朝、早く目が覚めたので、散歩に出ました。
これはいつもの事。
学生時代もそうで、朝早く散歩してたら、友人達に「居なくなった!?」と騒がれた事があります。w
この頃は猛暑日の記録更新をしていた頃。
太陽が出たばかりの時間、まだ汗ばまない程度の気温。
自然、足取りも軽くなります。
瀬戸内海の朝。
鞆の浦は潮待ちの港。
岡山市と広島市の中間地点、燧(ひうち)灘に面した沼隈半島の南部のほぼ先端にあります。
燧(ひうち)灘は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、豊予海峡や鳴門海峡からの潮流が
出会い、そして分かれていく場所になります。
律令制度により主要道が整備される前、7世紀頃以前から畿内(難波津)と大宰府の2大拠点を結ぶ
主要な交通路であった瀬戸内海は歴史の深い場所です。
鞆の浦も潮待ちの港として、明治時代に到るまでの長い間、繁栄しました。
今は、小さな漁村として、そしていくつかの遺構から当時の面影を知る事が出来る静かな街となって
います。
始発を待つ鞆鉄バス。
約3時間後、ここから福山駅に向います。
福山市から続く県道は、鞆港に突き当たり、港に沿って弓なりに続きます。
ここから先が、昔からの町割りが残る狭隘な区間で、緊急車両の通行にも支障をきたす事から、
橋の建設が検討され、景観保護と生活優先との葛藤が生まれているようです。
下の写真の中央に、常夜灯が見えます。
鞆の浦は、「常夜灯」「雁木(船着場)」「波止場(防波堤)」「焚場(たでば)跡(船底の付着物への
対処として、船底を燻したり、修理する所)」、「舟番所(奉行が出入港管理をする所)」の5点が
江戸時代の姿を留めて残る全国唯一の場所になります。
左が海で、雁木のある船着場です。
写真の建物は、「いろは丸展示館」。
いろは丸は坂本龍馬の海援隊が運用していた舟ですが、ここの沖合いで紀伊藩の舟と衝突、沈没。
今も海底に眠るいろは丸から引き揚げた物品や、その様子が再現展示されています。
談判した場所とされる福善寺対潮楼、宿泊先であり、暗殺を恐れて隠れていた隠し部屋等がある
桝屋清右衛門宅など、縁の場所がいくつか残ります。
展示館自体も、「大蔵」と言われた江戸時代のもので、国の登録有形文化財です。
ところで、いろは丸は運用初回でいきなり沈没。 坂本龍馬は紀伊藩との交渉で、鉄砲、金塊、陶磁器等
を満載していたとして83526両198文の損害賠償を要求。
鞆の浦での直談判では決着せず、舞台を長崎奉行所に移して交渉した結果、満額の賠償を獲得。
因みに、海底調査では、鉄砲は発見されなかったそうです。
龍馬ってなかなかのシタタカモノ・・・?
常夜灯は、「とうろどう」と呼ばれています。
舟のもやいを結ぶ石杭には名前が書かれた札がありました。
船をつなぐ権利を明確にしているのかな。
雁木は、干満に関係なく荷役作業が行えるように階段構造になっています。
このような遺構の多くはコンクリート等で改修されて、現在見られる場所は多くはありません。
保命酒の酒蔵、太田家の裏の路地です。
近くで行き交ったおばあさんに挨拶をしたら、教えてくれました。
「そこの小路に入ると面白い壁があるから・・・」って。
入ってみると意匠を凝らした蔵の壁がありました。
さいころの目の模様のなまこ壁。
そして、舟板壁。
舟板は、意匠としての風雅だけでは無く、海水で鍛えられた板は対候性や害虫予防に効果があり、
建材としても有効な素材のようです。
その先の小道
小道の先の寺。
ありがたい坊主の言葉に、ありがたさのあまり、少しうつむき加減になります。
まだ早朝。
「鞆の小魚売り」が有名らしいですが、勝手口や共同井戸の大井戸の傍で、小魚を捌くおばさんの姿も
見えました。
お店はまだ営業時間前。
平成いろは丸。
沖合いの酔仙島と結びます。 所要時間15分程度。
1時間に3本だからほぼピストン輸送をしています。
医王寺に向う阪の入り口。
前の日に車窓から見た尾道の街は、全体に建物が小さく、密集していて、極端に言えばミニチュアの街
のように見えました。
坂の脇から細い道が分かれていて、崖に家が建っているのですが、尾道もこんな感じと思いながら
写真を撮りました。
坂の途中から。
まだまだ序の口の段階。 寺なんて見えません。
幾重かに重なる瓦屋根の先の港の風景が綺麗。
結構、キツイ、長い坂道。
でも、その先に目的地があるから足取りが遅くならない。
カラダ的には、ここで引き返したほうが賢明かな・・・去年だって自律神経が整う前の早朝、
張り切りすぎて顔面蒼白になってたし・・・と思うけど、気持ちに引っ張られて止まらない・・・。
しかし、街の案内パンフにも書いてあった通り、景色は綺麗。
僕は jank 氏のコメントで初めて知ったのですが、「足利幕府は鞆で興り鞆で滅びた」との頼山陽の
言葉があるように、足利氏と深い関わりがあるようです。
後醍醐天皇の建武の新政に不満を持つ武士を糾合して反乱。
しかし、楠正成、新田義貞の軍に敗れて都を追われる事になります。
その時立ち寄ったのが鞆の浦。
鞆の浦で尊氏は、大覚寺統の後醍醐天皇と敵対する持妙院統の光厳上皇から、後醍醐天皇派を
討伐する旨の院宣を受け取ります。
後醍醐天皇に逆らう事で「朝敵」とされ、軍勢の気勢が上がらなかった事が敗因の一つであった為、
「院宣」を得て力付けられた尊氏は九州での再起を誓い、鞆の浦を立ちます。
約3ヶ月後、九州の朝廷勢力を一掃し軍勢を再建した尊氏は兵数十万、軍船7500艘を率いて再び
鞆の浦へ。 そして京へ攻め上がり、足利幕府を興します。
そして足利幕府15代将軍足利義昭。
織田信長との戦いに敗れ、都を追われた義昭が、信長追討の兵を起こすよう毛利氏を訪ね、
滞在したのが鞆の浦。
義昭は将軍御所をここに移し、毛利輝元を副将軍に任じて幕府再興を計ります。
京都を追われたとは言え、将軍の権威は西国大名にとっては大きい。
西国大名への恩典授与や、毛利家家臣の幕臣編入への見返り、有力禅寺の住持任命権にまつわる
収入等の財政的基盤もあったようです。
中国の劉禅のような暗愚に描かれる事の多い義昭だけど、なかなかしっかり戦国の世を泳いでいた
ようです。
その後、点々とした後、豊臣秀吉の許しを経て、京に戻る事になります。
徐々に太陽が上がり、暑くなってきます。
「大汗をかいてタイヘンじゃったろう、さ、さ、庫裏で冷たい氷水でも如何かな?」
・・・・・・・・・・・なんて声をかけてくれる優しい寺の人がいる訳でもないので、そろそろホテルに向けて
引き返すことにしました。
「崖の上のポニョ」作中に出てくる家?
ポニョ、見とかなきゃと思いつつ、忘れてました。
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食べ物の写真は スレ その② で。 よろしくお願いします。 ・・・・・ごめんなさい。
























