今回の旅の主目的は、中国の庭園を見ることだった。上海や蘇州など、所謂中国の江南地方には素晴らしい庭園が多く存在しているが、まずは上海の庭園「豫園」を取り上げる。ここは今回の旅行の最後の訪問地だったけど、中国江南庭園の要素を多く揃えているので、最初に記述することにした。
「豫園」は1559年から1577年の造園。豫は愉の意味で、楽しい園の意味である。造園者は潘允端。度々荒廃したが、その都度修復され現在に到る。
豫園商城を歩く。ここも昔は庭園の一部だったという。この近辺は、近代以前は上海の中心地として栄えた場所で、今も観光地として賑わっている。
さて、豫園に入ります。拝観料は30元。まずまずの値段。
豫園に入ると、3つのルートに分かれている。まずは南側にある「内園」と呼ばれる庭園に入ろう。内園は1709年に造園され、元は別の庭園だったらしいが、今は豫園の一部に含まれている。
内園には立派な太湖石の築山があった。この穴だらけの少々グロテスクな石が「太湖石」で、中国庭園で非常によく使われている。紫禁城の御花園で見た時は、その良さをいまいち理解できなかったが、江南の庭園で見た太湖石はなかなか素晴らしく、「これもアリだな」に考えが変わった。
江南庭園の太湖石の山は、眺めるだけのものではない。江南庭園は回遊式が基本であり、潜ったり登ったりできるようになっているものが多い。
太湖石の山を登る。西洋人の観光客が非常に多かった。
建物一杯に入っている太湖石。何のためにこうなったのか?
内園を出て、本庭を巡ろう。豫園をはじめ、中国江南の庭園はとにかく空間がよく分割されている。塀や建物で空間が仕切られて、庭が個々に幾つも存在しているのだ。これは、庭全体を一望にできるより、細かく区切った方が、回遊していてより広く感じることができるからである。
確かに庭を巡っていて「まだあるのか」と思わされた。
また、個々の庭同士は、単に塀で仕切られているだけではない。その間に洞窟や狭い通路を入れたりすることで、一旦「狭さ」や「暗さ」を感じさせるように工夫されていることが多い。そして、その狭い空間を潜り抜けると、パッと明るくて広い庭が出現する・・・狭さ、暗さを経ることで、次に現れる庭がより広く、明るく感じるようにとの工夫なのだ。
中国の庭園は、このような工夫に非常に凝っているのである。
仕切りの向こうに広がる個々の庭の景色。近景に池泉、遠景に建物や築山、木々が配置される。池泉は江南庭園には欠かすことのできないものだ。
こちらはまた別の庭。中国も今は新緑の季節。豫園の緑は美しかった。

庭園北西にある黄石の築山。明時代の名残を留めている部分だという。現在は立ち入り禁止。
江南庭園の塀は、ほとんどが煉瓦に漆喰を塗った白壁。屋根は黒い瓦。そして木造建物は濃い赤色が中心。これは、建物や塀の色を単調にすることで、庭の自然の色をより際立たせるための工夫である。
ただ、この白壁の塀は時間が経つと黒っぽいシミが目立つようになり、あまり美しくない。手前に植物や石が無いと、非常に無機質な印象を与える。上の写真のように塀の前に石や植物が配置されているのは、少しでも塀の人工っぽい雰囲気を打ち消すためだろう。
また、江南庭園は街中にあることが多いので、周囲の人工的な景色を打ち消す工夫がされている。上の写真では、大きな柳によって、塀の外の建物が視界から上手く遮断されている。

1980年代に豫園修復に携わった中国の著名な造園家・陳従周氏は「中国の庭園は人工の中に自然を見る。日本の庭園は自然の中に人工を見る」と語ったそうだが、確かに人工の中に自然を見るという言葉は、江南庭園を的確に表現しているだろう。
上の写真のような塀に囲まれた狭い空間でも、手前に池泉があり、黄石と太湖石による石組が所狭しと築かれている。
北東側にある龍の瓦装飾「龍しょう」。豫園のシンボルである。

写真中央の太湖石は江南三大明石の1つ「玉玲瓏」。北宋の皇帝・徽宗が江南より取り寄せた石だとされている。
龍しょうの奥にある蔵宝楼でウーロン茶を戴きました。この女性は日本語堪能なガイドさん。
点春堂の前で「日本の方ですか?」と声をかけられた。やはり日本人だと分かるようだ。そういえば商城でも「カバン要りませんか?」としょっちゅう声をかけられたし。彼女は「日本の方は何となく分かります。歩き方とか・・・」「日本のお客さんが少ないんですよ。やはり政治が原因でしょう」と言っていた。
また、「庭園に入って数分で出てしまう客も多いですよ。え?日本人ですか?いいえ、中国人の客です」と言っていた。中国人でも、豫園をつまらないと思う人はいるみたい。
帰りは九曲橋を通る。九曲橋の北にある門が正規の入口らしい。自分はそこから出てきた。
豫園はやはり「これぞ中国の庭園!」といった感じだった。機会があればまた訪問したい。
終わり
今回の旅の主目的は、中国の庭園を見ることだった。上海や蘇州など、所謂中国の江南地方には素晴らしい庭園が多く存在しているが、まずは上海の庭園「豫園」を取り上げる。ここは今回の旅行の最後の訪問地だったけど、中国江南庭園の要素を多く揃えているので、最初に記述することにした。
「豫園」は1559年から1577年の造園。豫は愉の意味で、楽しい園の意味である。造園者は潘允端。度々荒廃したが、その都度修復され現在に到る。
豫園商城を歩く。ここも昔は庭園の一部だったという。この近辺は、近代以前は上海の中心地として栄えた場所で、今も観光地として賑わっている。
さて、豫園に入ります。拝観料は30元。まずまずの値段。
豫園に入ると、3つのルートに分かれている。まずは南側にある「内園」と呼ばれる庭園に入ろう。内園は1709年に造園され、元は別の庭園だったらしいが、今は豫園の一部に含まれている。
内園には立派な太湖石の築山があった。この穴だらけの少々グロテスクな石が「太湖石」で、中国庭園で非常によく使われている。紫禁城の御花園で見た時は、その良さをいまいち理解できなかったが、江南の庭園で見た太湖石はなかなか素晴らしく、「これもアリだな」に考えが変わった。
江南庭園の太湖石の山は、眺めるだけのものではない。江南庭園は回遊式が基本であり、潜ったり登ったりできるようになっているものが多い。
太湖石の山を登る。西洋人の観光客が非常に多かった。
建物一杯に入っている太湖石。何のためにこうなったのか?
内園を出て、本庭を巡ろう。豫園をはじめ、中国江南の庭園はとにかく空間がよく分割されている。塀や建物で空間が仕切られて、庭が個々に幾つも存在しているのだ。これは、庭全体を一望にできるより、細かく区切った方が、回遊していてより広く感じることができるからである。
確かに庭を巡っていて「まだあるのか」と思わされた。
また、個々の庭同士は、単に塀で仕切られているだけではない。その間に洞窟や狭い通路を入れたりすることで、一旦「狭さ」や「暗さ」を感じさせるように工夫されていることが多い。そして、その狭い空間を潜り抜けると、パッと明るくて広い庭が出現する・・・狭さ、暗さを経ることで、次に現れる庭がより広く、明るく感じるようにとの工夫なのだ。
中国の庭園は、このような工夫に非常に凝っているのである。
仕切りの向こうに広がる個々の庭の景色。近景に池泉、遠景に建物や築山、木々が配置される。池泉は江南庭園には欠かすことのできないものだ。
こちらはまた別の庭。中国も今は新緑の季節。豫園の緑は美しかった。

庭園北西にある黄石の築山。明時代の名残を留めている部分だという。現在は立ち入り禁止。
江南庭園の塀は、ほとんどが煉瓦に漆喰を塗った白壁。屋根は黒い瓦。そして木造建物は濃い赤色が中心。これは、建物や塀の色を単調にすることで、庭の自然の色をより際立たせるための工夫である。
ただ、この白壁の塀は時間が経つと黒っぽいシミが目立つようになり、あまり美しくない。手前に植物や石が無いと、非常に無機質な印象を与える。上の写真のように塀の前に石や植物が配置されているのは、少しでも塀の人工っぽい雰囲気を打ち消すためだろう。
また、江南庭園は街中にあることが多いので、周囲の人工的な景色を打ち消す工夫がされている。上の写真では、大きな柳によって、塀の外の建物が視界から上手く遮断されている。

1980年代に豫園修復に携わった中国の著名な造園家・陳従周氏は「中国の庭園は人工の中に自然を見る。日本の庭園は自然の中に人工を見る」と語ったそうだが、確かに人工の中に自然を見るという言葉は、江南庭園を的確に表現しているだろう。
上の写真のような塀に囲まれた狭い空間でも、手前に池泉があり、黄石と太湖石による石組が所狭しと築かれている。
北東側にある龍の瓦装飾「龍しょう」。豫園のシンボルである。

写真中央の太湖石は江南三大明石の1つ「玉玲瓏」。北宋の皇帝・徽宗が江南より取り寄せた石だとされている。
龍しょうの奥にある蔵宝楼でウーロン茶を戴きました。この女性は日本語堪能なガイドさん。
点春堂の前で「日本の方ですか?」と声をかけられた。やはり日本人だと分かるようだ。そういえば商城でも「カバン要りませんか?」としょっちゅう声をかけられたし。彼女は「日本の方は何となく分かります。歩き方とか・・・」「日本のお客さんが少ないんですよ。やはり政治が原因でしょう」と言っていた。
また、「庭園に入って数分で出てしまう客も多いですよ。え?日本人ですか?いいえ、中国人の客です」と言っていた。中国人でも、豫園をつまらないと思う人はいるみたい。
帰りは九曲橋を通る。九曲橋の北にある門が正規の入口らしい。自分はそこから出てきた。
豫園はやはり「これぞ中国の庭園!」といった感じだった。機会があればまた訪問したい。
終わり

