去年の10月の終わりに、東京の我が家から自動車で2時間半程の、長野(nagano)県の中南部の高原地帯(避暑地)にある別荘(別荘とは言っても、比較的裕福な人々が保有する様な典型的な別荘ではなく、庶民的な中古の一戸建て住宅です)に滞在して来た時の物です。
以下、「10月の終わりの高原滞在&食べ物2」からの続きで、この時の、2日目(以下、この日と書きます)の、続きです。
私の別荘の有るエリア(area)(長野(nagano)県の中南部area)は、大きく、諏訪(suwa)湖(下の補足説明参照)周辺の盆地エリア(area)と、高原エリア(area)に分かれます。私の別荘は、高原エリア(area)の方に有りますが、高原エリア(area)と、諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)の間は、自動車で簡単に行き来出来ます(高原エリア(area)と、諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)は、経済的・文化的な繋がりは、強いです)。
諏訪(suwa)湖:長野(nagano)県の中南部に有る大きな湖。諏訪(suwa)湖周辺は、温泉が豊富で、規模の大きな温泉保養地等となっています。
諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)は、諏訪(suwa)市(人口5万人程の小都市ですが、諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)だけでなく、(高原エリア(area)も含む)長野(nagano)県の中南部areaの中心都市。大規模な温泉保養地となっていて、温泉を、家の風呂に引いている一般家庭も有る程、温泉の湯量が豊富)、下諏訪(shimosuwa)町(人口約2万人。町としては、人口が、多い。温泉の湯量が、豊富で、古くからの温泉保養地となっている)、岡谷(okaya)市(人口約5万人。温泉が乏しく、観光面においては弱いが、近代以降は、工業都市(第二次世界大戦前は、製糸業、第二次世界大戦後は、精密機械工業)として発展)から、成ります。
この日は、諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)に足を延ばしまた。
以下、下諏訪(shimosuwa)町を訪れた(前回の投稿、参照)後は、諏訪(suwa)市を訪れました。諏訪(suwa)市は、人口5万人程の小都市ですが、諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)だけでなく、(高原エリア(area)も含む)長野(nagano)県の中南部areaの中心都市となっています。大規模な温泉保養地となっていて、温泉を、家の風呂に引いている一般家庭も有る程、温泉の湯量が豊富です。
この日は、片倉(katakura)館の温泉に入りました。
写真以下29枚。諏訪(suwa)湖の湖畔(諏訪(suwa)市)に有る、片倉(katakura)館。片倉(katakura)館は、当時、製糸業を営んでいた、長野(nagano)県の中南部の諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)の財閥、片倉(katakura)財閥が、1928年に、地域住民の為に建てた、地域住民の、温泉、社交、娯楽の為の福祉・文化施設です。1920年代に建てられた、邸宅風の外観を持つ、趣のある近代建築です。片倉(katakura)館は、現在は、地域住民や観光客の為の温泉公衆浴場や地元の音楽院の教室等として使われています(個人的に、古い建物が好きで有ると言うのも相俟って、片倉(katakura)館の温泉風呂は、私の、お気に入りの温泉風呂の一つとなっています)。
パンフレット(leaflet)より。。。片倉(katakura)館の外観。。。
写真以下8枚。前にenjoyで、アップ(upload)した写真の再利用。


西洋式の邸宅の様な外観の、規模の大きな建物です。上でも、説明しましたが、1920年代に、地元の財閥が、地域住民の為の、温泉、社交、娯楽の為の施設として建てた物です。

こちらは、パンフレット(leaflet)から、細部の意匠(design)等。
写真以下5枚。前にkjで、アップ(upload)した写真の再利用。


これは、パンフレット(leaflet)より。。。
写真以下2枚。前にkjでアップ(upload)した写真の再利用。


片倉(katakura)館の温泉風呂は、男女別の共同温泉風呂となっていて、男用の共同温泉風呂と、女用の共同温泉風呂が有ります。
写真以下5枚。片倉(katakura)館の温泉風呂の例。
写真以下4枚。パンフレット(leaflet)より。。。写真は、男用の共同温泉風呂かな?(女用の、共同温泉風呂も、ほとんど同じ感じだと思います)。

前にkjでアップ(upload)した写真の再利用。
写真以下17枚は、参考に。。。諏訪(suwa)市に有る、高島(takashima)城(castle)(高島(takashima)城(castle)跡)。高島(takashima)城(castle)は、封建制時代における、諏訪(suwa)家(古くから、長野(nagano)県の中南部areaを統治していた、地方領主の家。近代日本においては、貴族階級に組み入れられ、子爵となる)の城(castle)です。
封建制時代には、日本全国には、たくさんの地方領主の城(castle)が有りました。しかしながら、明治(meiji)時代(1868年から1912年)に入ると、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す、新中央政府にとっては、(無駄に多い、維持費のかかる、前近代的な建物が、広大な敷地内に建っている)封建時代の象徴的な建物で有る、城(castle)は、必要の無い物(無用の長物)となります。これによって、19世紀末に、日本全国の、多くの城(castle)の、ほとんどの建物が取り壊され、かつての地方領主達の城(castle)の敷地は、他の用途の土地に転用されました(もっとも、地方領主としての地位を失うと供に、封建制時代の城(castle)等を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました。
高島(takashima)城(castle)も例外ではなく、19世紀後期に、城(castle)が廃止となり、城(castle)の建物の、全てが、取り壊されるか、移築された後、かつての城(castle)の中心部分は、1876年に、公園となり、一般に開放されました。なお、高島(takashima)城(castle)の主(所有者)であった、諏訪(suwa)家(古くから、長野(nagano)県の中南部area(諏訪(suwa)area)を統治していた、地方領主の家)は、城(castle)と、地方領主としての地位は、失ったものの、前述の通り、近代日本においては、貴族階級に組み入れられ、子爵となりました。ちなみに、諏訪(suwa)家は、地方領主としては、あまり豊かではありませんでした(小領主(小規模領主)でした)。
写真以下2枚。かつての、高島(takashima)城(castle)の敷地地図。高島(takashima)城(castle)跡の、パンフレット(leaflet)より。。。高島(takashima)城(castle)は、1598年に築城された、城(castle)です。現在は、干拓・埋め立て等が進み、その面影は見られませんが、昔は、城(castle)の際まで、諏訪(suwa)湖の湖水(水)が迫り、「諏訪(suwa)の浮城(水(湖)に浮いた城(castle))」と呼ばれていました(小規模な、城(castle)ながら、日本、三大、湖城(湖の城(castle))に数えられていました)。

番号は、敷地内の建物・建造物を表しています(ちなみに、前述の通り、19世紀後期の、城(castle)の廃止伴って、高島(takashima)城(castle)の建物の、全てが、取り壊されるか、移築されました)。諏訪(suwa)湖は、南方向です。番号の内、グレー(gray)に色が塗られている物は、現在、外見のみ復元されたか、再移築された、建物・建造物を表しています。

現在、かつての、城(castle)の敷地の一部(中心部分)のみが残り、高島(takashima)城(castle)跡として公園となっています。(汚くて(雑で)申し訳ありませんが)赤のボールペン(ballpoint pen)で囲った部分が、現在、残っている、かつての、高島(takashima)城(castle)の敷地の一部(中心部分)です。前述の通り、グレー(gray)に色が塗られている物は、現在、外見のみ復元されたか、再移築された、建物・建造物を表しています。番号の、5番は、橋、番号の2番(赤のボールペン(ballpoint pen)で囲った部分の右下の端)は、天守閣(tensyukaku)(城(castle)の建物の内、城(castle)の権威を象徴する建物)です。かつて、城(castle)の中心部分(本丸(honmaru))(赤のボールペン(ballpoint)で囲った部分)には、天守閣(tensyukaku)等の他、本丸(honmaru)御殿(goten)(城(castle)の主(所有者)の家族が暮らす建物の内、最も、重要な建物)、(城(castle)の主(所有者)が、地方領主としての)政務を行う建物、書院、能(noh)舞台(能(noh)(日本の伝統芸能(伝統演劇)の一つ)の舞台)等がありました。なお、かつての、城(castle)の中心部分にあった建物の内、本丸(honmaru)御殿(goten)(城(castle)の主(所有者)の家族が暮らす建物の内、最も、重要な建物)、(城(castle)の主(所有者)が、地方領主としての)政務を行う建物、書院、能(noh)舞台(能(noh)(日本の伝統芸能(伝統演劇)の一つ)の舞台)等は、上の、かつての、高島(takashima)城(castle)の敷地地図の中では、番号の、1番で、纏めて、示されています。
現在、かつての、高島(takashima)城(castle)の敷地の一部(かつての、高島(takashima)城(castle)の中心部分)と、その(かつての、高島(takashima)城(castle)の中心部分)の周囲の、石垣(stone wall)と堀(moat)の一部が残り、高島(takashima)城(castle)跡として、公園(おそらく、市立(諏訪(suwa)市立)の公園)となっています(諏訪(suwa)市の、市街地に位置する)。
写真以下15枚(全て、前にkjでアップ(upload)した写真の再利用)。現在残っている、かつての、高島(takashima)城(castle)の敷地の一部(かつての、高島(takashima)城(castle)の中心部分)の風景例。
かつての、高島(takashima)城(castle)の中心部分の一部に、1900年に建てられた、神道の神社(shrine)。
写真以下2枚。天守閣(tensyukaku)(城(castle)の建物の内、城(castle)の権威を象徴する建物)。前述の通り、19世紀後期の、城(castle)の廃止伴って、高島(takashima)城(castle)の建物の、全てが、取り壊されるか、移築され、1598年に建てられた高島(takashima)城(castle)の天守閣(tensyukaku)も、1875年に解体されました。しかしながら、地元の人々の、高島(takashima)城(castle)に寄せる、愛着は、強く(高島(takashima)城(castle)跡の、パンフレット(leaflet)より。。。)、天守閣(tensyukaku)等、かつての、高島(takashima)城(castle)の中心部分の建物・建造物の一部は、1970年に、外見だけ復元して、再建されました。復元された、高島(takashima)城(castle)の天守閣(tensyukaku)の内部は、資料館となっています(内部は、現代的であり、内部に入ると、おそらく、がっかりすると思います)。なお、天守閣(tensyukaku)の外見の復元の際は、解体される前に撮影された写真も参考にされています。


写真以下2枚。角(sumi)櫓(yagura)。天守閣(tensyukaku)の子供の様な外観・大きさの建物です。高島(takashima)城(castle)の中心部分の周囲には、この様な建物(櫓(yagura))が、3つありましたが、その内の一つが、外見だけ復元して、再建されています。
写真右端、高島(takashima)城(castle)の天守閣(tensyukaku)(1598年に建てられ、1875年に解体された物を、1970年に、外見だけ復元して、再建)。
写真以下4枚。写真右側、高島(takashima)城(castle)の天守閣(tensyukaku)。
写真以下2枚。この日の夕食は、別荘周辺の市街地にある、ラーメン食堂の一つで食べました。このラーメン食堂は、鰹スープ(soup)(鰹(魚)を基本とした出汁(dashi)のスープ(soup))の、ラーメンが自慢のラーメン食堂です。このラーメン食堂は、割と最近、利用し始めた店ですが、別荘周辺で、お気に入りのラーメン食堂の一つになりつつある店です。
写真以下2枚。このラーメン食堂で食べた、この日の夕食。鰹スープ(soup)のラーメン。二人とも、同じ物(鰹スープ(soup)のラーメン)を食べました(写真は、一人分)。このラーメン食堂の、鰹スープ(soup)のラーメンは、とても美味しいです。
10月の終わりの高原滞在&食べ物4へ続く。。。
写真以下、おまけ。。。
写真以下6枚。もう、ある程度前の事ですが、仕事の用事で、練馬(nerima)方面を訪れた際、外回りの、空き時間を、ちょっと、利用して、練馬(nerima)区美術館で、去年の9月から11月にかけて、行われていた、宮 芳平(miya yoshihei)の展覧会(exhibition)を見て来ました。
前にkjでアップ(upload)した写真の再利用。練馬(nerima)区美術館。練馬(nerima)区美術館は、練馬(nerima)区(東京中心部(東京23区)を構成する、23の区の内の一つ。東京中心部(東京23区)の西北端に位置する)が運営する、公立の美術館です。小ぢんまりとした美術館です。日本には、非常に多くの、私営美術館・博物館に加えて、国や地方自治体が運営する、公立の美術館・博物館が、非常に多くありますが、公立の美術館・博物館の中でも、区が運営する美術館・博物館は、小ぢんまりとした物が、一般的です。
宮 芳平(miya yoshihei)(1893年生まれ。1971年に亡くなる)は、日本の、近代画家(西洋画家)です。新潟(niigata)県(長野(nagano)県等と共に、日本の中部地方の県の一つ。長野(nagano)県の北部に隣接する)に生まれました。宮 芳平(miya yoshihei)は、森 鴎外(mori ougai。1862年生まれ。1922年に亡くなる。日本の有名な小説家・文学者)、村山槐多(murauama kaita)(1896年生まれ、1919年に亡くなる。10代の頃から活躍し、22歳の若さで亡くなった、1910年代に活躍した、日本の有名な、近代・現代画家)等の、著名人に高く評価され、森 鴎外(mori ougai)等の著名人と交流のあった画家ですが、こう言う言い方は、変かもしれませんが、日本の、有名な画家達の中では、最も、無名な方の画家です(日本の西洋画に、余程、興味が有る人だけ知っていると言った感じ。。。))。宮 芳平(miya yoshihei)は、1923年に、長野(nagano)県の中南部areaの、諏訪(suwa)市の、公立の、女学校(第二次世界大戦以前の日本における、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる。第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った)、長野(nagano)県立、諏訪(suwa)高等女学校(現在の(第二次世界大戦後は)、長野(nagano)県立、諏訪(suwa)双葉(futaba)高校)の、美術教師の職に就くと、以後、長野(nagano)県の中南部areaに落ち着き、ほとんど、教師としての収入だけで(おそらく)、質素な生活をしながら、絵を描き続けました。
写真以下4枚。この展覧会(exhibition)の、展示作品例。(パンフレット(leaflet)、折ってしまって汚くて申し訳ありませんが。。。)、パンフレット(leaflet)より。。。全て、宮 芳平(miya yoshihei)の作品です。
「自画像」(1914年)。
上、「落日の嘆美」(1916年)。下、「母と子 その1」(1954年)。
真ん中、「諏訪湖(諏訪(suwa)湖)」(1930年)。下、「黒い太陽」(絶筆。1967年から1971年)。
上、「椿」(1914年)。下、「ドント・オープン」(大正(taisho)時代(1912年から1926年)中期)。
下、「ゴルゴダ」(1970年)。その上は、「ドント・オープン」(大正(taisho)時代(1912年から1926年)中期)。
この展覧会(exhibition)(去年の9月から11月にかけて、練馬(nerima)区美術館で行われていた、宮 芳平(miya yoshihei)の展覧会(exhibition))は、元々、その前に(去年の夏に)、茅野(chino)市美術館(長野(nagano)県の中南部の、茅野(chino)市が、運営している美術館の一つ)で、行われていた、宮 芳平(miya yoshihei)の展覧会(exhibition)が、巡回して来た物です(茅野(chino)市美術館で、この展覧会(exhibition)が、行われていた時は、ちょっと気になりつつも、結局、行きませんでした)。
私の別荘の有るエリア(area)(長野(nagano)県の中南部)は、大きく、諏訪(suwa)湖(長野(nagano)県の中南部に有る大きな湖)周辺の盆地エリア(area)(諏訪(suwa)市、下諏訪(shimosuwa)町、岡谷(okaya)市)(諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)は、温泉が豊富で規模の大きな温泉保養地等となっています)と、高原エリア(area)(茅野(chino)市、富士見(fujimi)町、原(hara)村)に分かれます(私の別荘は、高原エリア(area)の方に有ります。なお、高原エリア(area)と諏訪(suwa)湖周辺の盆地エリア(area)の間は、自動車で簡単に行き来出来ます)。
私の別荘がある、長野(nagano)県の中南部の高原地帯は、茅野(chino)市、原(hara)村、富士見(fujimi)町と言う、三つの地方自治体から成っていますが、長野(nagano)県の中南部の高原地帯で、最も人口が多く、中心となっているのは、高原にある、人口5万人程の小都市、茅野(chino)市です。茅野(chino)市の中心市街地が、そのまま、長野(nagano)県の中南部の高原地帯の中心市街地となっています。
写真以下9枚(写真は、全て、前に、kjでアップ(upload)した写真の再利用)。茅野(chino)市民館。茅野(chino)市の中心部(中心部と言っても、人口5万人程の小都市なので、大した事は有りませんが。。)にある、公営(茅野(chino)市が運営する)の文化施設で、コンサートホール(concert hall)、美術館、小さな図書館、カフェ(cafe)等が入っています。茅野(chino)市美術館(茅野(chino)市が、運営している美術館の一つ)は、この、茅野(chino)市民館の中に入っている、小規模な美術館です。
写真以下2枚。茅野(chino)市民館内の小さな図書館。
写真以下、その他の、おまけ。。。以下の、おまけは、投稿の本文(「10月の終わりの高原滞在&食べ物」)とは、全く、関係ありません。。。
昨日の夕食。昨日は、(土曜日でしたが)、個人的に、仕事だったのですが、仕事の終わりに、東京の、私の街の、北の隣街の、取引先の一つを訪れた後、私の街の、北の隣街の、お気に入りの、ラーメン食堂(私の街の、北の隣街には、お気に入りの、ラーメン食堂が、幾つかあります)の一つで食べた、背油(豚の背中の部分の油)、煮干(小魚(通常は、鰯)を煮て、干した物)醤油スープ(soup)ラーメン。体が暖まります。このラーメン食堂は、新潟(niigata)県(日本の中部地方に位置する県(prefecture)の一つ。中部地方の北端に位置する)の、燕(tsubame)市(人口8万人程の、中小都市)発祥で、燕(tsubame)市及び、その周辺で、よく食べられている?、背油(豚の背中の部分の油)、醤油スープ(soup)ラーメンの店です(私の街の、北の隣街の、お気に入りの、ラーメン食堂の一つである、新潟(niigata)ラーメンの店の、分店で、比較的、最近(去年に)、オープン(open)した店)。燕(tsubame)市は、伝統的に、金属加工が盛んな都市であり(燕(tsubame)市は、17世紀から、金属加工が盛んです)、金属洋食器(西洋の金属の食器。スプーン(spoon)・フォーク(fork)・ナイフ(knife)等)・包丁等の生産で、世界有数の、生産量を誇る、工業都市なのですが(燕(tsubame)市は、近代以降、伝統的な、金属加工技術を活かした、金属洋食器(西洋の金属の食器。スプーン(spoon)・フォーク(fork)・ナイフ(knife)等)等の生産で、さらに発展しました)、燕(tsubame)市発祥の、背油(豚の背中の部分の油)、醤油スープ(soup)ラーメンは、元々、燕(tsubame)市の、金属加工工場の、工場労働者の、食欲を満たす為に、生まれたラーメンなのだそうです。ちなみに、ラーメンは、中国の麺料理を基に、近代以降、日本独自に発展して来た食べ物で、日本の代表的な大衆食の軽食の一つとなった食べ物です。日本には、ラーメン食堂が、たくさんあります。ラーメンは、安い値段で、気軽に(短時間で)食べられる、軽食の割に、カロリー(calorie)が高く、腹に溜まる食べ物である事から、安く、気軽に食事を済ませたいが、比較的、しっかりと食べたい時に、調度良い、軽食となっています。
今年のバレンタインデー(Valentine"s day)(一昨日。2月14日)の前に貰った、今年のバレンタインデー(Valentine"s day)の義理チョコレート(chocolate)の一つ。モロゾフ(Morozoff)(下の補足説明参照)の、チョコレート。今年のバレンタインデー(Valentine"s day)(一昨日。2月14日)は、たまたま、出勤しなくて、大丈夫な日で(調度、東京は、大雪で、助かったw)、基本的に、一日中、我が家で、一人で、自宅(我が家)に持ち込んだ、仕事をしていたのですが、それでも、今年のバレンタインデー(Valentine"s day)(一昨日。2月14日)の前に、幾つか、今年のバレンタインデー(Valentine"s day)の義理チョコレート(chocolate)を貰いましたw(本命の、チョコレートは、まだ。。。w)。
モロゾフ(Morozoff):1926年創業の、日本の神戸(kobe)の西洋菓子会社。モロゾフ(Morozoff)は、日本全国的な、西洋菓子の会社で有り、当然、東京にも進出しています。モロゾフ(Morozoff)は、元々、ロシア革命(Russian Revolution)後、日本に移住してきた、(ロシア(Russia)人の)モロゾフ(Morozoff)家が、日本人経営者と共同で設立した会社です。ロシア革命(Russian Revolution)後、かなりの数のロシア(Russia)人が日本に亡命して来ました。こうした、ロシア革命(Russian Revolution)後、日本に亡命したロシア(Russia)人(革命から、しばらくしてから、日本に来た人も、少なからず含まれる)は、かつてロシア帝国(Russian Empire)で貴族であったような裕福な人々や、モロゾフ(Morozoff)家やマカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)(モロゾフ(Morozoff)家と、マカール・ゴンチャロフ(Makar Goncharoff)は、それぞれ、神戸(kobe)に本社を置く、日本の西洋菓子会社、「モロゾフ(Morozoff)」(1926年創業)と、「ゴンチャロフ(Goncharoff)」(1923年創業)を創業)の様に、商売等で成功した人々もいましたが、貧しい人々も、かなりいた様です。