3月の半ばの週末に、近場で、遊んで来た時の物です。土曜日は、個人的に仕事だったのですが、翌日の日曜日は、休みだったので、近場で遊んで来ました。
昼食は、私の街の北部に有る中国料理レストランで食べました。このレストランは、まだ、オープン(open)してから、それ程、経っていませんが、私の街で、お気に入りの中国料理レストランの一つとなっています。前菜の盛り合わせ、平貝と牡蠣を使った料理、海鮮(seafood)スープ(soup)鍋、海栗(ウニ)・蟹丼、マンゴー(mango)プリン(pudding)、杏仁豆腐(almond pudding)を食べました。残念ながら、お店で、料理の写真の撮影は、お断りしておりますと言う事なので。。。
替わりに、昨年の、お正月用(まあ、大晦日に食べてしまいましたが。。。)に注文した、このレストランの、お節(osechi)料理(下の補足説明参照)です(enjoyにアップ(upload)した写真の再利用)。この店が、オープン(open)した年(一昨年)に、この店のお節(osechi)料理は、どんな物かと注文してみた物です。値段に比べて、内容が、個人的に、少し不満足だったので、今年の、お正月用の、お節(osechi)料理は、この店では、注文しませんでした。
お節(osechi)料理:日本の家庭で、伝統的に、正月に食べられている料理で、正月に、主婦が、家事から開放される様にと?、保存が効く料理が中心となっています。昔は、お節(osechi)料理は、家庭の主婦が作るのが主流でしたが、お節(osechi)料理は、作るのに手間が、かかるので、女性の社会進出が進み、専業主婦の割合が減るにつれて?、市販の、お節(osechi)料理が、popularとなって来ました。昔は、お節(osechi)料理は、当然、日本料理でしたが、現在は、高級日本料理屋以外(例えばフランス料理レストランや中国料理レストラン)でも、お節(osechi)料理を、menuに加えて、予約注文を受け付けている所が有ります。また、マートの、お節(osechi)料理も、かなり一般的となっています。
昼食後、東京中心部(東京23区)の西部(中心寄りの西部)に位置する新宿区の北西部(落合(ochiai)・中井(nakai)area)に有る、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を訪れました。
新宿区の北西部(落合(ochiai)・中井(nakai)area)には、新宿(新宿区で中心且つ最大の繁華街。新宿区の西端に位置する。東京最大級の繁華街の一つ)から西武(seibu)線を使って行きました(都営大江戸(toeiooedo)線を使っても行けますが、個人的に、都営大江戸(toeiooedo)線の狭い車両は、何か窮屈に感じられて、居心地が良く無いし、また、速度が遅い(遅く感じるだけ?)のが、何か、じれったいのでw。。。)。西武(seibu)線は、東京の都心部と、東京の北西部郊外・近郊を結ぶ、通勤(韓国式に言えば地下鉄)・観光(行楽)路線です。
西武(seibu)新宿駅にて。。。西武(seibu)線の黄色い車両は、子供の頃から、何となく好きでした。
写真以下39枚。現地で散歩。新宿区の北西部は、私の街(東京中心部(東京23区)の西部に位置する渋谷(shibuya)区の中北部)と同じで、現在も、静かで、落ち着いた住宅地となっている、1920年代から1930年代に開発された、中流階級(ここで言う中流階級とは、労働者階級に対する中流階級)向けの新興住宅地です。1920年代から1930年代当時は、東京の都心に、比較的近い、東京の郊外と言った感じだった事でしょう。
この街も、東京の他の住宅地同様、第2次世界大戦中の空襲の被害を受け、昔の面影は、ほとんど残っていないと言われている様ですが、この街の、今回散歩した一帯(この投稿、最初の方で書いた理由により、私が、ある程度馴染みのある一帯)は、空襲の被害が比較的酷くなかった&第2次世界大戦後も、住宅の建物の建て替えが、それ程は、急速に進まなかった為か、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、趣の有る古い一戸建て住宅の建物が、結構、たくさん残っています(私の街よりも、遥かに高い比率で、第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、趣の有る古い一戸建て住宅の建物が、残っている印象を受けます)。写真以下31枚は、その例です。
写真以下15枚。第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる日本伝統式の一戸建て住宅(一部西洋式を取り入れている日本伝統式の一戸建て住宅を含む)。一部の一戸建て住宅の壁の一部が新しく見えるのは、おそらく壁の塗り替えによる物で、建物自体は、古いと思います。建て替えられる前の、我が家の近所の実家(元々、母方の祖父母の家。現在は両親が引き継いで暮らしている。私の母方の祖母の父(山梨(yamanashi)県の地主)が、東京及び、その郊外(当時)に、いくつか保有していた、不動産の一つを、私の母方の祖父母が、結婚する際に、私の母方の祖父母に与えた物)の建物も、こんな感じだった様です(この建物(実家の元々の建物)は、第2次世界大戦中の空襲の被害は、免れたものの、残念ながら、私が生まれる前(私の母が高校生の頃。1960年代初め頃)に、現在の趣の無い建物に立て替えてしまったそうです(尚、現在の実家の建物は、近年、改装した際に、耐震補強を施しました))。ちなみに、建て替えられる前の、実家の建物は、西洋式は、取り入れられていない日本伝統式の一戸建て住宅だったそうです。
写真以下2枚は、同じ一戸建て住宅です。
写真以下4枚は、同じ一戸建て住宅です。

写真以下2枚は、同じ一戸建て住宅です。

写真以下5枚。第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる、西洋式と日本伝統式、両方の要素が取り入れられている一戸建て住宅。
写真以下11枚。今回の散歩中に見かけた、古い趣の有る一戸建て住宅の建物の中で、個人的に、最も、心惹かれた建物。第2次世界大戦前(1920年代から1930年代頃)に建てられたと思われる西洋式の一戸建て住宅。将来、この様な趣の有る古い住宅を手に入れて、保存しながら暮らすのが、夢ですが、私の様な一庶民には、叶わぬ夢ですね。。。w(この様な家に暮らしている家族に婿養子に入るとかでもしないと。冗談ですw)。

写真以下4枚。現在新宿歴史博物館(この博物館は、私は、まだ訪れた事が有りません)で行われている、佐伯 祐三(saeki yuzo)の展覧会(exhibition)のチラシ(leaflet)から。。。
佐伯 祐三(saeki yuzo)。1898年に大阪(仏教の寺の、男4人女3人の兄弟の次男として生まれた)で生まれ、1928年、30歳の若さで亡くなった、1920年代に活躍した、日本の有名な近代画家です。
佐伯 祐三(saeki yuzo)と、その家族(1920年代に撮影された物)。佐伯 祐三(saeki yuzo)は、1921年、東京美術学校(現在の東京芸術大学。日本の芸術系の大学の中で、最高峰の大学。東京大学、京都大学等と並ぶ、日本を代表する名門大学の一つ)在学中に結婚、それを機会に、新宿区の北西部に、アトリエ(studio)兼住宅を建て、新しい生活を始めました。この頃、新宿区の北西部には、佐伯 祐三(saeki yuzo)だけで無く、才能の有る、若手エリート(elite)画家達が、多く暮らしていました。

写真左は、新宿区の北西部の風景を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品(1920年代)。その右は、パリ(Paris)のリュクサンブール(Jardin du Luxembourg)公園を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品(1920年代)。
新宿区の北西部の風景(テニス(tennis)風景)を描いた、佐伯 祐三(saeki yuzo)の作品。
私の街も、そうですが、新宿区の北西部は、他の山の手(東京中心部(東京23区)の西部)の、静かで落ち着いた住宅地同様、中流層、庶民層の住宅と供に、お金持ちの邸宅が、結構たくさん有ります。写真以下4枚は、その例です。
写真以下2枚は、同じ邸宅です。
写真以下11枚。林 芙美子(hayashi fumiko)記念館。林 芙美子(hayashi fumiko)(下の補足説明参照)が、1941年から1951年に亡くなるまで暮らしていた家で、現在も、保存され、林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館となっています。林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を訪れたのは、今回が、初めてです。ちなみに、私の街には、かつて、古賀 政男が暮らしていた地に、古賀 政男音楽博物館が有りますが、残念ながら、古賀 政男が暮らしていた家の建物は、残っていません(私が、子供の頃は、まだ残っていた様な記憶が有りますが。。確か名前も、古賀 政男記念館とか何とか言う名前だった)。
林 芙美子(hayashi fumiko):1903年生まれ、1951年に亡くなる。1920年代末から1951年に亡くなるまで活躍した、日本の有名な女性作家(小説家)。貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある(wikiより)。夫は、画家の手塚 緑敏(tezuka ryokubin)(有名な画家と言う程では無く、知名度は、林 芙美子(hayashi fumiko)の方が、遥かに上。人気作家であった妻(林 芙美子(hayashi fumiko))を影で支えた)。
写真の道路左側が、そうです。こんな家に住んでおいて、底辺の庶民を慈しむように描いた作品、何て言うのも、少し変な気がしますが、まあ、昔、貧しくて苦労したと言う事で。。。
写真以下7枚。林 芙美子(hayashi fumiko)の邸宅の建物(現在は、林 芙美子(hayashi fumiko)記念館(林 芙美子(hayashi fumiko)に関する資料館)の建物)。1941年に完成した、一部、西洋式を取り入れた(画家であった夫のアトリエ(studio)部分)、日本伝統式の住宅の建物です。林 芙美子(hayashi fumiko)は、1939年に、土地を手に入れ、新しい家の建物を建設し始めました。林 芙美子(hayashi fumiko)は、家の建物の為、建築の勉強をし、設計者や大工を連れて、京都の住宅を見学したり、材木を見に行ったり、その思い入れは、格別でした(林 芙美子(hayashi fumiko)記念館の公式siteより)。貧しい若しくは、庶民の家庭に生まれて、後に成功を収め、名声と富を手に入れた者の家に有り勝ちな?成金趣味的な、悪趣味な派手さは、全く感じられない建物で、何て言うか、裕福な家に生まれ、一通り、派手な生活を経験し尽くした後に至る趣味の良さ(白州次郎・正子の様な趣味の良さ?w)に通じる、林 芙美子(hayashi fumiko)の趣味の良さを、個人的に、建物から感じ取る事が出来ました。戦時体制一色となり、民間に配分される物資が、極度に不足し始めた頃(1941年)に完成した住宅の建物(おそらく、普通の中流層程度では、1940年頃から、第2次世界大戦の終り頃までは、基本的に、家の建物を新築する事すら、無理に近かったと思います)ですが、高価で、非常に質の高い建築材料を使って建てられている住宅の建物と言う印象を受けました。
林 芙美子(hayashi fumiko)記念館を見学した後は、新宿区の北西部を離れ、池袋(ikebukuro。東京中心部の北西部に位置する大きな繁華街。東京最大級の繁華街の一つ)の外れの住宅地に有る、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館を訪れました。
写真以下5枚。池袋(ikebukuro)。東京中心部の北西部に位置する大きな繁華街で、東京最大級の繁華街の一つです(写真は、美術館を訪れた後、帰りに撮影した物)。第2次世界大戦後に急成長した、新興の大繁華街です。
写真以下5枚。池袋(ikebukuro。東京中心部の北西部に位置する大きな繁華街。東京最大級の繁華街の一つ)の外れの住宅地に有る、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館。熊谷 守一(kumagai morikazu)が、1932年から1977年に亡くなるまで暮らした家の敷地を利用して(家の建物は、美術館の建物を建てる際に取り壊されてしまったと思います)、1985年に開設された、熊谷 守一(kumagai morikazu)専門の、小じんまりとした美術館です。私は、熊谷 守一(kumagai morikazu)は、個人的に、その作品が好きな、芸術家の一人なので、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館は、私の、お気に入りの美術館の一つとなっています。熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館周辺は、静かで落ち着いた住宅地ですが、新宿区の北西部よりかは、比較的庶民的な雰囲気となっています。


熊谷 守一(kumagai morikazu)。1880年生まれ、1977年に亡くなる。第2次世界大戦前から1970年代にかけて活躍した、日本の有名な、近・現代画家です。ピカソ(picasso)の様に、普通に絵を描いても上手な画家ですが、絵は、だんだんと単純化された物になって行きました。金や名声と言った物に執着は無く、人が、たくさん来ては、困るからと、文化勲章授与者に選ばれながらも、それを受ける事を辞退し、絵は、描きたい時に描き、生活は、決して豊かでは無かった様です。
写真以下13枚。絵葉書等の写真で申し訳有りませんが、熊谷 守一(kumagai morikazu)の作品例。
「白猫」。1959年。

「蝉」。1961年。
「どろ(泥)人形」。1962年。
「冬の夜」。1964年。

「桜」。1964年。

「つゆ草」。1964年。

「母子像」。1965年。

「野草」。1972年。

熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館のパンフレット(leaflet)の表紙から。。「アゲ羽蝶」1976年。
「とんぼ(トンボ)」 1977年。
「蟻」 制作年が、ちょっと分かりません。。。
「眠猫」 制作年不詳。
「とんぼ(トンボ)」制作年が、ちょっと分かりません。。。
熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館周辺を含む、池袋(ikebukuro)の西の外れに広がる広い範囲の住宅地(1920年から1930年代頃は、東京の都心に、比較的近い、東京の郊外と言った感じだった)は、1920年代から第2次世界大戦まで、アトリエ(studio)付き借家が建ち並ぶアトリエ(studio)村郡が有り、この地域に住む、若手芸術家達の間で、池袋(ikebukuro)モンパルナス(Montparnasse)と呼ばれていました。この地域に集まって来た、多くの若い芸術家達は、日夜熱く語り合い、切磋琢磨して制作に励み、創作を持って主張しました(この地域の有る、豊島(toshima)区(東京中心部(東京23区)の北西部に位置する区。中心繁華街は、池袋(ikebukuro))の資料より。。。)。以下、「」内は、wikiより。。。「池袋(ikebukuro)モンパルナス(Montparnasse)は無名で貧困生活を送る活力あふれる画家(や芸術家)たちの集まりであった。だが、多くの芸術家が戦争で召集され芸術運動としては終末を迎えた。軍国主義の政治環境の中で退廃的・不健全と評価されたことが影響している」。
この時、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館では、小熊 秀雄(oguma hideo)の絵画作品の展覧会(exhibition)をやっていました。展覧会(exhibition)とは言っても、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館自体が、熊谷 守一(kumagai morikazu)の家の敷地を利用して建てられた小じんまりとした美術館なので、小じんまりとした展覧会(exhibition)でしたが。。。今回、熊谷 守一(kumagai morikazu)美術館を訪れた、主目的は、この展覧会(exhibition)を見る事でした。

小熊 秀雄(oguma hideo)。1901年生まれ、池袋(ikebukuro)モンパルナス(Montparnasse)で暮らし、同じく池袋(ikebukuro)モンパルナス(Montparnasse)に暮らす芸術家達と交流しながら、1930年代に活躍し、1940年、39歳の若さでな亡くなった、詩人、小説家、漫画原作者です。詩作にとどまらず、童話・評論・絵画など幅広い分野で活躍し、原作を担当した漫画「火星探検」(1940年)はSF漫画(manga)の先駆的傑作とされ、手塚 治虫(tezuka osamu)、小松 左京(komatsu sakyo)、筒井 康隆(tsutsui yasutaka)、松本 零士(matsumoto reiji)らに大きな影響を与えました(wikiより)。
写真以下22枚。パンフレット(booklet)の写真で申し訳有りませんが、小熊 秀雄(oguma hideo)の絵画作品例。小熊 秀雄(oguma hideo)が、描いた、油彩画、水彩画、素描です。全て、1920年代後半から1930年代に描かれた物です。


「すみれ」。
「スミレと時計」。
左、「月夜の幕開」。右、「きのふ(昨日)は嵐けふ(今日)は晴天」。

写真左上から、時計回りに、「飛翔するイメージ 童話風に」、「詩人の食卓」、「ピストル」、「三人の人物とカエル」、「道は帝政か?共和か?」、「たき火にあたる人物」

「飛翔するイメージ 童話風に」

「たき火にあたる人物」
「ピストル」




「激情(自画像)」


「電車内」
「荷積み」

「新聞を読む男」


「作業場」
池袋(ikebukuro)から、私の街に近い、新宿に移動しました。新宿駅南口のサザンテラスの冬のイルミネーションを見ようとしましたが、終っていましたorz。もっと早く終っていたのに、この日(3月14日)までと、思い込みで勘違いしていましたw。普段、仕事の外回り中に、サザンテラスの冬のイルミネーションなんて、いくらでも見ているのに、改めて、休日に、ゆっくり見ようと思ったら、終っている。。。皮肉ですねw。写真以下、5枚。一応、行きましたよ。。と言う事で写真だけ。。。新宿駅、南口付近の夜景。中には、かなりボケている写真が有って、済みません。。。

新宿に有る、Keioデパート新宿本店(写真は、私が撮影した物では無く、借り物です)。1964年の開業以来の建物を、現在も使用し続けています。庶民的な繁華街で有る(まあ、池袋(ikebukuro)もそうですが)新宿にあるデパートの中でも、最も、庶民的なデパートです。
写真以下4枚。夕食は、Keioデパート新宿本店の食堂街に入っている、カジュアル(casual)な洋食(日本人の視点からすれば、日本人好みに、改良された西洋料理)レストランで食べました。この店は、今回初めて利用しました。味は、まあまあと言った感じで、まあ、予想通りと言った感じでしたw Keioデパート新宿本店の食堂街は、もう間も無く改装される様です。Keioデパート新宿本店の食堂街の中では、イタリア料理の「La villetta」、豚カツの「さぼてん」、日本料理の「光悦」を、まあまあ、よく利用して来ましたが、この3店舗は、どうなるのかな。。。(まあ、この3店舗は、何れも、特に思い入れの有る店と言う訳では無いので、別に、無くなっても、個人的には、惜しいとは、思いませんが。。。)。
写真以下4枚は、全て、一人一皿ずつです。これにパンが付きました。
付け合わせ(side dish)のスープ(soup)。
付け合わせ(side dish)のサラダ(salad)。
蟹クリーム(cream)コロッケ。
ビーフシチュー(beef stew)。
写真以下6枚。我が家に帰って来てから食べた物。
新宿に有るtakanoは、建物は、新しいビルですが、1885年創業の、120年以上の歴史を有する高級果物店&fruit parlor(フルーツ料理のレストラン&cafe)です。世界中から一流の高級果物を集めて、販売し、またレストラン&cafeで提供しています。
写真以下5枚。takanoの、新宿の地下街の支店で買ったデザート(dessert)。
お茶菓子。東京都心部東部の人形町(ningyoucho)のケーキ(cake)・西洋菓子屋、シュークリー(Sucre-rie)のクッキー(cookie)等。