昭和17年5月、広枝音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任として勤務します。
そしてここで、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命します。
海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。
マニラでは厳しい訓練の日々が続きます。
音右衛門は、隊長として、常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。
そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕った。
巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援です。
戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきます。
米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況となります。
海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給され、
「これで敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」との総攻撃命令が出されます。
音右衛門にも家族がいます。
台湾には、妻と3人の子供たちがいる。
音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行います。
そして二千人の部下たちを前に、こう言った。
諸君。
諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
しかし、今ここで軍の命令通りに命を無駄にすることはない。
祖国台湾には、諸君らの帰りを心から願っている家族が待っているのだ。
私は日本人だ。
だから責任はすべて私がとる。
全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」
二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きます。
音右衛門の気持ちが痛いほどわかったのです。
音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入ります。
そして、拳銃をみずからの頭に向けると、頭部2発撃ち、自決した。
昭和20年2月23日午後3時頃のことです。広枝音右衛門、享年40才。
音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
このときの恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくり、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、広枝音右衛門隊長をお祀りします。
