食べ物

 

 

もう、1年近く前の事ですが、去年の7月に、仕事の用事で、横浜(東京areaの海の玄関口(gateway)となっている大きな港町)を訪れたついでに、蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)を見て来た時の物です。

 

写真以下3枚。横浜bay quarter(横浜の都心部にあるshopping mallの一つで、横浜駅周辺にあるshopping mall)に入っている、中国料理を中心としたアジア料理とフランス料理の要素を合わせた、フュージョン(fusion)創作料理レストランで食べた、この日の昼食。これに、パンが付きます。このレストラン、前から、ちょっと気になっていたのですが、この時、初めて利用しました。このレストラン、この時以来、何回か利用していますが(最近、ちょっと、しばらく利用していない)、手頃な値段で、味も、中々良いレストランだと思います(ただし、デザートは、除く。。デザートの味は、今一つ)。

 

 

前菜。季節の前菜、三種盛り合わせ。

 

 

 

 

メイン(main)料理、鮮魚(魚)と五穀米のロール(roll)、ラタトゥイユ(ratatouille)とアンチョビ(anchovy)のソース(sauce)。

 

 

 

デザート、盛り合わせ。

 

 

 

写真以下、この日、横浜での仕事の用事の合間に、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で、この時行われていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)を見て来ました。
蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久 夢二(takehisa yumeji)とは違って、超有名と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画の画風の原型を作った作家です。現代の少女漫画家にも、蕗谷 虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮 恵子(takemiya keiko)は、これまた、次世代の少女漫画家に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。ちなみに、個人的な話ですが、亡くなった、私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。

 

 

 

この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)。

 

 

 

以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)及び、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品に関する説明は、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)の文を、参考又は要約又は抜粋・引用した物です。


 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)。自宅を訪れた、ファン(fan)の少女達に囲まれて。1933年。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。

 

 

日本の近代の少女雑誌(主な読者は、第二次世界大戦以前の階級社会の日本における、中流階級以上の10代(主として、13歳から17歳位まで)の女性)の歴史は、1902年創刊の、「少女界」から始まっており、1908年創刊の、「少女の友」、1912年創刊の、「少女画報」等、1910年代初め頃までに、数誌が、創刊されました。初期の頃は、鏑木 清方(kaburaki kiyokata)、川端 龍子(kawabata ryushi)、竹久 夢二(takehisa yumeji)等が、少女雑誌に、絵を描いていましたが、この中で、竹久 夢二(takehisa yumeji)が、圧倒的な人気を博しました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が出現した頃、高畠 華宵(takabatake kasyo)や加藤 まさを(kato masao)、須藤 しげる(sudo shigeru)等も活躍を始めて、少女雑誌のヴィジュアル(visual)化が進みました。先に述べた少女雑誌の他に、1922年には、「令女界(reijyo kai)」が、1923年には、「少女倶楽部(少女club)」が創刊され、その何れにおいても、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、活躍しました。1920年代から1930年代に、単なる挿絵を超えた、芸術性の高い、日本の、少女向けの絵(日本の少女漫画の画風の原型となる)は、黄金時代を迎え、後に、中原 淳一(nakahara jyunichi)や、松本 かつぢ(matsumoto katsuji)(下の補足説明参照)も加わりました。松本 かつぢ(matsumoto katsuji)は、日本の少女漫画の、先駆け的な作品であるとされる、「くるくるクルミちゃん」(1938年に、「少女の友」に連載を開始)の作者でもありますが、その妹、松本 龍子は、1933年に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の二度目の妻になった人です。
松本 かつぢ(matsumoto katsuji):説明は、wikiより。。。1904年生まれ。1986年に亡くなる。日本の、画家・挿絵画家(イラストレーター(illustrator))。1931年に、挿絵画家としてデビュー(debut)。少女雑誌で、少女ファン(fan)の圧倒的な支持を集め、中原 淳一(nakahara jyunichi)と人気を二分する、少女向けのイラストレーター(illustrator)となった。高畠 華宵(takabatake kasyo)の後、蕗谷 虹児(fukiya koji)、加藤 まさを(kato masao)の絵が「少女画報」、「少女倶楽部(少女club)」、「令女界(reijyo kai)」等の少女雑誌で人気を呼び、それに続いたのが松本 かつぢ(matsumoto katsuji)、中原 淳一(nakahara jyunichi)らである。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)。蕗谷 虹児(fukiya koji)の二度目の妻になった、松本 龍子(松本 かつぢ(matsumoto katsuji)の妹)と。。。1933年。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。

 

 

写真以下(途中、蕗谷 虹児(fukiya koji)等の写真を除く)、この展覧会(exhibition)の展示作品例。全て、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品です。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。

 

 

日本画(日本伝統画)の修行時代の作品。1918年頃。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)の日記。1919年。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌、全てに描き続けました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、各少女雑誌の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けました。「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌と比べると、大人しい少女を、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を、「少女画報」には、活発そうで、都会的な少女を、「令女界(reijyo kai)」には、理知と官能を秘めた、大人の女性を描きました。

 

 

若い頃の蕗谷 虹児(fukiya koji)。1920年。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)を出版界に登場させたのは、「少女画報」(「婦人画報」の姉妹誌として、東京社から1912年1月に創刊された、月刊の少女雑誌)です。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)の知遇を得た事をきっかけに、「少女画報」において、イラストレーター(illustrator)としてデビュー(debut)しました(蕗谷 虹児(fukiya koji)と、「少女画報」の出会いは、竹久 夢二(takehisa yumeji)が、蕗谷 虹児(fukiya koji)為に、「少女画報」の編集長に、紹介状を書いた事に始まります)。現在、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が、明確に確認出来る、最も、早い号は、1920年5月号です(それ以前の号にも、サイン(signature)を入れずに絵を描いているはずですが、名前を、はっきりと確認出来るのは、1920年5月号です)。

 

 

写真以下7枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の少女画報における作品例。

 

 

付録、「少女の国旅行双六」。1921年。

 

 

 

付録、「姉妹仲良し双六」。1922年。

 

 

「写生」。口絵(書物・雑誌の巻頭、または本文の前に掲載される絵)原画。1925年。

 

 

 

 

西條 八十「二つの言葉」。口絵原画。1925年。

 

 

 

 

「波路はるか」。口絵原画。1925年。

 

 

 

 

「枯木立」。口絵原画。1925年。

 

 

 

 

「初雁」。口絵原画。1925年。

 

 

 

 

 

 

写真左、「旅絵師」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の絵(自画像)。1922年。写真右、「救いの灯火」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」の絵。1925年。

 

 

 

少女雑誌の「令女界(reijyo kai)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の少女雑誌と同じでした。

 

写真以下16枚。1920年代前半における、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例。

 

「或る夜の夢」。表紙原画。1922年。

 

 

 

「乞い」。口絵原画。1922年。

 

 

 

左。荒江 啓「星に祈る」。挿絵原画。1922年。右。上司 少剣「伊那子の時計」挿絵原画。1922年。

 

 

 

「花園の迷ひ」。口絵原画。1923年。

 

 

「令女界(reijyo kai)」は、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校の高学年から、女学校を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚女性」が増加したのです。そのような社会状況を、いち早く対応して、それまでの少女雑誌と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、誰にも従属しない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。

 

「プランタン」。口絵原画。1924年。

 

 

 

藤田 健次「初夢」。口絵原画。1924年。

 

 

 

「我の幸」。表紙原画。1924年。

 

 

 

「花がたみ」。表紙原画。1924年。

 

 

 

「聖鐘」。表紙原画。1924年。

 

 

 

邦枝 完二「流れ星」。挿絵原画。1924年。

 

 

 

柳川 美智子「妹の罪」。挿絵原画。1924年。

 

 

 

 

荒江 啓「想い出の磯に」。挿絵原画。1924年。

 

 

 

「テラス(terrace))の秋」。表紙原画。1925年。

 

 

 

「葡萄」。表紙原画。1925年。

 

 

 

「船・・・形見の扇(別れ四題)」。口絵原画。1925年。

 

 

 

「影の声」。挿絵原画。1925年。

 

 

 

雑誌、「少女倶楽部(少女club)」は、先行して出版された、他の少女雑誌が、女学生(現代で言う中学生と高校生)を対象にしていた事に比べ、それよりも幼い、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、月刊の少女雑誌として、1923年1月に、講談社(kodansha)から創刊さました。

 

写真以下3枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女倶楽部(少女club)」における作品例。

 

「人形のマント」。口絵原画。1924年。

 

 

 

 

「五つの人形」。口絵原画。1924年。

 

 

 

「シャボンダマ」。口絵原画。1925年。

 

 

 

 

雑誌、「淑女画報」の表紙。1922年。「淑女画報」は、良家(上流階級。良い家柄・格式のある家柄。富裕層)の娘を対象にした、月刊の、婦人雑誌(大人の女性向け雑誌)で、1912年4月に、博文館(hakubunkan)から創刊されました。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦前の日本の、代表的な中流階級向けの婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)である、「婦人公論」(中央公論社(chuokoronsha)から、1916年1月に創刊)、「主婦之友(主婦の友)」(主婦之友(主婦の友)社から、1917年2月に創刊)、「婦人倶楽部(婦人club)」(講談社(kodansha)から、1920年10月に創刊)の、三誌、全てに絵を描いた他、「婦人画報」(東京社)、「婦人之友(婦人の友)」(婦人之友(婦人の友)社)、「婦人世界」(実業之日本社)、「淑女画報」(博文館(hakubunkan))、「婦女界」(婦女界社)にも、挿絵や表紙を寄せています。蕗谷 虹児(fukiya koji)が出版界に登場した頃、婦人雑誌に、絵を描いていた画家は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、石井 滴水(ishii tekisui)、森田 久等でした。1910年代から1920年代半ばに、続々と創刊された、日本の、近代、婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)にとって、近代的な美人画を得意としていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、最も、欲しい画家の一人であったと思われます。

 

「氷柱の金魚」。雑誌、「主婦之友(主婦の友)」の挿絵原画。1925年。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、詩人・作詞家としても活躍しました。

 

「萌芽」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「睡蓮の夢」の原画。1924年。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩(小歌)、「萌芽」(蕗谷 虹児(fukiya koji)の画譜、「睡蓮の夢」の中から。。。)→「わたしは なんにも 言へなんだ   あの子も なんにも 言はなんだ   ふたりは、だまつて 花つんだ(私は、何も言えなかった。あの子も、何も言はなかった。二人は、黙って、花を摘んだ)  喋々は 二翅して 舞ひ舞うた  小鳥は 二羽きて うた歌ふた  雄花に 雌ばなが 咲いてゐた(喋々は、二羽で、踊りを踊った。小鳥は、二羽来て、歌を歌った。雄花と雌花が咲いていた)  あの子は だまつて 花くれた  わたしも だまつて 花やつた  わかれは さびしい ものだった(あの子は黙って、花をくれた。私も黙って、花をあげた。別れは、寂しい物だった)」。

 

 

「可愛ゆい時計」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「悲しき微笑」の原画。1924年。

 

 

「青き酒」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「私の詩画集」の原画。1925年。

 

 

 

「花嫁人形」。蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「花嫁人形」の原画。1935年。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集、「花嫁人形」の原画。1935年。

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、本の装幀(design)家としても活躍しました。

 

荒江 啓 「幻の国へ」の口絵原画。1924年。

 

 

日本の近代の児童文学(子供向けの文学)の歴史は、1891年の、「こがね丸(koganemaru)」に始まるとされます。以後、本来は、大人向けの挿絵を描く画家達が、児童向け(子供向け)の雑誌や本にも描いていましたが、1918年7月、童話・童謡雑誌、「赤い鳥」の創刊が契機となり、幼児向けの雑誌や絵本に、新しい潮流がもたらされました。この雑誌は、芸術性を重んじ、童話や童謡に名作を生み出し、同時に、それに伴う絵にも、芸術性を求めました。その翌年の1919年11月には、「赤い鳥」に、刺激を受けた雑誌、「金の船」が創刊されました。「金の船」は、1922年に、雑誌名が、「金の星」に変わりましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、雑誌名が、「金の星」になってからの、1923年8月から、同雑誌の、表紙や挿絵を描きました。その後も、1920年4月創刊の「童話」、1922年1月創刊の「コドモノクニ(子供の国)」、1923年11月創刊の「コドモアサヒ(子供朝日)」と、芸術性に根ざした、幼年(子供)向けの、童話・童謡雑誌、絵雑誌の創刊が相次ぎ、そこで活躍した画家達は、1927年に、「日本童画家協会」を結成しました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「日本童画家協会」のメンバー(member)には、含まれていませんが、「金の星」だけでなく、「コドモノクニ(子供の国)」にも描き、やはり、この時代に創刊された、「児童の世紀」等の童話・童謡雑誌、絵雑誌にも、作品を載せ、日本の近代児童(子供)文化の発展に、大きく貢献しました。この時代に描かれた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の童画(子供向けの絵)作品を見ると、芸術性と言う意味では、「日本童画家協会」の設立メンバー(member)の作品に劣るものではありません。もっとも、読者である子供にとっては、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品の緻密さが、やや息苦しく感じられたのではないか?とも思われます(尚、第二次世界大戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の子供向けの絵の画風は、第二次世界大戦前の、同画風と異なり、息苦しい程の描きこみがなされる物ではなく、さらりと、分かり易く描かれる物となっています)。「日本童画家協会」のメンバー(member)の作品全般に対しても、「大人の評価は高いものの、子供には、高踏的過ぎて(質が高過ぎて)、あまり好まれなかった」と言われています。その後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、子供向けの出版物における活躍については、次回以降の投稿で書きますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、生涯に渡って、幼年(子供)向けの絵の分野でも、活躍しました。

 

第一次世界大戦後の1910年代末から1920年代初めは、日本において、近代文学や近代文化が、中産階級及び大衆層(庶民層)の注目を集めた時代であり、暮らしのゆとりと自由な雰囲気から、日本の近代的な大衆文化が成熟して行った時代です。この時期、日本では、こうした時代背景から、子供の個性や自我を尊重した、「赤い鳥」、「コドモノクニ(子供の国)」等の、子供向けの雑誌が、数多く登場、絵雑誌や童話雑誌が次々と創刊され、日本の近代児童文化(子供向けの文化)の興隆期を迎えました。1920年代前半において、既に、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌で大活躍していましたが、子供向けの絵雑誌にも、度々、絵を描きました。

 

「王子と忠犬」。子供向けの雑誌、「宝の山」の表紙。1922年。

 

 

 

「アラビヤ(Arabia)の月」。「金の星」の表紙。1923年。「金の星」は、1919年に、キンノツノ社から創刊された「金の船」から、1922年に誌名変更された、子供向けの雑誌(童話・童謡雑誌)。

 

 

 

「ロスケ(rosuke)パン」。子供向けの雑誌、「ミソラ」の挿絵。1924年。露助(ロスケ。rosuke)とは、日本人がロシア(Russia)人に対して使う、蔑称です(現在は、差別用語として認識されている)。ロシア革命(Russian Revolution)後、かなりの数のロシア(Russia)人が日本に亡命して来ました。こうした、ロシア革命(Russian Revolution)後、日本に亡命したロシア(Russia)人(革命から、しばらくしてから、日本に来た人も、少なからず含まれる)は、かつてロシア帝国(Russian Empire)で貴族であったような裕福な人々や、モロゾフ(Morozoff)家やマカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)(モロゾフ(Morozoff)家と、マカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)は、それぞれ、神戸(kobe)に本社を置く、日本の西洋菓子会社、「モロゾフ(Morozoff)」(1926年創業)と、「ゴンチャロフ(Goncharoff)」(1923年創業)を創業)の様に、商売等で成功した人々もいましたが、娘を花売り娘として、街頭(市街地の道路や広場)に立たせなければならない様な、貧しい人々も、かなりいた様です。上の挿絵の(挿絵を伴った)文の内容は、以下「」内の通りです。「私は、悲しい、ロシア(Russia)の子供。日本の坊ちゃん(男の子)パン買ってよ。日本の嬢ちゃん(女の子)パン買ってよ。パンパン、ロスケ(rosuke)パン。パンは、いかが」。ここでの、「ロスケ(rosuke)」には、蔑みの意味と言うよりか、愛情や親しみの意味が込められていると思います(大人の子供に対する愛情の様に、絶対的に優位な立場にある者の愛情ですが。。)。日本人は、日露戦争(Russo-Japanese War。1904年から1905年にかけて、日本とロシア帝国(Russian Empire)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後、第二次世界大戦まで、(日露戦争(Russo-Japanese War)の勝利や、ロシア革命(Russian Revolution)による亡命者等により)、ロシア(Russia)人に対して優越感を抱いていた様です。第二次世界大戦の最終局面、日本がアメリカを中心とした連合国(ソビエト連邦(Soviet Union)を除く)との戦争で、ほぼ完全に壊滅状態にあった時に、ソビエト連邦(Soviet Union)が、日ソ中立条約(Soviet–Japanese Neutrality Pact)を一方的に破棄し、日本に対して宣戦布告した事や、それ以後、ソビエト連邦(Soviet Union)によって抑留された(抑留は、第二次世界大戦が終わった後も、しばらく続きました)、日本人捕虜(日本軍捕虜及びソ連軍が逮捕した日本人)の、非人道的な取り扱い(第二次世界大戦中の、日本軍による、連合国軍捕虜の取り扱いも、この時の、ソビエト連邦(Soviet Union)の、日本人捕虜の取り扱い同様、非人道的な物でしたが。。。ちなみに、日露戦争(Russo-Japanese War)における、日本のロシア(Russia)軍捕虜の取り扱い、第一次世界大戦における、日本のドイツ人(ドイツ兵が中心)捕虜の取り扱いは、人道的で、紳士的な物でした)等により、第二次世界大戦後は、日本人のロシア(Russia)人に対する、主だった感情は、優越感から憎しみへと変わりました。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon d"Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。尚、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)。当時、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。

 

 

下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。

 

 

「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された少女雑誌)の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、フランスの雑誌社からも、口絵の依頼を受ける様になりました。写真以下3枚は、現地の(フランスの)雑誌、「ファンタジオ」に掲載された口絵の切り抜きです。この他、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、現地の(フランスの)、児童雑誌(子供向けの雑誌)、「ラ・ジュネスヌーベル」からも、挿絵や口絵の依頼を受けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)が、パリ(Paris)に滞在中の1929年1月、パリ(Paris)からも、日本からも、遠く離れた、上海で、魯迅(Lu Xun。中国の有名な作家)が、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」を出版しました。魯迅(Lu Xun)は、1927年に、上海の書店で、蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集を手に入れ、蕗谷 虹児(fukiya koji)が描く絵に魅せられました。魯迅(Lu Xun)は、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の詩画集の中から、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵と詩を、抜粋して掲載し、詩は、魯迅(Lu Xun)自らが、漢訳(中国語訳)しました。

 

「旅人」。魯迅(Lu Xun)が出版した、「蕗谷 虹児(fukiya koji)画選」から。。。

 

 

 

 

 

下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部西部)に位置する)の自宅の庭で、薔薇の剪定をする、蕗谷 虹児(fukiya koji)。1939年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、自宅の庭に、様々な種類の薔薇を植えていました。

 

 

 

横浜での食事と展覧会2へ続く。。。

 

 

 

 



요코하마에서의 식사와 전람회 1.

 

 

이제(벌써), 1년 가깝게 전의 일입니다만, 작년의 7월에, 일의 용무로, 요코하마(도쿄 area의 바다의 현관문(gateway)이 되고 있는 큰 항구도시)을 방문한 김에, 후키곡홍아(fukiya koji)의 전람회(exhibition)를 보고 왔을 때의 물건입니다.

 

사진 이하 3매.요코하마 bay quarter(요코하마의 도심부에 있는 shopping mall의 하나로, 요코하마역 주변에 있는 shopping mall)에 들어가 있는, 중국 요리를 중심으로 한 아시아 요리와 프랑스 요리의 요소를 맞춘, 퓨전(fusion) 창작 요리 레스토랑에서 먹은, 이 날의 점심 식사.이것에, 팬이 뒤따릅니다.이 레스토랑, 전부터, 조금 신경이 쓰이고 있었습니다만, 이 때, 처음으로 이용했습니다.이 레스토랑, 이 때 이래, 몇회나 이용하고 있습니다만(최근, 조금, 당분간 이용하고 있지 않다), 적당한 가격으로, 맛도, 꽤 좋은 레스토랑이라고 생각합니다(다만, 디저트는, 제외하다..디저트의 맛은, 좀 더).

 

 

전채.계절의 전채, 삼종 진열.

 

 

 

 

메인(main) 요리, 선어(물고기)와 오곡미의 롤(roll), 라타트이유(ratatouille)와 안쵸비(anchovy)의 소스(sauce).

 

 

 

디저트, 진열.

 

 

 

사진 이하, 이 날, 요코하마에서의 일의 용무의 사이에, 소고(sogo) 백화점 요코하마 점내에 있는 미술관에서, 이 때 행해지고 있던, 후키곡홍아(fukiya koji)(아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.
후키곡홍아(fukiya koji):1898년, 니가타(niigata) 현 태생.1979년에 죽는다.아버지는, 신문기자.1920년대부터 1970년대에 활약한, 일본의 유명한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator).유명하다고는 말해도, 타케히사 무지(takehisa yumeji)와는 다르고, 초유명이라고 말할 정도가 아닙니다.잡지·책·신문등은, 구매자별로, 유년(아이) 향해·소년 전용·소녀 전용·성인의 남녀 전용·여성취향과 대략적으로 분류 할 수 있습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 그것들 모든 분야에 그림이나 문장을 쓰고 있지만, 유년·소녀·여성취향의 출판물에 대하고, 가장, 일을 했던(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).후키곡홍아(fukiya koji)는, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo) 등과 함께, 일본의 소녀 만화의 화풍의 원형을 만든 작가입니다.현대의 소녀 만화가에게도, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 팬(fan)은 대부분, 「후키곡홍아(fukiya koji)를 참고로 했다」라고 명언하고 있는, 타케미야 케이코(takemiya keiko)는, 이것 또, 차세대의 소녀 만화가에게, 큰 영향을 계속 미치고 있는 만화가의 한 명이 되고 있습니다(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).덧붙여서, 개인적인 이야기입니다만, 죽은, 나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 같습니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 만년이 되어도, 후키곡홍아(fukiya koji)의 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

 

 

후키곡홍아(fukiya koji).이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...

 

 

 

이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue).

 

 

 

이하, 후키곡홍아(fukiya koji) 및, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품에 관한 설명은, 이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)의 문장을, 참고 또는 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.


 

 

후키곡홍아(fukiya koji).자택을 방문한, 팬(fan)의 소녀들에게 둘러싸여.1933년.이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...

 

 

일본의 근대의 소녀 잡지(주된 독자는, 제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있어서의, 중류 계급 이상의 10대(주로, 13세부터 17세 정도까지)의 여성)의 역사는, 1902년 창간의, 「소녀계」로부터 시작되어 있어 1908년 창간의, 「소녀의 친구」, 1912년 창간의, 「소녀 화보」등 , 1910년대 초 무렵까지, 수지가, 창간 되었습니다.초기의 무렵은, 가부라기 기요카타(kaburaki kiyokata), 카와바타 류자(kawabata ryushi), 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등이, 소녀 잡지에, 그림을 그리고 있었습니다만, 이 안에서, 타케히사 무지(takehisa yumeji)가, 압도적인 인기를 얻었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)가 출현했을 무렵, 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo)나 카토를(kato masao), 스도우무성한(sudo shigeru) 등도 활약을 시작하고, 소녀 잡지의 비쥬얼(visual) 화가 진행되었습니다.먼저 말한 소녀 잡지 외에, 1922년에는, 「령녀계(reijyo kai)」가, 1923년에는, 「소녀 클럽(소녀 club)」가 창간 되어 그 어느 쪽에 대해도, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 활약했습니다.1920년대부터 1930년대에, 단순한 삽화를 넘은, 예술성의 높은, 일본의, 소녀 전용의 그림(일본의 소녀 만화의 화풍의 원형이 된다)은, 황금 시대를 맞이해 후에, 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)나, 마츠모토(matsumoto katsuji)(아래의 보충 설명 참조)도 더해졌습니다.마츠모토(matsumoto katsuji)는, 일본의 소녀 만화의, 앞장 서적인 작품이라고 되는, 「빙글빙글 호두 」(1938년에, 「소녀의 친구」에게 연재를 개시)의 작자이기도 합니다만, 그 여동생, 마츠모토 류자는, 1933년에, 후키곡홍아(fukiya koji)의 두번째의 아내가 된 사람입니다.
마츠모토(matsumoto katsuji):설명은, wiki보다...1904 년생.1986년에 죽는다.일본의, 화가·삽화 화가(일러스트레이터(illustrator)).1931년에, 삽화 화가로서 데뷔(debut).소녀 잡지로, 소녀 팬(fan)의 압도적인 지지를 모아 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)와 인기를 2분하는, 소녀 전용의 일러스트레이터(illustrator)가 되었다.다카바타케 가쇼(takabatake kasyo)의 뒤, 후키곡홍아(fukiya koji), 카토를(katomasao)의 그림이 「소녀 화보」, 「소녀 클럽(소녀 club)」, 「령녀계(reijyo kai)」등의 소녀 잡지로 인기를 끌어, 거기에 계속 되었던 것이 마츠모토(matsumoto katsuji), 나카하라 준이치(nakahara jyunichi) 등이다.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji).후키곡홍아(fukiya koji)의 두번째의 아내가 된, 마츠모토 류자(마츠모토(matsumoto katsuji)의 여동생)와...1933년.이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...

 

 

사진 이하(도중 , 후키곡홍아(fukiya koji) 등의 사진을 제외하다), 이 전람회(exhibition)의 전시 작품예.모두, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품입니다.이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다..

 

 

일본화(일본 전통화)의 수행 시대의 작품.1918년경.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)의 일기.1919년.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터, 「소녀의 친구」, 「소녀 화보」, 「령녀계(reijyo kai)」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의, 당시의, 일본의 대표적인 소녀 잡지, 모두에 계속 그렸습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 각 소녀 잡지의 성격에 맞추고, 소녀의 타입(성질)을 그려 나누었습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」에는, 소박한, 다른 잡지와 비교하면, 얌전한 소녀를, 「소녀의 친구」에게는, 품위있고 얌전한 분위기를 가지는 따님(좋은 집안의 낭) 풍의 소녀를, 「소녀 화보」에는, 활발 그렇고, 도시적인 소녀를, 「령녀계(reijyo kai)」에는, 이지와 관능을 숨긴, 어른의 여성을 그렸습니다.

 

 

젊은 무렵의 후키곡홍아(fukiya koji).1920년.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)를 출판계에 등장시킨 것은, 「소녀 화보」( 「부인 화보」의 자매잡지로서 도쿄사로부터 1912년 1월에 창간 된, 월간의 소녀 잡지)입니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 타케히사 무지(takehisa yumeji)의 지우를 얻은 일을 계기로, 「소녀 화보」에 대하고, 일러스트레이터(illustrator)로서 데뷔(debut)했던(후키곡홍아(fukiya koji)와 「소녀 화보」의 만남은, 타케히사 무지(takehisa yumeji)가, 후키곡홍아(fukiya koji) 때문에, 「소녀 화보」의 편집장에게, 소개장을 쓴 일에 시작합니다).현재, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품이, 명확하게 확인 할 수 있다, 가장, 빠른 호는, 1920년 5월호입니다(그 이전의 호에도, 싸인(signature)을 넣지 않고 그림을 그리고 있을 것입니다만, 이름을, 분명히 확인 할 수 있는 것은, 1920년 5월호입니다).

 

 

사진 이하 7매.후키곡홍아(fukiya koji)의 소녀 화보에 있어서의 작품예.

 

 

부록, 「소녀의 나라 여행 주사위」.1921년.

 

 

 

부록, 「자매 의좋은 사이 주사위」.1922년.

 

 

「사생」.삽화(서적·잡지의 권두, 또는 본문의 전에 게재되는 그림) 원화.1925년.

 

 

 

 

사이죠80 「두 개의 말」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

 

「하지 하루카」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

 

「고목립」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

 

「 첫기러기」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

 

 

 

사진왼쪽, 「여행 화가」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 그림(자화상).1922년.사진 오른쪽, 「구제의 등화」.잡지, 「소녀 클럽(소녀 club)」의 그림.1925년.

 

 

 

소녀 잡지의 「령녀계(reijyo kai)」는, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 스스로의 가지는 힘을 전개시키는 일을 할 수 있다, 가장 중요한 무대가 된 잡지입니다.당초, 「령녀계(reijyo kai)」가, 대상 연령으로 하고 있던 것은, 다른 소녀 잡지와 같았습니다.

 

사진 이하 16매.1920년대 전반에 있어서의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품예.

 

「혹밤의 꿈」.표지 원화.1922년.

 

 

 

「청해」.삽화 원화.1922년.

 

 

 

좌.황강계 「별에 빈다」.삽화 원화.1922년.우.상사소검 「이나자의 시계」삽화 원화.1922년.

 

 

 

「화원의 미히」.삽화 원화.1923년.

 

 

「령녀계(reijyo kai)」는, 창간으로부터 수년후의, 1920년대 중반무렵부터, 대상 연령이 올라, 대상 연령은, 여학교의 고학년으로부터, 여학교를 졸업하고 나서 결혼할 때까지의 여성(주로, 17세부터 20대 전반)이 되어, 「령녀계(reijyo kai)」는, 소녀와 주부의 사이에 있는, 「미혼의 여성」을 대상으로 한, 일본에서 최초의 잡지가 되었습니다.일본에서는, 1910년대 중반무렵부터, 직업을 가지는 여성도 증가해 결혼 연령도 서서히 올라, 「미혼 여성」이 증가했습니다.그러한 사회 상황을, 재빨리 대응하고, 지금까지의 소녀 잡지와 여성 잡지(주부용의 잡지)의, 중간적인 연령층을 구매자로 했던 것이, 「령녀계(reijyo kai)」였습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyo kai)」에 두고, 가련한 소녀가 아니고, 가정의 냄새를 가진 주부도 아닌, 누구에게도 종속되지 않는, 독립한 여성의 매력을, 눈에 보이는 형태로, 독자에게 나타냈습니다.

 

「쁘랭땅」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

후지타 켄지 「첫꿈」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

「나의 행」.표지 원화.1924년.

 

 

 

「꽃봐」.표지 원화.1924년.

 

 

 

「성종」.표지 원화.1924년.

 

 

 

구니에다 간지 「유성」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

야나가와 미치코 「여동생의 죄」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

 

황강계 「추억의 기에」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

「테라스(terrace))의 가을」.표지 원화.1925년.

 

 

 

「포도」.표지 원화.1925년.

 

 

 

「배···기념품의 부채(이별4제목)」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

「그림자의 소리」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

잡지, 「소녀 클럽(소녀 club)」는, 선행해 출판된, 다른 소녀 잡지가, 여학생(현대에 말하는 중학생과 고교생)을 대상으로 하고 있던 일에 비해, 그것보다 어린, 초등학교 5, 6 학년을 기준에 자리잡아 초등학교 고학년으로부터 여학교 저학년(10세부터 14세 전후)을 대상으로 한, 월간의 소녀 잡지로서 1923년 1월에, 코단샤(kodansha)로부터 창간 깨었다.

 

사진 이하 3매.후키곡홍아(fukiya koji)의 「소녀 클럽(소녀 club)」에 있어서의 작품예.

 

「인형의 망토」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

 

「다섯 살의 인형」.삽화 원화.1924년.

 

 

 

「샤본다마」.삽화 원화.1925년.

 

 

 

 

잡지, 「숙녀 화보」의 표지.1922년.「숙녀 화보」는, 양가(상류계급.좋은 집안·격식이 있는 집안.부유층)의 딸(아가씨)를 대상으로 한, 월간의, 부인 잡지(어른의 여성취향 잡지)로, 1912년 4월에, 박문관(주)(hakubunkan)로부터 창간 되었습니다.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 제이차 세계대전 전날책의, 대표적인 중류 계급 전용의 부인 잡지(주부·어른의 여성취향의 잡지)인, 「부인 공론」(중앙공론사(chuokoronsha)로부터, 1916년 1월에 창간), 「주부지우(주부의 친구)」(주부지우(주부의 우) 사로부터, 1917년 2월에 창간), 「부인 클럽(부인 club)」(코단샤(kodansha)로부터, 1920년 10월에 창간)의, 3잡지, 모두에 그림을 그린 외, 「부인 화보」(도쿄사), 「부인지우(부인의 친구)」(부인지우(부인의 우) 사), 「부인 세계」(실업지일본사), 「숙녀 화보」(박문관(주)(hakubunkan)), 「부녀계」(부녀계사)에도, 삽화나 표지를 보내고 있습니다.후키곡홍아(fukiya koji)가 출판계에 등장했을 무렵, 부인 잡지에, 그림을 그리고 있던 화가는, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 이시이 타루미즈(ishii tekisui), 모리타 히사시등이었습니다.1910년대부터 1920년대 중반에, 잇달아 창간 된, 일본의, 근대, 부인 잡지(주부·어른의 여성취향의 잡지)에 있어서, 근대적인 미인화를 자랑으로 여기고 있던, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 가장, 갖고 싶은 화가의 혼자서 있었다고 생각됩니다.

 

「고드름의 금붕어」.잡지, 「주부지우(주부의 친구)」의 삽화 원화.1925년.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 시인·작사가라고 해도 활약했습니다.

 

「맹아」.후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집, 「수련의 꿈」의 원화.1924년.후키곡홍아(fukiya koji)의 시(소노래), 「맹아」(후키곡홍아(fukiya koji)의 화보, 「수련의 꿈」중에서...)→「 나는 아무것도 말에야 그 아이도 아무것도 말은이야 두 사람은, 이다 기다리는이라고 꽃 뜯었다( 나는, 아무것도 말할 수 없었다.그 아이도, 아무것도 말은 없었다.두 명은, 입다물고, 꽃을 딴) 첩들은 2시 해 무용히 무용 노래 작은 새는 2마리 와 노래노래 뚜껑 수꽃에 암컷인이 소(첩들은, 2마리로, 춤을 추었다.작은 새는, 2마리 오고, 노래를 불렀다.수꽃과 암꽃이 피어 있던) 그 아이는이다 기다리는이라고 꽃 준 나도다 기다리는이라고 꽃가게이별은 외로운 것이었다(그 아이는 입다물고, 꽃을 주었다.나도 입다물고, 꽃을 주었다.이별은, 외로운 것이었다)」.

 

 

「카아이 해 시계」.후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집, 「비사계 미소」의 원화.1924년.

 

 

「파랑나무주」.후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집, 「 나의 시화집」의 원화.1925년.

 

 

 

「신부 인형」.후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집, 「신부 인형」의 원화.1935년.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집, 「신부 인형」의 원화.1935년.

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 책의 장정(design) 가라고 해도 활약했습니다.

 

황강계 「환상의 나라에」의 삽화 원화.1924년.

 

 

일본의 근대의 아동문학(어린이용의 문학)의 역사는, 1891년의, 「적은 돈환(koganemaru)」에 시작한다고 여겨집니다.이후, 본래는, 어른용의 삽화를 그리는 화가들이, 아동 전용(어린이용)의 잡지나 책에도 그리고 있었습니다만, 1918년 7월, 동화·동요 잡지, 「붉은 새」의 창간이 계기가 되어, 유아전용의 잡지나 그림책에, 새로운 조류가 초래되었습니다.이 잡지는, 예술성을 존중해 동화나 동요에 명작을 낳아, 동시에, 거기에 따르는 그림에도, 예술성을 요구했습니다.그 다음 해의 1919년 11월에는, 「붉은 새」에게, 자극을 받은 잡지, 「돈의 배」가 창간 되었습니다.「돈의 배」는, 1922년에, 잡지명이, 「돈의 별」로 바뀌었습니다만, 후키곡홍아(fukiyakoji)는, 잡지명이, 「돈의 별」이 되고 나서의, 1923년 8월부터, 동잡지의, 표지나 삽화를 그렸습니다.그 후도, 1920년 4월 창간의 「동화」, 1922년 1월 창간의 「코드모노크니(아이의 나라)」, 1923년 11월 창간의 「코드모아사히(아이 아침해)」라고, 예술성에 기인한, 유년(아이) 향해의, 동화·동요 잡지, 그림 잡지의 창간이 잇따라, 거기서 활약한 화가들은, 1927년에, 「일본 동화가 협회」를 결성했습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「일본 동화가 협회」의 멤버(member)에게는, 포함되어 있지 않습니다만, 「돈의 별」뿐만이 아니라, 「코드모노크니(아이의 나라)」에도 그려, 역시, 이 시대에 창간 된, 「아동의 세기」등의 동화·동요 잡지, 그림 잡지에도, 작품을 실어 일본의 근대 아동(아이) 문화의 발전에, 크게 공헌했습니다.이 시대에 그려진, 후키곡홍아(fukiya koji)의 동화(어린이용의 그림) 작품을 보면, 예술성이라고 하는 의미에서는, 「일본 동화가 협회」의 설립 멤버(member)의 작품에 뒤떨어지는 것이 아닙니다.무엇보다, 독자인 아이에게 있어서는, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 작품의 치밀함이, 약간 가슴이 답답하게 느껴진 것은 아닌가?(와)과도 생각됩니다(상, 제이차 세계대전 후의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 어린이용의 그림의 화풍은, 제이차 세계대전전의, 동화풍과 달리, 가슴이 답답할 수록의 그리기 포함이 되는 것이 아니고, 깨끗이, 알기 쉽게 그려지는 것이 되고 있습니다).「일본 동화가 협회」의 멤버(member)의 작품 전반에 대해서도, 「어른의 평가는 높기는 하지만, 아이에게는, 고답너무 적이고(너무 질이 높아서), 별로 선호되지 않았다」라고 해집니다.그 후의, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 어린이용의 출판물에 있어서의 활약에 대해서는, 다음 번 이후의 투고로 씁니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 생애에 건너고, 유년(아이) 향해의 그림의 분야에서도, 활약했습니다.

 

제1차 세계 대전 후의 1910년대말부터 1920년대 초는, 일본에 있고, 근대문학이나 근대 문화가, 중산계급 및 대중층(서민층)의 주목을 끌었던 시대이며, 생활의 여유와 자유로운 분위기로부터, 일본의 근대적인 대중문화가 성숙해 갔던 시대입니다.이 시기, 일본에서는, 이러한 시대 배경으로부터, 아이의 개성이나 자아를 존중한, 「붉은 새」, 「코드모노크니(아이의 나라)」등의, 어린이용의 잡지가, 많이 등장, 그림 잡지나 동화 잡지가 차례차례로 창간 되어 일본의 근대 아동 문화(어린이용의 문화)의 융성기를 맞이했습니다.1920년대 전반에 있고, 이미, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지로 대활약하고 있었습니다만, 어린이용의 그림 잡지에도, 종종, 그림을 그렸습니다.

 

「왕자와 충견」.어린이용의 잡지, 「보물의 산」의 표지.1922년.

 

 

 

「아라비야(Arabia)의 달」.「돈의 별」의 표지.1923년.「돈의 별」은, 1919년에, 킨노트노사로부터 창간 된 「돈의 배」로부터, 1922년에 지명 변경된, 어린이용의 잡지(동화·동요 잡지).

 

 

 

「로스케(rosuke) 빵」.어린이용의 잡지, 「미소라」의 삽화.1924년.로조(로스케.rosuke)와는, 일본인이 러시아(Russia) 인에 대해서 사용하는, 멸칭입니다(현재는, 차별 용어로서 인식되고 있다).러시아 혁명(Russian Revolution) 후, 상당한 수의 러시아(Russia) 인이 일본에 망명해 왔습니다.이러한, 러시아 혁명(Russian Revolution) 후, 일본에 망명한 러시아(Russia) 인(혁명으로부터, 잠시 후로부터, 일본에 온 사람도, 많이 포함된다)은, 일찌기 러시아 제국(Russian Empire)에서 귀족인 것 같은 유복한 사람들이나, 모로조프(Morozoff) 가나 마카르·곤체로후(Makar Goncharoff)(모로조프(Morozoff) 가와 마카르·곤체로후(MakarGoncharoff)는, 각각, 코베(kobe)에 본사를 두는, 일본의 서양 과자 회사, 「모로조프(Morozoff)」(1926년 창업)과 「곤체로후(Goncharoff)」(1923년 창업)을 창업)과 같이, 장사등으로 성공한 사람들도 있었습니다만, 딸(아가씨)를 꽃을 파는 것딸(아가씨)로서 가두(시가지의 도로나 광장)에 서게 한 없으면 안 되는 같은, 궁핍한 사람들도, 꽤 있던 같습니다.위의 삽화의(삽화를 수반한) 문장의 내용은, 이하 「」 안대로입니다.「 나는, 슬픈, 러시아(Russia)의 아이.일본의 도련님(사내 아이) 빵 사.일본의 양(여자 아이) 빵 사.빵 빵, 로스케(rosuke) 빵.빵은, 어떻게」.여기서의, 「로스케(rosuke)」에는, 업신여김의 의미라고 말하는 것보다인가, 애정이나 친밀감의 의미가 담겨져 있다고 생각합니다(어른의 아이에 대한 애정과 같이, 절대적으로 우위인 입장에 있는 사람의 애정입니다만..).일본인은, 러일 전쟁(Russo-Japanese War.1904년부터 1905년에 걸치고, 일본과 러시아 제국(Russian Empire)의 사이에 행해진 전쟁.일본의 실질적인 승리에 끝난다) 후, 제이차 세계대전까지, (러일 전쟁(Russo-Japanese War)의 승리나, 러시아 혁명(RussianRevolution)에 의한 망명자등에 의해), 러시아(Russia) 인에 대해서 우월감을 안고 있던 같습니다.제이차 세계대전의 최종 국면, 일본이 미국을 중심으로 한 연합국(소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)을 제외한다)과의 전쟁으로, 거의 완전하게 괴멸 상태에 있었을 때에, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)이, 일소 중립 조약(Soviet–Japanese Neutrality Pact)을 일방적으로 파기해, 일본에 대해서 선전포고한 일이나, 그것 이후, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)에 의해서 억류된(억류는, 제이차 세계대전이 끝난 후도, 당분간 계속 되었습니다), 일본인 포로(일본군포로 및 소련군이 체포한 일본인)의, 사람축에 들지 못한 사람도적인 취급해(제이차 세계대전중의, 일본군에 의한, 연합국군포로의 취급도, 이 때의, 소비에트 사회주의 연방공화국 (Soviet Union)의, 일본인 포로의 취급해 같이, 사람축에 들지 못한 사람도적인 물건이었지만...덧붙여서, 러일 전쟁(Russo-JapaneseWar)에 있어서의, 일본의 러시아(Russia) 군포로의 취급해, 제1차 세계 대전에 있어서의, 일본의 독일인(독일병이 중심) 포로의 취급은, 인도적이고, 신사적인 것이었습니다) 등에 의해, 제이차 세계대전 후는, 일본인의 러시아(Russia) 인에 대한, 주요했던 감정은, 우월감으로부터 미움으로 바뀌었습니다.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 1925년부터 1929년에 걸치고, 파리(Paris)에서, (삽화 화가로서가 아니고) 본격적인 화가로서 성공하는 일을 목표로 하고, (프랑스의) 파리(Paris)에 체재하고 있었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 파리(Paris) 체제중, 살롱·드톤누(Salon d"Automne) 등의 살롱(salon)으로 입선을 거듭해 파리(Paris)의 잡지사로부터도 삽화의 의뢰를 받는 것처럼 되었습니다만, 가정의 사정등에 의해, 파리(Paris)에서 본격적인 화가로서 성공하는 꿈을 단념해, 1929년에, 약 4년간에 있어서의, 파리(Paris) 체재를 끝내 일본에 귀국했습니다.상, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyo kai)」등의, 일본의 잡지 전용의 일은, (전보다도, 적게 되었지만), 파리(Paris) 체제중도 계속하고 있었습니다.

 

후키곡홍아(fukiya koji)의 파리(Paris)의 아틀리에(작품 제작 작업장)에서...1926년경.앞, 후키곡홍아(fukiya koji).안쪽, 후키곡홍아(fukiya koji)의 최초의 아내, 응(rin).당시 , 후키곡홍아(fukiya koji)는, 27세, 응(rin)은, 17세(후키곡홍아(fukiya koji)는, 1923년, 24세 때, 당시 14세에 있던, 근처의 딸(아가씨), 응(rin)과 결혼).

 

 

아래의 사진, 파리(Paris)에서...사진 제일 왼쪽의 안쪽, 후키곡홍아(fukiya koji).사진 제일 왼쪽의 앞, 응(rin).1928년경.

 

 

「일본을 나중에(일본을 후에)」.「소령녀(소reijyo)」( 「령녀계(reijyo kai)」의 매판으로서 창간 된 소녀 잡지)의 삽화 원화.응(rin)을 모델(model)로 하고 있다고 생각됩니다.1926년.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 파리(Paris) 체제중, 프랑스의 잡지사로부터도, 삽화의 의뢰를 받는 것처럼 되었습니다.사진 이하 3매는, 현지의(프랑스의) 잡지, 「환타 지오」에 게재된 삽화의 샘플입니다.이 외, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 현지의(프랑스의), 아동 잡지(어린이용의 잡지), 「라·쥬네 소왕-벨」로부터도, 삽화나 삽화의 의뢰를 받았습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)가, 파리(Paris)에 체제중의 1929년 1월, 파리(Paris)로부터도, 일본으로부터도, 멀게 떨어진, 샹하이에서, 노신(Lu Xun.중국의 유명한 작가)가, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」을 출판했습니다.노신(Lu Xun)은, 1927년에, 샹하이의 서점에서, 후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집을 손에 넣어 후키곡홍아(fukiya koji)가 그리는 그림에 매료되었습니다.노신(Lu Xun)은, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」에, 후키곡홍아(fukiya koji)의 시화집중에서, 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림과 시를, 발췌해 게재해, 시는, 노신(Lu Xun) 스스로가, 한역(중국어(뜻)이유)했습니다.

 

「여행자」.노신(Lu Xun)이 출판한, 「후키곡홍아(fukiya koji) 화선」으로부터...

 

 

 

 

 

시모오치아이(shimoochiai.현재의 신쥬쿠구(도쿄 중심부 서부)에 위치한다)의 자택의 뜰에서, 장미의 전정을 하는, 후키곡홍아(fukiya koji).1939년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 자택의 뜰에, 여러가지 종류의 장미를 심고 있었습니다.

 

 

 

요코하마에서의 식사와 전람회 2에 계속 된다...

 

 

 

 


 



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