少し前の事ですが、4月の下旬、仕事を早目に切り上げ、午後3時頃、彼女と待ち合わせて、東京都心部東部の、下町(旧市街)を散歩して来た日(以下、この日と書きます)の事です。
写真以下43枚。この日は、まず、東京都心部の東部から中南東部に位置する、深川(fukagawa)areaを散歩しました。
写真以下、40枚。この日は、まず、深川(fukagawa)areaの地下鉄駅の一つである、清澄白川(kiyosumi shirakawa)駅の近くにある、江東(koutou)区(下の補足説明参照)が運営する、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の、深川(fukagawa)areaに関する資料館、江戸(edo)深川(fukagawa)資料館を訪れました。
江東(koutou)区:東京中心部(東京23区)東部の、下町(旧市街)に位置する区。深川(fukagawa)areaは、江東(koutou)区の中でも、歴史が古い地区の一つ。
深川(fukagawa)areaの、江戸(edo)深川(fukagawa)資料館周辺の風景。。。現代の、東京都心部の東部の、下町(旧市街)の、ありふれた風景の一つと言った感じです。深川(fukagawa)areaは、他の、東京都心部の東部の、下町(旧市街)同様、第二次世界大戦末期の、アメリカ軍の空襲により、壊滅的な被害を受けました。したがって、現代の建物は、ほとんどが、第二次世界大戦後に建てられた物で、また、他の、東京中心部(東京23区)の東部の下町(旧市街)同様、ここ20年程で、超高層アパート(超高層マンション)も、かなり増えました。もっとも、他の、東京の、下町(旧市街)同様、伝統的な文化は、しっかりと受け継がれています。
写真以下39枚。江戸(edo)深川(fukagawa)資料館。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の、深川(fukagawa)areaに関する資料館。規模は、小さいものの、中々、面白い資料館で、韓国の方にも、お勧めの、東京の穴場の(あまり有名ではないが、良い)、観光場所です。この資料館の、主な展示は、東京の下町(庶民の町)、深川(fukagawa)areaの、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の終わり頃(1830年から1844年頃)の姿を、忠実に再現した展示です(これが、面白い)。
江戸(edo)深川(fukagawa)資料館の展示から。。。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の、深川(fukagawa)area若しくは、その周辺の?、庶民の生活を描いた、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の絵の写しの一つ。。。東京は、大都市としての歴史は、京都(8世紀末から大都市として歴史がある)や、大阪(16世紀から、大都市として歴史がある)には及びませんが(東京の大都市としての歴史は、17世紀から)、江戸(edo)時代に、日本を実質的に統治していた、徳川(tokugawa)家が本拠地を置く、日本の政治の中心地として、日本全国から、人や物が集まり、18世紀初め頃までに、世界最大級の都市にまで発展しました。
写真以下38枚。江戸(edo)深川(fukagawa)資料館の中心的な展示である、深川(fukagawa)areaの、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の終わり頃(1830年から1844年頃)の姿の例を、忠実に再現した展示です。この展示の面白い所は、昔の姿を忠実に再現した建物の展示を、外部から眺めるだけでなく、基本的に、建物の中にも(建物の内部の姿も、忠実に再現されている)、自由に入って見る事が出来る点です。照明等によって、朝、昼、夜と、1日の、移り変わりも表現している点も、面白いです(また、季節によって、展示内容が、一部、変化します)。
写真右側は、商人の家の蔵(倉庫)です。
写真以下16枚。小規模店舗を経営する商人の家(当時の、豊かさの階層から言ったら、中流の下と言った感じでしょうか。。。)。基本的に、2階部分が住居、1階部分が、店舗と住居となっており、店舗と、店舗を経営する家族の住居が、一つの建物となっています。
上から見た、商人の家。2階建てになっており、基本的に、2階部分が住居、1階部分が、店舗と住居となっており、店舗と、店舗を経営する家族の住居が、一つの建物となっています。
写真右側。米屋の(米問屋(米の卸売り商人)から、米を仕入れて、庶民に売っている)家の、店舗の店先。
写真以下5枚。八百屋(野菜店)の、店内。。。
写真以下6枚。商人の家の内部の例。。。
写真以下8枚。船宿(funayado)。人や荷物を運ぶ船、屋形船(船上で、宴会(party)や飲食等を楽しむ娯楽用の船)、釣船(釣り用の船)等の、営業所的な建物(飲食や宴会(party)も出来る、飲食・休憩施設としての性格も有している。主な利用者は、比較的裕福な商人層等)。以下、船宿(funayado)に関する説明は、wikiを参考にしました。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、日本の川沿いの都市に成立し、特に、川が多い大都市である、東京や大阪に、多く存在しました。以下、船宿(finayado)に関する説明は、ほとんど、wikiの引用。。。東京や大阪には、川が、多く、遊び客(比較的裕福な商人層等)にとって、船宿(funayado)は、欠かせない存在でした。特に、東京は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、縦横に、河川や運河が、めぐらされており(現在は、これ等の多くは、埋め立てられており、存在しない)、ヴェネツィア(Venice)にも匹敵する水運都市であったため、随所に船宿(funayado)が存在しました。船宿(funayado)は、船頭(船を操作する人)を雇い、複数の船を所有して、借り賃を得る、今で言うタクシー(taxi)会社・運転手付きで limousineを貸し出す会社のような存在でもありました。また、河川や穏やかな海上で、釣りや舟遊びなどの、遊興(娯楽)目当ての客を相手に商売を行い、特に、桜の花見(hanami)の時期や花火大会(花火祭りの時)、納涼(夏の暑い時期に、船に乗って遊ぶ事で涼む事)等に、大活躍しました。
写真右端、船宿(funayado)の店先。
火の見櫓。以下、火の見櫓の説明は、江戸(edo)深川(fukagawa)資料館の説明を参考にしました。町を火事から守る為の建物で、最上階には、鐘が吊るされており、火事を見つけると、番人が、金を鳴らして、町に知らせます。
屋外の、簡易な茶屋(cafe)。
写真以下2枚。天麩羅の屋台。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、東京において、庶民や、一人暮らしの、侍(samurai)階級の男性の為の、寿司、蕎麦、天麩羅等のファーストフード(fast food)が、発達し(日本料理における、握り寿司(所謂、世界的に、一般的に知られている、日本の寿司)、天麩羅は、元々、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、東京において、屋台の、ファーストフード(fast food)として、発展・流行した食べ物です)、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、これ等の、ファーストフード(fast food)を提供する屋台が、東京には、たくさん(所々に)、存在しました。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京の庶民は、日常的な食事においては、下手な、侍(samurai)階級(当時、天皇家・貴族を抜かせば、日本で最上位の階級にあった)よりも、良い物を食べていたのかもしれません(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、平均的に、最も、貧しい食生活であったのは、田舎の、小作農民(自分の農地を持たない、貧しい農民)であったのではないでしょうか。。。)。
江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京は、日本の政治の中心地として、また、当時、世界最大級の都市として、侍(samurai)階級の人々も、商人(比較的裕福な庶民)も、庶民も、たくさん暮らしていましたが、多くの土地が、侍(samurai)階級の暮らす土地となっており、庶民が暮らす土地は、比較的、限られていました。
写真以下6枚。長屋(nagaya)。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)における、日本の大都市の(特に、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京に多かった)、庶民(労働者階級・低所得者層)向けの、アパートで、現代で言えば、(特に大都市の)、学生等の、一人暮らし用の、ワンルーム(一部屋)アパートの用な物です。現代の基準で見れば、とても狭いですが(学生等の、一人暮らし用の、ワンルーム(一部屋)アパートと比べても、かなり狭い)、それでも、快適に暮らす工夫はなされていた様です。トイレ(toilet)は、共同で、風呂はなく、住人は、入浴は、銭湯(公衆浴場・共同浴場)を利用していました。狭い部屋に、大量の物を置く事は出来ない事から、必要に応じて、様々な生活用品を、貸し出すサービス(商売・業者)が、発達しました。
飼い猫(petの猫)の家。
建築材料や家具の材料等の木材を切る職人と、その妻の、二人暮らしの、長屋(nagaya)の部屋を再現した物です。一人暮らし用の、長屋(nagaya)の部屋よりも、若干、広くなっています。
写真以下3枚。船宿(funayado)に勤めている、船頭(船を操作する人)の、一人暮らしの、長屋(nagaya)の部屋を再現した物です。現代の基準で見れば、とても狭いですが、それでも、快適に暮らす工夫はなされていた様です。
写真以下3枚。江戸(edo)深川(fukagawa)資料館を訪れた後は、地下鉄で、(江戸(edo)深川(fukagawa)資料館の最寄りの地下鉄駅である)清澄白川(kiyasumi shirakawa)から、地下鉄で、一駅、南に移動し、深川(fukagawa)areaの地下鉄駅の一つである、門前仲町(monzennakacho)駅周辺を、少し散歩しました。
深川(fukagawa)不動尊(fudouson)の、参道(お参りする為の道。小規模な、商店街となっている)から見た、深川(fukagawa)不動尊(fudouson)(門前仲町(monzennakacho)駅近くにある、1703年創建の、仏教の寺)。関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震。東京等が、非常に大きな被害を受けた)、第二次世界大戦末期の、アメリカ軍の空襲と、2度に渡って、大きな被害を受けた東京は、現代的な都市ですが、そこかしこに(所々に)、伝統的な物が残っています。
写真以下2枚。深川(fukagawa)不動尊(fudouson)の、参道(お参りする為の道。小規模な、商店街となっている)で、適当に目に付いて入ったカフェ(cafe)で、少し、のんびりとしました。このカフェ(cafe)は、この時、初めて利用したのですが、中々、良い店です。
写真以下2枚は、この時、このカフェ(cafe)で、私が、飲んだ飲み物等。
この時、私が、このカフェ(cafe)で食べた、おやつ。ハム(ham)とチーズ(cheese)の、パニーニ(panini)。二人共、既に、昼食は、済ませていたのですが、私は、小腹が減っていたので(少し、お腹が空いていたので)、おやつとして、軽食を食べました。
この時、私が、このカフェ(cafe)で飲んだ飲み物。カプチーノ(cappuccino)。
写真以下。門前仲町(monzennakacho)駅周辺を散歩した後は、さらに、地下鉄で、一駅、南に移動し、東京都心部の南東部(下町(旧市街))の、月島(tsukishima)areaに移動し、この日の夕食として、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂で、もんじゃ焼き(monjyayaki)等を食べてから帰りました。
月島(tsukishima)は、もんじゃ焼き(monjyayaki)で有名です。
周辺も合せて、70店舗以上の、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂がある、月島(tsukishima)areaの、もんじゃ焼き(monjyayaki)で有名な通り。。。現在においての、繁華街の、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂は、もんじゃ焼き(monjyayaki)を、おつまみにして、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲むと言った、実質的には、居酒屋として使われる場合が多いと思いますし、(繁華街における)、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂も、居酒屋として使われる事を意識している場合が多いと思います。
写真以下。この日の夕食は、月島(tsukishima)で、適当に目に付いて入った、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂で食べました。この店は、この時、初めて利用しました。
写真以下。この時。この、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂で食べた、この日の夕食等。
写真以下2枚。この時、この、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂で、私が飲んだ、飲み物の一部。
東京の、下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)の、ビール醸造所(ビール会社)の一つの、ビールで、勝どき(kachidoki)橋(下の補足説明参照)をイメージしたデザイン(design)のラベル(label)の、ビール。
勝どき(kachidoki)橋:1940年に完成した、月島(tsukishima)areaと、東京都心部でも中心的な地域を結ぶ、近代的な、可動橋(ただし、交通状況の変化(船の通行の減少と、自動車の通行の増加)により、1970年以来、開閉は、行われていない)。
バナナ(banana)梅酒の、ロック(on the rocks)。
もんじゃ焼き(monjyayaki)は、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)で、古くから食べられている、庶民の食べ物です。もんじゃ焼き(monjyayaki)は、「小麦粉を溶かす水の量がお好み焼き(okonomiyaki)に比べてはるかに多く、汁にソース(sauce)などの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴」です(「」内、wikiより抜粋)。もんじゃ焼き(monjyayaki)は、日本全国で、広く一般的に食べられている食べ物では無く、日本の極一部の限られた地域で、よく食べられてきた食べ物で、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)等で、よく食べられて来た食べ物ですが(かつては、同じ東京でも、山の手(yamanote。新市街。東京中心部(東京23区)の西部)や郊外では、もんじゃ焼き(monjyayaki)は、基本的に、一般的では有りませんでした)、現在は、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)以外にも、広まりつつあります。もんじゃ焼き(monjyayaki)は、特に、第2次世界大戦後、間も無くから1960年代半ば頃までの間(戦後の、日本が、貧しかった時代から経済復興期の間)、駄菓子(dagashi)屋(下の説明参照)で提供される、おやつとして、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)の庶民の子供達の間で、とても、よく食べられていました。
駄菓子(dagashi)屋:庶民の子供達でも、気軽に買えるようにと、cheapな材料で作られ、cheapな値段で販売され、第2次世界大戦前から1970年代において、日本の庶民の子供達の間で、よく食べられていた、子供向けの菓子(駄菓子・dagashi)を売る店。1950年代から1960年代半ば位の時期には、日本には、駄菓子(dagashi)屋が、無数に存在していた様ですが、日本の庶民の購買力が上昇した事、アメリカ式のマートが急速に普及した事等から、そうしたマートで販売される、大規模な菓子会社の種類豊富な、より質の高い菓子に、駄菓子(dagashi)は、圧倒され、駄菓子(dagashi)及び、駄菓子(dagashi)を販売する駄菓子(dagashi)屋は、徐々に衰退して行きました。駄菓子(dagashi)屋の衰退と供に、子供達の、おやつとしての、もんじゃ焼き(monjyayaki)は衰退しましたが、もんじゃ焼き(monjyayaki)は、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)では、現在でも、根強い人気の大衆食として、飲食店(お好み焼き(okonomiyaki)食堂・もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂)で、よく食べられていますし、現在は、もんじゃ焼き(monjyayaki)は、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)以外にも、広まりつつあります。
写真以下。この、もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂で食べた、この日の夕食。全て、二人で分けて食べました。お好み焼き(okonomiyaki)・もんじゃ焼き(monjyayaki)食堂は、基本的に、テーブル(table)の上の鉄板で、客が、自分で、お好み焼き(okonomiyaki)等を、好きな加減に焼く(調理する)形式の店と、店員が、お好み焼き(okonomiyaki)等を焼く形式の店に分かれますが、この店は、客が、自分で、お好み焼き(okonomiyaki)等を、好きな加減に焼く(調理する)のと、店員が、お好み焼き(okonomiyaki)等を調理するのと、どちらも選べる形式となっていました。この時は、全て、店員に、調理して貰いました。
写真以下2枚。チーズ(cheese)、明太子(唐辛子を使用して味を付けた、鱈の卵。日本で、よく食べられていますが、韓国から来た食べ物かな。。。)、ベビースター(ラーメンをイメージした、スナック(snack)菓子。代表的な、駄菓子(dagashi)の一つ)、餅、イカ(烏賊)の、大きなサイズ(size)の、もんじゃ焼き(monjyayaki)。
調理前。
調理中。もんじゃ焼き(monjyayaki)は、具だけを鉄板で炒める→具で、ドーナツ(doughnut)型の土手(堤防)を作る→具で作った土手(堤防)の内側に、汁を流し込む→ある程度固まって来たら、具と汁を混ぜ合わす(上の写真は、この状態の物)→もんじゃ焼き(monjyayaki)専用の小さな金属製のヘラ(spatula)を使って、お焦げを味わいながら、外側から食べて行く、と言う様に食べます。ちなみに、もんじゃ焼き(monjyayaki)は、見掛けが、(酒を飲み過ぎた時等に)人間の体から出る、ある物に似ている為、日本で、見掛けが悪い食べ物として、よく、からかわれる(冗談に使われる)食べ物ですw。
牛肉の、たらし焼き(tarashiyaki)。所謂、牛肉の、お好み焼き(okonomiyaki)の、一種です。
これで、止めておけば良かったのですが、もう一つ頼んだら、腹がパンパンに(苦しい位に、非常に、一杯にw)なってしまいました。
海産物(seafood)(イカ(烏賊)、蛸、海老、浅蜊(貝)、小柱(貝(貝柱))の、もんじゃ焼き(monjyayaki)(調理中)。