土に踏みつつ物をこそ思へ(会津八一)
”法隆寺のエンタシスは、韓国建築でよく見られるものです。韓国から技術者を読んで寺院を建てていた飛鳥時代に韓国から教わったものと考えることに何の無理もありません。”(『柱のエンタシスはギリシア風』)――もともと私が投稿したのは、19世紀末の日本人研究者がパルテノンと法隆寺のエンタシスを付会させた思想的背景を紹介するスレだったのだが、文中のこの言葉を発端として、「韓国建築で見られるエンタシス」の由来に関する、ジョン君の反論が展開されることとなった。このスレでは、彼によって提示された様々な主張を順を追って整理していこうと思う。それは当初、このような主張として始められた。
第1の主張 「韓国の梭柱は宋由来」
“なぜ現代の朝鮮に「梭柱」が残っているかというと、百済は程なく滅亡しておりますし、ほぼ関係ないと言っていいでしょう。じゃあ、今の韓国に残る梭柱はどこから来たの?と。
「宋」における最後の梭柱の流行。高麗はモンゴルに支配されるまで、そりゃもう宋をリスペクトすること甚だしく、モンゴルに支配された後もグジグジと宋に対する劣情を募らせます。この時代に、流入した宋の建築様式が、モンゴルに対する文化的反発等と結びつき、形態として固定化されたと考える方が妥当だよね。( ´H`)y-~~
まあ、現在韓国にある梭柱をもつ建築物の形式は、六朝様式ではまったくないわけでして・・・それが上記推測の理由なの。”
再説するとこの主張は、(1)宋代に見られる梭柱と、韓国に見られる胴張りの形式が異なる事実、および(2)柱心包系建築に顕著な胴張りが見られる事実によって、あっさり否定された。高麗時代の胴張りは、南北朝時代中国の义慈惠石柱(570年)や飛鳥時代日本の法隆寺西院(7世紀末)に見られる、下部を膨らませる古い形式に属し、宋代に見られるような中間部ないしそれ以下を直柱とする形式とは異なる。 また、その胴張りが顕著に見られるのが、宋様式を取り入れて形成された多包系建築ではなく、それ以前に確立された柱心包系建築である点もジョン君の主張と附合しない。 宋→高麗のエンタシス伝播ルートはあえなく潰えたわけである。
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左から、义慈惠石柱(南北朝時代)、法隆寺西院(飛鳥時代)、韓国の胴張り(高麗時代)、宋代の梭柱(『営造法式』1103)。
その後、「宋の建築様式は多様なの・・・」と呟くジョン君の姿が目撃されたが、残念ながらそれで押し切るのは無理と気付いたとみえ、次のスレからこの主張は姿を消してしまった。代わって登場したのは、以下のような反論であった。
第2の主張 「唐招提寺と唐の柱は徳利柱」
“ええ、徳利柱、これは南北朝には既に完成しており、唐招提寺(この頃、百済人はおりませんので、建築様式は遣唐使が学んできました。)に採用されていることから、8世紀末まではメジャーな様式であったことが解ります。
そしてhinomotoちゃんが大好きな組物、「柱心包式」ですが、これは8世紀後半以降に流行した「和様」という唐様式の影響を受けた建築様式と共通しています。
この2つの組み合わせは、唐までは遡ることが出来ますが、それ以前には遡れません。法隆寺に見られる六朝様式とは異なる様式です。
てなことで、形式の類似性からの仮説によっても、高麗の建築はせいぜい、統一新羅中期以降までしか遡ることができない様式なのでぃす。”
こんどは、唐招提寺金堂に徳利柱(古式の胴張り)があり、8世紀・7世紀の唐にもそれがあるのだという。その場合、統一新羅時代に唐から直接これを受容したルートの方が蓋然性が高い。「柱心包系建築にエンタシスが見られる」という前回のスレでの私の指摘を受けて、柱心包について検索し、それが唐様式を基にしていることを知り、エンタシスの由来も唐に求められないかと思う――そこまでのアプローチは悪くない。前回よりも進歩が見られる。
しかし残念ながら参照した情報が悪かったようだ。確かに巷間には唐招提寺金堂にエンタシスがあるという俗説が流布しており、それを鵜呑みにするのも、彼の検証能力から言って仕方のないことだろうと思う。しかしこれは誤認であって、落ち着いて研究者の報告を調べてみると、『建築史基礎資料集成』に記載されているごとく、唐招提寺金堂の柱には徳利柱どころかエンタシス自体も確認されていないことが分かる。ゆえに8世紀7世紀の唐に徳利柱が存在したという主張も成立せず、唐招提寺金堂に依拠して唐→新羅→高麗というルートを主張する試みもここにあっさり斃れることとなる。「きっと部分抽出だ…」という儚い抵抗もあったが、これできっちり黙ってもらおう。
『建築史基礎資料集成4 仏堂1』より、唐招提寺金堂
付言すると、「徳利柱」こと古式の胴張りの用例が確認できるのは、中国では义慈惠石柱(570年)のみで、それ以降に確認できる梭柱は先端のみに卷杀(逓減)を施した上下梭や上梭柱である。 唐建築を参照した日本の天平建築にもこの種の梭柱しか確認されない。仮に後代に徳利柱が使われた痕跡があれば、その間の使用を推測することもできるのだが、現状では中国での使用は南北朝時代を下ることはできないのである。こうした事実を諄々と説いた結果、唐招提寺の徳利柱に基づく主張も次のスレからは姿を消す。続いてジョン君が主張したのはこれだ。
第3の主張 「百済の定林寺五層石塔はエンタシスの遺構ではない」
“え?百済のエンタシスを示す遺構?
「どれどれ・・・?」
hinomotoちゃんが百済の遺構として提示したのは、これ。
百済の遺構である定林寺石塔の隅柱ァァァァ!
「・・・・・・・・・・」
「エンタシス」にせよ「梭柱」にせよ。四角い柱ではございません。
宋の梭柱については、丸みがどうこうと講釈を垂れていましたが、自分が持ってきたのは「角柱」という大笑いw
これ、「梭柱」じゃねえだろ(笑い”
“梭柱の論証に角柱を持ち出すアホ
のいう「学界」ってどこの世界の学界なんだろう?w”
実際のところ、私は「百済に建築技術をつたえた南北朝時代の中国には確かに徳利柱があり、また百済が建築技術をつたえた飛鳥時代の日本にも徳利柱があることから、徳利柱が百済の木造建築で用いられたことは、恐らく間違いない。」と、文献上確認できる伝播経路に基づいてエンタシスの存在を推定しているのであって、定林寺石塔については、「百済の遺構である定林寺石塔の隅柱が丸みを持った曲線で形取られていることもその推定を助ける。」と傍証として位置づけているに過ぎないのだが、まあ彼の読解力の水準でそこまで精妙な弁別は酷だろうから、これも許してあげよう。
さて、定林寺五層石塔の柱はエンタシスの傍証となりうるだろうか。 日本の研究者はこのように記す。
↓拡大
西垣安比古ほか『世界美術大全集東洋編 第10巻 高句麗・百済・新羅・高麗』(1998年小学館)より
エンタシスはほんらい円柱に施されるものであって、その意味では石造物の表面にある柱状の浮彫は、むろんエンタシスの円柱「そのもの」ではない。ただ、木造塔を模して作られた初期の石塔の意匠には、木造塔の意匠が単純化・平面化されて写されており、定林寺五層石塔の柱の輪郭が丸みを帯びているのは、百済の木造塔におけるエンタシスをかたどって表現したものと解釈されているわけである。ご理解いただけただろうか。
続いてジョン君はこんな主張も始めた。
第4の主張 「百済と高麗の関係を推定するのは、パルテノンと法隆寺の関係を推定するのと同じだ」
hinomotoちゃんは、ギリシア建築と法隆寺のエンタシスについて、考古学上の関連も、文献史料上の裏付けもないまま、形態の類似のみを根拠に同一性を語ったとして批判してました。
そんなhinomotoちゃんは、高麗のエンタシスと百済のエンタシスについて、考古学上の関連も、文献史料上の裏付けもないまま、形態の類似のみを根拠に同一性を語ってるのであります。
さらに言えば、ギリシア建築と法隆寺は、少なくとも現物同士の類似性を指摘することはできますが、高麗と百済のエンタシスについては、現物同士の比較すらできない点で、hinomotoちゃんの主張は、伊東忠太よりさらに酷い「願望・妄想の類」と言うことができるでしょう。( ´H`)y-~~
まあ、伊東の手法を批判しながら、自分は伊東よりも杜撰な主張をかますという、ダブルスタンダードのペテンですよ。ペテン。
この主張を、「高麗のエンタシスは百済と関係ない、宋由来だ」という当初の彼の発言と見比べると、なかなか面白いのだが、それはそれとして、彼の中では、ギリシア・日本間のアジア大陸を挟んだ伝播と、同一地域での継承とが同列に置かれているらしい。まあ、これは価値論題である。甲と乙は同じだ、いや異なる、という言い争いは結局のところ共通点と相違点のいずれを重視するかという主観同士の対立に過ぎず、私自身はそのような水掛け論にあまり意味を感じない。
私の認識では、伝統的な建築およびそれにまつわる文化というのは、すぐれて属地的なものである。 地域ごとの風土に適応して形成されるという意味でそうであるし、また個々の建築なり建築群が、特定の場所に建ち続けることによって日常的に参照され、継承されてゆくという意味でもそうである。異なる風土や文化を持つ地域への技術伝播は、たいてい何らかの特殊な事象――例えば遣唐使、例えば東大寺再建や禅宗の創始など――に伴って起こるものであって、日常的な営為としての同一地域内での継承と同様に推定できるものではない。 むろんそれが唯一の正しいアプローチというつもりもないが、「パルテノンと法隆寺の関係は退けられたが、先史時代の高床式住居を伊勢神宮の神明造の祖形と見ることは今でも行われている」ことは指摘しておこう。
第5の主張 「新羅は百済の建築を継承していない」
“高麗と三国時代の関係を考慮する上で、三国は新羅によって統一されていることから、統一新羅の文化は基本的に新羅系のものと考えるのが妥当なの。
さて、その場合、高麗に引き継がれるのは、「統一新羅」あるいは、「高句麗の末裔」を自認する高麗としては、復古したとしても百済ではなく、「高句麗」の文化に向かうの。
百済、出番なし。w”
宋由来も唐由来も主張できなくなった結果、ついに戦線を百済・新羅間にまで後退させてしまったジョン君。既に半島内なのだが、まあ、あまり気にしないでおこう。
現実に新羅が百済から建築文化を受容していたことは、慶州で出土する瓦当文や鴟尾が百済で発掘されているそれと相似する点から推定できるし、『東都成立記』『三国遺事』といった文献に百済工匠による新羅での造営の記事が見えることもこれと整合する。さらに統一新羅において滅亡した百済の建築文化が速やかに摂取されたことを知るには、その石塔を一瞥すれば足りよう。
南北朝時代から初唐にかけての中国で建てられていた無機材料の塔は一般に煉瓦を積み上げて作る、組積式の塼塔であり(上写真)、新羅でも当初はこれを真似た摸塼石塔が作られていた。これに対し百済では、柱石・面石・屋蓋石などの石材を組み立てて木造多層塔に模した石塔形式が独自の発達を見せる。 新羅は統一直後の感恩寺石塔から早々にこの百済の形式を用いており、これが以降の主流形式となってゆくのである。

中国の無機材料の塔。左から、崇岳寺塔(523、密檐式塼塔)、神通寺四門塔(611年、単層塼塔)、慈恩寺大雁塔(652、多層塼塔)、仏光寺祖師塔(7世紀、二層塼塔)。

百済・定林寺石塔(660以前)、新羅・芬皇寺模塼石塔(634)、感恩寺石塔(7世紀末)、中原塔坪里石塔(8世紀)。
意外に早く来ちゃったね、百済の出番。
第6の主張 「自分に反論するIDの正体は皆hinomotoだ」
そういう人、よくいらっしゃいます。くれぐれもお大事に。

古式の胴張りが顕著に見られる金銅三尊佛龕、高麗初期。
なお、表現されている建築様式は初唐期に見られるもので、統一新羅時代の様式を推測させる。
さて、ジョン君を荼毘に付したところで、改めて話を整理しよう。「徳利柱」こと古式の胴張りは、南北朝時代の中国、飛鳥時代の日本、そして高麗時代の韓国建築に見られる。また卷杀による梭柱は、唐代・宋代の中国、天平時代の日本に見られる。平安時代の日本では既にいずれも見られない。では高麗の胴張りはどこから来たのだろうか。
上述1より宋由来ではないことは言うまでもなく、従って統一新羅時代から継承したものと見られる。 では統一新羅はどこから学んだのか。 上述2より唐由来ともいえない。他方、南北朝→百済→日本という伝播ルートが文献上確認できることから、百済でのエンタシスの使用については伝播ルートの前後で挟むことによって推定できる。三国時代の新羅についてはこうした推定が適用できず不明だが、いずれにせよ統一新羅が百済の建築文化を継承していることは5で述べた通りである。結局、このような古めかしい形式の柱が高麗に残っているのは、それが伝わった百済時代から継承されてきた結果なのだろう、というべつだん面白くもない普通の結論に落ち着くわけである。
むろん、繰り返すが、これは現時点で最も蓋然性が高いと思われる仮説である。例えば百済とともにいったんエンタシスが途絶えて、高麗で突如として復活した、というような仮説も不可能ではないだろう。皆さんが何を正しいと思われるかは、皆さんで考えればよろしい。
まったくの余談だが、冒頭の会津八一の歌は唐招提寺で詠まれたものとして知られている。ふっくらとしたエンタシスの輪郭を思わせる「まろき柱」という言葉は、一般に唐招提寺=エンタシスというイメージを浸透させるのに一役買ったことだろう。ところでこれが誤認であることを知る我々にとってみれば、「まろき柱」は単に円柱を指す言葉として解すべきなのかというと、実はさにあらず。
会津本人の語るところによれば、上の句を作ったのは法隆寺の回廊でのことなのだという。会津はそのあと唐招提寺に行って下の句を作り、この歌ができた(『渾斎随筆』)。 まろきはしらとは、まさしくエンタシスのことなのだ。皆さんもこの歌を口ずさむ際には、少なくとも上の句では法隆寺のエンタシスを思い浮かべていただきたいと思う。
土に踏みつつ物をこそ思へ(会津八一)
”法隆寺のエンタシスは、韓国建築でよく見られるものです。韓国から技術者を読んで寺院を建てていた飛鳥時代に韓国から教わったものと考えることに何の無理もありません。”(『柱のエンタシスはギリシア風』)――もともと私が投稿したのは、19世紀末の日本人研究者がパルテノンと法隆寺のエンタシスを付会させた思想的背景を紹介するスレだったのだが、文中のこの言葉を発端として、「韓国建築で見られるエンタシス」の由来に関する、ジョン君の反論が展開されることとなった。このスレでは、彼によって提示された様々な主張を順を追って整理していこうと思う。それは当初、このような主張として始められた。
第1の主張 「韓国の梭柱は宋由来」
“なぜ現代の朝鮮に「梭柱」が残っているかというと、百済は程なく滅亡しておりますし、ほぼ関係ないと言っていいでしょう。じゃあ、今の韓国に残る梭柱はどこから来たの?と。
「宋」における最後の梭柱の流行。高麗はモンゴルに支配されるまで、そりゃもう宋をリスペクトすること甚だしく、モンゴルに支配された後もグジグジと宋に対する劣情を募らせます。この時代に、流入した宋の建築様式が、モンゴルに対する文化的反発等と結びつき、形態として固定化されたと考える方が妥当だよね。( ´H`)y-~~
まあ、現在韓国にある梭柱をもつ建築物の形式は、六朝様式ではまったくないわけでして・・・それが上記推測の理由なの。”
再説するとこの主張は、(1)宋代に見られる梭柱と、韓国に見られる胴張りの形式が異なる事実、および(2)柱心包系建築に顕著な胴張りが見られる事実によって、あっさり否定された。高麗時代の胴張りは、南北朝時代中国の义慈惠石柱(570年)や飛鳥時代日本の法隆寺西院(7世紀末)に見られる、下部を膨らませる古い形式に属し、宋代に見られるような中間部ないしそれ以下を直柱とする形式とは異なる。 また、その胴張りが顕著に見られるのが、宋様式を取り入れて形成された多包系建築ではなく、それ以前に確立された柱心包系建築である点もジョン君の主張と附合しない。 宋→高麗のエンタシス伝播ルートはあえなく潰えたわけである。
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左から、义慈惠石柱(南北朝時代)、法隆寺西院(飛鳥時代)、韓国の胴張り(高麗時代)、宋代の梭柱(『営造法式』1103)。
その後、「宋の建築様式は多様なの・・・」と呟くジョン君の姿が目撃されたが、残念ながらそれで押し切るのは無理と気付いたとみえ、次のスレからこの主張は姿を消してしまった。代わって登場したのは、以下のような反論であった。
第2の主張 「唐招提寺と唐の柱は徳利柱」
“ええ、徳利柱、これは南北朝には既に完成しており、唐招提寺(この頃、百済人はおりませんので、建築様式は遣唐使が学んできました。)に採用されていることから、8世紀末まではメジャーな様式であったことが解ります。
そしてhinomotoちゃんが大好きな組物、「柱心包式」ですが、これは8世紀後半以降に流行した「和様」という唐様式の影響を受けた建築様式と共通しています。
この2つの組み合わせは、唐までは遡ることが出来ますが、それ以前には遡れません。法隆寺に見られる六朝様式とは異なる様式です。
てなことで、形式の類似性からの仮説によっても、高麗の建築はせいぜい、統一新羅中期以降までしか遡ることができない様式なのでぃす。”
こんどは、唐招提寺金堂に徳利柱(古式の胴張り)があり、8世紀・7世紀の唐にもそれがあるのだという。その場合、統一新羅時代に唐から直接これを受容したルートの方が蓋然性が高い。「柱心包系建築にエンタシスが見られる」という前回のスレでの私の指摘を受けて、柱心包について検索し、それが唐様式を基にしていることを知り、エンタシスの由来も唐に求められないかと思う――そこまでのアプローチは悪くない。前回よりも進歩が見られる。
しかし残念ながら参照した情報が悪かったようだ。確かに巷間には唐招提寺金堂にエンタシスがあるという俗説が流布しており、それを鵜呑みにするのも、彼の検証能力から言って仕方のないことだろうと思う。しかしこれは誤認であって、落ち着いて研究者の報告を調べてみると、『建築史基礎資料集成』に記載されているごとく、唐招提寺金堂の柱には徳利柱どころかエンタシス自体も確認されていないことが分かる。ゆえに8世紀7世紀の唐に徳利柱が存在したという主張も成立せず、唐招提寺金堂に依拠して唐→新羅→高麗というルートを主張する試みもここにあっさり斃れることとなる。「きっと部分抽出だ…」という儚い抵抗もあったが、これできっちり黙ってもらおう。
『建築史基礎資料集成4 仏堂1』より、唐招提寺金堂
付言すると、「徳利柱」こと古式の胴張りの用例が確認できるのは、中国では义慈惠石柱(570年)のみで、それ以降に確認できる梭柱は先端のみに卷杀(逓減)を施した上下梭や上梭柱である。 唐建築を参照した日本の天平建築にもこの種の梭柱しか確認されない。仮に後代に徳利柱が使われた痕跡があれば、その間の使用を推測することもできるのだが、現状では中国での使用は南北朝時代を下ることはできないのである。こうした事実を諄々と説いた結果、唐招提寺の徳利柱に基づく主張も次のスレからは姿を消す。続いてジョン君が主張したのはこれだ。
第3の主張 「百済の定林寺五層石塔はエンタシスの遺構ではない」
“え?百済のエンタシスを示す遺構?
「どれどれ・・・?」
hinomotoちゃんが百済の遺構として提示したのは、これ。
百済の遺構である定林寺石塔の隅柱ァァァァ!
「・・・・・・・・・・」
「エンタシス」にせよ「梭柱」にせよ。四角い柱ではございません。
宋の梭柱については、丸みがどうこうと講釈を垂れていましたが、自分が持ってきたのは「角柱」という大笑いw
これ、「梭柱」じゃねえだろ(笑い”
“梭柱の論証に角柱を持ち出すアホのいう「学界」ってどこの世界の学界なんだろう?w”
実際のところ、私は「百済に建築技術をつたえた南北朝時代の中国には確かに徳利柱があり、また百済が建築技術をつたえた飛鳥時代の日本にも徳利柱があることから、徳利柱が百済の木造建築で用いられたことは、恐らく間違いない。」と、文献上確認できる伝播経路に基づいてエンタシスの存在を推定しているのであって、定林寺石塔については、「百済の遺構である定林寺石塔の隅柱が丸みを持った曲線で形取られていることもその推定を助ける。」と傍証として位置づけているに過ぎないのだが、まあ彼の読解力の水準でそこまで精妙な弁別は酷だろうから、これも許してあげよう。
さて、定林寺五層石塔の柱はエンタシスの傍証となりうるだろうか。 日本の研究者はこのように記す。
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西垣安比古ほか『世界美術大全集東洋編 第10巻 高句麗・百済・新羅・高麗』(1998年小学館)より
エンタシスはほんらい円柱に施されるものであって、その意味では石造物の表面にある柱状の浮彫は、むろんエンタシスの円柱「そのもの」ではない。ただ、木造塔を模して作られた初期の石塔の意匠には、木造塔の意匠が単純化・平面化されて写されており、定林寺五層石塔の柱の輪郭が丸みを帯びているのは、百済の木造塔におけるエンタシスをかたどって表現したものと解釈されているわけである。ご理解いただけただろうか。
続いてジョン君はこんな主張も始めた。
第4の主張 「百済と高麗の関係を推定するのは、パルテノンと法隆寺の関係を推定するのと同じだ」
hinomotoちゃんは、ギリシア建築と法隆寺のエンタシスについて、考古学上の関連も、文献史料上の裏付けもないまま、形態の類似のみを根拠に同一性を語ったとして批判してました。
そんなhinomotoちゃんは、高麗のエンタシスと百済のエンタシスについて、考古学上の関連も、文献史料上の裏付けもないまま、形態の類似のみを根拠に同一性を語ってるのであります。
さらに言えば、ギリシア建築と法隆寺は、少なくとも現物同士の類似性を指摘することはできますが、高麗と百済のエンタシスについては、現物同士の比較すらできない点で、hinomotoちゃんの主張は、伊東忠太よりさらに酷い「願望・妄想の類」と言うことができるでしょう。( ´H`)y-~~
まあ、伊東の手法を批判しながら、自分は伊東よりも杜撰な主張をかますという、ダブルスタンダードのペテンですよ。ペテン。
この主張を、「高麗のエンタシスは百済と関係ない、宋由来だ」という当初の彼の発言と見比べると、なかなか面白いのだが、それはそれとして、彼の中では、ギリシア・日本間のアジア大陸を挟んだ伝播と、同一地域での継承とが同列に置かれているらしい。まあ、これは価値論題である。甲と乙は同じだ、いや異なる、という言い争いは結局のところ共通点と相違点のいずれを重視するかという主観同士の対立に過ぎず、私自身はそのような水掛け論にあまり意味を感じない。
私の認識では、伝統的な建築およびそれにまつわる文化というのは、すぐれて属地的なものである。 地域ごとの風土に適応して形成されるという意味でそうであるし、また個々の建築なり建築群が、特定の場所に建ち続けることによって日常的に参照され、継承されてゆくという意味でもそうである。異なる風土や文化を持つ地域への技術伝播は、たいてい何らかの特殊な事象――例えば遣唐使、例えば東大寺再建や禅宗の創始など――に伴って起こるものであって、日常的な営為としての同一地域内での継承と同様に推定できるものではない。 むろんそれが唯一の正しいアプローチというつもりもないが、「パルテノンと法隆寺の関係は退けられたが、先史時代の高床式住居を伊勢神宮の神明造の祖形と見ることは今でも行われている」ことは指摘しておこう。
第5の主張 「新羅は百済の建築を継承していない」
“高麗と三国時代の関係を考慮する上で、三国は新羅によって統一されていることから、統一新羅の文化は基本的に新羅系のものと考えるのが妥当なの。
さて、その場合、高麗に引き継がれるのは、「統一新羅」あるいは、「高句麗の末裔」を自認する高麗としては、復古したとしても百済ではなく、「高句麗」の文化に向かうの。
百済、出番なし。w”
宋由来も唐由来も主張できなくなった結果、ついに戦線を百済・新羅間にまで後退させてしまったジョン君。既に半島内なのだが、まあ、あまり気にしないでおこう。
現実に新羅が百済から建築文化を受容していたことは、慶州で出土する瓦当文や鴟尾が百済で発掘されているそれと相似する点から推定できるし、『東都成立記』『三国遺事』といった文献に百済工匠による新羅での造営の記事が見えることもこれと整合する。さらに統一新羅において滅亡した百済の建築文化が速やかに摂取されたことを知るには、その石塔を一瞥すれば足りよう。
南北朝時代から初唐にかけての中国で建てられていた無機材料の塔は一般に煉瓦を積み上げて作る、組積式の塼塔であり(上写真)、新羅でも当初はこれを真似た摸塼石塔が作られていた。これに対し百済では、柱石・面石・屋蓋石などの石材を組み立てて木造多層塔に模した石塔形式が独自の発達を見せる。 新羅は統一直後の感恩寺石塔から早々にこの百済の形式を用いており、これが以降の主流形式となってゆくのである。

中国の無機材料の塔。左から、崇岳寺塔(523、密檐式塼塔)、神通寺四門塔(611年、単層塼塔)、慈恩寺大雁塔(652、多層塼塔)、仏光寺祖師塔(7世紀、二層塼塔)。

百済・定林寺石塔(660以前)、新羅・芬皇寺模塼石塔(634)、感恩寺石塔(7世紀末)、中原塔坪里石塔(8世紀)。
意外に早く来ちゃったね、百済の出番。
第6の主張 「自分に反論するIDの正体は皆hinomotoだ」
そういう人、よくいらっしゃいます。くれぐれもお大事に。

古式の胴張りが顕著に見られる金銅三尊佛龕、高麗初期。
なお、表現されている建築様式は初唐期に見られるもので、統一新羅時代の様式を推測させる。
さて、ジョン君を荼毘に付したところで、改めて話を整理しよう。「徳利柱」こと古式の胴張りは、南北朝時代の中国、飛鳥時代の日本、そして高麗時代の韓国建築に見られる。また卷杀による梭柱は、唐代・宋代の中国、天平時代の日本に見られる。平安時代の日本では既にいずれも見られない。では高麗の胴張りはどこから来たのだろうか。
上述1より宋由来ではないことは言うまでもなく、従って統一新羅時代から継承したものと見られる。 では統一新羅はどこから学んだのか。 上述2より唐由来ともいえない。他方、南北朝→百済→日本という伝播ルートが文献上確認できることから、百済でのエンタシスの使用については伝播ルートの前後で挟むことによって推定できる。三国時代の新羅についてはこうした推定が適用できず不明だが、いずれにせよ統一新羅が百済の建築文化を継承していることは5で述べた通りである。結局、このような古めかしい形式の柱が高麗に残っているのは、それが伝わった百済時代から継承されてきた結果なのだろう、というべつだん面白くもない普通の結論に落ち着くわけである。
むろん、繰り返すが、これは現時点で最も蓋然性が高いと思われる仮説である。例えば百済とともにいったんエンタシスが途絶えて、高麗で突如として復活した、というような仮説も不可能ではないだろう。皆さんが何を正しいと思われるかは、皆さんで考えればよろしい。
まったくの余談だが、冒頭の会津八一の歌は唐招提寺で詠まれたものとして知られている。ふっくらとしたエンタシスの輪郭を思わせる「まろき柱」という言葉は、一般に唐招提寺=エンタシスというイメージを浸透させるのに一役買ったことだろう。ところでこれが誤認であることを知る我々にとってみれば、「まろき柱」は単に円柱を指す言葉として解すべきなのかというと、実はさにあらず。
会津本人の語るところによれば、上の句を作ったのは法隆寺の回廊でのことなのだという。会津はそのあと唐招提寺に行って下の句を作り、この歌ができた(『渾斎随筆』)。 まろきはしらとは、まさしくエンタシスのことなのだ。皆さんもこの歌を口ずさむ際には、少なくとも上の句では法隆寺のエンタシスを思い浮かべていただきたいと思う。

