2月の第4月曜日(以下、この日と書きます。この日は、日本は、祝日(国民の休日)でした)に、彼女と、上野(ueno)に遊びに行って来た時の物です。
この日は、前日に、我が家に泊まった彼女と、朝寝坊をし、遅い朝食兼昼食を食べてから、我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)を出ました。この日は、地下鉄で、上野(ueno)に行きました。
上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。
上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
この日は、まず、上野(ueno)areaにある湯島(yushima)天神(tenjin)に梅の花を見に訪れました(湯島(yushima)天神(tenjin)は、東京の梅の花の名所(有名な場所)の一つとなっています)。
湯島(yushima)天神(tenjin)に訪れた後は、上野(ueno)公園を散歩しながら、東京都美術館を訪れました。ちなみに、この日は、2人共、歩き易い靴で出掛けました。
東京都美術館は、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つ。主に、東京中心部(東京23区)と東京の西部郊外・近郊から成る)が運営する、規模の大きな美術館の一つで、上野(ueno)公園にある文化施設の一つです。
江戸(edo)東京博物館は、東京中心部(東京23区)の東部(東京の下町(旧市街))にある、1993年に開館した、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の一つ。主として、東京中心部(東京23区)と、東京の西部郊外・近郊から成る)が運営する、規模の大きな、東京の歴史に関する博物館です。江戸(edo)東京博物館は、現在(2022年から2026年の春まで)、改修工事の為に、閉館中(休館中)です(元々、2025年まで休館の予定であった様ですが、休館の期間が、2026年の春まで延びた様です)。
この時、東京都美術館では、期間が短いですが(2月22日から2月26日までの、5日間限定で開催されていた)、現在休館中の、江戸(edo)東京博物館を収蔵作品の一部を展示する催し(以下、この展覧会(exhibition)と書きます)が、行われていました。
この日、東京都美術館では、この展覧会(exhibition)(入場は無料です)を見て来ました(この日、東京都美術館を訪れた目的は、この展覧会(exhibition)を見る事にありました)。
この展覧会(exhibition)は、一般的な展示と、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、2部構成で行われていましたが、以下、この投稿では、この展覧会(exhibition)の、上野(ueno)の歴史に関する展示の例について紹介します。
以下、以下の投稿の続きです。
湯島天神他(湯島(yushima)天神(tenjin)に関しては、この投稿を参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924663?&sfl=membername&stx=nnemon2
清水堂・不忍池他(上野(ueno)公園に関しては、この投稿も参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京都美術館 出張江戸博前編(東京都美術館、江戸(edo)東京博物館、この展覧会(exhibition)の、一般的な展示の例に関しては、この投稿を参照して下さい)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924661?&sfl=membername&stx=nnemon2
4月の第一土曜日、夜10時から、テレビの地上波の、テレビ東京で放送された、「新美の巨人たち」は、上野(ueno)公園の歴史に関してだったのですが、彼女と、我が家のテレビで見ましたが、以下の上野(ueno)の歴史に関する説明は、その時に見た、番組の内容も、少し参考にしています→
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/index.html?trgt=20250405
https://artexhibition.jp/topics/news/20250401-AEJ2617989/
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)を拠点として、日本全国の地方領主達の長(leader)として、日本を実質的に統治していた家です。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の中心的な城(castle)は、江戸(edo)城(castle)(東京都心部でも中心的な地域に位置する)でした。
以下、江戸(edo)城(castle)に関する参考の投稿。
江戸城跡(2024年桜)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799525/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
江戸城跡(2024年桜)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799524/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
ちなみに、東京(昔(19世紀中期以前)は、江戸(edo)と呼ばれていた)の、大都市と言うか都市としての歴史は、17世紀からで、東京は、日本の長い歴史の中においては、歴史の短い都市です。
京都(kyoto)は、794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった都市であり、日本の、伝統文化の中心都市です。大阪都市圏の堺(sakai)市は、15世紀後期から17世紀初期にかけて、貿易都市として繁栄していました。また、大阪は、16世紀後期から、日本の、商業・物流の中心都市として発展して来ました。
これに対し、東京は、16世紀までは、田舎の、のどかな、農村又は自然地帯で、富士山(fujisan)(標高 3,776m。東京圏に近い場所にある、日本で最も高い山で、その形の美しさから、世界的に名が知られている山)は見えましたが(おそらく、産業革命前で近代的な工場も自動車も存在せず現在よりも空気が澄んでいて、近代的・現代的なビルも存在しなかった、江戸(edo)時代においては、東京から、現在よりも、富士山(fujisan)が、遥かに(ずっと)、良く見えたと思います。現在は、ビルが建ち並び過ぎている事等から、東京から、富士山(fujisan)を見る事は、中々、難しい)、基本的に、名所・観光地は、存在しませんでした。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、東京を開発するに当たって、長い間、そして、当時、日本の中心地であった、関西(kansai)大都市圏(大阪・京都(kyoto)・神戸(kobe)を中心とした大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第二の人口を有する大都市圏。ちなみに、神戸(kobe)は、近代以降(19世紀後期以降)、関西(kansai)大都市圏の海の玄関口(gateway)・貿易都市として発展した都市です)に、憧れやコンプレックス(劣等感)と言った物を持っていたと思います。
滋賀(shiga)県は、関西(kansai)大都市圏(大阪・京都(kyoto)・神戸(kobe)を中心とした大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第二の人口を有する大都市圏)の北東端に位置する県です。
滋賀(shiga)県にある湖、琵琶(biwa)湖(面積669.26平方km)は、日本で、最大の湖です(韓国で、最大の湖の、忠州(Chungju)湖(人工の湖)の、約10倍の広さがあります)。
竹生(chikubu)島は、琵琶(biwa)湖に浮かぶ、小さな島です。
弁才天(benzaiten)は、元々、仏教の、女性の神ですが(元々、ヒンドゥー教(Hinduism)の女神(女性の神)である、サラスヴァティー(Saraswati)が仏教に取り込まれた)、神道(Shinto)にも取り込まれ、神道(Shinto)の神の一つともなっています。
竹生(chikubu)島は、何れも、弁才天(benzaiten)を祀る、何れも、歴史が古い、仏教の寺、宝厳(hougon)寺と、神道(Shinto)の神社(shrine)、都久夫須麻(tsukubusuma)神社(shrine)があり、古くから、巡礼地・観光地となって来ました。
竹生(chikubu)島に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
竹生島・宝厳寺他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3922453?&sfl=membername&stx=nnemon2
不忍(shinobazuno)池は、上野(ueno)にある、天然の池で、現在は、上野(ueno)公園の一部となっています。
前述した、琵琶(biwa)湖は、京都(kyoto)の北東に位置しますが、不忍(shinobazuno)池は、江戸(edo)城(castle)の北東に位置しています。
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、17世紀前半に、(まだ都市として発展し始めたばかりの)東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)に、名所を作る為に、不忍(shinobazuno)池を、琵琶(biwa)湖に見立て、そこに、竹生(chikubu)島に見立てた、人口の島、弁天(benten)島を築き、弁天(benten)島に、弁才天(benzaiten)を祀る、お堂(建物)、弁天(benten)堂を建てました。
当初は、弁天(benten)島までは、橋がなく、弁天(benten)島への参拝は、竹生(chikubu)島同様、船で行われていましたが、それでは不便と言う事で、1672年に、東方向から、弁天(benten)島へ渡る為の、石橋が架けられ(陸路が整備され)、弁天(benten)島まで、歩いて参拝出来る様になりました(現在は、不忍(shinobazuno)池に、東方向、西北方向、西南方向の、3方向から、弁天(benten)島まで渡る事が出来る陸路が整備されています)。
京都(kyoto)の北東方面、滋賀(shiga)県の、琵琶(biwa)湖の近くに、延暦(enryaku)寺と言う、788年に創建された、京都(kyoto)の鬼門(kimon)(北東。日本で、古くから、鬼・魔物が出入りするとされる方角)を護る、歴史の古い、とても規模の大きな(標高848mの一つの山全体が敷地となっており、100の建物がある)、仏教の寺があります(延暦(enryaku)寺は、日本の、主要な観光地の一つとなっています)。
延暦(enryaku)寺→
https://www.hieizan.or.jp/
徳川(tokugawa)将軍(shogun)家(徳川(tokugawa)将軍(shogun)家の当時の当主、徳川 家光(tokugawa iemitsu))は、京都(kyoto)の鬼門(kimon)を護る、延暦(enryaku)寺に習って、江戸(edo)城(castle)の北東方面に、1625年に、寛永(kanei)寺と言う、規模の大きな、仏教の寺を創建しました。
寛永(kanei)寺は、現在の、上野(ueno)公園の、ほぼ全域を、敷地面積とした、とても、大きな仏教の寺で、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)において、とても繁栄していました。
1832年に描かれた(歌川広重(utagawa hiroshige)の作品)、寛永(kanei)寺の中心的な建物→
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail211.html?sights=kaneiji
しかしながら、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争(下の補足説明を参照)の主要な戦場の一つとなった為、寛永(kanei)寺は、壊滅的な被害を受け、寛永(kanei)寺の建物の、ほとんどが焼失してしまいました。その後、寛永(kanei)寺の敷地は、とても縮小され、現在は、寛永(kanei)寺の敷地は、上野(ueno)公園の周辺を中心に、約3万坪(9万9千平方m強)となっています。
戊辰(boshin)戦争:1868年から1869年にかけて行われた、明治(meiji)時代(1868年から1912年)の新しい日本の中央政府の軍と、旧(かつての)徳川(tokugawa)幕府(bakufu)(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)における、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家による、日本の政府)側の侍(samurai)達の軍による戦争(日本国内の内戦)。明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府の勝利に終わる。ちなみに、上野(ueno)が、戊辰(boshin)戦争の戦場となった頃は、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家自体は、既に、明治(meiji)時代の新しい日本の中央政府に恭順の意を示しており、戊辰(boshin)戦争に関わっていませんでした。
ちなみに、徳川(tokugawa)将軍(shogun)家は、近代においては(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまでおいては)、貴族階級に組み入れられ(公爵)となり、日本の上流階級としての地位と富は維持しました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
江戸城跡・旧徳川邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3901679/page/6?&sfl=membername&stx=nnemon2
この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、パンフレット(booklet)。
写真以下22枚。この展覧会(exhibition)の、特集展示である、上野(ueno)の歴史に関する展示の、展示作品例。
写真以下3枚。寛永(kanei)寺を抽象的に描いた、18世紀後期から1850年頃の作品。桜の、花見(hanami)を楽しむ人々が描かれています。ちなみに、上野(ueno)公園は、現在も、東京の桜の花の名所(有名な場所)の一つとなっています。
以下、「」内。参考に、私の前の投稿文より。。。
「桜の花は、おそらく、日本人に、最も親しまれている花であり、菊(皇室(天皇家)の紋章(emblem)となっている花)と共に、日本の実質的な国家となっている花です(日本には、法定上の国花はありませんが、桜の花は、(菊と共に)慣習上の国花として、昔から、国民達に親しまれて来ました)。日本には、所々に、桜の木が植えられており、春には、日本各地で、所々で、桜の花が咲きます。
花見 (hanami)は、野外で、桜の花を見ながら、酒を飲んだり、食事をしたりする事です。
花見(hanami)は、伝統的に、桜の花の時期の、日本人の娯楽となっています。」
写真以下4枚。寛永(kanei)寺の中心的な建物を描いた1868年の作品です。
パンフレット(booklet)より。
こちらも、戊辰(boshin)戦争で焼失する前の、寛永(kanei)寺の一部を描いた作品。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)にある、778年に創建された、歴史の古い、規模の大きな、仏教の寺です。
清水(kiyomizu)寺は、京都(kyoto)の主要な観光地の一つとなっていると共に、日本の主要な観光地の一つともなっています。
現在の、上野(ueno)公園内にある、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)は、現在残っている、数少ない、戊辰(boshin)戦争よりも前に(江戸(edo)時代に)、建てられた、寛永(kanei)寺の建物の一つで、1631年に、清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)をイメージして建てられた建物です(清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に比べたら、遥かに(ずっと)小さいですが)。
清水(kiyomizu)寺の、本堂(hondo)(寺の、メイン(main)の建物)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水(kiyomizu)寺→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924363?&sfl=membername&stx=nnemon2
名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)は、歌川広重(utagawa hiroshige)(下の補足説明を参照)が、1856年から1858年に制作した、東京の、様々な名所を描いた作品です。
歌川広重(utagawa hiroshige):1797年生まれ。1858年に亡くなる。日本の、代表的な、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)画家の一人。
参考に、Japonismeとは、19世紀中期から20世紀初頭にかけて(特に、19世紀の後半に)、フランスを中心とした、西洋の国々(ヨーロッパ及び北米)で、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆画・大衆版画)等の日本文化が流行すると共に、当時の(近代の)ヨーロッパを中心とした西洋の芸術・工芸に強い影響を与えた現象の事を言います。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
Japonisme他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3806140/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。
写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より、清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)の、月の松。向こうに見えるのは、不忍(shinobazuno)池。
清水(kiyomizu)観音堂(kannondo)に関しては、上でもリンクを付けましたが、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
清水堂・不忍池他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662?&sfl=membername&stx=nnemon2
パンフレット(booklet)より。不忍(shinobazuno)池の、弁天(benten)島(右側)を描いた、1830年から1844年頃の作品(歌川広重(utagawa hiroshige)の作品)です。右側に、観光客・行楽客向けの、茶屋(飲食店)が建ち並んでいます。
松坂屋(matsuzakaya)は、1611年創業の、名古屋(nagoya)(東京、大阪に次ぐ、日本第三の都市圏人口を有する都市)に本店を有する(名古屋(nagoya)を拠点とする)、日本の、デパートのチェーン(chain)です。松坂屋(matsuzakaya)は、1768年に、東京に進出しました。
写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より。上野(ueno)を描いた作品。写真右側は、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、上野(ueno)店の、当時の建物。
写真は、借り物。名所江戸百景(One Hundred Famous Views of Edo)より。上野(ueno)を描いた作品。写真右側は、伊勢屋(iseya)と言う、当時、上野(ueno)に存在していた食堂。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
琴(日本の伝統楽器)を弾く女性の後ろに、不忍(shinobazuno)池の、弁天(benten)堂が描かれた作品(1893年)。
上野(ueno)を描いた作品(1893年)。
上野(ueno)公園で、1881年に開催された博覧会(exposition)、第2回内国勧業博覧会(ちなみに、1877年に開催された、第1回内国勧業博覧会も、上野(ueno)公園で開催されました)を描いた作品(1881年)。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
不忍(shinobazuno)池で、1884年から1892年にかけて開催されていた、競馬を描いた作品(1884年)。花火からは、パラシュート(parachute)が着けられた、紙製の人形が、ゆっくり落ちて来て、来場者の、土産物(お土産)となりました。
1898年に建てられた、上野(ueno)公園の、西郷 隆盛(saigo takamori)(下の補足説明を参照)の銅像を描いた作品(1899年)。西郷 隆盛(saigo takamori)の銅像は、現在に至るまで、人々に親しまれおり、現在に至るまで、上野(ueno)公園及び上野(ueno)の象徴となっているスポット(場所)の一つです。
西郷 隆盛(saigo takamori):日本の、有名な政治家・軍人。1828年に、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、下級の侍(samurai)の家に生まれる。出世をし、明治(meiji)時代(1868年から1912年)の新しい日本の中央政府の要職(重要な地位)に就きますが、後に、政府と意見が対立し、政府を離職し、生まれ故郷の、鹿児島(kagoshima)に戻り、鹿児島(kagoshima)で、私立の学校を開校しました。その後、西南戦争(1877年に行われた、日本の政府の軍と、政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした軍の戦いで、日本の歴史上で、最後の内戦。政府軍の勝利に終わる)で、反政府軍(政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした軍)のリーダー(leader)となり(西郷 隆盛(saigo takamori)自身は、政府との戦争(軍事による戦い)に乗り気でなかった(積極的ではなかった)が、政府に不満を持つ、かつての鹿児島(kagoshima)県の侍(samurai)階級の人々を中心とした人々の暴走を止められなかったと言った感じです)、西郷 隆盛(saigo takamori)の軍は、最後は、鹿児島(kagoshima)市(鹿児島(kagoshima)県の中心都市)の山に立てこもり、政府の軍と戦いますが、追い詰められて、自殺をし、49歳で亡くなりました。西南戦争により、日本の政府は、西郷 隆盛(saigo takamori)は、反逆者であると言う立場をとっていましたが、西郷 隆盛(saigo takamori)の人柄等を好む人々も多く、西郷 隆盛(saigo takamori)は、人々の間の人気が高かった事から、日本の政府は、1889年に、西郷 隆盛(saigo takamori)を大赦し、西郷 隆盛(saigo takamori)は、反逆者であると言う立場を放棄しました。
上野(ueno)公園で、1907年に開催された博覧会(exposition)、東京勧業博覧会を描いた作品(1907年)。
写真以下2枚。パンフレット(booklet)より。
上野(ueno)公園で、1914年に開催された博覧会(exposition)、東京大正(taisho)博覧会を描いた作品(1914年)。
1926年に建てられた、東京都美術館の初代の建物(1970年代前半まで使われていました。2代目(現在)の建物の開館に伴い、取り壊されました)を描いた作品(1931年)。ちなみに、東京都美術館の、2代目の建物(現在の建物)は、1975年に完成した物です。設計は、(後述する)前川 國男(maekawa kunio)が行いました。
東京都美術館及び、東京都美術館の建物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京都美術館→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922466?&sfl=membername&stx=nnemon2
上野(ueno)公園にある、国立科学博物館(1877年設立)は、日本の、国立の、科学博物館です。科学に関する、非常に多くの資料を収蔵する博物館で、規模が大きく、見応えのある博物館です。
国立科学博物館の現在の建物は、1931年に建てられた、重厚な近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物と、(本館(honkan)(日本館)に接する)現代建築の地球館の建物から成ります(現在の地球館の建物が建てられる前にも、国立科学博物館には、展示の為の建物として、本館(honkan)(現在の日本館)に加えて、本館(honkan)(現在の日本館)に隣接した現代建築の建物(1950年代から1970年代にかけて建てられた複数の建物により構成されていた)がありましたが、現在の地球館の建物が建てられる際に、取り壊されました)。
国立科学博物館の本館(honkan)(現在の日本館)の写真(1931年頃)。国立科学博物館の本館(honkan)(現在の日本館)の建物は、上から見ると、(当時、最新技術の塊の乗り物と考えられていた)飛行機の形になっています。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
日本の飛行機の歴史他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3890065?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、おまけ。
写真は、借り物。1929年に建てられた、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、上野(ueno)店の、現在の建物。1930年代頃の写真。この建物は、現在も、建て替えられてはいませんが、大規模な改装がなされている為、現在、外観に当時の面影はありません。
写真は、借り物。1934年の、松坂屋(matsuzakaya)デパートの、水着の広告。左側の女性は、黒田 記代(kuroda kiyo)(1916年生まれ。1930年代中期から1940年代初め頃にかけて、活躍していた、日本の女優。第二次世界大戦後は、活動が、地味となる)。右側の女性は、忍 節子(shinobu setsuko)(1914年生まれ。1930年代中期から1950年代にかけて活躍していた、日本の女優)。黒田 記代(kuroda kiyo)は、当時18歳、忍 節子(shinobu setsuko)は、当時20歳で、2人共、まだ、女優としてデビュー(debut)して間もない頃。
東京文化会館の建物の一部。東京文化会館は、上野(ueno)公園にある、東京を代表するクラシック音楽(classical music)の公演場の一つです。東京文化会館の建物(1961年完成。前川國男(maekawa kunio)が設計)は、前川國男(maekawa kunio)(下の補足説明を参照)の代表作品の一つです。
前川國男(maekawa kunio):1905年生まれ、1986年に亡くなる。世界的な(世界最高水準の)建築家と言う程では、ありませんが、日本の有名な建築家の一人であり、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、建築家の一人です。前川國男(maekawa kunio)は、他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と共に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に、引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人です。
東京文化会館について詳しくは、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京文化会館→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922465?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。
歴史のある美術館・美術展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924659?&sfl=membername&stx=nnemon2
2월의 제4 월요일(이하, 이 날이라고 씁니다.이 날은, 일본은, 축일(국민의 휴일)이었습니다)에, 그녀와 우에노(ueno)에 놀러 갔다 왔을 때의 물건입니다.
이 날은, 전날에, 우리 집에 묵은 그녀와 늦잠을 자, 늦은 아침 식사겸점심 식사를 먹고 나서, 우리 집(도쿄도심부의 서부의 조용하고 침착한 주택지에 위치합니다)을 나왔습니다.이 날은, 지하철로, 우에노(ueno)에 갔습니다.
우에노(ueno)는, 도쿄도심부의 북동부에 위치하는, 아사쿠사(asakusa)와 대등한, 도쿄의 변두리(도쿄도심부 동부.구시가) 최대급의 번화가입니다.
우에노(ueno)에게는, 우에노(ueno) 공원이 있어요.우에노(ueno) 공원은, 도쿄 중심부에 있는 공원안에서는, 최대급의 공원 중의 하나이며, 또, 미술관·박물관등의 문화 시설이 모여 있습니다.
이 날은, 우선, 우에노(ueno) area에 있는 유시마(yushima) 천신(tenjin)에 매화의 꽃을 봐에 방문했던(유시마(yushima) 천신(tenjin)은, 도쿄의 매화의 꽃의 명소(유명한 장소)의 하나가 되고 있습니다).
유시마(yushima) 천신(tenjin)에 방문한 다음은, 우에노(ueno) 공원을 산책하면서, 도쿄도 미술관을 방문했습니다.덧붙여서, 이 날은, 2명 모두, 걷기 쉬운 구두로 나갔습니다.
도쿄도 미술관은, 도쿄도(일본의 47의 도도부현(prefecture) 중의 하나.주로, 도쿄 중심부(도쿄 23구)와 도쿄의 서부 교외·근교로부터 완성된다)가 운영하는, 규모의 큰 미술관의 하나로, 우에노(ueno) 공원에 있는 문화 시설의 하나입니다.
에도(edo) 도쿄 박물관은, 도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동부(도쿄의 변두리(구시가))에 있는, 1993년에 개관한, 도쿄도(일본의 47의 도도부현(prefecture)의 하나.주로, 도쿄 중심부(도쿄 23구)와 도쿄의 서부 교외·근교로부터 완성된다)가 운영하는, 규모의 큰, 도쿄의 역사에 관한 박물관입니다.에도(edo) 도쿄 박물관은, 현재(2022년부터 2026년의 봄까지), 개수 공사를 위해, 폐관중(휴관중)입니다(원래, 2025년까지 휴관의 예정인 님입니다만, 휴관의 기간이, 2026년의 봄까지 늘어난 님입니다).
이 때, 도쿄도 미술관에서는, 기간이 짧습니다만(2월 22일부터 2월 26일까지의, 5일간 한정으로 개최되고 있던), 현재 휴관중의, 에도(edo) 도쿄 박물관을 수장 작품의 일부를 전시 하는 행사(이하, 이 전람회(exhibition)와 씁니다)가, 행해지고 있었습니다.
이 날, 도쿄도 미술관에서는, 이 전람회(exhibition)(입장은 무료입니다)를 보고 왔던(이 날, 도쿄도 미술관을 방문한 목적은, 이 전람회(exhibition)를 보는 일에 있었습니다).
이 전람회(exhibition)는, 일반적인 전시와 특집 전시인, 우에노(ueno)의 역사에 관한 전시의, 2부 구성으로 행해지고 있었습니다만, 이하, 이 투고에서는, 이 전람회(exhibition)의, 우에노(ueno)의 역사에 관한 전시의 예에 대해 소개합니다.
이하, 이하의 투고의 계속입니다.
유시마 천신외(유시마(yushima) 천신(tenjin)에 관해서는, 이 투고를 참조해 주세요)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924663?&sfl=membername&stx=nnemon2
시미즈당·시노바즈노이케외(우에노(ueno) 공원에 관해서는, 이 투고도 참조해 주세요)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662?&sfl=membername&stx=nnemon2
도쿄도 미술관 출장 에도 히로시 전편(도쿄도 미술관, 에도(edo) 도쿄 박물관, 이 전람회(exhibition)의, 일반적인 전시의 예에 관해서는, 이 투고를 참조해 주세요)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924661?&sfl=membername&stx=nnemon2
4월의 제일 토요일, 밤 10시부터, 텔레비전의 지상파의, 텔레비전 도쿄에서 방송된, 「니이미의 거인들」은, 우에노(ueno) 공원의 역사에 관해서였습니다만, 그녀와 우리 집의 텔레비전으로 보았습니다만, 이하의 우에노(ueno)의 역사에 관한 설명은, 그 때에 본, 프로그램의 내용도, 조금 참고로 하고 있습니다→
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/index.html?trgt=20250405
https://artexhibition.jp/topics/news/20250401-AEJ2617989/
토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가는, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에 있고, 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있었다)를 거점으로서 일본 전국의 지방 영주들 장(leader)으로서 일본을 실질적으로 통치하고 있던 집입니다.
토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 집안 심적인 성(castle)은, 에도(edo) 시로(castle)(도쿄도심부에서도 중심적인 지역에 위치한다)였습니다.
이하, 에도(edo) 성(castle)에 관한 참고의 투고.
에도 성터(2024년앵) 전편→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799525/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
에도 성터(2024년앵) 후편→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3799524/page/28?&sfl=membername&stx=nnemon2
덧붙여서, 도쿄(옛날(19 세기 중기 이전)은, 에도(edo)로 불리고 있었다)의, 대도시라고 할까 도시로서의 역사는, 17 세기부터로, 도쿄는, 일본의 긴 역사안에 대해서는, 역사의 짧은 도시입니다.
쿄토(kyoto)는, 794년부터 19 세기 중반까지, 오랫동안 일본의 수도에서 만난 도시이며, 일본의, 전통 문화의 중심 도시입니다.오사카 도시권의 사카이(sakai) 시는, 15 세기 후기부터 17 세기 초기에 걸치고, 무역 도시로서 번영하고 있었습니다.또, 오사카는, 16 세기 후기부터, 일본의, 상업·물류의 중심 도시로서 발전해 왔습니다.
이것에 대해, 도쿄는, 16 세기까지는, 시골의, 한가로운, 농촌 또는 자연 지대에서, 후지산(fujisan)(표고 3776m.동경권에 가까운 장소에 있는, 일본에서 가장 높은 산에서, 그 형태의 아름다움으로부터, 세계적으로 이름이 알려져 있는 산)은 보였습니다만(아마, 산업혁명전에 근대적인 공장도 자동차도 존재하지 않고 현재보다 공기가 맑아 있고, 근대적·현대적인 빌딩도 존재하지 않았다, 에도(edo) 시대에 있어서는, 도쿄로부터, 현재보다, 후지산(fujisan)이, 훨씬 더(쭉), 잘 보였다고 생각합니다.현재는, 빌딩이 너무 늘어서서 있는 일등으로부터, 도쿄로부터, 후지산(fujisan)을 보는 일은, 꽤, 어렵다), 기본적으로, 명소·관광지는, 존재하지 않았습니다.
토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가는, 도쿄를 개발하는에 해당되고, 오랫동안, 그리고, 당시 , 일본의 중심지에서 만난, 칸사이(kansai) 대도시권(오사카·쿄토(kyoto)·코베(kobe)를 중심으로 한 대도시권.동경권에 뒤잇는, 일본 제2의 인구를 가지는 대도시권.덧붙여서, 코베(kobe)는, 근대 이후(19 세기 후기 이후), 칸사이(kansai) 대도시권의 바다의 현관문(gateway)·무역 도시로서 발전한 도시입니다)에, 동경이나 컴플렉스(열등감)라고 한 것을 가지고 있었다고 생각합니다.
시가(shiga) 현은, 칸사이(kansai) 대도시권(오사카·의`아s(kyoto)·코베(kobe)를 중심으로 한 대도시권.동경권에 뒤잇는, 일본 제2의 인구를 가지는 대도시권)의 북동단에 위치하는 현입니다.
시가(shiga) 현에 있는 호수, 비파(biwa) 호수(면적 669.26평방 km)는, 일본에서, 최대의 호수입니다(한국에서, 최대의 호수의, 충주(Chungju) 호수(인공의 호수)의, 약 10배의 넓이가 있어요).
타케죠(chikubu) 섬은, 비파(biwa) 호수에 떠오르는, 작은 섬입니다.
벤자이텐(benzaiten)은, 원래, 불교의, 여성의 신입니다만(원래, 힌두교(Hinduism)의 여신(여성의 신)인, 사라스바티(Saraswati)가 불교에 받아들여진), 신도(Shinto)에도 받아들여져 신도(Shinto)의 신의 하나나 되고 있습니다.
타케죠(chikubu) 섬은, 어느 쪽도, 벤자이텐(benzaiten)을 모시는, 어느 쪽도, 역사가 낡은, 불교의 절, 보엄(hougon) 사와 신도(Shinto)의 신사(shrine), 도 히사시부수마(tsukubusuma) 신사(shrine)가 있어, 옛부터, 순례지·관광지가 되어 왔습니다.
타케죠(chikubu) 섬에 관해서는, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.
지쿠부시마·타카라엄사외→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3922453?&sfl=membername&stx=nnemon2
불인(shinobazuno) 지는, 우에노(ueno)에게 있는, 천연의 연못에서, 현재는, 우에노(ueno) 공원의 일부가 되고 있습니다.
전술한, 비파(biwa) 호수는, 쿄토(kyoto)의 북동에 위치합니다만, 불인(shinobazuno) 지는, 에도(edo) 성(castle)의 북동에 위치하고 있습니다.
토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가는, 17 세기 전반에, ( 아직 도시로서 발전하기 시작한지 얼마 안된) 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있는 것)에, 명소를 만들기 위해, 불인(shinobazuno) 지를, 비파(biwa) 호수에 진단해 거기에, 타케죠(chikubu) 섬에 진단한, 인구 섬, 변재천(benten) 섬을 쌓아 올려, 변재천(benten) 섬에, 벤자이텐(benzaiten)을 모시는, 당(건물), 변재천(benten) 당을 세웠습니다.
당초는, 변재천(benten) 섬까지는, 다리가 없고, 변재천(benten) 섬에의 참배는, 타케죠(chikubu) 섬 같이, 배로 행해지고 있었습니다만, 그러면 불편이라고 하는 것으로, 1672년에, 동방향으로부터, 변재천(benten) 섬에 건너기 때문에(위해)의, 이시바시를 걸쳐 놓을 수 있는(육로가 정비되어), 변재천(benten) 섬까지, 걸어 참배 할 수 있는 것처럼 되었습니다(현재 (은)는, 불인(shinobazuno) 지에, 동방향, 서북 방향, 서남 방향의, 3 방향에서, 변재천(benten) 섬까지 건널 수가 있는 육로가 정비되고 있습니다).
쿄토(kyoto)의 북동 카타모, 시가(shiga) 현의, 비파(biwa) 호수의 근처에, 연력(enryaku) 사라고 말하는, 788년에 창건 된, 쿄토(kyoto)의 귀문(kimon)(북동.일본에서, 옛부터, 귀신·마귀가 출입한다고 여겨지는 분 모퉁이)를 지키는, 역사의 낡은, 매우 규모의 큰(표고 848 m의 하나의 산전체가 부지가 되고 있어 100의 건물이 있다), 불교의 절이 있어요(연력(enryaku) 사는, 일본의, 주요한 관광지의 하나가 되고 있습니다).
연력(enryaku) 사→
https://www.hieizan.or.jp/
토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가(토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가의 당시의 당주, 도쿠가와 이에미쓰(tokugawa iemitsu))는, 쿄토(kyoto)의 귀문(kimon)을 지키는, 연력(enryaku) 사에 배우고, 에도(edo) 성(castle)의 북동 방면으로, 1625년에, 에도초기의 연호(kanei) 절이라고 말하는, 규모의 큰, 불교의 절을 창건 했습니다.
에도초기의 연호(kanei) 절은, 현재의, 우에노(ueno) 공원의, 거의 전역을, 부지면적으로 한, 매우, 큰 불교의 절에서, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에 있고, 매우 번영하고 있었습니다.
1832년에 그려졌다(두타가와 히로시게(utagawa hiroshige)의 작품), 에도초기의 연호(kanei) 절의 중심적인 건물→
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail211.html?sights=kaneiji
그렇지만, 우에노(ueno)가, 무진(boshin) 전쟁(아래의 보충 설명을 참조)의 주요한 전장의 하나가 된 때문, 에도초기의 연호(kanei) 절은, 괴멸적인 피해를 받아 에도초기의 연호(kanei) 절의 건물의, 대부분이 소실해 버렸습니다.그 후, 에도초기의 연호(kanei) 절의 부지는, 매우 축소되어 현재는, 에도초기의 연호(kanei) 절의 부지는, 우에노(ueno) 공원의 주변을 중심으로, 약 3만평(9만 9천 평방 m강)이 되고 있습니다.
무진(boshin) 전쟁:1868년부터 1869년에 걸쳐 행해진, 메이지(meiji) 시대(1868년부터 1912년)의 새로운 일본의 중앙정부의 군과 구(한 때의) 토쿠가와(tokugawa) 막부(bakufu)(에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에 있어서의, 토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가에 의한, 일본의 정부) 측의 시(samurai) 들의 군에 의한 전쟁(일본내의 내전).메이지(meiji) 시대의 새로운 일본의 중앙정부의 승리에 끝난다.덧붙여서, 우에노(ueno)가, 무진(boshin) 전쟁의 전장이 되었을 무렵은, 토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가 자체는, 이미, 메이지(meiji) 시대의 새로운 일본의 중앙정부에 쿄우준의 뜻을 나타내고 있어 무진(boshin) 전쟁에 관련되고 있어 ?`스.
덧붙여서, 토쿠가와(tokugawa) 장군(shogun) 가는, 근대에 있어서는(19 세기말로부터 제2차 세계대전 후, 이윽고까지 두어서는), 귀족계급에 집어 넣을 수 있는(공작)되어, 일본의 상류계급으로서의 지위와 부는 유지했습니다.
이하(바로 아래에서 링크를 붙인 투고), 참고의 투고.
에도 성터· 구토쿠가와저외→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3901679/page/6?&sfl=membername&stx=nnemon2
이 전람회(exhibition)의, 특집 전시인, 우에노(ueno)의 역사에 관한 전시의, 팜플렛(booklet).
사진 이하 22매.이 전람회(exhibition)의, 특집 전시인, 우에노(ueno)의 역사에 관한 전시의, 전시 작품예.
사진 이하 3매.에도초기의 연호(kanei) 절을 추상적으로 그린, 18 세기 후기부터 1850년경의 작품.벚꽃의, 꽃놀이(hanami)를 즐기는 사람들이 그려져 있습니다.덧붙여서, 우에노(ueno) 공원은, 현재도, 도쿄의 벚꽃의 명소(유명한 장소)의 하나가 되고 있습니다.
이하, 「」 안.참고에, 나의 앞의 투고문보다...
「벚꽃은, 아마, 일본인에, 가장 사랑받고 있는 꽃이며, 국화(황실(천황가)의 문장(emblem)이 되고 있는 꽃)과 함께, 일본의 실질적인 국가가 되고 있는 꽃입니다(일본에는, 법정상의 국화는 없습니다만, 벚꽃은, (국화와 함께) 관습상의 국화로서 옛부터, 국민들에게 사랑받아 왔습니다).일본에는, 곳곳에, 벚꽃나무가 심어져 있어 봄에는, 일본 각지에서, 군데군데로, 벚꽃이 핍니다.
꽃놀이 (hanami)(은)는, 야외에서, 벚꽃을 보면서, 술을 마시거나 식사를 하거나 하는 일입니다.
꽃놀이(hanami)는, 전통적으로, 벚꽃의 시기의, 일본인의 오락이 되고 있습니다.」
사진 이하 4매.에도초기의 연호(kanei) 절의 중심적인 건물을 그린 1868년의 작품입니다.
팜플렛(booklet)보다.
이쪽이나, 무진(boshin) 전쟁으로 소실하기 전의, 에도초기의 연호(kanei) 절의 일부를 그린 작품.
시미즈(kiyomizu) 절은, 쿄토(kyoto)에 있는, 778년에 창건 된, 역사의 낡은, 규모의 큰, 불교의 절입니다.
시미즈(kiyomizu) 절은, 쿄토(kyoto)의 주요한 관광지의 하나가 되고 있음과 동시에, 일본의 주요한 관광지의 하나나 되고 있습니다.
현재의, 우에노(ueno) 공원내에 있는, 시미즈(kiyomizu) 칸논도우(kannondo)는, 현재 남아 있는, 얼마 안되는, 무진(boshin) 전쟁보다 전에(에도(edo) 시대에), 지어진, 에도초기의 연호(kanei) 절의 건물의 하나로, 1631년에, 시미즈(kiyomizu) 절의, 본당(hondo)(절의, 메인(main)의 건물)을 이미지 해 지어진 건물입니다(시미즈(kiyomizu) 절의, 본당(hondo)(절의, 메인(main)의 건물)에 비하면, 훨씬 더(훨씬) 작습니다만).
시미즈(kiyomizu) 절의, 본당(hondo)(절의, 메인(main)의 건물)에 관해서는, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.
시미즈(kiyomizu) 절→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3924363?&sfl=membername&stx=nnemon2
명소 에도백경(One Hundred Famous Views of Edo)은, 두타가와 히로시게(utagawa hiroshige)(아래의 보충 설명을 참조)가, 1856년부터 1858년에 제작한, 도쿄의, 님 들인 명소를 그린 작품입니다.
두타가와 히로시게(utagawa hiroshige):1797 년생.1858년에 죽는다.일본의, 대표적인, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)(일본의 전통적인, 대중화·대중 판화) 화가의 한 명.
참고에, Japonisme란, 19 세기 중기부터 20 세기 초두에 걸치고(특히, 19 세기의 후반에), 프랑스를 중심으로 한, 서양의 나라들(유럽 및 북미)에서, 강호시대의 풍속화(ukiyoe)(일본의 전통적인, 대중화·대중 판화) 등의 일본 문화가 유행 함과 동시에, 당시의(근대의) 유럽을 중심으로 한 서양의 예술·공예에 강한 영향을 준 현상의 일을 말합니다.
이하(바로 아래에서 링크를 붙인 투고), 참고의 투고.
Japonisme외→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3806140/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
사진은, 차용물.명소 에도백경(One Hundred Famous Views of Edo)보다, 시미즈(kiyomizu) 칸논도우(kannondo).저 편으로 보이는 것은, 불인(shinobazuno) 지.
사진은, 차용물.명소 에도백경(One Hundred Famous Views of Edo)보다, 시미즈(kiyomizu) 칸논도우(kannondo)의, 달의 송.저 편으로 보이는 것은, 불인(shinobazuno) 지.
시미즈(kiyomizu) 칸논도우(kannondo)에 관해서는, 위에서도 링크를 붙였습니다만, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.
시미즈당·시노바즈노이케외→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924662?&sfl=membername&stx=nnemon2
팜플렛(booklet)보다.불인(shinobazuno) 지의, 변재천(benten) 섬(우측)을 그린, 1830년부터 1844년경의 작품(두타가와 히로시게(utagawa hiroshige)의 작품)입니다.우측으로, 관광객·행락객 전용의, 찻집(음식점)이 늘어서 있습니다.
마츠자카야(matsuzakaya)는, 1611년 창업의, 나고야(nagoya)(도쿄, 오사카에 뒤잇는, 일본 제3 도시권 인구를 가지는 도시)에 본점을 가지는(나고야(nagoya)를 거점으로 한다), 일본의, 백화점의 체인(chain)입니다.마츠자카야(matsuzakaya)는, 1768년에, 도쿄에 진출했습니다.
사진은, 차용물.명소 에도백경(One Hundred Famous Views of Edo)보다.우에노(ueno)를 그린 작품.사진 우측은, 마츠자카야(matsuzakaya) 백화점의, 우에노(ueno) 점의, 당시의 건물.
사진은, 차용물.명소 에도백경(One Hundred Famous Views of Edo)보다.우에노(ueno)를 그린 작품.사진 우측은, 이세야(iseya)라고 말하는, 당시 , 우에노(ueno)에 존재하고 있던 식당.
사진 이하 2매.팜플렛(booklet)보다.
거문고(일본의 전통 악기)를 연주하는 여성의 뒤로, 불인(shinobazuno) 지의, 변재천(benten) 당이 그려진 작품(1893년).
우에노(ueno)를 그린 작품(1893년).
우에노(ueno) 공원에서, 1881년에 개최된 박람회(exposition), 제2회 내국 권업 박람회(덧붙여서, 1877년에 개최된, 제1회 내국 권업 박람회도, 우에노(ueno) 공원에서 개최되었습니다)를 그린 작품(1881년).
사진 이하 2매.팜플렛(booklet)보다.
불인(shinobazuno) 지로, 1884년부터 1892년에 걸쳐 개최되고 있던, 경마를 그린 작품(1884년).불꽃에서는, 낙하산(parachute)을 댈 수 있던, 지제의 인형이, 느긋하게 떨어져 오고, 내장자의, 선물물(선물)이 되었습니다.
1898년에 지어진, 우에노(ueno) 공원의, 사이고 다카모리(saigo takamori)(아래의 보충 설명을 참조)의 동상을 그린 작품(1899년).서향 융성(saigo takamori)의 동상은, 현재에 이르기까지, 사람들에게 사랑받아 내려 현재에 이르기까지, 우에노(ueno) 공원 및 우에노(ueno)의 상징이 되고 있는 스포트(장소)의 하나입니다.
사이고 다카모리(saigo takamori):일본의, 유명한 정치가·군인.1828년에, 카고시마(kagoshima) 현(큐슈(kyusyu)(일본의 남부)의 남부에 위치하는 현)의, 하급의 사무라이(samurai)의 집에서 태어난다.출세를 해, 메이지(meiji) 시대(1868년부터 1912년)의 새로운 일본의 중앙정부의 요직(중요한 지위)에 종사합니다만, 후에, 정부와 의견이 대립해, 정부를 이직해, 태어난 고향의, 카고시마(kagoshima)로 돌아와, 카고시마(kagoshima)에서, 사립의 학교를 개교했습니다.그 후, 서남 전쟁(1877년에 행해진, 일본의 정부의 군과 정부에 불만을 가지는, 한 때의 카고시마(kagoshima) 현의 사무라이(samurai) 계급의 사람들을 중심으로 한 군의 싸움으로, 일본의 역사상에서, 마지막 내전.정부군 승리에 끝난다)로, 반정부군(정부에 불만을 가지는, 한 때의 카고시마(kagoshima) 현의 사무라이(samurai) 계급의 사람들을 중심으로 한 군)의 리더(leader)가 되어(사이고 다카모리(saigotakamori) 자신은, 정부와의 전쟁(군사에 의한 싸움)에 내켜하는 마음이 아니었다(적극적은 아니었다)가, 정부에 불만을 가지는, 한 때의 카고시마(kagoshima) 현의 사무라이(samurai) 계급의 사람들을 중심으로 한 사람들의 폭주를 멈출 수 없었다고 말한 느낌입니다), 사이고 다카모리(saigo takamori)의 군은, 최후는, 카고시마(kagoshima) 시(카고시마(kagoshima) 현의 중심 도시)의 산에 점거, 정부의 군과 싸웁니다만, 추적할 수 있고, 자살을 해, 49세에 돌아가셨습니다.서남 전쟁에 의해, 일본의 정부는, 사이고 다카모리(saigo takamori)는, 반역자이다고 하는 입장을 취하고 있었습니다만, 사이고 다카모리(saigo takamori)의 인품등을 좋아하는 사람들도 많아, 사이고 다카모리(saigo takamori)는, 사람들의 사이의 인기가 높았던 일로부터, 일본의 정부는, 1889년에, 사이고 다카모리(saigo takamori)를 대사 해, 사이고 다카모리(saigo takamori)는, 반역자이다고 하는 입장을 방폐했습니다.
우에노(ueno) 공원에서, 1907년에 개최된 박람회(exposition), 도쿄 권업 박람회를 그린 작품(1907년).
사진 이하 2매.팜플렛(booklet)보다.
우에노(ueno) 공원에서, 1914년에 개최된 박람회(exposition), 도쿄 타이쇼(taisho) 박람회를 그린 작품(1914년).
1926년에 지어진, 도쿄도 미술관의 초대의 건물(1970년대 전반까지 사용되고 있었습니다.2대째(현재)의 건물의 개관에 수반해, 해체되었습니다)를 그린 작품(1931년).덧붙여서, 도쿄도 미술관의, 2대째의 건물(현재의 건물)은, 1975년에 완성한 것입니다.설계는, (후술 한다) 마에카와국남(maekawa kunio)이 실시했습니다.
도쿄도 미술관 및, 도쿄도 미술관의 건물에 관해서는, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.
도쿄도 미술관→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922466?&sfl=membername&stx=nnemon2
우에노(ueno) 공원에 있는, 국립 과학박물관(1877년 설립)은, 일본의, 국립의, 과학박물관입니다.과학에 관한, 매우 많은 자료를 수장 하는 박물관에서, 규모가 크고, 볼 만한 가치가 있는 박물관입니다.
국립 과학박물관의 현재의 건물은, 1931년에 지어진, 중후한 근대 건축의 모토다테(honkan)(일본관)의 건물과(모토다테(honkan)(일본관)에 접한다) 현대 건축의 지구관의 건물로부터 완성됩니다(현재의 지구관의 건물이 지어지기 전에도, 국립 과학박물관에는, 전시를 위한 건물로서 본관(honkan)(현재의 일본관)에 가세하고, 본관(honkan)(현재의 일본관)에 인접한 현대 건축의 건물(1950년대부터 1970년대에 걸쳐 지어진 복수의 건물에 의해 구성되어 있었다)이 있었습니다만, 현재의 지구관의 건물이 지어질 때에, 해체되었습니다).
국립 과학박물관의 본관(honkan)(현재의 일본관)의 사진(1931년경).국립 과학박물관의 본관(honkan)(현재의 일본관)의 건물은, 위에서 보면, (당시 , 최신 기술의 덩어리의 탈 것이라고 생각되고 있던) 비행기의 형태가 되어 있습니다.
이하(바로 아래에서 링크를 붙인 투고), 참고의 투고.
일본의 비행기의 역사외 1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3890065?&sfl=membername&stx=nnemon2
이하, 덤.
사진은, 차용물.1929년에 지어진, 마츠자카야(matsuzakaya) 백화점의, 우에노(ueno) 점의, 현재의 건물.1930년대무렵의 사진.이 건물은, 현재도, 다시 세워졌다가 있지 않습니다만, 대규모 개장이 이루어지고 있기 때문에(위해), 현재, 외관에 당시의 모습은 없습니다.
사진은, 차용물.1934년의, 마츠자카야(matsuzakaya) 백화점의, 수영복의 광고.좌측의 여성은, 쿠로다기대(kuroda kiyo)(1916 년생.1930년대 중기부터 1940년대 초경에 걸치고, 활약하고 있던, 일본의 여배우.제이차 세계대전 후는, 활동이, 수수함이 된다).우측의 여성은, 인세츠코(shinobu setsuko)(1914 년생.1930년대 중기부터 1950년대에 걸쳐 활약하고 있던, 일본의 여배우).쿠로다기대(kuroda kiyo)는, 당시 18세, 인세츠코(shinobu setsuko)는, 당시 20세에, 2명 모두, 아직, 여배우로서 데뷔(debut)해 얼마 되지 않은 무렵.
도쿄 문화 회관의 건물의 일부.도쿄 문화 회관은, 우에노(ueno) 공원에 있는, 도쿄를 대표하는 클래식 음악(classical music)의 공연장의 하나입니다.도쿄 문화 회관의 건물(1961년 완성.마에카와국남(maekawa kunio)이 설계)은, 마에카와국남(maekawa kunio)(아래의 보충 설명을 참조)의 대표작품의 하나입니다.
마에카와국남(maekawa kunio):1905 년생, 1986년에 죽는다.세계적인(세계 최고 수준의) 건축가라고 말하는만큼에서는, 없습니다만, 일본의 유명한 건축가의 한 사람으로 있어, 일본의 제이차 세계대전 후의 부흥기(1950년대부터 1960년대 초기)의, 현대 건축계를 리드(lead)한, 건축가의 한 사람입니다.마에카와국남(maekawa kunio)은, 다른, 일본의 제이차 세계대전 후의 부흥기(1950년대부터 1960년대 초기)의, 현대 건축계를 리드(lead)한, 일본의 유명한 건축가들과 함께, 일본의 현대 건축 설계의 수준을, 세계 최고 수준에, 끌어올리기 때문에(위해)의 기초를, 1950년대에, 굳힌 건축가의 한 사람입니다.
도쿄 문화 회관에 대해 자세한 것은, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.
도쿄 문화 회관→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3922465?&sfl=membername&stx=nnemon2
이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)에 계속 된다.
역사가 있는 미술관·미술전외→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3924659?&sfl=membername&stx=nnemon2