食べ物

 

 

少し前の事ですが、去年の7月に、横浜での仕事の用事の合間に、そごう(sogo)デパート横浜店内に有る美術館で、この時行われていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の展覧会(exhibition)を見て来た時の物です。

 

以下、横浜での食事と展覧会1からの続き。。。

 

写真以下2枚。珈琲館(coffee館)(喫茶店のチェーン(chain)店)の横浜駅周辺の店舗で食べた、この日の夕食。私は、率直に行って、コーヒー(coffee)の味は、よく分からないのですが、珈琲館(coffee館)のコーヒー(coffee)は、個人的に、中々、美味しいと思います。

 

 

 

卵、ハム(ham)、チーズ(cheese)の、フォカッチャ(focaccia)サンドイッチ(sandwich)。一時期、珈琲館(coffee館)の、フォカッチャ(focaccia)サンドイッチ(sandwich)は、お気に入りでした。

 

 

 

昼食ならば、量的に、上のサンドイッチ(sandwich)だけで十分なのですが、夕食だと、量的に、少し物足りないので、もう一品。明太子(meitaiko)のクリームパスタ(cream pasta)。

 

 

 

 

写真以下、この蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)の説明の続き。。。
蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)で、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画の画風の原型を作った作家です。ちなみに、個人的な話ですが、亡くなった、私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

 

以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)及び、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品に関する説明は、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)の文を、参考又は要約又は抜粋・引用した物です。

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌、全てに描き続けましたが、中でも、「令女界(reijyo kai)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の少女雑誌と同じでしたが、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)の高学年から、女学校を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚女性」が増加したのです。そのような社会状況を、いち早く対応して、それまでの少女雑誌と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、誰にも従属しない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。

 

写真以下、この展覧会(exhibition)の展示作品例(1920年代後期から第二次世界大戦までの、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品例)。この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。 全て、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品です。

 

写真以下32枚。1920年代後期から1930年代の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例(途中、「胡蝶の夢」を除く)。

 

「山の乙女」 表紙原画。1928年。

 

 

 

「花の国の乙女」。表紙原画。1928年。

 

 

 

「新緑」。表紙原画。1928年。

 

 

「水草の花」。表紙原画。1928年。

 

 

 

「郊外の秋」。表紙原画。1928年。

 

 

写真以下2枚。江馬 修「悩みをとおして」(物語の内容は、不遇な女性ピアニストの波乱に満ちた生涯)の、挿絵原画。1927年から1929年。

 

 

 

 

 

 

 

1929年から1930年にかけての「令女界(reijyo kai)」においては、目次の次は、ニュース(news)写真が誌面を埋めていました。挿絵よりも写真に重点が置かれていたのです。そこに変化が現れたのは、1931年の新年号です。豪華なフルカラー(full-color)の見開き口絵が1年間を通して、毎号載る様になったのです。口絵とは、文字の助けを借りる事なく、絵そのもので、世界を表現する、雑誌においては、表紙に次ぐ、重要な価値を持つ物です。特に口絵の中でも、フルカラー(full-color)の口絵は、画家が色の出方まで拘る重要な物です。

 

 

「幸福の使者」。口絵。1931年。

 

 

 

 

「夢」。口絵。1931年。

 

 

 

 

「胡蝶の夢」。1968年。

 

 

1931年の、「令女界(reijyo kai)」の、豪華な口絵で、蕗谷 虹児(fukiya koji)が登場したのは、2月号と6月号でした。特に、6月号では、仰向けの女性の横顔と蝶が、薄暗い背景に溶け込んだ、「夢」を発表し、大反響を呼びました。「茶和会」と言う、「令女界(reijyo kai)」の読者投稿欄に寄せられた、16件のコメントの内、「夢」について書かれている投稿は、7件にのぼり、「素晴らしく気高い作品」、「美しい色取り、崇高なプロフィル(profil)は、本当に夢のようですね。ある神秘さを感じました」、「この絵は、絵と言うより、余りに詩的です。この絵から受ける感じは詩的な幻想です」等、「令女界(reijyo kai)」の読者の少女・若い女性達から、絶賛されました(ちなみに、同年2月号に載った、「幸福の使者」に対するコメントは2件でした)。「夢」の構想は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、フランスの雑誌、「ファンタジオ」の為に描いた口絵(前回の投稿参照)から生まれ、1960年代末には、「胡蝶の夢」として、同様の作品を展覧会(exhibition)に出品している事から、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、相当、思い出深い作品であったと思われます。尚、翌年(1932年)から、この口絵ページは、単色又は2色刷りで、詩が掲載されるページとなりましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、ここに掲載される、西條 八十(saijyo yaso)や野口 雨情(noguchi ujyo)等の詩を飾る挿絵を描き続けました。

 

2月号に掲載された、「幸福の使者」は、決して、悪い絵ではなく、むしろ、第二次世界大戦後に、蕗谷 虹児(fukiya koji)が手掛けた、「令女界(reijyo kai)」の表紙を彷彿させるような、きりっとした目つきの美しい作品です。それでは、この2月号と6月号の作品(「幸福の使者」と「夢」)に対する読者の反応の違いは、いったい何故起こったのでしょうか。そこに、「令女界(reijyo kai)」の読者層は、誰なのかと言う問題が大きく絡んでくるのです。

 

前述の通り、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌、全てに描き続けましたが、「少女倶楽部(少女club)」の読者と「令女界(reijyo kai)」の読者とでは、10歳程の年齢差がある事を考えると、取り上げられる題材や描かれる絵柄は、全く違っていて当然と言えます。「少女倶楽部(少女club)」と「令女界(reijyo kai)」の中間に位置する、「少女の友」と「少女画報」は、可愛らしさ、快活さ、可憐さと言った物が、主な要素でした。これに対して、「令女界(reijyo kai)」は、結婚して大人の女性となるまで、あと一歩と言う、大人の色気を伴い、もはや、可愛いだけの少女ではなくなった、純真な少女と大人の女性の中間の、少女・若い女性層を対象としていました。もちろん絵ばかりでなく、内容も、他の、当時の日本の少女雑誌と比べて、かなり大人向けとなっていました。例えば、「令女界(reijyo kai)」の、人生相談欄には、しばしば性(sex)や結婚に関する質問や相談が寄せられました。その多くは、色恋についての現実生活に直面した悩み相談で、この種の質問は、当時の他の少女雑誌では、ほとんど見当たりません。また、「令女界(reijyo kai)」に掲載された小説には、10代後半の少女を読者対象とするのに、現代の我々からすると疑問に思われるような物が多くあります。例えば、北川 千代の「路遠く」は、主人公の姉が、遊び人の夫から梅毒を感染させられると言う、衝撃的な展開を見せます。他にも、裏切りの物語や男女の三角関係を取り上げた物等、(はしたない言い方をすれば)他人の不幸を楽しむ為の物語が多くなっています。「令女界(reijyo kai)」の読者層は、年齢層的に、少女と呼ぶには大人びた存在であり、しかし大人とも呼べない女性達でした。「令女界(reijyo kai)」の読者層に当たる年齢層の女性達は、過剰な好奇心に溢れている一方で、自らを守る意識も高く、無防備でありながら、守りが固く、無垢でありながら残酷であると言った、様々な矛盾した性質を有する存在です。彼女達は、火遊び程度の体験(それは、実現しない事を望むと言う意味で、彼女達にとっては、ロマンティック(romantic)な体験である)に憧れながらも、実際には、自分が傷つく事のない、ぎりぎりの線を楽しみたいのです。ここで、1931年の、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、「令女界(reijyo kai)」の為に描いた、2点の口絵に立ち返ってみると、ともに大人びた雰囲気の作品であったにも関わらず、「幸福の使者」にはなくて、「夢」にあったもの、それは、現実離れした、ロマンティック(romantic)な要素であり、前者が後者よりも、不人気だったのは、この要素が無かったからだと考えられます。現実的な大人の世界を描いていながら、同時にロマンティック(romantic)な物を見せてくれる事が、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性達が求めた物でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、他の少女雑誌では描き切れなかった、現実的な少女像、婦人(主婦・大人の女性)向けの雑誌では描けなかった、ロマンティック(romantic)な少女像を、同時に表現する事が可能でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、成長したい・成長したくない、大人になりたい・大人になりたくないと言う、「令女界(reijyo kai)」の読者の、少女・若い女性達の矛盾を、「令女界(reijyo kai)」における絵において、優しく強く表現し、「令女界(reijyo kai)」の読者の、少女・若い女性達は、自分達と等身大の、時には憧れの女性像を、「令女界(reijyo kai)」における、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵に見ていました。

 

 

表紙。1936年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「知性を感じさせる、毅然とした眼差しに、同時に誘いかける様なセクシャル(sexy)な魅力も含む、相反する二つの魅力を一身秘めた若い女性」を描くのを得意としていました。

 

 

 

左、表紙。1934年。右、表紙。1934年。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1934年8月から、満を持して、「令女界(reijyo kai)」の表紙の仕事を、しばらくぶりに再開しました。復帰後初となる表紙は、銀の特色を用いた豪華な物であり、編集部の意気込みが感じられます。「令女界(reijyo kai)」の読者の、少女・若い女性達の評判も上々だった様で、「茶和会」(「令女界(reijyo kai)」の読者投稿欄)には、「ブラヴォー(bravo)令女界(reijyo kai)。表紙素敵。やはり虹児(koji)先生になったのね。昔の令(rei)ちゃん(rei chan)(令女界(reijyo kai))を思い出す」、「今月は、思いがけなく虹児(koji)先生の表紙絵、薄物を纏った麗人、でも海の色が、あまり鮮やかで目に痛い」、「今月の表紙、なんて素敵、思わず、叫んじゃった」、「虹児(koji)先生の表紙、真夏を忘れさせる涼味(涼しそうな趣)。碧深き海、銀の波、理知の輝く瞳、永久に先生のみの絵である事を、お待ちします」等、熱烈な投書が多く集まりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「令女界(reijyo kai)」の表紙絵は、この後、1937年の1年間を除いて、日中戦争(1937年から1945年に、日本と中国の間で行われた戦争)の戦火が激しくなり始めた1938年いっぱいまで続きました。

 

「令女界(reijyo kai)」は、10代後半から20代前半の女性を対象とした雑誌であったので、表紙の女性像も、それ位の年齢の女性に設定されていたようです。その為、同時代の、他の少女雑誌に比べ、表紙に描かれた女性像は、顔立ちは大人びており、衣装も、すっきりして、スカーフ(scarf)の使いや、帽子のかぶり方等にセンス(taste)を感じさせ、着こなしの手本になる様な物が多くなっています。「令女界(reijyo kai)」は、記事も、同時代の、他の少女雑誌に比べ、やや大人めいており、美容に関する情報や、宝塚(takarazuka)歌劇団(Takarazuka Revue)や、欧米の映画スター(movie star)達の特集、そして複雑な男女関係を物語にした小説が、多く掲載されました。「令女界(reijyo kai)」の購読を、道徳ではないと言う理由から、禁ずる女学校もありましたが、この年頃の少女達の好奇心に蓋をする事は、難しかったのではないかと想像されます。「令女界(reijyo kai)」の読者欄には、熱中し愛読する少女達の姿が浮かんでくるような投稿が多くなっています。尚、「令女界(reijyo kai)」の執筆作家には、西條 八十(saijyo yaso)や堀口 大學(horiguchi daigaku)等の詩人を始め、川端 康成(kawabata yasunari)や北川 千代、龍胆寺 雄等、著名人が多く、「令女界(reijyo kai)」における、彼らの作品の多くが、蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵で飾られました。

 

 

左から、表紙(1934年)、表紙(1934年)、表紙(1938年)。

 

 

 

 

何れも表紙。1938年。

 

 

 

 

何れも表紙。1938年。

 

 

 

 

吉井 勇「相模野の夏」。口絵。1932年。

 

 

 

左、小林 英俊「乙女椿」。口絵。1937年。右、「春」。口絵。1935年。

 

 

 

 

「野末の野薔薇」。口絵原画。1930年。

 

 

 

 

井上 康文「恋情」。口絵原画。1935年。

 

 

 

 

「潮風」。口絵。1937年。

 

 

 

「花にくる蝶」。口絵原画。1936年。

 

 

 

写真以下4枚。「燃えない蝋燭」の挿絵原画。「燃えない蝋燭」は、1930年4月から1931年3月までの1年間、「令女界(reijyo kai)」に連載され、爆発的な人気を誇った、龍胆寺 雄の小説で、画家、彫刻家、中学生の3人兄弟を中心に、病弱な少女と快活な少女とが、共に次兄(上から2番目の兄)に、想いを寄せると言う、登場人物の親族が経営するホテルを舞台にした恋愛物語です。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「燃えない蝋燭」の挿絵において、挿絵を絵画のように見立て額縁を描き、そこにも凝った装飾を施す手法を取りました。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北川 千代「路遠く」。挿絵原画。1938年。「路遠く」は、北川 千代が、「令女界(reijyo kai)」に、1938年1月から6月まで連載した中編小説で、主人公の姉妹の、家庭や結婚に関する問題や、職業婦人(working woman)として自活して行く様子等が描かれています。

 

 

 

 

米澤 順子「彼女のプロフィル(profil)」。挿絵原画。1930年。

 

 

 

 

左、ささき ふさ「チコと」。挿絵原画。1930年。右、久野 豊彦「十年目の手紙」。挿絵原画。1930年。

 

 

 

 

藪田 義雄「雪のファンタジー(fantasy)」。挿絵原画。1936年。

 

 

 

 

「風呂屋の娘」。挿絵原画。1937年。

 

 

 

 

「蛇の目傘」。挿絵原画。1937年。

 

 

 

 

「大人の女」。挿絵原画。1937年。

 

 

 

「令女界(reijyo kai)」同様、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が多く掲載されたのが、「少女画報」、「少女の友」、「少女倶楽部(少女club)」等の少女雑誌でした。これ等の雑誌は、「令女界(reijyo kai)」と比べると読者の年齢層が少し下がる為、多くは12歳から16歳位の少女が描かれました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、各少女雑誌の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けました。例えば、「少女画報」には、活発そうで、都会的な少女を描いたのに対し、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を描きました。また、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌と比べると、大人しい少女を描きました。

 

写真以下3枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女画報」における作品例。

 

表紙原画。1933年。

 

 

写真以下2枚。全て表紙。1933年。

 

 

 

 

 

 

 

 

三木 真澄「生ける画像」。挿絵原画。1930年。

 

 

 

写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女の友」における作品例。


 

 

「ひなげし」。口絵原画。1936年。

 

 

 

 

何れも口絵。左から、「紅いフリーヂャ」(1936年)、「ささやき」(1937年)、「窓」(1937年)。

 

 

 

写真以下4枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女倶楽部(少女club)」における作品例。

 

「雪」。口絵。1927年。

 

 

 

 

上、目次。1933年。下、目次。1935年。

 

 

 

上、目次。1936年。下、目次。1937年。

 

 

 

北原 白秋「里ごころ」。挿絵。1940年。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌以外にも、「愛誦」、「蝋人形」等、幾つかの文芸雑誌や、「婦人画報」や「女性文化」と言った婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)等、様々な雑誌で活躍しました。

 

上、雑誌、「愛誦」の表紙原画。1932年。下、雑誌、「愛誦」の表紙。1932年。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、本の装幀(design・ cover art)や、レコードジャケット(record cover・album cover)のデザイン(design)の分野でも活躍しました。

 

写真以下5枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)が手掛けた、本の装幀(design・ cover art)例。

 

吉屋 信子(yoshiya nobuko。1896年生まれ。1973年に亡くなる。1910年代半ばから亡くなる近くまで活躍した、日本の女性小説家)作、「失楽の人々」。 1930年。

 

 

 

鶴見 祐輔「世界少女物語」。1940年。「世界少女物語」は、1934年から1935年頃に、「少女倶楽部(少女club)」に連載されていた、「世界少女読本」を纏めた本です。

 

 

 

鶴見 祐輔「世界少女物語」。表紙原画(右)と裏表紙原画(左)。1939年から1940年。

 

 

 

アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi。1834年生まれ。1872年に亡くなる。フィンランド(Finland)の戯曲家兼作家)作、「七人兄弟」。1942年。この本には、当時の、駐日フィンランド(Finland)公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)が序文を寄せています。

 

 

 

アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi)作、「七人兄弟」。挿絵原画。1941年から1942年。

 

 

 

写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)がデザイン(design)を手掛けた、レコードジャケット(record cover・album cover)の例。

 

 

「L’ARLESIENNE-EXCERPS Bizet」。1937年頃。

 

 

 

上、「Weber Album Tango」。1937年頃。下、「Hawaiian Album」。1937年頃。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌に特化せず、挿絵の仕事を始めた早い時期から、子供向けの絵も手掛けており(前回の投稿参照)、少女雑誌で人気作家になってからも、絵本や外国童話の挿絵には、積極的に取り組んでいました。

 

写真以下11枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の1930年代半ばから1940年代初めの、子供向けの出版物における作品例。


 

 

小島 政二郎「メヅサの首」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵原画。1934年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1930年代半ばから、子供向けの雑誌、「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵を描ました。

 

 

 

北川 千代「マチノテフテフ(街の喋々)」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵。1941年。

 

 

 

 

「銀座(ginza)」。「講談社(Kodansha)の絵本。東京見物」の挿絵原画。1937年。1936年に創刊した、講談社(Kodansha)の絵本シリーズ(series)は、「一流画家を総動員して」と言われる程の本であり、これに、しばしば登用された事は、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって名誉な事であったでしょう。彩色の丁寧な仕事ぶりに、幼い子供にこそ、良い絵を、と言う、蕗谷 虹児(fukiya koji)の意識が、よく表れています。

 

 

写真以下8枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1940年代初めに刊行された、講談社(kodansha)の、「世界名作童話」シリーズ(series)の内、「アラビアンナイト(One Thousand and One Nights)」、「アンデルセン(Andersen)の童話」に絵を描きました。

 

「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1941年。

 

 

写真以下2枚。「船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の挿絵原画。1941年。

 

 

 

 

 

 

 

「アリババと四十人の盗賊(Ali Baba and the Forty Thieves)」。世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の口絵原画。1941年。

 

 

「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1942年。

 

 

写真以下2枚。「おやゆび姫(Thumbelina)」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の挿絵原画。1942年。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「海つばめ」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の口絵原画。1942年。

 

 

 

雑誌、「令女界(reijyo kai)」の読者の、中流層以上の家庭の、10代後半から20代前半の女性が、華やかな化粧やファッション(服装)で、近代日本の少女・若い女性文化を満喫出来た時代は、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、少しずつ消滅して行きました。戦争によって、物資が乏しくなる時代において、華美な物や贅沢な物は、悪であるとする風潮が、はびこり、それは、雑誌の世界にも影響を及ぼしました。1938年に国家総動員法が施行され、出版統制が厳しくなると、華美で繊細であると言うだけの理由で、少女雑誌は、存在を危うくされ、蕗谷 虹児(fukiya koji)も、1939年以降、「令女界(reijyo kai)」の表紙を描く事が出来なくなりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦時色が濃くなるにつれ、制作の変更を余儀なくされます(軍から睨まれて、絵を描けなくなったら、どうしようもない為)。この様な時代の流れは、近代的で、お洒落な、また可憐な少女を描く事を得意としていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、大きな打撃でした。1940年12月6日に設置された内閣情報局を中心として、言論や報道への規制が徹底され、それに伴い、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活動する雑誌も検閲対象下に入りました。

 

1930年代後期から1940年代初めにおける、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、少女雑誌における作品には、軍国主義と少女らしさの折衷を模索する、苦心の跡が感じられる作品が見られます。特に、「令女界(reijyo kai)」における作品には、軍国色の強くなる時流の中で、いかに、従来、「令女界(reijyo kai)」が持っていたエレガント(elegance)さを表現するかと言う葛藤が感じ取れる、軍から睨まれず(軍の意向に反発せず)、それでいて、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性が目にするに相応しい物、その、ぎりぎりの境界を探っている様な作品が見られます。

 

 

「彼への贈り物」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。

 

 

 

「そして今年も逝く」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。

 

 

 

「お店の、お嬢さん」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」。1938年。戦争下、女性の服装から華美な物が、徐々に排斥されていきました。初めは、推奨服であった、もんぺ(monpe)が、1940年代以降、強制圧力が強まり、戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました(女学生については強制)。最も、お洒落に敏感で、可愛くある事が必須である、少女・若い女性達にとって、もんぺ(monpe)を身に着ける事は、辛い事であったでしょう。この絵は、もんぺ(monpe)を着なければならないのならば、せめて、少しでも素敵に着ようと言う、説得効果を、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性達に対してもたらしたと思われます。

 

 

「慰問品売り場にて」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」。1938年。

 

 

 

 

「いくさ(戦)の物語」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1939年。

 

 

 

 

「荒磯」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1940年。

 

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、出版統制が厳しくなってからも、雑誌の口絵や挿絵の仕事において、時流との折衷点や打開策を模索しながら制作を続けていましたが、1942年頃からは、雑誌の仕事は、文芸雑誌である、「あきつ」と「防人」を主とする様になり、代わりに、軍事色の強い、絵や、書籍の装幀(design)を手掛けました。しかし、1944年には、一切の制作を止め、神奈川(kanagawa)県、山北(yamakita)町に疎開し、第二次世界大戦が終わるまで、作品を発表する事はありませんでした。

 

「天兵神助」。1943年。この作品は、第3回航空美術展覧会に出品された作品で、従軍画家ではなかった蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、軍国主義に身を置いて描いた、数少ない作品です。航空美術展覧会は、1941年から1943年までの、全三回、高島屋(Takashimaya)デパート、日本橋(nihonbashi)店で行われた、展覧会(exhibition)です。この絵は、崩れ落ちる航空兵を、古代兵が、胸に抱きながらも敵に向かおうとしている(あるいは、味方を鼓舞している)所が、描かれています。

 

 

 

横浜での食事と展覧会3へ続く。。。

 

 

 

 



요코하마에서의 식사와 전람회 2

 

 

조금 전의 일입니다만, 작년의 7월에, 요코하마에서의 일의 용무의 사이에, 소고(sogo) 백화점 요코하마 점내에 있는 미술관에서, 이 때 행해지고 있던, 후키곡홍아(fukiya koji)의 전람회(exhibition)를 보고 왔을 때의 물건입니다.

 

이하, 요코하마에서의 식사와 전람회 1으로부터의 계속...

 

사진 이하 2매.커피관(coffee관)(찻집의 체인(chain) 점)의 요코하마역 주변의 점포에서 먹은, 이 날의 저녁 식사.나는, 솔직하게 가서, 커피(coffee)의 맛은, 잘 모릅니다만, 커피관(coffee관)의 커피(coffee)는, 개인적으로, 꽤, 맛있다고 생각합니다.

 

 

 

알, 햄(ham), 치즈(cheese)의, 포캇체(focaccia) 샌드위치(sandwich).한시기, 커피관(coffee관)의, 포캇체(focaccia) 샌드위치(sandwich)는, 마음에 드는 것이었습니다.

 

 

 

점심 식사라면, 양적으로, 위의 샌드위치(sandwich)만으로 충분합니다만, 저녁 식사라고, 양적으로, 조금 어딘지 부족하기 때문에, 이제(벌써) 일품.명란(meitaiko)의 크림 파스타(cream pasta).

 

 

 

 

사진 이하, 이 후키곡홍아(fukiya koji)(아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)의 설명의 계속...
후키곡홍아(fukiya koji):1898년, 니가타(niigata) 현 태생.1979년에 죽는다.아버지는, 신문기자.1920년대부터 1970년대에 활약한, 일본의 유명한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator)로, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo) 등과 함께, 일본의 소녀 만화의 화풍의 원형을 만든 작가입니다.덧붙여서, 개인적인 이야기입니다만, 죽은, 나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 같습니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 만년이 되어도, 후키곡홍아(fukiya koji)의 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

 

이하, 후키곡홍아(fukiya koji) 및, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품에 관한 설명은, 이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)의 문장을, 참고 또는 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터, 「소녀의 친구」, 「소녀 화보」, 「령녀계(reijyo kai)」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의, 당시의, 일본의 대표적인 소녀 잡지, 모두에 계속 그렸습니다만 , 안에서도, 「령녀계(reijyo kai)」는, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 스스로의 가지는 힘을 전개시키는 일을 할 수 있다, 가장 중요한 무대가 된 잡지입니다.당초, 「령녀계(reijyo kai)」가, 대상 연령으로 하고 있던 것은, 다른 소녀 잡지와 같았습니다만, 창간으로부터 수년후의, 1920년대 중반무렵부터, 대상 연령이 올라, 대상 연령은, 여학교(제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)가 다닌, 여자 전용의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학과 고등학교에 해당된다)의 고학년으로부터, 여학교를 졸업하고 나서 결혼할 때까지의 여성(주로, 17세부터 20대 전반)이 되어, 「령녀계(reijyokai)」는, 소녀와 주부의 사이에 있는, 「미혼의 여성」을 대상으로 한, 일본에서 최초의 잡지가 되었습니다.일본에서는, 1910년대 중반무렵부터, 직업을 가지는 여성도 증가해 결혼 연령도 서서히 올라, 「미혼 여성」이 증가했습니다.그러한 사회 상황을, 재빨리 대응하고, 지금까지의 소녀 잡지와 여성 잡지(주부용의 잡지)의, 중간적인 연령층을 구매자로 했던 것이, 「령녀계(reijyo kai)」였습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyo kai)」에 두고, 가련한 소녀가 아니고, 가정의 냄새를 가진 주부도 아닌, 누구에게도 종속되지 않는, 독립한 여성의 매력을, 눈에 보이는 형태로, 독자에게 나타냈습니다.

 

사진 이하, 이 전람회(exhibition)의 전시 작품예(1920년대 후기부터 제이차 세계대전까지의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품예).이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다... 모두, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품입니다.

 

사진 이하 32매.1920년대 후기부터 1930년대의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품예(도중 , 「나비의 꿈」을 제외한다).

 

「산의 아가씨」표지 원화.1928년.

 

 

 

「꽃의 나라의 아가씨」.표지 원화.1928년.

 

 

 

「신록」.표지 원화.1928년.

 

 

「수초의 꽃」.표지 원화.1928년.

 

 

 

「교외의 가을」.표지 원화.1928년.

 

 

사진 이하 2매.에마 나가시 「고민을 이라고 눌러」(이야기의 내용은, 불우한 여성 피아니스트의 파란으로 가득 찬 생애)의, 삽화 원화.1927년부터 1929년.

 

 

 

 

 

 

 

1929년부터 1930년에 걸친 「령녀계(reijyo kai)」냄새나서는, 목차의 다음은, 뉴스(news) 사진이 지면을 묻고 있었습니다.삽화보다 사진에 중점이 놓여져 있었습니다.거기에 변화가 나타난 것은, 1931년의 신년호입니다.호화로운 풀 컬러(full-color)의 좌우 양면 삽화가 1년간을 통하고, 매호 실리는 것처럼 되었습니다.삽화란, 문자의 도움을 빌리는 무사히, 그림 그 자체로, 세계를 표현하는, 잡지에 대해서는, 표지에 뒤잇는, 중요한 가치를 가지는 것입니다.특히 삽화 중(안)에서도, 풀 컬러(full-color)의 삽화는, 화가가 색의 나오는 태도까지 구애받는 중요한 것입니다.

 

 

「행복의 사자」.삽화.1931년.

 

 

 

 

「꿈」.삽화.1931년.

 

 

 

 

「나비의 꿈」.1968년.

 

 

1931년의, 「령녀계(reijyo kai)」의, 호화로운 삽화로, 후키곡홍아(fukiya koji)가 등장한 것은, 2월호와 6월호였습니다.특히, 6월호에서는, 위로 돌려의 여성의 옆 얼굴과 나비가, 어슴푸레한 배경으로 용해한, 「꿈」을 발표해, 대반향을 불렀습니다.「다화회」라고 하는, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자 투고란에 전해진, 16건의 코멘트중, 「꿈」에 대해 쓰여져 있는 투고는, 7건에 달해, 「훌륭하고 고상한 작품」, 「아름다운 색 취해, 숭고한 프로필(profil)은, 정말로 꿈같네요.어느 신비를 느꼈습니다」, 「이 그림은, 그림이라고 말하는 것보다, 너무 시적입니다.이 그림으로부터 받는 느낌은 시적인 환상입니다」등 , 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의 소녀·젊은 여성들로부터, 절찬되었습니다(덧붙여서, 동년 2월호에 실린, 「행복의 사자」에 대한 코멘트는 2건이었습니다).「꿈」의 구상은, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 프랑스의 잡지, 「환타 지오」를 위해 그린 삽화(전회의 투고 참조)로부터 태어나 1960년대말에는, 「나비의 꿈」으로서, 같은 작품을 전람회(exhibition)에 출품하고 있는 일로부터, 후키곡홍아(fukiyakoji)에 있어서, 상당, 추억 깊은 작품이었다고 생각됩니다.상, 다음 해(1932년)부터, 이 삽화 페이지는, 단색 또는 2 컬러인쇄로, 시가 게재되는 페이지가 되었습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 여기에 게재되는, 사이죠80(saijyo yaso)이나 노구치 우죠(noguchi ujyo) 등의 시를 장식하는 삽화를 계속 그렸습니다.

 

2월호에 게재된, 「행복의 사자」는, 결코, 나쁜 그림이 아니고, 오히려, 제이차 세계대전 후에, 후키곡홍아(fukiya koji)가 다룬, 「령녀계(reijyo kai)」의 표지를 방불 시키는, 송곳로 한 눈초리의 아름다운 작품입니다.그러면, 이 2월호와 6월호의 작품( 「행복의 사자」와「꿈」)에 대한 독자의 반응의 차이는, 도대체 왜 일어났는지요.거기에, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자층은, 누구인가라고 하는 문제가 크게 관련되어 옵니다.

 

상술한 대로, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 1920년대부터, 「소녀의 친구」, 「소녀 화보」, 「령녀계(reijyo kai)」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의, 당시의, 일본의 대표적인 소녀 잡지, 모두에 계속 그렸습니다만 , 「소녀 클럽(소녀 club)」의 독자와 「령녀계(reijyo kai)」의 독자와는, 10세 정도의 연령차이가 있는 일을 생각하면, 다루어지는 소재나 그려지는 도안은, 완전히 차이가 나 당연이라고 말할 수 있습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」과「령녀계(reijyo kai)」의 중간에 위치하는, 「소녀의 친구」와「소녀 화보」는, 사랑스러움, 쾌활함, 가련함이라고 한 것이, 주된 요소였습니다.이것에 대해서, 「령녀계(reijyo kai)」는, 결혼해 어른의 여성이 될 때까지, 나머지 한 걸음이라고 말하는, 어른의 성적 매력을 수반해, 이미, 사랑스러운 것뿐의 소녀는 아니게 된, 순진한 소녀와 어른의 여성의 중간의, 소녀·젊은 여성층을 대상으로 하고 있었습니다.물론 그림 뿐만이 아니라, 내용도, 다른, 당시의 일본의 소녀 잡지와 비교해서, 꽤 어른용이 되고 있었습니다.예를 들면, 「령녀계(reijyokai)」의, 인생 상담란에는, 자주 성(sex)이나 결혼에 관한 질문이나 상담이 전해졌습니다.그 많게는, 변색에 대한 현실 생활에 직면한 고민 상담으로, 이런 종류의 질문은, 당시의 다른 소녀 잡지에서는, 거의 눈에 띄지 않습니다.또, 「령녀계(reijyo kai)」에 게재된 소설에는, 10대 후반의 소녀를 독자 대상으로 하는데, 현대의 우리로부터 한다고 의문에 생각되는 것이 많이 있습니다.예를 들면, 기타가와 지요의 「로 멀고」는, 주인공의 언니(누나)가, 건달의 남편으로부터 매독을 감염 당한다고 하는, 충격적인 전개를 보입니다.그 밖에도, 배반의 이야기나 남녀의 삼각 관계를 채택한 것등 , (상스러운 말투를 하면) 타인의 불행을 즐기기 때문에(위해)의 이야기가 많아지고 있습니다.「령녀계(reijyo kai)」의 독자층은, 연령층적으로, 소녀라고 부르려면 어른스러워진 존재이며, 그러나 어른이라고도 부를 수 없는 여성들이었습니다.「령녀계(reijyokai)」의 독자층에 해당되는 연령층의 여성들은, 과잉인 호기심에 흘러넘치고 있는 한편으로, 스스로를 지키는 의식도 높고, 무방비면서, 방비가 단단하고, 번뇌에서 벗어나 깨끗함이면서 잔혹하다라고 말한, 여러가지 모순된 성질을 가지는 존재입니다.그녀들은, 불장난 정도의 체험(그것은, 실현되지 않는 것을 바란다고 하는 의미로, 그녀들에게 있어서는, 로맨틱(romantic)인 체험이다)을 동경하면서도, 실제로는, 자신이 다치는 일이 없는, 최대한의 선을 즐기고 싶습니다.여기서, 1931년의, 후키곡홍아(fukiya koji)가, 「령녀계(reijyo kai)」를 위해 그린, 2점의 삽화로 되돌아와 보면 ,함께 어른스러워진 분위기의 작품이었음에도 관련되지 않고, 「행복의 사자」에게는 없어, 「꿈」에 있던 것, 그것은, 현실과 동떨어진, 로맨틱(romantic)인 요소이며, 전자가 후자보다, 불인기였던 것은, 이 요소가 없었기 때문이다라고 생각됩니다.현실적인 어른의 세계를 그리고 있으면서 , 동시에 로맨틱(romantic)인 솜씨를 보여주는 것이, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자인, 소녀·젊은 여성들이 요구한 것이었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「령녀계(reijyokai)」에 두고, 다른 소녀 잡지에서는 다 그릴 수 없었다, 현실적인 소녀상, 부인(주부·어른의 여성) 보내의 잡지에서는 그릴 수 없었다, 로맨틱(romantic)인 소녀상을, 동시에 표현하는 것이 가능했습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 성장하고 싶은·성장하고 싶지 않은, 어른이 되고 싶은·어른이 되고 싶지 않다고 하는, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 소녀·젊은 여성들의 모순을, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 그림에 대하고, 상냥하고 강하게 표현해, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 소녀·젊은 여성들은, 자신들과 등신대의, 가끔 동경의 여성상을, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의, 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림에 보고 있었습니다.

 

 

표지.1936년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「지성을 느끼게 하는, 의연히 한 시선에, 동시에 유혹하는 것 같은 섹슈얼(sexy)인 매력도 포함한, 상반되는 두 개의 매력을 일신 숨긴 젊은 여성」을 그리는 것을 자랑으로 여기고 있었습니다.

 

 

 

왼쪽, 표지.1934년.오른쪽, 표지.1934년.

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 1934년 8월부터, 만반의 준비를 하고, 「령녀계(reijyo kai)」의 표지의 일을, 오랫만에 재개했습니다.복귀 후 처음이 되는 표지는, 은의 특색을 이용한 호화로운 것이며, 편집부의 자세가 느껴집니다.「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 소녀·젊은 여성들의 평판도 최상이었다 같고, 「다화회」( 「령녀계(reijyo kai)」의 독자 투고란)에는, 「브라보(bravo) 령녀계(reijyo kai).표지 수려.역시 홍아(koji) 선생님이 되었군요.옛 령(rei) (rei chan)(령녀계(reijyo kai))를 생각해 낸다」, 「이번 달은, 생각치 못하고 홍아(koji) 선생님의 표지그림, 얇은 옷감을 감긴 미인, 그렇지만 바다의 색이, 너무 선명하고 눈에 아프다」, 「이번 달의 표지, 뭐라고 하는 수려, 무심코, 외쳐 버렸다」, 「홍아(koji) 선생님의 표지, 한 여름을 잊게 하는 시원한 맛(시원한 것 같은 정취).벽심 나무해, 은의물결, 이지가 빛나는 눈동자, 영구히 선생님만의 그림인 일을, 기다리겠습니다」등 , 열렬한 투서가 많이 모였습니다.후키곡홍아(fukiya koji)의, 「령녀계(reijyokai)」의 표지그림은, 이 후, 1937년의 1년간을 제외하고, 중일 전쟁(1937년부터 1945년에, 일본과 중국의 사이에 행해진 전쟁)의 전화가 격렬해지기 시작한 1938 년 내내까지 계속 되었습니다.

 

「령녀계(reijyo kai)」는, 10대 후반부터 20대 전반의 여성을 대상으로 한 잡지였으므로, 표지의 여성상도, 그것위의 연령의 여성으로 설정되어 있던 것 같습니다.그 때문에, 동시대의, 다른 소녀 잡지에 비해, 표지에 그려진 여성상은, 얼굴 생김새는 어른스러워지고 있어 의상도, 시원해지고, 스카프(scarf)의 사용이나, 모자의 쓰는 방법 등에 센스(taste)를 느끼게 해 잘 차려입은 표본이 되는 것 같은 것이 많아지고 있습니다.「령녀계(reijyo kai)」는, 기사도, 동시대의, 다른 소녀 잡지에 비해, 약간 어른인 듯하고 있어 미용에 관한 정보나, 다카라즈카(takarazuka) 가극단(Takarazuka Revue)이나, 구미의 영화 스타(movie star) 들의 특집, 그리고 복잡한 남녀관계를 이야기로 한 소설이, 많이 게재되었습니다.「령녀계(reijyo kai)」의 구독을, 도덕은 아니라고 하는 이유로부터, 금하는 여학교도 있었습니다만, 이 년경의 소녀들의 호기심에 뚜껑을 하는 일은, 어려웠기 때문에는 없을까 상상됩니다.「령녀계(reijyo kai)」의 독자란에는, 열중해 애독하는 소녀들의 모습이 떠올라 오는 투고가 많아지고 있습니다.상, 「령녀계(reijyo kai)」의 집필 작가에게는, 사이죠80(saijyo yaso)이나 호리구치 대학(horiguchi daigaku) 등의 시인을 시작해 가와바타 야스나리(kawabata yasunari)나 기타가와 지요, 류탄지 유등 , 저명인이 대부분, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의, 그들의 작품의 대부분이, 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림으로 장식되었습니다.

 

 

왼쪽에서, 표지(1934년), 표지(1934년), 표지(1938년).

 

 

 

 

어느 쪽도 표지.1938년.

 

 

 

 

어느 쪽도 표지.1938년.

 

 

 

 

요시이 이사무 「사가미들의 여름」.삽화.1932년.

 

 

 

왼쪽, 코바야시 히데토시 「아가씨츠바키」.삽화.1937년.오른쪽, 「봄」.삽화.1935년.

 

 

 

 

「들가의 찔레나무」.삽화 원화.1930년.

 

 

 

 

이노우에 야스시문 「연정」.삽화 원화.1935년.

 

 

 

 

「바닷바람」.삽화.1937년.

 

 

 

「꽃에 오는 나비」.삽화 원화.1936년.

 

 

 

사진 이하 4매.「불타지 않는 초」의 삽화 원화.「불타지 않는 초」는, 1930년 4월부터 1931년 3월까지의 1년간, 「령녀계(reijyo kai)」에 연재되어 폭발적인 인기를 자랑한, 류탄지 유의 소설로, 화가, 조각가, 중학생의 3 형제를 중심으로, 병약한 소녀와 쾌활한 소녀가, 모두 차형(위로부터 2번째의 형(오빠))에게, 구상을 댄다고 하는, 등장 인물의 친족이 경영하는 호텔을 무대로 한 연애 이야기입니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「불타지 않는 초」의 삽화에 대하고, 삽화를 회화와 같이 진단 액자를 그려, 거기에도 엉긴 장식을 가하는 수법을 취했습니다.


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

기타가와 지요 「로 멀고」.삽화 원화.1938년.「로 멀고」는, 기타가와 지요가, 「령녀계(reijyo kai)」에, 1938년 1월부터 6월까지 연재한 중편 소설로, 주인공의 자매의, 가정이나 결혼에 관한 문제나, 직업부인(working woman)으로서 자활 하고 가는 모습등이 그려져 있습니다.

 

 

 

 

미 사와 쥰코 「그녀의 프로필(profil)」.삽화 원화.1930년.

 

 

 

 

왼쪽, 기부함 「치코와」.삽화 원화.1930년.오른쪽, 쿠노 토요히코 「10년째의 편지」.삽화 원화.1930년.

 

 

 

 

야부타 요시오 「눈의 환타지(fantasy)」.삽화 원화.1936년.

 

 

 

 

「대중목욕탕의 딸(아가씨)」.삽화 원화.1937년.

 

 

 

 

「일본의 우산」.삽화 원화.1937년.

 

 

 

 

「어른의 여자」.삽화 원화.1937년.

 

 

 

「령녀계(reijyo kai)」같이, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품이 많이 게재되었던 것이, 「소녀 화보」, 「소녀의 친구」, 「소녀 클럽(소녀 club)」등의 소녀 잡지였습니다.이것등의 잡지는, 「령녀계(reijyo kai)」라고 비교하면 독자의 연령층이 조금 내리기 때문에(위해), 많게는 12세부터 16세 정도의 소녀가 그려졌습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 각 소녀 잡지의 성격에 맞추고, 소녀의 타입(성질)을 그려 나누었습니다.예를 들면, 「소녀 화보」에는, 활발 그렇고, 도시적인 소녀를 그린 것에 대해, 「소녀의 친구」에게는, 품위있고 얌전한 분위기를 가지는 따님(좋은 집안의 낭) 풍의 소녀를 그렸습니다.또, 초등학교 5, 6 학년을 기준에 자리잡아 초등학교 고학년으로부터 여학교 저학년(10세부터 14세 전후)을 대상으로 한, 「소녀 클럽(소녀 club)」에는, 소박한, 다른 잡지와 비교하면, 얌전한 소녀를 그렸습니다.

 

사진 이하 3매.후키곡홍아(fukiya koji)의 「소녀 화보」에 있어서의 작품예.

 

표지 원화.1933년.

 

 

사진 이하 2매.모두 표지.1933년.

 

 

 

 

 

 

 

 

미키 마스미 「살리는 화상」.삽화 원화.1930년.

 

 

 

사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiya koji)의 「소녀의 친구」에 있어서의 작품예.


 

 

「병아리 하지」.삽화 원화.1936년.

 

 

 

 

어느 쪽도 삽화.왼쪽에서, 「다홍색 있어 후리쟈」(1936년), 「속삭임」(1937년), 「창」(1937년).

 

 

 

사진 이하 4매.후키곡홍아(fukiya koji)의 「소녀 클럽(소녀 club)」에 있어서의 작품예.

 

「눈」.삽화.1927년.

 

 

 

 

위, 목차.1933년.아래, 목차.1935년.

 

 

 

위, 목차.1936년.아래, 목차.1937년.

 

 

 

키타하라하쿠슈 「사토 무렵」.삽화.1940년.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지 이외에도, 「애송」, 「납인형」등 , 몇개의 문예 잡지나, 「부인 화보」나 「여성 문화」라고 한 부인 잡지(주부·어른의 여성취향의 잡지) 등 , 여러가지 잡지로 활약했습니다.

 

위, 잡지, 「애송」의 표지 원화.1932년.아래, 잡지, 「애송」의 표지.1932년.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 책의 장정(design· cover art)이나, 레코드 쟈켓(record cover·album cover)의 디자인(design)의 분야에서도 활약했습니다.

 

사진 이하 5매.후키곡홍아(fukiya koji)가 다룬, 책의 장정(design· cover art) 례.

 

요시야 노부코(yoshiya nobuko.1896 년생.1973년에 죽는다.1910년대 중반부터 죽는 근처까지 활약한, 일본의 여성 소설가) 작, 「실락의 사람들」. 1930년.

 

 

 

츠루미 유스케 「세계 소녀 이야기」.1940년.「세계 소녀 이야기」는, 1934년부터 1935년경에, 「소녀 클럽(소녀 club)」에 연재되고 있던, 「세계 소녀 독본」을 모은 책입니다.

 

 

 

츠루미 유스케 「세계 소녀 이야기」.표지 원화( 오른쪽)와 표리 카미하라화(왼쪽).1939년부터 1940년.

 

 

 

알렉시스·키비(Aleksis Kivi.1834 년생.1872년에 죽는다.핀란드(Finland)의 희곡가겸 작가) 작, 「일곱 명 형제」.1942년.이 책에는, 당시의, 주일 핀란드(Finland) 공사(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)가 서문을 보내고 있습니다.

 

 

 

알렉시스·키비(Aleksis Kivi) 작, 「일곱 명 형제」.삽화 원화.1941년부터 1942년.

 

 

 

사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiya koji)가 디자인(design)을 다룬, 레코드 쟈켓(record cover·album cover)의 예.

 

 

「L’ARLESIENNE-EXCERPS Bizet」.1937년경.

 

 

 

위, 「Weber Album Tango」.1937년경.아래, 「Hawaiian Album」.1937년경.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 소녀 잡지에 특화하지 않고, 삽화의 일을 시작한 빠른 시기부터, 어린이용의 그림도 다루고 있어(전회의 투고 참조), 소녀 잡지로 인기 작가가 되고 나서도, 그림책이나 외국 동화의 삽화에는, 적극적으로 임하고 있었습니다.

 

사진 이하 11매.후키곡홍아(fukiya koji)의 1930년대 중반부터 1940년대 초의, 어린이용의 출판물에 있어서의 작품예.


 

 

고지마 마사지로 「메즈사의 목」.「유년 클럽(유년 club)」의 삽화 원화.1934년.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1930년대 중반부터, 어린이용의 잡지, 「유년 클럽(유년 club)」의 삽화를 묘했다.

 

 

 

기타가와 지요 「마치노테후테후(거리의 첩들)」.「유년 클럽(유년 club)」의 삽화.1941년.

 

 

 

 

「긴자(ginza)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책.도쿄 구경」의 삽화 원화.1937년.1936년에 창간 한, 코단샤(Kodansha)의 그림책 시리즈(series)는, 「일류 화가를 총동원해」라고 해질 정도의 책이며, 이것에, 자주 등용된 일은, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서 명예로운 일이었겠지요.채색의 정중한 일하는 태도에, 어린 아이에게야말로, 좋은 그림을, 이라고 말하는, 후키곡홍아(fukiya koji)의 의식이, 잘 나타나고 있습니다.

 

 

사진 이하 8매.후키곡홍아(fukiya koji)는, 1940년대 초에 간행된, 코단샤(kodansha)의, 「세계 명작 동화」시리즈(series)중, 「아라비안나이트(One Thousand and One Nights)」, 「앤더슨(Andersen)의 동화」에 그림을 그렸습니다.

 

「세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」.1950년(제이차 세계대전 후의, 재간행(재출판) 판).초판은, 1941년.

 

 

사진 이하 2매.「선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」.「세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」의 삽화 원화.1941년.

 

 

 

 

 

 

 

「알리바바와 40명의 도적(Ali Baba and the Forty Thieves)」.세계 명작 동화 전집.선원 신드밧드(Sinbad the Sailor)」의 삽화 원화.1941년.

 

 

「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」.1950년(제이차 세계대전 후의, 재간행(재출판) 판).초판은, 1942년.

 

 

사진 이하 2매.「엄지공주(Thumbelina)」.「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」의 삽화 원화.1942년.


 

 

 

 

 

 

 

 

 

「바다 제비」.「세계 명작 동화 전집 엄지공주(Thumbelina)」의 삽화 원화.1942년.

 

 

 

잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자의, 중류층 이상의 가정의, 10대 후반부터 20대 전반의 여성이, 화려한 화장이나 패션(복장)으로, 근대 일본의 소녀·젊은 여성 문화를 만끽 할 수 있었던 시대는, 1937년에 발발한 중일 전쟁(일본과 중국의 사이의 전쟁) 이후, 조금씩 소멸해 갔습니다.전쟁에 의해서, 물자가 부족해지는 시대에 두고, 화려한 것이나 사치스러운 물건은, 악이다고 하는 풍조가, 횡행해, 그것은, 잡지의 세계에도 영향을 미쳤습니다.1938년에 국가 총동원법이 시행되어 출판 통제가 어려워지면, 화려하고 섬세하다라고 말하다는 이유만으로, 소녀 잡지는, 존재를 위험하게 여겨져 후키곡홍아(fukiya koji)도, 1939년 이후, 「령녀계(reijyo kai)」의 표지를 그릴 수가 없게 되었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 전시색이 진해지는 것에 따라, 제작의 변경을 피할수 없게 됩니다(군으로부터 감시받고, 그림을 그릴 수 없게 되면, 어쩔 수 없기 때문에).이와 같은 시대의 흐름은, 근대적이고, 세련된, 또 가련한 소녀를 그리는 일을 자랑으로 여기고 있던, 후키곡홍아(fukiyakoji)에 있어서, 큰 타격이었습니다.1940년 12월 6일에 설치된 내각 정보국을 중심으로서 언론이나 보도에의 규제가 철저되어 거기에 따라, 후키곡홍아(fukiya koji)의 활동하는 잡지도 검열 대상하에 들어갔습니다.

 

1930년대 후기부터 1940년대 초에 있어서의, 후키곡홍아(fukiya koji)의, 소녀 잡지에 있어서의 작품에는, 군국주의와 소녀다움의 절충을 모색하는, 고심의 자취가 느껴지는 작품을 볼 수 있습니다.특히, 「령녀계(reijyo kai)」에 있어서의 작품에는, 군국색의 강해지는 시류 중(안)에서, 얼마나, 종래, 「령녀계(reijyo kai)」가 가지고 있던 엘레강트(elegance) 를 표현하는가 하는 갈등을 감지할 수 있는, 군으로부터 감시받지 않고(군의 의향에 반발하지 않고), 그래서 있고, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자인, 소녀·젊은 여성이 보는에 적당한 것, 그, 최대한의 경계를 찾고 있는 것 같은 작품을 볼 수 있습니다.

 

 

「그에게의 선물」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1937년.

 

 

 

「그리고 금년도 돌아가신다」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1937년.

 

 

 

「가게의, 아가씨」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」.1938년.전쟁하, 여성의 복장으로부터 화려한 것이, 서서히 배척되어서 갔습니다.처음은, 추천옷인, 몸빼(monpe)가, 1940년대 이후, 강제 압력이 강해져, 전국 악화에 수반해, 공습시의 방공용으로 여성의 착용이 의무지워져 반 강제당했습니다(여학생에 대해서는 강제).가장, 세련되게 민감하고, 사랑스럽게 있는 것이 필수인, 소녀·젊은 여성들에게 있어서, 몸빼(monpe)를 몸에 대는 일은, 괴로운 일이었겠지요.이 그림은, 몸빼(monpe)를 입지 않으면 안 되는 것이라면, 적어도, 조금이라도 멋지게 입자고 한다, 설득 효과를, 「령녀계(reijyo kai)」의 독자인, 소녀·젊은 여성들에 대해서 가져왔다고 생각됩니다.

 

 

「위문품 판매장에서」.잡지, 「소녀 클럽(소녀 club)」.1938년.

 

 

 

 

「전쟁(싸움)의 이야기」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1939년.

 

 

 

 

「파도가 몰아치는 갯바위」.잡지, 「령녀계(reijyo kai)」의 삽화.1940년.

 

 

 

후키곡홍아(fukiya koji)는, 출판 통제가 어려워지고 나서도, 잡지의 삽화나 삽화의 일에 대하고, 시류와의 절충점이나 타개책을 모색하면서 제작을 계속하고 있었습니다만, 1942년경부터는, 잡지의 일은, 문예 잡지인, 「잠자리」와「방인(옛날에 칸토지방에 파견된」을 주로 하는 것처럼 되어, 대신에, 군사색의 강한, 그림이나, 서적의 장정(design)을 다루었습니다.그러나, 1944년에는, 모두의 제작을 멈추어 카나가와(kanagawa) 현, 산북(yamakita) 마을에 피난 해, 제이차 세계대전이 끝날 때까지, 작품을 발표하는 일은 없었습니다.

 

「신이 이끄는 부대 신조」.1943년.이 작품은, 제3 회항하늘 미술전람회에 출품된 작품으로, 종군 화가는 아니었던 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서, 군국주의에 몸을 두어 그린, 얼마 안되는 작품입니다.항공 미술전람회는, 1941년부터 1943년까지의, 전3회, 다카시마야(Takashimaya) 백화점, 니혼바시(nihonbashi) 점에서 행해진, 전람회(exhibition)입니다.이 그림은, 붕괴되는 항공병을, 고대병이, 가슴에 안으면서도 적을 향하려 하고 있는(혹은, 아군을 고무 하고 있다) 곳이, 그려져 있습니다.

 

 

 

요코하마에서의 식사와 전람회 3에 계속 된다...

 

 

 

 


 



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