、著名な映画関係者と交流を持っていました(特に、フランスの、著名な映画関係者と、深い交流を持っていた様です)。
元、川喜多 長政(kawakita nagamasa)・川喜多 かしこ(kawakita kashiko)夫妻が暮らしていた、鎌倉(kamakura)の邸宅(敷地面積、約9,500平方m(約2,900坪))は、同夫妻の遺族が、映画記念館にと、1994年に、鎌倉(kamakura)市に寄付し、現在は、、同夫妻の業績及び同夫妻に縁のある映画に関する展示を中心とした資料館、川喜多(kawakita)映画記念館となっています。尚、この、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅の、母屋(mainの建物)(1910年代に建てられた、日本伝統式の邸宅の建物)は、既に取り壊され、真新しい(最近完成した)、現代建築の、川喜多(kawakita)映画記念館の建物に建て替えられています。ちなみに、川喜多(kawakita)夫妻は、かつて、この、元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅(敷地面積、約9,500平方m(約2,900坪)。現在は、川喜多(kawakita)映画記念館となっている)の他に、この、元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅の、すぐ近くの、1920年代から1930年代に建てられた、西洋式の一戸建て住宅(現在は、川喜多(kawakita)家とは無関係の?個人の、一戸建て住宅となっている)も、邸宅の一部として所有・利用していたそうです(この一戸建て住宅は、(場所(通り)的に、その前を、通り過ぎた事は、何度もありますが。。。)、意識して見ていなかったのですが、ネット(website)で見られる写真を見る限り、敷地面積は、400坪(約1,320平方m)位有りそうです。。。)。
写真以下5枚。川喜多(kawakita)映画記念館(元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅)の敷地内に残る、川喜多(kawakita)夫妻が、海外からの映画関係者を持て成す為に使っていた建物(尚、元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅の母屋(mainの建物。川喜多(kawakita)夫妻家族が、普段暮らしていた建物)は、前述の通り、既に取り壊されています)。この、元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅(現在の、川喜多(kawakita)映画記念館)の敷地内にある、同夫妻が、海外からの映画関係者を持て成す為に使っていた建物は、元々は、江戸(edo)時代末期(19世紀初めから半ば頃)に、神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)の西部にある山、大山(ooyama)の麓に、農家(農民の家)の建物として建てられた物で、かつて、和辻 哲郎(watsuji tetsuro。1889年生まれ、1960年に亡くなる。日本の有名な哲学者・倫理学者・文化歴史学者)が、(この建物を)気に入って?、練馬(nerima)区(東京中心部(東京23区)の北西端に位置する区)に移築し、自宅の建物として使用していた物を、1961年に、川喜多(kawakita)夫妻が、鎌倉(kamakura)の邸宅の敷地内に、再移築した物です。
ちなみに、川喜多(kawakita)映画記念館(元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅)の敷地には、この時、初めて入りましたが、敷地内を、ちょっと歩いただけで、川喜多(kawakita)映画記念館の建物(資料展示館。前述の通り、元、川喜多(kawakita)夫妻の邸宅の母屋(mainの建物)を取り壊し、その跡に建てられた、現代建築の建物)の中には、入りませんでした(率直に言って、川喜多(kawakita)夫妻の業績には、それ程は、興味が無いため。。。全く興味がないと言う訳ではありませんが。。。また、気が向いたら、資料展示館にも、入ってみます)。
写真以下3枚。寿福(jyufuku)寺。源 頼朝(minamotono yoritomo)(下の補足説明参照)の父である、源 義朝(minamotono yoshitomo)の邸宅跡に、1200年に創建された仏教の寺です。
源 頼朝(minamotono yoritomo):1147年生まれ。鎌倉(kamakura)において、1185年頃から1199年に亡くなる近くまで、日本全国の武士(侍)の長(leader)として、日本を、実質的に統治していた。


写真以下、英勝(eisyou)寺。1636年に創建された仏教の寺です。規模の小さな寺ですが(敷地面積は、2,000坪(約6,600平方m)から3,000坪(約9,900平方m)位と言った感じかな。。。)、趣のある寺です。尼寺(女性の僧侶の寺)だからか、どことなく、女性的な、柔らかい雰囲気のある寺だと思います。


スズラン(lily of the valley)。
鎌倉(kamakura)散歩&食べ物2へ続く。。。