〇 神功皇后の新羅侵攻
まず最初に、神功皇后は半島からの渡来人アメノヒボコの7代の子孫である。(もちろん混血によりその血は薄いが)
神功皇后以前は、半島からの渡来は散発的であったが、それでも北九州、北陸に勢力を張っていた。
神功皇后以後は、列島~半島の交流が一期に活発になった。(半島の伽耶地域、列島の河内地方に双方の遺物が多く発掘されている。)
あきらかに、神功皇后の新羅侵攻(三韓征伐)を契機にして状況が変わった。
神功皇后の新羅侵攻は、三韓征伐としていることが重要である。
実際の新羅侵攻は、海から新羅の本拠地をたたいて撤収となったが、日本書紀では三韓征伐としている。
これは、神功皇后の新羅侵攻は、伽耶地域にも大きな変化をもたらしたことを暗示している。
伽耶地域の大きな変化とは、日本との交流の活発化である。
つまり、神功皇后の新羅侵攻は、伽耶~日本の移住に対する陽動作戦であったことは、歴史の流れからみて明らかである。
つまり、新羅軍を本拠地から動けなくさせ、伽耶~日本の移住の活発化を実現したのだ。
なので、三韓征伐というのは日本書紀の潤色というのがあたる。